しっぽのない猫、翼のない君
僕がミヤをはじめてみたのは、三年前のこと。
とある施設の中庭、小さなひだまりに、彼女はいた。
1. ひだまりの猫少女
僕は子供のころ“それ”を当たり前のことと思っていた。
目の前の人が次に何を言うのか、僕にはいつだって正確にわかった。
なぜならそれは、頭に響く『声』として聞こえてくるのだから。
そのせいで僕はいま、ここにいる。
いましも目の前、問診を終えた医師がカルテに何かを書き込み、顔を上げた。
すると『声』がきこえた――
『いまひとつだけ確実にいえることは、カノンさんはひどく疲れておいでだということです。
まずはその疲れを癒すことからはじめましょう』
果たして医師は、にっこり笑ってこう言った。
「いまひとつだけ確実にいえることは、カノンさんはひどく疲れておいでだということです。
まずはその疲れを癒すことからはじめましょう」
平凡な、予想を裏切らない無難な、言葉。
無難な、毒にも薬にもならない、なにも救ってくれはしない、言葉。
しかし、食い下がる気力などとっくに枯渇しきった僕は、ただ「はい」とだけ口にしうなずいた。
目の前の人が次に何を言うのか、僕にはいつだって正確にわかった。
気味悪がられるのが嫌で封印すると、“それ”は復讐のように力を増した。
今度は、近づいただけでその人の考えまでもが<声>となって聞こえるようになってしまった。
そのせいで僕はいま、ここにいる。
女性の看護士に引き渡された僕は、彼女について廊下を歩いていった。
前方から何人かの職員がやってきた。
この廊下の幅では満足に距離を取れない。すれ違いざまに、<声>が飛び込んでくる。
「こんにちわ」
<あれが今日の新入りか。さえない顔だな>
「こんにちわ。」
<はあ、今度は誇大妄想だってさ……最近とみに多いんだよな。まあだから俺たちもご飯が食べられるんだけど>
「……こんにちわ」
<こいつはまだ大人しそうだし、手間がかからないのは助かるかな。まあそういうのほどキレさせたら怖いし……>
ああ、うるさいうるさい。
テンプレ通りに構築した、うわべだけの言葉。
同時に心の中でつく悪態。
――嘘、ばかり。
顔で笑ってればわからないと思って。
いつもの繰り返しにうんざりしたぼくは、彼らの方を見ないよう反対側に首をひねった。
するとそこには、予想を超えた『!』が、あった。
『!』に適切な一語を当てはめることは、もう三年たつが未だにできない。
あえて候補を挙げるなら――
光。発見。楽園。
天使。
客観的に描写するなら、ぼくの視線の先には窓があり、窓のそとには小さな中庭があり、その一角には小さな陽だまりがあって。
そこには大小三匹の猫たちと、漆黒のボブカットも可愛らしい少女が、丸くなって眠っていた。
ぼくはその時どき、とした。
トキメキなどという素敵なものでではない。警戒心で、だ。
『声』<声>が聞こえてしまうチカラは、眠っている相手に対してでも情け容赦なく発動する。
つまり眠っている人を見ると僕には、その人が夢の中でしゃべっていることが聞こえてしまうのだ。
他人の夢をのぞいてしまうというのは、必ずしも愉快な体験ではない。
それも、可愛い女の子のものならば。
そのギャップからくるショックは倍怖い。
だがぼくの耳にはいつまでたっても何も聞こえてこなかった。
怖いことばも悲しいことばも、なにひとつとして。
聞こえるのは、無邪気な楽しそうな、笑い声だけ。
突き刺さらない。言葉が。
彼女はヒトなのに、ぼくを傷つけない。
あえて候補を挙げるなら、――
それは天使。救い。
オアシス。
その瞬間、ぼくは彼女に恋をしたのだろうと思う。
ぼくは思わず、彼女の方に、すなわち開け放しの窓に向けて一歩を踏み出してしまった。
看護師の<声>が聞こえた。
<あら、この人はじめてほかに興味を示したわ。ひょっとして猫が好きなのかしら?>
『「どうかされましたか、カノンさん?』」
ダブルで聞こえてくる、看護士の言葉を無視して僕は、問いを口にしていた。
「あの子、なんていうんですか?」
『「ああ、あの子ね。
ミヤちゃんて言うの。美しい夜とかいて美夜。
いろいろあって、言葉を話すことができないでいるの。だけど猫たちとは仲良しで、いつもああやって一緒にいるのよ』」
そのとき、彼女が目を開けた。
まるで猫のようなしぐさで目元をこすり、んーと思い切り伸びをした。
猫を思わせるくりくりした目で、彼女は僕をじっと見る。
そうして一度きゅ、と目をつぶると口を開いた――
「にゃあ」