Neetel Inside ニートノベル
表紙

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「ふんふん~♪ ふふふ~ん♪」
「うふふ」
 いつものくだらない日常も、美雪さんがいるだけでこんなにも煌びやかに彩られる。幸せというのは、こういうなんでもないことに喜びを見つけたときに感じるものなのだろう。僕はそう思う。
 あの後、僕に抱きついてきた謎の女を突き飛ばし、美雪さんに雪玉を投げつけていたクソガキに容赦なくアリーヴェデルチを喰らわせて、美雪さんを無事救出することに成功した。しかしいったいアイツらはなんだったんだ。思い出すだけで腹が立ってくる。
 その後、美雪さんの体がすっかり冷えきっていたということもあり、僕たちは一緒にお風呂に入ることにしたのだった。
 正直、僕は美雪さんが我が家に嫁いで来るまで、風呂というものが嫌いだった。一週間に一回。ひどい時は、二週間に一回くらいのペースでしか風呂には入らなかった。しかし今はそんなことは言ってられない。美雪さんというとても素敵な女性の隣に立つ男として恥ずかしくないよう、常日頃から努力を怠ってはいけないのだ。
 今ではきちんと毎日風呂に入って、体を隅々まで磨き上げている。美雪さんが妻になる前までの、頭を掻けば爪の間にびっしりフケが詰まっていた自分よサヨナラ! 金玉の脇を掻けば爪の間にびっしりイカ臭い垢が詰まっていた自分よサヨナラ! なんだか最近、急激にマシな人間になっていくようで自分で自分が怖い。しかし、このまま順調に行けば、脱ニートも間近な気がする。
 というわけで、僕はいま美雪さんと一緒にお風呂に入っているわけなのだが、実は美雪さんと混浴するのは初めてだった。
 狭い浴槽の中に膝を抱えて向かいあい、お互いの顔を眺めながら温まる。なんと幸せなバスタイムなのだろうか。頬が緩みすぎて、顔がふにゃふにゃにふやけてしまいそうだ。
 本当僕は、美雪さんが来てからというもの、過剰に幸せを摂取し過ぎている気がする。後でしっぺ返しが来なければいいのだが。そうだ、僕はいつも美雪さんに支えてもらってばかりいるのだから、僕も少しでも美雪さんの力にならなければ。さしあたっては、
「美雪さん。背中流しますよ」
 美雪さんにもくつろいで頂かなければ。
「いえ、そんなの悪いです。私がお背中を流しますよ」
 半ば予想していた答えが返ってくる。しかしそういうわけにはいかない。元来、背中流しというものは女が男にするものであるとイメージされがちだが、それらは女性が男性より卑しい身分であるとされた時代の悪しき習慣なのである。だから、美雪さんにそのような悪習を行わせるわけにいかない。卑しい身分なのは美雪さんなのではなく、ニートであるこの僕なのだから。
「いえ、美雪さんにそのような事をさせるわけにはいきません。僕が美雪さんの体の隅々まで磨き上げて差し上げます! ええ、体の隅々まで、ね。じゅるり」
 おっといけない、涎が垂れてしまった。いや、決して僕が美雪さんの体を必要以上に触りたいとかそういうことではないぞ。断じて否である。これも美雪さんに少しでもくつろいで頂くための配慮であり、ごにょごにょ。
 美雪さん抱きかかえて、風呂場に置いてあるプラスチック製の椅子に、強引に座らせてしまえば準備はオーケーだ。僕は手早くタオルを石鹸で泡立たせた。よし!
 ごくり……。美雪さんの華奢な背中を見て思わず生唾を飲み込んでしまう。美しい。ただその一言に尽きる。
 純白の穢れ一つ知らない儚げな背中。そこから微かに覗かせている胸の膨らみが、僕の煩悩をかき乱し、思わず愚息がぴくりと反応してしまう。下に視線を移すと、腰のラインは見事なまでの曲線美を描いている。さらにその下に、柔らかく膨らむ純白の桃尻。その切れ間の秘境に顔を埋めて、美雪さんを困らせてみたいという衝動に駆られる。
 って、いかんいかん。僕はいったいなんて如何わしい妄想をしているんだ。男として、いや人類として恥ずかしくないのか自分。頭を左右にぶんぶんと振って如何わしい妄想を打ち消した。
「で、では、美雪さん。背中流しますね」
「はい」
 ふーっと深呼吸をして、精神を統一してから美雪さんの背中にそっとタオルを添えた。
「……んっ」
 しかし、美雪さんの艶かしい息遣いが僕の鼓膜を震わせて、先ほど打ち消したはずの妄想がもんもんと蘇ってくる。くそぅ、背中流しというのはこんなにも精神を揺さぶられる作業だったのか。恐るべし背中流し。
 しかしそれでも僕は、美雪さんの繊細な肌を傷つけないようにと細心の注意を払って、優しくタオルを滑らせていく。
「……んんっ、んぁ……」
 心なしか、美雪さんの息遣いがだんだん荒くなっているような気がする。それに呼応するように僕の愚息も荒々しく迫り上がってくる。くそぅ! ダメだ、落ち着け! ただ背中を流しているだけなんだぞ。なにを僕は興奮しているんだ。
 落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせながら、美雪さんの背中を丹念に磨き上げていく。と不意に、
「……んっ、んぁぁっ!」
 美雪さんが押し殺したような喘ぎを漏らして、びくんと体を震わせた。しまった、雑念だらけの頭で美雪さんの背中を洗っていたから、知らず知らずのうちに力が入りすぎてしまったのか? 馬鹿野郎! 僕はいったいなにをしているんだ!
「美雪さん、すいません! 大丈夫ですか!? 痛かったですか!?」
「い、いえ……」
 美雪さんはぷるぷると体を小刻みに震わせながら振り返った。
「私……背中弱いんです……」
 美雪さんは頬を紅潮させ、はにかんだような微笑みを浮かべて俯いてしまった。
 ――どくん。その時、僕の中のなにかが大きく躍動するのを感じた。
 気がつくと僕は、かよわくも美しい微笑みを浮かべていた美雪さんに襲い掛かっていた。理性は完全に崩壊し、必死に押しとどめていた欲望という名の獣性が剥き出しになる。ダメだ、止まらない。美雪さんをこのまま欲望のままに――。
「こーちゃん♪ 久しぶりに背中流してあげるよー♪」
「ぬわあああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
 おぞましい断末魔が狭い浴室に響き渡った。もちろん僕のだ。

「こーちゃん、どういうことなのか説明してちょうだい」
「…………」
 幸せ一杯、夢一杯お風呂タイムを強制終了させられた僕たちは、リビングで緊急家族会議に出席させられていた。
 隣に美雪さん。正面に謎の女。斜め向かいに妹。そして、美雪さんのお胸にちょっかいを出しているクソガキ。なんだコイツ。本当にジッパーでバラバラにしてやろうか。
 両親は共に海外出張のため不在、ということにしておこう。物語というのは期せずしてご都合主義に溢れているものなのである。決して作者の怠慢ではない。多分。
「おねーちゃんは聞いてませんよ。こんな人がこーちゃんと一緒に暮らしているなんて」
 うわー、この人やっぱり僕の姉だったのかー。全然気づかなかったー(棒読み)。
 僕は姉とあまり関わりたくなかったので、最後まで謎の女として白を切るつもりだったのだが、どうにもそうはいかないらしい。現実というのはいつの時代も非情なものである。
「……お姉ちゃん。これダッチワイフだよ……」
「アンタは黙ってなさい!」
 姉に何かを耳打ちした妹が怒鳴れていた。妹は「……ごめんなさい」と言うと、肩を落として俯いてしまう。なんだか妹がかわいそうだ。多分、妹も緊急家族会議に強制参加させれた口だと思うから。だけど、僕には妹を庇ってやる余裕はなかった。そんなことより、この状況の打開策を練らなければいけない。
「つーか、姉貴。来週帰ってくるんじゃなかったのかよ」
 なんとなく不機嫌を装いながら、話の矛先を逸らしてみる。
「姉貴なんてよそよそしい呼び方しないでっ! 昔みたいにおねーちゃんって呼んでよっ!」
「うへぇ…………」
 話の矛先は変えられたみたいだけど、別の方向でやっかいになりそうだった。ほんと、これだから姉は苦手なのだ。勘弁していただきたい。僕は美雪さんと静かに暮らせればそれだけで満足なのに。しょうがない、ここは正直に白状するしかないようだ。
「……この人は僕の妻の美雪さんです。先日、我が家に嫁いだばかりです」
 しぶしぶと、美雪さんに手を向けて紹介をする。美雪さんが恭しく頭を下げた。
「……ぃてない」
 すると、姉は体を小刻みに震わせぽつりと何かを呟いた。テーブルの上で握り締められている拳がぷるぷるしてて怖いんですが。あ、やばい。姉の様子が――。
「聞いてないわよそんなのっ! 大体お父さんとお母さんの了承は取ったの!? 二人は海外に行ってるはずよっ! それにおねーちゃんの了承はどうしたのよっ!? 私はそんなの許さないわよ! どこの馬の骨とも分からないこの女に、こーちゃんは渡せないわっ! 弟はやらんっ! 大体なによ、その下品なおっぱいわっ! その下品な乳でこーちゃんを誑かしたのねっ! この売女っ! ビッチ! ファック! 聞いてるのっ!? 黙ってないでなんとか言いなさいよっ! このあばずれっ! 出てけっ! この家から出てけっ! 二度と家の敷居を跨ぐんじゃねーぞ! クソ! 死ねっ! 消えろっ! こーちゃんに近づくんじゃねえええええええええええええええええええええ――――」
 ――ぱちん。
 不意にリビングに響いた乾いた音が姉の口を塞いだ。
 僕が、姉の横っ面に平手打ちを放った音だ。ほとんど衝動的に。自分の意思が介在する余地もないほど反射的に。完全に無意識に。僕は姉に平手打ちをかましていた。
 数瞬の間をあけて、事の重大さに僕はようやく気が付いた。家族に手を上げるなんて初めてのことだった。
 口喧しい家族に対してぶん殴ってやりたいと思ったことなんて幾度となくあった。しかし、それらは思うだけであって実際に行動に移したことはなかった。それは、越えてはいけない一線のような気がしたから。
 だけど、そんなもの今は関係ない。今回はどうしても我慢することができなかった。僕のことを悪く言うのはいい。だけど、美雪さんだけは、美雪さんのことを悪く言うことだけは、どうしても許せなかった。
 姉が頬を押さえて瞳いっぱいに涙を浮かべながら、立ち尽くす僕を見つめていた。妹も呆然と開かれた口に手を当てながら、驚愕の表情で僕を見ている。クソガキは相変わらず、美雪さんのお胸をぷにぷに突付きながら「おーやわらけー」とかほざいている。後で絶対にぶん殴ってやるから覚悟しとけよ。
「……美雪さんのこと何も知らないくせに、勝手なこと言うのは許さないぞ……」
 僕はやっとの思いで、喉の奥から搾り出すように呟いた。
 そうだ、姉は美雪さんのことなんてこれっぽっち知らないじゃないか。なのに、美雪さんが寡黙で大人しい性格なのをいいことに、好き勝手にさんざん酷いこと言いやがって。姉が悪いんだ。僕は……悪くない……。
 なのに、僕が悪いはずじゃないのに。自分の口から出た言葉が、どこか言い訳のように響いて僕の心に罪悪感を植えつけた。
「こーちゃん……」
 姉の瞳から涙がぽつりと零れ落ちたのが見えて、次第に僕は居た堪れない気持ちになってきた。ばつが悪くなった僕は姉たちから顔を逸らして、美雪さんを抱えて立ち上がった。
「お兄ちゃん……」
 妹が呼び止めようとしたが、僕は無視をして、クソガキの頭に拳骨をお見舞いしてから、逃げるようにリビングを後にした。
 
 部屋の戻った僕は、美雪さんを抱えて何かから隠れるようにベッドに潜り込んだ。
 くそ、好き勝手言いやがって。美雪さんに酷いこと言いやがって。許さない、僕は絶対に許さないぞ。
 美雪さんの胸に顔を埋めながら、僕は心の中で毒づいた。だけどそれも、どこか自分に無理矢理言い聞かせているようで、ちっとも罪悪感は拭えない。
 美雪さんに酷いことを言った姉が悪い。だから僕は殴ったんだ。なのに、僕の心の中は鬱々とした感情がどろどろと渦巻いていて、さっぱり気分が晴れないのはなんでだ。腹の立つ相手を殴ったら、普通は気分が良くなるはずじゃないのか。
「美雪さん……姉が失礼しました」
 姉が全て悪いんだと確認するように呟いて、美雪さんを強く抱きしめた。
「いえ……私は全然」
 姉を殴った掌が、まだじんじん熱を帯びている。僕の心に残ったのは――後悔。ただそれだけだった。

       

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