Neetel Inside ニートノベル
表紙

ひつまぶし短編集
「春風」

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「生きていていいのかな」
 裕子はつぶやくようにそう言った。
「何言ってるんだよ?」
 僕は、彼女の寝ているベッドの上に手をついて身を乗り出す。
「だって、こんなにもみんなに迷惑をかけているんだもの」
「迷惑って」
「そうよ。ずっと病院の中で過ごして。学校にもろくに行けない。かといって働けるわけでもない。お母さんは私を生かすためにずっと働き詰め。でも私はお母さんに何も返せない」
 裕子は深いため息をついた。悲しそうな目に対して、僕は何も言えない。
 彼女は病を患っていた。よく解らないが免疫系の病気らしく、抵抗力の落ちた体では外に出ることも厳しいのだそうだ。また彼女の両親は離婚しており、現在母子家庭である。しかし祖父母に当たる人たちはもう死んでしまっているらしく入院費用は全て彼女の母親が賄っている。そのためどうしても働き詰めになってしまい、彼女はいつも一人ぼっちだった。
 ちなみに僕はというと彼女の幼馴染だ。昔、よく遊んでいた。小学生の頃はしょっちゅうお互いの家を行き来した。まだ男女関係なく遊べる年ごろの話だ。中学生になると男女別で遊ぶことがほとんどだった。でも、その時にはもう彼女は入院していた気がする。入る前から休みがちではあったけど。
 暇なときはたびたび高校に入学した今でもこうして顔を出している。それは友達のいない彼女への同情かもしれなかったし、あるいは別の感情かも知れなかった。
「ねぇ、私は生きていていいのかな」
 今度は僕に向けて発したようだった。けれど、正しい回答なんて解らない。気のきいたこともいえそうにない。
「いいんじゃないのかな」
「なんで」
 とりあえず吐いた僕の言葉に即座に聞き返してきた。けれど答え返すことはできなかった。そんなこと、解らない。
 僕が何も言えないのを見ると彼女は俯いて、そう、と言って窓の外を見た。やりきれない空気に耐えきれず僕は何も言わないままその場を去る。病室の扉を閉めるときに見えた彼女は儚げで、すぐにでも消えていきそうだった。
 帰り。高台にある病院から真っすぐに続く緩い下り道を僕は歩く。もう4月だと言うのに未だつぼみの桜並木があった。空はどんよりと曇っていて、泣きたいのを我慢しているようだ。町が鼠色に見えたのは、きっと僕の心を写していたからだろう。


 次の日、裕子のお母さんから連絡があった。正確には裕子のお母さんが僕のお母さんに連絡し、それを僕が聞いたのだった。
 裕子が飛び降りたらしい。屋上から地上へと。重力に任せて。
 幸い草木が邪魔をして即死には至らなかったが、打って折れた肋骨が肺等の臓器に刺さり危険な状態だそうだ。
 娘の非常事態に動転したお母さんはうちに連絡してきたのだった。他に頼れる人がいないのだ。付き合いのある家はもううちしかない。
「裕子、死ぬのかな」
 自分の部屋でポツリと漏らした。知らせを聞いた僕は病院に急がず部屋に戻り、明かりをつけないままでぼおっとベッドの上に座っていたのだった。
 昨日まで元気ではないにしても普通に生きていられた彼女が、死のうとした。それとも心は死にかかっていたのだろうか。あの問いかけは、最後の叫びだったのだろうか。ずっと生きていていい理由が、欲しかったのだろうか。僕はそれを、あんなぞんざいに振りはらってしまったのか。
 後悔がこみ上げる。口まで上がってきたそれは、嗚咽となって現れる。吐きだそうとしても吐き出せない。ずっとわだかまりが残る。あのとき、ちゃんと答えていれば。もしも、なんて今更もいいところ。それでも考えずにはいられない。彼女が死んでしまったら。それは僕のせいかもしれないのだ。
「いや、待て」
 そこでふっと不思議な気分になった。
「なんで僕は、こんなことを考えているんだ?」
 別に、彼女が死んだところで僕の生活に支障があるわけではない。むしろ病院に行くことが無くなって自由な時間が増える。それに彼女が望んでしたことならば他人が口をはさむようなことではない。死にたければ死ねばいいのだ。
「よくわかんないな。けど」
 こみ上げる気持ちの処理に忙しくてしっかり考えることはできない。けれど、口をついて言葉が出た。
「死んでほしく、ないな」
 ポツリと出た一言。一瞬自分でも驚いた。こんなに、まるで僕の世界を構成するピースが抜けてしまったような喪失感の前触れのようなものを恐れる自分があったことに気付いてしまって。
「そうだ」
 そこでよくやく僕は理解したのだった。恋愛感情かは、解らない。でも裕子は僕にとって、少なくとも大事なものだったのだ。死んでほしくないから生きていてほしいからこそ、僕は今後悔しているのだ。
 生きてほしいと願う人は僕だけじゃない。裕子のお母さんだってそう思っているはずだ。
 瞬間、足は病院へと駆け出した。間に合うかは解らない。けれど、それは問題じゃない。僕は行きたいから行くのだ。
「私、生きていてもいいのかな」
 あのとき彼女は言った。その答えが今解ったのだ。
 人は皆、生かされている。死んでほしくないと思う誰かによって生かされている。裕子は今まで彼女の母に生かされていた。僕は両親に。もちろん他の人にも支えられているのだろう。
 だからこそ、人は一人では生きられない。
 けれど生かしてもらっていることに恩を感じ、何かを返すことなど必要ない。誰かを生かす彼ら、彼女らは各々のエゴによって僕らを生かしているのだ。返すのならば、それは返したいという自身のエゴによって行われる。
 そもそも彼女の言葉はそもそも的を射ていなかった。生きている以上、生きていていいのだから。誰かが生きていてほしいと願うから今生きているのだ。だから、生きていていい。生きているのに、生きる許可を受ける意味も理由を考える意味も無い。
 他人を想うエゴを、きっと愛情と呼ぶのだろう。エゴであるからこそ無償。しかし、何よりも優しいわがまま。
「裕子!」
 僕は病院に着くとすぐに看護婦に彼女のことを尋ね、聞いた病室へと駆けこんで彼女の名前を呼んだのだった。
「なぁに」
 返事が返ってきた。そこには、まだ生きている彼女の姿があった。
「大丈夫……だったか」
「……死ねなかったよ」
 ぜいぜいと息を切らしながら、僕はベッドへと近づく。俯いていた彼女はそれに気付いて顔を上げる。目があった。
「死ねないなら、生きてるしかないな」
「そう、かな」
「そうだよ」
 視線を保ったまま言う。
「もしも理由が必要だっていうのなら」
「え?」
「僕の為に、生きてくれ」
 おそらく、これを告白と言うのだろう。そんな気は更々なかった。ただ本心を言っただけだ。言わなければ伝わらない。伝えたいから言うのだ。
 あっけにとられたように口を開けていた彼女は、今度は「ふふっ」と笑う。
「わかったよ」
 久しぶりに見た裕子の笑顔は、やはりとても綺麗だった。
 
 病室の窓からは桜の咲いた街が見える。窓を開けると心地良い風が頬を撫でた。僕らの所にもようやく春が来たようだ。
 この町は、今日も美しい。

       

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