二十二

 朝は六時に起き、ジャージに着替え、スニーカーを履いて家を出る。三百メートルほど行ったところにある近所の小さな稲荷様を詣で、帰り道で朝日に向けて目を見開いて伸びをしながら深呼吸をする。
 帰宅後シャワーで寝汗を流し黒のパンツスーツに着替える。晒で乳房を押し潰すように、肋骨の軋む感触が解る程度に硬く締め付けると、数年ぶりの醒めた感覚が戻ってくる。
 四段になり対局が増えてから遠ざかっていた当日のルーチンは、出来る事は全て試そうという程度の気持ちからだったが、思った以上に効果があるようだった。感覚が遡り一局への執念が、過去に覚えた敗北の痛苦が、勝利によってのみ覚える安堵が、胸の奥でどす黒く混濁し、反応によって熱を放ち始めている。
 鏡に向き、口角を少しだけ上げた、微笑みとは呼べない程度の、しかし見るものに穏やかな印象を与える為の、柔らかな表情を作りあげる。数度繰り返し、対局時の顔の筋肉の使い方を確認すると、十年以上かけてあの地獄で培った表情の作り方は、多少の時間では身体も忘れないらしい、少なくとも見てくれだけはあの頃と変わらないものが出来上がる。
 自室で支度を整えてから腕時計を付けようとした時に、ふと、机の上の赤い皮の小箱が目に入り鞄の中に放り込む。
玄関で靴を履いていると、いつの間にか背後に母が立っていて、弁当の包みを渡された。四段になり稼ぎが出来てからは店屋物が増えていたため久々だった。
「大変でもきちんと食べなさい、鑑連さんも言っているから」
 かつての朝と同じようなことを言いながら、日常の一コマであるように手慣れた動作で切り火をして送り出す。大一番に臨む人間にだけ母がする立花の家の特別な風習は、千代には四段昇段が懸かった三段リーグ戦以来のことだった。
「ありがとう」
 何を言わずとも察してくれた母に感謝を残して家を出た。


 千代が特別対局室に入るとまだ木下の姿は無く、記録係の姿があるだけだった。
 頭を下げて下座に座ろうとすると、慌てたように制される。
「立花先生は上座に座って頂くように事務さんに言われています」
「どういうこと?」
「女王位は準タイトル扱いの契約とのことで、今日はネット中継も入るのでスポンサーのことを考えろと、松永会長からだそうです」
「……そうですか、解りました」
 戸惑ったのは一瞬だった。対局室に入った以上、精神の揺らぎを周囲に悟られる訳にはいかない。それがたとえ記録係であってもだ。
 上座に着いて暫く、盤の手前に扇子と並べてある風防の割れたカルティエが対局十分前を示す頃に木下は現れた。想定通り上座の千代を見るなり憮然とした表情を隠さなかった。足音を派手に鳴らしながら盤側でただ一言、僕の席がないと吐き捨てる。
「松永会長からの指示とのことです、このままで失礼します」
 千代は取り合わずそう言い切り、目を閉じて瞑想した。木下はまだ怒っているのだろう、着座していないことは見ずとも気配で伝わってくる。
 ――僥倖。この状況は千代にとってそれに違いなかった。
 或いは松永からの意図しない援護射撃かも知れない。それは例えば、野球における一回走者なしの状況でのボールカウント一つ分のような、フルマラソンにおける十秒にも満たない差のような、ほんのわずかな、だが明確なアドバンテージだった。
 ――己の平静を損ねた姿を対局相手に見せたという事実。
 その効果は直ぐには表れない、しかしこれから時間を積み重ねていく中で必ずや意味を成すものだ。
 盤上に駒を並べる間にも、木下の刺すような視線が千代に向いている。千代は穏やかに作り上げた表情で佇む。
 睨み返すような真似はしない、ただ天に向けて背筋をまっすぐに伸ばして正座し、肩の力はやや抜いて、扇子を柔らかに握った左手は脇息に置き、右の手は膝上十センチほどの腿の上に掌を開いて、顔は変わらない表情を浮かべ続ける。
「立花先生の振り歩先です」
 ハンカチを広げた奨励会員が上手の歩を五枚拾う、その過程でまたも木下の眉が僅かに動いた。千代はそうした動作を決して見逃さない。
 ――また一つ、積んだ。
「歩が四枚、立花先生の先手です」
 振り駒の結果を聞くと千代は再び目を閉じた。
 自らが相手を観察していることは知られない方が良い、観察していることを知られたら相手は却って冷静になってしまうから。相手が誰と指すのかが解らないくらいになる方がちょうどよい。目の前の風景に溶けてしまい、見えなくなるような存在であることこそが望ましい。
 だから千代は目を閉ざす。その静けさが却って相手の精神に細波を立てる事を熟知していればこそ、相手の揺らぎがまるで伝わっていない風に、穏やかな表情でその場に佇む。
 やがて定刻になり記録係の声が聞こえると、背中からの礼をした。
 木下の極端に角度の浅い礼が僅かに覗ける。頭を下げる千代を見下ろしながら鼻で笑うように、その肩が小さく揺れた。
 ――また、一つ。
 歩は音も無く7六に置かれる。



             ※



 響にとっては初めてとなるスタジオ解説だったが、場所は普段と変わらない千駄ヶ谷であり場所が地下であることを除けば特段と緊張することもない。配信企業のスタッフに髪をいじられるのも任せて本番を待っているところだ。
「響ちゃんはオシャレしてないね」
 声を掛けられて向けば薄く化粧もしているらしい、本日のダブル解説の相方である慈乃が立っている。
「する必要無いだろ、将棋の解説だぞ」
 響も慈乃も普段通りの学生服だが、慈乃はブレザーのスカートを普段よりもかなり短く巻いているようだ。スタイリストからの指示らしい、女子高生棋士という肩書を売り込むには確かにこういう方が良いのかも知れない。
「駄目だよ、普及の為にも頑張れって会長も言ってたじゃん」
「どうしてもってなら他の人間あたって貰うさ」
「ひねてるねえ」
「元からだ」
「機嫌なおしなよ、もう本番始まっちゃうよ」
「別に機嫌は悪くない」
「ほらほら、今日は超ミニだよ?」
 チェックが入った灰色のスカートは響も見慣れたものだが、ひらひらとさせながら言うと普段とは違う光景になる。
 響は反射的に視線を逸らしていた。耳の裏が少し熱くなっている。

 お互いの棋風からして先手の居飛車に後手が飛車を振る対抗形、囲いは両者穴熊が有力と解り切っているだけに序盤でそうそう話すこともないと見られ、事前の指示では対局が開始して暫くはくだらない雑談でもして間を持たせてくれということだったが、二手目にしてそういう訳にはいかなくなった。
 振り飛車党である後手の木下が二手目8四歩と突いたのだ。常識で考えれば相居飛車の意思表示である。
「これは驚きましたねえ」
 慈乃が大盤の駒を動かしながら呆けたように言う。
「どうせこんなもんだろ、って感じですか」
「ひ……浅井王竜、表現が少しストレート過ぎませんか」
 カメラを意識してか、普段通りの話し方が出来ずに苦しそうな慈乃はそれでもフォローを入れようとするが響は遠慮しなかった。
「普通に考えればそうですよ。振り飛車党の人間が居飛車メインの相手に二手目8四歩を突くなんて、喧嘩売る以外の何物でもない」
「もしかしたら研究を試したいとか、そういうことかも」
「まあ否定はしないですけど、木下九段の居飛車って振り飛車党を相手に相振りを避ける目的以外じゃ印象にないですし、それにしたって相振りの方が多いでしょう」
「でも、ね?」
「まあ、棋風改造考えていてその為のテストかも知れないですけど」
「そう、そうだよ」
「でも指されて気分が良いもんじゃない事は確かです。立花女王は基本居飛車ですし」
「響ちゃんってば!」
 必死の執り成しを延々無視されてはこうなるというものだ。素の話し方を隠しきれなくなった慈乃にも気付かず、響はモニターの対局室を眺めていた。そしてふと、そこに映る千代の姿に懐かしさを感じていた。
 いつだったか、千代がまだ奨励会員だった頃、響が小学生だった頃の話だ。千代と練習将棋を指す時にはいつも姿勢のことを注意されていた。常に見られていることを自覚しろと千代は常々言った。
 お互いに奨励会員の身だ、公開対局を意識しての発言ではない。
 盤向かいの相手から見られていることを意識しろ。精神の揺らぎを相手に悟られて得なことは一つも無い。盤に向く時は徹底して己を殺し、相手に毛ほどの情報も与えるな。
 モニターに映る千代は凛とした佇まいで盤に向いている。対局が始まり木下が足を崩しても正座のまま、盤に向く表情は水鏡のように透徹した静けさを帯びどこか微笑んでいるようですらある。
 盤からやや遠く距離を取り、沈むように前のめりになることは決して無い。背から首が一直線に天へ向けて伸びる姿勢は、肩をいからせる風ではなく、首筋から腕にかけてなだらかに描かれる曲線は、むしろ茶道や華道を嗜む人間のそれに見る幽玄さすら放ちそれでいて不用意に揺らぐ事も無い。光を透かす柔らかな布、或いは山間を人知れず行く清流のような佇まいによって内面の苛烈さは見事なまでに覆い隠された。
 しかし響は知っている。その全てが立花千代という棋士によって練り上げられた勝利の為の策であることを、彼女の意思によって完全に制御され演出された自然さであることを。
 モニターに映る千代の姿が三段時代の彼女と重なる。
「今日、長いかもな」
 カメラの存在を忘れたように響は呟いた。

 数手進むと矢倉模様の戦型が見えてきた。モニター越しの木下は時折千代に視線を送るようにしており、それは同職として意識しなければ気付けないものだが、棋士ならば誰しもが察するような嫌な観察だった。見下されたことに怒る彼女を見たいのかも知れない。
 しかし今日の千代ならば相手にすることは無く、むしろ冷静に積み上げたものの一つとすることができるだろう。むしろ木下の視線は千代にそうすることを強要されているのかも知れないと、響にはそう見えた。
 木下は気付かないうちに底無し沼へ片足を入れてしまったのだ。
 千代の様子を意識すればするほど、視界に入れれば入れるほど、否応なしに千代の演出は足元からそっと這い上り、自分ではどうすることもできない、精神の深奥部分に静かに根を張って寄生し静かに脈を打ち始める。
「矢倉模様ですね」
 呼びかけるように言った慈乃に引き戻された。適当な解説でも言葉を続けなければいけない。
「将棋の純文学ですか」
「そんな言葉もあるよね、本当に昔からの戦型だし」
「基本的な組み方だけでも解説しましょうか。居飛車を指そうとすると大抵これが基本になりますから、知っておくと便利ですよ」
 大盤の駒を初期配置に並び替え昔ながらの二十四手組を解説しようとしていると、モニターに表示される視聴者のコメントに面白いものがあった。
【矢倉は高尚なの?】
 流れていくコメントを見て一寸固まった響はやがて、
「何で?」
と率直な疑問を口にした。
「別に高尚でも何でもないですよ、まあ正統派の将棋ですけど」
 カメラに向けて応答していると、慈乃が横から、
「純文学って言ったからだよ、きっと」
そう付け加える。響はようやく合点がいきなるほどと一つ手を叩いた。
「あれはそういう趣旨の発言じゃないんですよ。二階堂さんっていう棋士が、この間私と新人王の記念対局やった方ですけど、あの方がぼやいた発言でして」
 二階堂秀行が言ったと聞けば、あのオマンコジジイがそんなあからさまに高尚な発言をするはずが無いぞ、と察しの良い視聴者は気付き始める。
「そもそも二階堂さんが言った事ですから、アレは一種のジョークなんです。純文学って地味で陰気でネチネチしてるでしょ?」
 文学マニアが聞いたら卒倒しそうな発言だが視聴者には受けが良いらしい、語り出した途端にコメントが盛り上がっている。
「矢倉も同じで、相手の手を見て変化する部分が多い、要は凄く細かい折衝が多いんです。だから将棋の純文学、派手さが薄くて細かい戦いになり易い戦型って意味です。でもまあ、将棋の王道ってのも正しいですからね、二つの意味をかけているのかと」
 一通り語る間に、どうやら慈乃が並べ替えたらしい、大盤の駒は初形に並べられていた。
「おお、悪いな。助かった」
 普段と違って妙に動きの良い慈乃に礼を言うと照れたように頭を下げられた。どうにも素直に対応されると気恥ずかしさも感じたが、流して二十四手組の解説を始める。

 対局が昼食休憩に入ったのを見届けてから、響たちは連れ立って昼食に出た。
 気軽な立場ということもあり、今日は散歩がてら外食しようかと店を相談していた矢先に同じく昼食に出てきた銀乃介と鉢合わせになり、誰が言い出すでもなく連れ立って向かうこととなる。
「この序盤でひでえもんだ」
 手近な寿司屋にふらりと入りカウンターに並んで陣取る、おしぼりで豪快に顔を拭きながら銀乃介が放った第一声がそれだ。
「端があんだけ綺麗に破られるとな、確かにひどい」
 続く響も気が抜けたように言う。
「まあ、そうだね」
 慈乃も続くと全員揃って形勢を悲観しているようにも聞こえる。
「ご注文はどうなさいます?」
 注文を取りに来た店員に間髪入れず、
「特上三人前」
銀乃介が言う。
 響も慈乃も、敢えて訂正しようとはしない。どこかゲンナリした表情で頷くばかりだ。
「覚悟して食えよ」
 悲壮感が漂うのは言葉面だけで、語る銀乃介の口調は明朗だった。表情はむしろやる気に満ちておりその目はぎらついている。
「お前の嫁だろ、責任取って午後交代で入ってくれよ」
 溜息を隠さない響が言うと、
「手が空いてりゃな」
銀乃介は面倒臭そうに返した。


 午後に入っても盤上に先手の良い変化は見えず、先手の手を考える事も嫌になる局面が続いた。
「まあ、先手としては入玉を目指すくらいしかやれることが無いんですよね。最善手ではなく紛れが増える手を続けていくしかないでしょう」
 大盤を眺めながら響は言ったが、飛車の横効きも効いており簡単に入れる状況ではない。モニターに流れる視聴者のコメントを見ても、関心事は先手がいつ投了するかに絞られており、敢えて実戦的な難しさを解説する空気ではない。
 己のトーク一つで場を繋がなければならない状況、響にとってこれ以上の苦境は無い。
「それでは局面も暫く動かないでしょうし、質問コーナーに行きましょうか」
 今日は妙に動きの良い慈乃がそんなことを言って助け舟を出し、縋るように響が頷くと、まるで予め察知していたかのようにスタッフが手早く机と椅子を用意した。視聴者から送られてきたのだというメールの分厚い束を慈乃に手渡しながら、肩の力抜いてくださいね、と響に声をかけるそれは紛れもなくプロの仕事だ。
「じゃあお便り読みますね。
 浅井先生、慈乃先生こんにちは。――こんにちは。
 私は浅井先生の王竜戦でニュースを見て将棋を始めました。――だってよ、そういう人もいるんだね、すごいね。
 質問ですが、浅井先生や慈乃先生は彼女・彼氏はいらっしゃるでしょうか? 高校生になるとそういう話も増えているかと思いますが、お忙しい生活の中ではそうした出会いも少ないのではないかと思います。また、今日の対局者である千代先生が御同輩の島津先生とご結婚されたことは記憶に新しいですが、もしかしてお二人もそういう関係なのでしょうか? 本日の解説楽しく拝見しております、長丁場ですが頑張ってください」
「何だ、この質問」
 馬鹿馬鹿しいという風に苦笑を隠さない響が言うと、
「そうですね。はい、その通りです」
慈乃も同意するように言った。
「まあいいや。で、二人の結婚だけど、お前何か聞いてた?」
「まさか、全然知らなかった……えーっと、私は立花千代の妹なんですけど、お姉ちゃんが結婚したっていうのを、婚姻届を出した後に聞かされたんです。お父さんもお母さんも響ちゃんもいて、みんなでご飯食べてた時にいきなり、家族みんな知らなかったよ」
「あれ凄かったよな。飯食ってる時にいきなり『結婚した』って一言だもん、聞き間違いかと思った」
「だよねえ。それまで普段通りにしてたから、まあ何かそんな感じも無くは無かったけど、でもいきなり結婚すると思わなかった」
「おじさん倒れたしな」
「そうそう、大変だったんですよ。結婚の話聞かされて、暫く動かなくなっちゃったなあと思って見てたら、意識飛んでたみたいで、夜中の何時だったかなあ」
「一時は回ってた」
「そうだったっけ。で、目が覚めたらいきなり銀ちゃんのこと殴り飛ばして、大変だったよね、あれ」
「ちなみに碁が好きな人は知ってると思いますけど、父親は立花鑑連さんです」
「あ、そうです。私とお姉ちゃんは碁打ちの娘です」
 そんな感じで午後はひたすらに時間を繋ぎ、局面の解説など殆ど行わなかったが視聴者数は順調に増えていきその数二十万超えである。将棋の解説を聞きに来たのか棋士の話を聞きに来たのか解らないが、お通夜のようになるよりはマシだろうかと、響が考え始めていた時のことだった。
「局面、動きましたね」
 後手が飛車を切って入玉の橋頭保である先手の金気を除去しに行ったのだ。
「これで先手の入玉は消えました、同成佳に8三銀と打つくらいで押さえ付けられます」
 大盤に駒を置いて見せれば、守り駒の無い先手が徐々に押し返されていく未来が級位者にもはっきりと見える局面だ。入玉のみを僅かな希望として指してきた先手にしてみれば積み重ねてきた全てが泡と消えたようですらある。
【投了か】
 雑多なコメントにその一言が現れると視聴者たちは一斉に先手の投了を囁き始めた。今までよく頑張った、もう少し何とかならなかったのか、解説が面白かったから一日楽しめた……等々、勝手に幕が下りたものと判断し始めている。
 響は隠しようもない溜息を吐いた。視聴者に呆れたのではない、プロの視点からしてもそう判断するのが当然の局面であるとも言える。
 これが立花千代の将棋で無ければ、の話だが。
「これで終われば俺も楽なんですけどね……取りあえず、対局者の姿勢を見て下さい」
 自身の視線も対局室のモニターに向けながら響が言うと、放送の画面が対局室の映像に切り替わる。そこにはやや前のめりになり盤に沈む木下と、対局開始以来一つとして揺るがない千代の姿があった。この局面にして、変わらずに天へ一直線に伸びた背筋は彫像のように崩れないまま、柔らかな表情を携えて、静かに佇んでいる。
 数秒の間があったろうか。無言の空間の中で【怖い】というコメントが流れた。
 そう、怖い。気付いてしまえば怖い。ましてや対局相手であれば尚更のことだ、木下は千代の事を幾度も伺っていた、であればその佇まいも当然記憶に焼き付いてしまっている。
 モニターに流れるコメントの勢いは落ちたがそれは視聴者が関心を失ったからではない、見てしまった対局者の姿に息を飲んだからだ。執念などという言葉を使わずとも、気付いてしまえばその姿勢には明確な意図が込められていることを誰しもが察する。
 ふと、響はスタジオの入り口でこちらを眺めている銀乃介の姿に気が付いた。上の手が空いたのだろう、様子を見に来た対局者の夫を手招きするとカメラの前に引っ張り出してやる。
「視聴者の皆さんに対局者の旦那から一言あるそうです」
 投げ槍になりながら水を向けると銀乃介は
「今のうちに風呂入っとけ、今日は長いぞ」
そう言った。


 夕食休憩が明けても先手が良くなる変化はまるで見えない。一時は五段目まで進出していた先手玉も既に二段目まで押さえ付けられ、ただただ嬲られるように追い回されている。
 だが、対局室の映像を見ることが出来る視聴者達は既に理解していた。この勝負はまだまだ終わらないことを、勝敗が盤面ではなく対局者同士の精神の潰し合いによって決せられるものとなったことを、まるで揺るがない立花千代の姿から理解した。
「じゃあお便り読みます」
 放送への慣れも出てきた響がメールを手に持ちながら言った。慈乃は銀乃介と交代して今は休憩している。
「浅井王竜・島津八段こんばんは。――こんばんは。
 以前王竜戦の観戦記を読んでいた時、浅井王竜が元は居飛車党であったことや島津八段にいじめられて飛車を振るようになったことが書かれていましたがこれは本当でしょうか。
 また、先生たちと立花千代・慈乃両先生は奨励会の頃から研究会を続けているというお話を伺いました。そちらでの面白いエピソード等あればお教えください……だとさ」
「四間穴熊の話は本当だろ?」
「そうだな、本当ですよ。お前穴熊嫌いだから、コッチが穴熊組めば堅さ勝ち出来るし」
「最近指してねえじゃん」
「機会が無いんだよ。相居飛車でも勝てるし、これからは裏芸で使う程度かな……ってか何で銀は対振りで穴熊やらないの? そっちの方が俺は疑問なんだけど」
「バランス悪いから好きじゃねえんだよ」
「マジでそんだけ?」
「ああ」
「馬鹿だな」
「勝ってんだからそれで良いんだよ」
 互いに家で駄弁るのと変わらない感覚で、椅子に座りながらスタッフが用意してくれたアタリメをしゃぶりながら会話を続ける。こんな仕事をしていいものかと迷う部分も当初はあったが視聴者たちがそうしろと言うのだから仕方がない。いかんせん長期戦である。
「で、研究会の話は?」
「昔からだからな。意識したことも無いけど、そもそもアレって研究会なのか?」
「他の人の話聞いてると違う気もするな、自分の家みたいなもんだし」
「俺はそもそも千代がきっかけでこの世界入ったし、それからは何のかんの家にも行ってたけど、お前は例会の後で声かけたんだっけ」
「そうだよ。確か小五の時、当時三段のお前にボコられた」
「もう七年近く前か。早いもんだな」
 遠い目をする銀乃介にジジ臭さを感じながら、ふいに響はカメラの方を向くと『エピソード話して』とカンペが出されていた。気を取り返しながら話題を修正する。
「で、銀は覚えてるエピソードは何かある?」
「んなもんねーよ……見てる人からすると普通に家で暮らしてるようなもんだから、特別な事は何も無いとしか言えん」
「だよな。強いて言うなら四人兄弟で全員が奨励会に入ってたから、練習相手にとっかえひっかえ将棋指してたみたいな、そんな感じです」
「あと、指定局面の研究とかはあんまやらないよな」
「確かに大体VSやってる感じだな。でも俺は千代とは局面もやってるぞ、あと考えたのを慈乃に試したりもする」
「下らねえな」
「お前はそう言うだろうからあんまり誘わない」
「そうしてくれ」
「という感じなので、一般的な研究会とはかなり違います。一般的には研究会って敢えて集まって局面弄るのがメインでしょうから、こっちは家で将棋指してるだけなんで」
 これ以上続けても面白い話題も無いだろうと、響がメールをめくろうとすると、不意に銀乃介が口を開いた。
「奨励会の頃、アイツは正座の練習してたな」
 バカ話をするような雰囲気だった。語る声からも笑いが漏れている。
「は?」
「千代だよ、奨励会の頃に正座の練習してた。一日中、何するときもずっと正座して過ごしてた時期があった……中三の頃だったか、お前と会う前の話だけど」
 対局室の映像が映るモニターを眺めながら銀乃介は言う。
「それからだよ、アイツの対局姿勢がああなったのは。最近は割と崩れたりもしてたけど、今日は久々にいい女じゃねえか」
「ノロケかよ」
 からかい交じりに言ってから次のメールを探そうと文面を舐めていると、真剣な声色の銀乃介はなおも言葉を続けた。
「俺とかお前はあんまり苦労してねえけど、アイツは十年以上かけて、本当に階段を一つ一つよじ登ってたからな。見てるとその時々で変なことも色々してた。元々、こんな粘りするタイプじゃなかったよ。筋が良い教科書通りの、優等生の将棋を指す人間だった」
 勝つ為にあらゆる方法を模索し、自らの血に、そして相手の返り血に溺れながら、蟲毒の中で付けられた数えきれない傷跡はやがて不倒の精神を形成する。
「勝つ為に、這い上がる為に、歯を食いしばって自分から泥被って来た人間だから指せる……俺やお前じゃ到底指せない、これはアイツの、泥被り姫の将棋だよ」
「泥被り?」
「奨励会の頃に記者のオッサンがアイツにつけた仇名だ。表向きはまるで流行らなかったけど裏じゃみんなそう呼んだ。立花は絶対に粘らすなって、当時の有段者の共通認識だ」
 随分と嬉しそうに語ると響は思った。からかいではなくこれではノロケだ。
 流れていくコメントに【元はシンデレラ?】とあり、それを見た響もようやく気付く。
「ああ、灰被りか」
 灰被りの魔法が十二時で解けてしまうのだとしたら、泥被りの魔法はどうなのか。
「今、何時だ?」
 銀乃介の呟きにふと時計に視線が行く。恐らくは視聴者も、二十万人近い人間が一斉に手元の時計を見た瞬間だろう。
 時刻は既に十時三十分を回った。
「時間も減って、木下さんもそろそろ効いてくる頃合だ」
 圧倒的に有利な盤面で勝ちを読み切ろうとする木下は盤に沈みながらその身体を一定のリズムで振っている。勝利を確信しているようにも見えるが、その根底にあるのは焦りだろうと見る人間には解ってしまう変化だ。一方の女王は穏やかに、十時間以上変わらない姿のまま佇んでいる。その心情を伺うことは決して出来ない。

 木下の持ち時間が二十分を切ると本格的にコメントがざわめき始めた。盤面は圧倒的に後手の優勢であるにも関わらず先手が逆転したかのような雰囲気に支配されている。千代は残り五十分近く残しており、更に言えば暫くは相手に対応する時間が続く。持ち時間を消費して【攻め手を考えなければならない】のは木下なのだ。
 映し出される対局室の映像を見れば、落ち着きなく首を振る木下に対し、なおも揺るがない千代がいる。その対照的な構図からも局面に表れない優劣で既に逆転が起こっていることは一目瞭然だった。
 眉間に深い皺を寄せた木下が小さくかぶりを振って盤上に手を伸ばす――1九角成。
 千代は音も無く飛車を置く――7二飛。
 唇を噛み締めながら、木下は馬を当てる――7三馬。
 吹き曝しの自玉にまるで不安を感じていないような穏やかな手つきで――7一飛成。
「これは、ひどいな」
 一連の応酬を見ていた響から、思わず飾らない言葉が漏れた。
「普通は玉逃がすか馬取るかだろ」
 現局面で後手が4六金と打てば、打てれば、勝負は終わる。粘る、粘らないの問題ではなく先手は負ける。何よりひどいのは、先手がそれを当然読んでいること、そして読んだ上で飛車を成って攻めを見せたことだ。
「今でも覚えてんだけどさ――」
 モニターから視線を動かさずに、銀乃介が言う。
「――あの日、あの夏の日、デパートの将棋まつりの会場で指導された日だ。
 局面は俺が圧倒的に勝っていたんだ、そのことは感想戦ですぐに気付いた。
 攻めが刺さったと思っていたら、平気なツラで手抜かれたんだ。あまりに平然と指されたから、コッチも手鳴りで受けさせられて、一手必死を見逃した」
 銀乃介の語る内容に響の視線が大盤へ引き戻される。なるほど、今とよく似た状況だ。
「感想戦の時のアイツが言った言葉がよ、今でも忘れられねえんだよな――」
 その一言を、今、千代は木下に向けている。
 ――貴方はどうせ間違える。
 木下に届くはずのない言葉だがその通り木下は4六金とは指さなかった。指せなかった――6四香。
 千代は既に木下の精神を支配している。積み重ねてきた演出によって静かに寄生した根は既に一帯を覆い尽くした。だからこそ4六金と指せない事を察した、だからこそ飛車を成った。
 ふと、今まで動かなかった千代が悠然と扇子を開いた。ゆっくりと二度、三度風を送る、ほんの僅かな間だったが、その間に木下は自身の見落とした4六金の存在に気が付いた。
 木下の表情を見れば解る。隠しようもない溜息を漏らし乱暴に頭を掻いている。
 そうして自らの悪手に気が付いた人間は思わず相手の表情を伺ってしまう。それは殆ど反射と言っても良い反応で、親に叱られた子供がそうするように、上目遣いにそっと覗き込んでしまう。
 見てしまう。
 十数時間を経てもなお、一つとして変わらずに佇む、美しい棋士の姿を。
 木下の視界が千代を収めたことは、響にも、銀乃介にも、恐らくは数十万の視聴者にも、誰が見ても直ぐに解った。その表情がこれまでにない形に歪んだからだ。
 木下が抱いたのは恐怖の念だったろう。見る者の同情を禁じ得ない痛々しい表情だった。
「そんなに可愛げがあるものじゃない」
 響は呆れたようにぼやく。木下が見たのは泥を被ったお姫様などでは断じてない。
 自らが流し続けた血と、そして今までに蹴落としてきた数多の人間の返り血で彩られた恐ろしい女の顔だ。そこに沼があるとすればそれはただの泥沼ではない、彼女の浴びた血を湛えた、蟲毒の底の血の池地獄だ。
 血の池地獄の女王は静かに囁く。
 盤を挟んだ人間の耳元で、おぞましい呪詛をそっと囁く。
 ――貴方はどうせ間違える。
 きっと、今の木下にはその声が止まずに届いている。



             ※



 木下が折れたことは千代にもすぐに解った。しかし油断はない。まだ局面自体は後手が良い。
 実際の所肉体的にも限界を迎えていた。慣れているとはいえ一日正座をし通した足は既に感覚が無いし、顔回りの筋肉も制御するのが一杯、肩も腰も、気を抜けば砕けてしまいそうになっている。他人に言えば笑われるだろう。局面を考えて疲れるのならばともかく盤外戦の為に苦心する棋士など侮られても仕方がないのだ。
 しかし千代はそうして勝ちを重ねてきた。自分よりも巨大な才能を相手にそうして賽の河原で詰むような思いを繰り返してここまで這い上がってきた。浅井響のような圧倒的なセンスも、島津銀乃介のような剛腕も、ましてや妹のように壊れた才能も、何一つとして無い彼女にはそれ以外の道が無かった。
 それが現実だ。
 自身に弟子入りを志願していた沙智をふと思う。彼女はこの対局をまだ見ているだろうか、呆れ果て幻滅して途中で帰ってしまったかも知れない。アマチュア有段もある人間であれば、今日の対局は途中で見るのを投げているかも知れない。見るに堪えない見苦しい棋譜だと笑う人間もいるだろう。だが、それならばそれで良いと思う。自分が彼女に伝えられるとすれば、自分の這い上がったこの地獄だけだろうから、沙智がこれを見て諦めるなら行く先の結論も変わらない。
 ノートを逆から見ることが出来たのなら、きっと自分は棋士を目指さなかったのだ。
 うなだれた木下が馬で飛車を取った。
 同玉と応じる、その動作で音をたてないようにそっと摘む。
 壮絶な泥仕合の果てに局面は先手勝ちに入れ替わった。残ったのは寂寥感すら漂う無残な棋譜と千代が得たただ一つの勝利だけだ。
 自分が残す棋譜には何が描かれているのだろうと、彼女は考える。
 一部の天才たちのように盤上真理を追究することも出来ず、ただ目先の一勝の為に遮二無二なっている自分の棋譜は、見る人に何を与える事ができるのだろう。
 それともやはり、あの日、旭日杯の会場で感じたように棋士は道化なのだろうか。棋譜を残すためでなく、地獄の底でもがき苦しむ様を見せて笑われる為だけに棋士とは在るのだろうか。
 答えなど出るはずもない。
 或いは答えがあるというのなら、それを自覚してもまだ指し続けている今の自分が答えなのだろう。棋士とは周りにどう見られようとも、その結果生き恥を晒すことになろうと、将棋を指す事を止められない人種なのだ。それがなければ死んだも同然の、どうしようもない人種なのだ。

 数十手後、投げ場を失い彷徨っていた壊れかけの木下は崩れるように投了を告げた。





 感想戦を終えると木下はそそくさと対局室を後にした。無理もない、感想戦では敢えて4六金に触れてやり、これなら間違いなく負けていたことを笑顔で伝えてやったのだ。
 感想戦は貴重な死体殴りの場とすることもできる。相手に苦手意識を植え付けて終えることが出来れば、次局以降も【一つ分】を先行して積み重ねることができるかも知れない。ましてや木下には散々唾を吐かれてきた件もある。今後暫くは白星を献上して貰えるよう取れる手段を徹底しても、千代に気後れはなかった。
 木下が去った対局室で一人、千代が盤の前で呆けていると、いつの間に入って来たのか銀乃介がいた。声をかけるでもなくただ立っている。
「どうしたの?」
 かすれた声で問うと、
「降りてこねえから迎えに来たんだよ」
言いながら、早くしろと手で催促している。
「悪いんだけど、今立てないの」
 自身の足を指して千代が応えると、愉快そうに笑いながら、
「背負ってやるから、早く帰るぞ」
盤側まで歩み寄り、しゃがみ込んで背を向けた。

 銀乃介に身を預けながらエレベーターに乗り込むと、何故か彼は二階を押した。
「帰るんじゃないの?」
「約束したんだろ」
「どうせ帰ってるって」
「いるさ、絶対に」
 自信ありげに断言する銀乃介は子どもを解っていないと千代は思う。
 子どもはとても正直で、とても残酷な生き物だ。
「あんな将棋見てまだ弟子になりたいって言うなら、ほんとに考えてあげるけどね」
「その言葉、忘れんなよ」
 言い合いながら、千代は自身の胸が僅かに高鳴るのを感じたが、疲労からそれもすぐに忘れた。たとえ沙智がいなくても、やり切ったという満足感が確かにあった。
 してみれば、千代にとってこれはちょっとしたオマケなのである。
 自分が選んだ道は間違いではなかったか――そんな事は下らない問いだったと極限までやり切った今はそう思う。正しいと出ても、間違いと出ても、所詮は今生きている現実のオマケに過ぎない。
 人生にやり直しなど出来るはずもないのだ。
 エレベーターが止まると道場へ足を向けるまでもなく橘一家が待っていた。既に解説会に来ていた客の姿は消えていたが、道場から撤収の作業音が届く中、薄暗い灯りのエレベーターホールに二人と殊更に小さな一つの影が立っていた。
「立てるか?」
 銀乃介に問われると千代は何だか妙に気恥ずかしくなり、小さく頷く。
 地に足を付けるとまだ感覚はおぼつかず、沙智に知られないように銀乃介の肩を借りる。どうにか体面だけは取り繕わなければと必死になっていた。
 当然帰っているものだと思っていたので、何を言うかは全く考えていない。
 まごついていると、先に声を発したのは沙智だった。
「弟子にしてください」
 ただの一言、ただその一言を聞いた途端に、千代は込み上げるものを堪えるのに必死になっていた。オマケであることは本当だったろう、どうあっても変えられないことも事実だ。それは子ども特有の、何気ない、気まぐれな一言であるのだ。容易く裏表が変わってしまうような、およそ成人した人間が言葉に込める信念めいたものなど何一つない、残酷な言葉だ。
 しかしそれでも、橘沙智という少女の一言は千代の全てを肯定してくれたように思えた。それが泡沫の幻であったとしても許せる夢だった。
「一日二枚、屋代先生と将棋を指して棋譜を採りなさい。それから、毎週一度、屋代先生が道場に来ない日にその棋譜を持ってうちに通いなさい。それを二年間続けられたら正式な弟子にしてあげる」
 そう答えるのが精一杯だった。これ以上言葉を続けたらきっと涙が溢れてしまうだろう。だから千代は鞄に突っ込んでいた扇子に自宅の住所を書きなぐって沙智に押し付けた。
「それもあげる、貴方が欲しがっていた物だから」
 そっと開いた沙智の表情が一瞬で笑顔に染まると、自分の将棋が誰かに、嘲笑ではない心からの笑顔を作れたことが、千代にとって何よりの幸せだった。





 結局足は元に戻らず、橘一家と別れた直後、エレベーターの中から自室のベッドに降ろされるまで、千代は銀乃介に背負われていた。情けないと思う余裕も無い、根性云々以前の問題として身体が持たないことを痛感する。
「お疲れだったな、今日そのまま寝ちまえよ」
「服、着替えさせてよ」
「いや……恥ずかしいじゃん」
「アンタ何言ってんの?」
 曲がりなりにも夫婦であろうに、目の前のすっとぼけた男はそんなことを言った。第一最初に押し倒したのはお前だろうと千代からすれば言いたくもなる。
「良いから、さっさと脱がせて。疲れてんだから」
 そう背を押してようやくずるずると動き出し、ぎこちない動作でスーツを脱がせていく。シャツのボタンを外した所でふと、銀乃介の手が止まった。晒に気付いたのだろう。
「お前これ、痛いだろ」
「痛いわよ」
 当たり前だと答えると、自然と頬は緩んでいた。
「女ってのは、苦労すんだな」
 解かれた晒にようやく深く息を吸うと、生き返るようだった。仰向けに寝転ぶと素肌に触れる空気の感触が気持ち良い。
「離婚するか?」
 ふと、銀乃介が言った。冗談のような内容だがどうやら大真面目らしい、千代には声で解る。どうせ面倒臭い事でも考えているのだろうということまで。
「別れたいの?」
「いや、全く……ただ、今日の将棋が指せるならお前もまだまだ上目指せると思ってな」
 なるほど、どうやら格付けを撤回するという趣旨の発言らしい。
 今度こそ千代は笑った。出来るだけ大笑いしてやりたかったが残念なことに体力が尽きており喉がからからと鳴るような力無い笑いだった。しかし笑った。
「無理無理、今日みたいな将棋を毎局指してたら死んじゃうもの。精々月に一回かな」
 ぼんやりと、霞んだ視界で天井を眺めながら言う。以前なら口に出すのも抵抗があっただろうが、今はさほど感じない。
「これからは順位戦に絞る。サラリーマンになってでも、あの子のこと見てあげたいし」
 内心で見下していた人種になろうという言葉も自然と口を出た。
「だからアンタとは別れない。タイトルの一つか二つは取って来ないと生活できないから、覚悟しなさい」
 ベッドに腰かけた男の手を引き寄せると、予期していなかったのだろう、崩れるように覆い被さられた。
「あと、今日勝ったご褒美」
 耳元で言ってやると、目に見えてドギマギしているのが面白い。普段は格好付けてスカしているくせにこういう所は案外ウブだ。
「アンタは上だけ見てなさい。心配かけたけど、もう大丈夫だから」
 首に手を回して頭を胸に抱きよせる。
 深く、深く、柔らかな場所へ沈みながら、ありがとうと千代は言った。




















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