Neetel Inside ニートノベル
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速筆百物語
016_Dash!!

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Dash!!

「間もなく上小田井、上小田井です。地下鉄鶴舞線はお乗り換えです」

 ぎゅうぎゅうの車内にアナウンスが流れると、私の乗った名古屋方面行きの名鉄電車は、ゆるやかにスピードを落とし始めた。隣で吊り革につかまっていたスーツの人が、私に触らないよう、慣性に逆らって体を引いている。ちょっと当たったぐらいで、痴漢だとか言わないのにな……と思うけど、私がどういうタイプの人間かなんて、電車で隣り合っただけではわかるはずがない。スーツを着てるから、この人はサラリーマンだ、って思うのと同じように、この人にとっての私は、制服を着た女子高生という無個性な記号だ。「私はあなたが考えているより、たぶんまともで、話だってちゃんとできます」って言ってやりたくなるけど、そんなことはもちろん言えないまま、満員電車は上小田井のホームに停まり、ぷしゅー、と空気の抜ける音を鳴らして扉を開いた。
 電車から我先にと人が降りて、出遅れた私は「降りまーす」と声を上げながら、狭い隙間をかき分けていく。扉の近くまでたどりついた時には、もう人が乗り始めていて、私はもみくちゃになりながら、何とかホームに降りることができた。ふぅ、と息をついて振り返ってみると、ぱんぱんになっている電車に、あとからあとから人が乗り込もうとしている。駅員さんは、なかなか扉を閉められないでいた。
 朝の上小田井は、名古屋方面へ行く名鉄と、丸の内・栄方面への鶴舞線に乗り換える人で、嫌になるくらい混み合う。私は降りたホームの向かい側に停まっている、青いラインが窓の下に引かれた銀色の地下鉄――赤池行きの鶴舞線に乗り換えた。こっちもそれなりに混んではいるけど、周りの人とぶつかるほどではないし、名鉄と比べたらだいぶ余裕がある。しばらくすると、名鉄と鶴舞線の発車ベルが鳴り、ふたつの電車の扉が、同じタイミングで閉まった。
 鶴舞線は、人ではち切れそうな名鉄電車と並んで走りだす。名鉄電車はくすんだ赤一色で、なんとなく消防車を思い出してしまう。小さい頃、私は消防車とか救急車のサイレンが怖くて、トランペットを吹いているような名鉄の警笛(ミュージックホーンというらしい)もすごく怖かったけど、いつの間にか、なんでもなくなっていた。知らないうちに自分が変わってしまう。いまの私は、そっちの方が怖く感じた。
 しばらく走ると、鶴舞線は地下に向かって坂を下り始める。同じ速さの名鉄を見ていると、私の乗った鶴舞線がゆっくりと沈んでいくみたいだ。名鉄が見えなくなってしまうあたりで、鶴舞線はトンネルに入る。真っ暗ななかをこのまま丸の内まで行き、桜通線に乗り換えて車道まで。それが私の通学コースだった。

 上小田井を出て二つ目の駅、庄内通が近づくと少し緊張してくる。駅に入って、真っ暗だった窓の外が明るくなると、私はいつもの扉に、こっそりと視線を向けた。電車が停まり、開いた扉から人が乗り込んでくる。淡い色のチノパンとポロシャツを着たあのひとは、いつもと同じように列のいちばん最後にいた。みんな、どこか気を張っている朝の電車で、あのひとは、とてもリラックスしているみたいだった。
 あのひと昨日もいたな、って気付いたのが始まりだった。大学生くらいかな? なんだかぼーっとしてる。痩せてるし、腕も細いから運動は苦手そう。久屋大通で降りていくけど、あの近くに大学あったっけ? もしかして働いてるのかな。だったら、けっこう年上?
 そうやって想像を膨らませているうちに、私はあのひとを目で追うようになっていた。
 ちょっとでも長く見ていたいなって思うし、このごろは話してみたいって少しだけ思い始めてる。おはよう、って声を掛け合って、何でもない話をする妄想。
 そんなことを考えていると、庄内通を出た電車は、あっというまに丸の内に着いてしまう。降りる人がドアの前に詰めていくのを横目に、私はわざとゆっくりしていた。
 丸の内に着くと、慌てた感じの人たちが、電車を勢いよく走り出ていく。鶴舞線と桜通線を結ぶ連絡通路はかなり長くて、たぶん五〇〇メートルくらいはある。しかも、この連絡通路を普通に歩くと、乗りたい電車がちょうど目の前で出ていってしまう。ひとつ前の電車に乗ろうと思ったら、長い連絡通路を全力疾走しないといけない。これは思い込みなのかもしれないけど、毎朝、必ず何人かは走っていくので、少なくとも、私だけの思い込みではないはずだ。あのひとは、そんな慌ただしさからは距離を置いて、最後の方で電車を降りる。私はその後に続いた。
 ホーム端の階段を上ると、ゆるやかに左へカーブした長い連絡通路に出る。幅は広いし天井も低くはないけど、石の壁に囲まれているせいで息苦しく感じる。知らない背中がぱらぱらと並んでいる中で、あのひとの背中は特別なものに見えた。
 突き当たりまで進むと通路は左に折れて、下りの階段につながっている。あのひとが左に曲がると、私は尾行中の犯人を追う刑事のように足を早めた。階段は踊り場を挟んで、かくかくと折れ曲がっている。ここは上り方向にエスカレーターがついているから、桜通線側から来る人は、ほとんど階段を使っていなかった。
 桜通線ホーム手前の、いちばん長い階段まで来た時、ゆっくりと階段を上がってくる女の人が見えた。この大学生くらいの女の人を、私は覚えてしまっている。今日はふわっとした白い膝丈のスカートに、淡いブルーのニットカーディガンを合わせていた。
 彼女はなにかポリシーがあるみたいで、いつもエスカレーターではなく階段を使っている。それで目立ったのもあるけど、私が彼女を覚えてしまったのは、ただすれ違っているだけなのに、すごく雰囲気のいい人だなって思ってしまったからだ。可愛らしいけど媚びてなくて、会ってすぐに好きだなって思わせる感じ。私にはそういうのがないから、彼女を見るたびに、自分の心みたいなものが、きゅっと小さくなる気がした。
 もう一人、彼女の後ろからスーツ姿の若い男性が上ってきた。彼女とすれ違う時は、たいてい後ろにこの人がいる。階段を使っている人はほとんどいないし、何より私も同じことをしているから、すぐにわかってしまった。この人は、前にいる彼女を見ているんだ、って。
 彼は、彼女の真後ろには立たないで、必ずちょっと距離を置いた斜め後ろにいる。きっと、変な奴だと思われないように気を付けているつもりなんだろう。でも、同じことをしている私には、その姿が怖いくらいにみじめで滑稽に見えた。近づくことも、離れることもできなくて、こそこそと後をつけるだけ。周りから見た自分の姿を突き付けられているみたいで、私は彼を見るのが本当に嫌だった。
 私を含めた四人が長い階段にそろった時、事件は起こった。「あっ」という声と一緒に、私の前を歩いていたあのひとが階段を踏み外したのだ。踏み外した足が前に投げ出されて体が沈む。反対の足の膝が、階段に強く打ちつけられたのを見て、思わず私は息を呑み、両手を口元に当てて立ち尽くした。
「大丈夫ですか?!」
 あの女の人が駆け寄って声をかける。私は「しまった」と思った。
 私の方が、あの女の人より近くにいた。なのに先を越されてしまった。それも悔しかったし、そんなことを最初に考えてしまった自分が恥ずかしくもなった。
 彼女の後ろを歩いていた男の人は、二人を気にしながら横を通り過ぎ、すれ違いざまにちらっと私を見た。その時、この人はぜんぶ気付いてる、と思って体が熱くなった。そんなわけない、考えすぎだって否定しても、心臓がどきどきして足が震えてくる。誰にも知られたくない気持ちを見透かされていたかもしれないと思うと、恥ずかしくて恥ずかしくて、いますぐに消えてしまいたくなった。
 私は必死に何でもないふりをして、二人の横を通り過ぎた。あのひとは、とても痛そうにしていて、ぶつけた膝を伸ばすだけでも大変そうだった。ただ通り過ぎるだけで精一杯だった私は、ふわふわした感じのまま、桜通線のホームに着き、いつもの場所に並んだ。
 次の電車が来ても、あのひとは階段を下りてこなかった。私はぐずぐずと電車に乗り、扉のそばに立って、売られていく動物みたいに階段を見つめていた。やがて扉は閉まり、駅を出た電車は暗いトンネルに入る。私の足の震えは、まだ治まっていなかった。

 次の日、あのひとは電車にちゃんと乗ってきた。いつものように、丸の内で乗り換えるあのひとの後に続く。前を歩くあのひとは、少し足を引きずっていた。
 ホーム端の階段を上って連絡通路に出たところで、あの女の人がこちらに歩いてくるのが目に入った。後ろには男の姿もある。あのひとは女の人に気付くと軽く頭を下げた。彼女もぺこりと頭を下げて近寄ってくる。二人はそのまま立ち話を始めた。
 私は昨日と同じように、何でもないふりをして二人の横を通り過ぎる。「……足、大丈夫ですか?」「ええ、本当に助かりました……」。そんな会話の切れ端を振り払うように、私は早足になった。後ろの男のことは、わざと見なかった。
 あのひとの声を初めて聞いた。優しい話し方で、すごく好きな感じだった。それなのに私はちっとも嬉しくなかった。もっと変な声で、変な喋り方をしていたらよかったのにって思った。
 次の日も、その次の日も、同じことが続いた。二人は連絡通路で顔を合わせると、その場で立ち話を始める。私は二人を追い越し、彼女の後ろの男からは視線を逸らす。明日は土曜で休みだと思うとほっとした。そして、ほっとした自分に嫌気がさした。そんなに嫌なら、一本早い電車にすればいいのに。どうして私は、まだ同じ電車に乗っているんだろう?
 月曜日、私は性懲りもなく同じ電車の同じ車両に乗っていた。いつものように、ぎゅうぎゅう詰めの名鉄線に乗り、上小田井で鶴舞線に乗り換える。庄内通に近づくと、私の憂鬱さは増していった。
 でも、庄内通に着いたら、私の憂鬱なんて消し飛んでしまった。ここにいるはずのない彼女が、あのひとと並んで電車に乗ってきたのだ。二人は車両の中央へ移動してきて、私と背中合わせになる。嫌でも話が聞こえてしまう近さだった。
 二人は週末に行った美術館の話をしていた。女の人の方がたくさん喋っていて、あのひとは嬉しそうに相槌を打ちながら、時々、自分の気に入った作品について、どういうところがよかったかを、素直な言葉で彼女に伝えていた。
 私……なにか悪いことしたのかな? あのひとと話して、あのひとと笑い合いたいなって思ってただけなのに。どうして、私じゃない人と話して、私じゃない人に笑ってるのを、こんな近くで見せつけられなくちゃいけないんだろう?
 二人は周りに気を使って、小さな声で喋っている。くすくす笑う声が、だんだん私を笑っているように思えてきて、涙が出そうになった。
 電車が急ブレーキをかけて、私は隣の人にぶつかる。「すみません」と言った私を、隣の男は一睨みして舌打ちをした。
「大丈夫?」
「うん、ありがと」
 私の後ろからは、あのひとと女の人が、何でもない、優しい言葉を掛け合っているのが聞こえた。

 ――もう嫌だ

 電車はもうすぐ丸の内に着く。私は隣の男を押しのけ、人混みのなかを扉の前へと移動した。あのひとが何をしている人なのか、どうしていちばん最後に電車に乗るのか、そういうことを聞いてみたかった。どうしてあなたが気になったのか、どんなことを考えてあなたを見ていたのか、そういうことを聞いてほしかった。
 でも、もうそれはできない。あのひとのことを聞くのは彼女で、彼女のことを聞くのはあの人だ。二人はただすれ違う人ではなくなって、お互いのことを少しずつ知っていく。そうやって他人じゃなくなっていくんだ。そこに私の入る隙間はなくて、いつまでも私は他人のままだ。あのひとと他人じゃない関係になりたかった。もしかしたら、まだ……って思ってた。でも、もう嫌だ。もう無理だ。
 丸の内に着いた電車が扉を開くと、私は思い切り駆け出した。スカートが翻るのも構わずにホームを全力疾走する。のろのろ歩く人たちを追い越して、周りは一心不乱に走る人たちだけになった。階段を一段飛ばしで上り、連絡通路に出る。前からは桜通線側から走ってくる先頭集団の姿が見えた。私を含めた鶴舞線側からの集団と、桜通線側からの集団が、全力疾走のまますれ違う。薄暗い連絡通路には、靴音とエネルギーが溢れていた。扉が開いた途端に走っていく人たちは、こんな景色を見ていたんだって初めて気付いた。息は切れてきたけど、私のテンションはぐんぐん上がっていった。いまだったら、なんだってできそうな気がした。
 連絡通路を走り切って、階段を駆け下りていく。長い階段の下から、あの男がやってくるのが見えた。男は驚いた顔で私のことを見た。やっぱり私のこと知ってたのかって思ったら、ものすごく恥ずかしくて、ものすごく腹が立ってきた。私はすれ違いざま、男に向かって叫んだ。
「バカっ!!」
 男が目をまん丸にしたのが、一瞬だけ見えた。今日はあの人いないな、って思ってたんでしょ? もうすぐあなたにもわかるよ。私たちの小さくてぼんやりした願いは、ぐずぐずしているうちになくなっちゃったって。
 私は階段を下り切って、桜通線のホームに着いた。ホームの電光掲示板には「国際センターを出ました」と表示されている。電車がひとつ前の駅を出ると、桜通線はこうやって教えてくれる。つまり私は、ひとつ前の電車に間に合ったのだ。私は荒れた息のまま下を向いて、膝の上へ乗せた手に体重をかけた。この前とは違う感じで、私の足はガクガクと震えていた。
 明日からは名古屋駅経由で学校に行くって決めた。定期も替えなきゃいけないし、名鉄の混み具合を考えると憂鬱になるけど、私はいろんな思いを一気に振り切ってしまいたかった。何も考えずに走り出したら、何かに出会えるって信じたかった。
 トンネルの中から、私が乗る桜通線の音が聞こえてきた。真っ暗な中から、プァン! と警笛が大きく鳴った。

       

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