Neetel Inside 文芸新都
表紙

アンダンテ&スタッカート
最終話「ダ・カーポ」

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 喫茶店の扉を開けると、明るい声と共に笑みを浮かべたウェイトレスが僕を迎え、そして幾つかの定型文化された問いを僕に言う。やっとその行為の一つ一つに手慣れてきたようで、少し得意げになっている彼女を見ると少し心が和らいだ。
 今日は先に人が来てる筈だ。そう言って彼女の言葉を遮ると、慌てた様子で深くお辞儀をし、それから早足でカウンターへと向かっていった。どうやら応用的な事項に出くわすとまだうまくできないらしい。
 あの無愛想なウェイトレスを何度か探すが、どうやら今日もいないらしい。多分辞めてしまったのだろう。所詮はバイトであるし、いつまでも同じ場所にとどまり続けるとは限らない。僕としては結構彼女のことを気に入っていたのだが、まあ仕方ない。
 それから周囲を見渡し、奥の方であのいなくなってしまったウェイトレスのように無愛想な表情を浮かべる赤い眼鏡の姿があった。その姿に苦笑を洩らしながら僕はその席の前で立ち止まる。
「随分と酷い顔だね」
「予定より二十分も遅れた癖に偉そうね」
 これは失礼、とその場でお辞儀をすると、彼女はまあいいわ、と紅茶を口にする。どうやらお咎めはないようであることに僕は安堵し、それから向かいに座るとメニューを広げた。
「何かオススメはないかな」
 そう問いかけると、雪咲は不思議そうな顔でこちらを見ると「貴方、いつも同じようなものを食べていたじゃない」と言った。確かに、そういえば僕は基本的にそれほどメニューを大きく変えるような男ではなかったかもしれない。
「何かいつもとは違うものを選びたんだ」
 なんとなくそんな気分なのだと伝えると、彼女はそう、と一言だけ言ってから自らもメニューを手にしたのだった。

   ―アンダンテ&スタッカート―
   ―最終話―

 ユキヒトは、行方不明者を多発させたこの事件を終息させると言い、それから姿を消した。彼の通っていた大学にも問い合わせたが、住所から何まですべて、彼という存在を感じさせるものを奇麗に片付け、消えてしまったとのことだった。
 それから一体どこに行ったのか、それとも自ら命を絶ったのか、宮下幸という存在の結末を知る者はいない。僕自身も知ることはできないだろうし、それでいいのだと思った。亡霊となりたかった彼は、今度こそその名の通り亡霊としてこの世から消え去ったのだ。
「ひとつ、気になっていたことがあるの」
 雪咲は頬杖をついたままそう呟く。
「何故彼女の日記にはサチの名が一つもなかったのだろうって」
「それは確かに。僕も気になってたんだ。あれだけ助けを求めるような内容を書いておきながら、彼女は一つとして彼の名を書かなかった。母に彼の存在を悟らせない為だったと考えてもいいのかもしれないけれども、僕はどうにもそれで納得はできなくて……」
 お待たせいたしました。とメニューがやってくる。ハキハキとした言葉で話すウェイトレスの顔をぼんやりと見ながら、僕はあの日記について考える。はたしてあれは何のために書かれたものだったのだろうか。サチは何故、この日記を置いていったのだろうか。彼ほど妹を溺愛する人物ならばこれを肌身離さず持つことくらいはする筈ではないのだろうか。
 なんにせよ、この日記には兄妹でしかわからない何かが眠っているのかもしれない。
 最早解くこともできない。そんな二人だけの暗号が。
 僕は日記を閉じて机の上に置いた。
「これを、わざと忘れていくのは、ありだと思う?」
 突然の僕の申し入れに雪咲は眼を丸くし、それからさっと一度視線を宙に泳がせてから、いいんじゃないかしら、とほほ笑んだのだった。
 彼女に振られて失恋し、僕自身もそれをはっきりと自覚し、そして事件の関係もすっぱりと消え去ってしまった僕にこれを持ち続ける権利はないと思ったのだ。
けれどもこれを燃やす勇気も、捨てる勇気も発揮することはできそうになくて、どこかに置いていくしかないと思っていた。妙なところで未練というものは残り続けるものだと思う。それで暫くどうしようかと考え続けた結果、この答えに至ったのだ。
 忘れてしまえばいい。行きつけとはいえ、置いて帰った人物を律儀に覚えているわけでもないだろうし、もしくは店主が捨てるまでしばらくここに立ち寄らないという手もある。お気に入りのウェイトレスも消えてしまったし、実際ここにはもうそれほど未練もないのだ。
 何も知らない者に、何も知らないまま捨ててもらおう。問題のあるページは全て封じてきたし、中身を見たとしてもただの日記としか思わないだろう。
 僕は机にそれを置くと、代わりにフォークを手にし、注文した料理に手をつけ始める。
「あれ?」
 そう言ってそれを見つめる僕を見て、雪咲は首をかしげる。
「どうしたの?」
「嫌いな食べ物だったのに……。いつの間に食べられるようになったんだろう」
 そう言って僕はもう一口齧ったのだった。

   ―――――

 喫茶店を出て、さてどこへ行こうかと思案しているとき、携帯が鳴った。それほど登録数のないこの携帯が鳴るのは本当に珍しいのだが、と数日の事件に関するもの以外でどれだけ鳴ったことがあったかを考えてみたが、もしかすると意外と数えられてしまうかもしれないその記憶の中での回数に、少しだけ残念な気持ちになった。
 ディスプレイを見てみると、やはりその数えられるかもしれない回数のうちの大半を占めている人物の名前がそこには浮き上がっており、僕は一呼吸入れてから通話のボタンを押して耳にあてる。
「修二、どうしたんだ?」
 加納修二は相も変わらず落ち着いた口調で一言、元気だったかと呟いてから笑った。だがその口調がどこかいつもよりも上機嫌さを感じ取れるような気がして、僕は彼からの返答を待つべくそれで、と問い返した。
『これから飲めないかな?』
 珍しくかけられたその誘いに僕は戸惑い、それから隣の雪咲に視線を送ってみる。彼女もどうやら何かしら予定が入ったと感づいてくれたようで、顎で一度僕を指すとにやりと笑ってから踵を返して行ってしまった。
「そういうことじゃ――」
 彼女はなにか勘違いしている。そう思って思わず口から言葉が漏れ出た。スピーカーの向こうの彼はその言葉に小さく唸り、そしてその唸りを聞いた僕はあたふたと携帯と雪咲を交互に何度か見る。
『どういうことだい?』
 ああ、これは、と電話の主の問いかけになんでもないと伝える。
言葉が見つからず必死に頭を捻ってみたのだが、努力むなしく、結局雪咲の後ろ姿に何の弁論もできずに彼女を行かせてしまった。
 ふと、その前に何故僕が弁明しなければならないのだろうかという疑問が生まれた。いや、疑問といったてもたぶん答えはもう出ているようなものであるのだが。僕自身の中で自覚が生まれた一つの答えに、僕は顔をしかめ、溜息を吐いた。
 通話の主の案内の元にたどり着いた店は随分と閑散としており、使い込まれてところどころ黒く滲んだ壁や机、橙色に染めるランプがそこらに置かれることによって周囲は薄暗く、下手をすれば何か非日常的な存在がひょっこりと姿を表わすのではないかと思うような、そんな空間を演出していた。果たしてこれが演出であるのかは店主のみぞ知るものであるが……。
「やあ、ここ最近忙しそうだったじゃないか」
 馴染みのある声の主を見て、僕はまた驚きを隠せずに暫くその姿を見つめてしまった。彼の黒い髪を見たのは、そして赤や緑等奇抜な色合いが組み合わされていた派手な服装ではなく黒のスーツを着込んでいた。それでもネクタイだけは三色程使用されているあたりが、彼らしいと思ったが、それ以外は本当に、本当に初めて見たと思うくらいの姿であった。
「どうしたんだ、髪も染めて」
「気分転換だよ。やっと一つの目標に到達できたからね」
 目標、と彼は言うと店員がビールを二つ持ってきた。修二が既に注文していたらしい。彼は満面の笑みを浮かべながら僕にグラスを手渡すと、自らの分をこちらに向ける。
「留学するんだ」
 そう言うと彼は自分のグラスを僕のグラスに当て、ぐいとそれをあおった。のど仏の出た喉が一度、二度と動き、そしてグラスの中身が驚くほどハイペースで減っていく。
 そんな中、僕はその出来事を素直に祝えなくなっている自分がいることに気づき、そしてそれがとても愚かしいように思えてしまって、目の前のグラスに並々と注がれたビールをイマイチ飲む気になれないのであった。
 自分を取り巻く世界が変わっていっている。それぞれを中心として、ゆっくりと。僕はその中のただの個人でしかなく、そして中心でもないことを改めて思い知らされたようでもあった。
「本当は、行こうか迷ったんだ」
 二杯目を飲み始めた彼はぼそりとそう呟く。そこそこアルコールには強い彼のことだから泥酔することはないだろうが、それでも少し心配するペースでグラスの中身は減っていっていた。
「変わっていく感覚が、唐突過ぎてすごく怖いんだ」
「怖い?」僕は繰り返す。
「そう、変化しないなんてことは不可能だって分かってる。けれどもたった一度の出来事がすべてをがらりと変える可能性もある」
 二杯目を飲み終えた彼は、ふうと息を吐き出してからゆっくりと僕を見た。それを見て、僕もビールを口にする。苦味と泡のはじける感覚、そして思わず目を閉じたくなるほどに冷えた液体の感触がぼんやりとした僕の気持ちをまるで取り払おうとでもするように流れ込んでいく。
 グラスの中のビールは一息で飲み込まれて消え、修二もそれに続くようにグラスを空にした。
「僕も同じさ。ここ最近の変化についていけてない」
 ふむ、と修二は頷いて、それから言ってごらんと僕の背中に手を置いた。たったそれだけのことなのに、何かたくさんのものが許された気がして、僕の心がするりと融けていく感覚を覚える。
「今までゆっくりと動いていた出来事が、突然姿を変え始めている。僕はただ歩いてきただけの筈なのに、その積み重ねがいつの間にか大きくなっていたみたいで、だんだんと僕だけ置いていかれているような気がしてしまっているんだ」
 なるほど、と修二はつぶやく。そこでやってきたビールを再び僕らは手にすると、思いきり飲み下す。最早水だ。乾いた感覚のあるところを潤すべく飲み続けているのだが、どうにもそこだけ乾き続けている。
「何事にも、唐突な感覚が必要なのかもしれないな」
 彼はグラスを置いてから天井を見上げ、そんなことを言った。
「ただゆっくりと動いているだけじゃ飽きてしまうんだ。例えば音楽だってそうだろう? 時々早くなったり、止まったり、そんな展開の応酬が大切になってくる。ゆっくりとした曲だとしてもその中でまったく同じ動きをするものは一つもない。まったく同じように聞こえても、それは展開次第で意味合いを変えていくのさ」
「音楽、か」
 ふと、早い音楽は嫌いだと呟いた少女がいたことを思い出す。彼女にとっては、どこまでが歩くような速さだったのだろうか。
「今、お前の世界はきっと展開を変えようとしているのさ。ほんの小さな、音符に一つスタッカートがつくくらいの本当に小さなことかもしれない。けれどもその変化が生まれているのは、きっとお前がどこかで次に行きたいと思っているからこそなんじゃないかな」
 随分入り込んだ話をしてしまった。と修二は頭を振る。流石にこのペースならまあ酔うだろう。僕自身もハッキリさせられているように思えた意識が混濁しつつあることを自覚していた。
「一生懸命歩みを進めたからこそ、変われる展開に辿りつけたんだよ」
「ただのスタッカートでもかい?」
 僕は悪戯に笑う。
「ただのスタッカートでもだ」
 修二も笑うと、互いにグラスを打ち合い、それを思い切り飲み下す。

 それから数日して、彼は行ってしまった。唐突なまでのその出発は、多分彼自身もハッキリと踏ん切りをつけたかった為なのだろうと思う。とどまり続けるという誘惑に身を委ねたくなかったのだ。

   ―――――

「貴方から誘っておきながら、遅刻はないんじゃないの?」
 赤眼鏡の縁を指でなぞりながら、彼女は眉を顰めていた。
「本当に申し訳ないと思ってる。お詫びにあとで何か奢らせてもらうよ」
 そう言うと彼女はそれなら、と言って僕に背中を向けて歩き出す。その小さいのに凛としているその姿を見ながら、僕はふと微笑んでいた。単純に、彼女という存在が面白くなり始めているのだ。知りたいものはすべて知りたいという彼女が。
 そういえば、別れ際修二に問われたことがあったな。と僕は宙を見上げる。
――好きな人はちゃんとできたか?
 彼なりに僕の人間関係について気にしてくれてはいたようだ。と修二の口から出た意外な心配に僕は笑ってしまった。修二は怒っていたけれども、突然そんなこと言われたら笑うにきまってる。
 彼の残した最後のスタッカートに、僕は応えられるだろうか。
 無意識に彩香に言った時とは違う、ハッキリと自覚した答えを。
「なあ、雪咲」
 彼女は振り返ると、未だ不機嫌な表情を浮かべている。

 好きだと言ったら、この表情は果たしてどう変わるだろう。


   完

       

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Neetsha