Neetel Inside 文芸新都
表紙

アンダンテ&スタッカート
第八話「点と線と日記」

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 殴られた。
 その感覚だけがハッキリと痛みとして僕に残り、僕の思考はその四文字を残して回転し、そしてそれと連動するかのように身体に力も入らなくなっていく。
 これは果たして現実なのだろうか。
 頭部に残るじんとした痛みと、薄れていく意識の狭間の中、僕はそんなことを思う。これが現実だとして、次に僕が目覚めた時、そこは一体どこなのだろうか。果たしてそれは現実なのだろうか。それとも――
 死神は両手を掲げ、じいとこちらを見つめている。二発目を、奴は今放とうとしている。多分それを受ければ僕は完全に意識を失うだろう。いや、その先にあるのは死なのかもしれない。
 死した後の僕がどこに行くのか。それを見てみるのも悪くないかもしれない。
 今更命を請うような状況でもないのだ。ある程度プラスに考えるとしたならば、そんな小さな疑問を叶えることくらいだろう。
 掠れた景色を眺め、そしてこちらにソレを振り下ろさんと構える死神を見て、僕はその名を呼ぶ。
「―――――」
 二度目の衝撃に、痛みという感覚は存在しなかった。
 ただ眠るだけのような、恐ろしい程の静かな死が、僕を迎えたのだ。

   ―アンダンテ&スタッカート―
   ―第八話―

 目が覚めると、呼吸は乱れていたし、シーツも衣服も汗にまみれていた。非常に最悪の寝ざめだった。
 僕は起き上がるとぴったりと肌に張り付いたシャツを仰ぐことで剥がし、そうしてから酷く乾いた喉を潤す為にベッドを離れ、冷蔵庫へと向かう。
 起きていてもはっきりと覚えている夢というのは、大抵が自らにとって非常に不利益の生じる光景なものだ。幸せな夢など覚えていたためしがない。そういう夢は大抵、起きて記憶はないが「続きが見たかった」とふと思うようなものだ。
 死神が成長している。僕の中で生まれた妄想の産物は、ありとあらゆる影響を受けて僕の中で、日々はっきりとした輪郭を手に入れているようだ。
 コーラを取り出し、プルを開くとそのまま一気に飲み干した。一度大きな音で腹部に溜まった炭酸を吐きだし、缶をゴミへと放り込む。
 カラン、と音がした時、ふと思った出来事があった。
 何故、この事件に僕も狙われる側として関連しているのか、ということだ。
「俺は、何かしていただろうか……」
 ふと考えた時、僕はまだ何も手をつけていない事象に一つ思い辺りがあることに気付いた。そしてそれは、あえて“手をつけようとしていなかった物”でもあった。
「……宮下亜希子は、何故死んだのか、いや、もしくは殺されたのか……」
 あの時、僕の目の前から消え去った彼女はこう言った。
――けど、それもできなくなってしまった。と。
 ふとした瞬間、つまりは跳ねるような出来事は突然に始まる。
あの日の彼女はその突然の出来事が初めから起こるだろうと、自分がいずれ死ぬこととなるとあたかも分かっていたかのように喋った。そしてそれは実行された。
「突然の出来事が、予想の範囲内で起こった……か」
 彩香の言っていた意味不明で理解のし難かった筈の一言が、今更になってようやく理解できた気がした。
 その突発的な出来事を起こすとして、何をしなければならないか。
 いずれ死ぬことが分かっているような出来事をどうすればハッキリと予想の範囲内で起こすことができるのか。
「……同窓会の人間が失踪、うち一人は既に死亡していて、更に今後も人は失踪していく可能性が高い……」
そして、彼女を好いていた僕には言えない出来事があるということ。
 大体の予想はできているが、果たしてそれが真実かも分からないし、仮説のみで問い詰めても誰も頷いてはくれないだろう。
 僕は携帯電話を開くと、滅多に使用することのな番号を押し、そしてその相手が出るのを待ち続けた。

―――――

「明良君、すっかり大きくなって」
「お久しぶりです。“宮下さん”」
 宮下亜希子の母、宮下佳恵は笑みを漏らしながら僕を招き入れてくれた。
 僕は少し周囲の閑散ぶりに戸惑いながらも足を踏み入れ、リビングに腰を下ろした。宮下亜希子がいた頃に来たこの家はもっと、お洒落で明るい空気だった覚えがある。赤に近い色合いだったはずの空気は今では青く染まり、足音や椅子の軋みが響く音響状態は孤独感を感じさせた。
「それで突然どうしたのかしら?」
 机に茶菓子と淹れたての紅茶を置くと佳恵さんはそう言って僕に微笑みかける。微笑んでいるのだが目はけして笑っていないことに僕は戸惑うが、多分それは僕を歓迎していないとかそういったものではなくて、本当に心から笑えなくなっているのだと思うのだ。
 僕はそんな彼女に変な刺激をしないように、丁寧なまでの言葉を脳内で練り上げていく。
「つい先日同窓会がありまして、それで亜希子さんにもちゃんと挨拶がしたいと思いまして……。高校時代とても良くしていただいたので……」
 彼女は頷いた。
「ありがとうね。もう三年も経つとそれまでしょっちゅう来てた子も大体来なくなってしまうのよ」
「ここ最近で誰か来たり……?」
「そうね……ええ……」
 彼女は何かを言おうとした後、口を噤み、そしてティーカップに口を付けた。
 それ以上は聞こうとは思わなかった。多分聞いたとして教えてもらえそうな話でもないだろうし、無理に聞こうとする等という、佳恵さんを圧迫する行為ができるわけなんでないのだ。
 それから暫く無言のまま紅茶を茶菓子を食べ、一息ついた頃に僕は立ちあがると彼女をじっと見つめる。
「亜希子さんの部屋を、見せてもらうことはできるでしょうか?」
 返事は、快い二文字だった。

 宮下亜希子の部屋は、まるで今でも彼女が生活しているかのように整っていた。衣服のまとめられたクローゼットに、高校時代の教科書、受験用に購入したであろう赤本らが机の上にはまとめて立てられていた。
 ベッドも週に一度くらい変えているのか、すぐにでも眠る事ができそうな状態となっている。唯一時間を感じさせるものと言えば、三年前のまま止まったカレンダーだろうか。
「病的だと思うかしら?」
 不意に佳恵さんはそんな言葉を呟いた。僕は瞬時に首を振った。
「いいの。自分でも分かってるのよ。娘がいないし、こんなことしたってなんにもならないことくらいね……。でも気づくとやってしまっているのよ」
「別に僕はおかしいとは――」
「気づけば料理は娘の分まで作っているし、お風呂から出たら思わずこの部屋に向けてオフロ入りなさいと声をかけてしまうし、今はもうないけれど、酷い時は娘の服を買って帰ってきたこともあったわ……」
 えっと、その、あの……
 僕はその幾つかを言葉に出すが、彼女はそれを遮った。多分彼女は否定してほしいとか、共感してほしいわけではないのだろう。
 ただ、聞いてほしいのだ。自分がどれだけ娘を愛していたのかを。そうしないと自分を保ち続けるのが辛いのだ。娘が死んだことを認め続けるのが辛いのだ。
 だから、僕はその話にただひたすらに耳を傾けながら、目を閉じた。

   ―――――

 宮下亜希子と帰宅していた頃、まだ彼女が死ぬ前、不意に彼女が呟いた事があった。
――何かを迫害する理由を、貴方はどう考える?
 僕はそれに対して良い答えが浮かばずに、無言のまま苦笑した覚えがあった。彼女はそれを見て微笑んでから道に転がっていた石をローファで蹴り飛ばした。
――大抵そういうことをするとき、それらはきっとその対象を畏れているのだと思うの。何か違う、違うものを持っている者は怖い。怖いなら否定してしまえばいい。
 なるほど、と僕はぼんやりとしたまま頷いたのだ。彼女はきっと貴方は理解できていないのでしょう。と僕の額を指でつついた。
――畏れられる側はむしろ胸を張るべきなのよね。自分は他とは違うんだって。
 そんな考え方もあるのか。面白いね。と僕が言うと彼女は笑うのだ。たまにしか見せない非常に整った綺麗な笑みを浮かべて、とても嬉しそうに笑うのだ。
 今思えばそれが彼女なりの精一杯の弱音だったのかもしれない。
「……確かに、僕は遅かったんだ」
 彼女の机の裏に隠されるようにして置かれた日記を見つけた時、僕は佳恵さんが見つけなくて良かったと本気で思った。見つけたとしたならば、僕は今この部屋に入れられることもないし、彼女の心ももたないだろう。
 その日記の最後のページに乱雑に書きなぐられたその文章は、機械的なあの文章とは違う、視覚でも彼女だと分かる字であった。
――いつまで耐えればいいのだろう。誰か助けて。
 それはつまり、僕の考えていた通り、三年前、そこには確かに彼女自身を迫害する人間がいたことを示す文章であった。

 佳恵さんに挨拶をしてから僕は宮下家を後にした。勿論彼女の日記を手にしたままだ。あのまま家に残すのは危険だと思ったし、なによりも、彼女の生を感じられるものがこの手にあるというだけで安心ができるという理由もあった。
 そして、自分がとてもふがいない人間だということを自覚する為でもあった。
彼女の中で僕は、救いを求められる人間としては見られていなかったということ。それがとてつもなく悔しかったのだ。
 だからあの日の言葉も当然のことなのだ。僕は宮下亜希子の恋人にはなれなかった人間で、彼女も多分それだけ重要な存在としては見ていなかったから飛び降りた。それだけのことなのだ。
 僕が認めるべきだったのは、彼女にフラれている男であるという事実なのだ。そして、死を弾きとめられるほど信頼性の高い男ではなかったから、死神に、彼女の死に関わった人間として狙われているのだ。
 なら僕はどうするべきなのだろうか。このまま失踪まで待ち続けて、死を待つべきなのだろうか。いや、そんなことはしたくない。けれども……。
「あら、また会ったわね」
 ふと顔を上げるとそこには、雪咲朝の姿があった。赤い縁の眼鏡をかけ、こちらを見て笑みを浮かべ、そして手を振ってくる。

   ―――――

「随分と落ち込んでいるようだけれども、何があったのかしら?」
 僕がいつも通っている古びた喫茶店で僕らは話をしていた。彼女がここへと案内した時は非常に驚いたし、僕もよく通っていると告げた後の彼女の「知っている」という答えに対しても驚きを隠せなかった。
「私もね、ここに良く来るの。この雰囲気がとても良くて、人もそこまでいないからゆっくりとお茶をしながら本を読める」
 素敵な場所だと思うわ。彼女はそう言うとまたにこりと微笑んだ。
「……知っているというのは?」
「大体私が本を読んでる頃に貴方来てたから、こちらの顔は知られてないだろうけれども、私は貴方の顔をちゃんと知ってたのよ」
 ああ、だから昼食の時、不機嫌になっていたのかと僕は納得した。
「それで、何故そんな落ち込んでいたの?」
 彼女は急かすような口調で僕に問いかける。一瞬だけ、話すべきか話さないべきかを考えたが、彼女のことだ。話さなければ帰してはもらえないし、正直なところ僕も吐きだしたい気持ちでいっぱいなのだ。
 僕は日記を机の上に置くと、今日の出来事、事件を全て簡潔に話した。

 全てを話し終えた後、彼女はじっと黙ったままであった。日記を一ページ一ページめくって確認しながら僕の言葉を聞いていたようで、全ての間隔を集中させているようだった。
「僕は本当に馬鹿だよ。勝手に彼女に一番近い存在だと思い続けていたのだから」
 吐き捨てるようにして言った後、彼女はじっと僕を見つめ、そして日記を閉じて机に乱暴に置くと、こう言った。
「貴方は馬鹿ね」と。
「帰ってからちゃんとこの日記、読みなさい。そうしたら、今後何をすればいいか分かるから」
 そう言うと彼女は立ちあがる。もう帰るのかと聞くと、少し不機嫌になったと一言呟いて荷物をまとめ始めた。
 そうして出口へと向かっていくとき、ふと思い出したかのように彼女は振り向いて、僕に向けて指を差す。
「なにかあったら全部私が受け止めてあげるから。立ち止まるのだけはやめてね。そうやって文句垂らしてる姿が一番鬱陶しくて、私嫌いなのよ」
 そう言うと、彼女は扉を乱暴に開けて帰って行った。僕はその彼女の言葉に多少の怒りを覚える。何故一度や二度会った人間にそこまで言われなくてはいけないのだろうかと。
 僕は日記を手に取ると彼女の分の勘定も済ませ、帰宅することにした。

 電気を点けてもそこには当たり前のように誰もいない。適当に脱ぎ散らかされた寝間着が転がってるだけで、他は綺麗だ。
 僕はその寝間着を適当に隅に追いやり、ベッドの縁に腰かけてから日記を開く。
 彼女が一体何故そんなことを言ったのだろうか。
 これから進む為に彼女はこれを読むべきだと言ったのだ。ならば僕は、少し彼女の発言にいら立ちを覚えるが、それに従おうと思う。
 日記は、僕と言葉を交わすようになってから五日後から始まっていた。

   つづく

       

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Neetsha