「おはよー」
う。
「……おはよ」
いつもより小さめに、いつもより俯いて挨拶を返す。
ん? みたいな感じでこっちを向かれたけど、気付かないふり。
今はできるだけ韮瀬との関わりを絶たなくちゃいけない。
朝の会。
普段なら妹尾先生のカッパとかザビエルとか呼ばれる頭部でも眺めながら話を聞くところを、今日は机に突っ伏して聞く。
韮瀬を回避するだけにしてはちょっとやりすぎ感があるけど、それぐらいがちょうどいい。
一応健康観察のときだけは、心配されないように起き上がったけど。
普段から倒れてると、ただ眠いだけでも心配されたりして困るんだよなー。
1時間目の数学は相変わらず東郷先生がマシンガントークをかましている。
ノートを取りながら、板書するときすら喋っているこの人は凄いなーとか考えているとメモ用紙が飛んできた。
つい反射的に拾い上げて、しまったと後悔する。
あの日から、僕らの机の間では時々メモ帳が飛び交うようになった。
内容は『坂じゃなくて阪じゃない?』と弓張先生の間違いを指摘しただけのやつから、国語の教科書に載っている作者の写真を写して目を少女マンガ風にパッチリさせた手の込んだものまで色々。
返事を書いて返すこともあるけど、作者の写真のほうはありがたく国語の教科書に挟み込んである。
けど今はそれを素直に有難がってる訳にもいかない。
とはいえ取ってしまったものはしょうがないので見てみると、『体調だいじょぶ? もう直った?』と書いてあった。
あー、うわー。
なんか心配かけてたことへの罪悪感が押し寄せる。
関わらないようにしようと思ってるけど、これには返事しないわけにいかないよな。
メモ用紙に『ごめん大丈夫』と書き込んで韮瀬に、いや待てよ。
僕は思い直して、その下に『P.S しばらく話しかけないでくれると助かる』と書き加えると改めて韮瀬へ。
黒板を見ると、練習17をやるっぽかったのでちょっと教科書を探して、あった、
1問目を解こうとしたところで、紙が返ってくる。
追加されていたのは『←なんで?』というシンプルな一文。
そりゃまあいきなりそんなこと言われれば気にもなるか。事情を説明しよう。
えーっと、『筒井に僕が韮瀬を好きなんじゃないかと思われてて』、
いやいやいや。
筒井、まで書いたところで手が止まる。これはいくらなんでも恥ずかしすぎるだろ。
慌てて消して、『ちょっと事情があって』に書き直す。
ずいぶん曖昧だけど、仕方ないよな。
送り返そうとして韮瀬のほうを向くと、韮瀬は問題もやらずにじっとこっちを向いている。
驚きながらも紙を差し出すと、さっと持っていかれた。
そのまま一瞥すると、凄い勢いで書き始めたので僕も問題に戻るのがめんどくさくなってそれを眺めることにする。お、返ってきた。
早速中身を確認して、
「うん、だからこの問題は、xに-2を代入してやるだろ? そうすっとどうなる? うん、-2×4だな?」
うおっ!
すぐ近くで東郷先生の声が聞こえてびっくりする。
声のほうを見ると、東郷先生が甍に問題の解き方を教えているらしい。
机の間を回ってたらしいけど、気付けてよかった。
韮瀬はまだこっちを見ているけどちょっと今はまずい。
メモ用紙を筆箱の下に隠して、問題に取り掛かる。
ふむ、x=-2のときの4x+3の値ね。てことはいつも通りか。
正直、今西に何度か説明したからこんなのはあっという間に解けてしまう。
えーと、-5と。
面倒臭いので途中式は省いて、ノートには式を写したあと下にそのまま答えを書く。
次の問題を写している間に東郷先生は通り過ぎて行ったけど、油断は禁物だ。まだ反対側から覗き込まれる可能性が残っている。
早く通り過ぎてくれと祈ってみるけど、南風原さんのところでもひっかかった。しかも長い。
待っている間に問題は終わってしまって、焦れながら声を聞いているとようやく動いて、韮瀬の隣を通り過ぎ――ない!
今度は韮瀬の反対側の隣、山ちゃんが先生を捕まえた。
またか、と若干の恨みを篭めてそっちを見ると、韮瀬と目が合った。
視線が多分なんで返さないんだ、みたいな感じのことを僕に訴えかけてくる。
保健室に他の人がいると今西は喋りたがらないので鍛えられた結果、今西の意思なら視線だけでもだいたい読み取れるんだけど韮瀬は微妙だ。
とりあえずバレたら嫌じゃん、という意思を篭めて見つめ返してみる。
すると韮瀬はちょっと固まった後、えー、みたいな表情になった。
……あれ通じるの?
ひょっとして今まで試してなかっただけで他の人にも通じる、かもしれないな。
なんて思っていると、東郷先生がようやく教え終わって韮瀬の近くを離れたのでその必要もなくなる。
念のためこっちを見ないかと少し間を開けてから、筆箱の下からメモ用紙を取り出す。
新しく追加されていたのは『事情って何?』。まあそうなるよね……。
けどそんな素直に書くわけにもいかないし、どうしたらいいものかとちょっと悩む。
「はいじゃあ、近本からだから――筒井、戸田、苗木。前出てきて」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
黒板に(1)から(4)までの問題が書かれて、線で区切られている。
そういえば、そろそろ数学の回答の順番が回ってくる頃だったっけ。
しょうがない、一旦メモ用紙は放置。
他の人に見られないように教科書に挟むと閉じた後、ノートを手に立ち上がって黒板に答えを書きにいく。
長い白チョークは……既に苗木さんが使用済みだ。
筒井はやや長いのを使用していて、僕と近本さんがチョーク難民だ――あ、黄色チョーク使い始めた。
出遅れた感じになるのが嫌で、僕も黄色チョークに便乗する。手近にあったのを使って、あ。
答えを書こうとしていた僕の手が止まる。
そういや、東郷先生は途中式書かないと駄目じゃん。
一旦黒板消しで消して、っと。
答えを書いている筒井の下にある黒板消しを取って、うわっ!
その拍子に、筒井が肩をぶつけてきた。強くはないけど、いきなりで驚く。
なんだよと思いながら筒井を見ると、妙な――というか「あの」笑顔でこっちを見ながら席に戻っていく。
あの笑い方をするってことは、
見ら、れた?
一瞬で僕の体の中がさあっと冷たくなって、それから急激に熱くなった。
気分が悪くなるときとも違う、独特の感覚。こういうのを血の気が引くって言うんだろうか。
自分の不注意を呪いたくなったけど、ここは黒板の前。
とりあえずできるだけ早く席に戻りたくて、慌てて書いた答えを消して、回らない頭で考えた途中式を書き加えた後書きなおす。
それから素早く自分の席に戻って、どうするんだ。
僕の考えていることなんて分からない韮瀬がこっちを見てくる。ああもう、今度こそ返事書いてる場合じゃ、いや違うか。
1回見られたんならこの際同じかもしれない。
教科書からメモ用紙を取り出して、内容を考える。もう素直に書いちゃってもいいのかな。
そう思って書き出そうとしたところで、チャイムが鳴った。
でも(3)の答え合せの途中だからか、顔を上げると東郷先生は構わず進めている。
つまり僕にとっては絡まれる時間へのカウントダウンが延びてるわけで、ありがたいっちゃありがたい。
あ、そうだ。
今思いついたことを素早く書いて、韮瀬に放ったところで日直が号令をかける。
礼をするとすぐに韮瀬は紙を見て、意味が分からないという顔になる。
まあすぐ分かるさ。
「よーよー、ラブラブカップルさーん」
僕がなんで『筒井が説明しに来る』って書いたかは。