Neetel Inside ニートノベル
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バケツ
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 ──お母さん、私は今日で娘を卒業します。
 
「やっぱ無理」
「え」
 男は被っていたニット帽を畳みながら素っ頓狂な声を上げた。妙なところでまめな男だ。下半身はだらしないくせに。
 何言ってんの、と男がベッドに近づこうとした瞬間、既に私の左手には102号室のドアノブが握られていた。指紋がべたべたと付いているあたり、ホテルの質の低さがよく表れている。
「は?」
 はるか後方でそんな声が聞こえたような気がする。ともかく私は全速力で廊下を走っていた。どれだけ切羽詰まっていたのだろうか。実はそうでもなかった。少なくとも突然走り去る必要性は全くなかっただろう。まあ、年下だったし。路上で携帯いじってる女に声をかける時点で精神はお子様だけど。それでももう少し上に見えた。相手もそのつもりだったらしい。悪かったね童顔で。
 走ったのって久しぶりだな。多分これから走るたびにそう思うんだろう。別に学生時代だって毎日走ってたわけじゃないけどさ。ブーツでも意外と走れるもんなんだね。
 ため息だか息切れだかわからないものが出たのはエレベータに乗り込んでからだった。自分の行動が馬鹿みたいで、フェンディのバッグだけではこみ上げてきた笑いを抑えることができなかった。みんなの一番楽しい時間を邪魔しちゃいけないような気がしたので、その場にうずくまって声を殺して笑った。
 どんなかっていうと、〝へっへっへ〟てな感じの声が四角い箱の中に響いた。
 階を示すライトが3になった。
 エレベータがそこで止まったことに違和感は覚えなかった。私は笑いながら今人が入ってきたらパンツが丸見えだな、とかいうことを妙に冷静に考えていた。
 無機質に開いたドアの向こうにはスーツ姿の男が一人で立っていた。考え事始めると笑いって止まるよね、妙にスローに真顔になるんだ。何でこんなところに男一人なんだろう。黒髪、短髪、顔七十五点。アーモンドアイっていうのか、そんな目をしている。結構もてそうだ。背もあるし、合格。男は視線が変に下方から感じたのではっとした様子だったが、そのまま乗り込んできた。パンツは見なかったみたいだ。
 ドアが閉まるのはゆっくりだった。男は背中から見ると意外とがっしりしている。多分高校時代は部活一筋だったタイプだ。間違いない。
 ふと、この場に似つかわしくないフルーティな香りが鼻を掠めた。多分ジャンヌアルテス。この香りは……。
「あの」
 男は唐突に声をかけてきた。観察に集中していた私はちょっとびびった。びびったんで低い声で「ああ?」て凄んでやったらあっちもびびった。
「いや、ああ……」
 顔のわりにはっきりしない男だ。パンツ見なかったときは面白いと思ったけど、単に気付かなかっただけかもしれない。「なに」って言ってやったら黙っちゃった。
 既にライトは1になっていた。私は立ち上がると、機械的に開いていくドアに向かって男を思い切り蹴り飛ばした。気持ちいいくらい情けない軌道で倒れてくれたが、大して面白くなかった。フロントに眠そうな中年女が見える。男は再びドアが閉まるまで向こうを向いて倒れたまま微動だにしなかった。
 二階から階段で降りてきた頃にはどこにも男の姿はなかった。あれだけ理不尽なことをされたら怒り心頭だろうに。見た目より気の弱い男だったな。まあ私のパンツを見ない時点で男としてはレベルが低いね。
 しかしなんだろうか。男から逃げてきた後はいつも胸の上にもやもや、気分悪いわ。大して惜しい男でもないのにそれだけは変わらない。私にも良心ってものが残ってるわけか。……ああ、結局私も世間に踊らされてるってことね。やな感じ。
 ところでやな感じついでになんかフロントの中年女もさっきからこっちを睨んでる。アイシャドウ濃いんだよ、ばーか。私はその〝まぶた〟を心の内で百回くらいボコボコにしながらホテルを後にした。ちなみに命名の由来は彼女がここぞとばかりに強調していたチャームポイントによる。
 ああ、仕事探さなきゃなあ……。夜のホテル街に夢も何もあったもんじゃないので、急に現実的な問題が襲い掛かってきた。晩ごはんは年下に払わせたが明日から食う当てがない。私は自分の境遇を呪いながら夜のネオン街をさまよった。

 

       

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