Neetel Inside 文芸新都
表紙

夏への扉
4日目 傷だらけのビルの街

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昨日から降り続く、酸性雨は街を枯らしている。
交差点には色とりどりの傘が、まるでソブラニーカクテルのように続く。道行く人々にはきっと、銘々に目的があるのだろう。今日の晩ご飯はなにかなあ、なんて考えて。明日の予定にため息でもついて。
すれ違う肩を避けながら、ハチはぼうっと滲んだ道の先を眺めた。パチンコ屋さんから徒歩10分。家に着いたころには、もう夕方を過ぎていた。
母親は帰宅していないようで、玄関にある靴は一足。黒いヒールのそれは、天使の少女、ドアのもの。
その隣に雨水の染み込んだ靴を脱ぎ捨てて、廊下を進む。靴下を洗濯機に放り込んでから、ハチは台所に立った。

「……はぁ」

コップに水を汲んで、一気に飲み干す。短い息が零れて、憂鬱な気持ちが加速する。
テレビもなにも点けていないリビングは、窓を打つ雨音の独壇場。なんとなく冷蔵庫を開けてみても、買い置きのお酒は底をついていた。
これからなにをするべきなのか、彼はまだ考えが決まっていなかった。
また、ドアになにかを言われるに違いない。彼女は口数が少ないくせに、小言の割合が多い。いつだって、意味深に言い返せないような言葉で責め立てるのだ。
面倒だなあ、なんて気持ちで髪をかき上げながら、自室へ向かう。しかし扉を開けても、部屋の中に彼女の姿はなかった。

「あれ、」

こんな狭い部屋。一目で視野に全部が入ってくるけれど。それでもハチは、きょろきょろと左右へ視線をやった。
室内は朝方に外出したときとなにも変わっていない。脱ぎっぱなしの寝巻きだって、閉めたまんまの窓だって。なにも。
ひょっこり頭だけを扉から出して、家全体に耳を澄ます。けれど聞こえてくるのは雨の音だけ。ドアのいる気配は感じられなかった。
しかしまあ、いないのならいないで構いやしない。気兼ねなく、色々とできるというものだ。
久々の一人きりに、どうしてかハチは微笑んでいた。椅子に腰掛けると、彼女がいないうちになにをしようか、腕を組んだりして考えてみる。案はすぐに出た。しかもなかなかに名案。彼にとってはね。
この機会にオナニーをしよう。そうだ、京都いこう、的な。
ドアが部屋に住み着いてから、ろくに処理もできていなかったのだ。だって気を使っちゃうし、見られてると集中できないし。

「よし」

そうと決まれば彼の行動は早い。ステレオの裏に押し込んである成人向け雑誌を引っ張り出すと、机の上に表紙を広げる。
それからティッシュを右側にセッティングして、ジーンズとパンツを膝までずらす。深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。心が洗われるようだ。どうかと思うけど。
なにするにせよ、精神統一が必要不可欠。静まり返った家の空気を確かめてから、彼はイチモツを握り締めた。ハチのイチモツだからハチモツ。うまい。
雑誌をめくると、そこでは圧倒的に幼い少女が、爆発的なポーズで微笑んでいる。それに隅から隅まで視線を這わせて、イメージを膨らませた。
十分に堪能すると、続いて次のページ。また別の幼女が、今度はちょっぴり切なげに見つめ返している。

「満月たん可愛いよおっ、」

部屋の中に、ハチの上ずった声が反響する。これは気持ち悪いな。一人じゃなけりゃあできないわけだ。
そうして一枚、また一枚とページをめくっていき、ついにお気に入りのワンショットまでやってきた。この項目には、何度お世話になったかわからない。
彼は気にも留めていないけれど、行為の開始から15分が過ぎている。そろそろフィニッシュにしてもいい頃合いだ。
ゆっくりと、それでいてしっかりと。想像力を総動員すれば、加速度的に右手は唸る。息もだんだんと荒くなってきているし、なんだか脈打ってくるし。
ハチはそのままの高揚で、ティッシュを数枚引っ張り出した。
込み上げてくる興奮と、冷めていく熱狂。開放感より先に倦怠感が訪れて、なんだかとっても空しくなる。

「……ふぅ」

短く息を吐けば、一気に心が平静を取り戻した。イチモツを元通りに納めてから、ぱきぽきと腰を鳴らすハチ。
それから、丸めたティッシュをゴミ箱に放り投げようと、椅子の背もたれを軋ませて振り返る。

「え、」

そこで初めて気がついた。真っ黒のワンピースを着た少女が、彼の背中を見つめているのに気がついたのだ。

「なにしてるの」

ドアは気だるそうに一言、ぽつりと呟く。なにしてるのかなんて、ハチの持ったティッシュの塊を見れば明らかだろうに。それなのに、ドアは聞く。どんな羞恥プレイだよ。

「お、お前……いつから、」

ハチもハチで、こんな台詞しか喉を出なかった。そりゃあ気の利いたジョークなんて言える状況じゃないし。そもそもジョークすら言えやしないし。
ドアは机の上に広がっている雑誌を横目で見てから、ほんの少し微笑んで答える。

「満月たん可愛いよお、って言っていた辺りから」
「割と初めのほうじゃねえか!なんで声かけなかったんだよ!」
「集中していたようだから」

ぐっ、と言葉に詰まるハチ。額には冷や汗が浮かんでいるし、頬はちょっぴり染まっている。天使だと言っても、こんな少女に行為を目撃されてしまったのだ。気恥ずかしさもわかるけれど。
そんな彼とは対照的に、ドアは口の端を歪ませて、薄い笑みを浮かべていた。嘲笑としか言いようのない表情。はじめて見る彼女の笑顔は、底なしに屈辱的なものだった。

「きみはそうやって、命を擦り切らしていくつもり?」

しばらくの沈黙が部屋に流れたあと、口を開いたのはドアだった。もう微笑みは消えていて、いつもの無愛想な顔に戻っている。
まだまだ恥ずかしさから抜け出せないハチを眺めて、さらに彼女は続けた。

「ただ死を待つだけでいいのなら、そうしているといい。けれど、」
「ちょ、ちょっと待て、待ってくれ」

淡々と語るドアの声を手で制して、ハチは握ったまんまのティッシュを見せ付ける。意味が伝わったようで、ドアはこくんと頷いた。
彼女の目の前でベルトを締めると、汗やら何やらで湿ったティッシュをゴミ箱に捨てる。それから仕切り直すように咳払いを一つ零して、ハチは椅子に戻った。
律儀にも微動さえせずに立ち尽くしていたドアが、緩く首を傾げる。

「いい?」
「あ、ああ、どうぞ」

どんな顔して話を聞けばいいんだかわからない。とりあえずハチは背もたれを抱え込むように腰をおろして、彼女へ視線を向けた。
モノクロームのフィルムを切り取ったような、ドアの華奢な体の線。脚は今にも崩れてしまいそうなほど細いし、腕だって作り物みたいに艶やか。
サイズぴったりのワンピースからは小振りな胸の形が浮いて見えるし、漆塗りのような髪は後ろで纏められ、そのまま尻尾そっくりに揺れていた。
どうしてか、下半身が熱くなるのをハチは気づいた。さっき済ましたばかりだというのに。若いってすごい。

「ただ死を待つだけでいいのなら、そうしているといい。けれど……聞いている?」
「ん、おお、聞いてる聞いてる」
「そう」

話を聞いてほしいのだろうか。眠そうな顔をしていながらも、けっこう反応を気にしているみたい。頬が緩むのを堪えて、ハチは彼女と目を合わす。
再びの無言。心ばかりの小休止を置いて、ドアは繰り返した。

「ただ死を待つだけでいいのなら、そうしているといい。けれど、」

いつもここで区切るのは、返事でも待っているに違いない。「ああ」と短く相槌を打って、続きを促す。

「けれど。大切なものを手に入れて、それをずっと引き出しに入れていたのでは、持っていないのと同じ」

雨が降っている。東向きの窓しか持たないこの部屋は、もう夜になっていた。湿った空気が渦を巻いて、二人の影を囲む。
いつだって、ドアの言葉の真意をハチは知らない。だから彼女がなにを伝えたいのかもわかりはしないし、深く考えてみようとも思わない。
しかし、そんなことは大した問題じゃあないのだ。天使は言う。そして彼は聞く。それだけの構図が、部屋には広がっていた。

「その力も。その命も」







4日目
「傷だらけのビルの街」







夕食を食べて、お風呂に入る。それだけが終わると、もう一日は暮れようとしていた。
今日も何一つ実りのない日を過ごしてしまったが、後悔も反省もなかった。
部屋に篭る、懐かしい洋楽のメロディ。何十年も前に死んだ人のブルースが、儚くステレオを流れる。
ベッドに寝そべっているハチの脚が、拍子にあわせて揺れていた。ドアはロッキングチェアーに座っているくせに、まるで揺れていない。その視線は、ステレオを乗せてある小さな本棚に注がれていた。

「これ、なに?」

ぎっ、と腰をあげる音を聞いて、ハチは彼女に目を向けた。ドアは本棚の前にしゃがみ込んで、紺色の背表紙を指差している。

「アルバムだよ、俺の」
「見ても構わない?」

なにに興味をひかれたのだろうか。ちょこんと首を傾げるドアを見て、ハチは「ああ」と答えた。
返事を聞いた彼女は、アルバムを本棚から抜き取って、床に広げる。そこに貼り付けてある一枚一枚の写真を目で追って、何度か瞬きをした。
その横顔を見て、ハチは奇妙な錯覚を感じる。恋人ができたら、こんな風に過ごしたりするのかなあ、なんて。夢見心地に夢を見る。

「この人は誰」
「ん。ああ、それは親父だよ、俺の親父」

不意にかかった声に、早口に答えた。変な妄想をしていたのを気づかれたんじゃないかと思ったが、どうやら違ったようだ。
ドアが指をさしていたのは、彼の父親。とっくの昔に他界した、思い出の中の人間。

「親父はさ、俺が中学のころに死んだんだ」

ハチには、父親との記憶があまりに少ない。いつだって忙しげに時計を気にして、彼が起きる前に家を出て、彼が寝てから帰宅していた。
一緒に夕食をとることさえ稀だったし、どこかへ外出することもなかった。父親だけれど、まるで噛み合わないの生活を送っていたのだ。
そんな父親が病気にかかって、やがて命を落として。いろんな人たちが代わる代わる慰めてくれたときにも、ハチにはどこか現実味がなかった。

「葬式でも母さんは泣かなかった。それなのに俺には、ちゃんと泣いときなさいって言って」

流れ作業のように、とんとんと済んでいった弔いの行事。その後で一言だけ、母親はそう言ったのだ。あのときの彼女の顔を、ハチはもう思い出せない。
伏せ目がちに語る彼の隣に立って、ドアはその横顔を見つめる。

「同情してほしいの?」
「お前なんかに、そんなの求めちゃいねえよ」

彼女の手からアルバムを抜き取って、元の位置へ押し込む。ドアはその様子さえもじっと眺めるだけで、まったく何を考えているのかわかりやしない。
ハチは再びベッドに戻ると、掛け布団をいっぱいに引いて、彼女に背を向けた。

「たださ。俺が死んじまったら、母さんは泣くのかなと思って」
「知らない。私はきみの母親じゃないから」
「当たり前だ。お前が母親だったらもっとグレてる」

ドアは「そう」とだけ呟いて、すっと立ち上がった。窓に写る部屋には、別々に黙り込む二人がいた。








雨の音が聞こえる。雨の音しか聞こえない。
ステレオは少し前に曲をすべて消化してしまって、室内には沈黙が流れる。
ドアは窓辺に佇んで、ただずっと。濡れる街を眺めていた。まるで痛みを洗い流すように、雨だけが景色になる。
彼女は眠らないのだろうか、ハチが起きるまでそうしているのだろうか。

「あのー……ベッド、入るか?」

どうしてか、それはとても寂しいことだと思える。だからなのかはわからないけれど、気づけば彼は声をかけていた。

「なにする気?」
「なんもしねえよバカ」
「そう」

大した意味で言ったわけではないのに、なんだか照れくさくなってくる。返事からしばらくの時間を置いて、ハチの隣でスプリングが軋んだ。
のっそりと、背中越しに温かさが伝わってくる。彼女の表情は見れないけれど、なんとなく想像ができた。きっと、無愛想な顔をしているに違いない。
天使だと言っても、間違いもなく女性だ。気にしないというほうが無理かもしれない。童貞だしね。
喉が息の仕方を忘れて、意識的に呼吸をする。ドアのポニーテールが、ハチの背中に凭れていた。なんだかいい匂いもするし、拳を握っていなければ変な気を起こしちゃいそうだ。
雨は絶え間なく窓を打って、夜の暗さを手助けしている。あまりの静けさに、誘ったハチ本人が後悔し始めていた。

「あ、あのさ」
「なに」

ドアは瞳を閉じたまま、抑揚なく答えた。呼吸と一緒に肩が上下して、その度にハチの背中に髪があたる。

「俺は、なにをすればいいんだろ」
「知らない」

けっこうな勇気で聞いたというのに、ドアの返事は素っ気無い。
その代わりにだろうか、先ほどよりも彼女の背中が近い気がする。童貞の妄想がそんな風に思わせるだけかもしれないけれど。

「もう4日目も終わる。なにかのきっかけを待っているだけでは、なにも変わらない」

ドアが喋るたびに、背中越しに振動が伝わった。言葉にはどこか、いつもの棘がなかった。
雨は振る。傷だらけのビルの街に、しなやかに振る。
二人の知らない場所にも、知らない人たちの上にも。我慢しなくちゃいけなかったり、耐えなくちゃいけなかったり。

「やまない雨はないとか、明けない夜はないとか、よく言うだろ」
「それでもきみは今、雨に打たれているし。夜の中にいる」

まるで子守唄のように、耳に心地よく流れる声色。ドアの言葉を聞きながら、ハチの瞼は重く閉じていった。



【残り27日】


       

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