Neetel Inside ニートノベル
表紙

越えられない彼女
君が僕を知ってる

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 正直、来るかどうかは不安だった。
 けどそれは取り越し苦労だったみたいで。
 万が一にも遅刻しないようにと12時に家を出て学校に着いた僕を、今西は手を振って迎えた。
 のはいいんだけど。
「「なんで制服なんだ!」」
 お互いを指差してハモる。
「謝れ! 戸田くんの私服をチェックする気満々だったあたしに謝れ!」
「だろうと思った!」
 それを正確に予測した僕は制服を着ることで今西の裏をかくことに成功したわけだ。
 ただひとつ誤算があるとすれば、夏服のズボンがクリーニングに出されていて今僕が履いているのは冬服のズボンだってことだけど……。
「思ってたんならなんで着てきてないの!」
「着てくるわけないだろ! 第一今西はなんで私服着て来てないんだ!」
「恥ずかしいからに決まってるでしょ!」
 自分は駄目で僕はいいのか!
 校門のところでじりじりと火花を散らして、
「やめよ。暑い」
 今西が珍しく折れた。
 当然僕も逆らうと後が長いので素直に従う。
 そして、何故か訪れた少しの沈黙の後。
「行こっ、か」
「ん」
 なんとはなしに切り出して、軽く頷かれて。
 今西の案内で僕らは歩き始めた。
 僕ん家とは真逆の方向、いつも今西が帰っていく道を進んでいく。
「ねー」
「何?」
「ほんとに環奈ん家行くの?」
「行く」
 何があってもそれだけは譲れない。
「いいじゃんさー、もういっそこのまま本当にデートしよーよ」
「これも立派なデートだろ」
「他の女の家に乗り込んで行くのがか!」
 いやその表現はおかしい。
「友達の家に遊びに行くって言えよ」
「遊びには行かないでしょ、これ」
 確かに。
 そんな何週間ぶりかの話をしているうちに、
「ついたー」
 僕らは目的地である韮瀬の家にやってきた。
 家は建ててからだいぶ立っている感じの2階建てで、ガレージの庇の鉄柱が錆びて根元がボロボロになってるのがちょっと怖い。
 確かに表札には「韮瀬」と書いてあるから今西に騙されてはいなさそうだ。
「で、どうする?」
 ハンカチで額の汗を拭いながら、今西が聞いてくる。
「どうするって」
 そりゃ行くしかないだろ。
「じゃなくて誰がピンポン押す?」
「あ、あー」
 それは考えてなかった。
「もちろん戸田くんだよね?」
「え」
「戸田くんでしょ?」
 うわ、このパターンか。
 座っていても感じるけれど、立っているときは更に今西の大きさを実感する。
 頭一つ上から見下げてくる今西の眼力は相変わらずで、
「……了解」
 意を決して郵便受けの隣のピンポンを、
「あ、そっち壊れてるから」
 先に言えよ。僕の覚悟を返せ。
 仕方なく、鉄の門扉を開けて家のドアの前に。
 もう一度覚悟を決めなおそうとしたところで、大変なことに気付く。
「なあ今西」
「代わんないからね」
「いやそうじゃなくて、韮瀬じゃなくてお母さんとか出てきたらどうしよ」
 僕はなんて名乗ったらいいのか本気で分からない。
「あ、大丈夫。環奈んち共働きだから。今なら環奈しかいないはず」
「マジかー!」
 思わず安堵のため息がこぼれる。よかった。本当によかった。
 それじゃ、改めて。
 姉ちゃんを騙し、今西を脅して……あれ、僕ってひどい奴じゃないか?
 でもまあいいや、ようやく辿り着いたこの状況に感謝を篭めて。
 まずは韮瀬を、玄関まで引きずり出してやる。
「はーい」
 ピンポンを鳴らしてからしばらくして、韮瀬の声と足音が聞こえてきた。
 後ろでは今西が扉の影になるような位置にスタンバイしている。
 ガチャリと音がしてドアが開き、韮瀬が顔を出して、
「よ」
 目が凄い勢いで見開かれて、その顔が引っ込んでドアが閉じた。
 あまりの事態にしばらく動作を止めた僕は、ようやく立ち直ると今西に視線で
(僕韮瀬に嫌われるようなことしたっけ?)
 と問いかける。
(知るか!)
 ですよねー。
 流石にこれは困るので、もう一度ピンポン。
 ……反応なし。
 連打してみるも反応が一向に得られないので、仕方なく扉をノックしてみる。
「韮瀬ー」
 やっぱり反応がない。
「韮瀬さーん」
 呼び方を丁寧にしてみるけど反応なし。
 困って今西に再び助けを求める視線を送ると、今度は手招きされた。
 何かと思って近づいてみると、耳元で一言だけわけのわからない言葉を囁かれる。
 聞き返そうとするけど、今西は無言で扉を指差すだけだ。
 つまり、これを言えばいいってことか?
 試しにもう一度扉をノックして、
「なぎさちゃーん」
 ドン、といきなり扉が叩かれた。
 驚いて思わず後ずさりしていると、中から声が聞こえてくる。
「やっぱ友代か綾いるの!?」
 なんだなんだどうした。触っちゃ駄目なとこだったっぽいんだけど。
「どっちか分かんないけど――てかどっちもいる? けどなんでそれ、ちょ、もー!」
 韮瀬の困ったような怒ったような声が聞こえてきて、再び扉が開かれる。
 また顔だけ出した韮瀬。けど、今度の顔はさっきよりだいぶ赤い。
「あーいない! 戸田くん、正直に白状して! あの二人、かどうかわかんないけど今どこに隠れてるの!?」
 なんかすごい目で睨まれた。超怖い。
 どうやら、韮瀬は僕をここに差し向けたのも、僕にこの「なぎさちゃん」って謎の名前を教えたのもあの二人のどっちかだと思っているらしい。
 まあそうなるよなぁ。まさか今西が来てるなんて、僕が韮瀬でも思いつかない。
 でも事実は事実。
「いや、不破も小峰もいない……けど」
「嘘言わないでよ! 絶対いるでしょ!」
 正直に報告してみるけど、やっぱり取り合ってもらえない。
 どうする、と韮瀬の死角である扉の裏へ視線を送る。
 すると今西はなぜか親指を立てて答えた。
 僕がどうするのかと思わずそちらに視線を向ける中、扉をノックする。
「観念したか!」
 韮瀬は扉から身を乗り出すようにして今西のほうを覗き込んで、
「久しぶり、環奈」
 また目を見開いて、今度は固まった。
 今西は小さく微笑んで、しばらくふたりは見つめあう。
 僕だけがその世界に取り残されたまま、背中にだけ日差しを浴びている。
 どれくらいそれが続いたかはっきりとは分からないけれど、決して短くはない時間の後。
 韮瀬が、ゆっくりとこっちを振り向いた。
 瞳はかすかに揺れていて、少し潤んでいる。
 僕に何かを訴えかけているその目は色んな感情がない交ぜになりすぎて、一体何を伝えたいのか分からない。
 困っていると、まかせろとでも言いたげな頭からぽろんと言葉がこぼれた。
「そういうことです」
 言ってから自分でもなにがだよと思っちゃうような言葉だけど、韮瀬には何かが通じたみたいで。
 瞳の揺れが少し収まって、感情の波が少しはっきりとする。
 けれど、それを読み取る前に韮瀬は再び引っ込んだ。
 扉が閉まって、僕たち二人は外に取り残される。
 鍵のかかる音が聞こえた。

     

 理解が追いつかず、一瞬ぽかんとなって。
 やっちゃったか、と僕と今西は顔を見合わせた。
 どうすんの戸田くんと今西の視線が言ってくる。いやこれ僕のせい?
 そうに決まってるでしょ! と返ってきたので反論しようと今西を睨んだその瞬間、聞こえてきた音に釣られてそちらを振り向く。
 それは間違いなくノックの音で、しかも家の中から響いてきていた。
「ちょっと、待ってて」
 扉越しに少し掠れた韮瀬の声。
「ちゃんと開けるから」
 まだ僕が何も言わないうちにそう言って、玄関を上がるような板の軋む音が聞こえた。
 音が遠ざかっていって、自然と僕と今西の視線が合う。
 交わされた意思疎通はほんの二言。
 どうする?
 待つしかないでしょ。

 そして10分ほどして。
 僕は韮瀬家のリビングで、今西と並んで食卓に座って冷えた麦茶を飲んでいた。
 韮瀬は自分の分の麦茶を注ぐと、僕と向かい合う椅子に腰を下ろす。
 一応日陰にいたとはいえ、とめどなく流れ出ていた汗を麦茶とつけ始めたばかりらしいエアコンが抑えてくれる。
 のはいいとして。
「……なんで韮瀬まで制服なの?」
 なぜか韮瀬は見慣れた制服姿と二つ結びになっている。
 さっき扉から顔を出したときは確か普通のTシャツ着てたし髪も結んでなかったはずだけど。
「え、だってふたりともそうだし」
「だからってわざわざ着替えなくても」
「別にいいじゃん」
「ん、まあそうだけど」
 そこで会話が途切れた。
 3人とも黙りこくって麦茶をちびちびと飲み続ける。
 やがて全員の麦茶が切れて、
「…………」
 さらなる沈黙の中で、エアコンだけが我関せずとばかりに唸っている。
 僕は前と右隣から溢れてくる「どうにかしろ」オーラを受け止めるので精一杯だ。
 背中の辺りが最高に涼しいのはきっとエアコンのせいだけじゃないだろう。
 計画は立ててないわけじゃなかったのに、汗と一緒に流れ出て行ってしまったみたいだ。
「えーっと、」
 半分やけくそで、何も考えずに喋りだす。
 とりあえず思いついたことから、
「なぎさちゃんて何?」
 あれー?
 いやその選択肢はおかしいだろ僕。さっきここは地雷だって分かってたのに。
 あ、ああ、韮瀬また顔赤くなってる。今西超睨まれてる。必死に目合わせないように下向いてる。
 これはまずい。
 現在口を開いた結果は「どうにかしろ」が「どうしてそうした」になっただけだ。
「いやあの、答えたくないなら答えなくても」
「――――ア」
「え?」
「プリキュア」
「……え?」
 どうした韮瀬。プリキュア連呼は中学生のすることじゃないぞ。
「あたし昔ね、あの、プリキュア大好きー、みたいな時あって。戸田くん見たことある?」
 韮瀬がいきなり妙なことを問いかけてくる。それもすごく恥ずかしそうに、下を向いて。
「ちょっとだけ」
 当時は姉ちゃんも見てたからなあれ。僕は響鬼やカブトにしか興味なかったけど。
「え、じゃあオレンジの髪の子いたの覚えてる?」
「あー……うん」
 うっすら覚えがあるような。
「その子が美墨なぎさ、って言うんだけど」
「うん」
「あたし、その子に憧れてた、みたいな時期があって――」
 そこでぐふっ、と隣から笑い声が漏れた。
 見ると今西が口元を手で覆いながら、僕らに背を向けてぷるぷるしていた。
 韮瀬がそれはもうすごい顔でその背中を睨みつけている。
「あ、ごめん、どうぞ」
 こらえるのがやっと、みたいな感じで今西が話の続きを促してくる。絶対にこっちを向かないのはさすがに元友達、よく分かってる。
 韮瀬ももう無視しようと思ったようで、最後に虫くらいなら殺せそうな視線を背中に浴びせてから一旦目を閉じて、またうつむいてから話し出す。
「でね、ほら、そういうおもちゃとか買ってもらったりね、してたんだけどね」
 話すにつれて語尾がどんどん弱くなっていく。
 うんまあ、そろそろ僕も大体どういう話か分かってきてるし、そうなるのも分かるんだけども。
「もうね、それじゃ足らないくらい好きでね、」
 というかもうか細い、としか言いようのないレベルになってきてる。
 横目で窺う今西は笑いすぎ。
「みんなにあたしのこと『なぎさちゃん』て呼ばせてた時期が――――」
 いやもうこれ半泣きじゃないか!?
 なんかこれ僕が泣かせたみたいなアレになるじゃん!
 そして今西は膝を叩くな! 笑いすぎだ!
「い、いや、よくあるじゃんそういうの」
 僕の周りにもメラメラの実食べた奴とか写輪眼持ってる奴とかいたぞ。
 別に気にしなくても、と言いかけた所で、がばっと韮瀬が顔を上げる。
 やっぱりちょっと潤んでる目で『ホントに?』と訴えかけてくるので、がくがくと頷く。
 ……頷いたのに、韮瀬は睨むことをやめてくれない。
 まだ赤い顔で、じぃーっと睨みつけてくる。僕の言ってることが本当かを確かめようとしているのかもしれない。
 できれば目を逸らしたいけど逸らすわけにもいかなくて、笑えないにらめっこが続く。
「……ほんとに?」
 そしてようやく、最後の念押しといった感じの問いかけが来た。
 僕が大きく頷いて、ようやく韮瀬の目からあのパワーが消える。
「なら、いいけど」
 ようやく人心地ついたとばかりに、僕と韮瀬のため息がハモった。
 で、問題は隣のアホ――――ってあれ?
 気付かないうちに、今西の笑いは収まっていた。
 ていうかむしろちょっと不機嫌そうですらある。
 一体どうしたんだろうと視線を合わせると、さっさと話しなよと返ってきた。
 なんだこいつ、勝手な奴。
 けどまあ言ってることは最もなので、再び韮瀬に向き直る。
 随分変な方向に行ってしまったけど、今度こそ目的のために口を開く。
「今日、僕たちが来た理由について、なんだけど――――」

     

 切り出して、ちらりと韮瀬の反応を窺う。
 正直、理由なんて察していないわけがないしどんな反応をされるかちょっと怖かったのだけれど、
「うん」
 とだけ韮瀬は言って、軽く微笑んだ。
 そのあまりのさりげなさにかえって驚いてしまう。
「え、っとさ。不破から聞いた話なんだけど」
 もうどうせ隠しても韮瀬は分かってるだろうから、今回は悩まずに不破の名前を出す。
「うん」
 韮瀬の表情は、声のトーンは、変わらない。
「最近部活出てないー、みたいなアレらしいじゃん?」
「どれよ」
 隣から何かボソッと聞こえたけど無視。
「うん」
 韮瀬はやっぱり何も変わらない。
 そして、それがとても奇妙で底知れなく感じる。
「で、その理由を聞いてみたいなーって、思って、」
「うん」
 また同じ相槌で、びっくりするほど簡単に話は僕の行きたい方向に進んできてしまった。
 正直、ここまで来るのにもう一つや二つ関門を越えなくちゃいけないと思っていたんだけど。
 まあ何もないならそれに越したことはない。
 僕の目的を達成するための、最後の一言を。
「話せることだけ、今西に喋ってみてくれないかな。僕は外に出てるから」
 そう言って立ち上がって、
「「ええーっ!?」」
 なんか凄い驚かれた。てかなんで今西まで驚いてるんだ。
「ちょ、ちょっと戸田くんストップ!」
 今西が長い腕を伸ばして僕の制服を掴んでくる。
「何? どういうこと? どういうこと?」
「言ったじゃん、今西なら話を聞けるかもしれないからって」
「だからって戸田くんいなくなってどうすんの!?」
「え、だって、僕いたら話せないこととかあるでしょ」
「ないわ!」
 叫んでから何かに気付いたようにくるっと振り返って、
「ない、よね?」
 韮瀬に向けて傍から見ても分かるくらいの「おねがい!」というオーラを放ちながら言う。
 さっきまでが嘘みたいにぽかんとしていた韮瀬の表情が、また変わる。
 視線は左に泳いで、口はもにょもにょと何か話すでもなく動いている。
 それを固唾を呑んで見守る僕と今西。いい加減離せよ制服。
 じっ、とそのまま何秒かが過ぎて、韮瀬の目が閉じられた。軽く息を吐く音。
 そして再び開かれた目は、僕を見てきた。
 けどそれはほんの僅かで、視線はすっと逸らされる。
 斜め下に向けられた視線のまま、韮瀬の口が開いた。
「いて」
 そして僕が何のリアクションもとらないうちに、
「戸田くん、いて」
 命令のように、それでいてどこかお願いのように、もう一度。
 それからは漫画で見るみたいなへの字口になって、それ以上は言わないと耳じゃなくて目に語りかけてきてきた。
 こんなの、勝てるはずない。

「で、先に聞かせてほしいんだけど」
「うん」
 その後、誰からともなく席について、注いでもらった麦茶のおかわりを少し飲んで。
「なんで奈美に話聞いてもらうと思ったの?」
「あ、えーと」
 ……やばい、どうしよ。
 今西を呼んだ理由の最たるものは二人に元通り仲良くなってほしい、なわけだけどそれを堂々と言ったらそれはもう強制だ。
 それじゃ駄目なんだ。ふたりが今どういう風にお互いのことを考えてるかって、できれば自然にわかってほしい。
 こういう時適当に答えて失敗し続けてるんだから、今回はちゃんと考えて。
 本当じゃない、でも嘘でもない理由がふっと浮かんできた。
「今西ならなんとかしてくれるんじゃないか、って思ったから」
 これがいくらか伏せてあるだけで、偽りのない僕の本心。
 こんな無茶苦茶な賭けに出たのも、最後は『今西ならなんとかなる』っていう根拠のない自信――いや、信頼からだ。
 僕には出来ないことを、今西ならしてくれる。
 ……いやまあ、」勉強の面では逆も多々あるけれども。
「――そっか」
 韮瀬は軽くため息をついて、
「じゃ、あたしも話さないといけないね」
 それから、僕の見たことのない顔になった。
 顔はさっきみたいに笑っている。のに、明らかに目が違う。
 ゴーグルをつけずにプールに潜って水面を見上げたときの、あの景色。
 ゆらゆらと、不思議なリズムで歪む太陽の光が韮瀬の目に宿っていた。
「あのね、」
 心地よくて、むず痒くて、暖かいような、冷たいような。
 水の中のような世界へ、僕を誘いながら。
「ウチ、戸田くんのことが好き」
 ぽそりと、韮瀬は言った。

     

 ぽかんとしていたのが2秒。
 言っていることの意味を理解するまでに4秒。
 理解したうえでその意味を考え直すのにもう8秒。
 しめて14秒かけて、
「ど、どうも」
 僕の脳は「お礼を言う」という結論に辿り着いた。
 でも明らかにベストな返事じゃないっていうか、え、あれ、え?
 どう考えてもこの流れで今の発言はそういうことだよな。だよな。だよな……。
 何をすべきかが分からなくて、けど心臓だけがフル稼働を続けている。身体が芯のほうから熱くなっていく。
 韮瀬はそんな僕を見て口端を少し吊り上げて、
「あのさ、校外学習のときのこと、覚えてる?」
「え?」
 一体どれのことだ。バスに乗り遅れかけて大変だったやつか。
「ウチさ、こんなキャラじゃん。男子にはいつもからかわれてばっかで、みんな馬鹿だと思ってて」
 ん。
 『校外学習』と今の『馬鹿』が合わさって、ちらりと記憶から何かが飛び出してくる。
「で、もちろんあたしのこと好きな男子なんていないしそれでいいと思ってた。恋愛とか絶対無理って」
 確かこれは、韮瀬と二人で歩いていたときの記憶。それを少しずつ辿って、
「けど、戸田くんに『韮瀬が気になる』って言われたとき、きっと冗談だって思ったけどそれでも少しだけ、その、どきってしちゃった、みたいな」
 ……言った。確かに言った。
「それからまあ、そんな話すわけじゃないけど妙に気になってて、で席替えして隣の席になったじゃん」
「えっ!?」
 それまで両肘をつき、手に顎を乗せて話を聞いていた今西が驚愕の表情でこっちを見てきた。
 視線が説明を求めてるけどこっちもそれどころじゃないし、大体ここまでに驚くべきところがいっぱいあっただろ! そっち先に驚いてろ!
「――――なったわけよ。そしたらさ、なんか妙に嬉しくて。そん時『ああ、もしかして』って考えちゃって、そこからは止まんなかった」
 もうだーっ、て。と言いながら韮瀬の手が上り坂を描く。
「で、そっからほら、ちょっと色々あったでしょ」
 飛んでくる目配せは、僕らの秘密を守るため。今西を置き去りにして頷く。
 そして、韮瀬は変わらぬ調子で、
「戸田くんさ、あの時言ったよね。『好きでもなんでもない』って」
 とんでもない弾丸をぶっぱなしてきた。
「あれ聞いたときさ、なんかガクッてきちゃって」
 ふぅ、とため息が挟まる。
「なんだかんだでさ、勘違いされてることにちょっとだけ浮かれてたわけよ。口ではないない言いながら、お腹の中でちょっと嬉しくなって、もしかしたら戸田くんもなんて思っ たりして」
 少しだけ恥ずかしそうに語る韮瀬。
 その目の奥がかすかに揺らいだ。
「でもさ、あそこまでみんなの前ではっきり言われちゃって、ウチが勝手に盛り上がってるだけだーってなったのよ」
 ゆらゆらと、ゆらゆらと。
「それから戸田くんに話すのも、授業中にらくがき渡すのも怖くなっちゃって。バレないようにさりげなくしようとしたり、興味持ってもらえるように頑張って絵描いたり」
 波紋が奥から拡がっていく。
「けどやっぱりなんか違くて、ウチのほう向いてもらえない気がしてて、でも近くにいるってだけで嬉しくて、保健室行っちゃったりしたらさみしくて、」
 瞳の中の太陽は掻き消えて、
「夏休み中はずっとそうなのかな、って思ったらもう学校に行きたくなくなっちゃった」
 韮瀬の目からほんのちょっとだけ、プールの水が溢れた。
「部活出てない理由はこれだけ。バカでしょ」
 つぅ、と伝うそれを拭うこともせず韮瀬は笑う。
 その顔に、声に、心に、僕は何も言えなくて。
「うん」
 でも、今西は頷いてただ一言だけ言い放った。
「最高にバカだと思う」
 更に追撃かけやがった。
「で、あたしもバカだし戸田くんもバカ」
 その上こっちにまで飛び火させてきやがった!
「……何それ」
 小さく吹きだして、韮瀬が言う。
「みんなバカじゃん」
「うん」
 また頷いて、
「環奈見てて分かった。みんなバカでアホだって」
 がたりと、今西は椅子から立ち上がる。
 その身長で僕たちを見下ろして、指差して、
「まず環奈! んなことで学校行くのやめてるんじゃないの! あたしにさんざ『学校来い』みたいなメール送っといて!」
「え、だって、」
「だってじゃない!」
 カッと目を見開いて怒る今西。ひるむ韮瀬。
「次戸田くん! アホ!」
 いきなりこっちに回ってきたのでびくっとして、次の言葉に備えて
「で、あたし!」
「僕それだけなのかよ!?」
 かえって傷つくぞそれは!
「戸田くんはもうどこ取ってもアホだからそれだけ!」
「はぁ!? 僕お前より点数いいんだけど!」
「だーまーれー! 今は! あたしの話!」
 ドンと机を叩いて、僕らを黙らせる今西。
「改めてあたし! あたしはバカ! 大バカ! バカの中のバカ!」
 なぜか言えば言うほど胸を張っていく今西。どうした狂ったか。
「環奈に偉そうなこと言ってるのに自分だってさんざヘタレて怖がって!」
 言葉と裏腹に、どんどんテンションは上がっていく。
「もうやだ! やんなった!」
 わしわしと前髪をかきむしって、ポニーテールを振り回す。
「だから、もう、言う!」
 叫んで、いきなりぴしっと止まって、目を閉じて。
「戸田くん!」
 やけくそ気味に、こっちも向かずに。
「あたしも、好き!」
 僕の限界を超える攻撃の、第二波を叩き込んできた。

     

 人には、向き不向きってものがある。
 姉ちゃんの部屋にあった少女マンガには学校中の女子から告られるイケメンが登場していて、『並の女に興味はない』みたいなことを言いながら告白を平然とお断りしていた。
 だけど主人公に何故か惚れちゃうのも含めてねーよと思っていたけど、間違いなくこういう状況に向いているのは彼だ。僕じゃない。
 なんだこれ。どういうことだ。何が起きてるんだ。ここは現実だぞ。夢だとしてもこんな訳分からない状況は夢見ないぞ僕。
 とりあえずぽかんてなってる韮瀬を見て、まだ目を閉じたままの今西を見て。
 ……うん。
「今西」
 今西の体がビクッとなる。
「それはひょっとしてギャグで言ってる?」
「ちげーわー!」
 カッと目を見開いて怒られる。もしかしたらと思ったのに。
 だけどつまり、えー、何これ。告白されたのに素直に喜べない。むしろ泣きたい。
 わけわかんねー! と思いながら頭を抱えて、ぐちゃぐちゃすぎて一巡してすっきりしかけている脳を無理やり起動。
 でどうするの? どうしたらいいのこれ?
 二人ともじっと黙っているけど、何か言えオーラが両方からはっきりと感じられる。
 かといって適当なこと言ったら後がとてもめんどくさいのは目に見えているし。
 今度こそ考えなくちゃいけない。
 ちら、と二人を眺めてみる。
 今西と韮瀬。
 中学に入ってから出会って、仲良くなった女子二人。
 今西は保健室で、韮瀬は教室で色々やってきた。
 ……あれ、なぜかいい思い出のほうが少ない気がする。
 まあそれは置いておいて。
 僕はどっちに行くべきなんだろうか。
 まず、嫌いではない。だったら今頃こんな所でこんなことになってるわけがない。
 じゃあ、好きかと言われたら。
 野口に感じていた高ぶりがあるかと聞かれたら。
 僕は、はっきりと答えられない。
 あの頃のもどかしくて仕方がなかった気持ちを二人に持てるかって言ったら――――
「え」
 小さく声が漏れる。
 ここまで考えて、はっとした。
 僕、何を考えてた?
 なんでまるで昔のことみたいに野口のことを思い出してた?
 夏祭りの時はまだほんの少しだったそれが、今は随分強くなっている。
 今の気持ちはまるでぬるま湯のようだ。手を入れればあったかいと感じて、でも決して熱くはない。
 あの時見ないようにしたその現実が、頭をもたげてくる。
 だけど今日はもう逃げちゃいけない。
 それと真正面から向かい合う。そして問いかける。
 野口は、僕にとってどんな人なんだ?
 怖いけれど、それを考えてみる。
 そのためには一旦、色んなことを忘れて。
 ただ野口のことだけを考えて、すっと頭に浮かんできたことがきっと正解だ。
 正直言って難しい。けど、ゆっくりと時間をかけて辿り着く。
 ――ああ。
 出てきた答えは、少し悲しかったけれど。
 やっぱり『好きだった人』だった。
 たった半年前のことがもう遠く見えてしまう、今までにない不思議な寂しさ。
 それはさよなら、ってわけではないけれど。
 別れていないだけで、会おうと思ってもなかなか会えないような、そんな気がした。
 もう、僕は野口に普通に話しかけられるんだろうな。
 じゃあ。
 今僕が普通に、普通に喋っていたこの二人は。
 それを確かめるためにすぅと息を吸い込んで、さよならにさよならする。
 さあ、もう一度。
 二人のことを考えて。
 ――今度は驚くほど簡単に答えが出てきた。
 びっくりするほど簡単なそれに思わず苦笑いしてしまう。
 なんだこれ。分かりやすすぎるぞ僕。
 だけど今の僕じゃそれ以上の答えは出せそうにない。
 だから、これを伝えるしかない。
「あの」
 二人が同時にこっちを振り向く。
 その顔は両方とも僕の話を聞きたいような聞きたくないような、複雑な顔で。
「えっと、『返事はもうちょっと待ってほしい』って言ったら怒る?」
 言うやいなや、二人の目が吊りあがって
「「怒る!」」
 ハモった。
 二人も驚いたようにお互いを見て一瞬停止。
 そしてなぜか同時に笑う。目の代わりに口端が上がった。
「やっぱ戸田くんそう言うと思った!」
「ウチもウチも!」
 え、マジで。
「大体戸田くんは行動読みやすいんだから!」
「わかる。結構見てるとそうだよね」
「そのくせ訳わかんないとこで変なことするし」
「うんうん」
 いやいや、ちょっと待て。
「電話だよ電話? で環奈んち来いだよ?」
「でいなくなろうと思ってたんでしょ? マジないってそれは」
 ……なぜか僕の悪口の言いあいが始まった。しかも止まる気配がない。
 笑ったりしかめ面したり、ころころ表情を変えながら話が続いていく。
 完璧に二人で盛り上がっていて、僕が一人取り残された形だ。
「あのー」
「ん、何?」
 いい笑顔で振り向かれる。
 なぜこれほどまでに生き生きとしているんだこいつら。
「一体いつまでその悪口大会は続くんでしょうか」
「え、ああ、満足するまで」
「いやだからそれがいつかって」
「んー、いつかって言われても、いつか」
「いつかだね」
「ねー」
 二人で顔を見合わせて笑う。
 その瞬間、僕は何が言いたいかを理解した。
 韮瀬の笑顔はこれ以上ないほどはっきりとネコバスで、今西の笑顔はいつものアレ。
 要するに悪いことを考えているときの顔だった。
「つまり僕にそれずっと聞いてろと」
 怒ると言ったからにはそれくらいするつもりだろう。
 しかも終わらせる気がないというんだから、それはもう
「いや、違うけど?」
 えっ?
「うん、ウチらで勝手に喋るから戸田くん帰っていいよ。というか帰って」
 ……えっ?
「どしたの? なんか不満?」
「いや別に不満じゃないけど、いいの?」
「うんいいっていいって」
「だってさっき怒るって、」
「だーかーらー、あたしたち今怒ってるでしょ。だから帰って」
 わけがわからないよ。
「いやだからって帰る意味が」
「だってどうせ今日中に決めろって言っても無理でしょ?」
 う。
 そりゃまあ確かに、このままだと今夜はベッドの上を転げることになりそうだけども。
「だったらもうここで考えられてもやきもきするだけだし」
「それに最初はウチらだけで話させるつもりだったんでしょ? だったらいいじゃん」
 やたらと息の合った二人ががしがしと畳み掛けてくる。もしかして小学校時代はこんなんだったのか。
 なんか韮瀬がなぜ男子から敬遠されてるかの一端を垣間見た気がする。
 あと、やっぱりうるさくないというのは嘘だ。
「わ、わかった。帰る。帰るから」
 その圧倒的なパワーに負けて、最終的に退散を決める。
「はいよくできました」
「ばいばーい」
 笑いながら手を振る今西と韮瀬。おかしい。こないだ電話口で今西が泣いてたのはなんだったんだ。騙されてたんじゃないのか。
 でも、どうも納得はいかないけど最終的に目的は両方達成できてしまっている。
 あとは韮瀬が部活に行くかどうかだけで、それはもう最悪僕次第ってことになるのかもしれない。
 だから、もう帰ったっていいはずなんだけど。むしろ帰ったほうがいいのかもしれないけど。
 うーん。
 本当にこれでいいのかよく分からないまま、ドアを開けて熱気が溢れる廊下へ出る。
 そこで最後にちょっとだけ立って考えて、
「まあ、いっか」
 頭を空っぽにする前に、この結論に辿り着く。
 今西も韮瀬も僕は全く敵わないような女子で、その二人がなんとなく元通りっぽい感じになっているんだから。
 とりあえず、二人に任せてみよう。
 だけど、最後にひとつ。
 靴を履いて扉を開けて。
「じゃあねー今西、なぎさちゃーん!」
 今西は思いつかなかったので、韮瀬へと今日の色んなことの疲れと八つ当たりをぶつけてみた。
 そして叫ぶなり扉を閉めて全力でダッシュする。
 後ろから何か叫ぶ声が聞こえたけど知らない。
 もう後は身体に限界が来ない程度に、気をつけて家へ帰るだけだ。
 ぜんぶそれから考えよう。

     

 考えられるわけなかった。
 帰って夕飯を食べてからずーっとベッドの上を転がって、何も考えはまとまらない。
 助けて。誰か助けて。
 ってもこんな状況誰かに話せるか。恥ずかしすぎるわ。
 じゃあどうすればいいんだよー!
 この繰り返しでまたベッドの上を転がりだす。
 転がり疲れたら枕に顔を埋めてうるさいって言われない程度の声で叫んで
「淳平ー!」
 バーン、とドアが壁にぶつかる音がした。
 枕から顔を上げると、不機嫌そうな姉ちゃんが携帯を握り締めて立っていた。
「電話」
「へ?」
「あんたに電話」
 それだけ言って、携帯を押し付けてくる。
 えーっと、つまり。
「もしもし……?」
『あ、戸田くん?』
 やっぱり今西だった。
『今電話に出た人ってお姉さん?』
「あ、そうだけど、じゃなくてなんでかけてきてんの!?」
『ちょっと報告したいことがありまして』
「いやだけどさ、アレだろなんか他にやり方あったろ!」
 後ろで姉ちゃんが睨んできてるのが怖い。
『だってまさかお姉さんの携帯借りてるとか思わないじゃん?』
「借りたっていったじゃん!」
『言ってたっけ?』
「言った言った!」
『それはさておき』
「さておくなよ」
『えーっとですね、まだあたしは環奈んちにいます』
「え、マジで」
 姉ちゃんを視界に入れないように時計を見てみる。8時ちょっと過ぎ。
「大丈夫なのそれ?」
『うん。今日は泊まってく』
「え?」
 さらりと言われた一言に驚く。
『で、もっと色々おしゃべりするってのがひとつと、』
 そこで一瞬声が途切れて、
『もしもしー、戸田くん?』
 韮瀬の声が聞こえてくる。
「あ、はいはい」
『とりあえず死ね』
「はいぃ!?」
 なんだどうした。僕が何をした。
『てのは冗談だけど、次なぎさちゃんて呼んだらマジで殺すから』
 声が怖い。冗談か? 本当にそれ冗談か?
『でね』
 がらりと声のトーンが変わる。
『今日は来てくれてありがと。はっきり言って訳わかんなかったけど、嬉しかった』
 さっきより少し小さくて、ちょっと照れくさそうな声。
『それと、奈美連れてきてくれたのも合わせて、ありがと』
 二度目のお礼。それを聞いて、心からほっとした。
 二人は、元通りに戻ろうとしている。
「うん」
 それは嬉しいんだけど、言葉にはならない。ただの相槌になってしまう。
『でね、えっと、その、今日のアレの話、なんだけど』
 さらに小さくなる声。
 アレ……ってどう考えてもアレだよな。今僕を悩ませまくってるアレ。
『今返事できちゃったり、する?』
「いや無理」
 即答。
『うん、だよね。よかった』
「いいのかよ」
『いいの。で、お願いがあるんだけど』
「お願い?」
 すいませんアレ嘘でした忘れてください、じゃないよな。
『ウチ、部活行くから』
「う、ん?」
 なんだいきなり。
『奈美もなんかするらしいから』
 なんかってなんだ。いやマジでなんだ。
『始業式の日、もしそれで戸田くんがウチらのことちょっとでも許してくれたら、返事を聞かせて』
 そこまで言って、韮瀬は黙った。
 正直何を言っているかよく分からない。許すも何も、僕は二人に対して何も怒っちゃいないのに。
 でも、それはつまり、
「――――わかった」
 断る理由なんて、ないってことじゃないか。
『……ありがと』
 そのお礼の前には、ちょっとだけ息を吐く音が入った。
『じゃ、それだけだから』
「うん」
『電話しちゃってごめんね。ばいばい』
「ばいばい」
 そして、電話は切れた。
「終わったか」
 あえて気にしないようにしていたけど、さっきから腹筋を始めていた姉ちゃんが寝転がりながら手のひらを差し出す。
 その上に携帯を乗せると起き上がって、
「いくつか聞きたいことがある」
 さっきより強く睨んできた。
「え、なに」
 あえてとぼけてみるけど、これはもうどうしようもないような気もしてきた。
「まずこの電話の相手は誰だ」
「の、野口」
「ほう、彼女のフルネームは『野口 今西』だったと」
 いきなりアウトだった。もう駄目だ。
「いや違う、これは」
「うっせえ!」
 バスンとマットレスを叩かれてその剣幕に黙る。
「いきなり知らない番号から電話かかってきてスルーしてたけど2回目かかってきたから登録し忘れたヤツいたっけな? と思って出てみたら『もしもし戸田くん?』って言われてさ、『え?』って言ったら『あ、戸田くんだ。あたしあたし、今西』って言われたわけよ」
 も一度バスン。
「であたしピーンと来たわけ、これは淳平絡みの何かだって。それでわざわざここまで届けに来てやったわけなんだけど、とりあえずさ、お礼とかないわけ?」
「……ありがと」
「嬉しくねーよ!」
 膝を殴られた。そこまで痛くないけどなんかじんわりと響く。
「この今西ちゃんが誰なのかってのも気になるけど、まずあたしが問題にしたいのはなんであたしとお前間違えちゃうかってとこよ!」
「そこ!?」
「ったりまえでしょ! こちとらうら若き女子高生よ? 俗に言うJKよ? 普通中坊と間違えないでしょ!」
「いやでも僕まだ声変わり前だし」
「にしても違うわ!」
「んじゃ試してみる?」
「おーよ。ちょっと『おはようございます』って言ってみ。録音するから」
 姉ちゃんが携帯を取り出して、こっちに向ける。
「おはようございます」
 出来るだけ意識しないように、普通の声で。携帯がピピッと鳴る。
「次あたしね」
 おはようございます、と携帯に向けて喋って、
「これでよし、と。まあちゃんと聞いてな」
 そしてまたなんか凄い勢いで携帯を操作する。
「まずあたし」
 スピーカーから流れる姉ちゃんの声。
「で、あんた」
 続いて僕の声が――あ、これ似てるわ。
 姉ちゃんのほうを見ると割と無表情になってて、
「なんでやねーん!」
 またマットレスが叩かれた。ああシーツが。
「や、でも普通に聞くと似てないって! マイク通すと男っぽくなるけど」
 正確に言えばアニメの子供みたいな声になるっていうか。
「っせー! あー、あたしこれであのクソヘタレと夜な夜なラブトークしてたわけー!?」
 なんかわかんないけどやだー、と叫んで頭をぐるぐるする姉ちゃん。
「落ち着け。てか彼氏と喧嘩した系?」
「いんや超ラブいっすよー」
 回転速度をゆっくりにして、髪の毛グチャグチャのまま魂半分抜けてる顔でVサイン。正直キモい。
「でも今クソヘタレって」
「あーそれはね……っと!」
 いきなりガクンと姉ちゃんの首が後ろに傾いた。
 それから小さく、でも勢いよく顎を引くと髪の毛がばさっと大体元に戻る。おおすげぇ。
「解説してやるから、まず今西ちゃんてのが誰かについて聞かせなさい」
「いやなんでだよ!」
「このラブ師匠こと戸田友里音がその恋の悩み解決して進ぜよう」
「いや別にいいから!」
「お、恋の悩みではあるのね」
 あ。
「で、それを指摘された瞬間とぼけるより先に一瞬顔歪んじゃうのがあんたの弱点」
 ビシッと額を指されてどや顔。
 ……泣いてもいいよね?

「っはー」
 ベッドの上の姉ちゃんが深くため息をつく。
 結局、姉ちゃんの追撃を逃れられるはずもなく。
 しかも僕が何か隠そうとするとほぼ確実に見抜いてくるせいで、最終的に洗いざらい喋ることになった。あと途中でなぜか僕と姉ちゃんの位置も逆転した。部屋の主僕なんだけど。
「何それあんた。面白すぎんでしょ」
 そりゃ端から見ればな。
「中1で二股とか最近はおっそろしいねー。あたし彼氏いるとき告られたこともあっけど二股かけようとは思わんかったわ」
「いやかけてないし。てかさらりと自慢してんじゃねーよ」
 つーか本当か? こいつそんなにモテてていいのか?
「いやー、中3の秋だったかな、他校の塾友からいきなりメールで来てさー。『お互い受験に集中して第1志望受かってからね☆』なんて返したけどそん時の彼とネタにしたわ」
「うっわぁ」
 その人はこんなんと付き合わなくて正解だったと思う。
「まあそれは置いといて、一応解決するといった以上アドバイスを差し上げよう」
 とはいえ。
 一応このクソ姉がいろんな意味で先輩であることには変わりないので、ここだけは真剣に話を聞いて――――
「もう刺されるしかハッピーエンドないね」
「なんでだよ!」
 期待した僕がバカだったぞ!
「えーだってさー、どっちか嫌ってわけでもないんでしょ? じゃあそんなん決めようないじゃん。どうせあんた結論出ないんでしょ?」
「え、いや、でも時間あれば」
「無理だね。あんたはどうせウジウジ悩み続けて9月1日迎えるタイプだって」
「…………」
 そう言われると、僕も簡単には否定できない。実際今までもそうだった気はするし。
「あーもう黙り込むなって」
 ぺしんと頭をはたかれた。足で。
「手使えよ!」
「やだわ。――で、思い出した思い出した。教えたげる、さっきの答え」
「へ?」
 何のことだっけ。
「忘れてんじゃないの。なんであたしがクソヘタレって呼ぶか、よ」
「ああ」
 それが今この状況で何の役に立つって言うんだよ。
「めんどそうな顔してんじゃねえ」
 今度は蹴られた。けど避けた。
「いーいー、クソヘタレってのはねー、ラブがあるからこそなのよー」
 喋りながらぶんぶんと足を振り子のように揺らしてくるので、手で受け止める。
「好きな人ってのもねー、ずっと理想ではいちゃくれないのよー。何ヶ月かすれば、ヤなとこだって普通に見えてくるしー」
 足の勢いが強くなってきている。受け止める腕が痛い。
「でねー、最初はきゃわいかったヘタレな部分もちょっとずつ目立ってくるようになってー、それでクソヘタレなんて呼んでみたりしてるんだけどー」
 ちょ、待て、勢い、っ痛!
「そしたら向こうも『なんだよクソドS』って言ってきてー、それで悪口言い合ってー、で最後にはグダってー、なんか笑ってー、ちょぴっといい雰囲気になってー」
 ぴたん、と足が止まった。
「そういうのが、恋人ってやつなのよー」
 そしてゆっくりと、惰性に任せて振られた足は簡単に受け止められた。
「嫌なとこお互いあって、でもそれを相手に言っても大丈夫、って思えるの。わかる?」
「……わかんねーよ」
 返事は、それだけ。
「ふーん」
 姉ちゃんは僕の顔を少しの間見つめて、
「じゃ、あたしのアドバイスはこれで終わりだから。いやー、柄にもねーこと言うと疲れっわー」
 携帯を引っつかんでベッドから立ち上がり、そそくさと僕の部屋を出て行った。また、バタンと乱暴に扉を閉めて。
「あー」
 それを見送って、ベッドの上に身体を投げ出す。
 ――――ありゃ、気付かれてたな。
 あらかじめ精一杯表情を作ったつもりだったけど、多分姉ちゃんはそれすらも見抜いてたに違いない。あいつはそういう奴だ。
 昔から歯向かってみてはいるけれど、全く持って敵わない。
 あれもまた、いつか越えてやるべき関門なのだ。
 そして。
 今日のところは敵からの貸し一つを大人しく受け入れよう。
 あの返事は嘘。
 姉ちゃんの話を聞き終わって、僕の心の中に浮かんできたのは、ひとりだけだった。
 枕を引き寄せて、タオルケットを被る。時計は10時をちょっと過ぎていた。
 もうベッドの上を転がることはない。
 あとはこのことを忘れないように、そして始業式へと近づくために、眠るだけ。

       

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Neetsha