Neetel Inside ニートノベル
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 扉を開けると、そこは雪国だった。
 ――――は言いすぎだけども。
 今日の保健室の温度は、いつもと明らかに違っていた。
 思わず入口で立ち止まってその涼しさを存分に味わって
「あー早く入って! 外の暑さが来ちゃう!」
 即座に飛んでくる今西の声。はいすいませんでした。
 素早く扉を閉めて、椅子に座り改めて一息つく。
「クーラーもう切っちゃったんだから気をつけて!」
「いやほんとごめんなさい」
 今西は割と本気で怒っている。そこまで本気にならなくてもとは思うけど、まあ校舎中どこも地獄のような暑さの中でこの快適さは何よりも貴重だもんな。
 涼しさの原因は、今日の集会。
 40度はあるんじゃないかと思うようなあの体育館、耐え切れなかった生徒達は保健室へとやってくる。
 そして、そんな生徒が来たときだけ保健室に設置されているクーラーは稼動するのだ。
 僕らはそのおこぼれというか、余波で涼んでいるってとこか。
 この事実を知っている僕はあの体育館の中で倒れてやろうか真剣に迷った。
 仮病を使うと2人にバレそうな気が猛烈にしたからやめておいたけど……あれ?
「田原先生は?」
「事務室に用があるってさっき出てった」
 うわマジか。暑そうなのに。
「ところでだね戸田くん」
 満面の笑顔で、今西がこっちを向く。
「断る」
「えー!」
 で、そういう時は大体ろくでもないことを頼んでくるに決まってる。
「一応話ぐらいは聞いてくれてもいいと思う!」
「やだ」
「そこをなんとか!」
 椅子を少し軋ませながら回転させて、こっちを向いた今西が勢いよく頭を下げる。
 この態度、絶対何かあるな。
 となればやることは一つ。
「うんまあ、話ぐらいなら聞いてもいいかなー」
 今西相手に優位に立てそうな状況を精一杯楽しむことだけだ。
「マジすか!」
 下げたのと同じぐらい勢いよく顔を上がった。なんか目が輝いてる。
「う、うん」
 思わず気圧された。つーか期待に満ちすぎ。こっち見るな。
「いやーありがと!」
 言うが早いか、今西は机の下に置いてある鞄を蹴りだしてきて、ファスナーを開けた。中からでかめの封筒が取り出される。
 それをびしりと指差して、
「宿題やろうぜ!」
 この笑顔である。
「やめとく」
 うわ目がカッってなった。こええ。
「お願いお願い! ちょっとでいいから!」
 なんか今西にしてはめちゃくちゃ下手に出てきていて、それが更に得体の知れない恐怖を煽る。
 一体僕は何をやらされるんだ。
「宿題は他人に頼っちゃいけないだろ!」
「そこをなんとか」
「お断りします」
「あたしと戸田くんの仲でしょ!」
 いや知り合ってから4ヶ月ぐらいなんですけど。
 あーでも確かに一番話をしたのは今西かもしれない。ほぼ毎日だもんな。
 ……んー。
 ちょっと考える仕草をしながら、今西を見やる。
 すでに期待から圧力へと変わりつつあるその視線。
 今日まで何度も何度もこの目に負けてきた。
 だけど、だからこそ、懲りずに立ち向かう。
 僕じゃまだ今西を越えていくことはできないから。
 せめて対等にはなれるように、じーっと視線をぶつけ合う。
 いつもならここで僕が折れちゃうところだけど、今日はそうは行かないぞ。なんてったって宿題を教える側に立つんだからな。
 普段でも僕が答えをじらしてると睨まれたりするけど、今日はここまでするんだからよほどのはずだ。
 いくらなんでもそこまで強気に出られるはずが。
 はずが。
 はず……が……。
 なんか今西の眼力が止まることを知らないんですけど。どういうことなの。
 いや耐えろ耐えろ耐えろ、ここでビビったら負けだ僕――――――
「戸田くん」
「はい」
 睨み合いの最中にいきなり声をかけられて、びくっとなりそうな体を咄嗟に抑える。
 てか思わずはいって言っちゃった。落ち着け僕。
 さらに今西はずいっと身を乗り出してきた。椅子がギッと傾く。
 まだクーラーが効いているはずの保健室で、まるで太陽が間近に迫ってきたみたいな熱さを感じる。背中がじっとりとし始めた。
「取引しましょ」
「え?」
「あたしに宿題教えてくれたら、あたしからも何か一つ戸田くんにしたげるから」
 そう言って、僕の眼を再びまっっっすぐに見る。
 黒目に映る僕すら見えそうなほどに。
 ――ああ、
「お、おっけ」
 やっぱり駄目だ。
 僕はまだまだ今西に勝てそうにない。

「で、何教えてほしいの?」
 筆箱を机の上に転がし、机に頬杖ついて今西が分からないという宿題を待ち受ける。少し冷たくなった背中が気持ち悪い。
「これこれ」
 今西が封筒から取り出してきたのは、たった1枚のプリント。
「他の宿題はなんとかなりそうだったんだけど、これだけもう意味不明すぎ」
 え、そんな凄いのあったっけ?
 どれどれ――あぁなるほど。
 問題文を見て納得する。これは確かに今西には難しそうだ。
「どう、戸田くんできそう?」
「任せとけ」
 親指びしり。
「さすが戸田くん!」
 ぱちぱちぱちぱち。
「じゃ早速やろうか」
「はーい先生」
 僕も自分の分を鞄から取り出して、この宿題を改めて眺める。
 さて、実際のところこれはそんな難しいものじゃない、はず。
 プリントに書かれているのは、『1 1 1 1 =10』から始まって、『=10』だけが共通で『2 2 2 2 =10』のように数字が一つずつ大きくなっていく式が縦に9個。
 そして『夏休みということで、ちょっと遊びを加えた問題! +-×÷とカッコだけを使って、この数式を完成させてみよう!』という問題文。
 なるほど、今西が混乱するわけだ。こんなの習うわけないもんな。
 えーっと。
「とりあえず『11-1×1=10』でしょ」
 さらさらと僕のプリントに書き込む。
「え、お、おおー!」
 一瞬間を置いて、今西の理解が追いついた。
 ちなみに今西は2桁×1桁の暗算でもかなり時間がかかる。しかも2桁の数が30以上だと筆算に走り始める。
 同じように答えを書いた後、期待に満ちた視線が僕に向く。
 ふふふ任せろ。既に考えてある。
「次は『2×2×2+2=10』と『3×3+3÷3=10』」
 あ、フリーズした。
 目がプリントを見て、上を向いて、またプリントに目を向けて、と慌しく動いている。
「戸田くーん」
「ん?」
「あたしにはこの3の奴の答えが4にしか見えないんだけど……」
 うわ、思ってたよりバカだ今西。
「計算の順番ってあったでしょ?」
「あ」
 それでようやく理解したらしい。
 というか僕がマイナスの計算教えるときに一度教えなおした気がするんだけどこれ。
「つ、次お願いします」
 バツの悪そうな顔で続きをせがんでくる。
 と、よく考えたら僕まだこれ考えてないじゃん。
「ちょっと待って」
 えーっと、4×4……じゃ駄目そうだな。4+4なら、あーだめだ。あと1個4があればいいのに。
 あれ、これ地味に難しくないか。
 隣から不安そうな視線を感じる。大丈夫だから。多分。
 指先が僕の意思と独立してペンを回し始める。今西の興味が徐々にそっちへと移っていくのが悲しい。
 そうやって1分ぐらいが経過したところで、来た。
 ペンがぴたっと止まって、そのまま答えを書き込む。
『44-4÷4』。
「どや」
 改心の出来に思わず韮瀬式でどや顔。
「これカッコつけなきゃ駄目じゃない?」
 あ。
 慌てて修正。あーどや顔し返された。
 こほん。
 仕切りなおし。
「で、5は簡単でしょ」
 こっちは正直考えるまでもない。『5+5+5-5=10』だ。
「おーさすが先生」
 うんまあ面目は保ったってことで。
 で、問題はこの後だ。
 僕はもう4を作る途中で8の答えを思いついている。けどその間の6と7が問題だ。
 このふたつはまだ全く思いついていない。さてどうするか。
「で、次は?」
 せっつかれる。ついでに脇腹もシャーペンでつつかれたので身をよじって抵抗。あーどうしよ。
 悩んでいると、保健室のドアががらがらと音を立てた。
「あら、まだいたの?」
 意外そうな顔をしながら田原先生が席に着く。
「ちょっと戸田くんに宿題教えてもらってるんです」
「お昼時なんだからあんまり遅くなっちゃ駄目よ」
 そう言われて時計を見てみると、12時半に差し掛かっていた。
 確かに思ったより時間が経ってるな。
 よし。
「じゃ、次は8ね」
「え、6と7は?」
「ぶっちゃけまだ考えてない」
 ちょっと速度重視で行こう。
 今度はカッコを忘れずに、『8+(8+8)÷8=10』。
「っと、あーできてる」
 ちょっと混乱したらしいけど、今西も納得できたみたいだ。
 さて、残るは6、7、9。
 6と7はさっぱり検討がつきそうにないから、先に9かな。
 要は9を3つ使って1が作れればいいわけだし。
 てことはえーっと、最後を『÷9』として。
 そうやって色々考えてみたけど、全く思いつかない。
 また右手が僕を無視して遊び始めたけど、さっぱりだ。
 てことは最後を『÷9』にしていた発想が間違ってたのか。まあよく考えたら9を2つで9にするなんて無理が――あ。
 閃きが、来た。
 右手のコントロールを取り戻して、力強く答えを書き込む。
「できた!」
 思わずそんな声が漏れてしまう。
 さっきのどや顔を今に持って来たいぐらいの答えは、『(9×9+9)÷9=10』。
「終わったの?」
「あ、いやまだです」
 田原先生に勘違いされたけどそんなこと関係ないぐらいテンションが上がっている。
 やばい、今ならあと2つもさくっと解けそう。
 と、思ったのに。
 それから5分も経つと、テンションはすっかり元に戻っていた。
 なんだこれ。できる気がしない。
 6と7を交互に考えてみてるけどお手上げだ。
 わざわざ宿題にするぐらいだから解けるんだろうけど、それでも答えが存在するのか疑いたくなってしまう。
 じーっと数式とにらめっこ。答えが浮かんでこないかと――うっ。
 今西がまた脇腹をつついてきた。なんだよ、人が考えてるときに邪魔するなよ。
 しかも僕が反応しなかったのが気に入らないのか、何度もつついてくる。
「あーもう何だよ!」
 堪えきれなくなって、今西のほうを向く。なんか思いつきそうだったのに!
「ねえ、これさ」
 そう言って今西がペンで指したのは4の答え。
「何、間違いあった?」
 そんなわけないけど。
「もしかして全部の式に同じの書けばいいんじゃない?」
「え?」
 全く予想もしなかった一言に、頭が空っぽになる。
 え、えーっと『(44-4)÷4=10』だから試しに6に入れて、『(66-6)÷6=10』。
 あれ?
 恐る恐る7に入れてみると、『(77-7)÷7=10』。
 2回計算しなおしてみたけど、合ってる。
 今西を見ると、それはもう輝くような笑顔を浮かべていた。
「合ってる? ねえ合ってる?」
 反射的に頷く。
 次の瞬間、今西が伸びた。
「いやったぁー!」
 凄い勢いで立ち上がってガッツポーズ。
 声がだいぶ上から降ってくるから恐ろしい。横を見ると脇腹のあたりだし。
 そのちょっと上はあえて見ない。悲しくなりそうだから。
「しかしあれだなー、これは戸田くんいらなかったなー」
「いやそれはおかしい」
 僕がいなかったらまず4の答え思いついてなかっただろ。
「えーでもどうかなー」
 あー腹立つ。てか僕の頭をガシガシすんな。身長差を悪用しやがって。
「はいはい、2人とも終わったんなら帰ったら?」
 パンパンと手を叩いて、田原先生が止めに入ってくる。
 時計を見ると、12時50分。確かにそろそろお腹も空いてきた。
「んー」
 今西は僕の頭から手を離して、
「外超暑そうだし、1時まで涼んでってもいいですか?」
 そのまま手を挙げて田原先生に質問。
「まあいいけど、ちゃんと1時には帰ってね」
「はーい。戸田くんどうする?」
 ん。
 どうしよっかな。
 この涼しさは捨て難いけど、さっさと帰らないと姉ちゃんが僕のご飯をつまみ食いしだすころなんだよな。
 前にオムライスが隠す気0で削られてたこともあったし、あとアイスがなくなる可能性もある。
 うーん。
 でもまあ、いっか。
「じゃあ僕もそうする」
 アイスならまた明日からも食べられる。
 それなら、韮瀬じゃないけどプレミアの今西とあと10分過ごすのも悪くないだろう。
「そっか」
 今西が隣に座りなおす。椅子がまた軋んだ。
 そういや、僕がこのいい椅子に座るようになったのもほんの1ヶ月ぐらい前だっけ。
 これは大きい変化だったけど、それを除けば僕たちは最初からほとんどやってることが変わってないなと、ふと思った。
 勉強教えて、つまんないことを話して、たまに戦って。
 ほとんど僕が負けて、は不本意だけど。
 そんな関係がどれくらい続くんだろうか。
 できれば、教室で同じようにふざけあいたいなとは思う。
 そしたら他のみんながいて、もっと楽しくなるかもしれない。
 でも今西がそれを望まないなら、別にこれだって全然構わないのだ。
 今西のほうをちらりと見る。目が合って、お互いちょっと笑う。
 何故か僕も今西も口を開こうとはしなかった。
 もうすっかり慣れてしまった薬の匂いと、少しぬるくなってきた気がする空気と、窓越しのセミの鳴き声。
 それらが僕達を取り巻いて、不思議と満ち足りた気持ち。
 保健室とも今西とも今日から40日ほどお別れだ。
 名残惜しくないって言えば嘘になるから。
 もう少し、このまま。

       

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