Neetel Inside ニートノベル
表紙

天ノ雀――アマノジャク――
19.降り注ぐは血の雨、晴れ渡るは青い天

見開き   最大化      



 空っぽの左袖を揺らして、雨宮が隣の車両からやってきた。
 その顔は喜色満面に彩られている。ようやっと先ほど蹴られた痛みが引いてきた俺は、皮肉を籠めて言ってやった。
「ご機嫌だな、雨宮」
「ふん、そりゃあな。ああ、俺はこの日のために、生きてきたのかもしれねえ」
 革靴の先が俺の腹部に刺さる。痛みが背骨を激震させ、俺はくの字になって呻いた。
 縛り上げられて通路に転がされた俺にかわす手段はない。
「ふふふふ……カガミが俺になんて言ったと思う? ありがとう、だってよ」
 くつっ、くつっ、やつは忍び笑いを耐え切れないらしかった。肩が痙攣したように震えているのが、性格の悪さを表してやがる。
「恩を着て当たり前だよなァ。なにせカガミは俺のおかげで、ようやっと自由の身になれたのだから」
 俺は何も言わなかった。
 事実だったからだ。







「――俺がこいつを一億のカタにしようってなァ、何も洒落じゃないんだ。マジにヒバリにはその価値があるんだ」
 どんぶりの底にたまった残り汁をすすると、雨宮はそれをイブキに返した。
 その横でヒバリは笑顔を崩さず、俺に意味深な視線を送ってくる。うっとうしい。
「カンタンに言うとだ、こいつは文章の中の人物と感覚を共有することできるのだ。その経験さえも。文章には書かれていない、本人しか知りえないことをも、だ」
 雨宮の残った腕にわしわしと頭を撫でられ、ヒバリが身もだえする。
「意味が分からん」
 だが雨宮が意味のない嘘をつくとも思えなかった。真実なのだろう。
「仮にそうだとして、そのヘンテコな才能で俺になんの得があるってんだ」
 雨宮は俺に、カガミの父が相貌失認であることを語った。
 そのときはまだ、俺は話の全体図を捉えきれずに苛々するばかりだった。
「で? そいつにドラゴンボールを読ませてかめはめ波を撃たせるか? いい見世物になるな」
「茶化すなよ。俺はまじめなんだぜ」
「俺はとても真剣になる気分じゃない」
「おまえ――」
 ビニールに覆われたちゃちい丸椅子から身を乗り出して、雨宮が俺の顔を覗き込んできた。
「カガミのこと、どうするつもりだ?」
「どう、って」
「シマのおかげで学校に通えるようになりました。ぼくをいじめる雨宮もいなくなりました。ばんざーい!
 よかったな、おめでとう。だが卒業したらどうすんだよ。それでカガミとはサヨナラバイバイか?」
「いや、そんなつもりは……」
「おまえの意見なんか問題じゃないな。やつは卒業と同時にシマのかけた魔法が解け、父親の元に連れ戻される。それだけ。哀れ天馬くんはまたモテないひりだされた糞みてえな人生を歩み始めるわけだ」
 ひやっとした。考えまいとしていたことを、心の隅っこの方に隠しておいた夏休みの宿題を、雨宮は箒で一掃きして暴いてしまった。
「俺は本当に、おまえに一億円分の幸福をくれてやろうと思っているんだ」
「信用できねえ」
「せめてもの罪滅ぼしだよ。わかってもらうには、長い時間が必要だろうがな」
 そういって、雨宮は笑った。



「カガミとヒバリを、交換しちまおう」




 バン、と雨宮は床に一冊の本を叩きつける。
 昨夜、眠っているカガミの元から俺が盗み出し、ヒバリに読ませた、カガミの日記。
 俺がどんな顔をしていたのかしらないが、日記を渡すとき、ヒバリはこう言った。
「前から、小説の主人公みたいな生き方をしたいと思ってたんだ。だからね、これでいいんだよ」
 俺の脳裏に浮かんだ、カガミと同じ髪、同じ体型、同じ経験を引き継ぐことになった何者でもない少女の顔が、雨宮の声に引き裂かれた。
「――あん時のおまえの顔は写真に撮っておきたかったぜ、天馬。
 下痢腹抱えたノーパン野郎がトイレを見つけた時みてえだったぜ、パァっと明るくなってよォッ!」
 だが残念だったな、と雨宮は俺の顔を蹴る。
 血は驚くほど鉄の味しかしなかった。ぼたぼた通路の木目に赤い染みが増えていく。
「そのトイレは満員だ。おまえは漏らすしかない」
「へっ、そんときゃてめえにぶっかけて――ぐう」
 首根っこを片腕一本で掴まれた俺は、高々と宙に吊るされた。
 ぴくぴくと雨宮のまぶたが痙攣している。
「くっくっく……カガミに助けを呼べないように、喉を封じさせてもらうぜ。目が見えてないとはいえ、暴れられたら勝てねえからな」
 声は出ないが、絶妙に意識が飛ばない、そんな握り方だった。
 視界いっぱいに雨宮の顔が近づく。鼻の先が触れあった。気色悪ィ。
「俺の演技は完璧だったろう? 怪しくても、信じざるをえないような、そんな素敵な雨宮秀一はどうだった? 仲良くしたかったか? くくく」
 俺は視線にありったけの意思をこめてぶつけてやる。
 信用なんてしちゃいなかった。だが、油断してしまった。それだけだ。
 似てるようで、少しだけ違う。
「ずっとこの日を待ち望んでた――てめえを地獄に叩き落せるこの日を!
 そのために腕を落とした。そのために修羅になった。
 すべて、この、この、この瞬間のためだけに!
 最高だぜ、天馬ァ……。
 俺は今まで知らなかった。おまえに負けるまでわからなかった。
 勝つのがこんなに……気持ちいいとはな。
 おまえもそうだろ? 俺に勝った時、こんな気持ちがしたはずだ。
 俺とおまえは似たもの同士……。
 あの日、俺は失い、おまえは得た。
 正反対のものが混ざり合って、紫色になったのさ。
 だから、同じ紫をカガミは見抜けなかった。
 こればかりは賭けだったんだがな……うまくいったよ。
 声真似の練習の成果もあったろうが、それ以外のセンチメンタルな理由を採用したいところだ。
 なァ……天馬。ほんのちょっとだけ喋らせてやるよ。独り言みたいで寂しいじゃないか、なぁ?」
 少しだけ、喉が開いた。だが叫べはしない。カガミに向かって何も言えない。今もあいつは、窓の外の景色を見ながら、俺を待っているだろうに。
「なんとか言えよ、天馬ァ」
「なぜ……」
「あん?」
「なぜ、俺をとっとと殺さないんだ」
 はぁ、と雨宮はため息をつき、首を振った。
 おまえはわかってない、とでも言いたげに。
「たっぷりと時間をかけ……油断させ……救いを……与えてから……カガミを奪い……俺の受けた痛みを……何千倍にも……何億倍にも……して……送り返し……殺す」
 一言一言噛み締めるような口調から、怨念が漏れ出していた。
「まだその途中だ」
 俺はつい笑っちまった。
「何がおかしい」
 おかしいとも。なぜなら。




「おまえは負けたがっているから」




「……は?」
 俺は黙った。言葉にする必要はない。疑問を感じたようなやつのそぶりもすべて嘘だ。
 俺にはわかる。それでいい。
 ぎゅっと目を瞑った。

 恨むぜ雨宮。

 てめえのせいで、俺は――カガミに怒られなくっちゃならない。


 ポケットから、買ったばかりのボトルシップ、そいつを手首の返しだけで持ち上げる。
 俺はそれを、落とした。
 派手に砕け散ったそのボトルは、祝福の鐘のように、聞こえた。




 連絡扉が吹っ飛んだ。
 雨宮が慌ててよけ、捨てられた俺は背中をしたたかに打った。
 昨日までヒバリが着ていた真っ白なワンピースが窓から吹き込む風にはためく。
 麦わら帽子をかぶり、両目を包帯で覆ったそいつの名字はもはやない。
 俺が奪った。俺が消し去った。
 だから、俺は呼んでやらなきゃならない。
 恥ずかしがってるヒマはない。




「助けてくれ……空奈ァ――――ッ!!!」











 雨宮が叫んだ。
 列車を貫いたその声は、録音された俺の声によく似ていた。




 やべっ。

       

表紙

顎男 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha