二十五

 名人戦第四局観戦記 観戦記者・明野山脈記
『名人戦の歴史は六角源太と共にある。
 今期名人戦を語る文章であるにも関わらず現名人の頭越しにそのような表現を用いる事に些かの抵抗を感じないわけではないが、否定する人間はいまい。むしろ多くの愛好家はそれが明言されることに安堵を覚えるのではないか。
 六角源太現棋天位が初めて名人戦の舞台に登場したのは今から半世紀も昔の事になるが、以降通算で四十四期登場しうち二十九度獲得というのだから改めて数字にしてみると感嘆の念を覚えずにはいられない。
 二階堂秀行二十一世名人を主に相手とした二十年ほどの期間を皮切りに、その後は松永連盟会長や結城九段といった新人類世代を相手とした十年が続き、現代研究将棋の先駆けとなったことで知られるロクマル組との十年を経て、竹中重治現名人位を筆頭とした現代最前線の棋士達に至る――六角源太と名人戦の記録は即ち棋界の歴史に他ならない。
 さて、今期名人戦はいずれも熱局となっているがその結果は竹中現名人にとって厳しく、第四局となる本局を前にしてカド番を背負うこととなった。
 戦型は名人戦らしく全局相居飛車の将棋となり矢倉・横歩取り・角換わりと来ているが、いずれも挑戦者が圧倒する内容であった。殊に第三局の角換わりについては竹中も万全を期した内容であったろう。竹中が用意した局面は詳細な後日検討の結果も先手が指し易い局面とされているが、六角はその深山幽谷を覆う霞のような手順によって見事に体を入れ換えてみせた。この第三局の先手番を落としたことは竹中にとって痛恨事であったと思われる。
 本局の戦型は相掛かりからの先手棒銀の形となった。
 竹中の先手相掛かりと言うと直近では浅井現王竜を挑戦者に迎えた昨年の王竜戦第三局を思い起こす。両者の力を真っ向切ってぶつけ合った、文字通りの死闘でありまた名局であったが、同時に竹中からしてみれば失冠という憂き目に繋がった負の起点とも言える。
 しかしこの大一番で再び採用したということはそれだけ自信があるのであろう。対する六角も堂々と8四歩と決めて応じた。追い込まれた側が最後に託すのは当然最上の信頼を置く戦型であろうが、相手を知りてなお避けず己の力を誇示するが如く受けて立つ、実に名人戦に相応しい開幕の応酬と言えた。
【名人戦の六角源太は必ず二手目8四歩を指す】
 これは棋界の常識と言っても良い共通認識であり、控室の一同は開幕のやり取りを当然のように受け止めていた。初手2六歩であれば相掛かりか角換わり、初手7六歩であれば矢倉か角換わり。相手に戦型を選ばせる本当の意味での二手目8四歩である。
 数字で示せば更に解り易い。これまでに六角が登場した名人戦は全二百四十七局、うち後手番は百二十六局あり、その中で二手目8四歩は実に百十一局となる。振り飛車を指すことは絶無である。六角の振り飛車は裏芸の代名詞とも言えるほどであり、他の棋戦ではむしろ振り飛車八割と言っても良いものであるが、名人戦で最後に六角が飛車を振ったのは実に二十年も前に遡る。
 ――名人戦以外は棋界の金と政治の為に存在しているに過ぎない。
 かつて六角はそのように発言した。実際に数字が示しているように、他の棋戦と名人戦をあからさまに差を付けている事もあり、棋界内部でも相当な批判を浴びた。
 しかし六角はその姿勢を改めようとしなかった。批判を黙らせるかの如く棋界の頂点で勝ち続けた。
 それだけの情熱を名人という称号にかけている男が選択肢を相手に委ねる二手目8四歩に拘るのは妙にも思えるが、初日朝の控室で8四歩を見た松永連盟会長はこう語った。
 ――名人を名乗りたい訳ではないのですよ、あの方は。だから勝ち方にも拘らなければならない。そうでなければ勝ちも負けも等しく無価値な物になると考えている。
 また、二階堂秀行二十一世名人は十余年前の名人戦で六角の8四歩をこう評している。
 ――一度として自身を名人だと思ったことなど無いのだ。己を試している、自らがその器足り得るかを愚直なまでに問い続けている。あれはそういう男だ。
(続)』

「島津八段としては本局は竹中名人に勝ってほしいのではないですか?」
 聞き手の田口女流から朗らかに問われたが、銀乃介には意図がつかめなかった。
「何でです?」
 大盤解説と言ってもまだ初日、進む手の進行自体にもそれほど急激な変化は無く穏やかな手順解説をしているところだった。雑談交じりに本シリーズにおける竹中の苦戦が話題になったのだが、そうしているところで飛んできたのがその問いだ。
 竹中に勝って欲しい理由など何かあったろうかと頭の中を探っていると、
「シリーズ、長く続いて欲しいでしょう?」
そう言葉が続いた。
「まあ、そうですかね」
 敢えて口にする程の期待を持っている訳では無いが、ファンの事を考えればストレートであっさり決まるよりは熱戦になった方が良いのだろう。その程度の感覚で肯定する。
「やっぱり。棋天戦も近付いてますからね、竹中名人に頑張ってもらわないと」
 ニコニコと語る田口女流は本人曰く銀乃介のファンらしい。居飛車党なのかと尋ねると振り飛車メインだと返されて、その点も銀乃介には解らない。どうもサッパリ波長が合わない。
「いや、棋天のこと考えたらさっさと終わって欲しいっすけど」
「え、何でですか?」
 一事が万事この調子だ。
「六角先生も年だしさ、少しでも休んで貰わないと。良い将棋指したいし」
「はあ」
「まさかぶっ倒れる事は無いだろうけど……とか言ってっとまたあとで説教食らうんだな、これが」
 客席に向けてジョークを飛ばすと常連組は慣れたもので、良いぞーとか、それでこそ! とか威勢のいい声を返してくれる。いっそお前らが聞き手をやってくれないか、と心中で呟きたくなるような有難さだ。
「俺にとっちゃあ記念すべき初タイトルになる訳だし、やっぱ良い棋譜残したいからさ」
「なるほど……やっぱり先生格好良いです!」
 と、月並みな事を語ったつもりが今度は異常に食い付きが良い。田口女流のツボが今一どころかサッパリ掴めない。
「タイトルを獲るよりも良い棋譜を残す、やっぱり棋士はそういう考えが出来なきゃダメなんですね」
 どうにもやはり通じていない。――自分が初めてタイトルを奪取する棋譜はどうせなら良い物を残したい――ただそれだけの意味なのだが、何故伝わらないのだろう。
 下らない事で頭を抱えてしまいそうになるのを避け盤面を眺める。
 先手が銀を繰り出して後手の応手を尋ねる現局面、素直に3三銀と上がって壁銀を解消しながら受けるか、攻め味を見せつつ受けるのならば飛車の横効きを通すことも見据えて7筋の歩突きか、どちらにしても一局だろう。まだ初日であり暫くはそうした局面が続くはず――と、ごくごく短い時間でそう結論が出てしまうから困るのだ。実戦なら後の変化を含めてもう少し気合を入れて読むのだが解説が沈黙してしまう訳にもいかない。
「この将棋、田口さんならここからどう作ります?」
 半ば破れかぶれで話を振ってみた、振り飛車党だと自称している相手に相掛かりをどう作るかと聞くのは気が引けていたので今日初めての質問だった。
「え、先手ですか? 後手ですか?」
「竹中先生持ちなら先手で良いですよ、言ってくれれば私が後手持ちますので。取り敢えず後手が3三銀と上がったとして」
「それなら右銀を立て直したいので5六に引きます、遊んじゃいそうですし」
「なるほど、そしたら後手は7五歩」
「うーん……えーっと……それなら、6六歩?」
「へえ、ほうほう」
 田口は躊躇いがちに示した指し手だったが、その一言が銀乃介の心を楽にした。何だよちゃんと指せるじゃないか、という具合だ。
「あ、やっぱり変ですかね。普通に同歩なんでしょうか?」
「いやいや、変じゃない。例えばこのまま後手7六歩に同銀として7五歩とされたら?」
「それは6五歩とするのかなあと。居飛車を公式将棋で指したことないので自信無いんですけど、やっぱ変ですかね?」
「その心は?」
「後手のコビンに迫ってるし、先手の方が強いような気がしたので」
「そう、だから6六歩は変じゃない、良い手ってこと。田口さん飛車振らなくても良いんじゃないっすか、勿体ない」
 覇気を感じない、いかにも女性的な振る舞いを見せられていたから同じ将棋指しであることを忘れていたのかも知れない。将棋の話が出来るなら悩む必要など無い。
「無理ですよ、勉強してはいますけど」
「研究会では指すんだ?」
「一門研の時とかに、相居飛車は本当にお話にならないなって痛感しました。奨励会の子に教えて貰う時も全く勝てないですから」
「そういうもんですか、やりたきゃ指せば良いのに」
 一度普通に話せると口は一気に軽くなっていた。田口は困り笑いを隠さなかったが客席にはウケている。
「私一度島津先生に聞いてみたかったんですけど、飛車振ったことってあるんですか?」
「あー、無いっす。勝負将棋で指したのは奨励会の香落ちが最後かな」
「公式戦で振ったこと無いっていうのは有名ですし私も聞いたことあるんですけど、練習将棋とかでも全く?」
「指導で落とす時とかはまあ振るし、酒飲みながら遊ぶ程度では振るけど、練習で振る事もまず無いっすね」
「でも相手の立場で考えるのも勉強になるとか、言いません?」
「試した事はあるンすけど、サッパリ役に立たなかったんですわ。そもそも飛車振る理由が解らない人間が飛車振ってもロクな手見えないって話っす」
「飛車を振る……理由?」
 トントン弾んでいたはずの話題だったが、田口が怪訝な表情を見せた。銀乃介としても、そこで突っかかるんかい、と突っ込みを入れたいところだったが堪えて、
「ほら、駒の初期配置って角と飛車の効きが一点に向いてるじゃないですか」
続けて説明すると、今度は目を丸くして驚いている。
「え、初期配置の話になるんですか?」
「駒の効きを増やして攻めるってのが将棋の基本なんだから、わざわざ序盤の一手でその効きを他所にズラすってのが解らないんだ、俺には」
「はあ……でも、駒は動きますし」
「いや、それなら飛車じゃなくて歩とか銀を進める方に手をかけるべきでしょ?」
「飛車を振った方が勝ち易いとか、あるじゃないですか」
「へ? 普通に居飛車の方が勝ち易いでしょ?」
 何で解らないのだろうと思いながら眺めたら、どうしようかと本当に困っている田口の表情が可哀そうだったので、これ以上はやめにした。
 お互いに仕方なくなって視線を合わせて苦笑する。
 やっぱり田口さんとは合わねえやと再認識したその時、六角は7五歩を指した。


 大盤会場を交代する時間になり控室へ向かうと見慣れた面子が揃っていた。初日にしてはやや多いだろうか、やはり名人戦ともなると棋士の間での注目度も高い。動画サイトの解説は小寺が担当しているらしくその姿は見えないが、A級の他のメンツが揃い踏みしている控室というのはタイトル戦と言えどもそうあるものでは無い。
「お、居飛車星で生まれた居飛車マンじゃん」
 訳の解らない挨拶で声をかけてきたのは振り飛車の神とも言われる深田九段。ここ数年は居飛車も多少混ざるようになったが、一時は四間飛車のみでタイトルを奪取したという棋界でも珍しい人種だった。雑に手招きして継盤の向かいに座るよう促してくる。
「聞いてたンすか?」
「そりゃ聞くよ、一応田口さんの兄弟子だからね」
「そうでしたっけ」
 銀乃介にしてみれば深田という男は嫌いでなかった。年も二十近く上となればライバルのような意識は殆ど無いし指す将棋も面白い、幅広く研究会をやっている男だが、学者肌の気質故か若手のようなグループ感覚ともどこか縁遠い。要は、付き合うのに面倒臭さが無いのである。
「振り飛車はね、私のような一般人がゴリラを倒す為に編み出した飛び道具なんだ。解るかなあ、これ」
「ゴリラって将棋指すんですか?」
「君は文学的センスに欠けるなあ、比喩だよ比喩。居飛車のことに決まってるだろ」
「いや、わかんねっす」
「振り飛車は人類が編み出した技術なんだ。君みたいな才能お化けのゴリラ野郎が振るう暴力に対抗する為の武器なんだ。どうだい、こういうと偉大な発明みたいだろ」
「そういうのめんどくせえし、勝てるならステゴロで良いじゃないっすか」
「今物凄いゴリラ的思考回路してた。そう、居飛車って基本そういう人種、知的な人間は勝つ為に飛車を振るんだよなあ」
 無茶苦茶な説明ではあるが、少なくとも田口との会話よりは解り易いような気がする。
「で、居飛車星人的には次どうすると思う?」
「後手は普通に壁銀解消するでしょ。先手は5六銀と引いた時点でじっくり指したいんでしょうし、それこそ6六歩かと」
「さっき廣澤さんが後手持って5四角打ってたよ」
「7五歩突いて取ってですか。一目無理ですけど、何かあるんすか?」
「無い無い、初日の手遊び」
 駄弁りながら、対局室を映すモニターを横目に駒を動かしつつ茶をすする。
 控室を見渡しても継盤を弄っているのは銀乃介と深田くらいなもので他の人間は世間話をしたりこの辺りの観光マップを広げたり、初日の呑気な雰囲気そのものだ。
「さっきの話だけどさ」
「ゴリラと飛び道具?」
「そうだけどそうじゃない、居飛車と振り飛車の話……峯島君が怒ってたからさ、来期の順位戦は島津に絶対負けないって、凄い剣幕だった」
 峯島はタイトルの一つである赤兎位を有するA級棋士、無論振り飛車党である。深田の理論的な振り飛車とは異なる芸術的な捌きをウリにしており、その見栄えのする棋風から熱心なファンも人一倍多い。
「あの人も大概面倒臭いメンタルなンすよね……で、深田先生は怒ってないの?」
「私は振り党だけど、君の発言はそれなりに正論だと思うタイプだからね」
「それもそれで変わってますね」
「君に言われたかないよ。ま、峯島君が飛車振るのは君が8四歩突くのと同じようなものだし気持ちは理解してあげなさい」
「俺は別にこだわってる訳じゃないっすよ」
「ならたまには振りなよ」
「いや、でもやっぱ飛車振るのは無駄手っす」
 ハハハと笑いながら軽い調子で返すと、目の前の深田は深い溜息と共に頭を抱えて、
「君、峯島君の前では喋らない方が良いよ」
そうぼやいた。どうやら峯島の怒り方はかなりのものだったらしい。宥めるのに苦労したのだろう。

『――初日の終局時刻も近付き控室ではもう指さないのではと囁かれ始めていたが、方針が明確になった分だけ進め易かったのであろうか、互いの指し手が暗黙の了解であるかのように、封じ手前の三十分足らずで六手ほど一気に進んだ。
 棒銀に出た銀が大旋回して銀矢倉に収まった先手に対し、後手陣は発展性にはとぼしい中住まいであるが、その分の手数で左右の銀桂を総動員して攻めの力を溜めている。明日は後手の攻めを先手が受ける将棋になるという見方で控室の意見は一致しており、中でも居飛車の専門家である島津八段は本局を先手が厚いと見た。曰く、後手は上部を開かれて入玉される点も警戒する必要があり、どこかで攻めを焦らされる展開になる可能性もあるという見立てだ。いずれにせよ本局の主導権は先手が握ったと島津八段は語る。
 ――攻守どちらも先手の誘導が利きやすい、後手は辛抱する展開になるのではないか。
 まだ大勢は不明であるという前提があるにせよ、この島津の意見は控室の見方を端的に表していると言ってよかった。(続)』

 地元の棋士からリサーチしておいた居酒屋で軽く一杯引っかけようかと銀乃介が深田に持ちかけたところ他に数名の検討組が名乗りを上げ、それに情報欲しさの記者が混じると二桁近い人数になる。この人数で押しかけて大丈夫だろうかという不安もあったが、店に行ってしまえばどうにかこうにか奥座敷に収まった。
 取りあえずの生を終えて冷に進むと、酔いの回りが良すぎたのだろうか、深田は何故かゴリラの生態について語り始めた。銀乃介が飽きれながら付き合っていると、
「深田さん、少し島津君を借りても良いかな」
助け舟を出すようにして隣に座りこんだのは記者の明野だった。棋界における名物記者の一人であり、銀乃介にしてみれば父親より年上の相手だが、奨励会の頃から何かと声をかけてくれる知人には違いない。
「深田さんの酒は愉快で良いが、私も島津君に聞いておきたい事があるんだ」
 話をぶった切られた深田は苦笑しながら、しかし素直に他の相手を探しに行った。現役A級のトッププロを相手にこのような物言いが出来る記者は明野くらいのものだ。プロになる人間は大抵奨励会の頃から明野の存在を知っており、当時から棋士に近い立ち位置で会館を動き回るこの名物記者を見てきている。そうした過去を引きずるのではないが互いの関係性というものはプロになってからもそう簡単には変わらない。
「聞きたい事って何すか?」
「ズバリ棋天戦への意気込みと、それを踏まえての本局への感想ってところかな」
 媚びるのではなく友人のような感覚で、それとなく行われるインタビュー。棋界という世界はその狭さ故か、表舞台に立つ人間とそれを報道する側が当たり前のように知り合いであり、全てはその関係性の中で語られると言ってよい。
 そして銀乃介は、率直に表現してしまえば、この明野という記者が得意ではなかった。
「意気込みっすか、そっすねえ……まあ頑張りますよ。今日の将棋は相居飛車ですけど、名人戦以外なら普通に振る人ですから、あんまり参考にはならんでしょうね」
 記者でも幸田などとは個人的な付き合いも深いが、その関係は奨励会時代からの繋がりがあってこそだし、何より幸田が棋界において大した力を持っていないから保てているのだと考えている。極端な表現をすれば、幸田に何を話した所でそれは二人の関係に留まるバカ話であって勝負には毛程も影響しない。少なくとも銀乃介はそう考えているから幸田との付き合いを続けられる。
「六角先生は振るとしたら四間だろうけど、現状では何か考えてるかい? あ、勿論オフレコだから安心して」
 明野はそうではない。明野は全ての関係者から【ある種の信頼】を寄せられている存在であり、彼が語る内容は重みを持って関係者に流通する。
 例えば明野に“あの戦型はもう駄目だ”と語れば、その発言は知らないうちに棋士の間で流通する。見立てが正しければその棋士の信頼に代わり、逆に頓珍漢な見立てであったならば評価は下がる。そうしたパイプが明野という記者にはあり、それを積極的に活用しようと親密な関係を築く棋士もいるが、そもそもからして研究会などの集団主義から一線を引いている銀乃介にとってはあまり関わりたい人種では無い。
 本人がそう望んでいるかは定かでないが、明野という記者は棋界の政治、勝負にも影響を与えるだろう人間関係の中枢として機能していた。
「どうせなら位取りの将棋とかしてみたいっすね、六角先生そういうの得意でしょ」
「確かにそうだねえ。最近は対抗形でも囲いあいが普通になっちゃったから、厚み重視の将棋はなかなか見られない。ファンとしても見たい将棋だ」
 それでも邪険に扱えないのは、明野という人間のキャラクター故だろう。
 例えば明野は才能の有無に関わらず全ての奨励会員に丁寧に接するし気を遣う、奨励会を辞めても会館や何かの席で会った際には忘れずに挨拶をする姿を見かけるし、その姿勢はプロに対しても変わらず、上位の棋士と下位の棋士で態度を変えることも無い。目先の損得で人間関係を見ている人間には出来ないだろう人付き合いを、誰よりも古くから棋界で続けているのだ。だからこそ、明野のパイプは棋界の至る所に繋がっており、そこには政治的な面倒事も付いて回る。
「最近の将棋は対抗形といったらすぐに穴熊だからね。先生たちの立場も解るが、見る側としてはそういう将棋も見たいものだ」
 そう語る明野は政治的な要素など欠片も見えないただの将棋好きなのだ。白く染まった頭を掻きながら鼻の頭を赤く染めて、私はやはり君の将棋が好きだと呟く、そんな男だ。
「それはそうと島津君、浅井君にも君の闘魂を注入してやってくれまいか!」
 真顔で言うのは冗談半分本気半分と言った内容だった。
「アレだけの才能があるというのに、少し将棋が軽すぎる。腰を重くして捻じり合う将棋も指せなくては」
「そりゃ明野さんが見たい将棋でしょうが」
「バレたかい?」
 突っ込みを入れると膝を叩いて威勢よく笑い、
「彼とはあまり付き合いが無くてね。こうしてお酒を飲む機会でもあればと思うが、話す機会もまるで無いし、正直なところ彼という人間が良く解らないんだ」
そんな風に続けた。明野をしてこう言わしめる棋士など棋界で響くらいのものではないかと銀乃介は思う。
 おおよそ十一歳の奨励会入会から三年余りでプロデビューし、そこから二年と半年程で初タイトルの王竜位を奪取。奨励会入会前にアマチュアの大会などへ出場した記録は無いはずだから、してみれば浅井響は棋界の表舞台で将棋を指すようになってから僅か五年でその頂点に上りつめたという事になる。実績だけ取り上げれば近代将棋の枠組みを超えて江戸まで遡っても前代未聞、歴史上類を見ないレベルの化物だろう。
 そしてそれだけの超出世であるが故に、浅井響の棋界における人脈はほぼ無い。銀乃介にしても自身を棋界では外様の部類だと考えているが、響はその銀乃介や周辺人物くらいしか知人と呼べる知人がいないのではないだろうか。明野のような情報通をしても“良く解らない”としか表現出来ない棋士なのだ。
「彼は本当に謎だね、棋界に襲来したインベーダーのようにも見える」
「話せば普通のガキっすよ、将棋がすこぶる強いクソガキ」
「そうか……いや、なるほど。君がそう言うのなら少しは安心できる」
 明野はそう言うと手元の酒を一息に煽った。いかにも人間臭いその姿に、この男が棋界の関係者で無ければ飲み友達になっていただろうと銀乃介は思う。
『――封じ手は戦いを起こす後手7六歩、報道陣の退出を待ってから竹中は同銀右とする。後5五銀左、先7五歩としてから後手から9五歩を突いて端に手を付けた。
 先手には8八玉と6七金右の二手が明確に見えているが、後手としては中住まいと四枚矢倉では勝負にならないのだから指される訳にいかない、であれば囲いが完全になる前に攻め破るしかないという理屈であろうが、その思考自体が攻めを急がされているようにも思える。初日に聞かれた評判は手が進むにつれて盤面に明確に現れるようになり、昼食頃の控室は難解としながらも先手ペースという見方が強まっていた。
 そうした時に指されたのが先7四角であった。理屈では9四歩と端を取り込まれた際の9二歩を見せると同時に8五桂を止めており後手の端攻めをとがめようという意図であるが、8三金と上がられて角が死ぬ事が見えているだけに指すには度胸が必要となる。
 ――じっくり指す方針であっても言いなりは嫌という事でしょう、そうでなければ名人戦の六角先生は倒せない。
 そう評したのはA級の廣澤九段だ。同じくA級の加藤八段と継盤を挟みながら、自身が過去に挑戦した名人戦を振り返るように語った。
 ――名人戦の六角先生は攻守共に次元が違う。どれだけ細い攻めも繋ぐしこちらが自信を持てる攻め形でも受けきられる。それはきっと気持ちの問題、気迫だ。六角先生の名人に懸ける気持ちの強さに知らない間に委縮させられてしまう。だからこそ、主張できなければ勝てない。
 以降、後手は8八歩に先同玉とさせてから――先手の入城を助ける一手とも見えるが玉の当たりを強くしたという主張であろう――想定通りに8三金と角を捕まえに行く。
 控室ではここで先手から6五歩と焦点に歩を突いて行く手が有力視されており、先6五歩・後7四金・先同歩・後6五桂・先同銀・後同銀に先7五金と打って飛車と銀の両取り、その局面がどうかというのが主な検討局面となっていたが、実戦の先手は9五歩と端に手を戻した。
 実戦が進んでからも控室では7五金の両取り以下をもう少し掘り下げたが、両取逃げるべからずの格言通りに飛車取りに構わず7六歩と打って進めてみると、どうやら先ほどの8八歩が絶妙手となるようだ。数手進めた局面で先手玉の当たりが強すぎる反面、後手玉は飛車一枚では左辺に逃げて寄りが無く、後手有望の変化でまとまった。
 6五歩以降の結論が出ると控室には感嘆の声が漏れた。相手の玉を固めるお手伝いにも見えた8八歩ですら後手の攻めを繋げる重要な鍵として機能している。つまり両対局者は最低限そこまでか、或いはそれ以上の変化を織り込んだ上で現在の盤面を選択したということになる。
 将棋観戦の常として対局者以上に局面を読めている人間などいないものであるが、こうして実戦に現れなかった無言のやり取りに気が付かされる瞬間こそ、最も純度の高い将棋の歓びではないだろうか。
 以降、7四金・同歩・同飛・7五歩・8四飛・6七金と進み、ついに先手の四枚矢倉が完成した。駒割は角金交換で後手が得とも言えるが玉の固さでは先手が圧勝である。
 ――後手から動かなければいけない局面だが、どこから手を付けて良いのか解らない。
 控室で継盤の後手を持つ棋士からは一様にそういった趣旨の言葉が聞かれた。このままじっくりと手が進めば固さを主張する先手が良くなる一方だが、後手からの有効な打開策が見えないのだという。
 時刻は三時を回りお互いに残り時間が気にかかる頃となった。先手の残り二時間に対して後手は残り三時間あり、こちらは後手に余裕がある。(続)』

 旅館の玄関脇で煙草を吹かしていると、学生服姿の高校生が欠伸交じりに歩いてくるのが目に入った。明野山脈をして棋界のインベーダーと言わしめたこの高校生は、対局場が神奈川である事から日中の学校を終えてからでも間に合うだろうと、当日夜の大盤解説会にキャスティングされたのだという。
 松永からの勅命だというオファーを耳にした時に彼が見せた子供のような――実際子供なのだが――拗ねた表情を思い出すと、知らぬうちに間抜けな笑みが浮かんでいたらしい。
「思い出し笑いする奴って大抵スケベらしいぞ」
 出し抜けに言う響の頭を軽く叩きながら、
「男はスケベなくらいがちょうど良いんだよ、覚えとけ」
銀乃介は検討室への先を行った。

 響が控室に姿を見せるとちょっとしたどよめきが起きた。
 無理もないかも知れない、学生という立場もあって響が現地控室に来る事は滅多に無い。奨励会時代に経験はあるかと問えば、学校生活の合間に通った僅か三年足らずの期間ではそんな暇もあるはずが無いというのが答えだろう。
「現地控室って初か?」
 いつもの生意気な雰囲気がすっかり失せて借りて来た猫のようになっている響に問うと、
「そうだよ……なんか緊張する」
とやはり素直過ぎて却って銀乃介の調子が崩れそうだった。
「控室デビューより先に自分のタイトル獲っちまったって訳か」
「悪いかよ」
「悪くはねえよ、ムカつくけどな」
 自覚があるのか無いのか、これもまた記者が知れば喜んでネタにしそうな小話だが棋士としては面白くないこともまた事実、敢えて自分から話してやることはすまいと銀乃介は決めた。
 適当な盤を借り対面に響を座らせる。
「何か妙に見られてないか? 何か俺変なことしたのか?」
「ツチノコ見かけたようなもんだろ。良いから気にすんな、初手から並べるぞ」
 言われてみれば確かに、遠巻きに感じる視線が強かった。上位棋士の数名は公式戦で既に当たった人間もいるだろうが、まだ当たっていない棋士や記者がこれだけ近い距離感で浅井響を見るのは初めてだったのだろう。明野のインベーダーという評もこの反応を知れば頷くよりない。
「――で、現局面。後手から再度7四歩を合せたってところだが、どう見る」
「5八金と6七金で比較して考えれば取って取ってに7五で銀交換して飛車回りなんじゃないか。銀交換した時に先手から8四銀7五金で飛車抑え込む筋も無い」
「理屈は解るが龍を作ってどうにかって局面とも見えないんだよな。左辺がガラ空きだ」
「って言うかこうなった時点で後手としてはそうするより無いんじゃないか。逆に言えば先手の駒は盤の半分に偏ってる訳だから、後手としても入玉狙うってのは自然だよ」
「そりゃそうだが、手損してるみてえなんだよなあ。何か他にありそうなもんだが」
「銀は手数の損得とか手の流れに拘り過ぎなんだよ、局面で判断しろって。実際5八金のままならこの合わせは成立しないんだから」
「そういうもんかね。で、結論お前はどっち持ちだよ」
「んー……竜作るところまで進めば正確には先手が良いんだろうけど、後手が楽そう」
「ほう、楽ときたか」
「先手が攻めを焦らされる感じになるんだよな」
 響がふと漏らした【攻めを焦らされる】というワンフレーズで周囲が静まりかえったのが銀乃介にも解った。これまでは世間話をするポーズくらいは取りながら聞き耳を立てていたのが、それすら忘れてしまったのだろう。
「……俺、なんかマズい事言ったのか?」
「いんや、全然。実際ここまで進めばお前の言ってることは解るよ」
 今まで控室は【後手が先手に焦らされる展開】という評判で固まっていた。そこに突然噂のインベーダーがやって来て【焦らされるのは先手】と評した。空気が変わるのは自然なことだ。
 銀乃介にしても、竜を作る所まで局面を進めてみれば響の評は理解出来る。先手は入玉を抑えつつ攻め切らなければならないが駒が自玉の周辺に偏り過ぎて苦労しそうだ。なるほど確かに、ここまで進めば焦るのは先手だろう。
 だからこそ、周囲の反応は大袈裟に思えた。例えばこの発言が小寺や他のA級のものであったらば、ああ言われてみればそうだね、程度に受け入れられて認識を改めるだけなのだろうが、浅井響が言ったから、あの天才が言うのだから、自分たちが今まで考えてきた検討は全く間違っていたのではないか。そんな風に受け止めている棋士もいるのかも知れない。
「ナイーブ過ぎんだよ、ホント」
 実際に盤を挟んでいないから、浅井響の実績だけを眺めているから、きっと彼らは自分の中で化物のような浅井響の幻影を作り上げてしまっているのだろう。そしてそうなってしまったら、きっと彼らは響に勝てない。
「ただのクソガキなんだけどなあ」
 ふと漏れたぼやきに、
「うっせえな、喧嘩売ってんのかよ」
 一々反応してくるあたり本当にクソガキだと、少なくとも銀乃介は思う。
「そういうとこがおこちゃまなんだよ、お前は」
「ったく……あ、そうだ。千代から預かりもんあったんだ」
「何だよ、ラブレターか何かか?」
「そんな可愛げのある嫁貰ったのかよお前……ほいよ」
 と、響がバッグから取り出したのは大きめのタッパーが四つほど。
「カレー貰って来いだとさ。割り当ては俺がチキン、お前ビーフ、二つずつだからな」
 思わず継盤につんのめりそうになりながら、素直に持ってくるコイツも大概立花の家に染まっているなと目の前の響に苦笑する。
 本局対局場となっている旅館では、棋界のタイトル戦の時だけに振る舞われる特別製のカレーが存在する。関係者には割とよく知られている事で、まあ絶品なのである。
「検討中失礼します。私、観戦記者の明野と申します」
 気が付いた時には、カレーで生まれた一瞬の空白を縫って明野が入り込んでいた。
「先ほどの先手が焦らされるというお話、もう少し詳しくお教え頂けないでしょうか」
 言いながら明野は銀乃介にちらと視線を向けてきており、さりげなく場を取り持つように言ってきている。銀乃介としても、これ以上響が妙な誤解を持たれないようにするには簡単な面通しだけでもしておくべきだろうと思った。明野に挨拶しておけば情報は勝手に伝播する。
「響、こちら明野さん。お前も名前くらいは知ってるだろ、俺らが生まれる前から観戦記書いてる人。嫌われると怖いんだから、ちゃんと挨拶しとけよ」
「本当に勘弁してくれよ島津君、誤解されるだろ……でも、浅井王竜、浅井君とお話したことはまだ無かったから一度ご挨拶したかったんだ」
 柔らかな物腰で明野は言った。響の出方を伺っているのかも知れない。
「ああ、いえ……ご丁寧に、ありがとうございます」
 突然の来訪者であることに違いない。響の返答は多少固いだろうか、これなら憎まれ口を叩くことも無いだろうと安堵する面もあるがこのままでは会話も弾むまい。
「お前の事が良く解らねえんだとさ。明野さんに何か話しとかねえと、この先ずっと珍獣扱いだぞ」
 気が付けば適当に茶々を入れて会話を進めていた。

「――という訳で、多分間違え易いのは先手かなっていう程度なんですけど。後手は先手に対応する感じの将棋でしょうから」
 響が通り一辺倒の話をする合間にも明野は神妙な面持ちで頷きながら、ふむとか、おおとか、時に大袈裟にも思える相槌を打っていたが、それは記者として培った技術なのだろう。無反応な相手との会話程苦労することは無い、それならば多少大袈裟でも伝わり易いリアクションをしてやった方が相手の口も滑らかになるという寸法だ。
「なるほど、前日までは後手の方が攻めを焦る展開に見えていましたが、そういう見方もあるのですね」
 手元のメモ帳に忙しくペンを走らせながら、明野はちらと響のバッグに視線をやると、
「将棋とは関係が無いのですが、先ほどのタッパーは?」
将棋に関する取材は一段落という事だろう。気の置けない話題を察知する術にもまた長けているようだった。
「ああ、千代というか、立花千代女王から言われたので……あの、私はよく立花さんの家にお世話になっていまして、言い出しっぺはどうも囲碁の立花鑑連さんらしいんですけど、ここのカレーを貰って来いと」
 しどろもどろの説明に銀乃介は堪え切れなくなり、
「お世話になってるっつーか、殆ど住んでるだろお前も」
爆笑しながら口を挟んでいた。
「ってか、カレーの件言い出したのおっちゃんなの?」
「自分のタイトル戦の時に食い損ねたんだと、昨日から延々言い始めたらしい。面倒臭いから貰ってきてくれって頼まれた」
「段々ボケジジイみたいな行動になってんな」
「そうなったらお前も介護すんだぞ、マジで義理の親じゃん」
「勘弁しろよめんどくせえ、碁打てなくなったら老人ホーム送りだ」
「おばさんの事考えろよ、可哀そうじゃん」
「おばちゃんがいる間はそもそもボケねえよ、多分な」
 話し出すと明野そっちのけで普段の馬鹿話にシフトしてしまい、これでは何ともしまらない。ふと我に返った銀乃介が明野に視線を向けると、呆気に取られたような表情だ。
「いやあ……本当に普通の子だな、驚いた」
 先ほどまでの相槌とはやや趣が違う呟きだった。きっとそれは込められた実感が何よりの演出となっていたのだろう。
「どんな天才かと思っていたけど、将棋がすこぶる強い普通の高校生ってのは本当だったんだね」
 そうして微笑んだ明野を見て、ようやく銀乃介もほっとした思いだった。訳の解らないインベーダーなどではなく、普通の将棋が異常に強い高校生として認知して貰えれば妙な噂を立てられることも無いだろう。
「ところで、浅井君はどんな経緯で六角先生の弟子になったんだい?」
 思い立ったように話題を振った明野も、すっかり浅井響を一般的な取材対象として見ているようだった。その言葉には微塵も固さを感じない。
「前々から気になってはいたんだよ。多分あの方は一生弟子を取らないんだろうって言われていたのに、突然だったからね」
 響は少し考えるような間を置いてから、
「祖父が知り合いだったみたいですけど、詳しい事は」
「おじいさん、将棋を指すのかい?」
「まあ、そうですね。あんまり大っぴらには言えないですけど真剣だったらしいです」
「名前は?」
「浅井十兵衛」
「へえ、聞いたことないなあ。でも六角先生が引き受けるんだから相当な方だろう」
「もう死んじゃいましたけどね」
 響の方も慣れたようでざっくばらんな受け答えが出来ている。これなら気を回してやる必要も無いだろうと、銀乃介は緑茶の入った湯飲みを片手に二人のやり取りを眺めることにした。

 夕食休憩明けからの大盤解説会は響と銀乃介のダブル解説という事となった。本来なら銀乃介の出番は予定されていなかったが、大盤解説会のデビュー戦という新人への配慮ということらしい、控室にふらりと現れた松永の即断即決に銀乃介がごねる時間は与えられなかった。
「――んで、現局面はここから後手が4四歩を突いて先手が考慮中と」
 局面は控室で語られていた通り、後手が竜を作り先手は7三にと金を作って左辺を制圧した。響曰く先手が間違えやすい展開とのことだ。
「残り時間は先手が三十分、後手が一時間少しですから、先手にとっては決断の頃合かも知れませんね」
 後手の玉が露出しており攻め駒も迫っている為先手が良く見えるが、8八歩を絡めた端の折衷がここに来て効果を見せており先手玉も相当な危険を孕んでいる。例えば、現局面から7七歩と放り込んで同金寄に9六歩と垂らすのが一例で、6八銀と捻じ込んで同金に7九角と打てば一気に寄ってしまう。と、そんな解説をしていた所だった。
「それでもまあ、正しく指せば先手が良いんでしょうね」
「師匠が負けるのは残念か?」
 大盤を眺めながら漏らした響をからかうように言うと、本人が笑ってしまうような内容だったらしい。
「言われるまで師匠って事忘れてた、そんな感じだよ」
 苦笑しながらの響の発言に会場は今日一番の笑いが起きた、恐らく冗談で言っていると思っているのかも知れない。当の本人は大真面目な感想であろうが。
「一回も指した事無いし、それどころかまともに話した事無いから、どういう人かも解んないんだよな……と、先手指したな」
 ――先7九歩。7九角を消して後手の楽しみであった7七歩を大幅に緩和するのが直接の狙いだろうか。
「おー、辛い。元祖激辛流としてはどうよ、この手は」
「良い手なんじゃないの。実際7七歩の筋さえ緩和すれば先手玉の安全度は格段に上がるし、俺もこれ指すと思う。後手は顔面で来るしか無いけど、飛車引いた後の応手が難しくなる意味もあるから」
 語る響はこれでも解り易く解説しているつもりだから仕方ない。コイツの聞き手はさぞ苦労しただろうと、先日のネット中継で見事に役回りを果たしていた慈乃の意外な活躍に気付かされる思いだったが、さておき固まっている観客を放っておくことはできない。
「つまりだ、ここから後手が入玉含みで4三玉とした時に先手は3五飛と引くが、そこで銀取りと3四金の両狙いがある。後手がこれを両方受けるには4五銀打しかないが、予め7九歩と打っておく事でこれに力強く5六金と出て行ける、っていう意味ね」
 大盤の駒をペタンペタンと動かしてやると客席からおお、と感嘆の声が漏れる。
「そうそう、それそれ」
 客を置いてけぼりにしていたことに気が付いたのだろう、調子を合わせるように言った表情には多少の照れ隠しも見えている。
「もう少し客の事考えて話してやらんとダメだな、お前は」
「……解ってるよ、すみません」
 そうして客席から起こる温かい拍手に、頭を下げるだけで好感度が上がるのだから得な役回りだと、ひねた感想が浮かぶのも致し方あるまい。

『――しかして、六角は4三玉と前へ出る。大盤解説会でも触れられていたが、控室でも3五飛と引いて先手に得な変化だと見られている。しかしここで4三玉としておかなければいきなり3三飛成と飛車を切る手が有効だった。同金に2五桂、3四金に3五桂と追撃で金を玉から引き剥がせばと金との挟撃で先手の勝ち筋という結論が出ている。
 4三玉と3五飛の交換が止むを得ないものであるならば、先手の7九歩は当然ここまで読み切っての絶妙手であろう。
 その後は検討通りに手が進み先3五飛・後4五銀に絶妙の先手5六金。ここに来て先手の優勢で控室の見解は一致したが、一方で勝ち切るのは大変な将棋であるという声も多く聞かれていた。
 そうした空気の中で指されたのが後手にとっては待望となる7七歩であった。7九角の筋は消されているが同桂と跳ねさせれば先手玉に迫る速度は格段に上がる。以降先同桂に後3四歩・先4五飛・後同桂・先5五金と進んで後2八飛と打ち下ろした。
 これは7八飛成が厳しく、同歩にはこの将棋で幾度も出てきた後手7九角であるし同玉も6八金と打って8八玉に7九竜・9七玉・9九竜と追って9八の桂合に(桂以外の合駒は詰む)構わず同竜と切って後手が勝つとされる。よって先手は玉の早逃げ等で一度受けるのではないかと言われていたが、竹中は3六桂と打って控室がどよめいた。
 確かに4四金から4三銀と押さえて行く形で先手の金気が足りており詰めろになってはいるが非常に危険な選択である。
 ――後手の追い込みが激しく先手が焦らされている。
 検討用の継盤が進むにつれて、控室でもそうした声が聞こえ始めた。ここに来て本局は形勢不明に逆戻りしたのである。(続)』

 後手7八飛成から間を置かずに先手9七玉が指されると大盤会場は静かな盛り上がりを見せた。本局の内容もそうだが激戦となるにつれて銀乃介と響が読みに本腰を入れ始めたことが大きかった。時折客を無視したかのようなやり取りが出る事もまた観客からすれば現役トップの二名が真剣に読みを入れる姿を間近に見られるのだから貴重な光景という事だろうか。
「――つまり後手は桂成で竜通すとかして4四金と入られないようにするんだが、そこで何かしたら7八の竜を8八に入って逃げて9九と追って、ここで合駒を使わせられるから後手玉への詰めろが消えるという理屈だな。8八竜に同玉とするのは7九竜と捨ててほぼ詰みだから、詰めろ逃れのほぼ詰めろみたいな手だ」
 ツラツラと読み上げながら大盤の駒を動かすと観客の反応はまばらだ。速度が速すぎて着いてこられないのかも知れないが止むを得まい。残り時間も無くなり既に竹中は秒読みに入っている、とすればあまり悠長に過ぎた手を解説している訳にはいかない。
「桂成以外にも4四に利きを増やせば良い訳だから3五角なんかもあるかも知れませんが、相手玉に迫る事を考えれば盤上の駒を活用する桂成が自然ですかね。何かの拍子に引いた竜の横効きが先手の頭を押さえる形になるかも知れませんし」
 大分慣れたらしい響は客席に一切目を向けずに、しかし言葉は解り易くかみ砕いているようだった。視線はモニターに向けて延々と盤面を読みふけっている。
「お、指した。5七桂成と」
「やっぱ名人強いですね」
「俺は勝ったけど、ってか?」
「あー、そういや勝ったな。俺強いじゃん、みたいな」
 とは言えネタを挟むこともきちんと忘れない。こういう軽口が自然と出る辺り、互いに慣れた相手であることは有難かった。
sage