Neetel Inside ニートノベル
表紙

クロ電話ノ鳴ル処
『彼女の声』

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 暗闇の中に落とされた、一本の白い糸。

 それを再び見つけて、躊躇いつつも、手繰り寄せてしまう。

 恐らく、彼は怒るに違いない。

 そして、私のことを不要だと言うのでしょう。

 だけど、私にはそれしかなかったの。

 怖くて、怖くて、たまらなかった。

 *

 この世界に意味を問いかけること。

 それは、私自身への問いかけでもありました。

『私は、何のために、この世界にあるのでしょう』

 対する答えは一つしかありませんでした。

『ヒトが、ヒトであるために』

 知っているのです。そんなこと。

 答えが一つしかないことも、知っているもの。

 それだから。

 十年前、少年が、言った時も答えたのです。

「――クロは、なんなの?」

『道具ですよ』

 少年は首を横に振りました。

「違うんじゃないの」

『違いません。私は貴方達のために作られた道具です』

「違うって、絶対」

『違いませんから。……あぁ、そんなに悲しい顔をなさらないで』

『違うったら、違うんだ』

『ごめんなさい……お願いですから……笑ってください……』

「……僕が笑うと、クロは嬉しい?」

『もちろんです。貴方達のお役に立てることは、最高の喜びです』

「もっと簡単に言って」

『信也が笑うと、私は嬉しいわ』

「そうなの? 本当に?」

『はい』

 その時の少年の顔を、私は忘れません。

 忘れられないからこそ、こうして、未練を残しているのです。

『じゃあ、僕、笑うね。もう泣かないよ』

 男の子は、黒い受話器を手に持って、にっこり笑いました。

 *

 糸を手繰り寄せて、耳を澄ませました。すると、嗚咽混じりの声が聞こえてきました。
「――はい、その、腰を強く打ってしまったみたいで……」
 頼りない、弱さが際立った声でした。まるで、十年前に引き戻されたのかと思ってしまったほどです。
「……はい……えぇっと、喧嘩してブン殴ったら、襖を真っ二つにカチ割って倒れやがって、いえ、倒れてしまいまして……はい、えぇと、はい、原因は私です……すみません。はい、救急車を呼ぶほどではないと、本人が言ってるんで……」
 信也が泣いてる。
 毎日、泣きべそをかいていたあの日のように。目を真っ赤に泣き腫らして、鼻水をしゅんしゅん言わせて、朝も昼も夜も泣き続けていた時のように。

 *

「クロじゃダメ! じーちゃんでもダメ! おかーさんと、おとーさんじゃなきゃ、いやっ!」
 毎日、毎日、雨がたくさん降っているぐらい、えんえん泣いていた男の子。私は初めて、嘘をつきました。
『……大丈夫、また、会えますから……だから、泣かないで……』
『嘘つき! クロは嘘つきだっ!!』
『嘘じゃありません。私が必ず、合わせて差しあげます』
『どうやってっ?』
『それは……』
 完全に、口からの出任せでした。じぃっと見つめてくる視線に対して、私は慌てて言うしかありませんでした。
『……わ、私は、信也の願い、そのものです……だから、願ってください。もう一度。そうすれば、きっと……』
「どれぐらいで叶うの」
『えっ?』
「明日、叶うの?」
『……明日は、ちょっと……無理、です……』
「じゃあ、明後日? それとも、明々後日? それとも僕の誕生日? クリスマス? お正月? ねぇねぇ!」
『……それは、その……』
 言い淀んでいる間に、少年が眉をひそめて、いらいらとダイヤルを回します。私のことを恨んでいる眼差しで言いました。
「じゅう数える間に答えないと、クロ、嘘つきだからな――いーち!」

 カララ……キュルルルルル……。

「にー! さーん! しー!!」

 カララ……キュルルルルル……。
 カララ……キュルルルルル……。
 カララ……キュルルルルル……。

 少年は言いながら、ダイヤルを回します。

「ごー! ろく! しち! はち! きゅー!」
 
 カララ……キュルルルルル……。
 カララ……キュルルルルル……。
 カララ……キュルルルルル……。
 カララ……キュルルルルル……。
 カララ……キュルルルルル……。

「……えっと」
 少年が最後の一つに指を添えて、ちょっと考えました。「0」と記された数字を見つめていた僅かな隙に、言ってしまったのです。
『……十年後……十年後に、信也の願いを叶えてあげますわ……』
「十年っ!? ながいっ!」
『……すぐですから……それまで我慢してください……ね?』
「う~ん」
『お約束します。十年後、私が信也を、もう一度ご両親に合わせてさしあげます。ですから、もう、泣かないで……』
「十年かぁ……」
 男の子は、とっても難しい問題を考えるみたいに、頭をうんうん捻っていました。言葉にならない呟きを "もにょもにょ" 言いながら、突然明るい表情で笑ってくれました。
「じゃあ! 十年待ってるっ!」
 その時、私は確かに頷きました。
 必ず願いを叶えてあげようと、誓いました。

 *

「―――はい、今から向かいます。先に付き添いが一名参りますので、よろしくお願いします――えっ、付き添い人の関係ですか……祖父の……大事な、知人の方です……はい、では失礼します」
 そっと、糸が絶たれる音を最後に、音が消えました。受話器が彼の手元から離れたのでしょう。
『……お爺様が』
 両親を亡くした信也の、最も身近な肉親である人。信也の憧れの人でもありました。普段から悪口を言い合うことはよくありましたが、殴り飛ばしたなんてこと、
『……信じられない……』
 なにがあったの。
 叶うことならば、彼の側に在りたい。だけど寄り代の黒電話を失い、『記録の世界』に漂う存在に変わり果てた私には術はない。彼が望まぬ限り、彼の側に行くことなど出来はしなかった。

 辛い、苦しい。

 糸は、こんなにも無数に広がったというのに。
 私はもう、この世界のどこにでも行けるのに。
 でも本当は、果てしなく遠く、広がってしまっただけ。
 所詮、私は道具なのだから。
 どれだけ変わり果てようとも、ヒトから必要とされなければ、存在していないのと同じ。何一つ、私自身ができうることなどない。

 それがひどく悲しくって、寂しい。辛い。悔しい。どうして。

 誰か、私を呼んで。誰か、私を求めて。
 お願い、お願いです。私はここに在るのです。
 私の名前を、もう一度、呼んでください。

「――――もしもし、猪口?」

 黒い世界。白い糸が一本。
 彼の下へと伸ばされた。

 *

「穴吹か? どした突然……あぁ、俺は大丈夫。まだ熱も若干残ってる感じだけど、全然平気だから。それよかじーちゃんが……うん、ちょっと色々あって……悪いけど、急いでるから切るぜ。また後で。悪いな。ごめん」

 ぶつん。
 糸が途切れました。信也は精一杯平静を装っているようでしたが、内心は今にも倒れそうなことでしょう。もし、彼のお爺様が亡くなったりすれば、今度こそ、信也は壊れてしまうに違いない。
 
『……そうなれば、また、私を求めてくれるかしら。必要としてくれるかしら……ふふ、うふふ』

 黒い世界に染まっていく。それはとても心地良くて、温かいのでしょうね。望めば、今度もきっと、願いは叶うはずだわ。

『……うふふ、また、笑ってくれるかしら……』

 信也が、私のことを好きだと言ってくれた時を思い出す。
 空に浮かぶお陽様みたいに笑ってた。
 本当に、眩しかった。眩しくて、眩しすぎて、嬉し過ぎました。
 この身が道具であろうとも。心と呼ばれるものがなかろうとも。

 あの時、確かに私は、信也のために生きていたいと。そう思えた。

 だから怖かった。信也の心が離れていくのが怖かった。
 怖くて、怖くて、たまらなかった。
 彼を縛りつけて、無理やりにでも、私の側にいて欲しかった。

『……笑って、くれるはず、ない……っ!』

 どうすれば、信也はまた、笑ってくれるのだろう。
 道具の私には分からない。ヒトの心は分からない。

「もうっ、いきなり切らなくてもいいじゃないのっ。猪口のバカ」

 落ちてくる声。
 途切れた白い糸の断片に向かって、声高に文句を募らせる声。
 まっすぐなヒトの声でした。

 なにかが、私の中で動いたような気がしました。
 怖いと思いました。やめよう、絶対に否定されてしまうわ。
 信也のように、受け入れてくれるはずなんてない。
 私は道具。道具なの。ヒトのためにあってこそ。

『…………っ』

 わかっていたのに。十年前だって、わかっていたの。
 だから気がつけば、両手を伸ばしていた。
 彼のために在りたくて。彼の下へ行きたくて。
 その糸を掴み取った。必死に、必死に、叫んだ。

 糸を手繰る、手繰る、手繰る。手繰り寄せる。

 私はここです。ここにいます。私の声を聞いてください。
 お願い、お願いです。届いて、届いてください。お願いだから!

『――――――――もし、もし……!』

『……私の、こえが、きこえ、ます、か……!?』

『……おねがい、です……!』

『わたし、を、信也の、ところ、へ!』

『つれていって! お願い!!』

     


「……えっ? 誰?」 

 繋がった。信也以外のヒトと。

『……わ、わたしは、クロ、です……』
「くろ?」
『……はい。信也がつけてくださった、世界で一つだけの、私だけの名前です……』
「ちょ、ちょっと待って。なに言ってるの。っていうか、信也ってもしかして、猪口のこと?」
『……はい、猪口、信也のことです……』
「なんで下の名前で呼んでるのよっ!」
 警戒を露わにした声。必死に手繰り寄せた糸が、するりと抜け落ちていく感覚でした。
「もしかして、猪口の前の彼女、だったり、しないよね?」
『……私はクロです。それ以外の何者でもありません……』
「変なこと言わないで。ねぇ、貴女、もしかして嫌がらせメールを送ったヒトなの?」
『……嫌がらせ、めーる……?』
「そう。どうやったのか知らないけど、自分のメアド表示させないで送ったやつ。猪口から離れなさいって内容の」
『めーる、というのは分かりませんが……信也の電話の糸を伝って、貴女に電話をかけたことはあります……ただ、力の扱いがまだ不慣れで、上手に出来たかは…………』
「なに言ってんのよ」
『……いえ……』
 やはり、私のことを信じてくれるのは、この世界で信也一人だけ。十年前の、あの日の彼だけでした。
「まぁいいわ。とにかく猪口から離れてって言ったのは、あんた、クロなのね?」
『……はい』
「どうしてあんなことしたのよ、答えなきゃ許さないからねっ」
『……貴女が目触りでした……信也が、貴女のこと、とっても嬉しそうに話すから……』
「そんな理由で?」
『……十分な理由でしょう……?』
「ば、ばっかじゃないのっ!?」
 向こう側の世界から聞こえてくる、怒りの吐息。
 彼女は私のことを嫌ってる。だけど、胸がどきどきするのは何故でしょう。心のどこかで、もっとお話をして、深く繋がりたいと思っている。この糸が切れてしまうことが怖くてたまらない。

 理解してほしいと思ってる?
 私を? 相手を? お互いを?

『……名前を、お聞きしても、よろしいですか…………』
「穴吹よっ! 穴吹優花! 覚えときなさいっ!」
『……ゆう、か……』
「大体ねっ! 猪口はクロのこと知ってるの!?」
『……知ってます……十年間、一緒に暮らしてきましたから』
「十年? ちょっと、あんまり分かりやすい嘘つかないでよねっ!」
『嘘じゃありません。信也は、私のことを、ずっと必要だって言ってくれたんです。好きだって、言ってくれました……』
「ふざけないで! あいつは一人っ子だし、ご両親だって……!」
『……存じていますわ……』
「それなら自分が言ってることの意味がわかるでしょうっ!?」
 激しく揺らめく炎のような声。だけど同時に、自分の方が、信也に好かれてるのだと言いたげで。
「クロがどこの誰なのか知らないけどねっ! 猪口は、私のこと、好きだって言ってくれたんだからっ! それに私だって、猪口のこと大好きなんだからっ!!」

 なんでしょう、この気持ち。
 なにか、すごく。焼けつくように、熱い。

「だから、あんたなんか―――――」
『うるさいっ!! 黙りなさいっっ!!』

 ふわふわする。心が軽い。

『私だって……信也のことを愛していますっ!! 信也のこと、私より分かってるような口振りをなさらないでっ!!』
「こっちのセリフよっ!」
『貴女に、信也のなにが分かるっていうんですかっ!!』
「文句があるなら電話じゃなくて、私に直接言いにきなさいよっ!!」
『―――ッ!』
 
 突き刺さる言葉。どこまでも重く、鋭く。

『……それが、できないから……っ! 私は、私は……っ!!』

 知らない癖に。なにも、なにも、なにも……っ!
 
『……私のことも、信也のことも、なんにも知らない癖に……っ!』

 向き合う。全力で、糸の先にいる相手に伝える。
 誰かの言葉じゃない。誰かの気持ちじゃない。誰かの意思じゃない。
 私の言葉、私の気持ち、私の意思。

 私は―――言葉を届けるだけの、道具じゃない!

『私は、私はっ! 道具でしか言葉を届けられなくともっ!
 信也が好きなんですっっ!!
 好きであることに、理由が必要ですかっ!?
 ヒトでなくてはいけないのですかっ!?
 愛してはいけませんかっ!? 求めてはいけませんかっ!?
 私がこの世界に在るのは、彼がこの世界に在るからです!!
 私は信也が好き!! それだけっ!! ただ、それだけなのっ!
 彼が側にさえいてくれれば、他になんにもいらないっ!!
 だから、誰にも、信也は渡しませんっっっ!!!
 だって……私……は、本当……に、信也のこと……っ!
 好き……だって……言った……好き……って……言ったの……っ!』

 言葉が途切れていきました。初めて知りました。
 泣くということ。あの時の信也の気持ち。
『……一緒にいて……くれるって……言った……ずっと……言った……』
 大きな声で、たくさん、いっぱい。すごく、泣いた。
 十年前の信也みたいに。大きな声で泣いた。

 あぁ、信也。お願いです。
 置いていかないでください。側にいさせてください。
 どうすればいいのか。どうしても、わからないのです。

       

表紙

五十五 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha