二十一

 帰ってきた銀乃介を玄関で出迎えると、勝ったぞ、と恒例の挨拶と同時にずいと紙袋を押し付けられた。お帰りなさいの代わりにおめでとうと返しながら、受け取るとどうやら手紙が多いだろうか、千代宛に連盟へ届けられたファンからの品々だ。
「少しは自分で取りに行け、事務さん困ってたぞ」
 都合よく使いやがってと面倒くさげにぶつくさぼやく銀乃介は、慣れない人間が見れば普段の彼と変わり無く映るだろうが、脱いだ靴をきちんと並べている辺りで千代には機嫌が良いと解る。
 今日の対局は棋天戦本戦トーナメントの準決勝、相手は銀乃介の二期前にプロ入りした新鋭の井岡一道六段だったが、先手相掛かりでの快勝だった。何よりタイトル初挑戦まであと一歩に迫る本戦決勝進出、棋譜の内容も一局の価値も上機嫌にならないはずがない。
「怖いんだってば。受け取ったら中身見なきゃいけなくなるし」
 熱狂的かつ偏執的なファンレターだったり、何故か封を開けられた形跡がある妙な臭いの化粧品だったり、ファンレターに偽装して女性用のキワモノな下着を送り付けられたこともあった。アイドルじゃあるまいしとも思うが、女性が極端に少ない将棋村には年季の入った変態も多い。昔からの事務職員が検閲してくれるようになってからはそれでもマシになったのだが、多少の恐怖を感じることは未だにある。
「大丈夫だろ、一時期よりその手の減ったっぽいし」
「まあ、確かに減りはしたけど」
「感謝しろよな」
 胸を張る銀乃介の顔が妙に憎たらしかったので思い切り背中を叩いた。

 一人で中身を確認することにはまだ抵抗があり、居間で夜食のうどんをすする銀乃介に開封してもらう。自分が見ても問題無い文面だけ回してくれと頼んだところ、面倒臭がるかと思いきや怖いもの見たさで割とノリ気だった。
「おい、見ろよこれ。すげえ芸が細かい」
「何?」
「最初の一文字縦に読んでみろ」
「い・つ・丸・は・津・や・ラ・世・手……何これ?」
「イッパツヤラセテ、だろ」
「何これくだらない、こんなもん見せないでよ」
「こんなバカな事に時間をかけた情熱を評価してやれよ」
 ケケケとからかったお返しに丼の上で七味を思い切りシェイクする。
「何すんだ馬鹿野郎!」
「責任とって食べなさい、つゆまで全部飲め」
「ふざけんなお前が食えよ、食い物粗末にしやがって」
「うっさいわねアンタが悪いんでしょ。ほら、さっさと次の確認して」
 やり合いながらも素直に作業を再開する銀乃介は、案外本当に大事に思ってくれているのかも知れないと、間の抜けた居心地の良い温かさがある。

 回された当たり障りのない内容の手紙を確認していると、銀乃介から珍しく真剣な声で呼ばれた。
「これ、返事出せよ」
 渡された封筒の差出人を見ると拙い字で橘沙智とある。
 同じ音の苗字だから覚えていた、旭日杯の時に揮毫した子だ。一生懸命に書いたことが伝わる幼い字の手紙と、数枚に渡る大人のそれが入っていた。
 沙智本人からの手紙は大した内容ではない。扇子の御礼と女王戦への祝意、あとはプロになりたいから是非弟子にして欲しいという可愛らしい内容だったが、問題は大人の文面だ。どうもこの親は娘の奨励会入りを真剣に検討しているらしく、沙智が小学校一年生にして地元の道場で大人にも勝てていること、連盟公認の指導員からも将来的には考えても良いレベルだとお墨付きをもらえていることなどが書かれている。
 だが、恐らく将棋については詳しくないのだろう。何より気が早いし、保護者であれば見ているべき女流という制度についても触れていない。
「どうすんだ?」
「どうするって言われても、これだけじゃ何とも……頼まれたからはいどうぞって訳にもいかないでしょ、蕎麦屋の出前じゃないんだから」
「そりゃそうだけどな。明後日の土曜、見に行くって書いてあるぞ」
「知ってる、読んだ」
 明後日は土曜日で通常ならば対局のない曜日だが、女王戦の日程で延期となった神座戦二次予選の調整がその日以外に折り合わず例外的に執り行われることとなっていた。折角女性の星が休日に対局を組むのだからと、会館見学ツアーを兼ねた大盤解説会が二階道場で行われることとなった他、予選では異例のインターネット生中継等も併せて企画されるなど、近頃の将棋ブームに乗っかろうという事務方の意欲が伝わる。
「しばらく手紙のやりとりでもして、様子見てやれば良いじゃねえの」
 他の手紙を確認しながら、銀乃介は何ともない風に言った。
「即断しないなら受けてやる可能性もあるんだろ?」
「そんな簡単なことじゃないでしょ」
「師匠が受けてくれた時、嬉しかったからさ」
「は?」
「俺らだって弟子にして貰ってこうなれたんだから、なんつーか、チャンスを与える側に回るのも義務なんじゃねえかなって」
【チャンス】と、才能の塊である彼は表現した。
「銀には解らないわよ、絶対に」
 それはチャンスなどではないと千代は思う。だから首を振る。
「何が?」
「その子の将来を考えたら受けて良い話とそうじゃない話がある。当たり前でしょ」
「赤の他人にそこまで感情移入できねえよ、俺は」
「なら黙ってなさいよ、少なくとも安易な憧れで目指す場所じゃない。本当に将棋が好きなら尚更、楽しいだけで指せる場所にいれば良い」
 その無責任さに苛立ち睨むと気付いたらしい、手紙を舐めていた視線をまっすぐと千代に向けなおし、
「それ、お前の考えじゃん」
煽るでも無くどこまでもあっさりと、まるで取り合っていない。
「そんな事はその子が決める事だろ」
 言い返せなかったのは千代もそれを知っていたからだ。
 沙智は自分に手紙を出した。小学校一年生の子が懸命に言葉を考えて、今の時代に手紙しか通じない、それも住所も知らない相手に気持ちを伝えようとした精一杯の努力は少女の手汗で滲んでしまった便箋の文字を見れば解る。その気持ちに対して自身が持ちだした理屈が余りに軽すぎることも。
「お前がそういう理由で断るつもりなら、せめて納得させるのが最低限の義務のはずだ」
 ぐうの音も出ないとは正にこのことだろう、どこまでもまっすぐな正論で奪われた言葉の代わりに千代は七味を振った。
 昔ならばみっともないと失笑したような甘えだ。それでも、彼は気付かないふりをして、マグマのように赤く染まったうどんのつゆまで綺麗に平らげてくれた。
「水くれ」
 食後机に突っ伏した銀乃介に、悪かったわよと水を差し出す。

『立花千代先生へ
 わたしは小学1年生でらいねん2年生になります。お手紙ははじめてかきます。
 女王おめでとうございます。わたしはいえでインターネット中けいを見ました。先生のうけがとてもつよくて、あいてのこまをぜんぶおさえこんでいたのがとてもかっこうよかったです。
 角落ちはわたしも道じょうでやしろ先生に指してもらいます。ほかの大人には平手でもかてるけどやしろ先生はまだ時どきしかかたせてくれません。だけど立花先生には角落ちでもまだまだぜんぜんかてないなと思いました。
 将棋はようちえんのころにおじいちゃんがおしえてくれました。とてもつよいと言ってくれておじいちゃんにはすぐにかてるようになりました。いまは月よう日から土よう日はちかくの道じょうにかよって毎日4時かんいじょう指しています。
 立花先生のお話はやしろ先生がおしえてくれました。やしろ先生はしょうれい会で立花先生とも将棋を指したことがあるそうです。今は金よう日のよると土よう日に道じょうに来てくれています。
 それで立花先生がしょうれい会に入ったのが6年生のころでけんしゅう会には4年生から入っていたことがわかったのでわたしはあせりました。わたしは立花先生のようにつよくないのでもっと早くからめざさなければいけないからです。
 わたしは女流ではなく棋士になりたいです。
 やしろ先生がもっとつよくなりたいのならけんしゅう会をめざしてべんきょうしてみたらどうかとすすめてくれた時に棋士になりたいと言いました。やしろ先生はプロをめざすのはとてもむずかしいししょうれい会はとてもこわいところだと言いました。でもわたしは立花先生のようになりたいです。やしろ先生はそれなら立花先生にでし入りのおねがいをするのがいいと言いました。
 どうかわたしをでしにしてください。わたしはきっと棋士になります。いつか立花先生におんがえしをできるようにがんばります。
 とてもがんばりたいです。よろしくおねがいします。  橘沙智』

 自室に戻った千代は押入れから古い対局ノートを引っ張り出した。研修会時代から今に至って一局と欠かさずに記録し続けている記録は既に段ボール二箱分になっている。古い時代の物は読み返すことも殆どないのだから捨てても良いのだろうが、捨てられない。
 才能の無さを自覚するに従って、縋れるものがこの段ボールの重みだけになっていた。
 負けが込むと自身の存在がひどく希薄になって、どこかに溶けて消えてしまったような錯覚に陥ることがある。そうした錯覚を覚えた時に生へ呼び戻してくれるのが、唯一この段ボールに詰め込んだノートだった。
 積み重ねた知識の量や努力の過程に自信を求めるのではない。この重みを求める時には、既にそんなものは盤上で完膚なきまでに否定されている。
 唯自分が生きてその場に存在していることを確かめたいだけだった。自分の生きてきた足跡は敗北という黒色で容易く消されてしまうから、せめて物として残っているノートを見て、そこに残された記録に自らの生を、確かに流れた時間を確かめる。
 手近な物からページをめくると言葉数は少なく、ただ棋譜をなぞり悪くした点と分岐をメモするような体裁が板に付いている。
 三段の頃の物になると筆跡が震え涙で皺になったページが目立つ、時々意味の解らない文章が散りばめられており読み返しても何を考えていたのか解らない。
 二段、初段と段を下るごとに色付いた感情的な表現も目に入ってくる。級位者まで戻ると敗戦の記録もどこか前向きで、次戦の決意を示すような言葉すら見える。
 研修会以前にまで戻ると、ひたすら楽しそうに、その日の将棋で面白かったことを書いている。当たり前のような手筋で自画自賛し、自分の才能をまるで疑わず、どこかで漠然と棋士になれることを信じているような言葉が連なる。
 一番古い記録は小学校三年生の時から始まっている。薄茶色に焼けた最初のページには、結城に弟子入りしたこと、最初の言いつけが対局記録をつける事だったこと、そして絶対に棋士になるという夢が語られている。
 漢字も混ざり文章も多少大人びてはいるが、その中身は先ほどの沙智からの手紙と大差ない。
 行く先の地獄を知らないから書ける内容だ。
 もしこのノートを逆から見ることが出来たのなら、当時の自分はプロを目指していたのだろうか――そんなことをふと思い、真剣に考えたが結論は出なかった。
 この文章を書いた当時の彼女もまた紛れもない千代であり、それを読めば自分がいかに真剣にそれを書いていたのかは朧気でも思い出せる。
 今の自分がいかに悔いていようと、小学生の彼女は真剣だった。
 だから、沙智もまた真剣なのだ。彼女なりに真剣な思いがあって手紙を出した。
 それを笑う事は出来ない。ノートの一ページ目を笑う事は自らの全てを否定することだ。
 ならば、せめて。
 今の自分にどこまで出来るのかは解らない。それでも、あの日この一ページ目を綴った自分に未来を見せてやりたいと思った。
 その時に彼女は何を思うのか。
 他でもない、千代自身がその答えを知る為に。

『三段リーグ十三回戦▲屋代秀正△立花千代 百十三手先手勝ち
 仕掛けから悪い、二図以下捨て。代替案三図進行を検討すること。
 ――時間はいつも足りないことを知れ。お前はおろかだ。二時間損した。電車につっこめばよいだけだ。方法など二度と調べるな。そんなことを考える時間はない。二度と忘れるな。電車にひかれるのが一番早い。
 屋代はもう死ぬ。二十後半までリーグでくすぶってるようなやつにロクな死に方はできない。将棋しかできないのに将棋ができなくなったらゴミだ。くさったにくのかたまりだ。藤川城山北見は死ぬ。もう腐りかけだ。あれは私より年上だ、今期も下だ。勝てる。私はまだ十期以上指せる。どうせ延長もできない。負けるはずがない。勝てる。
 女流のようなクズになるくらいなら死ね。
 体を売ってこびて生きるなら死ね。
 くだらない逃げを考えるくらいなら死ね。
 勝てないなら早く死ね。
 腐った肉の私は死ね。負けるなら死ね、死ね、死ね。
 殺してやる。
 殺せ。
 絶対に勝て。』







 土曜日、二階の道場を訪れた銀乃介は、会場をざっと見渡し目当ての家族らしき存在に声をかけると、当てがある訳でも無かったが一発ビンゴを引き当てた。
「立花千代からの預かりものです、頂いたお手紙へのお返事とのことで」
 橘沙智の家族は突如現れた謎の男に動揺していたが、次第に目の前の男が棋界の有名人でありまた立花千代の夫であることを察すると、そのフランク過ぎる態度に戸惑いを隠せなくなった。
「今日は上で検討する予定なので、また様子見に来ますよ」
 去り際銀乃介は沙智に向けて尋ねた。
「アイツが断ったら俺の弟子にしてやろうか?」
 敢えてしゃがんで視線を合わせてやるような事はしなかったが、沙智は物おじせず首を振った。
「いいです」
「アイツより俺の方が格上だぞ、知ってるだろ?」
 沙智は頷いたが、答えは変わらなかった。
「千代先生は女流にならなかったから、わたしは棋士になりたいから」
 まっすぐな視線で見返しながら少女は言い切る。
 銀乃介はその返答に深く頷くと道場を後にした。
 四階控室にまだ棋士の姿はなく、神座戦主催新聞社の記者が二人詰めているだけだった。
 二人は銀乃介の姿を認めた途端待ちかねたと言わんばかりにその手を引いて奥に上げる。ネット中継の棋譜コメントを打ち込まなければならないが検討棋士がおらず困っていたらしい。珍しい土曜日の開催だ、無理もないだろう。
 時刻は対局開始の八分前、対局室を映すインターネット中継のモニターには既に両者が着座した映像が入っている。
「戦型はどうなりますかね?」
「普通に考えれば対抗形、相穴熊かと」
「奥さんへのエールとかはありますか?」
「特には、将棋に関してはお互い独立した事業主ですから」
 銀乃介は苦笑しながら答えた。
sage