Neetel Inside ニートノベル
表紙

僕の妻はラブドール
第2話 愛の表現は人それぞれ

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 三月も半ばを過ぎ、次第に気温も上がり始めてきていた。そろそろ春眠暁を覚えずという寝坊の言い訳が活躍する季節であり、そんな春うららかな季節が僕は一年の中で一番好きだったりする。まあ、ニートである僕にはそんな言い訳も季節もあまり関係ないのだが。
 隣に目をやると僕の腕の中で妻の美雪さんが規則正しい寝息を立てていた。どうやら美雪さんは早くも春眠暁を覚えずのようだった。
 そんな美雪さんの可愛らしい寝顔を見ながらこれからの季節について想像するとつい頬が緩んでしまう。春といえばお花見だ。満開の桜の木の下で美雪さんが点ててくれた御茶を啜るのもよし、みたらし団子をあーんしてもらって、うふふ、口元にタレが付いていますよ、ペロリ。なんて周囲の人間が嫉妬の炎で桜の木を燃やすほどバカップルするのも悪くないな。
 そんなことを考えながらカーテンを開くと、春のうららかな陽気が部屋に差し込んで――こなかった。どんより曇天の鬱々たる空気が外に広がっていた。しかも雪まで降っていやがる。はあ、なんだが一気に気分が落ちてきたぞ。
「まあ、雪が降っていますね」
 窓の外の様子を陰鬱な表情で眺めていると、美雪さんの声が聞こえてきた。振り向くと、美雪さんはベッドの中で目をキラキラと輝かせていた。
「はい。でも……」
 実は今日から僕は就職活動をする予定だったのだ。社会の歯車となるべく、資本主義の豚となるべく、そして美雪さんを僕の手で守り抜くべくために。
 まず今日は就職活動の第一歩として、求人フリーペーパを置いているコンビニに行こうと思っていたのだ。しかし、この天気ではとてもじゃないが外になど出る気がしない。いきなり出鼻をくじかれてしまったというわけだ。
「あまり焦らなくてもよろしいんですよ……」
 はぁと嘆息して、窓の外の天気を憎々しげな目で眺めていると、美雪さんは僕の頬に柔らかく温かな手をそっと添えてきた。
「無理をして風邪を引かれては大変ですし、今日はお部屋でゆっくり過ごしましょう」
「美雪さん……」
 美雪さんが僕の妻になってからまだ数日しか経っていない。それなのに、美雪さんはこんな頼りないニートの僕を心配して、いつも笑顔で支えてくれている。僕は、そんな美雪さんのことを愛おしく感じつつも逆に申し訳ないという気持ちにもなっていた。
「私のためにあまり無茶はしないでください……」
「はい……」
 僕はそっと美雪さんの肩を抱き寄せた。
 ――という、キャッキャウフフでペロペロもみもみな妄想が、僕の脳内で絶賛繰り広げられ中だったのです。
 僕の妻、美雪さんは人形、つまりダッチワイフなのです。つまり、今までのやりとりは全て僕の妄想なんです。ドュフフ、サーセンです。
 大きく欠伸をし、一度のびをしてから僕は美雪さんを抱きかかえてベットから起き上がった。今日も僕の前頭葉は絶好調だなー。

「コタツはいいですねー」
 ベッドから起き上がった僕たちはコタツを囲み温かいお茶を啜りあっていた。
 しかし、先日我が家に嫁いだばかりの美雪さんは、湯のみなどの日用品を持ってきていなかったので、僕の湯のみにストローを二本入れて、いわゆるカップル飲みをすることにしたのだ。
 入れたてのお茶をジュルジュルとストローで吸い上げる。ストローで直に口内に運搬されたお茶は、フーフーして温度を調整できないのでかなり熱い。美雪さんは猫舌なのか、照れているのか分からないが、ただ微笑みながら僕を眺めているだけだった。僕としては後者の方が嬉しい。まったく美雪さんは照れ屋さんなんだから。
 ちなみに今現在も運命の赤い糸ごっこ中だったりする。前回も説明したのだが、運命の赤い糸ごっことは、赤い糸で僕をぐるぐると亀甲縛りにして、美雪さんが「女王様とお呼び、この汚らわしい豚が!」と言いながら僕の顔を足蹴にするお遊びである。とても気分がハイになるので読者の皆様にも一度試していただきたい所存でございます。
 本日もそんな素敵で自堕落に人生を無駄使いして過ごしていた。
 部屋にはいつの間にか西日が差し、部屋に備え付けられている時計を見ると午後四時を回っていた。うーん、何時に起きたのか記憶にないがもう夕方か。
 外では学校帰りの小学生たちの「くらえー!」「やったなー!」などという賑やかな声が聞こえてきていた。どうやら久しぶりに積もった雪で雪合戦でもしているようだ。
 僕も昔は妹と雪合戦をよくしたものだ。五歳年下の妹だから、いつも手加減をしてあげて、一方的に僕が雪を投げつけられるだっけだったのだが。それでも楽しかった思い出として記憶に残っているのは、妹が可愛かったからなのか、僕がその当時からマゾだったからなのか、真偽は定かではない。
 そうだ、今度美雪さんと愛の雪合戦をしてみるのもいいなぁ。「美雪さんいきますよぉー。そぉれ」「うふふ、冷たいですぅ」「あはは、もう一丁。そぉれ」「きゃぁ、冷たいですぅ」「まだまだ、そぉれ」「いやーん、冷たいですぅ」……だめだ。何をどう想像しても、立ち尽くしている美雪さんに一方的に雪玉を投げつけるイメージしか湧いてこない。雪合戦は却下だ。
 なんて栓ないことを妄想していると、扉をノックする音が部屋に響いた。
 僕は現在、仕様がない状況下にあるため「どうぞー」と一つ返事で応対すると妹が入ってきた。
「……ドブ、これ」
 数瞬の間をあけて、怪訝な表情をした妹が僕に薄い冊子を差し出してきた。見るとそれは求人フリーペーパーの冊子であった。
「おお、ありがとう。持ってきてくれたんだな。悪いけど、テーブルの上に置いといてくれ」
 実は先程、駄目元で妹に求人フーリーペーパーを持ってきてくれるようメールで頼んでみたのだ。まさか本当に持ってきてくれるとは露ほども思っていなかったのだが。先日のホワイトデーのプレゼントで僕を見直してくれたのかな?
 妹は僕の指示通り、無言でテーブルに冊子を置いた。そして、チラチラと哀れむような、いや蔑むような目で僕を見てきた。なんだ、今日はなにも悪いことはしていないはずなのだが。
「ところでさぁ……」
 じーっと僕の体を見渡して口を開く妹。
「……なにしてんのアンタ」
「なにって言われても……、別になにも」
 特におかしなことはしていないはずだ。僕と美雪さんは先程から運命の赤い糸ごっこをしてるだけだしなぁ。妹の気に障るようなことはしていないはずだ。
「ところでさ、そろそろ運命の赤い糸ごっこやめようと思ってるんだけど、見ての通り手首縛られちゃってるからさ、解いてくれないか?」
 どうやって縛ったものか自分でも些か疑問ではあるのだが、気がついたら僕は赤い糸で亀甲縛りにされていたのだ。まあ、これも美雪さんとの運命の赤い糸の結びが強固なものである証拠なのだろう。強固すぎて、結ぶどころか縛られているのだが。
 しかし、妹は黙って僕を見下ろしているだけだった。
「なー、早く解いてくれよー」
「一生そうしてろ、ゲスが」
 冷たい目で一瞥すると、妹は部屋から出て行ってしまった。なんだアイツ感じ悪いな。
 確かに、大好きな兄が見知らぬ素敵な女性に奪われて、嫉妬してしまう気持ちも分からなくはないのだが、しかしあの態度は良くないだろ。今度一度ギャフンと言っておかないと。いやガツンとか。
「あー、あと、来週お姉ちゃん帰ってくるから、そのキモイのどうにかしときなよ」
 と、出て行ったはずの妹がもう一度部屋に入ってきて一言言い捨てて行った。
 今キモイのと言ったか? 俺のことか美雪さんのことか? 後者だったら許さないぞ。
 さて、このままだと、せっかく妹が持ってきた求人フリーペーパーが読めないからな、やむを得ないが運命の赤い糸を切るか。すいません、美雪さん。決してアナタとの縁を断ち切るとかそういう意味ではありませんので、怒らないでくださいね。ぎゃあ! 僕の顔を踏む足を強めないでください! だがそれが良い!
 はぁ、と嘆息してから、しょうがないので思いっきり力を込めて運命の赤い糸をブチブチと千切っていった。
 しかし、妹のヤツお姉ちゃんと言ったか? うーむ。正直あんまりあの人のこと好きじゃないんだよなぁ。というか苦手なんだよな。僕はどちらかと言えば妹萌えなのである。姉萌えではないのだ。うん、そういう問題ではないのだが。

 翌日、早速コンビニに、履歴書に貼るための写真を撮りに出かけた。本当なら美雪さんと狭い個室に入ってキャッキャウフフしながら撮影したいところだったが、そんな写真を履歴書に貼り付けて面接に行ったら、面接官があまりのバカップルぶりに嫉妬して僕を不採用にしかねないから、今回は大人しく一人で撮影することにした。
 写真を撮り終え、特に用事はなかったので(というか極力外に出たくない)、真っ直ぐ帰宅することにした。家の前で自転車から降りて、庭先の納屋にしまおうと自転車を押していくと、なにやら庭先から男の子の元気な声が聞こえてきた。
 なんだ? 人様の家に不法侵入してきた非常識なクソガキか? まったく、最近の子供は本当親の教育が行き届いてないな。僕がこらしめてやるか。
 足音を消して、そーっと陰から庭の様子を覗いてみると。――そこにはとても凄惨な光景が広がっていた。
「ぎゃははは! 死ねー!」
 庭では一人の幼い男の子が――――美雪さんを標的に雪合戦を繰り広げていた。
 当然美雪さんは一方的に雪玉を投げつけられているだけだ。
「なにをするだァァァァァァァァァァ――!」
 僕は自転車を放り投げ、庭にいるクソガキに向かって飛び掛っていこうとした。
「あらぁ、帰ってきてたのね!」
 しかし、後ろから聞こえてきた声にピタリと動きを止め、ゆっくりと振り返った。
「き、貴様は……!」
 見ると、見知らぬ女性が僕をキラキラとした瞳で見つめていた。
「久しぶり、こーちゃん!」
 そして、見知らぬ女性にいきなり抱きつかれた。なんだ、何が起きているんだ。というかこーちゃんって誰だ?
 鳥肌が、とても嫌な予感の襲来を告げている気がした。ぞわぞわ。
 ん? なんだか背中に熱視線を感じるのも気のせいか? あ、み、美雪さん? いや、これは違うんです、誤解です! なにが誤解なのか自分でも分からないが、本当に嫌な予感しかしてこない。

     

「ふんふん~♪ ふふふ~ん♪」
「うふふ」
 いつものくだらない日常も、美雪さんがいるだけでこんなにも煌びやかに彩られる。幸せというのは、こういうなんでもないことに喜びを見つけたときに感じるものなのだろう。僕はそう思う。
 あの後、僕に抱きついてきた謎の女を突き飛ばし、美雪さんに雪玉を投げつけていたクソガキに容赦なくアリーヴェデルチを喰らわせて、美雪さんを無事救出することに成功した。しかしいったいアイツらはなんだったんだ。思い出すだけで腹が立ってくる。
 その後、美雪さんの体がすっかり冷えきっていたということもあり、僕たちは一緒にお風呂に入ることにしたのだった。
 正直、僕は美雪さんが我が家に嫁いで来るまで、風呂というものが嫌いだった。一週間に一回。ひどい時は、二週間に一回くらいのペースでしか風呂には入らなかった。しかし今はそんなことは言ってられない。美雪さんというとても素敵な女性の隣に立つ男として恥ずかしくないよう、常日頃から努力を怠ってはいけないのだ。
 今ではきちんと毎日風呂に入って、体を隅々まで磨き上げている。美雪さんが妻になる前までの、頭を掻けば爪の間にびっしりフケが詰まっていた自分よサヨナラ! 金玉の脇を掻けば爪の間にびっしりイカ臭い垢が詰まっていた自分よサヨナラ! なんだか最近、急激にマシな人間になっていくようで自分で自分が怖い。しかし、このまま順調に行けば、脱ニートも間近な気がする。
 というわけで、僕はいま美雪さんと一緒にお風呂に入っているわけなのだが、実は美雪さんと混浴するのは初めてだった。
 狭い浴槽の中に膝を抱えて向かいあい、お互いの顔を眺めながら温まる。なんと幸せなバスタイムなのだろうか。頬が緩みすぎて、顔がふにゃふにゃにふやけてしまいそうだ。
 本当僕は、美雪さんが来てからというもの、過剰に幸せを摂取し過ぎている気がする。後でしっぺ返しが来なければいいのだが。そうだ、僕はいつも美雪さんに支えてもらってばかりいるのだから、僕も少しでも美雪さんの力にならなければ。さしあたっては、
「美雪さん。背中流しますよ」
 美雪さんにもくつろいで頂かなければ。
「いえ、そんなの悪いです。私がお背中を流しますよ」
 半ば予想していた答えが返ってくる。しかしそういうわけにはいかない。元来、背中流しというものは女が男にするものであるとイメージされがちだが、それらは女性が男性より卑しい身分であるとされた時代の悪しき習慣なのである。だから、美雪さんにそのような悪習を行わせるわけにいかない。卑しい身分なのは美雪さんなのではなく、ニートであるこの僕なのだから。
「いえ、美雪さんにそのような事をさせるわけにはいきません。僕が美雪さんの体の隅々まで磨き上げて差し上げます! ええ、体の隅々まで、ね。じゅるり」
 おっといけない、涎が垂れてしまった。いや、決して僕が美雪さんの体を必要以上に触りたいとかそういうことではないぞ。断じて否である。これも美雪さんに少しでもくつろいで頂くための配慮であり、ごにょごにょ。
 美雪さん抱きかかえて、風呂場に置いてあるプラスチック製の椅子に、強引に座らせてしまえば準備はオーケーだ。僕は手早くタオルを石鹸で泡立たせた。よし!
 ごくり……。美雪さんの華奢な背中を見て思わず生唾を飲み込んでしまう。美しい。ただその一言に尽きる。
 純白の穢れ一つ知らない儚げな背中。そこから微かに覗かせている胸の膨らみが、僕の煩悩をかき乱し、思わず愚息がぴくりと反応してしまう。下に視線を移すと、腰のラインは見事なまでの曲線美を描いている。さらにその下に、柔らかく膨らむ純白の桃尻。その切れ間の秘境に顔を埋めて、美雪さんを困らせてみたいという衝動に駆られる。
 って、いかんいかん。僕はいったいなんて如何わしい妄想をしているんだ。男として、いや人類として恥ずかしくないのか自分。頭を左右にぶんぶんと振って如何わしい妄想を打ち消した。
「で、では、美雪さん。背中流しますね」
「はい」
 ふーっと深呼吸をして、精神を統一してから美雪さんの背中にそっとタオルを添えた。
「……んっ」
 しかし、美雪さんの艶かしい息遣いが僕の鼓膜を震わせて、先ほど打ち消したはずの妄想がもんもんと蘇ってくる。くそぅ、背中流しというのはこんなにも精神を揺さぶられる作業だったのか。恐るべし背中流し。
 しかしそれでも僕は、美雪さんの繊細な肌を傷つけないようにと細心の注意を払って、優しくタオルを滑らせていく。
「……んんっ、んぁ……」
 心なしか、美雪さんの息遣いがだんだん荒くなっているような気がする。それに呼応するように僕の愚息も荒々しく迫り上がってくる。くそぅ! ダメだ、落ち着け! ただ背中を流しているだけなんだぞ。なにを僕は興奮しているんだ。
 落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせながら、美雪さんの背中を丹念に磨き上げていく。と不意に、
「……んっ、んぁぁっ!」
 美雪さんが押し殺したような喘ぎを漏らして、びくんと体を震わせた。しまった、雑念だらけの頭で美雪さんの背中を洗っていたから、知らず知らずのうちに力が入りすぎてしまったのか? 馬鹿野郎! 僕はいったいなにをしているんだ!
「美雪さん、すいません! 大丈夫ですか!? 痛かったですか!?」
「い、いえ……」
 美雪さんはぷるぷると体を小刻みに震わせながら振り返った。
「私……背中弱いんです……」
 美雪さんは頬を紅潮させ、はにかんだような微笑みを浮かべて俯いてしまった。
 ――どくん。その時、僕の中のなにかが大きく躍動するのを感じた。
 気がつくと僕は、かよわくも美しい微笑みを浮かべていた美雪さんに襲い掛かっていた。理性は完全に崩壊し、必死に押しとどめていた欲望という名の獣性が剥き出しになる。ダメだ、止まらない。美雪さんをこのまま欲望のままに――。
「こーちゃん♪ 久しぶりに背中流してあげるよー♪」
「ぬわあああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
 おぞましい断末魔が狭い浴室に響き渡った。もちろん僕のだ。

「こーちゃん、どういうことなのか説明してちょうだい」
「…………」
 幸せ一杯、夢一杯お風呂タイムを強制終了させられた僕たちは、リビングで緊急家族会議に出席させられていた。
 隣に美雪さん。正面に謎の女。斜め向かいに妹。そして、美雪さんのお胸にちょっかいを出しているクソガキ。なんだコイツ。本当にジッパーでバラバラにしてやろうか。
 両親は共に海外出張のため不在、ということにしておこう。物語というのは期せずしてご都合主義に溢れているものなのである。決して作者の怠慢ではない。多分。
「おねーちゃんは聞いてませんよ。こんな人がこーちゃんと一緒に暮らしているなんて」
 うわー、この人やっぱり僕の姉だったのかー。全然気づかなかったー(棒読み)。
 僕は姉とあまり関わりたくなかったので、最後まで謎の女として白を切るつもりだったのだが、どうにもそうはいかないらしい。現実というのはいつの時代も非情なものである。
「……お姉ちゃん。これダッチワイフだよ……」
「アンタは黙ってなさい!」
 姉に何かを耳打ちした妹が怒鳴れていた。妹は「……ごめんなさい」と言うと、肩を落として俯いてしまう。なんだか妹がかわいそうだ。多分、妹も緊急家族会議に強制参加させれた口だと思うから。だけど、僕には妹を庇ってやる余裕はなかった。そんなことより、この状況の打開策を練らなければいけない。
「つーか、姉貴。来週帰ってくるんじゃなかったのかよ」
 なんとなく不機嫌を装いながら、話の矛先を逸らしてみる。
「姉貴なんてよそよそしい呼び方しないでっ! 昔みたいにおねーちゃんって呼んでよっ!」
「うへぇ…………」
 話の矛先は変えられたみたいだけど、別の方向でやっかいになりそうだった。ほんと、これだから姉は苦手なのだ。勘弁していただきたい。僕は美雪さんと静かに暮らせればそれだけで満足なのに。しょうがない、ここは正直に白状するしかないようだ。
「……この人は僕の妻の美雪さんです。先日、我が家に嫁いだばかりです」
 しぶしぶと、美雪さんに手を向けて紹介をする。美雪さんが恭しく頭を下げた。
「……ぃてない」
 すると、姉は体を小刻みに震わせぽつりと何かを呟いた。テーブルの上で握り締められている拳がぷるぷるしてて怖いんですが。あ、やばい。姉の様子が――。
「聞いてないわよそんなのっ! 大体お父さんとお母さんの了承は取ったの!? 二人は海外に行ってるはずよっ! それにおねーちゃんの了承はどうしたのよっ!? 私はそんなの許さないわよ! どこの馬の骨とも分からないこの女に、こーちゃんは渡せないわっ! 弟はやらんっ! 大体なによ、その下品なおっぱいわっ! その下品な乳でこーちゃんを誑かしたのねっ! この売女っ! ビッチ! ファック! 聞いてるのっ!? 黙ってないでなんとか言いなさいよっ! このあばずれっ! 出てけっ! この家から出てけっ! 二度と家の敷居を跨ぐんじゃねーぞ! クソ! 死ねっ! 消えろっ! こーちゃんに近づくんじゃねえええええええええええええええええええええ――――」
 ――ぱちん。
 不意にリビングに響いた乾いた音が姉の口を塞いだ。
 僕が、姉の横っ面に平手打ちを放った音だ。ほとんど衝動的に。自分の意思が介在する余地もないほど反射的に。完全に無意識に。僕は姉に平手打ちをかましていた。
 数瞬の間をあけて、事の重大さに僕はようやく気が付いた。家族に手を上げるなんて初めてのことだった。
 口喧しい家族に対してぶん殴ってやりたいと思ったことなんて幾度となくあった。しかし、それらは思うだけであって実際に行動に移したことはなかった。それは、越えてはいけない一線のような気がしたから。
 だけど、そんなもの今は関係ない。今回はどうしても我慢することができなかった。僕のことを悪く言うのはいい。だけど、美雪さんだけは、美雪さんのことを悪く言うことだけは、どうしても許せなかった。
 姉が頬を押さえて瞳いっぱいに涙を浮かべながら、立ち尽くす僕を見つめていた。妹も呆然と開かれた口に手を当てながら、驚愕の表情で僕を見ている。クソガキは相変わらず、美雪さんのお胸をぷにぷに突付きながら「おーやわらけー」とかほざいている。後で絶対にぶん殴ってやるから覚悟しとけよ。
「……美雪さんのこと何も知らないくせに、勝手なこと言うのは許さないぞ……」
 僕はやっとの思いで、喉の奥から搾り出すように呟いた。
 そうだ、姉は美雪さんのことなんてこれっぽっち知らないじゃないか。なのに、美雪さんが寡黙で大人しい性格なのをいいことに、好き勝手にさんざん酷いこと言いやがって。姉が悪いんだ。僕は……悪くない……。
 なのに、僕が悪いはずじゃないのに。自分の口から出た言葉が、どこか言い訳のように響いて僕の心に罪悪感を植えつけた。
「こーちゃん……」
 姉の瞳から涙がぽつりと零れ落ちたのが見えて、次第に僕は居た堪れない気持ちになってきた。ばつが悪くなった僕は姉たちから顔を逸らして、美雪さんを抱えて立ち上がった。
「お兄ちゃん……」
 妹が呼び止めようとしたが、僕は無視をして、クソガキの頭に拳骨をお見舞いしてから、逃げるようにリビングを後にした。
 
 部屋の戻った僕は、美雪さんを抱えて何かから隠れるようにベッドに潜り込んだ。
 くそ、好き勝手言いやがって。美雪さんに酷いこと言いやがって。許さない、僕は絶対に許さないぞ。
 美雪さんの胸に顔を埋めながら、僕は心の中で毒づいた。だけどそれも、どこか自分に無理矢理言い聞かせているようで、ちっとも罪悪感は拭えない。
 美雪さんに酷いことを言った姉が悪い。だから僕は殴ったんだ。なのに、僕の心の中は鬱々とした感情がどろどろと渦巻いていて、さっぱり気分が晴れないのはなんでだ。腹の立つ相手を殴ったら、普通は気分が良くなるはずじゃないのか。
「美雪さん……姉が失礼しました」
 姉が全て悪いんだと確認するように呟いて、美雪さんを強く抱きしめた。
「いえ……私は全然」
 姉を殴った掌が、まだじんじん熱を帯びている。僕の心に残ったのは――後悔。ただそれだけだった。

     

 それから数日が何事もなく過ぎた。
 姉はあの日以来、僕たちにはなにも干渉してこなかった。僕としても特別なにかを言うつもりもなかったし関わるつもりもなかった。
 そもそも僕は、姉が帰ってくると聞いたときから、面倒なことになりそうだと予想できたから、出来る限り関わらないでいようと思っていたのだ。まあ、案の定、面倒なことは起きてしまったのだが。
 そうして今日、いつものように部屋に閉じこもって美雪さんと愛を育んでいると、妹から一通のメールが届いた。
『お姉ちゃん、明日帰るってよ』
 文面にはただ一言そう書いてあった。
 姉と仲直りしろという妹なりの気遣いなのだろう。それは僕にも理解できた。だけど、こう何日も経ってしまうと変に意地を張ってしまい、いまさら謝りに行くというのもきまりが悪い。それに、第一僕が悪いわけではないんだ。なのに自分から謝りに行くのはどうにも腑に落ちない。
 ああ、姉のことを思い出したらまた腹が立ってきた。ふん! と八つ当たりに携帯をベッドに投げつけた。どうせ僕の携帯の電話帳には五件しか登録されていないので、遠慮なしの全力投球だ。
 ドスッっと鈍い音を立てて美雪さんの腹部にヒット! いや投げたからストライクか?
「って、美雪さああああああああああああああああああああああああああん!」
 僕は慌てて駆け寄り、仰向けに倒れた美雪さん抱えた。
「美雪さん大丈夫ですか!? 本当すいません!」
 くそッ! 僕はなにをやっているんだ! これじゃ姉になにも言えないじゃないか! いや、姉より酷い事をしたかもしれない……。
「美雪さんすいません……。僕、少しイライラしてて……」
「いえ、私は大丈夫ですが……その……」
 美雪さんは起き上がると、僕の手を握って真剣な表情を浮かべた。
「お話があるんです」
「はい?」

「離婚しましょうアナタ」「な、なんだってー! というか僕たちまだ籍を入れてませんよ!?」「あらそうなの、じゃあサヨナラね、アナタ」とか「三ヶ月だって」「え? そ、それって?」「うん、できちゃったみたい」「や、やったああああ! 男の子かな女の子かな? ってあれ? 僕たち三ヶ月前にまだ出会ってませんよ?」「あら、じゃあ誰の子かしら?」みたいな展開ではなかったようだ。
「いまなんて?」
「ですから、お義姉さまのことです」
 美雪さんが真剣な表情を崩さずに繰り返した。どうやら雰囲気から察するに「おめーのねーちゃんムカツクからマジやっちまおーぜ!」的な相談ではなさそうだった。
「義妹さんからのメールを拝見させていただきました」
 妹からのメール……。まさか、妹との関係を勘繰って……。いや待てよ、確かに僕は妹が大好きだが、まだ手を出していないぞ。いや、待て。まだってどういうことだ。手を出すつもりだったのか僕。という事でもなさそうだった。
「明日、お義姉さまがお帰りになられるそうですね」
 薄々感づいてはいたが、やっぱりそのことか。あまり触れられたくない話題なので、そっぽ向いて口笛なんか吹いてみる。我ながら白々しい。
「このまま仲違いされたまま、お別れするのは良くないと思うんです」
 美雪さんが僕の顔を両手で挟んで、無理矢理正面を向かせた。う、美雪さん若干お怒りモードかもしれない。
「で、でも……」
 そうだ。美雪さんがなんと言おうとやはり悪いのは姉なのだ。少し意固地になり過ぎているかもしれないけど、そこは美雪さんの名誉のためにも僕が折れるわけにはいかない。ってあれ、なんだか話が拗れてきてないか?
「アナタの言い分も分かります。確かにお義姉さまは少し口が過ぎたと思います。だけど、私は全然そんなこと気にしていません。それに、お義姉さまがあそこまでお怒りになられたのも、アナタのことをそれだけ愛しているからだと思うんです。それに、私にも非がありました。いきなり私のような無作法な小娘が、アナタのような立派な方の妻になられた知れば、お義姉さまでなくともお怒りになられるのも当然のことです」
「そんな……、美雪さんは全然悪く――」
 ない。と言おうとした僕を、美雪さんはいきなり抱きしめてきた。
「み、美雪さん?」
「アナタも本当は、お義姉さまと仲直りしなきゃいけないって思っているんじゃないんですか? それに、カッとなって手を上げてしまったことも謝らなきゃいけないって」
「そ、それは……」
「私、嬉しかったです。アナタがお義姉さまに手をあげて、許さないって言ってくれたとき。とても嬉しかったですよ。でも、やはり家族に手を上げるのはいけないことです。どんな理由があっても。それは、アナタも分かっていますよね? 私も一緒に頭を下げます。だから、ね。一緒に謝りにいきましょう」
 僕の背中に回された美雪さんの腕に少し力が入った気がした。
 はぁ、と一度嘆息する。どうやら美雪さんは、僕のことなんてなんでもお見通しのようだ。本当に素敵な人を嫁にもらったと僕は思う。こんな、どうしようもないダメニートの僕のことをいつも気遣って心配して、そして支えてくれている。それなのに、僕はいつも美雪さんに甘えてばかりだ。自分の不甲斐なさをしみじみ痛感させられる。
 僕は美雪さんをやさしく抱き返した。美雪さんにここまで頼まれたら断れるはずがないじゃないか。たぶん美雪さんは、それも分かってやっているんだろう。
「分かりました。姉に謝ってきます」
 観念したように言うと、美雪さんは僕から体をそっと離して、いつもの美しい微笑みを浮かべた。この笑顔に僕は何度癒されただろうか。
 だけど、どうしても譲れないことが一つだけあった。これだけは美雪さんがなんと言おうと首を縦に振るわけにはいかない。
「でも、姉のところに行くのは僕だけです。美雪さんは部屋で待っていてください」
「え? なぜですか?」
 それは、美雪さんを同伴して行ったら、姉が包丁を持って突進してくる恐れがあるからですよ。僕と美雪さん、どちらに突進してくるかは分かりませんが。とは、言えないので「妻に頭を下げさせるわけには行きませんよ」と、頼れる亭主を気取って説得すると、美雪さんは不承不承ながら納得してくれた。
 美雪さんを連れて行ったら、姉がどうリアクションを起こすか本当に知れたものではいからな。
 そうして僕は一人部屋に残る美雪さんに「僕、帰ってきたら美雪さんをいっぱい愛してあげます」と、セクハラだか死亡フラグだかよく分からないセリフを残して部屋を後にした。
 何事も平穏に済めばいいんだけどなぁ。そうはいかないのが物語というものだ。ん? なにか違和感を覚えることを言った気がする。

       

表紙

ブチャラtea 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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