Neetel Inside ニートノベル
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 無茶だった。
 走り出した時はこのまま家までいけるかと思ったけど、何もかもが足りなかった。
 5分もしないうちに頭がいつもの感覚でなくくらっときて、これはまずいとその辺の自販機でアクエリを買って飲んで(このせいで今月の小遣いまで漫画をフルで買えなくなった)、それでも家に帰る頃にはまた水が飲みたくて仕方がなくなった。
 母さんが帰ってきていてクーラーがついてなかったら家に帰ってきた時点で死んでたかもしれない。
 けど、そのせいでまた別の問題が発生した。
 もう少し母さんが帰ってこないと思って今西の電話番号を覚えたのに、これじゃ電話をうかつにかけられない。
 仕方なく麦茶を2杯とアイスを1本補給して、凄いことになってるTシャツを着替えてしばらく涼んでいるふりをして待ってみたけど、母さんは雑誌をめくり始めてリビングから動きそうにない。
 困った。
 明日以降に回せばいい、というのは分かってるんだけど心が言うことを聞かない。
 何が何でも今日中に話をつけてしまいたい。
 電話の子機があればいいんだけど、僕ん家のは去年充電器が壊れちゃって、直していないから使えない。
 となると――――やっぱり、やるしかないのか。
 もしかしたらいなくなるかも、という淡い期待を込めて少しソファーの上で他の案を考えながら待ってみたけど、どうしようもなくて。
 覚悟を決めて、僕は階段を上り始めた。
 クーラーをかけていると、上っている途中で明らかに空気の層が変わるのが分かる。
 暑さに包まれながら上ってすぐにある扉をがちゃりと「ノックしろっつってんだろ!」姉ちゃんはスルーして開けて、漏れ出る冷気を感じながら中へ。
「なに淳平、クーラー消せって?」
 うちの家ではクーラーは同時に2つまでしかつけちゃいけないってことになっている。しかもリビング優先って決まりがあるから、姉ちゃんは僕が部屋で涼みたくて来たと思ったらしい。
 けど、僕の目的はそれじゃない。
 すたすたとベッドの上の姉ちゃんに歩み寄って、
 がばりと。
「……何してんの?」
 恥も誇りも捨てて、土下座した。
「頼みがある!」
「断る」
「そんな大したことじゃないから!」
「やだ」
 背中にグリッとした感触。
 姉ちゃんめ、僕の背中を踏んでやがる。
「土下座とか大したことあるの丸出しじゃん。そんなんに騙されるほどバカじゃないから」
 背中をうりうりされる。
 腹立たしいし踏まれてるところが暑いけど、土下座の姿勢は崩さない。
 姉ちゃんも予め払われること前提の体重のかけ方をしてるけど、あえてそのまま。
「……あんた大丈夫?」
 言いながら踏むんじゃない。
「だから、お願いがあるんだって」
 顔を上げていないせいで、自分でも聞き取りにくい声だとは思う。
「ふーん」
 しばらく背中の上で足が動いた後、
「ま、いいや。言ってみ」
 かかっていた力がなくなった。
 ここぞとばかりに、僕は顔を上げて
「携帯を貸してください!」
 叫んで、再び土下座の姿勢。
「は?」
「ちょっとどうしても電話したいことがある! だから貸して!」
「え、いや、リビング使えよ」
「それはできない!」
「高らかに叫ぶな。――とりあえず、顔上げなよ」
 がばっ。
「で、誰にかけんの?」
 やっぱりそれは聞いてくるか。
 けど、僕のほうが上手だ。
「いやそれは言えない」
「言わないと貸さない」
「じゃあ言ったら貸してくれる?」
 ぐ、と言った顔の姉ちゃん。よし引っかかった。
「――分かった、貸すから教えて」
 そして、ここが勝負。
 じっくりと、悩むふりをして。
 あの頃の気持ちを思い出しながら嘘をつく。
「野口に、なんだけど」
 恥ずかしそうに見えてるといいんだけど。
 色んな事でどきどきしながらちらりと姉ちゃんに視線をやると、その目はぎらんと輝いていた。
「何どういうこと!? 野口ってあの子っしょ、あんたの好きな!」
「声でかい!」
 ……思い出すのも恥ずかしい話だけど。
 僕は入学式の前の日、なんというか小学校時代の思い出に猛烈に襲われて卒業アルバムを開いてしまったのだ。
 それだけならまだしも、その、迂闊にも扉を開けてクラスのページを見ながら「野口……」と呟いていたら、それを絶妙なタイミングで部屋に忍び込んできた姉ちゃんに聞かれた。
 それからはもう絶望しかなかったので忘れた、ことにしたい。
 あの時は本当に死にたいと思ったけど、何が役に立つか分かったもんじゃない。
「え、え、つまりそれって、そういうこと?」
 どういうことだよ。
 心の中ではそう思いながら、とりあえず頷く。
「えー、わー、うひゃー!」
 ベッドの上で悶え始める姉ちゃん。大丈夫か。
「オッケーオッケー分かった、そういうことなら貸す貸す! いやー、そうかぁー、あんたにも遂にねぇー、大きくなったもんだ」
 なぜか年寄りじみた口調で、姉ちゃんが枕元の充電器から携帯を引っこ抜いて投げてくる。
 慌てて膝立ちになってキャッチ。
 なんか勘違いされてるのがちょっと悲しい気もするけど気にしない。
「あのさ……これ、僕の部屋でかけてもいい?」
 そう言うと、姉ちゃんの笑みがいつかの今西みたいになった。滅茶苦茶楽しそう。
「あーいいよいいよ、好きにしなさい」
 言ったな。
「んーいいねー若い子は。あたしぐらいになるともう電話くらいじゃ興奮しなくなって」
 さらりと惚気るんじゃねぇ。
「電話ってあの写真の人と?」
「そーそー。毎日クラスでお弁当一緒に食べる関係よ」
 何をどうやったんだそれ。
「じゃ、じゃあ借りてくから」
「分かってると思うけど電話以外のことしたら殺す」
「それはよーく分かってるって」
 そんなことしてる余裕があるかも分からないし。
 上機嫌で手を振る姉ちゃんを尻目に、ドアを閉めてまた蒸し暑い外。
 そういえば、クーラー切るのも一緒に頼めば
「あ、クーラー切っといたからそっちで涼しくしなさい」
 ドアが開いて、首だけの姉ちゃんがそう言うとすぐに引っ込む。
 ……これ、バレたら後が怖いかもしれない。

       

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