七
         七の一

 七月を新人王戦準々決勝の白星で締めくくると八月も順位戦の白星から幸先良く始まり続く王竜戦本戦準決勝。
 ここまでくれば洒落や冗談ではなく現役高校生棋士によるタイトル挑戦の可能性が出てきたと、俄に主催新聞社もざわめきだし、挑戦者となった際にDVDに編集して販売するのだという、皮算用にも程があるドキュメント映像の撮影班が張り込むようになっていた。
 対局相手の吉川元春八段は一組一位、予選決勝では小寺二冠を破るなど波に乗っており、今期順位戦はB1級で戦っているが昨年はA級に在籍していた三十代の指し盛り、間違いなくトッププロの一人である。同じくB級1組で順位戦を争う銀乃介からの前情報では『こういう九割方A級のオッサンを蹴落とせないと上に行けなくなる辺りがB1とB2の差』とのことである。
 裏を返せばここで吉川を喰えるのならA級にも力の差などないということ、老いた師匠をそうそう待たせておく訳にもいかないだろう――と、自身にハッパをかけて望んだ勝負は後手番を引き一手損角換わりを採用、穴熊に玉を落としてから相手矢倉をペリペリ剥がして攻略し、一五一手での勝利。トッププロを相手に、もう飛車振らなくても良いんじゃないかな、と思えてしまうほどの完勝だった。
 夏休みに入ってからというもの、将棋のことだけを考えられる環境がこれほど有難いとはと自分で戸惑ってしまうほどの絶好調で、近頃の響はまるで負ける気がしない。





         七の二

 王竜位挑戦者決定戦は三番勝負で行われ、初戦は盆の中日から、一週間隔で行われる。響にとっては初めての番勝負となるが特別な緊張を感じることもなく、忙しくなりそうな盆を前に夏休みの課題をさっさと済ませて墓参りしてしまおうと、実家へ帰郷する鈍行に揺られていているところだ。
 都内から電車に揺られて二時間弱、森と山以外には何も無いような田舎町。中学時代にはさしたる友人関係もなく、将棋に集中できる環境を求めて現在のアパートに引っ越してからは完全に縁が切れている。帰ったところで特別な楽しみがある訳ではないが、偶には両親に顔を見せてやらないと可哀想であるし、それにあの蔵で詰め将棋でも解いてみれば気分転換になるだろうと、そんなのんびりとした気分での短い旅路――となるはずだった。
「響ちゃんの家ってどんなところ?」
 一人身であったならそうなっていたのだ。
「お前んちみたいに綺麗じゃないからな……文句言うなよ」
「言う訳ないじゃん、響ちゃんの家だもん」
 響の帰郷に鑑連以下立花家全員が揃って家を空ける状況が重なると、慈乃は当然の如くついてくると言い出した。それを見ていた千代は一人にしておくよりも安心だと同意し、立花の母に至っては響の返答も聞かずに荷造りを開始、ただ一人鑑連だけが拒否していたがそれも母に押さえ込まれると純粋な多数決が尊重されることとなり、今の状況は三対二で可決された結果である。
「その年になっても一人で留守番任せて貰えないとか……これまでどうしてたんだよ」
「今まではお母さんがいたもん」
「いや、おじさんの付き添いとかこれまでもあっただろ?」
「お父さんの付き添いするようになったのは響ちゃんが高校上がってからだよ。響ちゃんがこっちで一人暮らし始めたから安心して出かけられるって」
 一人暮らしを始めてから二年目に聞かされた、衝撃の事実だった。立花家にとって、響は完全に慈乃当番として扱われているらしい。
 電車はようやく中間地点を通過しようという所だが、早くもぐったりである。


 懐かしい改札を抜け、迎えに来てくれた母との挨拶も短く済ませて車に乗り込む。
 慈乃は、人見知りしているのだろう、借りてきた猫のように大人しくなっており、騒がれるよりはマシだがこれもこれで気持ち悪い。
 道中は、ちゃんと食べているかとか、この前の放送協会杯を録画しただとか、将棋のことは知らないけどお金を稼いでいるからって天狗になっちゃいけないよとか、将棋に詳しい人がアンタの将棋を嫌っているみたいで心配だとか、そんなありがちなやりとりだった。
「俺の将棋嫌ってるって、誰がさ」
「よく知らないけど、将棋の専門誌とか。記者さんに失礼な態度取ってるんじゃないの?」
「偶々見たのがそういう人の記事だったんだろ。記者さんにも好き嫌いはあるよ」
 全く興味の無い世界の専門誌までチェックして、気に掛けてくれている親のありがたみに、親不孝を自覚して申し訳なくなる。
「響ちゃんは……棋風はともかく、普段は礼儀正しいって、言われてます」
 それまで黙っていた慈乃がぼそりと言う。親の前でちゃん付けされるのは精神的に辛いが、今更言っても慈乃が余計に混乱するだけなのは目に見えており諦めるより仕方ない。慈乃は幼いところのある人間だが気にしないでやって欲しいと、前もって伝えてあるから大丈夫だろう。
「立花さんがそう言ってくれると安心できるわ……この子がナントカ会に通ってる頃からずっとお世話になってるんでしょう? 申し訳ないわねえ、今まで御挨拶にも伺えなくて。本当に、将棋のことなんて何も解らない家族だから、この子がどうしているか心配で」
「しの……慈乃でいい」
「そう、じゃあ慈乃ちゃん、有難う。今日はゆっくりしていって、ご馳走作るからね」
 母の対応力の高さに密かに感謝する響だった。

 車で山道を三〇分ほど、腰を落ち着けてしまってからでは出るのが面倒になるからと、先に墓参りへ向かう。墓所は、足下から蛇がにょろりと顔を出すのも日常といった、木々に囲まれた辺鄙な場所に位置しており、ここの獣道を行くのは温室育ちな慈乃には辛いだろうから、車で待つ母と話でもしていれば良いと、響は伝えたのだが、それを受け入れるようなタチでもない。ギャアギャア、やれ虫が肌に触れただの足下を蛇が通っただのと逐一騒がしくされながら、祖父の墓へと辿り着くのに普段の倍は時間が掛かってしまった。
 平凡な墓である。何の変哲もない、葉隠れに佇む苔生した墓である。
「浅井十兵衛がここにいる、か」
 もしも六角がこの墓を見たら、自らの執着している人間が行き着いた場所の虚しさに気を萎えさせてしまうかも知れない。小寺から聞かされた名人殺しも、この墓を見てしまえば虚しい戯言としか感じられない。
「十兵衛さんって言うの?」
「俺が初めて将棋指した人だよ」
「響ちゃんのおじいちゃんなら、やっぱり強かった?」
「それが、覚えてないんだよな。一局しか指してないし、その棋譜も忘れちまった」
 これほど綺麗に忘れてしまうことなどあるのだろうかと、自分でも不思議に思うほどに覚えていない。居飛車だったか振り飛車だったか、初手は角道を開けたのだったか、囲いは何だったのか、何一つとして覚えていない。
「ただ、振り駒はしたんだ。やれって言われたから」
「先手貰わなかったんだ」
「ああ……今までに指したどの将棋よりも真剣だった気がする」
 人は美を記憶に留めることが出来ないのだろうか、それとも人が記憶を失った時に存在が美へと変わるのだろうか。考えながら線香に火を点けた。






         七の三

 食事の仕度が調う前に祖母への挨拶も済ませておこうと、慈乃を連れて部屋を尋ねると、年に衰えた雰囲気も見えず、気ままに裁縫をしていた。おやまあお帰りとにこやかな笑顔は相変わらず、お嬢様育ちなのだと聞いているが、考えてみれば、響は祖父同様に祖母の過去も殆ど知らない。後で祖父のことを教えてくれと頼むと、それだけで察したのか、私の知っている範囲であればと、その表情がほんの少し曇ったように見えたのは、見間違いというわけではなかっただろう。
「そちらが、響がお世話になっているお家のお嬢さんかしら」
 向けられた慈乃はびくりと身体を震わせた。
「ああ、違うの。無理して話さなくていいのよ……私もねえ、慈乃ちゃんって言ったかしら、あなたみたいな子だったから、気持ちは解るわ。知らない人と話すの、難しいのよね」
 高校生に対する接し方とも見えないが、言われた慈乃はありがとうと消え入りそうな声で呟き、どうやら多少は緊張が解けたらしい。
「慈乃ちゃんは、将棋できるのかしら」
「うん……できる」
「それは良かったわ。私は出来なかったから、悲しいことも多くて」
 祖母はそう言うと、色々と混じり合った笑顔だった。

 役場の仕事から帰ってきた父は、いたのか、とそれだけだったが、本当は父さんが一番アンタのこと気にしているんだよと母から小声で教えられる。放送協会杯も父が放送予定を調べたらしいとか、当日は詳しくも無い癖に画面を睨んでいたとか、将棋も勉強しているようだから後で相手をしてやってくれとか――そんな話をされると、裸玉でやればそれなりになるだろうか、しかしそれでは流石に可哀想かと、ここもまた悩みどころだ。
 食卓に並べられた懐かしい料理を味わう一方で、テレビ画面ではブルーレイ録画された先日の放送協会杯が再生されており、画面に映る自分の姿という、いかにも非日常な体験に多少の気味悪さを感じてしまう。何も食っている時に流さなくても良いだろうと思いながらも、この家においては父に逆らえない響である。
「ここで馬を引いたのは、6七の銀にヒモを付ける意味もあって――」
 当初は緊張しきりでまともに話せなかった慈乃も、盤面を解説することで自然と話せるようになっていた。
「なるほど……折角攻めていたのにどうして引くのか解らなかったが、そういう意図か」
 慈乃の解説は的確で、初心者ばかりの家族でも、盤面の意味が読み取れるようになったらしい。母などは、将棋って案外面白いのねえ、と今更なことに感心している。
「解説が古い人だから、面白くない手みたいな言い方してるけど、すごくいい手だよ」
 響は放送された映像を初めて見たが、自分の将棋が好き放題に扱われているのは気分の良いものでなかった。解説は校長とあだ名されている同じくB級二組の肝付七段。純粋に棋力のみで比較すれば響には負ける要素の無い相手だろうが、一般紙などでも将棋コラムを持つ露出度の高い棋士であり、そして同時に、格調という言葉をやたらと愛している彼は響の将棋を毛虫の如く嫌っていた。
「それにこれ、肝付先生が言ってる筋じゃ詰まないよ。歩が一枚足らないもん……もっとまともな解説呼べば良いのに」
「そういう言い方はやめろ。プロなんだし、ましてや全国放送なら魅せる手指せって意見はあって当然」
 響は決して表立って言い返さない。影で愚痴を言ってスッキリしてしまったら、対局で当たったときに鬱憤を晴らせなくなるからだ。腹の中に溜め込んでおいた方が実際に面と向かった時に気合いが入る。陰湿な考え方だと理解はしているが、勝負に集中できるならその方が良い。
 表情を変えないまま、口に含んだヒレカツを喰い千切る。


 食後、二枚落ちで父と盤――初心者の癖にわざわざ高い物を買ったらしい、良い駒音が鳴る――を挟みながら、祖父の話を切り出す。
「俺もジイさんの事は知らん……と、慈乃ちゃんこれはどうしたら良い」
 二枚落ちではハンデが足りなすぎるだろうと、慈乃の助言も許可してあった。
「知らないってことは無いだろ、息子なんだから。たとえば仕事とかは?」
「本当に知らんのだ、外で働いてるようにも見えなかったが。ほとんど毎日蔵に籠もっていたな……と、これで良いかい?」
「どうやって食ってたんだよ」
「さあな……バアさんの実家絡みかな、本当に解らんよ」
 要領を得ない返答にどうやら本当に何も知らないらしいと悟り、これはさっさと終わらせて祖母に話を聞いた方がよさそうだと、響は少々本気を出すことにした。

 大人げなく勝利した後、父の指導は慈乃に押しつけ祖母の部屋へ向かう。祖母は察していたようで、家族でも聞かれたくないからと、例の、蔵の鍵を用意していた。
 田舎の夜は月と星だけで十分に明るい。蚊取り線香を手に夜の庭を渡り、錠前を開けると、久方ぶりの匂いは変わらなかったが、響が使わなくなってからも手を入れているとのことで、蔵はむしろ出て行く前よりも整理されているようだった。
「響は将棋をするから、いずれ話さなきゃと思っていたのだけどね、機会が無くて」
「こっちも事情があるのは解ったつもりで聞いてるよ。父さん母さんには言わないさ」
 応じた響に、ありがとう、と一息置いてから、祖母は始めた。
「まずは私のことから話した方が良いのかしら……今まで黙っていたけれども、私は関西の方の、古い極道の家の生まれでね、十兵衛さんはそこで将棋を指していたの」
 衝撃的な出だしだった。小寺から聞いた話との整合性はあるとは言え、目の前の穏やかな祖母がヤクザの系譜にあったという告白は驚きを禁じ得ない。
「言い訳に聞こえるでしょうけど、今のヤクザとは違うのよ。戦前の話だから地元の親分みたいな家よ……まあでも、極道よね」
 これは確かに人に話せないことだ。父などは、田舎の役場とはいえ仮にも公務員として勤めているのだから、アンタはヤクザの孫でした、などとは口が裂けても語れまい。
「十兵衛さん、右の腕が無かったでしょう。あれも、私の家のせいでなくしてしまったの」
「戦争じゃなかったの?」
「戦争なんて行ってないもの、腕をなくしていたから行かずにすんだのよ……一五年の頃だったかしらねえ……ああ、昭和一五年だから西暦で言うと一九四〇年。その時は大きな家との付き合いがあって、十兵衛さんも余興に呼ばれたの」
「余興って……将棋?」
「そう。その席で、相手の親分の顔を潰してしまったのですって」
 理解は出来ないが、想像は出来るような気がした。そして同時に、何故か安堵のようなものを感じていた。祖父が相手の地位に応じて加減をするような、在野のゴロと同レベルの勝負師ではなかったことが嬉しかったのかも知れない。
「私の家からも、追い出されるだけならまだしも、命を狙われるようになってしまってね……でも、私には都合が良かったのよ」
「何でさ」
「十兵衛さん、私のことなんてまるで興味が無かったから、ああでもならなかったら機会が無かったもの」
「命の危機に、そんな悠長な」
「本当に楽しかったのよ。十兵衛さんが将棋で稼いで、そのお金でまた全国を巡って強い人を探す、多少危険な新婚旅行よ。戦争が終わる頃にはこの家を買って、結婚していた」
 正しく、書いて字の如くの極道暮らしだ。
「っていうか、その頃二人ともまだ十代でしょ?」
 単純に計算すれば当時の祖母は現代の中学生、祖父にしても三つか四つ上という程度のはずだ。
「四〇年に数えで十三だったかしら、十兵衛さんはちょうど今の響くらいよ……良く似ているもの、性格までそっくりだわ」
 いつもと変わらない調子で言う祖母を見て、ああこの人は間違いなく極道の血を引いていると響は思い直した。この穏やかな性質は、決して育ちが良いという訳ではなく、多少の荒れには動じない精神があるからこそ、或いは気付いてすらいないからこそ、いかなる時も穏やかでいられるのだ。
「それで、響は将棋の話が聞きたいのよね?」
「ああ……そう、そうだった」
 衝撃的な話が多すぎて、思わず本題を忘れかけていた。
「名人狩りみたいなことしてたって、連盟が金積んで口止めしてたって、そんな話を聞いたんだけどさ……本当なの?」
 祖母は小さく頷いて、きっとその通りだ、と答えた。
「この家を買ってからは、毎年梅雨が終わる頃になると将棋の方が来てね、それから一週間近くこの蔵に籠もるの。私は絶対に近付くなって言われていたから、覗いたことが無いけれど、あの時の十兵衛さんは目が昔に戻っていた。怖かったけれど、嬉しそうだった」
「ばあちゃんはさ……そんな金で暮らしてることに、疑問は無かったの?」
 響の素朴な一言に祖母は驚いたような表情を見せたが、
「言われてみたら、確かに堅気のお金ではないけれど……元から極道の娘だからね、深く考えたことも無かったわよ」
当たり前と言えば当たり前の反応だ。
「ただ、十兵衛さんは嫌だったのかも知れない。蔵から出てきて、あちらの付き添いの方がお金の話を始める段になると、全部私に押しつけていたから」
 仮に祖父の立場にあったとしたらやはり同じ事をしただろう。
「どうして表に出なかったのかな、それほど強かったのに」
 会話の流れから口に出したが、答えは既に知っている。
「さあ……あそこは違うって、それだけしか答えてくれなかったわ」
 金ではなく名誉でもない、祖父十兵衛が求めたもの。
「響には、理解できてしまうのでしょうね」
 呟いた祖母の瞳は水鏡のように、月明かりが悲しげに滑っていった。
         七の四

 祖母が部屋に帰ってから、響は一人蔵に残り、蔵に残しておいた、例の対局相手の名が記されていない棋譜を眺めていた。蔵には電気が通っておらず、古行燈の薄暈けた朱のみが頼りである。
 指し込み制を採用していたのだろう、平手で指されたものの方が少なく、また駒落ちでも十兵衛は全て勝利している。もしもこれが本当に当時の名人を相手に指した記録であるのならば、六角の、あの異常なまでの執念にも頷けるが、幾ら何でも名人を相手に駒落ち勝負というのは信じがたく、実際に盤に並べてみようと、盤を引っ張り出した所で慈乃が現れた。
「響ちゃんここにいるからって、おばあさんが教えてくれた」
「ちょうどいいや。棋譜並べるから、手伝え」
 入り込んできた慈乃に棋譜を渡し、盤に駒を並べていく。
「響ちゃんのおじいちゃんと……相手の名前無いね。誰なの?」
「さあな、俺も知らない」
 何も言わずに並べてみて、慈乃が指し手を認めるようならば、本当にそうなのだろう。
 行燈の揺らめきの中、二人が無言で盤を弾くと、幼い頃の響が祖父の背中越しに聞いた、懐かしい駒音だった。

「指し込んでるけど……これ、相手も凄く強いよね」
 並べ終えた慈乃は嘆息するでもなし、ごく当たり前のように言った。
「相手は歴代名人の誰かって言われたら、お前は信じるか?」
「響ちゃんはどうなの」
「判断出来ないんだよ。小さい頃から見ていたせいか、客観的に判断しかねる」
 並大抵の棋譜ではないことはプロとしての目で見れば明らかだった。実際の所、慈乃に判断を委ねたのは、一人の将棋指しとして、祖父のしでかした事の大きさを認められない部分があったのだろう。
「だから、お前の感覚で良い」
 慈乃は僅かな間を置いてから、はっきりと頷いた。
「私は信じるかな、少なくとも当時のトップの人だと思う。序盤は時代が違うから何とも言えないけど、中盤の流れに関しては文句なく、今でもこれだけ指せる人は殆どいないよ」
 それから細かに一手一手を検討していく中でも、慈乃の考えは揺るがず、むしろ確固としたものになっていったらしい、最後には、この人相手なら誰が指しても勝てないと断言するまでになっていた。
「響ちゃんも、こんな風になるのかな」
「どうした、急に」
「そうなったら楽しいんだろうなあって思ったの……それだけ」
 盤から駒を片付ける際、慈乃は呟き、それ以上の追求を逃れるように曖昧に笑った。



 翌日の昼過ぎ、大きな棋戦で勝ち残っているから、もしかしたら暫く世間に注目されるかも知れないが、あまり動揺しないでくれと、王竜戦に関する前置きを一言残してから、響は短い帰郷を終えた。
 帰りの電車でも慈乃は何やかんやと話しかけてきたが、響はそれを相手にすることなく、ただ一つの事だけを考えていた。
 名人に香を引く――その行為は将棋指しにとって幸福なのだろうか、それとも不幸なのだろうか。
 現実に為した十兵衛の心中など、今の響には到底察することも出来ない。





          七の五

 盆の中日に初戦が行われた王竜挑戦者決定戦の対局相手は現神座位諏訪四郎九段、四八歳でのタイトル保有は六角を除いて現役最高齢の古豪である。一番は響の後手番から諏訪神座の新石田流を受け切っての勝利となった。
 あと一つ勝てばいよいよタイトル挑戦と主催新聞社の興奮も高まるばかり、その他メディアもお蔵入りする可能性を考慮していないのか、現役高校生棋士タイトル獲得への道のりなどという仰々しい取材が申し込まれるようになり、無論響は連盟から厳命されている主催新聞社と将棋専門メディアのものを除いて全て断った。将棋の普及活動というものをきちんと考え、棋界の未来に繋がる行動を取れる棋士は立派だと思うが、現状ではそんな余裕も無く、また、タイトルというだけで騒ぎ立てる風潮も好きではない。という内容を銀乃介に語ったところ、彼は嫉妬を隠さずに拳骨を一つ響の頭へ落としていった。
 ――転じて立花家近所にある神社の小さな夏祭り。響は慣れない浴衣の袖をプラプラと揺らしながら露店で買ったイカ焼きを咥えて金魚を掬う慈乃を待っている。番勝負二局目は明後日、わざわざこの時期に祭も無いだろうとは思うのだが、約束をしてしまった以上は仕方がない。慈乃は例の約束通り、夏休み中のリーグ戦を全勝し、後の結果を待つことなく既にプロ入りを決めている。
「響ちゃんもやりなよ」
「いいよ、取っても水槽なんて無いし」
「うちの池で飼えば良いじゃん」
「市松に食われるだろ」
「市松はそんなことしないよ」
 市松は少しぶさいくなだけで良い子なのに、などとぶつくさぼやきながら、見れば既に六匹ほど取っているらしい。テキ屋のオヤジの表情も、そろそろ帰ってくれよ、という方へ変化するだろう。
「あ……破けた」
 良い頃合いだ。
 ほっとした表情のオヤジに入れて貰った、金魚袋のピンクの紐を手首から垂らして、次に慈乃が向かったのは型抜きの屋台。
「ねえ、響ちゃんもやろうよ」
「やらない。苦手なんだっつーの、こういう手先がプルプルしてくるのは」
 無視して歩き出せば慈乃も後からついて来た。
「響ちゃん、ぶきっちょだよね、字もヘタだし……タイトル戦の時に困るよ?」
 タイトル戦の揮毫を言っているのだろう。
「お前も、気が早いな……境内の方行くぞ、一休みする」
 受け流し、人混みから距離を取るように静かな暗い道を行く。馴染みの境内には影もなく、夏の終わりを告げるような弱々しい蝉の声が聞こえる。
 本殿への階段に腰を下ろすと、隣に座った慈乃が、いつの間に買っていたのか、綿飴に顔ごと突っ込むようにしながら言った。
「タイトル、興味無いの?」
 だって普段と全然変わらないからと、間抜けな癖に鋭い指摘だ。
「無くはないだろ、多分な……でも、解らない。タイトル戦とそれ以外の棋戦ってそんなにはっきり分けて考えないといけないもんかなってのは、最近の周り見てると、少し思う」
 そこで得る一勝、或いは一敗に、価値の差は存在しているのだろうか。少なくとも周りは、明確にあると捉えているらしい。それはつまり、将棋指しが不敗という頂点を目指すことが既に放棄されているという現実でもある。
「名人だって、今はタイトルの一つじゃん」
「そうだけどな……タイトル獲ればそれで名人ってのも、何か、違う気がするよ」
 祖父の存在を知ってしまってから、連盟の行っている順位戦、その先にある名人戦というものの価値さえ揺らいでいるような気がしていた。在野の真剣師に香を引かれた人間を名人と称する、その制度に何の意味があるだろう。
 名人とは、指定された対局を制すれば名乗れるものなのだろうか。年に一度代わるような交代制名人は、それは果たして名人なのか。究極、いずれは他者に負ける、それも一度ではなく何度も負ける人間を、名人と認めてしまうような制度に価値はあるのだろうか。
「ガキの妄想なんだけどな……名人に襲位した人間は、負けちゃいけない存在な気がする」
 祖父の存在を知ったせいだろう。生涯不敗という戦績自体は未だ確かでないが、少なくとも、祖父が実家で暮らすようになって、あの蔵で指した将棋には、負け将棋が存在していないのだろうから――ならば名人こそ不敗でなければならない。
「じゃあ、響ちゃんがなれば良いじゃん。不敗の名人」
「こんなの……人に聞かれたら何されても文句言えないような話だよな」
 響が自らの不遜に気が付き会話を打ち切ると、慈乃はそんな心中などおかまい無しという風に、脳天気に綿飴をむさぼり食っていた。








         七の六

 王竜のタイトル保持者は竹中重治現名人。昨年六角源太から奪取した名人位を今年度も防衛しており、名人が六角源太の独占称号と化している現代において通算名人在位四期は現役棋士中の最多回数。タイトル獲得は通算十期を数え、響が神座位挑決トーナメントで敗れた小寺と並んで東の竹中西の小寺とうたわれる、打倒六角世代の大将格である。
 棋界最高峰への挑戦権を賭けた三番勝負第二局は響の先手より。

 ――先7六歩、後3四歩、先6六歩、後8四歩、先6八飛――
 先手四間から穴熊の予定、諏訪神座のパターンからすれば居飛車穴熊に囲ってくるはず、相穴熊の展開となるだろう。相穴熊なら居飛車有利とも言われるが、こちとら振り飛車で食っている、とまで言う気は既に無いが信頼できる戦術だ。格上であろうとも食らわせてやる自信は十分にある。
 ――後6二銀、先4八玉、後4二玉、先3八玉、後3二玉、先7八銀、後5四歩、先2八玉、後3三角、先6七銀、後5三銀、先1八香、後2二玉――
 左美濃は無く相穴となった。どちらの熊が居心地の良い寝床を作るかだが、引き籠もり免許皆伝を有する響熊、コミュ力の無さには定評がありその点において死角はない。
 ――先1九玉、後8五歩、先7七角、後1二香、先5六銀、後4四銀、先4六歩、後3二金、先2八銀、後1一玉、先5八金左、後2二銀――
 ここで3九金とは焦らず、
 ――先4八金寄――
5筋に飛車を回す手の広さを確保。引き籠もりライフをエンジョイする為には食料確保の為に近所のコンビニを把握しておくことが前提となるが、複数の系列を用意しておいた方が食生活に飽きが来なくて良い、ということだ。
 ――後7四歩、先3九金、後1四歩、先3六歩、後4二角、先6五歩、後5一金、先4五歩、後3三銀引、先4七銀、後7二飛――
 銀が5筋を空けて飛車道を確保したところにちょっかいを出してきた、といった所か。6六角と受ければ8二飛と戻され千日手が見えてしまい、このまま勢いで押し切りたい響としては指し直しは頂けない。打開する方法としては、結局のところ5六歩とついていくしかないのだがと、多少時間をかけて慎重に読む。
 先5六歩から後7五歩、先同歩、後同飛、先5五歩、後8六歩、先同歩、後7三桂と跳ねられると悠長にはしていられない、先5四歩から後6五桂、ここで角を切って先3三角成、後同銀、先7六歩、後同飛、先6五飛、後7九飛成と入り込まれる流れが最有力だろうが、そこから先6三飛成、それとも思い切って先5三銀と打ってみるか。いずれにせよ角切りも銀桂二枚換えなら悪くなく、局面自体も良いと見え、次の一手は決まった。
 ――先5六歩、後7五歩、先同歩、後同飛、先5五歩、後8六歩、先同歩、後7三桂、先5四歩、後6五桂、先3三角成、後同銀、先7六歩、後同飛、先6五飛、後7九飛成、先5三銀――
 読み通りの流れだ。以降6三飛成ではどうにも面白みに欠ける、穴熊の強みである重い一手をカチ込んでおこうと5三銀。
 ――後7四角、先6七飛、後8九竜、先4二銀成、後同金上、先5三歩成、後同金、先7七飛、後7六歩、先同飛、後7三歩、先6二角、後5二金――
 ここで金を引いてくれるなら7三と引いて絶好の位置に馬が出来る。5五桂などで反撃されるよりは有難い手だった。
 ――先7三角成、後6五角、先7五飛、後6四銀、先6五飛、後同銀、先3八金寄――
 相手の二枚飛車となったがここで寝床が完成、こうなってしまえばそう簡単に引っ張り出されるほど響の熊は素直でない。
 ――後5六歩、先5八歩、後5七桂、先9八角、後6九竜、先5五馬、後7六歩、先8七角、後6七竜、先3五歩――
 3五歩で急所を捉えた。はっきりと勝ちを意識できる形勢。
 ――後5九飛、先3四歩、後2二銀、先3三桂――
 この局面、穴熊は寄せ合いを制する為の保険になる。盤石の囲いさえあれば空いた隙間から即刺せるのだ。
 ――後4九桂成、先同金、後同飛成、先2一桂成、後同玉、先2五桂、後4一桂、先3三桂打、後3一玉、先9六角、後4二玉、先6四歩、後5三玉――
 引き籠もりの資質に関しては響の完勝といった具合に、相手玉は既に顔面受けの様相を呈している。
 ――先6三歩成、後同金、先同角成、後同玉、先6四金、後5二玉、先4一桂成、後6九竜上、先3九金、後4七竜、先6五馬――
 詰めろの一手。最早勝ちは確定しているが、まだ息は抜けない。勝ちを確信した瞬間にこそ最も大きなスキが生まれると、銀乃介から借りた漫画で勇者の家庭教師がそのようなことを言っていた気がする。
 ――後4一玉、先4四桂、後3七桂――
 この詰めろははっきりと形作り。
 ――先7四馬――
 ここで諏訪神座がありませんと投了、以て百二一手の勝利。
 礼を終えてから熱く火照った額に手をやって呆けていると、いつの間に対局室へ入ってきたのか、ドキュメンタリーの撮影班がカメラを向けている事に後から気が付き、確実に間抜けな顔を撮られたことだろう。


sage