Neetel Inside ニートノベル
表紙

越えられない彼女
firstest

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「めんどくさいー」
「めんどくさくてもやるの」
 机の上に突っ伏す頭を軽くはたく。
 6月に入ってから1週間が過ぎて、雨は全然降らないけど僕たちの前にはひとつ大きな課題が降ってきた。
 いわゆるテストってやつだ。
 毎回漫画だけ読んで捨てちゃう通信教育の勧誘には『中学校のテストは甘くない!』だとか書きたてられてて、どうせ脅し文句だとは思うけど少しビビってたりもする。
 実際、1年生の最初なんだからそんな難しいことをやるわけじゃない、よね?
 英語とか、アルファベットの大文字小文字が書ければいいとか言われてるし。
 こんなんじゃ勉強がめんどくさいってのは分かるけど、だからって勉強しなくてもいいってことじゃないだろう。
 数学できないしな、今西。
「そもそもテスト前だからって勉強するのがまちがっとるんじゃー」
「「それは違う」」
 田原先生にまで責められて、さすがの今西も起き上がる。
「だいたいー、あたしはちゃんと戸田くんから毎日ノート借りて勉強してるしなんとか」
「ならない」
「むー」
 ふてくされながらノートに目を戻す今西。
 気持ちは分かるけども、今西は授業を受けてない。
 マイナスは確かにあるんだから、ちゃんと頑張らないとダメだ。
 というか、テストを受ける意志まであるなら普通に教室にいればいいのに。
 その辺は、いやここだけじゃなくて、いくつも不思議な点はある。
 けどまあ、
「わっかんないー!」
「はいはい」
 とりあえず、そういうのは保留で行こうと思う。
 そのうち、聞けそうになったら聞くぐらいが一番心地いい関係を続けられそうだし。
 椅子の下に手を回して持ち上げて、一歩分今西のほうへ移動。
 ノートを覗き込むと、教科書の問題を解いてたみたいだ。2つの丸と、3つのバツが描かれている。
 丸は最初の2問。そして、今西はバツのついている残りの問題のところを叩くと、
「何度も聞くけど、なんでマイナス×マイナスはプラスになるのー!」
「いや何度も言うけど、なんでとかじゃなくてそうなるんだってば」
「そんなの認めない」
「認めろよ」
 そんなところに腹を立てられてもどうしたらいいのか分からない。
「納得のいく説明を求める」
「自分で考えろって……」
 理不尽にも程がある要求だけど、こいつに睨まれると弱いんだよなー。
 いつか勝てるようになりたい。
 ペン回しをしながら、理由を考えてみる。東郷先生なんて言ってたっけなー。喋るの早すぎて何言ってたか覚えてないんだよなー。
 一応、ノートをめくってなんて書いてあるか確認してみる。
 先生独特の『重要』と書いて円で囲んで下線を引くという滅茶苦茶気合の入った項目には、『かけ算、割り算は符号が同じならプラス、違うならマイナス!』とだけ書かれていた。
 役に立たねぇー!
 あと、右上には『カエル=守口』という謎の等式がカエルの絵と一緒に書いてあるけど、これマジでなんだっけ。
 すごく気になる。えーっと、これは5月8日の授業か。
 もっかいペン回しをしながら、頑張って思い出そうとしてみる。
 あーっと、そうだ確か、
 ぺしん。
 ペンをいきなりの衝撃で取り落とす。
 ぐったりしていた今西がいつの間にか起き上がって、僕の後頭部をお返しとばかりにはたいてきていた。
「何すんだよー!」
「そっちこそ何してんの! 明らかになんか別のこと考えてる顔!」
「え、分かるの?」
「やっぱりかー!」
 うわ引っかかった!
「ごめんごめん、ちょっと気になることがあって」
「そんなん後でいいから教えてよー」
 机の下で脚ぶんぶん。田原先生に当たらないように振れ幅は小さく。
「わかったわかった。えーっと、」
 けど何も考えてないぞ。
「まず、マイナスがあるだろ」
 勢いで喋りだして、ノートの上に一本横棒を引く。さあ、ここからどうしよう。
「うん」
 今西もそれがどうしたって顔でこっちを見ている。
 さて、何も考えてないけどどうするかな――――あ、そうだ。
「で、もう一個マイナスがあるだろ」
「うんうん」
「で、このマイナスとマイナスが」
 矢印を書いて、横棒を2本並べる。イコール違うよ。
「こうなる」
 それぞれから矢印を伸ばして、片方の先はそのまま横棒に、そしてもう1本は縦棒に。
 できたのは有り体に言えば、プラスってやつだ。
「……えっと、つまりマイナスが二つあると片方縦に突き刺さってプラスになる、と」
「です」
 これが今の僕にできる精一杯の説明、うわ今西の視線が冷たい。
 やめてー。その目やめてー。
「戸田くんに期待したあたしが馬鹿だった」
「うっさい!」
 ちくしょー、無茶振りされて被害者は僕なのになんで僕が悪いみたいになってるんだー。

「いやー、覚えとくわー。マイナスとマイナスがあったら――」
「もうそれはいいだろ!」
 4時45分、僕たちは保健室を出て上履きを履き替えていた。
 普段は今西が運動部の下校と鉢合わせしたくないそうでもうちょっと早いけど、今はテスト1週間前で部活が休みだからこの時間でもいいみたいだ。
 今西は同学年じゃなくても、誰かに姿を見られるのが嫌いみたいで、僕以外の誰かが来るとできるだけ注目されないようにか、小さくなっている。
 けど多分割とどうしても目立つと思うんだよなー。
 僕みたいに保健室慣れしてて『離籍しています』って書いてあっても入ってくるような奴はそうそういないみたいだから、二人きりみたいなことには僕以外至ってないらしいけど。
 靴を履いて、校舎を出る。
 僕たちは門を出るまでは一緒で、そこから先は僕が右、今西は左の道を通って帰る。
 こうして肩を並べ、いや歩幅を合わせて――――なんでどっちも適切じゃないかなあ。
 とにかく、一緒に歩くのはほんの短い距離だ。
 当然、あっという間に歩ききって、
「んじゃー」
 まだ暮れ始めてすらもいない、白い月の浮かぶ空。
 門の前でお互いに手を振って別れる。
「じゃーねー」
 また明日、保健室で。

     

「ただいまー」
 あれから歩くこと30分、ようやく家に着いた。
 小学校までは5分ぐらいだったのに、学区とやらは本当に訳が分からない。
「おかえりー」
 返ってきたのは姉ちゃんの声。あれ、母さんいないのかな。
 まあいいや、とりあえず着替えよう。
 玄関上がってすぐの階段を上って、『YURINEのへや☆』と書かれたプレート(隅っこのほうに『無断入室禁止!』と書かれているけど、姉ちゃんはしょっちゅう僕の漫画をかっさらっていくからお互い様ということでこれは無視することにしている)の下がっているドアの先。
 大抵半開きになっているドアを鞄で押し開けて部屋に入ると、鞄を放り出してベッドに倒れる。
 長年のベッドに倒れる生活で鍛えられた僕の身体は、今日もジャストな感じで横になった。
 しばらく何をするでもなくごろーっとしてから、のそのそ起きだして着替え。
 いつも掛けるように言われてるけど制服はまた床にぐちゃっとほったらかして、ワイシャツを洗濯かごに投げ込みに下に戻る。
 そのままリビングに向かうと、姉ちゃんはいつも通りソファーにだらーんと制服のまま寝っ転がって雑誌を読んでいた。
 母さんに怒られても、姉ちゃんはめんどくさいからといつもお風呂に入るまで制服のままだ。
 僕は正直、制服はなんか息苦しくて嫌いなんだけど、姉ちゃんに言わせれば「5年も着てりゃこれが当たり前になる」そうだ。
「母さんはー?」
「知らないー。帰ってきたときにはいなかった」
 それだけでどうということもなく会話は途切れて、僕は台所へ行くとおやつの置き場所、食器棚の一番左下をのぞく。
 3本で1パックのみたらし団子があったから、出してきてシールを破くと1本取り出して銜えたまま姉ちゃんのところへパックを持っていく。
 母さんはこの団子が大好きで、昔からしょっちゅうおやつとして食べていた。
 僕たちだけで留守番するときとかもよく置いて行ってくれるけど、そのときは必ず一串残しておかないと怒られる。
「はへふー?」
「んー、って淳平タレ垂れちゃうでしょ気ぃつけて! いい加減覚えなさい!」
 そして、昔からこうやって何も受けずに食べてると母さんか姉ちゃんに怒られる。
 僕は長年食べ続けた結果、タレを垂らすことなくこの団子を食べきるスキルを会得しているにも関わらず、だ。
 毎回試してみてるけど、未だに彼女らが僕の特殊技能に気付く様子はない。
 この二人と口喧嘩するのは疲れるので、今日も団子の一つ目を咀嚼しながら姉ちゃんにパックを渡してわざわざ皿を取りに戻る。
「お姉ちゃんの分のお皿もちょうだいー」
 めんどくさいなーもう。
 戻ると、いつのまにか姉ちゃんは雑誌の上にパックを置いて寝たまま携帯をいじっている。なんか無性に腹立つなー。
「はい」
「ん」
 皿を受け取って、視線をすぐ携帯に戻す。そこに座りたいという視線を向けてみたけど画面に夢中だ。
 仕方がないので胴体の上に座ることに「んぎゃ!」弾き飛ばされた。
「痛いわ!」
「座る場所なかったんだよ!」
「言ってから座れ!」
「言ったら座っていいのか!」
「いいわけねーだろ!」
 姉ちゃんが鼻をふんと鳴らして起き上がり、パックから団子を取り出す。スペースが開いたのでソファーに「こら」蹴られた。団子落としかけた。
「危ないな!」
「誰が座っていいって言った!」
「座るから言え!」
「断る!」
 また脚で追い払おうとしてくる。スカートにも関わらずパンチラへの躊躇いのない動き。けど姉じゃ嬉しくないわ。
 なんかもうアホらしくなってきたので、立ったまま団子をもぐもぐ。姉ちゃんももぐもぐ。でもこっちに隙を見せないのが大人気ないというか。
 毎度のことながら4つ目を上に持ってくるのに少し苦労しながら、食べ終える。皿は結局下に受けてはいたけど何の役にも立たなかった。戻しに行こう。
「じゅんぺー」
 で、こういうタイミングを見計らってるのかこいつは。
「あたし3つでいいんだけど、最後の1個食べない?」
 4つ目だけ残った串を「鉛筆が曲がるー」って遊ぶときみたいにぶんぶんしながら、差し出してくる。
「なんでそうめんどくさいところを」
「食べられるんだしいいじゃん。てか逆から持てば?」
「基本汚い食べ方にうるさいのになんでそこだけ妥協してんの……」
 口では文句を言いながら、実際にそのほうが楽なので尖った方を持って、逆さから団子を引っ張っておいしくいただく。
 うぇー、指がべたってなった。洗わないと。
「お皿ー」
 ナチュラルに渡してくるから嫌だわこの人ー。
 汚れている姉ちゃんのほうの皿に串を乗せて、綺麗なほうの手で皿を流しまで持っていって片方は流しへ、串を捨てながらもう1枚は食器棚へ。
 自分の指も流しで水を出して、べたつきが取れるまでこする。あーもう、やっぱり多少苦労してでも普通に食べるべきだったかな……ん。
 そういや。
「姉ちゃんー」
「なにー」
「今みたいに串持った場合って、間接キスって言うのかね」
 うわ、なんだこいつはみたいな目でこっちを見てきた。
「訳わかんない。そもそも指じゃキスしてないじゃん」
「あ、そういや」
 我ながら何言ってるんだろう。
「というかそんなこと気にしなくても団子は明らかに間接キスでしょ。問題にするならそっち」
「いや別に問題ってわけじゃないんだけど」
「何、好きな子でもできたのー?」
「は? マジでそんなんじゃないから」
「お、キレた怪しい。誰よ? 同じクラス?」
 駄目だこいつ、話を聞いていない。
 好きな子なんて2年前に出来たのが最後だっての。
 ……野口、元気かなぁ。
「ほんと違うって」
「まあまあ、ここは恋の先輩ゆー姉に任せなさい」
「うっせぇ!」
 昔の呼び方を持ち出すな恥ずかしい!
「ほら、成功例。あたしの彼」
「いたの!?」
 思わずダッシュで流しから、こっちに見せている携帯の画面の前へと移動。
「内緒ねー」
 照れくさそうな顔しやがって。
 画面に映ってるのは明らかに目の大きさとかが別人の姉ちゃんと、なかなかイケメンの男。もちゃっとした天パっぽい髪に銀縁の眼鏡で、どっちかと言えば賢そうなイメージだ。
「あたしに相談すればたちまちあなたもこんなラブラブカップルに」
「自分で言うな」
 うすうす気付いちゃいたが、実は惚気たいだけだろ。
「まあまあ、あたしから言わせてもらえばやっぱり男は賢さよ。特に数学ね。もう数学とか教えてもらえばもうズキュゥゥゥゥンよ」
「だから自分のことを言うなっての。あといまどきズッキュンはない」
 第一その理屈で言ったら今西がだな。
 そんな訳は――――ない、よね?
 もしそうなら、うーむ。とりあえず僕を手玉に取ろうとはしない、はずだよなぁ。
 やっぱりないない。
「もうね、とにかくメロメロのゾッコンなわけよ。声がまたかっこいいこと」
「それ完全に自分の話じゃんよ」
「えーでもねー、ちょっとこれ見て」
 僕の服の裾を掴んで、何やら写メを見せようとしてくる。
「いらないわそんなん!」
 無理やり振り払うと、リビングを飛び出して階段を駆け上がる。
 あれは終わらない流れだ。
 我が姉ながらアホじゃないのか。

     

「なんでこのタイミングなんですかー」
「しょうがないだろ、学期の初めに決めちゃったんだから」
「テスト終わってからでもよかったんじゃ」
「文句言うな、とっとと分担決めろ」
 筒井がぶちぶち言いながら、妹尾先生の元を離れて僕たちの輪に加わってくる。
 うちのクラスの掃除当番は、出席番号順に9人ずつ(正確には1つ目が10人なんだけど)で4班に分けられている。
 掃除場所は教室と事務室で、それぞれに1班が配属されて1ヶ月経つと掃除場所を入れ替えてもう1ヶ月掃除。
 2ヶ月経つと、残りの2班と交代するという形だ。
 これはだいぶひどいシステムだと思うんだけど、妹尾先生のこだわりらしい。訳分からん。
 ということで、水曜日にもかかわらず掃除場所の交代が行われて、今日から僕たちは教室の掃除をすることとなった。
 既に机は教室の前半分に片付けられて、後ろの広い空間で円になって役割分担のジャンケンを始める。
「んじゃ、ジャーンケーン」
 役職は箒がけが2人、窓枠を拭いたり黒板を綺麗にしたりするのが1人、床拭きが6人。当然床以外を狙いたいところだ。
「ポイ!」
 僕の手はパー。周りでも、大体の手がバランスよく出ている。
「あーいこーでしょ!」
 変わらず、パー。人数が多いせいか、またあいこ。
「あーいこーでしょ!」
 今度はグー。やっぱりあいこだ。
「待った待った待った、これ勝負つかなくね? 男女で分かれようぜ」
 面倒臭くなったか、筒井が手を挙げて、新たな競技方法を提案する。
 もしかすると、男子4人に対して女子5人だから勝ちやすいという打算をあるのかもしれないな。
「いいけど、男女で勝ち負け決めた後どうするの?」
 口を挟んできたのは韮瀬……じゃなくて、近本さん。
 最近韮瀬よりも色々とうるさい女子だ。
 この場合の「うるさい」というのはただ単純にうるさいというのもあって、個人的にはあんまり好きなタイプじゃない。
「1回勝った奴だけで決勝やって決める。それでいいだろ」
「んーまあ、いいけど」
 ということで、男子でのジャンケンだ。
「ジャーンケーンポイ!」
 今度はチョキを出してみる。
「えー、何だよそれ!」
「戸田っち一人勝ちとかないわー」
「うわー負けた」
 残りの3人は、なんと全員パー。
 筒井が頭を抱え、乃木はなぜか僕を責め、梨元は肩を落とす。
「代われよー」
「やだよー」
 筒井が近づいてくるが、余裕のスルー。
「じゃあジャンケン1回やって負けたら代われよ」
「いや訳わからない」
 乃木はもう意味分からないからスルー。
「そっち誰勝ったー?」
 そこに、近本さんが近づいてくる。
「聞いてよチカさー。なんか戸田っちが空気読まずに一人で勝ち抜いちゃってんのー。しかも代わってくれないし」
「えー、マジで一人!? 強っ。こっち3人もいるのに」
 乃木の台詞の後半をスルーしながら、近本さんが目を見開いて驚く。この人、この表情になるとめっちゃ眼球飛び出てて怖いんだよな。
「じゃ、決勝やろー」
 残ったのは僕、苗木さん、近本さん、韮瀬だ。なんだこの女子率。
 韮瀬以外とはあんまり親しくないので、場にどうしよっかという視線が少し飛び交う。
「はい、じゃあ決勝行くよー」
 沈黙を破ったのは韮瀬。うんナイス。
「ジャーンケーンポイ!」
 出された手を見て、一瞬時間が止まる。
 まさかの、全員チョキ。
 おお、という空気が一瞬生まれた後、韮瀬のあいこでしょの声で掻き消される。
 次に出したのは僕がパー、周りはパーグーパー。苗木さんの負けだ。
「あー……」
 自分の出したグーを見つめながら、少ししょぼんとする苗木さん。なんか申し訳ない気分になってきた。
 あー、今西もこれぐらいだったら可愛げがあろうというものを。
 正直もう床拭きでないのは確定しているので負けてもよかったんだけど、なんと最後のジャンケンでも僕は勝ってしまった。
 近本さんが負けたから韮瀬と一緒に――――はちょっと違うな、韮瀬と共同で掃き掃除の担当だ。
 とりあえず、教室の後ろの掃除ロッカーから箒を2本出して片方を韮瀬に渡す。
「さんきゅ」
「分担どうする?」
「半分ずつやろ。あたしあっちやるから」
 そのまま返事も聞かずに箒をかけにいってしまったので、僕もそれに従う。まあ異存はないんだけど。
 雑巾を濡らしてきた拭き掃除組の視線が早くしろとせっつくのを感じて、少し雑に箒を動かす。
 掃除ってのは手を抜くと早く終わるもので、教室の4分の1はあっという間に掃き終わった。
「早くしろよニラー」
 対して、韮瀬は割ときちんとやってるみたいで、当然僕よりは遅くなる。
「あとちょっとなんだから待ってよ!」
 乃木の催促に、韮瀬は少し苛立った声で返す。
 やっぱり、前より調子が落ちてる気がするんだけど気のせいかなあ。
 既に二人とも掃き終わったところを、次々と雑巾がけ担当が走っていく。
 5往復で終わりらしいから、みんな早く終わらせようと一生懸命だ。
「……と」
 そういや、ちり取り持ってきてないや。
 拭き掃除をしているところにぶつからないように、掃除ロッカーへ。
「うおっ、危ね」
「あ、ごめん」
 扉を開けたせいで、梨元がぶつかりかかったみたいだ。ちり取りと小箒を取り出して、慌てて閉める。
 再び床を飛び回る弾丸を避けて、ゴミを集めてある机と机の隙間に戻る。
 韮瀬が僕の分と自分の分をまとめてくれた山をザッと掃き取って、ゴミ箱へ捨てに行く。
 そうしたらもうすることもない。みんなが5往復し終わるまでぼんやりとその様子を見る。
 みんな次々と終わっていくけど、苗木さんと梨元が特に遅い。二人とも文化部だし、単純に足腰の問題なのかな。お、終わった。
 二人はベランダに置かれているバケツで雑巾を洗いに行っているけど、お構い無しに僕たちは机を運び始める。
 妹尾先生は引きずるなって言っていたけど、今は他の掃除場所の見回りに言っているせいかみんなやりたい放題だ。
 教卓は2日に1回でいいと言われているので今日は運ばずに、また掃きと拭きの追いかけっこが開催される。
 また僕が早く掃き終わって、先に自分の分のゴミを取っておく。
 ちょうど取り終わった頃に韮瀬がゴミを持ってきた。ナイスタイミング。
「ごめんよろしくー」
「はーい」
 僕のほうには消しゴムが落ちていたりしたけど、韮瀬のほうにはそんなものはなかったみたいだ。ちゃっちゃと取って、ゴミ箱へ。
 また机のほうに移動して、今度は机で半ば塞がれた掃除ロッカーを四苦八苦しながら開けて、僅かな隙間から箒を放り込む。
「韮瀬それ貸してー」
「あ、いいよ。ウチはあとで掛けるから」
 どうやら、わざわざロッカーの中のフックに引っ掛けるつもりらしい。やってる奴なんていないのに。
「いいじゃん、転がしとけば」
「だからー、ウチはそういうの嫌なの」
 そういや、そんなこと言ってたっけ。
「韮瀬、真面目なんだなー」
「真面目じゃないし。ちゃんとさせたいだけ」
 いや、そういうのを真面目って言うんじゃないのか。
「環奈そこ通して」
「あ、ごめん」
 気がつかないうちにみんな5往復を終わらせてたみたいで、南風原さんが雑巾を洗いたそうにしている。
 掃除ロッカーの前というのはベランダへの扉がある場所でもあるので、僕も邪魔になるな。
 南風原さんとすれ違うようにして狭い机と窓の間を通って、一旦この狭いところから抜ける。
 続々と雑巾がけが終わっていて、今度は机を元の位置に戻すための移動が始まった。

「今日はどしたのー?」
 いつもより遅く登場した僕に、今西がポニーテールを揺らして振り返りながら聞いてくる。
「今日から掃除当番でさー」
「えー、テスト2日前なのに?」
「訳わかんないだろ」
 少し傾いた椅子(最近慣れてきた)に座って、鞄から理科の教科書を取り出す。
「で、覚えた?」
「バッチリ。100点取れそう」
「顕微鏡のパーツの名前だけで問題出してくれればね……」
 八重先生は10点分は確実に出すって言ってたから、無駄ではないだろうけど。
「んじゃ導管と師管はどっちがどっちかわかる?」
「えーっ、と?」
 駄目だこいつ。
「いやー、顕微鏡覚えるのに時間かかって」
「覚えるの苦手だもんなー」
 国語はできるって言ってたけど、漢字はできないみたいだし。
「じゃ、一個一個おさらいしてくよー」
「はーい」
 ピシッと手を挙げていい返事。背筋を伸ばしたせいで、ただでさえ差のある座高が更に開く。
 なんか本人が言うには計算したら身体の半分以上が脚ってことになってたみたいだけど、それでもこんなに差があるってのは納得できない。
「ん、どうした戸田くん」
「いやでかいなーって」
 改めて全身を見直すと、そう感じる。モデル体型っていうのかなーこういうの。
 顔もまあかわいいし、この性格を晒さずにやっていけるモデルならいけるんじゃないか結構。
「……本当にどうした戸田くん」
「お前の将来を考えてた」
「一体何を!?」
「え、まあ」
 モデルとか言えるか。
「結婚できそうにないなーって」
 さらりと誤魔化そう。実際割と本音だったりする。こんなのと結婚したら大変だぞー。
「ちょ、ちょっとどういうことだー! あたしにだって婿の一人二人来るわ!」
「二人はまずいな」
「追求すべきはそこじゃねぇ!」
 なら嫁に行く気がないところか?
「まあ、相手探し頑張れ」
「じゃ戸田くんどーう?」
 一体何をおっしゃっているんだ。
 だが僕はこの2ヶ月で鍛えたスルースキルがある。またどうせ、これで僕をからかって遊びに来ているんだろう。その手は食わないぜ。
「それは愛の告白ってことでいいの?」
「んふふ、どうでしょう」
 悪い笑み。これは嘘をごまかす時のパターンだな。
「じゃ、その件は保留して勉強に戻ろうか」
「えー」
「女は賢い男が好きって言うだろ」
「そんな人見たことないよー」
 姉ちゃんの恋愛論は一瞬で否定される。
 ですよねー。

     

「……あー」
 ずっしりとした身体の重みと共に、目が覚めた。
 ベッドの上で寝返りを打って、呻く。
 この症状は季節の変わり目には時々あることで、大体昼ぐらいまでずっとこのダルい感じが続く。
 いつもと違って寝ても直らないし、今までなら学校を休むところなんだけども。
「テストだしなぁ……」
 無理やり起き上がって、制服に着替える。
 一応今日まで頑張ってきたんだ、無駄にはしないぞ。

 なんて思ったのが馬鹿だったんだ。
「戸田、保健室行くか?」
「はい……」
 机でぐったりしてたら、健康観察をするどころか始業前に保健室に送還された。
「失礼しまーす……」
 扉を開けると、今西がびくっとして身をちぢこめながらこっちを見て、すぐに肩の力を抜く。
「何、遅刻しそうになって走ったの?」
 軽口を叩いてくるけど、ちょっと返すだけの余裕がない。
「寝る?」
 田原先生がカーテンを開けてくれたので、いつも通りにベッドに寝転がる。
 といっても、今日は眠くならないんだよなぁ。
 小さく寝返りを打っていると、いつもと様子が違うことに気付いたのか先生が枕元にやってくる。
「眠れない?」
「眠れないっていうか、寝ても直んないんです。ずっとだるい感じで」
「家帰る? 親御さんに連絡しようか?」
「いえ、テスト受けます」
「そう。でも無理しちゃ駄目よ」
 田原先生が心配そうな顔で、机に戻っていく。
 ちょうど席についたタイミングで、始業を告げるチャイムが鳴った。
 パタパタという、階段を慌てて駆け上がったり廊下を走ったりする音が聞こえてくる。
「こらー、早くしろテストだぞー!」
 聞いたことのない先生の怒鳴り声もドアを通してなかなかの声量で響いてくる。
 牧橋が時々「変なオヤジが超うるさかった」って言ってるのはこれのことか。
 思えば、朝から保健室にいるのは初めてなのでなかなか新鮮だ。
「こぉら塗田、今日ぐらいはちゃんと来い!」
「すいませーん!」
 女の子が叫びながら凄い勢いで走っていくのが聞こえて、思わずくすっと笑う。
 それに気付いたのか、今西がベッドに椅子ごと寄ってきた。
「あの人ねー、大体1週間に1回か2回は遅刻してくるの。その度にああやって『すいませーん!』って」
「家が遠いのかなぁ」
 僕はかなり早めに出てるから遅刻したことはないけど、30分は辛いんだよなー。
「かもねー。うちもチャリ通できればいいのに」
「んー、僕は乗れないから関係ないな」
「え、乗れないの!?」
 今西が信じられないという目で見下ろしてくる。そうだよ悪いな。
「遊びに行くときとかどうしてたの?」
「普通に歩きで」
「えー、絶対乗れたほうが便利なのに」
 僕だってそう思うさ。
 練習すれば乗れるようになるんだろうけど、めんどくさいというか。
「うちに多分まだあるけど、補助輪いる?」
 そこまでじゃねーよ!
 そう言おうとしたところで、保健室のドアがノックされる。
 たちどころに、今西は席を立つとカーテンを少し引いてそこに隠れるようにする。
「失礼しまーす」
 ん、この声は。
 ガラガラとドアを開けて、人が入ってくる。
「戸田は大丈夫ですかね?」
 やっぱり妹尾先生だ。
 ベッドは入り口側に枕があるので、今西がカーテンを引いたせいで僕が見えてないみたいだ。
「そこで寝てますよ」
「おお、どうもです」
 回りこんで、妹尾先生が顔を見せる。
「なんだ今西もここにいたのか。戸田、調子はどうだ? テストは受けられるか?」
「まあまあです。とりあえず受けてみます」
「そうか。じゃあ後で用紙2枚持ってくるからな。無理はするなよ」
「すいません」
「まあどうせ今西の分は持ってくるんだからな。どうだ今西、自信は?」
「そこそこありますよー」
「英語は?」
「ないです」
「そこは嘘でもあるって言ってくれよ、俺がしょんぼりするだろ」
 笑いあう2人。なんだ、仲良かったのか?
「戸田はどうだ? 英語はできそうか?」
「んーあんまり」
「お前らは!」
 泣き真似をした後、すぐに笑顔になる妹尾先生。顔だけ忙しい人だな。
「じゃ、すぐ持ってくるから。カンニングすんなよ」
「ばれるようにはしませんから」
「こら」
 笑いながら、先生が保健室から出て行く。
「何、あんなに仲良かったの?」
「仲が良いってのとはちょっと違うけどさー。時々保健室来るからちょっと話したりはする」
 椅子に座りなおして、今西がベッドの脚を何故か蹴りながら返事をする。
「へー」
 結構知らないことだらけなんだな、普段の今西。
 前に聞いたときは、時々図書室に行ったりもしてるって言ってたし、結構楽しんでるのかもしれない。
「なんか今日は色々面白い話聞けたなー」
「かもねー。そういや戸田くんがベッドで起きてるのも始めてだし」
「そうだっけ。てかテスト受けるから起きないと」
「うんうん。いつも寝顔眺めてても気付かないし」
 身体はやめろと言っているけど、それを無視して起き上がる……え?
「ちょっと待った」
「ん、何?」
「寝顔を眺めてるってどういうことだ」
「え、まあその」
「まあそのじゃないぞ」
 超恥ずかしいじゃないか!
「はーいお待たせ」
 追求しようとしたところで、妹尾先生が封筒を手に持って現れる。
「あ、来た来た」
 ぴょこんと椅子から立ち上がって、逃げるかのように妹尾先生に近づいていく今西。
 本当に、普段のこいつは知らないことだらけだ……。
 こうなったら問い詰めても無駄そうなので、諦めて今西の置いていった椅子を机まで運んで、ぐったりと座る。
「本当に無理するなよー」
 妹尾先生がテスト用紙を裏返して置いてくれる。その後、持っていた封筒を田原先生に渡して、部屋を出て行った。
 時計を見る。開始10秒前。ってことは、あと30秒の余裕が……あ。
「今西」
「ん、なーに?」
 とぼける気満々の顔。けど今はそれどころじゃない。
「消しゴムと鉛筆貸して」
 僕の筆記用具は、教室に置いてきた鞄の中だった。

     

「えっ、ちょっと」
「ごめん、何も持ってなくて」
「もっと早く気付いてよ!」
 慌てて筆箱の中を漁りだす今西。
 消しゴムがなかなか出てこないみたいで、ちょっと頑張って取り出してくれている――あ。
 間に合わずに、チャイムが鳴った。
 ようやく消しゴムを引っ張り出した今西は、どうしようかといった様子で田原先生を見る。
 先生はしかたないわねという顔で頷いてくれた。
 それを見た今西はちょっと強い勢いでシャーペンと消しゴムを転がしてきた。
 手で止めて小さく感謝の意を示したけど、こっちを気にすることなくテスト用紙をめくり始めていて、ちょっとへこむ。
 ただでさえ体調が悪いのに、もう一段階テンションが低くなった感じだ。
 まあ嘆いていても仕方がないので、僕もテストに取りかかる。
 1時間目は社会。テスト用紙は表裏印刷で2枚もある問題用紙と、それよりちょっと大きい1枚だけの解答用紙に分かれている。
 えーっと、まずはどっちの紙かなっと。
 今西も第1問を見つけられてないみたいで、二人して問題用紙をばさばさ。
 お、あった。
 大体同じタイミングで見つけて、問題を解き始める。
 最初は時事問題って奴か。総理大臣の名前、は変わったのに注意して。
 次の問題は九州と沖縄の地図が書かれていて、非常事態宣言が出された牛の感染する病気が発生した県と、ある国の基地の移設問題が問題になっている県を塗りつぶせって問題。
 病気の名前と国名は空白になっていて、これも答えさせられる。
 うーん、2つ目は簡単だけど1つ目が分からない。
『こうていえき』ってのは分かるんだけど、漢字で書けるような簡単な字だったっけ?
 そもそも何県で発生してたかも覚えてないし、九州の県も大体曖昧なんだよな。
 記憶を頼りに、『口』とだけ書いてみるけどそこで手が止まる。『てい』も『えき』もなんか難しい漢字だよな。
 ああもういいや。
 『口ていえき』と力尽きた答えを書いて、地図はもう勘で塗りつぶす。
 思い出せないのは全部体調が悪いせいだー。
 時事問題はこれで終わり。次の問題は……なんだこりゃ。
 中学1年生の『せのおくん』と『やえくん』の会話形式で、問題が出されている。
 弓張先生、何を考えているんだ。
 まあ面白いは面白いんだけど、こういうのやって文句が来ないのかな?
 妹尾先生なら何の問題もなく許してくれそうだけども。
 会話の内容はワールドカップに関するもの。穴埋めが主で、簡単だけど……出た。
 噂に聞く最大の難関、時差の計算だ。
 えーっと、東に進むと時間が進む? あれ?
 15度ずれると1時間ってのは覚えてる。けど、一番大切なところが分からなくなってしまった。
 本格的に突っ伏して目を閉じ、ペンを手の中で回しながら懸命に思い出そうとしてみる。
 頭は授業を思い出そうとしているのに、目を閉じているせいか耳が勝手に周りの音を拾い出して、そっちに注意が行ってしまう。
 保健室の中はすごく静かで、田原先生と今西のペンの音、それと時計の針が動くカチカチという音だけが響いている。
 というか、今西のペンの音が途切れない。あ、紙をめくる音まで聞こえた。もう2枚目?
 つまり、今西は時差の計算をどうにかしたわけか。確かに、一度一緒に解いたけどあの今西が?
 なんか解ける気がしてきたぞ。
 目を開けて、だるい身体を起こして問題文を見直す。
 ……お。
 ここに、『夜遅くに試合があるから』って一文があるな。
 普通に考えれば、試合開始は昼間から夜の7時ぐらいまで。
 で、時差があるってことはえーっと、向こうが昼の3時に始まるとしよう。
 経度の差は105度。15で割って7だから、7時間の差があって夜になるのは、えっと、7時間進んでるときか?
 で、実際の計算。日本が6月14日正午のとき、南アフリカ共和国のヨハネスブルグはえーっと。
 混乱しながら、計算結果を書き込む。ここで午前か午後かを書き忘れないように、って先生が何度も念を押してたからきちんと書いて、と。
 これでとりあえず1枚目の表は終了。裏に入る。
 今度は歴史の問題。さすがに対話形式じゃなくて、普通っぽい問題が並んでいた。
 ここはだいぶ簡単で、原人と新人の違いとか、今西と「これだけは覚えよう!」と謎の意気込みで書く練習をしたアウストラロピテクスとかを書いて、らくらく次の紙へ。
 次の紙は歴史と地理が混在している。だけど今度は記述問題が増えてて少し難しい。
 歴史はまだ簡単なんだけど地理が厄介だ。地図ごとの長所と短所、なんだったっけなぁ。
 いくつか自信がないけど、一箇所を残して全部埋める。ここだけは本当に分からない。
 もう一度言おう、体調が悪いー。
 最後の紙は世界地図がでんと書かれていて、大陸や海の名前、あとはいくつかの国名を書かされる。
 正しい国旗を選べって問題もあって、これは先生がサービスで作ったとしか思えない。アメリカ国旗とブラジル国旗を間違える人はいない、よね?
 あれ。
 なんか、簡単じゃないか?
 散々脅されていた、『中学校のテスト』の難しさとかけ離れていて、ちょっと拍子抜けする。
 そういや、姉ちゃんだけは『中学校のテストなんてお遊びよー』って言ってたな。
 認めたくないけど姉ちゃんは頭のいい奴だから、僕をはめようとしてるんじゃないかと思って聞き流してたけど案外本当だったのかもしれない。
 今西を見ると、まだ問題を解いているみたいだ。
 最初は負けてた気がするんだけど、どこかで逆転したんだな。
 小さく息を吐いて、僅かな満足感と共に机に突っ伏す。傾いた椅子が小さく軋んで音を立てた。
 音に反応した今西がこっちを見ている気配を感じたので、背中で威張っておいた。
 本当なら見直しとかするところなんだろうけど、僕はちょっと今日体調が悪いのでー。

 チャイムの音で、むくりと起き上がる。
 身体はまだまだ重くて、相変わらず重力に負けそうだけど心は晴れやかだ。
「二人とも、解答用紙こっちにちょうだい」
「「はーい」」
 ハモった。
 おお、みたいな感じで見つめあって、それから解答用紙を渡す。
「次はえーっと、国語ね。10分後だから勉強してなさいよ」
 封筒にテスト用紙を仕舞うとそう言って、田原先生は保健室を出て行く。
「どうだったー?」
 机の下に頭を突っ込んで置いてある鞄を取り出しながら、今西がテストの出来を聞いてくる。この体勢、顔を蹴りそうで怖いなー。
「まあまあできた」
 ちょっと過小評価。正直80点ぐらい取れてる自信があるけど、そう言って60点とかだったら恥ずかしいし。
「いいなー、あたし半分ぐらいしか自信ない」
 顔を出した今西は口を尖らせる。
「でも結構最初のほう早かったじゃん」
「ああ、時差の計算まるごと飛ばしたから」
「……えっ?」
 何をしているんだこいつは。
「ああいうのはあたしには無理だよ、うん」
「少しは頑張れよ!」
 だからあんなに早かったのか!
「時事問題もわかんなかったから少し飛ばしたし」
「なんかもう逆に凄いな」
 触発された僕が馬鹿みたいだ。いや、今西が馬鹿なんだけど。
「そんなことより国語だよ国語。今度はあたしの力見せてあげる」
「漢字以外でな」
「漢字勉強してきたもん! つまり今のあたしに死角はない」
「あーはいはい」
 ちょっとテンション低めなんで拾えませんその辺。
「何その態度!」
「ごめんごめん」
「見てなさいよー、100……いや90点は取ってやるから!」
「あーはいはい」
 やれるものならやってみろー。

     

「うーふああぁぁー」
 奇声を上げながら、今西が机に倒れ込む。
「ようやく全部終わったー」
「嘘ついてんじゃねぇ」
 まだ4教科だろうが。
「午前中がって意味ね。あと数学……」
 突っ伏したまま、くぐもった声を響かせる今西。
 一方僕は割と回復してきていて、朝の様子と比べると僕が今西の元気を吸い取ったみたいに見えるかもしれない。
 国語、理科、数学と続いたテストは想定していたよりも簡単で、ゆっくり……とは言いがたいけれど割と休む時間が取れたのが幸いしたのかもしれない。
 代償として、背中は痛いけど。
「戸田くん、体調はどう? 給食食べられそう?」
 テスト用紙を袋にしまいながら、田原先生が問いかけてくる。
「あ、はい。もうかなり大丈夫です。全然食べられます」
「じゃあ教室戻る? それともこのままいる?」
「え、あー」
 そういや、もうここにいる理由とかないのか。
 筆記用具を今西に借りっぱなしになるし、教室に戻ったほうがいいのかな。
 ちょっと迷って、なんとなく今西を見てみる。
 いつの間にか突っ伏していた顔を上げて、両手で机に転がっているふたつの消しゴムを弄くっていた。
 胴も腕も長くて、転がっていった消しゴムを取るために手を伸ばしているせいで机を真っ二つに分けているようなその姿に、つい笑ってしまう。
 よし。
「このままいます」
 今日はもうちょっと、こいつを見てみよう。
「そう。じゃ給食どうしようか」
「あ」
 そういや、僕がここにいるってことは誰も給食を持ってくる人がいないわけか。
 しょうがない、取りにいくか。
「僕行ってきます」
「大丈夫? ふたり分だから2回に分けて運びなさいよ」
「いつもすまぬー」
 消しゴムを弄くりながら感謝を示されてもなんか違う気がする。
 まあいいや、さっさと取ってこよう。先生はああ言ってたけど、面倒だからふたり分いぺんに。
 扉に手をかけて、そうするなら戻ってきて足で開けるためにちょっと隙間を空けておいたほうがいいかな、なんて考えながら開けて
「うおおっ!?」
 扉を開けると、そこに妹尾先生がいた。
 驚いて、思わず後ずさる。
「おいおい戸田、そこまで驚かなくてもいいじゃないか」
 妹尾先生は困ったような笑顔で保健室に入ってくる。後ろで今西も笑ってるのが気配で分かるぞ。ちくしょう。
「で戸田、身体の調子はどうだ?」
「だいぶ元気です」
「そうだよなーいいフットワークしてたもんな。じゃ、教室戻るか?」
「いえ、5時間目もここ居るそうです」
 田原先生が封筒を渡しに来ながら、話に加わってくる。
「あら、そうですか。じゃ給食持ってきますね」
「それも戸田くんがやってくれるって言ってます。あ、でもふたり分だからひとりお願いすれば」
「おおそうか。任せろ戸田」
 笑いながら背中を叩いてくる。痛いって。
「じゃ行くか」
 妹尾先生と一緒に、保健室を出て階段を上る。
「どうだ? テスト解けたか?」
「まあそこそこは」
 なんか朝もこういう会話した気がするなぁ。
「そうかそうか。5時間目もその調子で頑張ってくれよ。そんなに難しくはしてないから」
「本当ですか?」
「まあ普通に勉強してれば100点取れちゃうんじゃないか?」
 さすがにそれは言いすぎだろ。
 そこで会話は途切れたけど、階段を上るにつれて、テストの間でも変わらない教室のざわめきが大きくなってきて間を埋めてくれる。
 腹が出ているせいか若さのせいかそれとも両方か、僕のほうが早く登りきって教室に入る。
「お?」
 見慣れない教室の光景に、思わず声が漏れる。
 普段は整然と6班に分けられている並んでいる机が、教室のあっちゃこっちゃで大小の塊を形成していた。
 そこに座っているのもいつも通りの男女混合じゃなくて、性別がはっきり分かれている。
 なんじゃこりゃー。
「あれ戸田、よくなったの?」
 驚きながらも列に並ぶと、牧橋が後ろに並んで声をかけてきた。
「ん、まあね。保健室戻るけど」
「それ本当によくなってんのか?」
「全然大丈夫。てかこの机どしたの?」
「カ……っと、妹尾先生が今日は机自由に並べていいぞ、って」
「へー」
 ちょっと粋な計らいだな。
 ところで、すぐ後ろに妹尾先生が居たからカッパっていうのをギリギリで堪えたっぽいけど、隠しきれてないような気がする。
 離しながら牛乳とストローを取って、給食いっちょあがり。
 妹尾先生が取り終わるのを待って、っとそうだ。
 トレイを一旦ロッカーの上に置いて、自分の鞄を取り出す。
 ロッカーの位置が給食当番のいる所から微妙にずれてて良かった。
 ちょっと重いけど鞄を腕に提げて、トレイを持ち直して教室から出て行く。外で妹尾先生が待ってくれていた。
「大丈夫かそれ? 持つぞ」
「あ、大丈夫です」
 確かに生まれてこのかたまともに運動してきてないから細腕だけど、これぐらいはなんとかなる。
 なんとかなる。
 なんとか……きつい!
 最初はよかったけど、4階という位置を甘く見ていた。
 階段を降りるたびに腕にずしっと負荷がかかって、なかなかきつい。
「本当に大丈夫か?」
「問、題、ないです」
 意地でそう答えてはみたけど、右腕がヤバイ。血流れてるかな。心配になってきた。
 ようやく1階について、今度は妹尾先生のほうが先に行くとドアを開けてくれた。保健室になだれ込む。
 一旦鞄を床に置いて、一息。右手がじんじんする。
「戸田、お前やっぱ無理してたんじゃないか」
 妹尾先生が呆れた顔でこっちを見てくる。だって、ねえ。
「大丈夫ー?」
今西が少し心配そうな顔をしてるので、トレイを机に置きながら痺れた右手でVサイン。ちゃんとできてないけど。
「じゃ、今西も英語頑張れよー」
 僕の鞄を引きずってきてくれながらトレイを置いて、妹尾先生が出て行く。
「じゃ、いただきますしましょうか」
 あれ、いつの間に田原先生の給食は出てきたんだ。
「はーい」
 今西はわざわざ手を合わせている。偉いな。
「「いただきます」」
「いただきまーす」
二人は息がぴったり合っているけど、僕はちょっとタイミングを計り損ねた。
 これが毎日給食を一緒に食べている者の結束力か。
 今日のメニューは苺ジャムつきの食パンにチーズ入りの卵焼き、プチトマト2個とシチュー。
 まずは苺ジャムの袋を破いて、中身を全部搾り出すとスプーンで拡げてやる。
「えー、戸田くんそうやって食べるの?」
 見ると、今西は小さく袋を開けて、ジャムを渦巻状に細く出していた。
「いいじゃん、別にどうだって」
「こっちのほうが綺麗なのにー」
 綺麗だろうと何だろうとどうでもいいからー。
 拡げ終わってから、とりあえず牛乳にストローを突き刺す。最初に牛乳を一口飲むのが、僕の流儀だ。
 何故か知らないけど、家で飲むより給食の牛乳はおいしい気がする。
 とりあえずパンにかじりついてから、プチトマトを両方平らげる。
 そういやぐっちゃんはまた今日もプチトマトを皿に載せきれないほど貰っているんだろうか。
 うちの小学校にも栗田ってトマト好きがいたけど、ぐっちゃんほどは貰えてなかったなぁ。先生もうるさかったし。
 そういや今西はプチトマト嫌いじゃないのかな。
 見てみると、今西のトマトも綺麗になくなっている。おお、偉い。
 ん。
 シチューを食べながら今西の食事の光景を見ていると、あることに気付く。
 もしかしてこいつ、三角食べしてるんじゃないか?
 牛乳、パン、卵焼き、シチュー、牛乳。
 やっぱり、きちんとした順番で食べている。
「今西」
「ん?」
「三角食べ、いつからしてる?」
 その質問に、今西はパンをかじって飲み込んでから
「小学校の頃からずーっとそうだけど?」
「凄っ」
 真面目にそんなことしてる奴なんて、見たことないぞ。
「そう? そこまででもないと思うけど。家ではやってないし」
「いや、学校でできるだけでも凄いわ……」
 僕には真似できそうもない、ってあれ。
「プチトマトはどうしてんの?」
「ん、あれは最初の2周だけ食べる」
 だから真っ先になくなってたのか。
「欲しかった?」
「いや、別にないならないでいいけど。そこまで好きでもないし」
「そういうもんなのかー」
「そういうもんよー」
 会話終わり。もぐもぐ。
 今西は三角食べをやってるけど、順番は関係なしに僕の食事は終了。
 僕の牛乳の飲み方にはもうひとつ流儀があって、最初に飲んだら後は他のものを食べ終わるまでは一切飲まない。
 で、最後に牛乳を一気飲み。
 ふぅ。これがうまいんだ。
 今西も大体食べ終わっていて、三角食べの結果最後に残ったシチューを頑張ってスプーンで掬っている。あ、諦めた。
「ごちそうさまでしたー」
 スプーンを置いて、きちんと手を合わせる今西。
 少し伸びをすると、立ち上がって自分と僕のトレイを持ち上げる。
「給食室に返してくるねー」
「え、いいよ僕も行く」
「いいのいいの。日頃のお礼だと思って」
 そう言われると、断る理由もない。
「ありがとな」
「こっちこそいつもありがとねー」
 振り返って笑いながら、今西が足でドアを開け「奈美ちゃん!」怒られた。
 やっべー、やらなくてよかった。
 仕方がないので、立ち上がってドアをきちんと開けてやる。
「本当にいつもありがと……」
「いいってことよ」
 肩を叩いて、やりたいけど身長が足りなかった。

     

「せーの、」
 八重先生の授業にも関わらず、がやがやと騒がしい教室の中。
 3人の男が、己を試しあう! ……なんちゃって。
 掛け声と同時に、僕らは一斉に返ってきたテストを見せ合う。
 金田67、僕78、牧橋51。
「またかー!」
「戸田半端ねー!」
 ニヤける僕。悶える金田と牧橋。
 テスト点数レースは英語以外の4教科を終えて、今のところ僕の4勝で進んでいる。
「やっぱ塾行ってんだろーお前」
「俺も行こうかなぁ、親もうるさいし」
「いやいや、地道な努力の結果ってやつですよ金田くん牧橋くん」
「適当なこと言いやがって」
「元から頭いいんだろちくしょー」
「ないない」
 これは本当。
 僕の点数の原動力は今西なのだ。
 ……これは誤解を招くな。
 改めて、僕の点数の原動力は今西『との勉強』なのだ。
 テスト1週間前からの勉強だけじゃなくて、毎日ノートを見せたり質問されたりは思っていた以上に僕の身になっていたらしい。
 正直、こんな点数を取ったことに自分が一番驚いている自信がある。
 極端にできないってわけではなかったけど、勉強できるわけじゃなかったからなー。
「っそー、英語で見てろよ」
「俺も英語ならできた自信あっからな」
「かかってきやがれ」
 残念だが、僕も英語はできた自信がある。風はこちらに吹いているのだ。
 僕の全勝で終わりだ!

「で、その英語が94点で負けた、と」
「牧橋が意味分からなかった」
 そして放課後、僕は今西の前で屈辱的な結果を報告している。
 調子に乗って、給食を届けに来たときにレースの話をしたせいで隠しきれない状況になったのがまずかった。
 せめて5時間目が英語でなければ。本当に失敗した……。
 でも96点って。あの馬鹿が96点って。
 平均78点とか意味の分からないことをカッパおっと妹尾先生が言ってたけど、それにしたって。
「よしよし」
 うなだれる僕の頭を撫でてきた、ので思わず振り払ってしまう。
「なんだよー」
「ああごめん、それ嫌なんだよ」
 ちっちゃい頃、姉ちゃんが何かあると頭撫でながら「よちよち、じゅんくんはなきむちでちゅねー」ってやってきたからな!
「で、そろそろ見せてもいいんじゃないかな」
「はて、なんのことやら」
「とぼけても無駄だ。テストに決まってるだろ!」
 昼に「あたしのテストはなんか妹尾先生が一気に届けてくれるらしいから」と言っていたのを僕は覚えている。
 そして、今西は何かを待っているときに椅子にじっと座っているような奴じゃないのだ。
 普段、給食を運びに行くと大抵立ち上がってうろうろしてたりするし。
 そんな今西が掃除を終えてやってきた僕を座って出迎えたってことは、既にテストが返却されたと見ていいだろう。
「テストなんて知らないな!」
「出せ! 出さないと」
 右手で銃を作って撃つ真似をする。
「ふっ、無駄よ」
 のけぞりながら両手で銃を作って対抗する今西……いや、これは
「エガちゃん?」
「違うわ!」
 あ、田原先生が吹いた。珍しい。
「ほら、先生も認めたじゃん」
「ちょっと先生、ひどい!」
「違うのよ、これは」
 言いながらも、口を押さえているし声が震えている。何がツボに入ってしまったんだ。
「ほらテスト見せろよ江頭ー」
「あたしのどこが江頭よ! ほらフッサフサよ!」
 ポニーテールを見せ付ける今西。
 確かに最近薄くなってきたけどそこで差別化を図るのだけはやめてあげてほしい。
「分かったよ、今2時」
「おかしかった! なんかおかしかった!」
「えー、ところで今2:50だっけ?」
「いやどう見ても3時過ぎてるでしょ!」
「ああごめんごめん、じゃあ今2:50からどれぐらい経った?」
「……あたし帰る」
「えっ?」
 怒った顔のまま、立ち上がって足元の鞄を引きずり出す今西。
 いやいやいや、ちょっと。
 そのまま無言で立ち去ろうとするのを、鞄を掴んで止める。
「何よ!」
「ごめんごめん、僕が悪かった!」
「知らない!」
 つっけんどんな態度で、鞄を引っ張り返される。
「奈美ちゃん、私も悪かったわ」
「……先生も知らない!」
 おっと、なんて言いながらも少し鞄を引く力が緩んだぞ。
「ほんと反省してるって」
「つい笑っちゃったのよ、悪気はなかったから」
 やった、止まった!
 今西は、そのまま無言で引き返すと鼻を鳴らして鞄を乱暴に置いて、僕に背を向けて椅子に座る。
 普段なら怒られるところだけど、田原先生も困ったような顔でこっちを見ている。
「反省してるのよね」
「え、そりゃもう」
「じゃあ言うこと聞いて」
「は、はい」
 うわー、細長い背中が怖い。今度は何をやらされるんだ!
「笑うな」
「え?」
「あとほめろ」
 それだけ言って、今西は鞄を開く。
 僕が事態についていけていない間に、机に紙がばら撒かれた。
 僕が散々見たがっていた、5枚のテスト用紙が。
「えっと……」
 色々聞きたいことはあるけど、今西は何も喋ろうとしない。
 でも、さっきの『笑うな』と『ほめろ』は、そういうことだよな。
 1枚1枚、点数を確認していく。
 正直、飛びぬけていいわけじゃない、金田以上、僕以下って感じの点数が並んでいる。数学なんて60点ぴったりだ。
 けどひとつだけ、僕を上回る点数のテストがあった。
 国語、89点。
 すぐにこれへの褒め言葉が口をついて出かかるけど、記憶から蘇るものがあって見直してみる。
 ――――ああ。
 なんとも、つまらないミス。漢字の書き問題で、ハネを忘れただけ。
 けど、それで今西は漢字のところの全問正解も、90点も逃している。
 いろいろと自信満々に言っておいてこれじゃ、確かに見せたくもなくなるかもな。
 それ以前に、僕がそこそこいい点数を言ってたのもあるかもしれないけど。
 よし。
「今西、60点も数学で取るなんて偉いじゃないか! 教えた甲斐があった」
「……ほめてない」
 う。
 いきなり手痛いしっぺ返しを喰らったけど、負けてられるか。
 すごく辛そうだけど、国語のことなんて忘れちゃうぐらいに他の4教科を褒めちぎってやる。
 もちろん、それから国語も、だ。
 90点の壁を越えられなくたって、今西が頑張ったことには変わりないんだから。

       

表紙

暇゙人 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha