Neetel Inside 文芸新都
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潮騒と幽霊
『第十一章 君が笑うと僕は哀しい』

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ピンポーン

草汰が中学校にあがってひと月ほど経ったある日の夕方。
学校から帰りひとり留守番をしていると、ふいにインターホンが鳴った。
足元を立てないようにそっと玄関に行き、のぞき穴から外を見る。
赤ん坊を抱いた由香が立っていた。
「こんにちは。」
「…こんにちは。」
チェーンをかけたまま玄関を開ける。
初夏の風がふわっと髪を撫でた。
「ひとり?」
「あ、はい…」
「おうち、あがってもいい?」
「え…」
彼女たちが越してきてからふた月近く経つが、道などで挨拶する以外話をする事も無かった。
それが突然どうしたのだろう。
何か用事だろうか。
考える限り、玄関先で済まない用事は思いつかない。
もしや何かあったのだろうか。
それにしては、いつも通りの笑顔だ。
こたえに困り、彼は黙ってしまった。
「あの…」
「あ、ごめんね。急すぎるわよね。」
「いえ…あの、どうぞ。」
草汰は慌ててチェーンをはずすと、由香を家に招き入れた。

「ごめんね、いきなりお邪魔しちゃって。」
「いえ…」
リビングのテーブルに向かい合わせに座る。
綾子は由香の腕の中で、不思議そうにあたりを見渡している。
大人しい子だ、と思った。
「学校はどう?もう慣れた?」
「あ、はい…」
「友達はできた?あ、でも小学校の友達も一緒か。」
「はい…」
彼は耳まで火照っているのを感じた。
家に挨拶をしに行った日から、彼は由香の事を意識してしまっていた。
それまで、幼なじみやクラスメイトの女の子がちょっと気になったりという事はあったが、恋という程の感情では無かった。
しかし今回は違った。
ひとの奥さんである事、この子のお母さんである事…好きになってはいけないと思っても、道で見かけるたびに胸がときめいた。
「…ごめんね。」
「え…?」
突然謝られ彼は顔をあげた。
由香が申し訳なさそうな表情でうつむいていた。
「やっぱり、いきなり迷惑だったよね。」
「い、いえ、全然!そんな事無いです!」
「ほんと?無理してない?」
「全然!ちょっと…緊張してるだけです。」
「あかちゃん、苦手?」
由香は的外れな返事をした。
「嫌いじゃ、無いです。苦手かも知れないけど…」
「抱いてみる?」
「え?」
由香は彼に赤ん坊を差し出した。
恐る恐る、彼は綾子を抱き寄せる。
赤ん坊らしい、優しいにおいがした。
綾子は泣きもせず、彼の顔を見上げている。
「可愛い?」
「…はい。」
「ふふ、そうでしょ。」
由香は笑顔で彼の顔をのぞき込んだ。
それは彼が見た中で、一番幸せそうな笑顔だった。
「ありがとうございました。」
言って彼は綾子を由香に返した。
緊張してたのだろう、腕の筋肉が痛かった。
「緊張した?」
「はい…」
「実はあたしも、まだ緊張しちゃうのよね。」
「そうなんですか?」
「うん、毎日緊張緊張…お母さんも、なかなか大変なものよ。」
言って由香は一瞬「あっ」というような顔をしてから、誤魔化すように笑った。
草汰はそんな由香を見て、ほんの少し寂しい気持ちになりながら立ちあがった。
「何か飲みますか?」



「それじゃあ、お邪魔しました。」
それから一時間ほど話して、由香は席を立った。
あっと言う間のような、永遠のような一時間だった。
「それじゃあ…」
草汰にドアを開けてもらい外に出た由香の背中に、勇気を出して彼は言った。
「また、来てください。」
「ほんと?じゃあ『またね』だね。」
「はい。また、ね…」
由香の姿が見えなくなるまで――と言っても数秒の間だが、彼はひとり玄関に立ちつくした。
残り香を探してみる。
何も感じない。
旦那さんの所に帰ったんだな、とぼんやり思った。



その後由香は「またね」の言葉と裏腹に一度も夏野家に来る事は無かった。
相変わらず道などで会えば挨拶もしたし、時には立ち止まって何気ない会話をす
る事もあった。
けれど、それだけ。
それ以上は何もなかった。
それが当たり前なのだろうし、あの日が特別だっただけなのだろう。
そう、あの日が特別だっただけなのだ。
それでも、草汰は由香の笑顔を見るたびに哀しい気持ちになった。
何か嫌な思いをさせただろうか?それともあかちゃんに嫌われたかな?
時に切なさに眠れぬ夜もあった。
しかし移り気な思春期の少年の心。
答えのない問いを繰り返すうち、しだいに彼女の存在は彼の中で小さくなっていった。



そうして、すっかり彼の初恋の火が消えた頃――草汰が中学を卒業する春、夏野
家は遠い街へと引っ越しする事が決まったのである。

「長い間お世話になりました。」
磐田家の玄関先で父と二人、引っ越しの挨拶をした。
こうして二人頭を下げていると、何だか3年前が昨日のようだった。
しかし確実に経った時間を告げるように、由香の横にはしっかりと自分の足で立
つ綾子の姿があった。
少し見ないうちにすっかり女の子らしくなったが、人見知りなのか、大人しいの
は赤ん坊の時のままだ。
旦那さんは今日はいない。
学校だろうか。
「こちらこそ、色々お世話になりました。」
言って寂しそうに微笑む由香を、やっぱり可愛いと彼は思った。
自分が少し大人になったからか、むしろ以前より自然にそう思った。
また胸がときめくのを感じて、草汰は慌てて目をそらす。
「それでは、旦那さんにもよろしく。」
「ええ、それでは。」
父と二人また頭を下げて、帰ろうと後ろを向いた。
「草汰くん。」
ふいに名前を呼ばれ、振りかえる。
「バイバイ。」
由香が笑顔で手を振っていた。
彼は何も言わず頭を下げると、父へと駆け寄った。



引っ越した街は今まで住んでいた街とくらべてずっと田舎だったが、
それでもそれなりに楽しい学生生活を送った。
高校では軽音部に入りギターを始めた。
ピアノの技術を生かして作曲も始めた。
バンド活動は楽しく、今まで友達と何かをするという経験の少なかった草汰には非常に新鮮な行為だった。
バイトに部活と、やや勉強の方はおろそかになりがちだったが、それでも大学は地元でそこそこのところへ入学した。
大学でも相変わらずバイトとバンドの毎日だった。
バンドは多少人気も出て、一時期は本気でプロになろうかとも考えたが、大学も三年の夏を過ぎると一人また一人と就活を理由に辞めていき、結局彼も普通に就職する道を選んだ。
とはいえ就職も難しく、彼は新卒で就職する事ができなかった。
その後二年ほどバイトをしながら就活をし、知人の紹介で地元の病院に事務として就職する事になった。
それから数年は必死に働いた。
ようやく仕事に慣れた頃、この仕事には珍しい転勤を言い渡された。
転勤先は、中学まで住んでいたあの街。

こうして草汰は、十数年ぶりに懐かしい街へと帰ってくる事になった。
それはまた春の事。
新しい家を探しながら、彼は由香の笑顔を思い出していた。

       

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