Neetel Inside ニートノベル
表紙

越えられない彼女
迫り来る夏

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 いきなり体にビクッという衝撃が来て、僕の目が覚めた。
「あ、起きたー?」
 軽く頭を振って、机に突っ伏していた体を起こす。
「あー、どんぐらい寝てた?」
「10分ぐらいだけど」
「そんだけなのか……」
 感覚的には1時間ぐらい寝た気分なんだけど。
「そんなにプールではしゃいだのー?」
「ちょ、髪触るな」
 僕の頭に手を乗せてがしゃがしゃとかき回そうとしてくる今西を、頭を振って掃う。
 7月に入ってからはようやく晴れるようになってきて、プールの授業もやる回数が増えた。
 で、木曜は5時間目が体育で、しかもそのまま下校。
 当然、プール後のあのなんとも言えない気だるさというか眠気を背負って保健室に来るわけで、まあつい寝ちゃうわけだ。
 田原先生は「ベッドで寝ればいいのに」って言ってくれるけど、この眠気はなんというかそういうものじゃない。
 ぐったりと、力尽きるようにして寝るから気持ちがいいんだよな。
 と、そういえば。
「田原先生は?」
 いつの間にか姿が見当たらなくなっている。
「どっか行っちゃった。『部活見てくるから』って言ってたから、割と長く帰ってこないパターンだと思う」
「あー、最近暑いもんなー」
 この時期は熱射病が危ないとかで、最近はそう言って出て行くことが多くなっている。
 外は太陽がガンガン照っていて、そんな所にわざわざ行くのは凄いと思う。
「暑いよねー。いいなー、泳ぐの楽しそう」
「んー、まあね」
 確かに半分以上遊んでいいようなものだし、楽しいといえば楽しい。
 ただ、楽しみというものは他にもあるわけで。
 僕が見た限りだと、身長が高い人はまあそこそこ見れるだけのものを持っているというのが興味深い。
 うん、身長の高い人は……。
「な、なんで人をじろじろ見だした」
 まあ例外もあるということで。
 というか今西は上に伸びることに全てを使い果たしてしまったんだろう。
「そしてなぜ頷いた」
「いや、今西はでかいなーと思って」
「うー、割と気にしてたりしてなかったりするんだけど」
「いいじゃん大きいの」
 僕は今まで背の順だと真ん中かそれより前だったから、後ろのほうに憧れがある。
 体育で整列して前倣えの時に、手を伸ばしてみたいもんだ。
「それにしたって限度があるー。というかちっちゃくなりたーい」
「僕は小さいよりかは大きいのが好きだけどなー」
 いろんな意味で。
「えっ」
 固まる今西。なんだどうした。
 何かを考えているのか、目が泳いでいる。
「おーいどしたー」
「……うー」
「うわ、ちょ」
 また頭をガシガシやられる。しかも今度はかなり痛い。
「戸田くん!」
「なんだよー!」
「あたしは、ちっちゃい方が好きだ!」
「それがどうしたんだよ! 離せよ!」
「断る! もうちょっとやらせろ!」
 逃げようとするけど、半分鷲掴むようにされてどうしようもない。
 仕方がないのでずっとそのままにしていると、手付きが変わってきているのを感じた。
 なんか少しずつ頭を撫でるような感じになっている。
「どういうこと?」
 頭の自由が利くようになったので、今西のほうを向いて聞いてみる。
「ん、いやなんでも」
 なぜか今西はすごくいい笑顔になっている。本当にどういうことなんだ。
「というかこれいつまで続く?」
「んー、もうちょい」
 つまり、まだ離す気はないと。
 さて、今なら抜け出そうと思えば抜け出せるな。
 ……んー。
 まあ、いっか。たまには。
 万一逃げようとしてまた掴まれたら、嫌だしね。
 肩の力を少し抜いて、大人しく撫でられるがままにする。
 なんか気恥ずかしいので、今西には背を向けて。

     

「ちょ、ま、やめろやめろやめ」
 暴れまわる筒井。けど守口と牧橋が拘束にかかっているせいで脱出は不可能だ。
 そして、僕らの見守る中で遂に決定的瞬間が訪れた。
 素早く接近したぐっちゃんが、筒井のやや引っ張られて女子には絶対に見せられないきわどい所まで見えているトランクスの中へと、制汗剤を噴射した。
 股間を抑え、叫び声を上げながら悶える筒井。見ている僕たちは爆笑だ。
「よくやった、筒井」
「1組も流石にこれは勝てねーぞ!」
 そして何故か沸き起こる拍手。
 最近、1年男子の間では制汗剤を使った度胸試しが空前のブームとなりつつある。
 ルールは簡単、吹きかけられたら絶対嫌そうなところに制汗剤をブシューッとやるだけ。
 1組から始まったらしいこのブーム、最初は乳首に向けて噴射するだけだったのがやがて両乳首へと変わり、上半身くまなく噴射される猛者が出現し、ついに今日股間への噴射という禁断の扉までもが開かれた。
 本当はそこまでするつもりはなかったんだけど、昼休みに「誰かちんこ行こうぜ」という発言を不用意にしてしまった筒井にもはや人権はなかった。
 とはいえ、今となってはこのクラスの最強であった『制服の袖から両脇に噴射5秒』の牧橋を破り、男子トップの英雄である。
 ちなみに僕は決して、もう一度言うけど決してチキンではないのだけど、不参加だったりする。
 いやだって、テンション上げすぎて体になんかあるとアレだし。
「ほぁ!」
 あ、なんか倒れてた筒井が跳ね起きた。
「チャンピオン、一言」
 すかさず、ぐっちゃんが制汗剤をマイク代わりにインタビュー。
 筒井はそれをじっと見つめると、
「ウィィィィーアザチャァァンピォォォォン――――」
 なんかやたらいい声で歌いだした。
「――――なんとぉぉぉかぁぁぁ」
「覚えてないのかよ!」
 ぐっちゃん、ツッコミと同時に頭に一発。一同、再び爆笑。
 そこで、タイミングを計ったかのようにチャイムが鳴った。
 いつもならだらだらと遊んでるとこだけど、あまりにちょうどいいタイミングでオチがついたせいか皆素直に席に戻り始める。
「ねえ」
「ん、何?」
 座るとおもむろに韮瀬に声をかけられた。
「男子さ、あれ何が楽しいの?」
「え、何いきなり」
「冷たいだけじゃんあんなの。皆なんかやたら盛り上がってるけど」
「あー……」
 そう聞かれるとちょっと困るな。
 僕達からしてみれば確かに楽しいんだけど、『何が』と聞かれるとはっきりとは答えにくいものがある。
「雰囲気、とか?」
「ふーん」
 よく分からない、といった感じに首を傾げられた。
 うーむ、なんだかそういうリアクションを取られたせいで僕まで気になってきたぞ。

「なあ筒井」
「ん?」
 掃除の時間。
 5時間目の間考えてみたけど、なんかしっくりくる答えは出てこなかった。
 これはもしかして僕が参加してないせいじゃないか。
 ということで、机を運ぶまでの間に拭き終わって暇している筒井に聞いてみることにした。
「あの制汗剤のやつってさ、何が楽しいんだと思う?」
「え、何ってそりゃ、」
 そこまで言って、口の動きが止まる。
「……とにかく面白くね?」
「あ、やっぱそんなもんか」
「つーかそれがどうかしたの?」
「いや、さっき聞かれてさー」
 梨本がようやく拭き終わったので、机の移動が始まる。
 ちょうど話題が一区切りついたので机を運ぼうとすると、筒井も一緒の列を運ぼうとしてきた。
「2人で運ぼうぜ」
 そう言って、ニヤリと笑ってくる。
 今、妹尾先生はいない。チャンスだ。
「オッケー」
 筒井が既に僕に近いほうの片側を持っているので、僕は反対に回り込む。
「せーのっ」
 掛け声と同時に、机の片側を持ち上げて一気に走る。普通、持って走るには机はちょっと重いけど、2人なので楽々だ。
 後ろまで運んだら、また戻って「せーのっ」次の机を持ち上げて走る。こんなに楽なのに、妹尾先生が禁止する理由が分からないよなー。
「ところでさー」
 3つ目の机を運び終えたところで、筒井が声をかけてくる。
「聞かれたのって誰? ニラ?」
「うん」
「そっか、せーのっ」
 掛け声と一緒に机を持ち上げて、
 ――――あれ?
「っと、おい戸田力抜くんじゃねーよ」
 僕が力を抜いたので1人だけ走り出す形になって、筒井はびっくりして一旦机を降ろした。
 その顔は、見覚えのある笑顔。
「やっぱりニラかぁそうかぁー」
「筒井てめえ、ハメたな!」
「はぁ?ハメたも何も事実じゃん。いやいや、恥ずかしがらなくていいのにー」
 失敗した、なんてもんじゃない。
 すっかり追及がなくなったから油断してたけど、こいつに韮瀬と喋ったりしてることを気取られるなんて。
「やっぱなー、俺そんな気してたんだよなー」
「……ほら運ぶぞ!」
「はいはーい」
 なんていうかもうどうしようもなくなって、筒井から目を逸らしながら机をまた2人で運びはじめる。
 明日からまた筒井にニヤニヤされる生活の始まりだ。
 しかも、今度は簡単には誤魔化しようのない状況で。
 ああもうどうしよう。

     

「おはよー」
 う。
「……おはよ」
 いつもより小さめに、いつもより俯いて挨拶を返す。
 ん? みたいな感じでこっちを向かれたけど、気付かないふり。
 今はできるだけ韮瀬との関わりを絶たなくちゃいけない。

 朝の会。
 普段なら妹尾先生のカッパとかザビエルとか呼ばれる頭部でも眺めながら話を聞くところを、今日は机に突っ伏して聞く。
 韮瀬を回避するだけにしてはちょっとやりすぎ感があるけど、それぐらいがちょうどいい。
 一応健康観察のときだけは、心配されないように起き上がったけど。
 普段から倒れてると、ただ眠いだけでも心配されたりして困るんだよなー。

 1時間目の数学は相変わらず東郷先生がマシンガントークをかましている。
 ノートを取りながら、板書するときすら喋っているこの人は凄いなーとか考えているとメモ用紙が飛んできた。
 つい反射的に拾い上げて、しまったと後悔する。
 あの日から、僕らの机の間では時々メモ帳が飛び交うようになった。
 内容は『坂じゃなくて阪じゃない?』と弓張先生の間違いを指摘しただけのやつから、国語の教科書に載っている作者の写真を写して目を少女マンガ風にパッチリさせた手の込んだものまで色々。
 返事を書いて返すこともあるけど、作者の写真のほうはありがたく国語の教科書に挟み込んである。
 けど今はそれを素直に有難がってる訳にもいかない。
 とはいえ取ってしまったものはしょうがないので見てみると、『体調だいじょぶ? もう直った?』と書いてあった。
 あー、うわー。
 なんか心配かけてたことへの罪悪感が押し寄せる。
 関わらないようにしようと思ってるけど、これには返事しないわけにいかないよな。
 メモ用紙に『ごめん大丈夫』と書き込んで韮瀬に、いや待てよ。
 僕は思い直して、その下に『P.S しばらく話しかけないでくれると助かる』と書き加えると改めて韮瀬へ。
 黒板を見ると、練習17をやるっぽかったのでちょっと教科書を探して、あった、
 1問目を解こうとしたところで、紙が返ってくる。
 追加されていたのは『←なんで?』というシンプルな一文。
 そりゃまあいきなりそんなこと言われれば気にもなるか。事情を説明しよう。
 えーっと、『筒井に僕が韮瀬を好きなんじゃないかと思われてて』、
 いやいやいや。
 筒井、まで書いたところで手が止まる。これはいくらなんでも恥ずかしすぎるだろ。
 慌てて消して、『ちょっと事情があって』に書き直す。
 ずいぶん曖昧だけど、仕方ないよな。
 送り返そうとして韮瀬のほうを向くと、韮瀬は問題もやらずにじっとこっちを向いている。
 驚きながらも紙を差し出すと、さっと持っていかれた。
 そのまま一瞥すると、凄い勢いで書き始めたので僕も問題に戻るのがめんどくさくなってそれを眺めることにする。お、返ってきた。
 早速中身を確認して、
「うん、だからこの問題は、xに-2を代入してやるだろ? そうすっとどうなる? うん、-2×4だな?」
 うおっ!
 すぐ近くで東郷先生の声が聞こえてびっくりする。
 声のほうを見ると、東郷先生が甍に問題の解き方を教えているらしい。
 机の間を回ってたらしいけど、気付けてよかった。
 韮瀬はまだこっちを見ているけどちょっと今はまずい。
 メモ用紙を筆箱の下に隠して、問題に取り掛かる。
 ふむ、x=-2のときの4x+3の値ね。てことはいつも通りか。
 正直、今西に何度か説明したからこんなのはあっという間に解けてしまう。
 えーと、-5と。
 面倒臭いので途中式は省いて、ノートには式を写したあと下にそのまま答えを書く。
 次の問題を写している間に東郷先生は通り過ぎて行ったけど、油断は禁物だ。まだ反対側から覗き込まれる可能性が残っている。
 早く通り過ぎてくれと祈ってみるけど、南風原さんのところでもひっかかった。しかも長い。
 待っている間に問題は終わってしまって、焦れながら声を聞いているとようやく動いて、韮瀬の隣を通り過ぎ――ない!
 今度は韮瀬の反対側の隣、山ちゃんが先生を捕まえた。
 またか、と若干の恨みを篭めてそっちを見ると、韮瀬と目が合った。
 視線が多分なんで返さないんだ、みたいな感じのことを僕に訴えかけてくる。
 保健室に他の人がいると今西は喋りたがらないので鍛えられた結果、今西の意思なら視線だけでもだいたい読み取れるんだけど韮瀬は微妙だ。
 とりあえずバレたら嫌じゃん、という意思を篭めて見つめ返してみる。
 すると韮瀬はちょっと固まった後、えー、みたいな表情になった。
 ……あれ通じるの?
 ひょっとして今まで試してなかっただけで他の人にも通じる、かもしれないな。
 なんて思っていると、東郷先生がようやく教え終わって韮瀬の近くを離れたのでその必要もなくなる。
 念のためこっちを見ないかと少し間を開けてから、筆箱の下からメモ用紙を取り出す。
 新しく追加されていたのは『事情って何?』。まあそうなるよね……。
 けどそんな素直に書くわけにもいかないし、どうしたらいいものかとちょっと悩む。
「はいじゃあ、近本からだから――筒井、戸田、苗木。前出てきて」
 名前を呼ばれて、顔を上げる。
 黒板に(1)から(4)までの問題が書かれて、線で区切られている。
 そういえば、そろそろ数学の回答の順番が回ってくる頃だったっけ。
 しょうがない、一旦メモ用紙は放置。
 他の人に見られないように教科書に挟むと閉じた後、ノートを手に立ち上がって黒板に答えを書きにいく。
 長い白チョークは……既に苗木さんが使用済みだ。
 筒井はやや長いのを使用していて、僕と近本さんがチョーク難民だ――あ、黄色チョーク使い始めた。
 出遅れた感じになるのが嫌で、僕も黄色チョークに便乗する。手近にあったのを使って、あ。
 答えを書こうとしていた僕の手が止まる。
 そういや、東郷先生は途中式書かないと駄目じゃん。
 一旦黒板消しで消して、っと。
 答えを書いている筒井の下にある黒板消しを取って、うわっ!
 その拍子に、筒井が肩をぶつけてきた。強くはないけど、いきなりで驚く。
 なんだよと思いながら筒井を見ると、妙な――というか「あの」笑顔でこっちを見ながら席に戻っていく。
 あの笑い方をするってことは、
 見ら、れた?
 一瞬で僕の体の中がさあっと冷たくなって、それから急激に熱くなった。
 気分が悪くなるときとも違う、独特の感覚。こういうのを血の気が引くって言うんだろうか。
 自分の不注意を呪いたくなったけど、ここは黒板の前。
 とりあえずできるだけ早く席に戻りたくて、慌てて書いた答えを消して、回らない頭で考えた途中式を書き加えた後書きなおす。
 それから素早く自分の席に戻って、どうするんだ。
 僕の考えていることなんて分からない韮瀬がこっちを見てくる。ああもう、今度こそ返事書いてる場合じゃ、いや違うか。
 1回見られたんならこの際同じかもしれない。
 教科書からメモ用紙を取り出して、内容を考える。もう素直に書いちゃってもいいのかな。
 そう思って書き出そうとしたところで、チャイムが鳴った。
 でも(3)の答え合せの途中だからか、顔を上げると東郷先生は構わず進めている。
 つまり僕にとっては絡まれる時間へのカウントダウンが延びてるわけで、ありがたいっちゃありがたい。
 あ、そうだ。
 今思いついたことを素早く書いて、韮瀬に放ったところで日直が号令をかける。
 礼をするとすぐに韮瀬は紙を見て、意味が分からないという顔になる。
 まあすぐ分かるさ。
「よーよー、ラブラブカップルさーん」
 僕がなんで『筒井が説明しに来る』って書いたかは。

     

「……は?」
 当然というかなんと言うか、韮瀬の第一声はそれだった。
「またまたーとぼけちゃってニラさん」
 筒井は例のごとくいい笑顔でなぜか僕の背中をばんばん叩いてくる。
「え、まさか」
 韮瀬は右手で僕を、左手で自分を指差す。頷く筒井。
 続いて、両手でハートマークを作る。頷く筒井。
「え、えぇぇ―――!?」
 そしてようやく驚きが伝わって、韮瀬がフリーズする。
「ちょ、何この驚きよう。もしかしてアレ? お前の片想いパターン?」
「ちげーよ!」
「あ、やっぱ付き合ってるのかよかった」
 うわーなんかよりまずい方向に行った!
 くそ、なぜこいつはどんどん笑顔の質が上がっていくんだ。
「いやいや付き合ってるとかそういうの全然ないから!」
 フリーズが解除された韮瀬が強く否定する。
 その途端。
 普通よりやや大きめの声は、それでもこの騒がしい教室では大して響かないはずなのに。
 少なく見積もっても教室内の半分の視線が、こちらへ向いた。
 一拍遅れて、クラス全体を不思議な静寂が襲う。
 韮瀬は「え?」みたいな顔をしていて、まだ自分がどれだけ大変なことをしたかに気づいていない。
 心なしか、時間がゆっくり流れている。耳にかすかなピーンという音が聞こえる。
 周りのみんなの好奇心がどんどん高まっていくのが感じられて、今すぐここから逃げ出したい衝動に駆られる。
 もういっそ時間を止める能力でも手に入ったらいいのに、と姉ちゃんが彼氏に借りていた漫画のラスボスに憧れてみたり。
 あー、あれ読んでたらそれはもう怒られたなー。
 ……うん、現実逃避してるわけにもいかないよなぁ。
 結局、背中が嫌な汗をかき始めたところで僕の時間は元通り動き始めた。
 打って変わって、格好の話の種を提供された教室はざわつきを取り戻す。
 あっちこっちから突き刺さる何かを品定めするような目。それは僕達だけじゃなく、事情通と思われる筒井にも及んでいる。
 既に甍が筒井への突撃を敢行していて、もうこれはどうしようもない。
 そして僕らの元へも、だ。
 偶然にも同じ方向から、金田と不破小峰コンビが迫ってくる。
 韮瀬がちらりと視線を送ってくる。
 篭められた意思は、『……どうする?』。
 『もうどうにでもなれ』、とだけ返しておいた。

 それから5分しかない休憩時間の間に一体どれほどのことがあったのか、僕の記憶にはっきりしたことは残っていない。
 ただとにかく懸命に否定し続けたことは間違いないんだけど、まあ当然みんな聞く耳持たず。
 既に韮瀬と僕はなんというか、その、うん、付き合ってる、みたいな扱いになっている。
 何をしても韮瀬に結び付けられるせいで、僕はもう既に授業中右を向くことすらままならない。
 こんな環境で受ける授業はそれはもう辛かった。きつかった。
 だから、4時間目の授業が終わると同時に僕は何もかもをぶっちぎって給食を運びに出て、ここ保健室にいる。
 汁物がないからとダッシュをかけたせいで派手に息を切らせながら。
「ど、どしたの戸田くん?」
「ちょ、ちょっと……いろいろあって……」
 ぜぇぜぇ言いながら椅子に座る僕を、今西がびっくりした顔で見てくる。
「何があったか知らないけど、そんな無茶しちゃ駄目でしょ」
 田原先生からもお叱りの言葉を受けたけど、これは多少体にダメージ与えてでも――あ、そうか。
 5時間目は寝てればひとまずあの地獄から逃れられるのか。
 となればここで走ったせいで体調が悪いってことにすればなし崩しで給食の時間も回避できる、ってことになる。
 そうと決まればちょっと意図的に、ぐったりと倒れこんで。
「ちょっと戸田くん、ほんと大丈夫?」
 心配そうな声の今西が背中をさすってくれる。
 なぜかこいつを騙すのには罪悪感をあんま感じないなー。
「ん、あー、大丈夫大丈夫……」
 で、ここで体調が悪いとあからさまに言わないほうがいい。
 そうすれば、
「本当に大丈夫なの? 寝てく?」
 田原先生は大体そう言ってくれる。
「あー、でも」
 ここでさらにちょっと渋ってみせる。流石にこれを演技とは思わないはず!
「駄目そうなら寝ちゃいなさい。給食は電話かけて誰かお友達に持ってきてもらうから」
 よし計画通り――――いや待った!
「いや、本当に大丈夫ですから! ほら」
 言うなり、椅子から立ち上がってみせる。背中をさすり続けていた今西が小さく「わっ」と声を上げた。
「そう? けど辛くなったらいらっしゃいね」
「はい、そうします」
 受け答えをしながら、そそくさと保健室のドアを開けて退散。
 危ないところだった。
 誰が来るか知らないけど、誰であろうとどうせ韮瀬の話を振ってくるだろう。
 いくら今西が誰か来たら隠れるとはいえ、話が聞こえないわけじゃない。
 万が一聞かれでもしたら一体どう思われるか……考えるだけで怖い。
 それに比べれば、今から僕を待っている地獄の食事タイムだって耐え切れるかもしれない。
 とはいえ、階段を上る僕の足取りがとても重いことは、言うまでもないけれど。

     

 それから、嵐のようにこの週は過ぎて。
 土日を挟んだら何か変わるんじゃないかと思っていたら、やっぱり何も変わらなかった。
 今日も今日とて韮瀬は僕の彼女扱いだし、逆も然り。何かするたび視線が痛い。
 と、いうことで。
 2時間目の最中、妹尾先生の声を聞き流しながら(後で今西とやればいいよね)次絡まれたらガツンと否定することに決めた。
 思えば、なんだかんだで僕も韮瀬も否定の仕方が甘かったような気がする。
 特に韮瀬はなんか妙に力が入らない感じでよろしくない。普段のパワーはどこへ行った。
 あ、でもここ1ヶ月ぐらいは前より威勢よくなかった気もするな。
 どちらかと言えば最近のトレンド、は違うな。なんて言ったらいいのかな。
 ……まあいいや。うっさいのは近本さんって印象が強い。
 静かなら静かでいいけど、なんか最初の頃は男子によく突っかかってた印象があるからか、校外学習のときのせいかなんとなく静かな韮瀬というのはしっくり来ない。
 というか今はうるさくないと困る。
 なんで韮瀬はもっと頑張らないのか。この状況を打破したいのは同じだろうに。
 つまりもしかして僕のことが、いやいやいや。
 流石にそれはないだろー。ないよねー。よねー?
 思わず、視線を最近はご無沙汰だった右方向へとちらり。2秒ほど眺めて、すぐに戻す。
 うんまあ、別に悪くはないのだ韮瀬。アリかナシかで言えばアリアリだ。
 それに正直、もうここまでなったんなら別に付き合っても恥ずかしいとかないんじゃ――――いかんいかん落ち着け。
 なぜ今韮瀬が僕を好きな前提でしばらく話を進めた。馬鹿か。
 そもそも僕が韮瀬に好かれる心当たりがない。そりゃまあクラスでは一番仲いい女子だとは思うけど、色々あったし。交換日記のアレとか。
 そうだよなー、思えば僕韮瀬に好かれるような事したことないじゃん。何考えてたんだ。
 えーっとなんだっけ、考えを戻そう。
 そうだそうだ、とにかくこの状況を打破しようと思ってたんだった。
 まずひたすら否定。それも今までみたいな「えー違うからー」じゃない。「違うっつってんだろコラァ!」ぐらいでいく。
 ドスの利いた声が出ればいいんだけどまだ声変わりしてないしなー。
 小5で声変わりした寺門がちょっと羨ましい。声変わりしたら結構いい声になったし。
 とにかく怒りまくって、韮瀬もその流れに乗ってくれれば流石にみんなにも分かってもらえるだろう。
 後はどうやって変な空気にならないようにするかだな。マジ切れしてると思われたら後で面倒だしー。
 筒井が上手いこと茶化してくれないかなー。別に金田でも牧橋でもいいんだけど。
 けどそれじゃこっちの言ってることが本気だって思ってもらえないかもしれないし、うーん。
 なんかいい落とし所ないかなー。
 黒板を見ているふりをしながら円満にことを済ませる方法を考えていると、チャイムが鳴ってしまった。
 一旦考えるのはやめにしてノートと教科書を畳む。
「あー鳴っちゃったか。じゃ明日は6行目からな。日直号令」
「きをつけー、れい」
 古津さんの号令がかかって、教室の空気がざわめきだす。
 いまいちいい手は思いついてないけど仕方がない。
 誰でもいいからかかってきやがれ!

 と思ってるときに限ってなぜか絡まれないのはおかしいよなー。
 相変わらず会話の少ない給食の時間を済ませて、昼休み。
 待っていた、というのもちょっと違う気はするけど、ようやくチャンスがやってきた。
 引き金を引いたのは牧橋。
 金田と牧橋は割と席が近いので、昼休みふたりが教室にいる時は僕がふたりの方に喋りにいく感じになる。
 今日も僕は金田と牧橋のおおよそ中間点、昼休みは教室の後ろで黒板にお絵かきしてていない大貫さんの机に座って肘をついていた。
 ちょうど会話が一段落ついたところで、一瞬沈黙が生まれる。
「暇だなー」
 思わずそんな言葉がこぼれ出る。
「じゃあニラんとこでも行けよ」
 すると牧橋は何故かどや顔でこう返してきた。
 本当にただ口から漏れただけだったのでちょっと反応が遅れそうになったけど、来た。
「は? 行かないから」
 まずいつも通りな感じで否定してエンジンをかけ始める。
「あらもう破局? 実はアツアツなんでしょう?」
 そのネタは金曜に松田がやったぞ。
 筒井、松田、牧橋辺りは脳を共有してるんじゃないかと思うような返し方をしてくる。仲がいいな。バカとも言うけど。
「だーかーらー、僕と韮瀬は付き合ってないっつってんだろ!」
 机を小さくドン。大貫さんごめんなさい。
「ちょ、どうしたムキになって」
 笑って見ていた金田が逆に焦り始めた。
 そういや僕あんま人前で派手に怒ったことないしね。けど今日の僕は一味違うぜ。
「最近ずっとそればっかで嫌なんだってば! そろそろ分かれよ!」
「え、や、まあ」
 牧橋がキャパを超えたか反応が鈍くなる。
 早速、クラスの注目はこっちに集まり始めている。というか違うクラスの奴もいくらかいるー。
 これは失敗したら他のクラスにも伝わるわけで、いやもう伝わってるか。言いふらされないはずないもんな。
 だったらもういっそ続けちゃえ。それも大胆に。
「つーか今ここではっきりさせようぜ! 韮瀬!」
 僕が名前を呼ぶと、背を向けていたその肩がビクッとして、こっちを振り返る。
 不破も小峰もこっちをガン見中だから、多分わざと背を向けてたな。
「僕と付き合ってなんかいないよなー!」
 クラス中の目が僕から韮瀬に移動する。それを感じてか、韮瀬の耳がすごい勢いで赤くなる。
 そして顔まで赤くなる前に、ガクンと頷いた。
「なー!」
 キッと牧橋を睨む。
 動揺した牧橋は僕と韮瀬を交互に2度ほど見て、韮瀬と同じようにガクンと頷いた。
「分かったんならお互い好きでもなんでもないんだからほっといてくれよ!」
 もう一度机をドン。
「分かった分かった、だからちょっと落ち着け」
 金田の表情が明らかに戸惑っていていてちょっと申し訳ない気持ちになったけど、まあいいか。
 今日たまたまやってないだけで、こいつも先週はいろいろやってくれやがったからな。
「とりあえずごめんな」
「え、いや、いいよ」
 とはいえ頭まで下げられると流石に申し訳ない。
「牧橋も謝れ。いやもう土下座しろ」
「はぁ!?」
 この一言に、目の前の僕と金田の会話をぽかーんと見ていた牧橋が再起動。
「そうだそうだ、土下座しちゃえよ」
「申し訳ないって気持ち見せろよー」
 山ちゃんと他のクラスの知らない奴がそれをはやし立てる。
「やっちゃえやっちゃえ!」
「どーげーざ! どーげーざ!」
 守口とか加藤とか、積極的に僕をいじってた側まで僕の味方につき始めた。まあこいつらは牧橋で楽しみたいだけか。
 こうなると筒井が体育館にバスケやりにいってるのが悔やまれるな。
「え、えぇー……」
 牧橋はしばらく戸惑っていたけど、バカはバカなりに覚悟を決めたのか狭い通路に膝をつき、
「すいませんでしたぁーっ!」
 土下座。沸くギャラリー。
「牧橋」
 そこへ僕が声をかける。
「韮瀬にも、だろ?」
「えー、そこまですんのかよ俺ー!」
 不平の声が上がって、
「当然だろ!」
「1回も2回も同じだろ!」
 でも悪乗りした外野にはその声が届かない。
「いや、あたしいいから」
「なんだよもったいないぞニラ!」
「一発もらっちゃえよ土下座!」
 まだ耳が赤い韮瀬がそう言っても、聞く耳は持たれない。
 仕方なく牧橋はもう一度韮瀬に向けて土下座。嫌そうな顔されてたけど。
 更にもう理由とか関係なく牧橋が土下座させられそうになっているところで、チャイムが鳴って彼は救われることとなる。
 でもって、僕はそれ以上に救われることとなった。
 バスケから帰ってきた筒井や他数名の耳にもこの話はすぐに伝わり、「まあなんかいじるのやめるか」みたいな空気が全員に行き渡って僕と韮瀬は晴れて自由の身だ。
 僕はメモ帳持ってないけど、どっかに挟んで取っておいてあるやつがあったらそれでメッセージを送ってやろう。
 ちょっとぐらいは感謝の意を示してくれるはずだ。

     

 ぴとり、と腕に何かが張り付いた。
 その感触に思わずビクッとして右腕を見やると、メモ帳がくっついていた。
 なんだ、と思うと同時に、少し嬉しくなる。
 一応理解は浸透したけど、韮瀬はまだ誤解されるのが嫌なのか最近はちょっと途絶え気味だったこのやり取りが、久々に復活したんだ。
 夏休みまであと2週間を切って、僕らのテンションは開け放った窓から聞こえるセミの声のようにじわりじわりと上がってきている。
 と言ってもきっとみんなの気持ちは『夏休みだ! 遊べる!』と『ようやくこのクソ暑い校舎から逃げてクーラーのきいた部屋に一日中居られる!』が半々ってところかな。
 そういや『こんな暑い中部活なんかやってらんねー!』ってテンションが下がってる牧橋みたいなのもいるかもしれない。
 とにかく、今年の夏はとんでもなく暑い。
 テレビのニュースではなんとか現象がどうたらこうたらとか言ってるけど、原理はいいから涼しくなる方法を教えるべきだと思う。
 教室に申し訳程度に付けられた扇風機は全力で風を送り続けているけど、僕の位置までは届かないし。
 まあ届いたとしても到底涼しいとはいえないぐらいの微妙な風だけど。
 保健室だよりには『熱中症特集!』とでかでかと書かれているし、最近は遂に先生たちも授業中下敷きで扇いでても何も言わなくなってきた。
 その上、何の嫌がらせかちょっと遅れてきた梅雨が週に3日ぐらいは雨を降らせる。
 その日は壁という壁が汗をかき、ちょっと触ると手が軽く濡れる。もちろん床もこの調子で、あんまりの滑りやすさに階段を走る奴はいなくなった。
 そんな状況で授業を受ければ、そりゃもう腕にも汗は浮き出てくる。その結果がこの腕のメモ帳だ。
 そんなに汗をかいてないとは思うけど染みたらいけないと思って、慌てて剥がして内容を確認する。
 書かれていたのはビーチの絵。
 ニヤニヤ笑う太陽の下大量の汗をかいている、いや溶けてる? 雪だるまと、それに寄りかかるネコバスみたいな笑い顔の猫がまず目につく。
 この猫は韮瀬曰く『あたし動物占いで猫だったから』ということで自画像らしい。
 ちなみに本当はバロンがよかったけど描けなかったそうだ。
 そして絵の上のほうには『どこにいたい?』という質問と、解答欄らしいカッコ。
 なんか面白そうな企画だな。さてどうしよ。
 ビーチにはベンチが置いてあったり、海ではクジラが潮を吹いてたり妙に芸が細かい。そんなに妹尾先生の授業が暇だったのか。
 確かに今日は英文をCDに合わせてひたすら読むという作業が長かったから、やろうと思えばいくらでも書けたけど。
 こういう時の返しはなんというかセンスが問われる、と思うのでちょっと慎重に。
 とりあえず居られそうなのは、ベンチの上? いやいやそれは安直すぎる。暑そうだし。
 涼しさを求めるなら海の中だけども、うーんなんかひねりが足りないような気がする。
 となるとクジラの上というのはどうかな。多分韮瀬なら吹いてる潮の上に僕を乗っけるくらいはしてくれるだろう。
 乗ったことないからわからないけどとりあえず涼しそうではある。よし決めた。
 さっそくカッコの中に『クジラの上』と記入。僕は期待通りに描いてもらえるかなー……あ、そういや。
 韮瀬に返そうとしたところで、ちょっと記憶をほじくり返してみる。
 僕ってどんな風に描かれてたっけ?
 ネコバス韮瀬が描かれてる絵は割と見たことがあるし、何人かの先生の似顔絵も見たことがある。松田の変顔を再現した絵なんかもあった。
 けど思えば韮瀬が僕を描いてくれたことってなか――いやあったな。
 確か1回かなり適当に描かれた情けないオーラの漂う男に『TODA』って書かれてたな。
 いやいや、あれはなかったことにしてもらえると信じたい。
 となるとちょっと僕がどう描かれるのか気になってきた。
 ちょっと大きめで見たいと考えると、クジラの上はスペースがあんまりない。ちょっと考え直そう。
 絵を消さないように慎重に、消しゴムでカッコの中だけを捨ててもう一度場所の検討に入る。
 となるとやっぱりベンチの上か。けどベンチもそこまで大きくないんだよなぁ。
 大きく描いてもらえそうなところと言えば……ここだよなー。
 メモ帳は6:4ぐらいの割合で砂浜と海に分かれていて、その画面の中央にどんと陣取っているのが雪だるまと韮瀬だ。
 となればここを指定するのが僕が大きく書いてもらえる道!
 カッコの中に『雪だるまの近く』と書いて完璧だ、とほくそ笑む。
 満足してそういや授業どうなってるかなと顔を上げると、妹尾先生と目が合った。
「お、戸田答えたそうだな。じゃここ日本語訳してみろ」
 ええー!
 僕がなんかやってることに気付いていての意地悪か、ただ目が合ったからだけなのか、思わぬパスが僕へと飛び込んできた。
 幸いにも、妹尾先生は黒板に英文をがんがん書いていってくれるからどこを訳さなくちゃいけないのかで悩む必要はない。
 けどえーっと、これ今西とやってないや。英語あんま好きじゃないんだよね僕も今西も。
 まあいいや、なんとかなるだろ。席を立って
「えー、マリエは」
 と言っただけなのに、ざわりとクラスから笑いが起きた。え? え?
「おいおいちゃんと聞いてたか戸田、マリエじゃなくてマリーだ」
「え?」
 思わず声にまで出てしまった。確かにCDの英語は聞き流してたけど!
 確かに見てみると教科書のイラストに居るのは金髪の人だ。
 あー、えー、うわー。
 恥ずかしさで耳があっつくなる。顔は辛うじて赤くなってない、と信じたい。
 そのまましどろもどろに訳を終えて座る。あー恥ずかしかった。
 ちょっと疲れた気分で、机の上のビーチに目を向けなおす。
 こいつのおかげでひどい目に遭った、というのはちょっと逆恨みかな。
 韮瀬がちょっとでも申し訳ないと思ってくれればいいんだけど、なんて考えながら韮瀬へメモ帳を送る。さて黒板でも写そう。
 黒板は既にだいぶ埋め尽くされている。そろそろ上のほうが消される頃なので少し急がないと。
 そう思って筆箱から赤ペンを取り出し黒板の1行目を写し終えたちょうどその時、メモ帳が再びこちらへやってきた。
 早っ!
 え、これ僕を描いてくれるとかそういう企画じゃなかったの? ただ聞いただけ?
 ちょっとがっかりしながら見てみる。
 やっぱり絵に変化は……え?
 僕の予想に反して、さっき見た絵にはなかったものが一つ付け足されていた。
 それのあまりのくだらなさに、思わず僕は小さく吹き出してしまう。
 雪だるまの被るバケツの上、新たに現れたのは突き刺さる看板。
 そこに書かれていた文字は『とだるま』。
 なんじゃそりゃ。手抜きにも程がある。
 けど僕の頬が緩んでしまうのを抑えきれない。ここまでくだらない返しとは思わなかったぞ。変に期待した僕がバカみたいだ。
 というかこれ僕死にかけじゃないか。韮瀬冷やしてる場合じゃないぞ。
 言いたいことは色々あったけど、とりあえず『助けて溶ける』とだけ書いて返却。
 今度こそノートを写すぞ、とちょっと雑だけど速度重視で英文を書いていると、3行目を書き終わった辺りで紙が来た。
 遂に黒板が埋まりきりそうで心配だったけど、とりあえず絵に目を通す――溶けてるー!
 さっきまで雪だるまが居たところには水溜りがあって、韮瀬は何もないとこによっかかっている。すげぇ。
 いやいや問題はそこじゃない。なぜ殺した。
 思わず韮瀬のほうを向く。
 韮瀬は僕のアクションに注目していたのか僕のほうを見ていて、目が合うと笑いを返してくる。
 あーこの笑顔知ってるわ。今西がよくやる奴だわ。なんていうか『楽しくて仕方ない』みたいな奴。
 ついでに言えば今西の場合大抵は僕をひっかけるなりなんなりした時の笑顔だ。僕が勉強教えてる時にもたまに出るけど。
 韮瀬までこんな顔をするなんて……。僕に安息の場はないのか……。
 軽い抗議を乗せた視線を送ってみるけど、韮瀬の表情は変わらない。
 そうしているとなんか恥ずかしくなってきて、視線を逸らす。
 そのまま黒板に視線を戻して、僕はやるせない気持ちになる。
 まだ写し終わっていない部分が2行ほど消えて、新しい文章へと書き換わっていた。

       

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Neetsha