Neetel Inside 文芸新都
表紙

サヨナラを聞かせて
水無月は雨に濡れて

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 夜ぐっすり眠れなくなったのはいつからだろうか。
 雨の日が好きになったのはいつからだっただろうか。
 そんな風にしていつものように眠れぬ夜に悪あがきをしてみるのだが、こうやって一人考え事をしているときは、いつだって何かと邪魔が入る。今日もそのご多分に漏れずそういった邪魔が入った。
 そう例えば、雨降りの深夜だというのに近くの公園で大きな声を出しあって喧嘩するカップルだとか、毎夜のように隣の部屋から聞こえてくる大音量のアニメソングだとか、妙に耳ざわりで几帳面な時計の針の音だとか答を急かすように囀る小鳥の鳴き声だとか。それでも俺は案外この雑音が好きだったりする。そんなことを言っているからいくつになっても答が見いだせないのだろうか。まあいいや。
 そして今日も答を見つけられぬままスミレが帰ってきたらしく「ギギッ」というドアの開く金属音と忍ぶ足音が聞こえてきた。結局今日もスミレが帰ってくるまでに眠れなかったみたいで、これじゃあ旦那の帰りをいじらしく待つ新妻のように感じてしまう。はたまた放課後、好きな人を待っている初々しいカップルの片割れのとも言うべきか。どちらにしろ俺はある意味スミレの帰宅に助けられたのかもしれない。
 スミレは帰ってくるとまずテーブルに置かれたタバコを手にとってベランダに出た。そう、スミレは雨の日に限って帰ってくるとまず一番にベランダに出てタバコを吸う。俺が珍しくこの時間寝てたとしても、立て付けが悪く古いこの家の雨戸の「カラカラ」と開く音を聞くと目が覚めてしまうのだ。そしてそんな日はいつも雨だった。
 気づけば時計の針は五時を回っていて、考えてみればいつもより帰ってくるのが遅かったようだ。俺は特に何の考えがあるわけでもなくスミレの後を追ってベランダに出た。季節は六月になっていたが、どんより太陽を隠す分厚い雲のせいか、もしくは半袖では少し肌寒い気温のせいか辺りはまだ暗い。俺はスミレの隣に腰を下ろしスミレが持っていたタバコ(と言っても俺が買ったタバコでスミレの持ち物ではないのだが)を貰ってそれに火を点けた。街灯はまだ暗い夜道と降り続く雨を照らしていて、スミレはそれをずっと飽きもせず眺めているようだった。さらに夜明けの町に聞く雨音は昼間のそれよりしっとりと鼓膜を撫で、まるで他人の母親が子守歌を歌っているように感じる。
 いつも思うのだが、こういう時少し胸が痛む。近くにいるのに繋がっていないという「この感覚」が。それでもこういう痛みに対して俺はもう慣れっこになっていて、別段気にすることでもないのだが。
 そう、俺は慣れっこなのだ。
 俺よりも俺の成績と会話していた母親とか
 俺の前で悲しそうに彼氏の話をしていた先輩とか
 俺より精神安定剤を大切にしていた前の恋人とか
 俺の前を振り返らず通り過ぎていったそういう人たちが俺を少しずつ不感症へと導いてくれたおかげかもしれない。そして俺はそんなことをぼんやり考えながら、見えぬ空を見上げそれに向かってタバコの灰を吐き出した。
 雨の日はいつも余計なことを考えてしまう。何故だろうか。

 前の彼女の話を少ししよう。
 名前は美幸と言って年は俺と四つ離れた社会人だった。立派に社会に出て働いている人だったが、名前に反して悲しい人、というか不幸な人だった。男運が悪くて、歴代の彼氏には暴力を振るわれてばかりだったらしく、その暴力に慣れた彼女は自分を傷つける人がいなくなった終いには自分で自分を傷つけるようになった。そしてそんな自暴自棄になっているところ偶然俺と出会った。というより泥酔した彼女に俺は口説かれたのだ。今にして思えば相手はたぶん俺じゃなくてもよかったんだろうな。たしか初めて出会った日、こんな会話が交わされたことを覚えている。
(ねぇ、今日だけ私の彼氏になってくれない?)
(別にいいですけど)
(じゃあ着いてきて)
 そうやって俺はのこのこ彼女に着いていって彼女の家に入ったんだけど、その後(というか翌日)が面倒だった。
 彼女は目覚めた途端、「あんたのことなんか知らない」、「年下はタイプじゃないのに」、「ちゃんと避妊したか」なんて散々俺を罵倒した挙げ句、反論する余地さえ与えてくれずすぐに俺を部屋から追い出した。第一俺はあの日彼女に対して避妊どころかセックスすらしてなかったわけだから、まさにとばっちりを喰らったわけだ。それでも彼女は後日、まるで俺の顔をもう一度確かめに来たみたいに、俺が部屋に忘れた財布をわざわざ俺の家まで届けに来てくれて(どうやら俺の財布の中身を覗いて学生証から住所を知ったらしい)謝罪をしてきた。今でも彼女について思い出すのはあの日だ。あの日会った彼女は前回会ったときみたいに泥酔してもなければヒステリックも起こさず、「年上の綺麗なお姉さん」という印象だったのを覚えている。美しく長い黒髪は肩に少し掛かっていて、背が高くておまけにスタイルも良く、人間というよりは動物的な美しさを持っていた。そして彼女は帰りがけにこんなことを言ってきた。
(また連絡してもいいかな?)
 俺は断らなかった。たぶんあの日の彼女は過去の忌まわしい(というのは少し飛躍しすぎかもしれないが)をぬぐい去るには十分なほどの魅力を持っていたし、実を言うと初めて会ったときからそこまで悪い印象は彼女に持っていなかったからだ。
 それから俺と美幸の三ヶ月ほどの短い付き合いが始まった。彼女が「堕ちていないとき」はおままごとのような、彼女が「堕ちているとき」は底知れぬ深い闇に足を踏み入れたような感覚に陥った。とは言っても彼女が「堕ちていないとき」は最初の一ヶ月程度で、あとの二ヶ月はほとんど思い出したくないほどお互い嫌な思いをして過ごした。
 それでも俺は今度こそ「彼女」という存在をちゃんと大切にしようと思っていたし、実際彼女を好きだったと思う。ただ別れたときも悲しいとは思ったものの引きずるほどではなかった。しかし彼女の最後に捨て台詞のように放った一言にはいささか胸にくるものがあった。
「あなたは一体誰を見ていたの?」
 誰だったのだろう、未だに俺自身わかっていない。そして俺も、彼女が一体誰を見ていたのかわからない。

 昨日から降り続いている雨は昼になっても止む気配を見せず、むしろ激しさを増しているようでアスファルトには大きな水たまりがたくさんできていた。それを踏まないように歩いていると、小さい頃雨の日は好きじゃなかったが雨の日の帰り道が好きだったことを不意に思い出した。
 小さい頃も今みたいに一人だったが、あの頃の俺はまだ何かに期待を寄せていて見るもの全てに興味を抱いていた。雨はなんで降るんだろう、とかなんで季節があるんだろう、とか鳥はどうやって飛ぶんだろう、とか。雨上がり、太陽を乱反射した水たまりに足を踏み入れてみたりもした。どうして年をとるごとにそういう「なぞ」に興味を失い、必要な知識だけを求めるようになるのだろうか。
 目の前でパシャパシャと水たまりを踏んでいる子供を見て、俺は行きかけた学校の道を逸れて図書館に向かった。それはキラキラと輝いていた幼い記憶を探しに行くためでなく、ただ学校に行くのが急に億劫になっただけだったのだが。
 

       

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Neetsha