Neetel Inside ニートノベル
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 赤坂が限界近くまで疲弊していることを自覚したのは、依代から自身の腹の虫が鳴っていたことを教えてもらった時であった。自分の体の変調に気付けないほど、意識が混濁しているのかもしれない。
「お昼食べる時間なかったからね。一区切りついたら、ご飯食べに行きましょうか」
「そうですね、朝抜いてるから胃が食料の増援を求めていますよ」
「ネガティブ、増援は出せない。現有戦力で対処せよ」
 なんだと思って声をした方に振り向くと、埠頭が舞浜をものすごい形相で睨んでいた。どうやら舞浜も同じタイミングでランチタイム要請をしたようだが、HQに拒否されたらしい。
「私の方はいつでも行けますけど、依代さんの方はどうです?」
「そう?じゃあ、ちょっとまってねー。10分ほどで終わらせます」
 依代はそう言うと、すごい勢いでキーボードをたたき始めた。勢いとは対照的にキータッチは非常にソフトなので、その音を聞きながら眠りについてしまいそうだ。
 何をしているんだろうと依代の後ろから作業中のモニタを覗いてみると、タイトルらしき部分に少し大きめのフォントで「障害報告書」と書かれていた。背後の赤坂の気配に気づいたのか、依代がニコニコしながら口を開いた。
「経緯とかは後でみんなに説明するけど、これはお客さんに提出しないといけないから、赤坂さんは後で読んでチェックしてね~」
「えっ、わたしがチェックするんですかあ。できるかなー」
「大丈夫、赤坂さんならできるよー。そんなに難しい事書いてないし、文脈のおかしなところとか誤字脱字なんかも指摘していただけると助かりますよっと。はいおわり」
 依代がそんなくだらないミスをするのだろうか、と赤坂は思ったが、「結構字を間違っちゃったりするのよね。ちゃんと変換したつもりでも読み返してみたらおかしかったりとかよくあるよ」ということらしい。赤坂から見て超人級の依代がそんなことをするとはとても思えなかったが、本人がそう言うんならそうなんだろう。
「もうだめ、これ以上何も食わずにいたら全国各地を転校したあと現地の恋人に会うために野宿やバイトした挙句続編で死んでしまう」
「センチメンタルでいい人生じゃねえか。この作業が終わったらプレステの電源入れて葬式の準備してやるよ」
 舞浜と埠頭がなにやらよくわからない会話をしているが、手は動いているようなので問題ないだろう。問題は上中里の方で、手どころか上半身が完全に石化しており、微動だにしていなかった。依代が心配して声をかけると、上中里は水を得た魚のように動き出す。モニタを指さしてなにやらブツブツ言っているが、ここからでは聞こえない。それを横で聞いていた依代がニコニコしてモニタを指さしながら指示すると、上中里から感嘆の声があがる。どうやら問題は解決したようだ。
「それじゃあ、行きましょうか」
 自席に戻ってきた依代が赤坂に声をかけ、手提げかばんを持って出口のドアへ歩いていく。赤坂も慌てて依代の後ろについていき、先程のやりとりについて尋ねてみた。
「さっきの件ですけど」
「ん、どのあたりの件かなー」
「上中里さんのことです。何をあんなに悩んでたんでしょうか」
「あー、あれね」
 依代はやはり、ニコニコしながら答える。
「F5を押してもデバッグが始まらなかったのよ」
 へぇ、そんなことがあるのか、と赤坂は初めて聞く開発環境の不具合発見に感心した。
「で、結局なんだったんですか?」
 赤坂の問いに、依代は笑顔を絶やさず、人差し指を上に向けて答えた。
「開発ツールにフォーカスがあたってなかったわ」
 赤坂は、バナナなしで足元から崩折れるという貴重な体験をした。


 吉川平良は、疲弊していた。仕事が遅々として進まないばかりか、情報が錯綜して何が正しいのかもさっぱりわからない。
 苦労して積み上げてきた情報の束も、困ったことに吉川のとなりに鎮座する髭面の男の一声で霧散してしまう事がしばしばで、気の休まる暇が無い。
 原因の殆どが髭面クソ野郎こと岩倉のせいなのだから、一度は文句でも言ってやろうと思ったが、吉川の胸に深く刻み込まれた教訓はそれをいつも拒絶する。岩倉とは極力関わってはいけないのだ。
 今日の件だってそうだ。岩倉がありもしない妄想と寝ぼけた脳みそで半覚醒状態のまま参加した会議の内容を曲解したせいで、パートナー会社に迷惑をかけてしまった。今回の一件でもともと頼りなかった自社の信頼はもはや風前の灯であろう。
 吉川がどのような皮肉で以て岩倉を小馬鹿にすることで精神の平穏を保とうかと考えながらキーボードをペチペチと叩いていると、背後に気配を感じた。
「ようタイラー。さっき頼んだ見積りもう上がったよなー。これに入れろー」
 岩倉がけだるそうにUSBメモリを突き出す。この男は驚くことに、いくらの軍艦巻きUSBをビジネスシーンで用いるような画期的人間である。是非とも即刻退職届を提出していただきたい。
 吉川は、もうどこから突っ込んでいいやらといった顔で、岩倉にバレないようにしてため息をついた。とりあえず、妙なニックネームで呼ぶのはやめてほしいと思う。
「数分前に自分で期限が明日といったものをぼくが10数秒で完成させると思っているなら、心療内科の受診をおすすめしますよ。教えましょうか林先生のEメールアドレス」
「はっはータイラー、面白いなお前。ぶっとばすぞ」
 いくらの軍艦巻きを引っ込める代わりにげんこつを繰り出してきたので、吉川はひょいひょいかわしながらキーボードを叩く。今日中に終わらせる予定だったテストは、先程のドタバタのせいで進捗がかなり遅れている。岩倉と遊んでいる暇はないのだ。
「しかし、あれだよな、タイラーくんよ」
「なんですよ」
 岩倉が気色の悪い笑みを浮かべながら吉川に話しかける。吉川としては無視して作業に集中したかったが、それをすると岩倉の機嫌が異常に悪くなり、チームの雰囲気も下降の一途をたどるため、適当に相手せざるを得ない。
「依代さんって美人だよなあ。うへへ」
 目や口をだらしなく歪ませながら、岩倉は依代という女性の方をみている。その下卑た視線は見ているだけで嘔吐しそうになるから、見られている当人はたまったものではないだろう。しかし依代自身は視線に気づいていないのか、作業を黙々とこなしているようだ。
「はあ、そうですね」
 確かに依代は魅力的な人物ではあったが、その件について岩倉と話し合いたいとは微塵も思わない。早く会話を終わらせて作業に戻ってくれないものかと、吉川はイライラしながら相づちを打つ。
「だろ?そんなタイラーくんに朗報があります」
「朗報?」
 岩倉がおかしなことを言い始めた。嫌な予感しかしない。
「岡野のおっさんがさっき来てな。今日の夜の緊急ミッションに人手が足りないから手伝って欲しいそうだ。依代さんとこがメインでやる作業らしいぞ。よろこべ、今日は依代さんと徹夜だ」
「えええー。えー」
 吉川は思わず否定的応答をする。それを聞いた岩倉が不服そうに口を尖らせた。ネコ型ロボットが出てくる漫画の金持ち息子キャラのような顔に見えた。不愉快を絵に描いたような顔をしている。
「なんだよ。俺がせっかく仕事を取ってきてやったというのにその態度はねえだろ」
 邪魔にしかならない仕事なんか持ってくるんじゃねえよ。
「お前の大好きな依代さんと仕事が出来るんだぞ?それだけで幸せだと思えよ。最近のやつは座ってりゃ仕事が転がり込んでくると思ってんだから困るよなー。営業できないSEなんていらねーんだよ。一生PGやってろ」
「はあ、で、何をやるんですか?」
 え?と虚を突かれたような顔をした岩倉は、やがてこう言った。
「そんなもんしらんがな」
 システムエンジニア、吉川平良の受難は、始まったばかりだ。

       

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