Neetel Inside ニートノベル
表紙

ナイト・ワーカー
第一夜 少女と狩人

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 こんな時間まで遊ぶんじゃなかった。
 小島由美は夜道を全力疾走しながら、自身の不真面目さを悔やんでいた。時刻は深夜零時。学生ならば補導されるような時間である。黒髪のポニーテールを文字通り馬の尻尾のように激しく揺らしながら、必死に疾駆し、後方にいるであろう怪物から逃げている。
 由美は小石につまずき、勢いよく転倒する。走り続けて体力に限界が近づいていたのだろう。起き上がることができずに、泣きながら地面を這っている。
「おやおやぁ。もう疲れちゃったのかなぁ?」
 暗闇からねっとりとした声が発せられた。
「おじさんとしてはもっと鬼ごっこしててもよかったんだけどねぇ。……ヒヒ、だって女子高生と遊ぶ機会なんて滅多にないからさぁ」
 由美はガクガクと震えながら声のする方を見る。
「でも、君は疲れちゃったんだよね。おじさんは疲れた子に無理はさせたりしないよ。だから、お終いにしようか」
 闇の中から、黒ぶちの眼鏡をかけた中年の男が現れた。口元はいやらしくつりあがり、赤子のようにだらしなく涎を垂らしていた。身にまとった黒色のジャージはまるで周囲の闇と一体化したように見える。
「じゃ、いただきまぁす」
 男は口を大きく開ける。中に大きく鋭い犬歯が二本。それを見て由美は恐怖のあまり失禁する。自分はこのまま血を吸われて死ぬのだと、彼女は悟った。
 男――吸血鬼は由美の肩を掴もうと右手を伸ばす。しかしその手が彼女に触れるよりも先に、鈍く光る銀色のナイフが吸血鬼の手の甲を貫いた。
「がぁっ」
 吸血鬼は右手をひっこめると、左手で庇うようにしておさえた。口からは苦痛による呻きが漏れている。
「ぐ……手が……」
 左手から、さらさらと灰が、次にナイフが落ちていく。かつて吸血鬼の右手だったものが灰化したのである。甲に刺さった銀製のナイフによって。
「だ、誰だぁ!?」
 吸血鬼は周りを見回す。だが、あるのは灯りの消えた建物と暗闇だけ。そしてその暗闇から漆黒の何かが飛び出し、彼を突き飛ばした。
 それは暗色のコートを纏った男だった。加速をつけてからのとび蹴りで吸血鬼を吹き飛ばしたのである。
 吸血鬼は地面を転がりながらもなんとか体勢を整えて、自分を蹴り飛ばした人間と向き合った。二人の距離はおよそ十メートル弱。
 コートの男は腰を抜かしている由美を一瞥すると、すぐさま吸血鬼との距離を詰めた。その右手にはさきほど吸血鬼の右手に刺さっていた物と同じ銀製のナイフが握られていた。
 吸血鬼はコートの男が持つナイフに気付くと、一瞬思考を巡らせ、この場からすぐに撤退することを選択する。吸血鬼は丸腰でなおかつ手負い。銀製の獲物を持つ人間を相手にするのは分が悪い。

     


     

 地面を必死にまさぐり、落ちていた小石――砂利といった方がしっくりくるほどの小ささだが――をコートの男に向かって投げると、吸血鬼は一瞬で方向転換をして、全力で駆けだした。
 くそっ。さっきまで追いかける側だったのに今度は俺が逃げる側か。吸血鬼は忌々しいとばかりに表情を歪めると、吸血鬼特有の常人離れした身体能力を駆使し、急加速した。――が、左足のふくらはぎに鋭い衝撃が走り、無様に転倒した。
 焼けつくような痛みとともに、吸血鬼の左足の膝からしたが灰化し始めた。
「くそぉっ! またナイフかぁ!」
 コートの男の正確無比なナイフ投げにより、吸血鬼の足は完全に封じられた。
 コツコツという静かな足音とともに、コートの男が吸血鬼に近づく。
「なあ、助けてくれよ……女の子襲ったのは謝るからさ。俺はもう誰の血も吸わないよ。だからさ……」
 コートの男は背負っていた細長い袋から、棒状の何かを取り出して、言った。
「悪いね。仕事なんだよ」
 それは長さ百五十センチほどの木製の杭だった。コートの男はそれを軽々片手で持つと、吸血鬼の心臓に切っ先を向けた。
「頼む……助けてくれって……頼むよぉ!」
 吸血鬼の命乞いを無視し、コートの男は杭を心臓に突き刺した。
 断末魔の叫びが夜空に響き渡る。次第にそれはかすれていき、その場には血と灰、そして濁った赤色の小さな肉塊だけが残った。
 コートの男は灰の山から肉塊だけを取り出すと、用意していた小瓶に入れた。
「後始末が必要だな」
 携帯電話を取り出し、電話をかける。
「もしもし、掃除を頼みたい。場所は――ああ、携帯のGPSで分かるんだったな。今いる場所がちょうどそうだ。それと」
 歩きながら通話を続ける。少しして、由美がいる場所へと戻ってきた。
「襲われた女子高生がいる。大丈夫、血は吸われていない。記憶の処理だけでいい」
 由美はコートの男をおびえながら見上げている。
「以上だ。よろしく頼む」
 コートの男は通話を切る。
「その……あ、ありがとうございました」
 由美は一応コートの男を助けてくれた味方と認識していた。得体がしれないため、まだわずかに恐れてはいたが。
「君を助けるつもりできたわけじゃないんだがね。まあ、なんというか運が悪かったね。いや、運が良かったと言うべきか」
 由美はきょとんとしながら聞いている。うまく、話が飲み込めないようだ。
「少ししたら君は襲われたときの記憶を封じられて家に帰される。それまでここでじっとしているといい。それじゃ」
 コートの男は言い終わると同時に、その場から歩きだした。
「ま、待って……!」
 由美はなんとか立ち上がり、コートの男の方に駆け寄ろうとする。が、後ろから肩を掴まれた。振り返ると、スーツを身にまとった数人の男がそこにいた。
「相変わらず仕事が早いね」
 コートの男は振り返らず由美の後にいる男たちに言った。
「彼女をよろしくたのむよ」
「ええ」
 由美の肩を掴んでいる男は返事をすると同時に、彼女の後頭部に触れた。
 その瞬間、由美は意識を失った。

     

「おはよっ」
 ホームルーム十五分前。余裕を持って教室に入った由美に、友人である春香が声をかけた。
「ねえ、昨日は怒られた?」
 春香は席に着いたばかりの由美に赤いフレームの眼鏡をかけた顔をぐいっと近づけて問う。
「怒られたよぉ。もうお父さんもお母さんもカンカンでさ」
 昨晩、由美は春香ともう一人の友人とともに、深夜零時近くまで遊んでいたのだ。まだ高校生の娘の帰宅がそんな時間になれば、家族は心配するものだ。
「あはは。うちもそうだよ。一時間も説教されちゃってさ。おかげで寝不足」
 春香は大きく口を開け、あくびをした。由美もそれにつられてあくびをする。
「ねえ、聞いて。私さ、昨日春香と別れてからの記憶がないんだよね」
 由美は周りに聞こえないように声をひそめながら言う。
「気づいたら玄関の前で座りこんじゃってたの」
「なにそれ? 面白いウソつかないでよー」
「嘘じゃないんだって。本当に春香と別れてから家に帰るまでの三十分間、記憶がからっぽなの。なんでだか分かる?」
「私に聞かないでよ。あの後私はすぐに家に帰ったんだから。聞くなら一緒にいた加奈子に聞きなって。ほら、加奈子来たよ」
 春香は教室の入り口を指さす。栗色の髪をしたロングヘアの少女が額にたくさんの汗を流しながら、由美と春香に手を振っていた。
「おはよう二人とも」
 加奈子はハンカチで汗をぬぐいながら自分の席についた。
「どうしたの? すごい汗じゃない」
「だって、今日すっごく暑いんだもん。まだ五月なのにねぇ」
 手を団扇のようにして仰ぐ動作をしながら加奈子は笑った。
「今日そんなに熱い?」
「うーん、私はむしろ少し寒いかな」
 由美と春香は互いの顔を見合わせ、首をかしげた。
「えー、嘘ぉ。こんなに暑がってるの私だけぇ?」
 驚いたとばかりに加奈子は目を丸くする。そして教室中を見回して、自分以外に暑がっている生徒がいないのを確認すると、小さくため息をついた。
「本当に私だけみたいね。なんでだろ、急に暑がりな体質になっちゃったのかしら」
「熱が出てるとか?」春香は加奈子の額に手を当てた。「いや、そういうわけじゃないみたい」
「困ったなぁ。暑くて授業に集中できなくなっちゃう」
「元から集中力ゼロのくせにぃ」
「じゃあ集中力マイナスになっちゃうのかな」
 春香と由美はにやにやと笑いながら加奈子を茶化した。
「うるさいなぁもう。集中力ギリギリプラスですぅ」
 加奈子は頬を膨らませ、ぷぅっとすねる。少しして三人同時に声をあげて笑う。
「あ、そうだ。由美が加奈子に聞きたいことがあるって」
 三人の笑いがおさまってきたところで、春香は加奈子が教室に来る前の話題に戻した。
「何? 昨日親に叱られたかって?」
「ううん。実はね、昨晩春香と別れてから家に帰るまでの記憶がないの。三十分くらいの間なんだけど。そのとき加奈子は私と家の方向同じだから一緒にいたでしょ。だから私に何かあったのか聞きたくて」
「記憶がない? そんな漫画みたいなことあるの?」
 きっと冗談だと思ったのか、加奈子は笑いながら答えた。しかし由美の表情が真剣そのものだったため、わざと小さく咳をすると、改めて答える。
「えっとねぇ、昨日春香と別れた後は……」
 後は、から加奈子の言葉が続かない。必死に思い出そうとしているようだ。わずかな沈黙が続く。
「ごめん由美。私もないや……」
「え?」
 加奈子の表情は少し青ざめていた。
「私もないの。……春香と別れてからの記憶が」
 再び沈黙。由美と加奈子は互いの顔を見合いながら呆然としている。
「え、何々? マジで二人とも昨日の記憶ないの?」
 沈み始めた空気を少しでも明るくしようと思ったのか、春香は声のトーンをあげて二人に問いかける。由美と加奈子は無言でそれに頷いた。
「たった三十分程度記憶がないだけでしょ? そんな深く考えることじゃないって。夜遅かったし、半分眠ってるような状態で帰っちゃったんだよ、きっと。ね!」
 春香は二人の肩を叩いて笑った。
「うん、ありがと。春香」
 由美は顔を上げると、笑った。
「そうだよね、別に今は何ともないわけだし。ね、加奈子」
「うん、そうだね。ちょっとびびっちゃったけど、気にすることでもないか。むしろ不思議体験ができてラッキーだよ」
 加奈子も由美につられるように元気を取り戻す。
「もしかしてエイリアンに誘拐されたんじゃない? 金属とか埋め込まれてたりしてね」
 春香のジョークで三人はまた声を出して笑う。
 笑い声とともに、ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴っていた。


「おはよーっす……」
 眠気を堪えながら、一人の男がとあるマンションの一室の扉を開けた。
 さらりとした癖がまったくない黒髪に鋭い眼光。年は二十代前半だと思われる。
 男は玄関で靴を脱ぐと、大きな足音を立てながら奥に進む。部屋の中には黒革のソファとガラスのテーブル。さらに奥に事務用のデスク。そしてふんぞり返るように座る一人の女性。
 ビジネススーツを纏い、足を組みながら男の方を睨んでいる。表情は険しいものの、そこはかとない色気を醸し出した顔立ちの美人である。
「ユウか。遅刻だぞ」
 指を指しながら女は言った。肩までかかった髪が揺れる。
「昨夜は仕事だったんだよ」
「結果は?」
「これだ」
 男――ユウは小瓶を取り出すと机の上に置いた。中には濁った赤色の小さな肉塊が入っている。
「汚い核だね。吸血鬼になってから日は浅いみたいだ」
 女は小瓶に手を伸ばすと、それを持ち上げて高く掲げた。小瓶を部屋のライトにかざして中の肉塊を観察し始めた。
「何か問題でもあったか?」
 ユウはソファに寝転がりながら、女の言葉を待つ。
「問題大アリだわ。こいつ、死ぬ前の数時間に誰かの血を吸ってるね」
 女は小瓶を置くと、代わりに灰皿を手に取り、ユウへと投げつけた。放物線を描き、頭へ直撃する。
「いってぇな葉子!」
「起きな。あと葉子さん、だ。仕事はまだ終わってないよ」
 ユウは灰皿が当たった場所を抑えながらゆっくりと起き上がった。
「まずは昨日こいつを殺した場所の周辺で吸血痕のある死体を捜しな」
「見つからなかったら?」
「言うまでもない。血を吸われたのは適合者だったと考えろ。被害が出る前にそいつを探し出して始末しろ」
「了解した。一通り探したら一応連絡を入れる」
「こっちもテレビやネットで死体が発見されてないかどうか調べておく」
 ユウはソファからとび起きると部屋を出ていく。途中、立ち止まって女――葉子の方に振り返る。
「一応確認しとくけど銃器の使用は?」
「ノー」
「把握した」
 ユウはまた葉子に背を向けると、軽く手を振り、この場を後にする。玄関の扉が大きな音を立てて閉まった。
「あー……まためんどくさくなった」
 ユウがいないことを確認すると、葉子は一人ごちた。 

     

「俺だ、死体は見つからなかった。そっちは?」
『情報なし。どこも報道してないね』
「了解。吸われた人間を適合者とみて捜査を続ける」
『なんか警察みたい』
「そういうのはいいから」
『じゃ、こっちも反応があったら連絡入れるから』
「ああ。それじゃ」
 ユウは通話を切ると、また別の番号に電話をかけた。
「もしもし、俺だ。昨夜記憶の処理をした少女のことなんだが――」


 体調が良くないのか暗い表情でうつむく加奈子に由美は声をかけた。
「大丈夫? 調子悪いの?」
「うん……ちょっとね」
「保健室行く? 付き添うよ」
「昨日と一昨日も行ったからちょっと行きづらいかな」
「でも、気分がよくないんでしょ。無理しちゃ駄目だよ」
「そうかな……。じゃあ、保健室行く」
 加奈子は椅子から立ち上がると、教室を出る。途中で少しぐらつき、横から由美に支えられた。
「ごめんね由美」
「いいのよ。気にしないで。親友でしょ」
 申し訳なさそうにする加奈子に、由美はとびきりの笑顔で答えた。

 一昨日から今日まで、加奈子は体調を崩したのか連日保健室に行って身体を休めていた。午前中のほとんどを寝て過ごしている。
 養護教諭は、寝不足が原因ではないかと様子を見に来た由美と春香に伝えていた。加奈子に体調不良に心当たりがあるかと聞いたところ、「夜は目が冴えてどうしても寝付けない。日が昇るころになって急に眠くなる」と答えたのだ。それに、今の彼女には目の下にわずかだがくまができていた。
「不思議ね。昼間どんなに眠くても、陽が沈むと急に元気になっちゃうんだって」
 養護教諭は困ったように言った。自分の知識ではどうすることもできない、と。
 春香は、この前夜遅くまで遊んでたから生活リズムがおかしくなったのかもしれない、と軽く言っていた。だが、由美にはどうしてもそうは思えなかった。

 加奈子は昼休みに教室へと戻ってきた。表情はあまり明るいとは言えない。まだ本調子ではないのだろう。
「おかえり。回復したかー?」
 春香は笑って加奈子を迎える。それに応えるように加奈子も小さく笑った。
「うん、もう大丈夫だと思う。午後の授業は出るよ」
「でも毎日大変だよね。辛いなら学校を休んで療養してもいいと思う」
 由美は加奈子の顔をまじまじと見ながら言う。目の下にはくま。それにわずかだが、皮膚が陽に焼けたように赤くなっている。春香はそこまでは気づいていないようだった。
「ううん、ただ寝不足なだけだからさ。それに私、学校は大好きだからね。休みたくないんだ。さすがにインフルエンザみたいにうつる病気だったら休むけどね」
「当たり前でしょ」
 加奈子は心配する由美を笑わせようと、軽い口をたたく。春香もそれを聞いて笑うが、由美は微笑むくらいしかできなかった。
「あ、もうすぐ昼休み終わるね。次の授業は何だっけ?」
「えーと……あっ。体育だ」
「やばっ。体操着に着替えなきゃ。グラウンド? 体育館?」
「グラウンドだよ」
 三人は体操着を持って、更衣室へと走って行く。
 遅刻することなく、グラウンドへ整列。白い体操服を身にまとった少年少女がずらりと規則的に立っている。季節は春。すでに半袖の体操着を纏っている生徒もちらほらいた。
「あれ、加奈子はまだ長袖なんだね。あんだけ暑がってたのに」
 春香は半袖と生徒と加奈子を見比べて言った。
「うん。なんか暑すぎて日差しが痛いんだよね。ヒリヒリする感じ」
 それを聞いて、由美は加奈子の首元を見た。陽に焼けたように赤くなった首筋。さらに小さな傷跡が二つ。
「前ならえ。点呼!」
 前方から飛んでくる教師の声。三人はおしゃべりをやめて指示に従う。
「よし、休みはいないな。じゃあいつも通りグラウンド二周。終わったら体操だ」
 教師の言葉に従い、生徒たちはゆっくりと走り始める。由美たちも三人で固まり、ゆっくりと走りだす。
「毎回これがだるいんだよねぇ」
「今日はサッカーだっけ?」
「えー……女子もやるの?」
「そうみたいだよ。男子は男子、女子は女子で別れて。それは当り前か」
 無駄口を叩きながら彼女たちは走る。しかし加奈子だけは何も言葉を発することなく、黙々と足だけを動かしていた。
「あー疲れたぁ」
「息切れすらしてないのに何言ってるの」
 由美と春香は余裕の表情で笑いあう。しかし、加奈子だけはまるで長距離を走り切った後のように息を切らしていた。
 それに気付き、二人は加奈子に寄り添う。
「保健室で休んでた方がよかったんじゃ……」
「大丈夫。運動不足なだけだよ」
 加奈子は笑って答える。それが強がりなのは由美も春香も気づいていたが、本人が大丈夫と言い張る以上、二人は何もできない。
 体操を終え、クラス内でチームを分けると、サッカーが始まる。男子に比べて女子はあまり盛り上がってはいないが、一応サッカーらしい試合にはなっていた。
 教師は成績評価のため、男子と女子の間を交互に行き来する。由美と春香は評価を下げられないよう、適度に試合に参加。たまにボールを追いかけ、形だけでも試合をしているように見せていた。
 一方加奈子は最初のころだけはフィールド内で動いていたが、途中からゴールポストに寄りかかって動かなくなり、最終的にグラウンドの隅に植えてある木の陰に座り込んでしまっていた。
「やっぱり加奈子大丈夫じゃなかったんだよ」
 由美は木陰にいる加奈子に気付き、春香に声をかけた。
「加奈子は強がりだからなぁ。絶対無理するんだよね。あっ、由美! ボールきてるって」
 飛んできたボールを追いかけ、キープすると由美はつたないドリブルをする。最初は盛り上がらなかった女子の試合だが、終盤になると男子ほどではないがどの女子生徒も熱中してプレイしていた。
 あそこで休んでるなら大丈夫だろうと思い、由美と春香は試合に集中することにした。

「じゃ、さようなら」
 担任の言葉で帰りのホームルームが終了する。部活動に行く生徒、帰宅する生徒、教室に残る生徒。由美たち三人は部活動に所属していないため、すぐに教室を後にした。
 弱々しく歩く加奈子を挟んで支えるように、三人は並んで歩く。
「ねえ加奈子。これ以上無理しない方がいいよ」
「そうだよ。見てるこっちが心配なんだからさ」
 由美と春香は加奈子に言い聞かせる。これ以上、親友が苦しんでいるところを見たくない、という思いを込めて。
「うん。今日は帰ってすぐ寝るよ。ただの寝不足だからそれでもう大丈夫だと思う」
「明日は休んで一日中休んでた方が……」
「大丈夫だって。自分の身体のことは自分がよく分かってる。それに、私皆勤賞も狙ってるんだよね」
 加奈子は軽い口調で言った。
「心配しないで。今日はゆっくり休む。明日は学校に行く。保健室には行かない。これでオーケー」
 にっ、と笑って由美と春香の顔を交互に見る。
「もう、しけた顔してないで。帰ろう!」
「急に元気になっちゃってさ」
 春香も加奈子に応えるように笑う。
 思ったより元気があってよかった。由美は明るくふるまう加奈子を見て安堵する。
 そこからはいつも通りの何気ないおしゃべりが続いた。
「私こっちだから。それじゃあね」
 家の方向が違う春香は由美と加奈子とは別の道を行く。
「由美、ちゃんと加奈子を送ってくんだよ」
「分かってるよ。任せて」
 春香は大きく手を振る。二人も手を振り返す。春香を見送ると、由美と加奈子は二人で歩きだす。
 二人は途中で小さな商店街を通る。この時間帯は夕飯の買い物をする主婦が多く、賑わっていた。
『続いてのニュースは……』
 商店街の中にある小さな個人経営の電器屋の前を通る。展示されているテレビはニュース番組を映していた。二人はふと画面の方を見る。
『行方不明になったのは○○市在住、無職の――さん三十八歳で……』
 ニュースキャスターが行方不明なった人の情報を読み上げる。画面には写真が映される。黒ぶちの眼鏡をかけた中年男性。
「…………」
 加奈子は足を止めてテレビを食い入るように見始める。顔には大量の汗が流れていた。
「どうしたの加奈子」
「…………」
 そばにいる由美にも聞き取れない声で、加奈子は何かをぶつぶつと呟く。
「ねえ加奈子ってば」
 何かがおかしい。由美は加奈子の肩を掴むと自分の方へと顔を向かせる。顔面蒼白、そして今にも泣きそうな顔で加奈子は呆然としていた。
「ごめん由美……ごめん」
 加奈子は由美を両手で突き飛ばす。病人とは思えないような力で由美は地面を勢いよく転がった。そしてその場から駆け出していく。
「加奈子!」
 由美は大声で叫ぶ。だが加奈子は振り返りもせず、そのまま走り去ってしまった。

 翌日。加奈子は学校を欠席した。

     

「なんだか嬉しいような嬉しくないような……」
 担任がホームルームで加奈子の欠席を伝えたとき、春香は隣の席に座る由美に耳打ちした。
 加奈子は今日も学校に行くと宣言していた。本人の性格を考えても急に休むようなことは考えられなかった。彼女の病状が悪化していない場合ではあるが。
「悪化しちゃったのかな。私にはそれしか考え付かないや」
「そうだね……」
 由美は浮かない顔をしてうなずく。彼女の脳内では、昨日の出来事が再現されていた。
 テレビに映ったニュース――行方不明者の画像を見て態度が急変した加奈子。由美の目にはただの冴えない中年男性にしか見えなかった。だが、加奈子は違った。
 このことを春香に話すべきか。由美は決めかねていた。
「メールくらいくれたっていいのにさ。私たちは親友同士なんだからさ」
 親友。春香のその言葉に由美は突き動かされる。そうだ、私たちは親友同士なんだ。だったら春香にも昨日のことを相談して加奈子を元気にしてあげないと。
 朝のホームルームが終了。一時限目が始まるまで数分ほど時間が空く。この時間を利用し、由美は昨日の出来事を春香に伝えた。
「うーん……なんでだろうね。私にも全然わかんないや。由美はその行方不明の人に見覚えはないの?」
「うん、まったく知らない人だった」
「そうかぁ。由美はさ、突き飛ばされた後は加奈子を追いかけなかったの?」
「追いかけたよ。でも加奈子、ものすごい速さで走って行っちゃったから、追いつけなかった。本当、加奈子とは思えないほど速かったよ。陸上の選手みたいだった」
「調子が悪いのにそんな速く走ったなんて信じられないわ」
「でも本当なんだよ。それで、追いつけはしなかったけど加奈子の家を訪ねたんだ。そうしたら加奈子のお母さんが出てきて、加奈子は帰ってくるなり部屋にこもって寝ちゃったよ、って言うから。そこで私も引き返したの」
「なんでさ。どうして加奈子を呼んでもらわないの?」
「呼んでも絶対に加奈子出てこない。そんな気がしたの。それに、加奈子がおかしくなったこと、加奈子のお母さんには言いづらくて……」
「そっかぁ。なんだか、大変なことになってきちゃったね」
「うん、そうだね」
 全ては由美と加奈子が記憶を失った日から。自分は何か知っているのではないのか。失った記憶の中に、加奈子を助けるための何かがあるのではないか。由美はそう思わずにはいられない。
「今日の放課後は私も加奈子の家に行くよ」
「ありがとう、春香」
「別にあんたがお礼を言うところじゃないでしょ。お礼は元気になった加奈子にたっくさん言ってもらわないとね」

 帰りのホームルームが終了。由美と春香はいの一番に教室を出る。向かう先は加奈子の家だ。
 目的地である加奈子の家に到着する。二階建ての欧風邸宅。立派な門と大きな庭が、この家の主の平均以上の裕福さを醸し出す。
 門から少し離れた塀に、黒い子コートを纏った二十代の青年が腕を組みながら寄りかかっていた。うつむいているため、表情は分からない。立ったまま寝ているようにも見えた。
 怪しい人だな、と由美は青年をちらりと見て思う。春香も同じようなことを考えていたらしく、彼を訝しげに見ていた。だが、門の前まで来ると本来の目的を思い出す。
 二人は二階にある加奈子の部屋の窓を見上げた。明かりはついていない。
「寝てるのかな。それとも部屋にいないだけかな」
 春香はそう言いながらインターホンのボタンを押す。少ししてから『はぁい』と間延びした声が返ってくる。加奈子の母だ。『あら、由美ちゃんに春香ちゃんじゃない』
「こんにちは。加奈子に学校のプリントを持ってきました。加奈子は今起きてますか?」
『寝てると思うわ。ごめんねぇ、せっかく来てくれたのに。あの子ずっと部屋から出てきてくれないのよ』
「そうですか……」
 昨日と変わらない。由美は何もできない自分に歯がゆさを感じる。
『おばさんが代わりにプリント受け取るからちょっと待ってて――』
 加奈子の母が言い終わる前に、由美は言った。
「あのっ……加奈子に会わせてもらえませんか」
 それはとっさに出た言葉だった。
「どうしても、加奈子と話がしたいんです」
『うーん、でもあの子も調子が悪くて寝てるわけだから……』
「でも、話したいことが、話さなきゃいけないことがあるんです」
 春香は真剣な表情で訴える由美を見る。そして、彼女の肩をそっと抱くと、続いて言った。
「お願いします。私たち、どうしても加奈子が心配なんです!」
 ぐっと親指をたてて、春香は由美に笑いかける。
「お願いします!」
 二人は声をそろえて懇願した。
『……しょうがないわねぇ。話しかけるなら扉越しに。全然反応がなかったらそこでお終い。わかった?』
 二人は顔を見合わせると、嬉しそうに抱き合った。

「えーと、加奈子の部屋の場所は分かってるわよね?」
 加奈子の母は二人を家に迎え入れると、階段の手前で二人にもう一度念を押した。
「さっき言った通り、話しかけるなら扉越しに。全然反応がなかったらそこでお終い」
「はい」
 二人は揃って返事をすると、二階へと上がっていく。そして加奈子の部屋の前で立ち止まった。
「ねえ、加奈子。起きてる?」
 由美は少し声のトーンを落とし、扉に向けて話しかける。しかし、反応はない。
「そんな声じゃ気付かないって。加奈子ー。春香ちゃんがお見舞いにきてやったぞぅ」
 春香は由美と打って変わり、いつものような軽い口調で声をかけた。やはり、反応はない。
 加奈子の母との約束では、反応がなかったらそこでお終い、この場を後にすることになっている。二人とも諦めて扉の前から去ろうとする。
「……もうちょっと……声のトーン、落としてほしいかな……」
 ぼそぼそと聞き取りづらいものであったが、加奈子の返事がくる。しかし、それは彼女とは思えないような、生気のない声だ。
「加奈子!」
 由美は反応があったことがよほど嬉しかったのか、先ほどの春香以上の大きさで声を上げる。
「馬鹿っ」
 春香は由美の頭をげんこつで叩く。
「ご、ごめん……嬉しくてつい」
 慌てて口元を押さえながら、由美は静かに謝った。
「ねえ、加奈子。私たちと話してくれる?」
 反応は返ってこない。
「やだって言わないなら話してくれるんだね」
 春香は悪戯に笑ったかと思うと、真剣な顔つきになり、加奈子に問いかけた。
「昨日、何があったの? 今日休んだことと関係してるの?」
 少しの沈黙。
「……うん」
 短い返事。春香はさらに続ける。
「ねえ、私たちに話してくれないかな。力になりたいんだよ」
「……ありがとう春香。気持ちは……すごく嬉しい」
 今にも消え入りそうなほどに弱々しい声。由美の胸中の心配と不安が増していく。
「だけど……ごめんね。言えない……言えないよ……」
「なんで」
 由美は我慢できずにまくしたてる。
「私たち親友でしょう? 春香が辛くて苦しんでるなら助けてあげたい。力になってあげたいんだよ」
「……今の由美だよね?」
 弱々しくも、氷のように冷たい声が返ってくる。春香への返事とは雰囲気がまったく違う。由美と春香は少し驚く。
「今の言葉、本気で言ったの……? 私たちは親友? 苦しんでるなら助けてあげたい? 力になってあげたい?」
 声に力強さが増し、早口になっていく。
「本気だよ……どうしたの加奈子」
「よくそんなこと平気で言えるよね。口ばっかりのくせに!」
 勢いを増した声はとうとう叫び声に近いくらいの激しさになる。
「そうだよね。あんたは覚えてないもんね! あんたはのうのうと生きてて……私は……私はもう……」
 叫び声に限りなく近い怒声は結び目をほどいた風船のように急激にしぼむ。そしてすすり泣く声が扉の隙間から洩れてくる。
 由美も春香も事態が飲み込めなくなっている。こんなに激高し、嘆いている加奈子は二人には初めてだったのだ。
「帰って……」
「でも……」
 由美は食い下がる。
「帰って!!!」
 何かが砕けるような音とともに、加奈子は叫んだ。そしてまたすすり泣く声だけが二階を漂った。
「……今日は帰ろう」
 うつむく由美の肩を春香はそっと抱きよせ、扉の前から少し遠ざける。
「加奈子。また来るよ」
 春香は由美の手をひっぱり、階段を下りる。
 一階に着いたと同時に加奈子の母が二人に声をかける。
「何があったの? すごい音がしたけれど」
「ごめんなさい、私たちちょっと無神経なこと言ったみたいで、加奈子を怒らせちゃいました」
 春香は頭を下げる。
「本当ごめんなさい」
 由美も春香に続くように頭を下げた。
「プリント……加奈子に渡しておくからね」
 加奈子の母は、それだけ言うとリビングへ行ってしまった。
「お邪魔しました」
 二人は意気消沈した状態で、この家から去った。
 門から出ると、先ほどいた黒いコートの青年がまだ同じ体勢で塀に寄りかかっていた。
 この人はなんなのだろう、と由美は一瞬考えるが、先ほどの出来事に比べればどうでもいいことだと思い直し、思考の外へと追いやった。
 沈んだ空気のまま、二人は歩き続ける。
「加奈子は思い出したんだよね。失くした記憶を」
 由美は言う。
「加奈子の口ぶりからしてそうなんだろうね」
「早く思い出さなきゃ……。失くした記憶の中に加奈子が変わった理由があるはずなんだから……」
「そんなに気負ってちゃ思い出せるもんも思い出せなくなっちゃうよ。ほら、顔暗い。もっと前向きにさ」
 春香は由美の背中を叩くと駆けだした。
「じゃ、私この後バイトだからさ。また明日ね」
 手を振りながら春香は去っていく。由美もそれに振り返し、自宅へ向けて歩いていった。

 時刻は二十二時を少し回ったところ。春香はバイトを終え、夜道を一人歩いていた。
 右手には携帯電話が握られている。画面には電話番号が表示されている。ボタン一つですぐに電話をかけられる状態だ。
「あー……五月だってのに寒いなぁこの時間は」
 小さく震えながら、一人呟く。
 しばらく歩き、春香は足を止める。彼女の眼の前には一つの欧風住宅。加奈子の家である。
 二階を見上げる。加奈子の部屋から明かりが少し漏れている。それを確認して、春香は携帯のボタンを押した。
「もしもし加奈子」
『もしもし。どうしたのこんな時間に』
 昼間のときのような弱々しさを感じさせない声だった。
「今さ、家の前にいるんだ」
 沈黙。少しして加奈子の部屋の窓が開いた。
『本当だ。バイト帰り?』
「うん。よかったらさ、少し話さない?」
 再び沈黙。
「ごめんね、一日に何度も迷惑だよね」
『春香一人だけ?』
「うん、今は私しかいない」
 三度沈黙。十数秒の間が開いた後、加奈子は言った。
『春香は私のこと、親友だと思ってる?』
 恐る恐る、といった感じで加奈子は春香に問う。
「いまさらそんな当たり前なこと言わないでよ。親友に決まってる」
『……信じて、いいのかな』
「私は加奈子が私のこと親友だと思ってるって信じてるよ」
『……ありがとう。ちょっと待っててね』
 窓から春香を見下ろしていた加奈子の姿が消える。少しして玄関の扉が開く。
「いいよ。上がって」
 加奈子は春香に手招きをする。
 春香は嬉しそうに門を開き、加奈子のいる玄関へと歩んだ。

 春香が門をくぐった瞬間、暗闇の中で何かが小さく動いた。
 それは人だった。闇と同化した黒色のコートと黒髪。昼間からいる青年だ。
 首を動かし、中へ入っていく春香の様子をうかがったのである。
 玄関が閉じる音を聞くと、青年はまた首を元に戻し、影のように闇に溶け、動かなくなった。

 由美は忍び足で家の廊下を進む。音をたてないよう細心の注意を払うと、靴を履いて玄関の扉を開けた。
 以前帰宅したとき――記憶を失ったときである――由美は両親からこっぴどく叱られた。それ以来、外出や門限に関して厳しくなっていた。以前ならこの時間に少し友達の家やコンビニに行く程度のことだったら両親は何も言わなかったが、今では禁止されるようになったのだ。
 だが、由美はどうしても外に出たかった。加奈子のもとに行きたかった。
 静かに玄関の扉を閉じる。引き続き忍び足で自宅からある程度距離を開けると、加奈子の家に向かって走り始めた。
 加奈子に聞かなければならない。あの夜に何があったのか。由美は決意を決め、全力で走る。
 五分ほど走ったところで、加奈子の家が見えてきた。由美は目を凝らして加奈子の部屋を見る。
 部屋には明かりがついていた。加奈子は起きている、話ができるかもしれない。由美の足が速まる。とうとう加奈子の家の前まで辿り着く。
 突如、加奈子の部屋の窓ガラスが割れ、中から何かが飛び出して由美の目の前で着地した。
 ぼさぼさの髪の毛に血に染まった口元とTシャツ。――加奈子だった。
 一瞬由美の顔を見るが、すぐに目をそらし、その場から駆けだす。
「加奈――」
 由美が叫ぼうとした瞬間、加奈子の家の庭から塀を越えて何かが飛び出した。黒色のコートを纏った青年――ユウだった。手には銀色のナイフが握られている。
 ユウはナイフを構えると走っている加奈子に向けて投げようとする。が――
「やめてぇ!」
 横から由美が彼に抱きつき、それを妨害した。ユウはナイフを投げることはできたが、軌道は大きくずれて加奈子から離れた場所に落ちた。
「おい、離せ!」
 ユウは力づくで由美を引き離し、地面に突き飛ばす。だが、そのころにはすでに加奈子は見えなくなっていた。彼はポケットから携帯電話を取り出すと、電話をかける。
「俺だ。妨害にあって逃げられた。反応は?」
『どんどん弱くなってる。もうほとんど分からない』
「そうか、分かった。俺の方でなんとかしてみる」
 ユウは電話を切ると、由美の方へと振り向いた。
「おい、なんで邪魔をした」
 鋭い眼光で睨まれ、由美は畏縮する。
「か、加奈子は親友だから……」
「親友ね。だが今のあいつは人間じゃない、吸血鬼だ。狩らねばならない存在なんだよ」
「なんですか吸血鬼って。意味が……分からないです」
 吸血鬼――小説や漫画、映画に出てくる怪物の名前を出されて、由美は困惑する。
「あの部屋を見れば全て分かるよ」
 ユウは窓ガラスの割れた加奈子の部屋を指さした。
「見る覚悟はあるか?」
 話はよく分からない。だが、部屋を見れば加奈子が変わった理由が分かるかもしれない。そう考えた由美は答えた。
「あります。私は部屋を見なきゃいけないんです」
「じゃあ言ってみな。後悔しても知らないがね」
 由美はうなずくと、門を開いて前へ進んだ。
 その後ろ姿を見送りながら、ユウはまた携帯で電話をかける。
「俺だ。また掃除と記憶の処理を頼みたい――」

 由美は玄関を開けて中に入る。一応「お邪魔します」とあいさつをするが、反応は返ってこなかった。
 階段を上り二階へ行くと、加奈子の部屋の前で加奈子の母がガタガタと頭を抱えながらうずくまっていた。
 何か大変なことがこの部屋で起こったのだ。由美はごくりと唾を飲む。
 少し深呼吸して身体と心を落ち着けると、由美は半開きになった扉に手をかけ、開いた。
 ――赤。それが最初に抱いた印象。
 由美は真っ赤に染まった床を見下ろし――絶句した。
 血だまりの中には春香が横たわっていた。加奈子以上に衣服が赤く染まっている。首から大量に流れ出した血によって。
 首筋にはアイスピックのような尖った何かで抉られたような傷が数か所。
 春香は物言わぬ冷たい人形と化し、苦痛に歪んだ表情で血の中にたたずむ。
 由美はあまりにも現実離れした惨状に耐えきれなくなり、その場で嘔吐した。

     

 少女は友人に自身の秘密を打ち明けた。今の私は人間ではなく、夜の怪物なのだ、と。
 その告白を聞き、友人は怪物と化した少女を恐れることなく受け入れた。餓え、弱る少女のために自らの血を捧げた。
 その優しさに甘え、少女は友人の首筋に獣のような歯をたてた。そして、無我夢中で友人の生血をすすった。初めての吸血だった。
 肉を抉られる苦痛を訴えて叫ぶ友人の声が届かないほどに、少女は吸血行為に夢中になっていた。それほどに、少女は弱っていたのだ。
 少女が食欲に似た吸血欲を満たし終えたとき、友人は血だまりの中で物言わぬ人形になり果てていた。
 初めての吸血行為で勝手が分からないのにも関わらず、少女は無心で、貪るように友人の首に歯をたてたのだ。
 歯に突き刺さり、口内でぶらぶらと吊り下がっている肉片の感触に気付いた少女は、自分が友人を死に至らしめたことに気づき――絶望した。



 由美は必至に春香の名前を連呼するが、反応はない。誰が見ても致死量だと分かるほどの血。そして無残に抉れた首。由美はそれに気付かないふりをして、春香の身体を揺さぶる。
「無駄だよ。自分でも分かっているはずだ」
 いつの間に来たのか、ユウが由美の背後に立っていた。
「俺が来たときには既に死んでいた。血の吸い方が分からなかったんだろう」
 この光景を見ても何も感じないのか、ユウは淡々と告げる。
「どうしてこんなことになっちゃったんだろう……」
 すすり泣きながら、由美は自身の心情を吐露した。
「失った記憶が関係してるんだって分かってるんです……でも思い出せない。結局私は何もできないんですよ。無力なんですよ。だから……だからこんなことになった……」
 その記憶は俺が封じるように依頼した。そう言おうとしてユウは口をつぐむ。必要以上に物を言うこともない。
「ねえ、あなたは加奈子を殺そうとしましたよね。……なんで殺すんですか。加奈子が吸血鬼だから? 春香を殺したから?」
「彼女は吸血鬼で、俺の仕事は吸血鬼を殺すこと。それだけだ」
「……誰にも危害を加えない吸血鬼でも殺すの?」
「ああ」
「……加奈子は殺させませんから」
 ユウは言葉を返さない。
 由美は立ち上がると、携帯電話を開く。ボタンを押そうとして、ユウに止められる。
「警察を呼ぶ必要はない」
 そう言うと同時に黒服を着た男が数名、加奈子の部屋の前に現れた。
「ご苦労さん。ここの掃除とそこで震えてる奥さんの記憶の処理を頼む」
 黒服の男たちは返事をすると、二組に分かれて作業を始める。一方は血まみれの部屋に、も一方は加奈子の母のもとに。
「記憶の処理……?」
 その言葉が由美の頭に引っかかった。
「この出来事があった約三十分間の記憶を封じるんだ。そして部屋を綺麗さっぱり掃除すれば、奥さんからは娘の部屋で殺人が起きなかったということになる。娘とその友人は行方不明に、ってね」
「記憶を封じるって、封じられた記憶は思い出せなくなるってことですか?」
「その通りだ」
 そこまで言って、ユウは喋りすぎたな、と少し後悔する。彼には由美が次に何と言うのかが容易に予想できた。
「もしかして、過去に私の記憶も封じていませんか?」
「……さあ、どうだろう」
「そうなんでしょう。正直に言って!」
 さて、どうしようか。ユウは少し考える。そして、何かをひらめいたのか、由美に一つの提案をした。
「そうだ、過去に俺は彼らに頼んで君の記憶を封じてもらったことがある。そして、君は封じられた記憶をもとに戻したい。違うか?」
 由美は縦に首を強く振った。
「ならば取引だ。この後、君のもとには友人から連絡が来るかもしれない。君に会いたい、とね。また、君は友人の居場所を知ることになるかもしれないし、もしかしたら今すでに居場所の検討がついているのかもしれない。
 そこでだ、君は友人の居場所を俺に教える。そうしたら俺は君の記憶の封印を解くように彼らに頼む。どうだ?」
 記憶を取り戻したかったら友人を売れ。ユウはそう持ちかけた。
 由美は考える。友達は売れない。でも記憶がないと加奈子を救うことはおろか、まともに話し合うこともできない。
「なるべく答えは早く出してくれ」
 ユウは由美に紙切れを渡す。そこには電話番号がかかれていた。
「そこに君の服の替えがある。替える時はそれに着替えるといい。それと、君がこのことを奥さんに話した場合、君と奥さんの二人が記憶を再度封じられる。注意してくれ。それじゃあ、俺はここで」
 そう言って、ユウは階段を下りて行く
 紙切れを握りしめながら、由美はユウの後ろ姿をじっと睨み続けていた。


 深夜、ユウは事務所であるマンションの一室の扉を開けた。奥の部屋に小さな明かり。卓状のライトだけが室内を照らしていた。
「どうしてここに来た」
 葉子はユウに問いかける。
「家よりこっちの方が近かった。ちょっと仮眠をとらせてもらうから」
 そう言って、ユウはソファに寝転がる。
「行方はまだ掴めないの?」
「ああ。だが、ターゲットの友人に、居場所を見つけ次第連絡するよう伝えた。おそらく彼女がターゲットに一番近い」
「その子がお前に伝えるという確証は?」
「ない。でもあの子は俺に必ず教える。そんな気がする。まあ、なんというか――」
「勘って言ったら灰皿投げるよ」
「勘だよ」
 灰皿が飛ぶ。ユウはそれを手で掴んだ。
「なあに、ほんの二、三時間寝るだけさ。何か反応があったら起こしてくれればいい」
「その間に被害が出たら?」
「やつは十分に血を吸ったばかりだ。最低でも丸一日問題ない。万が一誰かが襲われたりしたら……」
 ユウは不敵に笑う。
「俺をクビにすればいい」
「……よく言うよ」
 私がアンタをクビにできないって分かってるくせに。葉子は言葉の続きを心の中でつぶやいた。


 ほぼ同時刻、由美は自宅に帰らずに町を彷徨っていた。自身の思い出を頼りに、加奈子が隠れていそうな場所を探していた。
 だが、由美は加奈子と会ってから何をすればいいのかを考えていなかった。
 変わり果てた友人に何と声をかけたらいい? そもそも自分と会話をしてくれるのか? そんな考えがぐるぐると頭を回る。
 気がつけば陽が昇り始めていた。まばゆい陽光が暗色の空を染めていく。由美はそんな空を見上げると、急激に疲労を感じてしまった。
 それでも由美はゆらゆらと歩く。気づけばときには自宅の前にいた。無意識のうちにここまで来てしまったのだ。
 玄関のカギは開いていた。静かに扉を開け、由美はこっそりと自室に戻り、ベッドに倒れこんだ。
 目覚めたとき、時刻は午後三時を回っていた。由美は慌てて階段を駆け下り、母のもとへと向かう。
「あら、今起きたの?」
「起こしてくれなかったの?」
「起こしたわよ。でも由美ったら何しても起きないんだもの。学校には欠席しますって連絡しておいたから」
 母の言葉を最後まで聞かずに、由美は自室に戻る。すぐに服を着替えると、携帯電話と財布を持って家を飛び出した。
 まずは、加奈子を見つけよう。失くした記憶は加奈子に聞こう。どれだけ拒絶をされても私はめげない。だって、親友なんだから。由美は覚悟を決める。

 由美は考えた。屋内で人気の無い場所に加奈子はいる、と。
 吸血鬼は太陽の下で行動することはできない。さらに身体が春香の血にまみれて人に見せられない状態だ。
 思い当たる場所を探す。日が暮れてもなお、がむしゃらに。自転車を漕いで町中を駆け回る。途中、何度も加奈子に電話をかけたが、出ることはなかった。
 空は見る見るうちに暗色へと染まっていく。時刻は二十二時を回っていた。
 由美は町はずれにある廃屋の前で自転車を止めた。元は大衆食堂だったが、数年前に閉店してからそのままになっている。
 蹴破られた入り口の扉とその周りに付着する血痕を見つけ、由美はここに加奈子がいると確信した。
 由美は恐る恐る中へと入る。入り口から街頭の明かりが漏れている。少し立ち止まり、目を慣らすと、また進んでいく。
 厨房からビチャビチャと何かを啜るような音が聞こえ、由美の心臓が早鐘を打つ。幽霊屋敷にいるような恐怖が心を浸食し始める。
 私は友達を探しているだけなんだから。怖いことは何もない。そう自分に言い聞かせ、厨房をのぞく。
 加奈子がいた。窓から僅かに漏れた明かりに照らされ、由美は暗がりの中でも彼女を視認することができた、が――絶句。そしてすぐさま視線を逸らす。
 直視できないような光景が、そこには広がっていた。
 栗色の綺麗な長髪はぼさぼさになっており、体中が血痕と汚れにまみれていた。少しこけた頬と虚ろな目により、一瞬で加奈子だと気づくことができなくなっている。
 極めつけは加奈子が必死になってネズミの身体に噛みつき、必死になって僅かな生血を啜っていたことだ。
 私の大好きな親友は、こんなにも変わり果ててしまったのだ。由美の目から止めどなく涙が流れる。
 加奈子は完全に吸血鬼となっていた。ユウから逃げ、殺されることなく生き続けても、制限された行動時間の中で、今のように汚い生活を送らねばならない。
 由美は音をたてないよう、静かにその場を後にする。自転車をこぎ、廃屋から離れた場所にある公園に向かった。
 深夜の公園には誰もいない。由美はベンチに座ると、携帯電話と紙切れを取り出す。そして紙に記された番号へと電話をかけた。
 強い覚悟と思いを込めて。

「必ず電話をかけてくれると思ったよ」
 電話してからおよそ十分ほどで、ユウは公園に現れた。いつもと変わらない黒コートを纏っている。
「約束は守ってくれるんですよね。私の記憶を戻してくれるって」
「ああ。彼女の居場所を教えてくれるのならね」
「分かりました。加奈子の居場所を教えます。だけど……」
 由美はごくりと唾を飲む。そしてこぶしを強く握りしめながら、言った。
「加奈子は私が殺します。……私に殺させてください」
 ユウは冷たい目で由美を値踏みするように見る。
「お前、彼女を殺して自分も死ぬって考えてるだろう?」
 由美の表情が一瞬こわばる。図星だったのだ。
「もしそうだったら、どうするんですか……?」
「そうだな……特にどうもしない。俺は吸血鬼を殺すことができればそれでいい」
 その返答に、由美はすこし拍子抜けした。自分が死ぬことを止められると思っていたのだ。だが、彼女が思っている以上にユウはドライな考え方をする人間だった。
「ありがとうございます」
 由美は頭を下げる。
「自分を見殺しにする相手に礼を言うのはどうかと思うがね」
 ユウはそう言うと、懐から一本のナイフを取り出した。対吸血鬼用の銀製ナイフだ。
「殺すときはこれで心臓を一突きすればいい」
 殺すために使う凶器を受け取り、由美の覚悟は確固たるものとなった。もう後戻りはしない。
「君の記憶の封印を解きしだい、彼女のいる場所へと向かおう。俺は彼女に見つからない位置から殺す瞬間を確認する。それでいいか?」
「分かりました」
 了承の返事を聞くと、ユウは由美に近づき、耳元に顔を近づける。そして小さく何かをつぶやくと、由美から離れた。
「今ので……!?」
 由美は頭を押さえた。脳内に真っ白は光が広がる。その白光を上塗りするように、失っていた記憶が動画の早送りのように再現されていく。

 夜――由美と加奈子は談笑しながら歩いている――二人の目の前に何者かが落ちてくる――落ちてきたのはジャージを着た中年男性――牙の生えた口を吊りあげて二人に言う――「君たちの血を吸わせておくれ」――男は加奈子に飛びかかる――加奈子は絶叫する――由美は泣きながら後ずさり――男の牙が加奈子の首に――吸血開始――加奈子は由美に救いを求める――由美はその場から駆けだした――しばらく走り続ける――吸血を終えた男が由美に追いつく――由美は小石につまずく――迫る男――由美は失禁――伸びる男の腕――ナイフが男の手の甲に刺さる――黒コートの男――ユウが現れる――ユウは男に蹴りを入れる――吹き飛ぶ男――ユウは追い打ちをかけるべく男に迫る――ユミは傍観――しばらくしてユウが戻る――少し言葉を交わす――その後黒服の男に頭を掴まれ――意識を失った。

 記憶の空白が戻ったことにより、由美は加奈子が自分に拒絶していた理由を理解する。
「私……あのとき加奈子を見捨てたんだ」
 助けを求める加奈子を見捨てて、由美は逃げた。実際由美一人ではどうしようもない状況だったのだが、逃げるという行為が二人の間に亀裂を生む結果となった。
「親友だって連呼しておいて、私は加奈子を置いて逃げたんだ」
 次第に涙がたまり始める。
「私があそこで助けていれば、加奈子は吸血鬼にならずに済んだかも知れないのに」
 由美は「ごめんね」と何度もつぶやきながら、泣き始めた。
 ユウはそんな由美の様子を見て、表情を変えることなく言った。
「それで、彼女を殺すのか? やめるか?」
 その言葉で由美は現実に戻される。そして涙をぬぐうと、言いきった。
「いいえ。加奈子は私が……私が解放してあげます」

「ねえ加奈子。いるんでしょう」
 廃屋へと戻った由美は、中に入ると厨房に向けて声をかけた。ごそり、と僅かに人が動いた気配を感じ取り、まだ加奈子はここにいると確信する。
「私、全部思い出したよ。あの夜のこと」
 由美は話を続ける。
「最低だよね。加奈子を見捨てておいて軽々しく親友だって連呼するんだもの。許してもらおうだなんて思ってないけど、しっかりと謝りたい。……本当にごめんなさい」
 謝罪の言葉を口にした直後、真っ暗な厨房から黒い影が飛び出し、由美に飛びかかって馬乗りになった。
「謝ったって私は……私は……」
 加奈子だった。涙をぼろぼろと落としながら、由美を地面に押さえつける。
「もう元に戻れない……春香だって、私が殺した……」
「ううん、春香を殺したのは加奈子じゃない。私が助けていれば加奈子は吸血鬼にならずにすんだんだから。だから、私が春香を殺したようなもの」
「うるさい……うるさい……」
 加奈子は由美を押さえつける力を強める。苦しさを感じ、由美は顔を少し歪める。
「加奈……子……」
「私ね、春香を死なせた後……何度も死のうとしたんだよ。自分の手首を何度も切ったりね。でもすぐ傷が治るようになってなかなか死ねなかった。だから、昼間に外に出てみた。そしたらね、太陽の光がもの凄く痛いんだ。苦しいんだ。それで、私は改めて自分が怪物になり果てたって実感した。余計私は死ぬべきなんだって思ったよ。
 でもね、無理だった。太陽が肌を焼く苦痛と死の恐怖に耐えられなくなって、私はまた屋内に逃げた。友達を殺しておいて、自分は死ぬのが恐いだなんて。最低だよね……」
「大……丈夫」
 由美は苦しさをこらえ、優しく微笑むと、言った。
「私が……加奈子を殺してあげる。そして私も死ぬの。二人一緒に」
「そんなこと言って……私だけ殺すんでしょう」
 加奈子は由美を睨む。
「ううん。私はそんなことしない。もう加奈子を見捨てたりなんかしないよ」
 馬乗りになられた状態で、由美はなんとか腕を動かすと、ユウから受け取ったナイフを取り出した。そして、その刃をもう片方の腕の手首に当て、勢いよく引いた。
 鮮血が由美の腕と身体を染めていく。それを見て加奈子は驚く。
「なんでそんなこと……」
「言ったでしょ。加奈子を殺して私も死ぬ。私も死ぬの」
 由美の目を見て、加奈子は彼女が本気であることに気づく。自然に、抑え込んでいる腕の力が緩んだ。
「大丈夫」
 由美は両腕を伸ばし、加奈子を抱き寄せた。
「もう、苦しいことはなにもないよ」
「由美……私、死ねるの? 私を殺せるの?」
「うん。殺せるよ。苦しいのは一瞬だけ」
「そっかぁ。そうしたら、春香にまた会えるよね」
「うん、きっと会えるよ」
「じゃあ、三人でまた遊べるね」
 加奈子のその言葉で、由美は涙を流す。
「加奈子……三人って……」
「だって、私たちは仲良し三人組でしょ」
「ありがとう。ありがとう加奈子……」
 由美はよりいっそう強く、加奈子を抱きしめた。
「何して遊ぼうか。ずっとおしゃべりするのもいいかもね」
「うん、そうだね。きっと楽しいよ」
「じゃあ、行こう。春香を待たせちゃ悪いから。きっと後から文句をぶーぶー言ってくるよ」
「そうだね、行こう」
 由美はその体勢のまま両手でナイフを握る。そして心臓がある位置に狙いを定めた。
「待っててね。私もすぐ行くから」
 ナイフを突き刺す。一瞬、加奈子がうめき声を上げ、苦痛に顔を歪める。由美はその顔を見ないように瞼を閉じ、加奈子が死ぬのを待った。
 加奈子の身体は刺された場所から灰になって由美の身体に落ちた。ナイフをさしてからおよそ十秒で、加奈子は完全に溶け――死んだ。そのたった十秒が、由美には恐ろしいほど長く感じられた。
 由美は両手に握ったナイフの先を、今度は自分の首に向ける。
「今行くからね」
 ナイフを首に目がけて引く。――が、切っ先は首を貫くことなく、直前で止まった。
 由美の手が、別の手によって止められていた。いくら振りほどいてナイフを刺そうとしても、がっしりと強い力で止められていたため、どうすることもできなくなっていた。
「どうして止めるんですか!」
 由美は叫ぶ。
「悪いが被害を最小限に抑えるのも仕事なんでね。死者を余計に出したくないんだ」
 止めたのはユウだった。加奈子が死んだのを確認して、由美が自害するのを防いだのだ。
「加奈子が、春香が待ってるんです! 死なせて! 死なせてよお!」
「残念だがね、君はまた記憶を失うよ」
 たくさんの足音が、廃屋の中に響く。現れたのは黒服の男たちだった。中の一人が由美に近づく。
「前に封印したときから今までの記憶全部だ」
「了解しました」
 黒服は由美の頭部に触れる。
「いやっ……やめてよ! 死なせてっ!」
「全部忘れて、幸せになるといい」
 ユウの言葉を最後に、由美は意識を失った。


 帰りのホームルームを終え、由美は一人で教室を出て行った。
 いつもは友人二人と一緒に帰宅していた。しかし、その二人はいない。
「突然だが、重大は話がある――」
 担任が朝のホームルームで告げた言葉は、由美にとって衝撃的なものだった。
 加奈子は突然の自主退学、そして春香は行方不明になった。
「そんなの聞いてないよ」
 由美はその話を聞いた直後に二人に対してメールを送信した。しかし、どちらからも帰ってくることはなかった。
 春香が行方不明なのはどういうことなのだろうか。加奈子はなぜ自分に連絡を入れずに自主退学をしたのか。それは自分が失った数日間の記憶と関係しているのか――
 色々と考えながら歩いているうちに、由美は目的地である加奈子の家へと着いた。
 表札は外され、前まであったものは全てなくなっていた。完全な空家だ。加奈子はもうどこにもいない。
 由美はわけが分からなかった。自分だけが取り残されたような。そんな空しさだけが残る。
 ふと、横をみると由美と同じく加奈子の家――正確には加奈子の家だった空家だが――をみている人が少し離れたところにいた。
 黒いコートを纏ったその男性は、由美の視線に気づくと、携帯電話を取り出して、その場を後にした。
「私も帰ろう」
 由美は自宅への道をゆっくりと歩いていく。
 きっと二人とはもう会えないのだろうな、と由美はなんとなく思った。そして、自分はこのまま何事もなかったように生きていくのだ、と。
 心と記憶にぽっかりと空いた穴。そこに何があったのか。それを知ることなく、私は生きていき、そしていつか死ぬのだ、と。
「また一緒に遊びたかったよ」
 誰に言うわけでもなく、由美は一人ごちた。


『もしもし』
「ターゲットの家はきっちり空家になっていた。これで全部おしまいだ」
 ユウは加奈子の家が空家になったことを確認し、それを葉子に電話報告していた。
『友達の女の子の記憶は大丈夫なの?』
 ユウはさきほど自分を見ていた由美の姿を思い出す。
「ああ、大丈夫だ」
『そう。嫌な仕事だったね今回は』
「何がだ」
『仲良し三人組の女の子たちで、生きてるのは一人だけ』
「ああ。どれがどうした」
『後味が悪いって言ってんの。まあいつものことだけどさ』
「そうだ。いつものことだよ」
『ま、あんたはどんな胸糞悪い仕事でも全部そんな感じなんだろうね』
「どうだろうな」
『何も感じないんだろう。可哀想な人間だよあんた』
「あんたに言われたくはないね」
『そいつは悪うございました。じゃあ、また仕事が入り次第連絡するよ』
「ああ」
『それじゃ』
 そう言って葉子は通話を切った。
 ふと、ユウはあの夜のことを思い出す。自害しようとした由美を止めたあのとき、自分は確かに何も感じなかった。
「可哀想、か」
 携帯電話をポケットにしまう。
 ユウの耳の中に、葉子の言葉がいつまでも残った。



 第一夜  END 

       

表紙

山田一人 [website] 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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