Neetel Inside ニートノベル
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ひつまぶし短編集
「自殺スポット」

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 姫路裕子はもうすぐ結婚しようと思っていた。彼とは大学に在学中に出会い、卒業と同時に籍を入れるつもりだった。お嫁さんという言葉に胸を膨らませ踊るような気持ちになっていた。新婚生活に期待を膨らませていた。
 しかし、あっけなく裏切られた。期待が裏切られた。
 彼が事故で死んだのだ。
 だからこうして彼女は今、ビルの屋上でフェンスを越え裸足で世界を眺めている。
 ここは飛び降り自殺の場所として一部では有名な場所らしかった。らしい、というのはネットの掲示板で教えてもらったからだ。
『自殺したいのなら、このビルがおすすめですよ』
 その文字の下には場所を示すページへ飛ぶURLが張られていた。
 成程、と裕子は思った。ここなら人通りもなく、人にあたる心配もない。止められる心配もない。高さも十分だ。苦しまず安心して死ねる。
 ふと辺りを眺めてみると花が添えられている。ここで死んだ人へのものだろうと裕子は思った。私が死んだら、誰か添えてくれるのだろうか。
「どうしてこうなっちゃったのかなぁ」
「今そっちに行くからね」
「そっちでも結ばれればいいね」
「なぁんて、私は地獄に行くと思うけど」
「ちょっと耐えられそうにないや」
 誰かに語りかけるようで、しかし全て独り言だった。
 遺書はない。でも裕子を知る者なら動機なんて考えるまでもない。彼が死んで間もないのだから。裕子自身も必要ないだろうと思っていた。このそろえた靴を見れば自殺であることも分かるだろうと。
「じゃあね」
 別れを告げて、いざ飛び降りようとする。
 その時。
「待って!」
 誰かの声が、裕子の耳に届いた。
 呼び止められてつい声の方を振り返ってしまう。屋上の入口の方を見ると誰かが立っていた。それは、裕子と同じくらいの年恰好の女だった。服装はOLのようで、髪は長くひどく白い顔をしている。
 だが引き留められたものの、裕子には面識があるとは思えなかった。
「死んじゃ、だめだよ」
 その女は怪訝そうな裕子の様子など知らないといったように話し始める。
「……どこの誰かも知らない他人が、知ったようなこと言わないで」
「知ってるよ」
「何を?」
 裕子の顔がますます曇った。
「自殺したらね、みんなが悲しむんだよ」
 女は切なそうな表情をする。
「お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも、お姉ちゃんも、弟も妹も友達もみんな泣くの。なんで、どうしてってそればっかり言って。後を追って死のうとするときもあったわ」
 言われて、裕子は家族のことを思い出した。今朝も笑って送り出してくれた家族のことを。友達だっている。大学からの友達だって、もう四年近くの付き合いだ。馬鹿ができるのも今年までだね、と笑いあったのを思い出す。後追って死のうとする? それは今の私じゃないかとも思った。
「でもね、そんなの死んだ人は願ってないの。そんな人たちの姿を見て自分が死んじゃったから、申し訳ないって気持ちでいっぱいになる。笑ってほしいんだって気付く。死んじゃってるからもう遅いんだけどね。死んじゃったから何もできなくなっちゃった」
「死んだら……何もできない」
 裕子が言葉の一部を繰り返すと、女は微笑した。
「貴女は今、確かに死ぬほど辛いのかもしれない。でも生きていればいつだって死ねるけれど死んだらもう生きられないんだよ。どうせいつかは死ぬんだから、いつかはあの世へ行くんだから」
 女は言う。
「今死ななくていいんじゃない?」
 その言葉にはどれも不思議な説得力があり、裕子は自分の心にしみ込んでいくような感覚を得た。ありふれた言葉なのにまるで特別な言葉のようにぐるぐると体の中を反芻しているような気分になる。女を一瞥すると、尚のこと心に入り込んできた。「死んだら、何もできない。……私のように」とそう言われている気分になった。女はそこにいるというのに、まるで経験した人間の言葉かのように聞こえてならなかった。
 そうして、裕子ははっとする。何故自分がこんなことをしているのか分からなくなった。父や母、兄妹たち、友達のことを思い出す。そうだ。私が死んだら、私が今感じているように悲しむ人たちがいるのだと思った。我に返り、麻痺していた気持ちが戻ってきたのだ。
 同時にいつ落ちるともしれない縁に立っている恐怖感が一気に押し寄せた。立ち続けることもままならず、フェンスにしがみつきながらぶるぶると震えだす。私はなんて恐ろしいことを。彼女はそう思った。一刻も早くここから立ち去ろうとする。
 いざフェンスを乗り越え着地すると、もう女は居なくなっていた。少し気になり、ビルを歩いてみたが誰も人はいなかった。二時間ほど歩き回ったところで仕方ないと思い裕子は家に帰った。
 後になってみれば、なんであんなことをしたのか分からなかった。魔が差したとしか言いようがない。

 数日後、裕子はやはり気になってもう一度あのビルに行ってみたのだがやはりあの女を見かけることは無かった。だから、ネットを調べ直すことにした。
 改めて見てみると、自殺志願ではなくオカルトを語る掲示板であの場所における複数の書き込みを見つけた。それをヒントに検索し直してみると、ある情報にたどり着く。
 ――あのビルは確かに有名な場所だった。自殺しようとしても死にきれなくなってしまう、死ねない自殺スポットとして。
 あの場所で死んだのは一人だけ。大学を出たばかりのOLがいじめを苦に自殺した。以来、誰も死んでいない。だからネット上ではその最初に死んだ人が呼び止めていると噂されている。
 屋上に添えられていた花はつい最近誰かが飛び降りたからではなく、つい最近助けてもらったからだったのだ。供養の花でなく、感謝の花。
 調べ終えると、裕子は不思議な気持ちになった。私は幽霊と出会ったのだろうか。自殺したいというあの時の気持ちは確かに本物だった。でも、それは一時の麻薬のようなもので冷静になれば恐ろしくひどいことなのだ。あるいはそういう私の奥底の気持ちが幻を見せたのかもしれない。いや、もしかしたらネットに書き込んだ人が止めに来てくれたのかもしれない。いずれにしてもこんな話、誰も信じやしないだろう。けれど確かにあの時私には見えたし聞こえたのだ。
 きっとこれは本当の話なのだと、彼女は思った。確信できる証拠など何もない。ネットの書き込みなど所詮は噂話だ。けれど、現に私は今こうして生きている。それだけで十分な気がした。
 だから彼女は掲示板を開き、自殺場所を探し彷徨う人達に向けて書き込む。
『自殺したいのなら、このビルがおすすめですよ』

       

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