Neetel Inside 文芸新都
表紙

夏への扉
1日目 人生失格

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ネオンサインがぽつぽつと輝きだした繁華街。
タバコ屋さんの向かい、国道から二本逸れた道沿いにあるパチンコ屋さん。その店先で、大きなため息をつく少年がいた。

「くっそ。あそこで止めてりゃ良かったんだ……」

こういう台詞ってよく言っちゃうよね。
勝つか負けるか、ギャンブルなんてなんでも二択しかない。そんで彼は、こんなことならソープでも行ってりゃ良かったって、後悔してる側。
色落ちし始めた茶色い髪をボリボリと掻いて、財布の中身を確認する。
入っていたのは三枚の千円札。つい二時間前までは福沢諭吉がいたっていうのに、今じゃあ野口英世が空しく納まってるんだ。顔変われって念じてみようか。

「今月どうしよ……」

21歳、大学中退、無職。ついでに童貞。
全財産を賭けてのギャンブルに負けた彼に、収入の見込みはない。大好きなタバコもお酒も買えやしない。
彼、松本ハチはパチンコ屋さんを睨みつけてから、ふらふらと繁華街の道を歩き始める。
日は傾いて、空は真っ赤に燃えていた。やさしく家路に誘う世界の中、彼は憂鬱に肩をすぼめている。
ハチの隣を、学校帰りの子供たちが過ぎていった。将来になんの不安もないような彼らを見て、ますますさもしさが込み上げる。
100万円を拾った場合の使い道を考えたり、ビルゲイツに本気出して頼めばいくら貰えるかを妄想したり。そんな無駄なことばかりが頭に巡って、素晴らしい夕陽すら鬱陶しく思えてしまう。
人生の栄光を願いながら、彼の足は帰路へ向かった。




玄関を開けると、ちょうど仕事帰りの母親が靴を脱いでいるところだった。
母親はハチを見て、皺の寄りはじめた目を細めて微笑む。

「あら、遅かったわね。アルバイトの帰り?」
「そ、そうだよ。店長がなかなか帰してくれなくてさあ。はははっ」

まさかパチンコ帰りとは言えやしない。曖昧な笑顔で答えたハチにも、母親はにっこりと頷いてみせる。

「信頼されてる証拠ね。頑張りなさいよ」
「わかってるよ。もうすぐリーダーに格上げされるって話も出てるんだぜ」

嘘ってのは、ついつい重ねてついてしまう。癖になるとキリがないのだ。
つい一ヶ月前までは、彼も働いていた。けれど、他のアルバイトの人たちと折り合いがつかずに辞めてしまった。
もちろん、母親はそんなことを知らない。だから彼の嘘も、全部を信じちゃう。

「ご飯、今から用意するからもう少し待ってなさいね」

母親はスーツの上着を脱ぎながら、いつもみたいにそう言った。リビングへと向かった彼女に背を向けて、ハチは自室の扉を開く。

「できたら呼んでくれよ」
「はいはい」

会話を遮断するように、バタンと乾いた音を立てて、扉を閉める。
部屋の中にはベッドとステレオ、大学机。それから申し訳程度の小さなテレビがある。あと、貰い物のロッキングチェアもあった、ユラユラするやつ。あんまし使わないけどね。
ベッドの反対側に東向きの窓があって、そこからは紺色の空と、薄い月が見える。
ハチはネルシャツをロッキングチェアの背にかけると、ベッドに体を放り出した。
右腕を額に当てれば、ひんやりと頭が冴えていく。

「はぁ……」

口から出るのはため息ばっかり。明日から三千円で過ごさなきゃいけないし、それが嫌なら働かなくちゃいけない。
また他人に合わせて愛想笑いをして、うまく立ち回る毎日に耐えて、お金を貰って。
そんな日々を過ごしていくうちに、やがて30歳になって40歳になって。これからずっと、そういう風に生きていく。
小学校の頃は、中学校に上がったら。中学校の頃は高校、高校の頃は大学に入れば。なにかが変わると思っていたのに。今じゃあ次の目的すら見えない。
彼にも夢があった。誰にもなんにも言われない、大きな目標があったんだ。
人生ってのはもっと美しくて楽しいもので、その人生の中で世界を旅して回りたかった。
ウディガスリーのように気楽に。スナフキンのように身軽に。それでいて何もかもを大切に。毎日知らない場所を生きてゆく素敵な人生。そんな生き方をしたかった。
でも、今の彼はどうだ。朝起きて、ご飯を食べて、テレビなんかを見ているうちに日が暮れて、またベッドに潜る。非生産的な毎日。
10年後、20年後もこうしているのだろうか。特に楽しい出来事もなく、胸が踊るような出会いもなく。
そんなことを考えてしまうと、なんだか苦しくてやり切れなくなる。だから彼は、いつも知らないふりをする。

「こんなはずじゃなかったのにな」

夕食まで寝てしまおうか、そんなことを考えながら寝返りを打つ。暗いテレビ画面に映っているのは、ベッドで身を縮ませる彼の姿。

「きみ、失格」

なんの前触れもなく部屋に響いた声に、ハチは思わず息を呑んだ。
一瞬、母親に独り言を聞かれたのかとも思ったが、まったく声が違う。今聞こえたのは、耳をくすぐるような少女のものだ。
バッと上体を持ち上げると、声の主は目の前にいた。

「……っ、」

思い通りに言葉が出ない。喉がしゃべり方を忘れたみたいに、音をすり切らしてしまう。だって、知らない女の子が部屋にいるんだもの。
ハチの隣に立っていたのは、喪服のような真っ黒のワンピースを着た少女だった。
彼女は気だるそうにハチを見下ろして、部屋の調和を歪めている。

「お前、誰だ」

やっとのことで、一言だけが口を出た。
しかし、少女はその質問に答える代わりに、細い腕をハチへと伸ばす。
早鐘をつくように高鳴る心臓。ハチは身を引くこともできずに、彼女の手に頬を挟まれた。
そうして抵抗をする時間も与えられないまま、見知らぬ彼女に唇を奪われたのだった。



ハチは両手でベッドカバーを力一杯に握る。見開いた瞳には、少女の輪郭だけが映った。
柔らかい唇の奥に、前歯の硬さを感じる。彼女の甘い香りが鼻腔を満たして、気を失いそうになる。
数秒間のキスに終止符を打ったのは、彼女の方だった。開放されたハチは、ただ呆けたように少女を見つめる。

「なにを、」
「きみに力をあげた」

ハチの言葉を制して、少女が澄んだ声で言った。
窓には明るくなった月が貼り付いて、事の顛末を見届けようとしている。
ハチはわざとらしく口元を拭ってから、もう一度低い声で尋ねた。

「誰だお前」

長いポニーテールを揺らして、少女は彼と距離を置いた。
それから唇に人差し指を当ると、艶かしく舌なめずりをしてから答える。

「私はドア。きみの天使」






1日目
「人生失格」






「な、え、ドア?天使?」

まさかこんなジト目の少女から、天使だなんて可愛らしい単語が出るとは。思いもしなかった答えに、ハチは素っ頓狂な声を出した。まあ、どんな答えが出てくるかも想像できなかったけれど。
それでも彼女は、面倒というより無関心のように、こくりと頷くだけ。

「そう、天使。ドアは名前」

気取るでもなく、気負うでもなく。彼女は言う。
黒い服に黒い髪。それと対照的な白い肌と切れ長の瞳。どう見ても日本人だし、ドアなんて名前は似合いっこない。
しかしこの際、名前は大した問題じゃあない。それよりも聞くべきことがあるのだ。

「え、なに、天使?」
「天使」
「天の使いの?」
「天の使いの」

抑揚のない鸚鵡返し。ハチは短く息を吐いて、心を落ち着けた。そうでもしなけりゃ怒鳴っちゃいそうだったしね。
あれか、天使ならキスも普通のことなのか。そうか。ってな具合にはいかないよ。

「あー、そっか。天使か、はは」

いきなり部屋に現れて、いきなり自分を天使だと言う少女。それをそのまま、ああそうですかって納得できるわけがない。
聞きたいことも言いたいこともたくさんあったが、なんだか馬鹿らしくて力が抜けてしまう。
乾いた笑い声あげる彼を覗き込んで、ドアは表情を曇らした。

「きみ、信じてない」
「信じられるかそんなもん。ていうかお前どっから入った?いつ入ってきた?」
「きみの悩みが私を呼んだ」
「はぁ?」

まったく意味がわからずに、ハチは前髪をかき上げる。しかしドアは顔色ひとつ変えないまま、すっと彼の額を指差す。

「信じないのなら、力を使ってみるといい」
「力?」

こくりと頷いてみせるドア。

「キスをして、きみに天使の力をあげた」
「ちょっと待て、順を追って説明してくれ。意味がわからん」
「可能な範囲できみの願いを叶える力。それをきみは持ってる」

淡々と話される言葉はどれも説明口調で、主観的なイメージが伝わってこない。
不法侵入をした上に、無理やりキスをして意味不明なことを話す。頭のネジが外れたような、非現実的な少女。
早いうちに彼女を追い出してしまわなければと、徐々にハチは焦り始める。だが、どこかで期待をしているのにも、彼自身は気づいていた。

「どういうことだ、願いを叶えるってなんだ」
「きみは想うだけでいい。なにか願ってみるといい」

想うだけで、願いを叶えてくれる。彼女はそう言った。もしも本当だったなら、どんなに素敵なことだろうか。
お金が欲しいと願えばお金が入り、恋人が欲しいと願えば恋人ができる。そんなだったら、どんなに素晴らしいだろうか。

「はやく」

口を開けたまま黙るハチに、ドアは急かすように呟いた。見れば眉根が下がっている。ダルそうなその表情は読み取れないけれど、願うだけなら害はない。
ハチは俯いて、瞳を閉じた。
壁にかかった時計から零れる、秒針の回る音だけが部屋を満たす。少女の息遣いは聞こえない。まるで人形のように、ハチの肩を見下ろしている。
カーテンの裾がふんわりと舞った。梅雨明けの生ぬるい風がドアの髪を撫でる。
やがて、一分ほどが経った頃。ハチが顔を上げたのと同じタイミングで、部屋の扉がノックされた。

「ハチ、ちょっといいかしら」

廊下から母親の声が聞こえて、ハチはびくりと肩を震わせる。「やばっ」と口早に呟いてからドアに視線を向けると、彼女は小首を傾げて見せた。

「ちょ、お前隠れろっ」
「どうして」
「母さんに見られたらやっかいだろっ」

この状況を見られては敵わない。彼にもドアがいつ入ってきたのか知らないのに、母親に説明なんてできやしない。
恋人だよって言ったって、こんな黒装束の女を囲っていると思われたくないし。なにより気恥ずかしいのだ。
ハチは彼女の腕を乱暴に掴むと、ベッドの下を指差して告げる。

「ここ入れ!」
「いや。狭い」
「ああもうわがまま言ってんじゃねえ、早く入れ!」

けっこうな剣幕で言ったつもりなのだが、ドアは表情ひとつ変えずに首を振る。
その間にも扉の向こうから母親の声が聞こえてきて、どんどん彼を焦らせていく。
こうなれば無理やりしかなかった。自分の唇も無理やりに奪われたのだから、これでお相子だろう。なんて、思う。
ドアの華奢な肩を押さえて、力ずくでベッドの下に押し込んだ。初めは抵抗していた彼女も、渋々と体を滑り込ませていく。

「押さないで」
「いいから早くっ。出てくんなよ」

ドアを指差してそう言うと、返事も聞かずに部屋の扉を開ける。時間が掛かったことを母親は特に気にしていないようで、いつもの笑顔で立っていた。

「なに、飯できた?」
「まだ作ってるところ。もうすぐ出来るから待ってなさいな」
「あ、うん……えっと、じゃあなに?」

それには答えず、母親はエプロンの裾で手を拭いてから、ポケットに手を入れる。取り出したのは彼女の財布だった。

「これ、少ないけどお小遣い。最近あんた頑張ってるみたいだから」

母親の手に握られていたのは、二枚の一万円札。今日、ハチがパチンコで負けた額とちょうど同じだった。
手渡された二万円を見つめて、彼は絶句してしまう。お小遣いなんて貰ったことがないし、なにより驚いたのはその金額。
パチンコで負けた分を取り戻したい、そう願ったのはついさっき。それが今、数分と経たずに叶ってしまったのだ。
無言になったハチを怪訝そうに見て、母親は首を傾げた。

「どうかした?」
「いや、あの……ありがとう、」
「いいのよ、そのくらい」

彼女はそれだけを言うと、にっこりと微笑みながら台所へ戻っていく。その背中を呆然と眺めるハチに、抑揚のない声が飛んだ。

「信じた?」

ドアはベッドの下から這い出して、彼の隣に立つ。ハチの頬には冷や汗が見えていた。

「こんなことって……」
「それが天使の力。人の心の、扉を開ける力」






夕食をほとんど流し込むように平らげてから、家を出たのが七時半ごろ。パチンコ屋さんに再び入店したのが八時過ぎ。そう考えると、二時間ほどで10万円を稼いだことになる。
もちろん自力で大当たりを引いたわけじゃあない。確変中の台を譲ってもらったのだ。それはただ、心の中で願うだけで良かった。それだけで、誰もが急に用事を思い出したように、いそいそと帰っていった。
にへらと嫌らしく微笑むハチ。夕方とは打って変わって、彼の財布にはぎっしりとお札が詰まっている。
街灯がポツポツとアスファルトに光を落として、暗い夜道に臨場感を出す。家路を行く彼の足はとっても軽やか。お金があるって素晴らしいね。

「たっだいまーっ」

本当に久しぶりに、帰宅の挨拶を言ってみる。リビングから母親が「おかえりなさい」と答えたが、その声に訝しさは感じない。彼がそう願ったから。
自室に入ると、天使の少女が当然のようにいた。もしかしたら、いなくなっているかもしれないと思っていただけに、なぜか安心してしまう。この気持ちはなんだ、恋か。違うな、女の子だからだ。童貞の性ってやつね。
ドアはステレオの前に尻餅をついて、古いレコードを退屈そうに眺めているところだった。ハチの帰宅にも興味を示さずに、英語の歌詞を目で追っている。
数時間前までは敵視していた少女も、今じゃたまらなく有難い存在だ。

「なあ、天使さん」
「ドア」
「え?」
「名前。ドア」

振り返らないまま、彼女は独り言のように呟く。それさえ愛嬌があると思えてしまうから不思議なものだ。
ハチはドアの隣に座って、財布からお札を取り出してみせた。

「なあドア、お前のおかげで10万も勝ったよ。なんか欲しいもんあるか?なんでも願ってやるぜ」
「楽しそうね」
「そりゃな。なんたってこんな力をもらったんだし。天使の力って名前は、ちょっとダサいけどよ」

ははは、と笑みが零れて出る。
この力さえあれば、人生は想うとおりに変えられる。面倒な人付き合いをして、ちまちまとお金を稼ぐこともない。欲しいものが欲しいだけ手に入る。
笑顔を貼り付けるハチを、ドアは流し目で見つめた。お互いの瞳にお互いだけが映る。なんとなく、身を引いてしまうハチ。照れ臭いっていうか、そんなん。
けれどドアは違った。どこまでも無表情に、彼に視線を注いでいる。

「ん。なんだよ?」
「はじめに言ったけれど、きみは人生を失格した」
「え、なに?」

陳腐な台詞も彼女の口から出ると、どこか不気味な影をまとう。しかしその真意がハチに伝わるには、言葉が少なすぎた。

「どういう意味、」
「そして」

ハチの声を制して、彼女は続ける。

「そして、これは言い忘れていたけれど。きみの人生は残り一ヶ月」

今、なんて言った。ドアはなんて言ったんだ。
理解が追いつかずに、ハチの声は喉から出てこない。だからといって聞き返したくもない。
それなのに、天使はもう一度、はっきりと。まっすぐと。彼に言うのだ。

「きみはあと一ヶ月で死ぬ」


【残り30日】

       

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Neetsha