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速筆百物語
012_チーズ牛丼が旨すぎて

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チーズ牛丼が旨すぎて

 年の瀬も迫った十二月三十日、私は一人、すき家へと向かった。説明の必要もないだろうが、すき家とは牛丼を主力商品とした外食小売りチェーンである。牛丼と言えば吉野家であり、その他はおしなべてパチもんであると考えていたのだが、「あれ、俺、特盛り頼んだはずなのに、なんでこんなに肉少ないの?」という体験を何度か味わい、その上でネットの悪評を聞き及んだものだから、今ではすっかりすき家派となってしまった。以来、吉野家に行ったのは、牛鍋丼が出た時の一度きりである。
 外は凍えるほどの寒さだ。ハンドルを握る手がかじかむ。車通りも少なく、町は普段よりも暗く思えた。5分ほど車を走らせると、赤色の看板と店の明かりが見えてくる。すき家だ。私は駐車場に入り車を降りた。私以外に車はなく、店のガラスは真っ白に曇っていた。
 重い扉を押し開け店内に入る。客は誰もいない。貸し切りだ。私はカウンターに座り、店員を待った。だが来ない。厨房の方に視線を向けてみると、男女の店員がこちらに背を向け、何やら作業をしている。そういえば、いらっしゃいませの言葉もなかった。まあ、こんな年の瀬に働いているんだ。そう忙しいわけでもなかっただろうし、私に気付かなかったとしても仕様がない。そう思い、呼び出しボタンを押すと、男女の店員は揃って振り返った。何か睨まれたような気がするが、まさか、そんなことはあるまい。被害者意識も大概にすべきと、私は自分を戒めた。
 半分ほどしか入っていない水を持ってきた背のでかい女店員に、チーズ牛丼特盛りを注文する。すき家と言えばチーズ牛丼である。他の牛丼が好みである方もいるだろうが、残念ながらそれは間違いである。これほどに互いを尊重し合う食材の組み合わせを私は知らない。あんことコーヒー、たくあんと牛乳という至高の組み合わせすらも、遥かに凌駕した代物なのである。
 顔のねじがゆるんでいそうな男店員が『これはチーズ牛丼である』という旨を聞き取りづらい発音で私に伝え、丼の乗った四角い盆を私の前に置いた。柔らかく煮込まれた肉の香りと、とろりとしたチーズのまろやかな香りが、くんづほぐれつ混ざり合い、私の鼻から口内までを、たちまちのうちに満たしてしまった。
 唾液が溜まってくる。私ははやる気持ちを抑え、テーブルの紅しょうがに手を伸ばした。牛肉とチーズの組み合わせは至高である。しかし、これではまだ完成形とは言えないのだ。私はチーズ牛丼の上に紅しょうがを乗せていく。平らにならせば肉が見えなくなるほどの量だから、かなり多い。「おいおい、そんなに紅しょうが乗せたら、しょうがの味しかしなくなっちゃうじゃーん」などと考えたのであれば、それはチーズ牛丼の真髄を知らぬという証拠になる。牛丼とチーズ、両者の醸し出すハーモニーはハイレベルであると共に、非常にハイカロリーなのだ。無策で挑めば、最初は旨かったがすぐに飽きちゃった、という事態に陥りかねない。そこで紅しょうがである。乗せればいいのだ。ただひたすらに。紅しょうがの鋭さを、チーズ牛丼は聖母の如きやわらかさで受け止めてくれるのだから。
 ごはんの端を箸で崩す。そこに肉と紅しょうがを落とし込み混ぜる。これは前哨戦だ。ここで己の体調を鑑みながら、ほどよい味のバランスを見つけ出しておく。それと同時に、肉とごはんとチーズに調整を施す。大抵の場合、本来あるべきバランスと比べてごはんが多いはずだ。先の『今日求めている味』を考慮に入れ、ごはんを減らしていく。当然、無理をして白米のみをもそもそ食べる必要はないのだ。あとの楽しみのために、ほんの少しだけ薄味のバランスを楽しめばよい。それでもチーズ牛丼は、私たちに十分な喜びを与えてくれるだろう。
 ごはんの三分の一ほどを食した。空洞になった場所を薄切り肉のカーテンが覆っている。ここまでで初回の紅しょうがは食べ切った。今日は紅しょうがを強めでいきたい気分である。私はすぐ脇にキープしていた紅しょうが入れに再び手を伸ばした。初回にも増してかける。たっぷりと紅しょうがをかける。
 準備が整い、私は紅しょうがのたっぷり乗ったチーズ牛丼を思い切り混ぜた。まるでビビンバを食べる時のように、ひたすらに混ぜる。肉と、チーズと、紅しょうがと、ごはんがひとつになり、チーズ牛丼のあるべき姿になっていく。一口分を箸でつまむ。そのひとかたまりに全てがあった。肉も、チーズも、紅しょうがも、つゆの染みたごはんも、全てがあったのだ。肉汁の香り、チーズの香り、紅しょうがの香り、どれもが鼻腔をくすぐり、個を主張しながらも、完璧なチームワークで私の嗅覚を支配していくのだ。
 私はチーズ牛丼を口に含む。ちょうどチーズのところだ。こってりとしたまろやかさは完全に牛肉と一体化していて、思わず目を閉じ、味覚に神経を集中させてしまう。口中を駆け回る暴力的な脂肪分の誘惑。そこに流れる一陣の風、それが紅しょうが。どちらかが勝つことはない。互いに押しつ戻りつ、口内はひとつの味に留まることなく、万物は流転し、味と味とのハルマゲドンは今ここに幕を開けたのである。
 しかし、至福の時はすぐに過ぎ去る。丼に満たされていたチーズ牛丼は、もはやあと二口、三口を残すのみである。最終段階、私は残るチーズ牛丼に七味を思い切りふりかけた。完成された味にじわりとした辛みが加わる。大好きな本を読み終わった時と同じように、美味しいものを食べ終えると少し淋しい。その感覚があまり好きではないから、最後の最後で変化を加えることにより、これは終わりではなく、新たな始まりだと思うようにしているのだ。
 私は空になった丼を置き、箸を置く。ちょっと足りなかった水を氷まで飲み干し、紙ナプキンで口を拭き、席を立つ。レジには男の方がいた。おそらく『少々お待ち下さい』という旨のことを言ったのだと思うが、発音が悪いせいで『ちょっと待って』と言われたような気がしてしまう。いま、私は心から自分が好きだと思えるものを食べて、幸せの絶頂にいる。だから、客が私しかいないのに、会計よりも伝票整理を優先させる、顔のねじのゆるんだ男店員の態度など、歯牙にもかけぬ心持ちでいられるのだ。
 男店員はレジ操作に手間取った後、料金を私に告げた。財布に千円札が一枚残っていたが、私は一万円札を出した。男店員は千円札を九枚取り出し、自分でだけ確認して私に渡してきた。私は小銭を受け取る前に枚数を確認した。札の向きはバラバラで湿っていた。残る小銭を受け取り店を出る。背中から「ありがとうございましたー」という男女両方の店員の声が聞こえた。外は来た時にも増して寒かったが、空腹が満たされたのでなんでもないように思えた。
 チーズ牛丼は旨すぎる。だからまた、近いうちに来るとしよう。

       

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