Neetel Inside ニートノベル
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 ぴとり、と腕に何かが張り付いた。
 その感触に思わずビクッとして右腕を見やると、メモ帳がくっついていた。
 なんだ、と思うと同時に、少し嬉しくなる。
 一応理解は浸透したけど、韮瀬はまだ誤解されるのが嫌なのか最近はちょっと途絶え気味だったこのやり取りが、久々に復活したんだ。
 夏休みまであと2週間を切って、僕らのテンションは開け放った窓から聞こえるセミの声のようにじわりじわりと上がってきている。
 と言ってもきっとみんなの気持ちは『夏休みだ! 遊べる!』と『ようやくこのクソ暑い校舎から逃げてクーラーのきいた部屋に一日中居られる!』が半々ってところかな。
 そういや『こんな暑い中部活なんかやってらんねー!』ってテンションが下がってる牧橋みたいなのもいるかもしれない。
 とにかく、今年の夏はとんでもなく暑い。
 テレビのニュースではなんとか現象がどうたらこうたらとか言ってるけど、原理はいいから涼しくなる方法を教えるべきだと思う。
 教室に申し訳程度に付けられた扇風機は全力で風を送り続けているけど、僕の位置までは届かないし。
 まあ届いたとしても到底涼しいとはいえないぐらいの微妙な風だけど。
 保健室だよりには『熱中症特集!』とでかでかと書かれているし、最近は遂に先生たちも授業中下敷きで扇いでても何も言わなくなってきた。
 その上、何の嫌がらせかちょっと遅れてきた梅雨が週に3日ぐらいは雨を降らせる。
 その日は壁という壁が汗をかき、ちょっと触ると手が軽く濡れる。もちろん床もこの調子で、あんまりの滑りやすさに階段を走る奴はいなくなった。
 そんな状況で授業を受ければ、そりゃもう腕にも汗は浮き出てくる。その結果がこの腕のメモ帳だ。
 そんなに汗をかいてないとは思うけど染みたらいけないと思って、慌てて剥がして内容を確認する。
 書かれていたのはビーチの絵。
 ニヤニヤ笑う太陽の下大量の汗をかいている、いや溶けてる? 雪だるまと、それに寄りかかるネコバスみたいな笑い顔の猫がまず目につく。
 この猫は韮瀬曰く『あたし動物占いで猫だったから』ということで自画像らしい。
 ちなみに本当はバロンがよかったけど描けなかったそうだ。
 そして絵の上のほうには『どこにいたい?』という質問と、解答欄らしいカッコ。
 なんか面白そうな企画だな。さてどうしよ。
 ビーチにはベンチが置いてあったり、海ではクジラが潮を吹いてたり妙に芸が細かい。そんなに妹尾先生の授業が暇だったのか。
 確かに今日は英文をCDに合わせてひたすら読むという作業が長かったから、やろうと思えばいくらでも書けたけど。
 こういう時の返しはなんというかセンスが問われる、と思うのでちょっと慎重に。
 とりあえず居られそうなのは、ベンチの上? いやいやそれは安直すぎる。暑そうだし。
 涼しさを求めるなら海の中だけども、うーんなんかひねりが足りないような気がする。
 となるとクジラの上というのはどうかな。多分韮瀬なら吹いてる潮の上に僕を乗っけるくらいはしてくれるだろう。
 乗ったことないからわからないけどとりあえず涼しそうではある。よし決めた。
 さっそくカッコの中に『クジラの上』と記入。僕は期待通りに描いてもらえるかなー……あ、そういや。
 韮瀬に返そうとしたところで、ちょっと記憶をほじくり返してみる。
 僕ってどんな風に描かれてたっけ?
 ネコバス韮瀬が描かれてる絵は割と見たことがあるし、何人かの先生の似顔絵も見たことがある。松田の変顔を再現した絵なんかもあった。
 けど思えば韮瀬が僕を描いてくれたことってなか――いやあったな。
 確か1回かなり適当に描かれた情けないオーラの漂う男に『TODA』って書かれてたな。
 いやいや、あれはなかったことにしてもらえると信じたい。
 となるとちょっと僕がどう描かれるのか気になってきた。
 ちょっと大きめで見たいと考えると、クジラの上はスペースがあんまりない。ちょっと考え直そう。
 絵を消さないように慎重に、消しゴムでカッコの中だけを捨ててもう一度場所の検討に入る。
 となるとやっぱりベンチの上か。けどベンチもそこまで大きくないんだよなぁ。
 大きく描いてもらえそうなところと言えば……ここだよなー。
 メモ帳は6:4ぐらいの割合で砂浜と海に分かれていて、その画面の中央にどんと陣取っているのが雪だるまと韮瀬だ。
 となればここを指定するのが僕が大きく書いてもらえる道!
 カッコの中に『雪だるまの近く』と書いて完璧だ、とほくそ笑む。
 満足してそういや授業どうなってるかなと顔を上げると、妹尾先生と目が合った。
「お、戸田答えたそうだな。じゃここ日本語訳してみろ」
 ええー!
 僕がなんかやってることに気付いていての意地悪か、ただ目が合ったからだけなのか、思わぬパスが僕へと飛び込んできた。
 幸いにも、妹尾先生は黒板に英文をがんがん書いていってくれるからどこを訳さなくちゃいけないのかで悩む必要はない。
 けどえーっと、これ今西とやってないや。英語あんま好きじゃないんだよね僕も今西も。
 まあいいや、なんとかなるだろ。席を立って
「えー、マリエは」
 と言っただけなのに、ざわりとクラスから笑いが起きた。え? え?
「おいおいちゃんと聞いてたか戸田、マリエじゃなくてマリーだ」
「え?」
 思わず声にまで出てしまった。確かにCDの英語は聞き流してたけど!
 確かに見てみると教科書のイラストに居るのは金髪の人だ。
 あー、えー、うわー。
 恥ずかしさで耳があっつくなる。顔は辛うじて赤くなってない、と信じたい。
 そのまましどろもどろに訳を終えて座る。あー恥ずかしかった。
 ちょっと疲れた気分で、机の上のビーチに目を向けなおす。
 こいつのおかげでひどい目に遭った、というのはちょっと逆恨みかな。
 韮瀬がちょっとでも申し訳ないと思ってくれればいいんだけど、なんて考えながら韮瀬へメモ帳を送る。さて黒板でも写そう。
 黒板は既にだいぶ埋め尽くされている。そろそろ上のほうが消される頃なので少し急がないと。
 そう思って筆箱から赤ペンを取り出し黒板の1行目を写し終えたちょうどその時、メモ帳が再びこちらへやってきた。
 早っ!
 え、これ僕を描いてくれるとかそういう企画じゃなかったの? ただ聞いただけ?
 ちょっとがっかりしながら見てみる。
 やっぱり絵に変化は……え?
 僕の予想に反して、さっき見た絵にはなかったものが一つ付け足されていた。
 それのあまりのくだらなさに、思わず僕は小さく吹き出してしまう。
 雪だるまの被るバケツの上、新たに現れたのは突き刺さる看板。
 そこに書かれていた文字は『とだるま』。
 なんじゃそりゃ。手抜きにも程がある。
 けど僕の頬が緩んでしまうのを抑えきれない。ここまでくだらない返しとは思わなかったぞ。変に期待した僕がバカみたいだ。
 というかこれ僕死にかけじゃないか。韮瀬冷やしてる場合じゃないぞ。
 言いたいことは色々あったけど、とりあえず『助けて溶ける』とだけ書いて返却。
 今度こそノートを写すぞ、とちょっと雑だけど速度重視で英文を書いていると、3行目を書き終わった辺りで紙が来た。
 遂に黒板が埋まりきりそうで心配だったけど、とりあえず絵に目を通す――溶けてるー!
 さっきまで雪だるまが居たところには水溜りがあって、韮瀬は何もないとこによっかかっている。すげぇ。
 いやいや問題はそこじゃない。なぜ殺した。
 思わず韮瀬のほうを向く。
 韮瀬は僕のアクションに注目していたのか僕のほうを見ていて、目が合うと笑いを返してくる。
 あーこの笑顔知ってるわ。今西がよくやる奴だわ。なんていうか『楽しくて仕方ない』みたいな奴。
 ついでに言えば今西の場合大抵は僕をひっかけるなりなんなりした時の笑顔だ。僕が勉強教えてる時にもたまに出るけど。
 韮瀬までこんな顔をするなんて……。僕に安息の場はないのか……。
 軽い抗議を乗せた視線を送ってみるけど、韮瀬の表情は変わらない。
 そうしているとなんか恥ずかしくなってきて、視線を逸らす。
 そのまま黒板に視線を戻して、僕はやるせない気持ちになる。
 まだ写し終わっていない部分が2行ほど消えて、新しい文章へと書き換わっていた。

       

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