時刻が定時近くになり、周囲ではちらほらと帰り支度を始める姿が見られる。岩倉からの依頼で行ったデータの修正も終わり、テストチームにデータを送信したところで、赤坂はあることに気付いた。昼以降、海上が一度も自席へ戻ってきていない。
かといって別段気になるわけでもないが、世間話程度に、隣にいる依代に話しかけてみる。
「海上さん、外出でしょうか。昼からずっといませんけど」
依代は、そういえば、という顔をして海上の席を見る。
「さあ、私もわからないな。リーダー会議が今日あるって朝会で言ってたけど、まさかまだやってるってことはないわよね」
そういえば、海上は今日から現場の管理者に昇格したのだった。ちなみに海上の肩書きはサブリーダーであり、リーダーではないから手当も何もつかない。俗に言う名ばかり管理職という誰もが恐怖するポジションである。
「そのまさかを現実にするパワーが、この現場からは感じられますね」
「うふふ、そうかも」
依代と冗談を言い合いながら日報を書いていると、通路の奥のほうから海上がゾンビのように生気を失った顔をして歩いてきたので、赤坂はギョッとした。海上はうなだれたまま自席へなだれ込むように座ると、壊れた人形のように天井を見上げ、白目をむいている。
「ちょ、海上さん疲れすぎ自重、ダブリュウー!うぇっうぇっ」
舞浜が未知の言語を口走りながら海上の肩をたたくが、海上はそれに反応を示さず、やはり天井を見つめて放心している。
海上のただ事ではなさそうな様子を見て、依代は赤坂の袖を引っ張る。
「ねえ、海上さん様子が変ね」
「そうですね。干からびた芋みたいになってますよ。あっはっは」
軽口をたたきながら日報を書き終えた赤坂は、内容をメールで海上に送信し、バッグを肩に担いだ。
(今日は、家電魔術師にとろちゃんの再放送があるのよね)
携帯を片手に、赤坂はワンセグ受信可能地域まで全速力で駆け抜ける。ある程度移動しないと、視聴可能な放送局の電波を受信できないのだ。
にとろちゃんの暴虐振りを堪能し帰宅した赤坂は、バッグをソファーに下ろしたところで、依代からメールが来ていることに気付く。
title:おつかれさま♪
本文:昨日すごくおいしいケーキがあるお菓子屋さんを見つけたんだ。今度一緒にいこうね!
その日起こったストレス要因がすべて雲の向こうに吹き飛ばされたような気がした。ほんわかとした気分で「絶対いきます、地球が三回割れてもいきますので」という意味不明な本文に感嘆符を20個ほどつけて返信した。
(いやな予感がする)
赤坂にケーキの件についてメールを送ったあとで、依代文乃はとある懸念を抱いていた。そしてこの懸念は、たった数日前に感じたものとほぼ同質ものであった。
(わるいようにかんがえても、結果がよくなることはないわ)
思考を停止させるのではない。一歩前に踏み出せるよう、準備するのだ。これまでもそうしてきたし、これからもそうするつもりだ。しかし、依代が現在抱えている負のイメージは、これまでにない莫大な質量を持って自身を押しつぶそうとしているような、そんな予感があった。
(あの子だけは、助けてあげないと・・・・・・)
翌日、赤坂は一番に出社した。驚くほどに気分のよい朝、食堂で缶コーヒーを貴婦人のように啜り、窓から見える美しい木々を眺めながら幸福なひと時を堪能する。いつの間にか座っていた上中里がティーカップを片手に微笑んでいる。いつもなら「なににやけてんだ気持ち悪い」と胸中で悪態をつくところであるが、今日は上中里につられてウフフフオホホホと微笑み合戦を繰り広げられる自信があったし、実際そうなった。
しばらくして、食堂には開発メンバーが大方そろったが、海上だけがいない。最後に来た依代が頭上にはてなマークを浮かべて海上の行方を尋ねるも、誰も連絡を受けていないとのことであった。
唯一海上の連絡先を知っている舞浜に連絡してもらおうということになり、舞浜が「あの人寝起きわりいから連絡すんのいやだな」と言いながらも渋々電話をかけようとしたところで、赤坂は食堂の入り口付近に見知った顔がいることに気付いた。
「あの、依代さん」
「ん、どうしたの?」
「あそこ、あそこみてください」
赤坂が指差したほうを見た依代も、見知った顔が存在していると気づいたようだ。
「なんかいるんですが」
「なんかとかいっちゃだめよ。でもどうしたのかしら。ちょっと行ってくるね」
そう言って、依代は見知った顔の方に歩いていった。一方舞浜は海上に電話をかけているようだが、つながらないようだ。舞浜の耳の近くにある携帯電話からは、「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源がオフの状態になっているため、おつなぎできません」という旨のアナウンスが聞こえてくる。
そうこうしているうちに、依代が見知った顔の男と歩いてこちらに戻ってきた。
「ようおはよう、ひさしぶり」
見知った顔の男の正体は、甲本であった。
赤坂はあからさまに不愉快な顔をして、突然の訪問理由を尋ねる。
「どうしたんですか甲本さん、突然ですけど。何で来られたんです?」
「あっはっはー、まあすわってくれい。よっこいしょ」
甲本はどっかと腰を下ろすと、メンバに座るように促した。しかし指示する以前に、甲本が来たことで立ち上がった者はいなかった。
「甲本課長聞いてくださいよ。海上さんがまだ来てなくて、連絡すらないんですわ。笑っちゃいますよねうひゃひゃ」
甲本が本題を切り出す前に舞浜が口を開いたが、やはり笑っているのは彼だけだった。
「ああ、今日来たのはそれと関係あるんだけどな」
舞浜の軽口に乗る人間を久しぶりに見た、と赤坂は驚いたが、次に甲本から発せられた言葉は、そんな驚きがゴミクズほどにどうでもよくなるくらい、正常な思考能力を破砕し、爆砕し、粉砕し、塵芥と化すものであった。
「海上くんは今日から本社で勤務することになりました。そんで海上くんがやってた管理業務等は全部赤坂がやってください。開発と兼任になるけど今よりちょっと作業が増えるくらいだからチョロイでしょ。じゃあ俺このあと用事があるから帰るわ。おつかれ」
赤坂と依代は、自分の周りの時間が凍結したように感じた。
つづく