《事件篇》
西部劇で風に流されるタンブル・ウィードのように、打ち捨てられた新聞紙が地面を転がる。新聞の日付はまちまちで、読み終えた人物が打ち捨てたものだろう。世界に名だたる大都会ニューヨークの片隅に公園がある。そこにフィタミン・ヴァテアという男がいた。ひどく身なりの悪い男で、他の浮浪者と同じく服も体も洗えずに臭かった。
「次に会うときまでには体、洗って来るんだぞ?」
「わぁってるよ」
私はフィタミンの衛生面を鑑みて云ったのだが、首をぽりぽりと掻きながらフィタミンは生返事をした。
フィタミンと私は大学生のころに仲良くなったよしみで今でも付き合っている。一般の人――いわゆる職をもち金を稼ぎ衣食住に困らない人――はフィタミンたちを蔑んだ目で見ていたが、私はフィタミンや他の浮浪者も人間として、私たちとなんら変わらないと信じていた。
フィタミンの垢まみれのコートのポケットには、元の色などわからなくなったハンカチが突っ込まれていた。
「まだ持ってるんだな、それ」
「……」
フィタミンは口をつぐんだ。そのハンカチは、彼が捨てられたときに母親から、涙を拭うために手渡された最後の贈り物だった。母親による刺繍だろう、「LOVE V・W」とフィタミンのイニシャルが綴られていた。
「うっせぇな。他の金目のモンは売っちまったから、一番値打ちのねぇもんが手元に残ったんだよ」
私は知っている。見たことがある。その刺繍がこすれてほどけそうになるほど、何度も何度もフィタミンが愛おしそうになでてきたのを。私はいたたまれなくなって、その日はそのまま帰った。
ある夜、フィタミンのハンカチが盗まれた。彼が「一緒に探してくれ」と焦るのを見て私は快諾し、フィタミンの母への想いを再確認した。
そう、私は彼の優しさと寂しさを知っていた。
だから私はフィタミンを守らねばならなかった――
翌朝早く、大雨のなか公園の入り口の路上で、禿頭の老人が死んでいるのが発見された。名はトッド・リチャーマン。浮浪者の内輪では、ちょっとした金貸しとして有名だった。警察がトッドの服を調べたところ、帳簿が見つかった。帳簿には多くの名前があり、フィタミンの名も何度か書かれていた。
死因は窒息死。なにか布やそれに準ずるもので口と鼻を塞がれたらしい。古い傷痕はあったものの、真新しいものは打撲傷にしろ裂傷にしろなかった。トッドは塒(ねぐら)で死んでいたため、睡眠中に襲われて大した抵抗もできなかったと見られる。
死亡推定時刻は雨が降り始める前、昨夜の23時ごろから翌日の2時ごろだと告げられた。大雨で死体の温度が下がったため、特定が難しかった。
被害者が死んでいた路地は一本道でビル街へ続いていたが、ビル街側には警備員がいて、犯行時刻以降は誰一人通った者はいないと証言した。死体の発見時刻が早かったため、また雨で人通りが少なくなっていたため、通勤の時間より早く現場を封鎖することができた。
公園は海に面していて、入り口はひとつである。ビル街から入り口へ続く一本道で被害者は死んでいて、入り口から路地までの間に横道などもない。
つまり犯人がどんな人間であろうとも、現場の路地を封鎖してしまったため、犯人は公園に閉じ込められた形になったのだった。
公園周囲の海は大雨のせいで、犯人が泳いで逃げても気づかれなかっただろうが、沿海は高い塀ばかりで、数キロメートルは泳がないと陸に上がることはできないだろう、との見解だった。
《証言篇》
大雨のなか、事情聴取が行われた。容疑者は4人。
まず、ホッシュ・シニチーというSF好きの中年。
彼は界隈の本屋でSF小説を盗むことが度々あったため、警察の人間には鬱陶しがられていた。
以前、彼が珍しく自費でSF小説を買ったときに、布製のブックカバーを貰ったため、それが凶器ではないかと疑われた。しかし警察がブックカバーを調べたところ、被害者トッドの唾液や鼻汁は検出されなかった。
トッドに小額を借りていたが、返すあてはあったとホッシュ当人は供述している。
昨夜の22時ごろまでトッドと会話しているのを、警備員を始めとして数人に目撃されている。ホッシュ本人は、22時を過ぎて数分で公園に帰ったと述べており、22時半ごろに塒に戻ったところを隣の塒の老人に目撃されている。翌朝、警官がホッシュに事情聴取に来るまで彼は寝ていたと云っており、隣の塒の老人は警官が訪れるまで不審な点はなかったと証言している。ホッシュはこの隣の塒の老人と、諍いをすることもあり、老人は一度ホッシュはいなかったと嘘の証言をしたが、警官の厳格な取り調べにより「ホッシュは犯行時刻には間違いなく隣で寝ていた」と証言した。
次に、美樹本洋介という日本人。
彼は日本で殺人を犯しており、出所したものの職にあぶれてしまったため、渡米してきたという。容疑者のなかで唯一殺人の前科がある人間として厳しく調べられたが、布製品はもっておらず、板の取っ手がついた血まみれの鎌しかもっていなかった。鎌は没収されたが、血は赤い絵の具であったし、とくに被害者やケガ人もいなかったことからお咎めなしとされた。詳しく調べてもトッドの血液や唾液はまったく検出されなかった。
美樹本はトッドから金をもっとも多額に借りていたが、つい先日すべて返済し終えたばかりだった。
犯行時刻の夜には、海に面したベンチでビデオゲームのケースを手にして「4さえ出ていれば」だとか「ソフトの売り上げさえあったら」などと憎々しげに呟いていたところをある浮浪者に目撃されている。しかしその浮浪者は美樹本と親しい人物であるため、証言としての正確性はとても低い。
そして、MCという男。
MCとは浮浪者連中の間でのニックネームで、本名はMono Carkyというらしい。作家を目指して活動していたものの才能がなくて仕事を得られず、地に落ちたという。まだ諦められないらしく、とっておきの万年筆で紙に文章を書いているところを目撃されている。万年筆は落ちぶれる前に手に入れたもので、すでに壊れてインクが漏れ出すことがあり、MCの手は油性インクで汚れていることが多かったという。
トッドから金を借りていて、小説が売れたら出世払いをすると云っていたという。
犯行時刻のアリバイはないが、MC本人は塒で独り寝ていたと供述している。
最後に……フィタミンが挙げられた。
彼にはアリバイがない。ハンカチを探して、公園内を探し回っていたからだ。私は彼のアリバイを叫んだが、きわめて近しい人間の言葉として参考程度にしか聞き入れられなかった。公園内の浮浪者にはフィタミンを目撃した者が何人もいたが、犯行時刻にどこにいたかは正確に証明できなかった。私もフィタミンとは別れて探していたため、納得はできなかったが、アリバイがないと認めるしかなかった。
さらにフィタミンはトッドに金を借りていた。私にとっては小額だが、浮浪者の金銭感覚ではそれなりの額であるという。フィタミンは仕事もなく収入源もなく、返すあてはなかった。
不運なことに、フィタミンは凶器も持っていた。朝方、警察が来る前に、盗まれた彼のハンカチが見つかったのだ。ハンカチにはトッドの唾液などは検出されなかったものの、それだけで疑いが晴れるようなことはなかった。
最重要参考人として警察官がフィタミンを連行しようとしたとき、私はそれを阻もうと追った。しかしフィタミンが犯人でないと明言できなければ彼を助けられない。公園を出て、犯行現場の路地まで追っていった瞬間、私は気づいて叫んだ。
「フィタミンは犯人ではない! 犯人はあいつだ」
《回答篇》
容疑者の証言などを整理すると、以下のようになる。
ホッシュ・シニチーは、布製のブックカバー(凶器)をもち、金を借りていた(動機)が、犯行時の所在確認がとれている(アリバイ)。
つまりホッシュ・シニチーには、凶器と動機はあるが、アリバイもある。
美樹本洋介は、鎌を持っており(凶器)、犯行時の証人が嘘をついた可能性がある(アリバイ)が、借金は全額返済していた(動機)。
つまり美樹本洋介には、凶器がありアリバイはないが、動機もない。
MCは、金を借りていて(動機)、犯行時は独りで寝ていたと云っている(アリバイ)が、布製のものを持っていなかった(凶器)。
MCには、動機がありアリバイがないが、凶器もない。
3人とも凶器・動機・アリバイのいずれかひとつが「犯行をしていない証拠」となっているため、それが有効でないと示せば真犯人を暴くことができる。
つまり……ホッシュのアリバイを崩すか、美樹本の動機を見つけるか、MCの使った凶器を発見する。このいずれかを達成すれば、真犯人を暴くことができてフィタミンは無罪放免となる。
犯人がトッドを殺のに使った凶器は、布製品ではなく新聞紙だった。
西部劇で風に流されるタンブル・ウィードのように、路上に当たり前のように捨てられていて、風が自然と証拠を隠滅してくれる新聞紙。しかも死体が発見された当時は雨が降っていて、死体の口周りについていた新聞のインクを洗い流してしまっていた上、新聞紙は流されてしまったようだった。
私の推理のため、MCが最重要参考人として連行された。
のちに警察の必死の調査で、公園一帯と周囲の路地、さらには海上や水中の新聞を探したところ、インクがべったりついた新聞紙が水中から発見された。インクは油性だったため指紋がついており、照合したところMCのものと断定された。
《エピローグ篇》
MCの犯行動機は、簡単だった。夢に破れた絶望から自殺しようと思い立ち、気まぐれで心中してくれる人間を探そうと徘徊していたところ、ちょうど近くで寝ていたトッドに気づき、足元に落ちていた新聞紙でトッドの口と鼻を塞いで殺した。犯行後、急に怖くなったMCは逃亡。雨が降り始めて証拠が自然と隠滅されるかもしれないと思い、自殺もやめて自首もしなかった――
なんとも身勝手だ。
私はベッドのなかで、事件の真相に思いをめぐらせていた。外は雨で、何匹もの細い蛇がのたうち回るような筋――雨が窓ガラスに映す模様を、外の光が壁に映し出している――を見ていた。あの日も、こんな土砂降りの夜だった。けれど今はなにも心配することはない。
私は隣を見た。フィタミンが眠っている。
フィタミンは、私が真犯人を暴いて自分を助けたと知るやいなや、涙を流して感謝し、求婚してきた。
ここはマサチューセッツ州。同性結婚の許される場所。私はフィタミンとこの街へ移ることができて、幸せだ。
しかし、なにか不吉な予感があった。まだ隠されている事実があるのかもしれない、と。
だがそれも、今すぐにわかることではないかもしれない。いつか気づけばいい。大事なことであれば、いずれわかるだろう。せめてこの予感が、悪いものではありませんように……。私は小さく、隣の背中に囁いた。