Neetel Inside 文芸新都
表紙

アンダンテ&スタッカート
第十五話「キミは」

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「貴方は何故あの時、私を止めなかったのかしら?」
 縁に腰かけ、窓の外に足を放り出しながら亜希子はそう問いかける。隣で同じ様に足をふらつかせながら、僕は彼女の方を見た。
「別に怒らないわよ」
「……君に見とれていたんだよ」
 ふうん。
 亜希子はそれだけ言うと、頭を左右に小さく振りながら歌を歌い始める。どこかで聞いたことのある、外国の曲。英語の歌を彼女は歌えたっけなと思いながら、彼女がやけに丁寧で且つ綺麗な音程で歌っていくものだから、僕は思わず感動を覚えてしまった。
「上手いね」
 そう言うと、亜希子は寂しそうに笑って、それからその瞳は僕へと向けられた。
「もう、諦められた? 私は多分、サチの事が好きだったってこと、分かった?」
 分かってるさ。一度頷くとそう、と彼女は罪悪感と、少しだけ解放感を抱いて笑う。ふらつかせる足の揺れがだんだんと早くなっていき、しまいには彼女は身体全体を揺らしていた。
「君はもう、決めたんだものね」
「そういえば、一つだけ気になっていたことがあるんだ」
 ふと僕は亜希子に問いかける。彼女は不思議そうな顔をしながら、言ってみてと短い一言をその小さな唇から放つ。
「僕は何故君を好きになったのだろう」
 風が吹いた。
 やけに温かさを孕んだ風だったからか、吹き抜けた瞬間に心地よさが全身に、特に素足となっていた足に強く感じられた。ああそういえば僕らは素足だったのか。風が吹くまで全く気付かなかった。いつ靴をぬいだのかさえ思い出せないけれども、まあそこは気にするべきところではないのだろう。
「知りたい?」
 亜希子は、風でたなびく髪を手で梳きつつ、横目で僕を見て、笑った。
僕は彼女に笑みを返し、頷き、身を乗り出す。
「他愛ない理由よ。好きになることに大きな理由なんてないもの。ただ傍にいたいなと思っただけでも、それは“愛”にカテゴライズされる理由としては十分。君は私と一緒にいたいと思ったし、私を綺麗だと思った。見とれるほどにね。だから好きになったのよ。親密に身体を合わせたい関係になりたいと思ったし、心を通わせたい、ってね」
 そう言われて、僕は首を傾げる。傾げながらも、どこかで納得している自分がいることは分かっていたし、僕は相当難しく考え過ぎているのだろうということも分かった。
「だから、もう好きになっていいのよ」
 風が止んだ。
 隣を見ると、そこには亜希子の姿はなかった。下を見てみるけれども、そこにも彼女の姿はなかった。窓から降りて、廊下を見渡してみるけれども、廊下は真っ白で、どこかに隠れられる程の凹凸もなければ、扉もない。
 ああ、もう行ってしまったのか。
 心のどこかで、彼女が何処へと消えたのか。その場所の予測はついていた。けして僕が行くことはできないし、この先迎えるかも分からない。
「好きになっていい、か」
 亜希子の一言を思い返す。呼吸をしてみると、やけにすうっと空気が肺にたらふく入って行って、吐き出す時まで心地よさは続いた。
 ここはとても心地が良い。けれども、いつまでもいる事はできない。
「ねえ、知ってたと思うけどさ」
 僕は、誰もいない白い廊下の先に向けて言った。
ああ、この言葉は誰にも言わない。

 だってこれは、僕がずっと溜めこんでいた大事な言葉だし、彼女だけに聞かせたい言葉なのだから。
 僕の大切な、別れの一言なのだから。

   ―――――

 目を開けると、そこにはいつもの天井があった。いつもの布団があった。いつもの枕が、いつもの時計が、いつもの僕の部屋があった。
 一度大きく伸びをしてからベッドからはい出すと、冷蔵庫までふらりと歩いて、それから扉を開けてコーラを取り出す。タブを思い切り引いてからそのままぐいと思い切り口に流し込む。
 炭酸の刺激が、冷たさが脳を醒ます。うっすらと透明なカーテンのかかっていた視界がはっきりと世界の輪郭を強調させていく。
 だんだんとはっきりしてきた意識が、先程までの感覚に疑問を持ち始め、僕はベッドに腰掛けると空気を吐きだした。
 あれは、夢であったのだろうか。にしてははっきりしていたし、彼女もやけにおしゃべりであった。いや、僕の決断が彼女を作り出して、はっきりとさせようと仕組んだものであったのだろう。
 けれども、その空想は、とても心地よくて、僕の何かを取り払って言ってくれた。
「おはよう。で、おやすみ」
 宙に向けて僕はコーラを掲げると、見えない“それ”と乾杯する。もう眠っていいよと言って、僕はもうそれ以上を言う事をやめた。
 今度こそ、お別れだ。

―アンダンテ&スタッカート―
―第十五話―

 大学に来てまずはじめに思った事が、生きてるんだなというものであった。やはり先日の犯人との対峙が僕自身の中では非常に衝撃に残っているらしい。いや、それを言えば宮下家での出来事も十分に衝撃的であったと思うが、被害と加害では意味合いが全く異なってしまう。宮下家での出来事は加害なのだから、死を実感した事に関しては、仕方ないと割り切らざるをえない。
 大学はいつにもまして活気づいていて、そろそろ単位をと意識し始めている学生が多いのが、勉強道具を広げて食堂でペンを走らせている者をいくらか見た。実際のところ僕自身も単位はと言われればあまり良い顔はできないのだが、それでも今この状況で勉学に集中できるかといえばそういうわけではないだろう。
 今日大学に来た事だって、一つの疑問を片づける為のものであったりするのだから。

 食堂に入って暫く周囲を見回してみると、やはりいつも通り彼はいた。
「やあ」
 修二はにこりと笑みを浮かべてこちらに手を振る。彼の机には定食と分厚い本が置かれており、どうやら僕が来るまではずっと食事をしながらそれに目を通していたらしい。
「試験の傾向とレポートのおおまかな内容についてはここにまとめておいたよ」
 彼はそう言うと数枚のプリントが挟まれたクリアファイルをこちらに差し出す。毎回これにお世話になっている僕は今回も申し訳ないと言いながら、すっとそれを鞄に放り込んだ。
「それで、用ってのはなんだい?」
「修二の家庭事情についてなんだ」
 僕は単刀直入に言葉を放つ。流石に予想外の質問であったのか、修二は眼を見開き、そうしてからふふ、と笑った。
「うちがどうしたの?」
「修二の家って、離婚して父親と生活してるんだった、よな?」
 行きどまった道を通る為には、これは仕方のないことだ。だが無理にでも疑問は潰さないといけない。
「そうだね」
 修二は無表情にそう答えた。
「兄妹とか、いないか。サチって名前だったりとか、さ」
 彼は首を振った。そればかりか、一体どういうことなのかと疑問の色を顔に浮かべている。彼は鞄に分厚い本をしまうと、僕の肩をがちりと掴んだ。
「全部話せ」
 それは、逃げることのできない言葉だった。いつも困っている時、自分だけで抱えてどうにかしようとしていた時に彼が必ずかけてくれた言葉だった。
 こうでもしないと僕は話す事ができないのだ。だから、その言葉をかけてほしくて、彼にどうでもいい質問を投げかけた。
 道に迷っているという事を知ってもらいたくて。もう一人で抱え込める領域ではないと感じたからこそできた行動だ。

  ―――――

 どこにでもあるチェーン系のコーヒーショップで、僕らは向かい合っていた。修二はひたすら頬杖をつきながら僕の話をじっと聞いていたし、僕もただ事実だけを彼に伝えていた。
「なるほどね、だから最近君は随分と色んなところを奔走していたわけだ」
 一部始終を知った修二はふむ、と呟いてから、ブレンドコーヒーに口をつけ、チーズケーキをフォークで上品に口に運ぶ。
「それで俺がそのサチと関連しているかどうかと考えたわけだ」
「疑ったというよりも、とにかく問いたかったんだ。今は大分行き詰ってきているからね」
「それで、何故君はサチを探すんだい? どちらかというと犯人を探すべきではないのかい?」
 それもあるのだが、と呟いてから言葉を濁し、その濁した言葉を飲みこもうとするようにして僕はカフェラテをぐいと飲みこんだ。ほんのりとした甘みが僕の口内を洗い流していく。
「西田遥とサチは同一人物、とか考えているのかい?」
 核心をつかれたからか、僕は思わず口をつぐんだ。
「名前を変えることなんてできない。単なる予測にしか過ぎないよ」
 離婚した後、少なくともサチは父方の姓を名乗っている筈だ。これでもしも再婚者の姓を名乗っていたとしたならば僕にはもう探す手立ては見つからない。せめて父方の姓だけでも分かれば。
 腕を組んでじっと目の前のケーキを見つめる。
「そういえば、小学校の頃かな」
 突然、修二は言葉を投げかけてきた。
「離婚したらしくて、姓が変わった子がいたんだけれど、語呂が悪いからって名前も若干変わったんだ」
 僕は思わず目を見開いた。
「できなくもないんじゃないかな。名前の変更。それも公的に、ね」
 修二は得意げに言うと、残りのチーズケーキを頬張る。彼にしては豪快な食べ方だ。
 つまり、離婚と同時に名前が変わって、それでも使いなれたサチという名前が使われ続けていたということか。そして亜希子はそんなサチとその後も連絡を取り合い、あの日記をプレゼントされた。
 修二が携帯を開く。時間を確認するためのものであったのだろうけれども、それよりも興味を引く記事を見つけたようで、彼は少し微笑した。
「サチさんはどうやらまた行動を起こしたようだね」
 そう言うと僕へと携帯の液晶を向ける。
もう見慣れてしまった文字がそこには表示されていた。
――横江良子さん、行方不明から一転変死体で発見。
「俺の容疑は晴れたのかな」
「元々疑っていない」
 彼の冗談交じりの言葉に僕は首を振った。だろうねと答えると彼は立ち上がり、トレイを手に席を立つ。
「また何かあったら言って欲しい。ああ、今まで言わないでいたけれども、君はもっと自分から助けを求めるべきだ」
 それだけ残して彼は行ってしまった。たった一人残った僕は残っているカフェラテを飲み干し、ケーキにフォークを突き立てた。

   ―――――

 陽も暮れ始めた頃、そろそろ帰宅しておかないとまたあの出来事が起こってもおかしくはないと感じつつも、僕は夕暮れ時の公園で彼女、雪咲朝を待っていた。
 ポケットの中で携帯のバイブが起こる。
「もしもし」
『後ろにいるわ』
 携帯を切ってから僕は振り向き、そこにいつもの赤縁の眼鏡の彼女がいる事に安堵する。どうも夕暮れ時は僕の警戒心を強くするらしい。当たり前といえば、当たり前であるが。
「ある程度調べては来たわ。貴方の方はどうかしら?」
 幾枚もファイリングされた紙を僕に見せてから鞄にしまう。どうやら自らの情報力を自慢したい気持ちもあるようで、彼女は得意げだ。
「一応、色んなことがあったよ」
 そうだ、そのことも含めて彼女に報告しておかないと。
 僕がどれから説明しようかと考えてながらふと彼女を見た。
 雪咲は、僕を見ていなかった。なにか遠くを見るように細くした目で僕の後方へと目を凝らしている。
「その色々には、アレも含まれているのかしら?」
 少し震えた雪咲の声が、一体僕の背後に何があるのかをそれとなく説明していた。
 実際のところこの殺人劇にそれといった計画性などない。ただ順番に殺していただけで、それが気づかれたからすぐにターゲットを乱雑に設定して、そして最後には僕さえもその乱雑なターゲッティングに選定されていた。
ならば、一日に必ず一人だけを行方不明とする考えも、犯人の気分次第で幾らでも変えられるのではないか。
「明良君」
 振り向こうとする僕の頬を両手で挟んでから、一度額をくっつける。一瞬何かを期待してしまった事が少しだけ恥ずかしかった。
「見ないで」
 それだけ言うと雪咲は僕の手を引いて走り始める。以前それを見ていると感づいた彼女は、二度目の対峙があまり良くないことだと考えたのだろう。僕はそれを見ないようにして逃亡すべきだと。
「驚いたわね。貴方も関わっているとは分かっていたけれども、ここまで深くかかわっていたの?」
 息を切らしながらも雪咲は僕にそう言う。ああ、最も最深部にいるよと答えようかと思ったが、それだとこれから軟禁されかねない。何故か彼女はそれすら考えているだろうと思っていた。大した付き合いでもないのに、何故かそう確信できる自分がいた。
「まあ、それとなくね。一応輪の中にはいるらしいよ」
「次からは貴方の家で集合させて。私自信体力に自信はないのよ。今回は追ってくる様子はないけれども、そう何度もあれに会いたくないわ」
 追ってくる様子がない。
 その言葉に思わず僕は振り返る。
 そこには、両手にナイフを手にした“あいつ”が、こちらをただじっと見つめ、立っていた。確かに追ってくる気配はないし、殺意も感じない。別に殺意を感じとれるほど精神が磨きあげられているわけでもないが、それでもなんとなくで感じとれる殺意だってある。
 顔が隠れているせいでそれが誰なのかは分からないが、僕は心の中で一つ、問いをかけてみる。言葉にしていないから返事が返ってくることはないが、それでもいつかは付きとめたい真実だった。

 君が、サチなのか、と。

   続く

       

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Neetsha