Neetel Inside ニートノベル
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炎上作番デスマチセブン
第三話 不測の必然

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 べ、別にあんたのために作ってきたんじゃないわよ。お弁当作るときに材料が余っちゃったから、残飯処理班としてあんたをよんだだけなんだから。勘違いしないでよねっ。

 赤坂未尽には、「空想上の素直になれない女の子」を好むという特殊な嗜好があった。実在すれば迷惑以外の何者でもないこの存在になぜ自分が惹かれているのかを、赤坂は一度考えたことがある。
 空想上の存在というのは、コミュニケーションをとる上で発生するリスクが極端に少ない。加えて欲望を満たすのに十分な見返りが用意されていることが多く、用意されていない場合でも妄想することができるし、それが人間関係へ直接被害を及ぼすことが少ないから、そこに快楽の一端を見出すことさえできれば、現実から離陸することなど容易いことなのだ。
 根底にあるものが妄想である以上、空想上の存在が自分を裏切ることなど有り得ない。言わば自分に対する絶対的な信頼感が、
(こんなこと言ってても、ほんとはわたしのことが大好きで、これから毎日おべんと作っていっちゃうけど、やっぱり素直になれないから強がり言っちゃって、家に帰ってから泣くほど後悔して、枕を抱えながらベッドの上を何往復も転がり続ける作業が始まっちゃうのよね)
という幻想を誇張している。他者に害をなすわけでなし、自身の精神安定にもつながるのだからこれほどよいことはない。
 赤坂未尽は、ポジティブな妄想こそ救いなのだと信じていた。

「赤坂さん、ちょっと、大丈夫?しっかりして」
 依代が赤坂の顔を覗き込むが、返事がない。目は開いているし、白目をむいているわけでもないから、意識はあるはずなのだが、声をかけたり目の前で手を振ったりしても、赤坂からは何の応答もない。
「赤坂サーバPing打っても反応ないね。どうしたのかなっかなっ」
 舞浜が軽口をたたいた。関係ないが、舞浜がある特定のキーワードを含んだ発言をするたびに、上中里がぴくっと反応しているような気がするなあ、と依代は思った。
 そんな依代の思案から程なくして、赤坂がようやく口を開いた。
「か、かんちがいしないでよね、べつにあんたのためにあんけんわたしてるわけじゃないんだから。たしゃがもうかかえきれないっていうからあんたのとこにおこぼれがころがりこんでるだけよっ」
「しっかりして赤坂さん!なんだかすごい恥ずかしい!はずかしい!はずかしいわ!」
 依代はにやつきながらも顔を赤くして赤坂の肩を強く揺らした。これ以上彼女に何か言わせるわけにはいかなかった。さっきから舞浜が赤坂の言葉を聞いたとたんにガハハと笑い出しているし、七三の海上はニヨニヨと薄ら笑いを浮かべながらこちらを見ている。ただでさえやかましい自社の評判が、赤坂の加入でオーバーキル状態になることは避けたい、依代は強くそう願っていた。関係ないが、さっきから上中里が頭だけ突っ伏し、小刻みに震えながら机に頭突きをしているように見えるけど大丈夫だろうか、あとで声をかけたほうがいいかな、と依代は思った。
「はっ」
 マンガのような蘇生音を口にした赤坂は、ようやく瞳に光を取り戻した。
(あれっ、打ち合わせ終わったのかな)
 赤坂が気付いた頃には、すでに岡野主催の打ち合わせ時間は終了しており、赤坂はいつの間にかいつもの自席に座っていた。依代いわく、あさっての方向を見ながら自分で歩いて戻ってきたが、5分くらいは赤坂に何を話しかけても返答がなく困っていたらしい。赤坂は申し訳ないことをしたと思い、依代に詫びを入れた。
 直後、赤坂の脳内に、打ち合わせ時に言い渡された宣告内容が、今にもオーバーフローしそうなほどに急速展開された。
「ほぉぐば!」
 落ち着いたと思った赤坂から急に放たれた奇声に、依代は肩をビクンと反応させた。
「ど、どうしたの?気分でも悪い?」
 依代の言葉は間違っていない。ただ、依代と赤坂双方の意図は激しく乖離している。
 赤坂は、ようやく長い前置きにピリオドを打つべく、重い口を開いた。
「依代さん、すいませんがちょっとご相談したいことがあります。お時間頂いてもよろしいでしょうか」

「ちょ、ちょっとそれは、わたしだけでは判断できないなあ」
 依代は赤坂の話を聞いて、顔色を変えずに青ざめていた。赤坂の話を要約すると「わけがわからぬまま打ち合わせに引っ張り出され、逃走したサブリーダーの代替要員以上の存在として祭り上げられた」ということだった。
「はぁ、わたしはどうすればいいんでしょうか」
 依代に奢ってもらったコーヒー牛乳をすすりながら、赤坂は低い声で言う。
 赤坂個人に対する顧客の誤認も問題ではあるが、それ以上に厄介なのは、赤坂が打ち合わせで入手した資料によると、顧客からの依頼で持ち帰った案件の作業量が異常に膨大で、とても期日までに消化できるようなものではないということだった。
「うーん・・・・・・、むむむ」
 打ち合わせ場所をかねている広い食堂の片隅で、依代はやはり顔色を変えずに考える。
 これまで多くのプロジェクトに関わり、それをこなしてきた依代ではあったが、このような経験は初めてだった。調整役はいつも上長がやっていたし、むしろそういうことに関わろうとすると「余計なことは考えずに作業に集中しろ」と言われていた。
 自分の知識や経験だけではどうにもならないと考えた依代は、他者の介入で時間を稼ぐことにした。
「とりあえず、海上さんに相談してみましょうか。あの人も伊達に齢を重ねてるわけじゃないと思うし。心配しなくても大丈夫よ。何とかなるから」
 赤坂はいやな予感がしたが、話を聞いても顔色一つ変えない依代を信用し、はぁ、と頷いて肯定した。
 依代が出向社員全員に支給されているPHSで海上を呼び出すと、程なくして七三分けの男ががに股歩きで登場した。遠目から見ると海上は、たちの悪いごろつきのように赤坂には見える。
 よっこいしょ、と言いながら依代の隣に着席した海上に、依代は事情を説明した。興味なさげに話を聞いた海上は、食堂の窓から見えるビルを眺めながら気軽に言う。
「で、それがどうかしたの?」
「えっ」
「えっ」
 赤坂はあからさまに顔をゆがませ、海上を睨みつけた。海上はそれに気付いたのか、斜め上を見ながら引きつり笑いを浮かべている。それに気付いた依代が口を開いた。
「赤坂さん。先輩をそんな目で見てはだめよ」
「そ、そうだぞ。俺は5年先輩なんだから。もうちょっと目上の者を敬うって気持ちがひつよ」
「さっきから海上さんが大蛇に睨まれた子ウサギのようにプルプル震えちゃってるじゃない。繊細な生き物なんだから丁寧に扱わないとすぐに壊れてしまうわ」
「よ、依代。言葉選ぼうか」
 海上の言葉を意に介さず、依代は赤坂に反省を促す。赤坂は素直に応じ、海上にぺこりと頭を下げた。
「あ、いやわかればね。わかればいいんですよ。なんかよくないきもするけどいいや」
 話が脱線しているため、依代は海上に本題を切り出した。
「赤坂さんの件もそうですが、案件の量自体も非常にまずい状態です。加えてサブリーダーがいない現状、自社の全体を見渡せる人がいません。このままでは」
 依代の話の途中で、海上が割って入った。
「だからさ。現状の話はわかったての。それで?何で俺を呼んだわけ?俺はどうすればいいの?」
 依代は初めて顔を少し歪ませた。できることならお前など頼りたくない、その思いが海上には遠まわしなやりとりとして認識されている。
(この会社の社風がなければ、お前などに頼るものか)
 そう思いながら、依代は少し息を吐き、いつもの顔を取り戻してから、海上に要望を述べる。
「甲本課長と相談して、顧客との間に発生している認識の齟齬を解消してください」
「えー。俺あのおっさん苦手なんだよなあ。口からドリアンみたいな臭い吐いてるし」
「電話で話をすれば問題ないでしょう。第一本社に戻る時間なんてあるんですか?」
「いやまあそうだけどさ。口は悪いわ臭いわ屁はこくわ、毎日庶務のねーちゃんのケツ追っかけまわしてるわで最悪だろあのおっさん」
 甲本の人物像に関しては、社内で完全に認識が一致している、と赤坂は思った。
「そんなことは知っています。そしてそんなことは聞いていません」
 顔が笑っているが、言葉が一切笑っていない。赤坂はこの現場へ来て初めて、依代の黒い部分を垣間見た気がして、おしっこにいきたくなった。

     


     

 依代の憤怒を感じ取り、海上の表情に諦めが見られた。こいつはつまらん事を間に挟まんとまともに会話もできんのか、と赤坂はまた海上への怒りを募らせ、イラつきはじめる。
「そいじゃ課長と話して客と話はつけとくから、お前らは早く自席に戻って作業終わらせろよ。早く終わったんなら俺の分やるから声をかけるように」

 赤坂はその日、作業が時間丁度に終わるよう絶妙なペース配分でキーボードを叩き、海上のほうを見ず定時に帰宅した。

     

 いいぜ。

 てめえが何でも予定(スケジュール)どおりに計画(プロジェクト)が進むと思ってんなら。

 まずはそのふざけた幻想を――ぶち殺す!

「エッー!」
 赤坂は文字で形容しがたい奇声を発し飛び起きた。頭の先から足の指先まで、ぐっしょり汗で濡れている。
(今まで生きてきた中で最悪最低の夢を見たわ)
 赤坂は寝汗で重くなった布団を払いのけ、ベッドから立ち上がった。職場へのストレスからあまり眠れなかったためか、目にクマができている。
(パンダみたい。クマでパンダになるか。面白い、実に面白い)
 くだらないことを考えながらふと時計のほうに目をやる。アナログ目覚ましは、赤坂が見慣れない位置に針を置いていた。そういえば今日は何度か目覚ましを消した記憶があるなあと、はっきりしない頭で時計を手に取った赤坂は、10分後に家を出なければ遅刻が確定する現在時刻をみて、やはりまだ自分は悪夢の中にいるのだと実感した。
「エッー!」

 赤坂が所属する会社の出向メンバは、出向メンバ全員で行う打ち合わせなどは、作業を行っている部屋ではなく食堂を借りて行うことにしている。食堂は、昼間の食事時間以外に食堂として機能することはないため、空いている時間帯は打ち合わせ場所として活用されている。また、テーブルと椅子がたくさんあるので、打ち合わせ用途で使用されることが非常に多い。
 依代は、食堂の端にずらりと並んでいる自販機からカフェラテを購入し、いつも朝会を行っているテーブルへと歩く。海上と上中里はすでに席に着いていた。
「おはようございます。今日は早いですね」
 本当にそう思ったので、依代は素直に感想を述べた。
「なんだ、俺がいっつも最後に来てみんなを待たせているみたいな言い方じゃないか」
 海上は不服そうに依代を指差しながら言った。
「えっ、ちがうんですか!?」
 突然、上中里が朝の静寂を突き破るような疑問の声を上げたため、海上は腹が立つというよりびっくりした。
「きみらねえ、そういう冗談をいってるといい加減おじさんは怒りますよ」
「それならまったく問題ないですね。すべて事実ですから。海上さんの腹筋を崩壊させるようなユーモアセンスは、私にはありませんよ」
 あらあら、うふふとクスクス笑っている上中里は放って置くとして、海上には依代の発言一つ一つに「テメーいつもいつもむかつくんだよそろそろ脳みそバッファオーバーフローして弾けてここからいなくなれ!」という意図が感じ取れるような気がする。
 海上は、眉間にしわを寄せつつも薄ら笑いを浮かべながら、依代に応戦を開始した。
「いやいや依代ほどの腕であれば、甲本さんの優秀な片腕としてお膝元で立派にご活躍されるんじゃないですかねえ?いろいろ実績もあるみたいだし」
「あらあら、私のことを買いかぶりすぎですよ。せっかくのご提言ですけど、遠慮させていただきますわ」
 上中里は、向かい合ってバチバチと火花を散らしあいながら舌戦を繰り広げる二人を見て、今日も平和ですね、と思った。
 依代から数分遅れて舞浜も到着したところで、依代はあることに気付いた。いつもであれば自分より早く来ているはずの赤坂が来ていないのだ。
「赤坂さん見ました?」
「いや、みてないな。寝坊でもしてるんじゃねえの」
 海上がかぶりを振ったので、辺りを見回して別の場所に座っていないかどうか確認してみるが、それらしき姿はない。それならばと、依代は携帯電話を取り出した。
「電話してみますね」
 と、依代が携帯電話の通話ボタンを押そうとした瞬間、バダーン!という音がした。依代が何事と思い後ろを振り向くと、頭がボサボサの女性がこちらへ向かって、マイケルジョンソンのようなフォームで走ってくる。テーブル付近まで来たところで減速に失敗し、ずるりと足を滑らせ、豪快に転倒した。
「よお、台風のシーズンはまだだぜ赤坂」
 舞浜が欧米人しか反応できない高等話術で硬直した場の空気を和らげようとしたが、その場にいるすべての人間は、舞浜の存在を無視した。
 赤坂すぐに起き上がり、ぺこりと頭を下げる。
「す、ハァハァ、すいません、クハァ、おそくなりぶぁ、ハァハァ、なりました、ハァハァ」
「赤坂さんおはよう。とりあえずこれもって化粧室にいってらっしゃい」
 顔を紅潮させ、乱れた髪をさらに乱れさせている赤坂を見て、依代は予備のハンカチを渡した。赤坂はハンカチを受け取るや否や、ハイ!と大きな声で返事をし、化粧室へ向けて猛ダッシュしていった。

「以上が、昨日発生した問題になります」
 身なりを整えた赤坂が戻ってきたところで、朝会が始まった。依代は、昨日赤坂の付近で起きた事象についてをメンバーに伝えた。問題点を共有するために発表しているのだが、舞浜は耳垢をほじくりながら天井の照明を眺めてボーっとしているし、上中里はどこから持ってきたのかわからない高そうなティーカップで紅茶を啜っている。
「これらの問題について現場だけでは判断できないと海上さんが判断されたので、昨日甲本課長と相談していただきました。海上さん、その件についてよろしくお願いします。」
 赤坂には依代の発言に違和感があった。実際に課長へ報告して何とかしてもらうという判断をしたのは依代のはずだ。海上をたてるために依代が気を使ったのだろうか。
 そんな赤坂の思いに気付く素振りもなく、海上は依代の言葉を受け、甲本とのやり取りについて話し始めた。
「えー、とりあえず。赤坂がサブリーダーの代替要員であるというのは客の勘違いなので、甲本課長が言っておいてくれるとのことでした」
 赤坂はその言葉を聞いて、ほっと胸をなでおろした。これで顧客からの圧力は軽減されるというものだ。
 岡野に呼び出された打ち合わせの際、岡野からの説明では「サブリーダーは病気のため長期入院する」との説明を受けたが、赤坂はサブリーダーが「現場にいない」理由を自社の人間から聞かされていなかった。客からサブリーダーの消息の詳細を初めて聞かされるというのはいかがなものと思ったが、そういった自社の連携不足などは今に始まったことではない。
 依代から聞いた話によれば、ある日を境にサブリーダーとまったく連絡が取れなくなったとのことだった。サブリーダーは何らかの理由で、失踪を余儀なくされたのである。
「それについてはわかりました。案件量の調整については、どのような結果になりましたか?」
 依代は、もったいぶって話す海上を促すように、問題点の解決策提示について言及した。
「あーそれだけどね」
 しかし海上はやはりもったいぶって、目を閉じて一呼吸置いた後、テーブルに対して体を半身にし、握りこぶしを静かに置いて格好つけながら言う。
「俺がサブリーダーの代わりやることになったから」
 食堂が不気味な静寂に包まれた。妙な雰囲気を感じ取った赤坂が周りを見回すと、プロジェクトメンバの顔色が一変していた。
 依代は持っていたカフェラテをテーブルにゴトリと落とし、舞浜は椅子からずり落ち、上中里さえ驚いた表情を隠しきれないでいた。
「どうしたお前ら。突然の発表に驚いたのはわかるけども」
「い、いまなんとおっしゃいました?幻聴でしょうか、海上さんが現場を取り仕切る、的なことが聞こえたような気がしたんですけど」
 依代が、目の前の現実を認められないといわんばかりに海上に再確認を要求するが、海上が発する言葉は、依代にとっては非情なものとなった。
「だから、俺が現場で一番偉い人になるって言ってんの。案件過多も顧客と折衝してなんとかするから。進捗管理から見積もり作成まで、まあ俺が上長となったからにはお前らも大船に乗ったつもりで居たまえ。ハッハッハ」
 やたらと上機嫌になる海上の一方で、表情は変えずにテーブルのこぼれたカフェラテを凝視しながら微かに呟いた依代の言葉を、赤坂は聞いてしまった。
(終わった・・・・・・)

     


     

 ビルの一階では食事処が軒を連ねている。食堂で食べたほうが安上がりだが、味も値段相応のために、それなりのものを食べたいならばこのあたりの店舗を利用するのが便利である。
 いつもは食堂を利用する赤坂と依代だが、昼前に発生したシステム障害の調査に追われ、終わったときには食堂の営業時間も終わっていた。それならばと依代の紹介で入ったのは、和食がメインの食事処だった。
 さんま定食をつつきながら、赤坂は朝から抱いていた疑問を依代にぶつけることにした。
「依代さん。ちょっと聞いてもいいでしょうか。朝から気になっていたことなんですけど」
「ん、なあに?」
 依代はほっけの煮付け定食を口に運びながら答える。
「海上さんがサブリーダーの代わりをするって言った時、みなさんすごい顔してましたよね。あれってどうしてです?」
 依代の箸を口に運ぶ挙動が一時停止した。
「とうとう赤坂さんに、真実を話すときがきたようね・・・・・・」
「なんですかそれ。魔王を倒しにいけとか言わないでしょうね」
 魔王、魔王か・・・・・・、依代はぶつぶつ呟いていたが、言葉を選んでいるのか数秒黙ったあと、箸を置いてから静かに言った。
「魔王です」
「えっ」
「私にとって、絶対に倒せない魔王のような存在なのかもしれない」

 赤坂が昼食を済ませて自席へ戻ると、海上の姿が見当たらなかった。海上は昼前に発生したシステム障害の調査はせずいつも通り昼食に行ったため、まだ昼食をとっているということはさすがにないだろう。
(トイレかな?)
 特に用事もないので、そのことについて考えるのをやめ、残作業の消化に着手する。今日は、テストを行うためのCSVデータを作成してテストチームに引き渡せばよいだけなのだが、午前中ですでにデータ作成作業と目視による検証は終了していたため、あとはDBにデータを突っ込んで簡単な動作確認をすればよい。詳細な項目のテストは、引渡し後テストチームが行う予定になっている。
 テストパターンごとにDBへツールを使ってデータを挿入し、画面が正常に動作することを確認していく。数パターンのデータによる動作確認をすべて終え、メールにCSVデータのファイルを添付してテストチームに送信する。
「よし、今日の作業はおしまいっと」
 日報を書いて、余った時間は翌日の作業を前倒しでやって定時まで時間をつぶそうかしら、などと考えながらバチバチキーボードを叩いていると、不意に後ろから声がかかった。
「赤坂さんちょっといい?あのさ」
「えっ?はい」
 赤坂の意思を確認する間もなく、男はいきなりまくし立て始めた。
「データが言ってた内容とぜんぜん違うんだけど、なんでなの?こういうことされるとこまるんだよね。君のせいでテスト遅れることになるけどその辺はどう思ってるわけ?」
 いきなりやってきて無礼な言葉を言い出し始めた。これが世に言う「モンスター・クライアント」というやつか、赤坂は一瞬そう考えたが、たいていのクライアントは怪物だったことに気付いたので、洒落になっていないなあとしみじみ思った。
 赤坂は、やれやれだわ、といった表情で、男の対応をすることにした。
「えーっと、ちょっと落ち着いてくださいね。少し状況を整理しましょう。まずはじめに重要なことを確認させてください」
 一拍おいて、赤坂は誰もが当然思うであろう疑問をぶつけることにした。
「どちらさまですか?」

 依代が化粧室から自席へ戻ると、茶髪の男が顔を真っ赤にしながら赤坂と口論している。いや、口論しているというよりは、赤坂に対して一方的に怒鳴りつけているように見える。何事かと思い、依代は事態を心配そうに眺めていた上中里に声をかけた。
「ちょ、ちょっとなにがおきてるの。すごい勢いで怒鳴ってるけど」
 依代に気付いた上中里は、すごい勢いでかぶりを振った。
「わかりません。突然あの人がやってきて赤坂さんに怒りはじめたんです」
 男は怒りに任せて赤坂を攻め立てているようだが、一方の赤坂はいたって涼しい目をしており、男の剣幕にひるむ様子もなく冷静に言葉を返していた。
「だから、変えるようにって言っといたはずなのに何で変わってねえんだよ。若年性健忘症かコラ」
「申し訳ありませんが、さっきから何度も申し上げていますように、そのような依頼は承っていません」
「うるせーんだよテメーさっきからごちゃごちゃと言い訳し腐りやがって。そんないい加減な仕事してっとしまいにゃ訴えるぞ。わかってんのか」
「お怒りなのは頭が痛くなりそうなほどわかりました。ご依頼の件については社内で確認しますので、いつ誰にどのような手段で伝えたのかをお教えいただけますか」
「バカかお前、期限は今日中だろうが。今からそんなことやってちゃまにあわねんだよ。」
 依代は男の正体に気付き、口だけへの字にしながらため息をついた。収束に向かう気配が全くない二人のやり取りを見て、赤坂に助け舟を出すことにする。
「あらあら岩倉さん、お疲れ様です。どうかなさいましたか?」
 先ほどまで赤坂をがなり立てていた男は、振り返って依代のほうを見るや否や、がらりと態度と表情を一変させた。
「よよよよよよよよよりしろさんではありませんか。きょうはおひがらもよくごきげんうるわしゅう」
 赤坂は、マンガかお前は、という言葉をすんでのところで飲み込んだ。依代は秀麗な挙措で頬に手をあて、困った素振りをする。
「なにか相当お困りのご様子でしたけど、うちの赤坂が何か失礼をいたしましたか?」
「い、いえいえいえいえいえいえいえ、ちょっと双方の見解に差異がございましたものでございますから、少し赤坂さんのご見解をご拝聴いたしましょうかとしておりましたところでございましてですね」
 今度は舞浜が、マンガかお前は、と声に出して言った。赤坂はドキリとしたが、幸い岩倉には聞こえていなかったようだ。
 岩倉は、先ほどまでの勢いがうそのように慌てふためいている。
「あらあらそうでしたか。だめじゃない赤坂さん、失礼しちゃ」
 ウインクを織り交ぜた依代の言葉で、赤坂は何かに気付いたかのように顔色を変えると、岩倉に向かって「すみませんでした」と頭を下げた。
 依代が赤坂と岩倉双方の言い分を聞いたところによると、どうやら依代と赤坂が食事に行っている間に仕様変更とプログラムの修正が入ったらしく、その影響でデータベースで使用するテーブル名も変更になったらしい。当然それは赤坂のテストデータ作成作業にも影響が出るのだが、岩倉はそのことについてすでに伝えていると言っており、赤坂は聞いていないといっている。
「岩倉さんは、誰にそのことを伝えたんですか?」
 依代はすでに勘付いてはいたが、あえて岩倉を問質す。
「は、はい。海上さんですけど」
「なるほど、つまり岩倉さんは、海上に口頭のみで仕様変更の連絡をしたんですね?」
「あっ・・・・・・!」
 岩倉は何かに気付いたように声を上げたあと、そのとおりです、と依代の言葉を肯定した。
「事情はわかりました。ですが、これをすぐに対処する、というのは難しいですね。責任の所在が不明確に過ぎます。まずは岩倉さんから仕様変更に関する詳細な情報を弊社メールに送信していただけますか?あて先は海上で、CCに私と赤坂を入れてください。」
「は、はい。わかりました」
 素直すぎる、と赤坂は思った。先ほどの自分との口論はいったいなんだったのだろう。依代に弱みでも握られているのだろうか。
「あと、口頭で連絡していただくのはかまいませんが、そのあと必ずメールなど後に確認可能な手段で再連絡するようにしていただけますか?またこのようなことがおきないとも限りませんので」
「わかりました。どうもお騒がせしました。早速資料をお送りします」
 そう言って、岩倉はそそくさと退散していった。
 依代が岩倉へ伝えた事というのは、赤坂が最終的にやろうとしていたことと同じだった。しかし赤坂は問題を解決できず、依代は問題を解決した。なぜこういうことになってしまうのだろう。自分が未熟なのは百も承知ではあるけれど、自分の行動が間違っていたのかもわからないし、何をどうすればよかったのかなど見当もつかない。赤坂は少し悔しくて唇をかんだ。
 依代が、赤坂の肩に手をあてて、静かに呟く。
「よくあそこで頭を下げられたわね。さすが私の見込んだSEなだけはあるわ。自信もっていいよ」
 そのあと依代に脇をくすぐられなければ、赤坂は思わず泣いてしまうところだった。

     


     

 時刻が定時近くになり、周囲ではちらほらと帰り支度を始める姿が見られる。岩倉からの依頼で行ったデータの修正も終わり、テストチームにデータを送信したところで、赤坂はあることに気付いた。昼以降、海上が一度も自席へ戻ってきていない。
 かといって別段気になるわけでもないが、世間話程度に、隣にいる依代に話しかけてみる。
「海上さん、外出でしょうか。昼からずっといませんけど」
 依代は、そういえば、という顔をして海上の席を見る。
「さあ、私もわからないな。リーダー会議が今日あるって朝会で言ってたけど、まさかまだやってるってことはないわよね」
 そういえば、海上は今日から現場の管理者に昇格したのだった。ちなみに海上の肩書きはサブリーダーであり、リーダーではないから手当も何もつかない。俗に言う名ばかり管理職という誰もが恐怖するポジションである。
「そのまさかを現実にするパワーが、この現場からは感じられますね」
「うふふ、そうかも」
 依代と冗談を言い合いながら日報を書いていると、通路の奥のほうから海上がゾンビのように生気を失った顔をして歩いてきたので、赤坂はギョッとした。海上はうなだれたまま自席へなだれ込むように座ると、壊れた人形のように天井を見上げ、白目をむいている。
「ちょ、海上さん疲れすぎ自重、ダブリュウー!うぇっうぇっ」
 舞浜が未知の言語を口走りながら海上の肩をたたくが、海上はそれに反応を示さず、やはり天井を見つめて放心している。
 海上のただ事ではなさそうな様子を見て、依代は赤坂の袖を引っ張る。
「ねえ、海上さん様子が変ね」
「そうですね。干からびた芋みたいになってますよ。あっはっは」
 軽口をたたきながら日報を書き終えた赤坂は、内容をメールで海上に送信し、バッグを肩に担いだ。
(今日は、家電魔術師にとろちゃんの再放送があるのよね)
 携帯を片手に、赤坂はワンセグ受信可能地域まで全速力で駆け抜ける。ある程度移動しないと、視聴可能な放送局の電波を受信できないのだ。
 にとろちゃんの暴虐振りを堪能し帰宅した赤坂は、バッグをソファーに下ろしたところで、依代からメールが来ていることに気付く。

title:おつかれさま♪
本文:昨日すごくおいしいケーキがあるお菓子屋さんを見つけたんだ。今度一緒にいこうね!

 その日起こったストレス要因がすべて雲の向こうに吹き飛ばされたような気がした。ほんわかとした気分で「絶対いきます、地球が三回割れてもいきますので」という意味不明な本文に感嘆符を20個ほどつけて返信した。

(いやな予感がする)
 赤坂にケーキの件についてメールを送ったあとで、依代文乃はとある懸念を抱いていた。そしてこの懸念は、たった数日前に感じたものとほぼ同質ものであった。
(わるいようにかんがえても、結果がよくなることはないわ)
 思考を停止させるのではない。一歩前に踏み出せるよう、準備するのだ。これまでもそうしてきたし、これからもそうするつもりだ。しかし、依代が現在抱えている負のイメージは、これまでにない莫大な質量を持って自身を押しつぶそうとしているような、そんな予感があった。
(あの子だけは、助けてあげないと・・・・・・)

 翌日、赤坂は一番に出社した。驚くほどに気分のよい朝、食堂で缶コーヒーを貴婦人のように啜り、窓から見える美しい木々を眺めながら幸福なひと時を堪能する。いつの間にか座っていた上中里がティーカップを片手に微笑んでいる。いつもなら「なににやけてんだ気持ち悪い」と胸中で悪態をつくところであるが、今日は上中里につられてウフフフオホホホと微笑み合戦を繰り広げられる自信があったし、実際そうなった。
 しばらくして、食堂には開発メンバーが大方そろったが、海上だけがいない。最後に来た依代が頭上にはてなマークを浮かべて海上の行方を尋ねるも、誰も連絡を受けていないとのことであった。
 唯一海上の連絡先を知っている舞浜に連絡してもらおうということになり、舞浜が「あの人寝起きわりいから連絡すんのいやだな」と言いながらも渋々電話をかけようとしたところで、赤坂は食堂の入り口付近に見知った顔がいることに気付いた。
「あの、依代さん」
「ん、どうしたの?」
「あそこ、あそこみてください」
 赤坂が指差したほうを見た依代も、見知った顔が存在していると気づいたようだ。
「なんかいるんですが」
「なんかとかいっちゃだめよ。でもどうしたのかしら。ちょっと行ってくるね」
 そう言って、依代は見知った顔の方に歩いていった。一方舞浜は海上に電話をかけているようだが、つながらないようだ。舞浜の耳の近くにある携帯電話からは、「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源がオフの状態になっているため、おつなぎできません」という旨のアナウンスが聞こえてくる。
 そうこうしているうちに、依代が見知った顔の男と歩いてこちらに戻ってきた。
「ようおはよう、ひさしぶり」
 見知った顔の男の正体は、甲本であった。
 赤坂はあからさまに不愉快な顔をして、突然の訪問理由を尋ねる。
「どうしたんですか甲本さん、突然ですけど。何で来られたんです?」
「あっはっはー、まあすわってくれい。よっこいしょ」
 甲本はどっかと腰を下ろすと、メンバに座るように促した。しかし指示する以前に、甲本が来たことで立ち上がった者はいなかった。
「甲本課長聞いてくださいよ。海上さんがまだ来てなくて、連絡すらないんですわ。笑っちゃいますよねうひゃひゃ」
 甲本が本題を切り出す前に舞浜が口を開いたが、やはり笑っているのは彼だけだった。
「ああ、今日来たのはそれと関係あるんだけどな」
 舞浜の軽口に乗る人間を久しぶりに見た、と赤坂は驚いたが、次に甲本から発せられた言葉は、そんな驚きがゴミクズほどにどうでもよくなるくらい、正常な思考能力を破砕し、爆砕し、粉砕し、塵芥と化すものであった。

「海上くんは今日から本社で勤務することになりました。そんで海上くんがやってた管理業務等は全部赤坂がやってください。開発と兼任になるけど今よりちょっと作業が増えるくらいだからチョロイでしょ。じゃあ俺このあと用事があるから帰るわ。おつかれ」

 赤坂と依代は、自分の周りの時間が凍結したように感じた。


つづく

     


       

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