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表紙

はまたん(電子書籍版)
狂いて歩むは修羅が道

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人生とは、戦いの連続である。
他人との戦い。境遇との戦い。時間との、運命との、自然との、不条理との、自分自身との戦いである。
勝ち、負け、引き分け、生き残る。あるいは、死んでいく。
戦い尽くしのこの世界において、最も激しい戦いとはなんだろうか。









        








            



                それは、競歩である。







むせかえる様な熱気に包まれて、全日本高等学校男子競歩選手権大会5000mWの幕が開けた。(WはウォークのW。競技会では距離の後ろにWを付けて表記する。※)
開始の銃声が鳴ると同時に、道路を埋める大きな波がうねりを伴い流れていく。

「くそっ、邪魔だなこいつら……道を開けろよっ……このっ……!」

折春高校期待のルーキー、土屋大地は今回が初参加にも関わらず、好スタートを切ってポジション取りに勝ち、先頭集団のすぐ後ろ、その群れの一端に入り込むことに成功した。
トップのタイムは30分を余裕で切るという5000mW。短距離レースにおいて、出だしの差が重要なのは言わずもがなである。
現在一位の選手の頭がわずかに見え隠れしている。土屋は歩きながらもその光景に安堵し、息を整えた。
辺りを見回す。揃いも揃って不細工揃いの男たちが、息を荒く吐き出しながら足早に歩いている。土屋は一通り状況を確認した後、一人ほくそ笑んだ。
(今、大体ここら一帯の奴らの速度に大差はない。先頭も然りだ。他の奴らはどうだか知らないが――俺はまだ全力を出してない)
土屋には余裕があった。少なくとも、横にいる男の半分にも満たない呼吸でこの場所をキープできていた。
練習の疲れなど残っていない。コンディションは最高だ。体の重さなど微塵も感じない。
(おい、これ……ひょっとして、表彰台いけんじゃねーか? いや、下手すると一位に……)
土屋は興奮のあまり、腹の奥底から声を漏らして笑ってしまう。しかし、それが彼の順位を落とすことには繋がらなかった。





土屋は元々、長距離走者だった。
中学の頃は大会でも上々の成績を収め、陸上部の頂点に立っていた。
彼は自分の足に自信があった。高校でも、陸上部の頂点は自分になると思って疑わなかった。
先輩を顎で使い、先生には進路を工面してもらい、マネージャーを脇にはべらす。
そんな高校生活が待ち受けている、はずだった。

全国トップレベルの長距離ランナーの空見翼が、一流校のスカウトを蹴って、友達との約束だかなんだかの為に折春高校に入学してくる――なんて事が無ければ。

彼の走りを一目見た瞬間、土屋は負けを確信した。
空見はすでにアスリートとして完成されつつあった。ダイヤの原石などではなく、形を整えている段階の極上のダイヤそのものだった。

土屋の嫉妬は尋常ではなかった。
彼の才能、努力、環境、周囲の目、そして走っているときの、本人の楽しそうな表情。その全てが、妬ましかった。

事故を装ってあいつを怪我させ再起不能にしよう。
そんな発想が一瞬頭によぎったが、実行に移すことは無かった。
例え彼が退部して自分がトップの座に着いたとしても、周りからの評価は「空見の代わりの出来損ない」であろう事は目に見えていたから。
そして何より、それをやったら「自分の中にある何かわからないもの」に一生負け続けるだろう。そう直感したからだ。

退部しよう。二番目に出てきた発想がそれだった。
土屋は迷うことなく顧問の元に向かった。
職員室に挨拶もせず入り、無言で退部届けを顧問に渡し、帰ろうとした背中に顧問は言った。

「土屋、競歩をやってみる気は無いか?」

陸上部に競歩選手は一人もいなかったが、顧問は過去に指導した経験があると言う。
その顧問が言うには、土屋の歩き方と筋肉のつき方は競歩選手にこれ以上無い程に型に入っているとの事だった。
土屋は答えた。

「ああ、あのだっさいスポーツですか」

一応、ルールは知っている。歩くときは常に片足をついていなくてはいけない、足を曲げてはいけない。
早歩きでゴールを競う間抜けな陸上競技もどき。それが土屋の見解だった。
土屋の予想に反して、顧問は嬉しそうに笑った。


「そう、そのだっさいスポーツでお前は日本一になれる」

土屋は少し考えた後、顧問の持っている退部届けをひったくって、ポケットの奥に入っていたパチンコ玉を一つ入れて丸める。
そして、窓から準備運動をしている空見の頭目掛けて思いっきりぶん投げた。
見事額にクリーンヒットしたのを確認して、土屋は運動場へと歩いていった。





土屋はほんの少しずつゆっくりとペースを上げ、第二集団から先頭集団への綱渡りを決行する。もう残り1000mを切っているのにも関わらず、誰もついてくる者はいなかった。
(はっ……余裕だこんな競技。人口は少ねぇわ大して疲れねぇわ、日本一になれるってのは本当かもな)

土屋は競歩を侮っていた。間抜けな陸上もどきと見くびっていた。しかし、練習はサボらなかった。
最初は思っていたより早歩きが疲れることに驚いたが、それも慣れるまで。
練習は予想の数倍過酷で、予想の数十倍恥ずかしかったが、投げ出すことはしなかった。
結果、実力は後からついて来た。

(!)
先頭集団の最後尾。その選手と並んだ瞬間、後ろの有象無象との違いを肌で実感した。
息遣いが違う。目線のブレが違う。足幅の誤差が違う。何より、空気が違う。
この集団を形成している七人は、自分と同じ日本一を射程内としている選手ばかりだった。
いや、土屋の方がこの七人と同じ領域に入って来たのだろう。
(こいつら全員、本気じゃない……もう一段階上がある。まずいな)
かく言う土屋も、まだ余裕を隠し持っていた。その点に関しては問題は無かった。
問題は、ラストスパートをかけるタイミングだ。
今回が初めての本番となる土屋には、一気に攻勢をかけるその瞬間がいつなのかわからない。いくら素質があるとは言え、こればかりは経験がものを言う。
(……いや、かまわねぇ。誰かがモーションかけた瞬間ゴーだ。俺が全力の反射神経を出しさえすれば、スピードもスタミナも敵う奴なんか――)
ゴールはすでに輪郭をうっすら見せている。残り500m。
(まだか……)
490。
480。
470。
汗が体の線をなぞっていく。髪は湿り気を帯び、肌に張り付いては離れてを繰り返していた。
460。
450。

前から三番目の選手が地面をわずかに強く蹴ったのを、土屋は見逃さなかった。

先頭集団八人が、一斉に加速を始めた。本当に歩いていると言っていいのかと尋ねたくなるような速度で道路を「歩き抜けていく」。
その中に、土屋の姿もあった。
土屋の反応は素晴らしく速かった。スピードも他の七人より頭一つ抜けていた。

自分がいるはずの場所で、自分を圧倒的に上回る天才が練習している。
その横で、何も知らない奴にその姿を笑われながら、好きでもないようなスポーツを毎日欠かさず練習してきた。
今日この日を含む毎日、こんなクソスポーツやってられるかと思った。それでも、練習に手を抜くことは一切なかった。
家でも練習した。授業中もイメージトレーニングをした。雨の日は廊下をひたすら往復した。

歩いて、歩いて、歩いて、歩いた。
競歩を死ぬほど嫌いな競歩の天才は、 死ぬほど競歩に打ち込んだ。
勝つためだけに。

出だしで三人抜いていた。
250。
(俺が一番速いんだよ――ッ!!)
200。
四位を追い越した。
三位を置き去りにした。
二位をぶっこ抜いた。
150。
一位と、並んだ。
(俺が一番――)
そして、



一位が、加速した。


(はぁっ!?)
彼には、更にもう一段上が存在していたのだ。もはや走っているのと大差ない速度。驚く間にも、離されていく。
100。
(ふざけ――)
酸素を吸い込み筋肉を働かせ足を動かし地面を踏み込み前へ進む。
(速く動け、もっと速く――もっと速くもっと速くもっと速くもっと速くもっと速くもっと速く速く速く速く速く速く速く速く速速速速速速速速速速速速速速速速速速速――ッ!!)
90。
80。
足がはち切れそうだった。強い振動が股関節を打ち付ける。腕を狂ったようにぶん回して推進力を上げる。
差は、縮まらない。
(――こんな奴ら、俺が)
70。
60。
(本気を出せばぁぁぁ――)
50。
40。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁッッッッ!!!!!!!」





表彰台に、土屋の姿は無かった。
土屋は離れた所の木陰で、空を仰いで座り込んでいた。
呼吸をするのもだるそうにしている土屋に、顧問がドリンクを差し出した。
「一位おめでとう」
土屋は顔も水にそれを受け取り、一呼吸置いた後に一気に飲み込む。
むせて派手にせきこみ、気管に入ったそれを涙ごと吐き捨てる。
「反則負けだよ。イヤミか」
「いや、なかなかよかったよ。これから伸びるだろうと思わざるを得ない、良い反則だった」
ふん、と土屋は鼻を鳴らす。
「全力でやったら走るに決まってるじゃねーか。本気を出したら反則負けとか、世界で一番難しい競技だろ」
「だからこそ面白いんじゃないか」
土屋は寝転がり、大きくため息を吐いた。


「だっせぇスポーツだ」

そう言って横になり、いびきをかいて眠りについてしまった。
その手には、ゴールテープの切れ端がしっかりと握られていた。

       

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Neetsha