Neetel Inside 文芸新都
表紙

明日天気になあれ
困ると走りだしたくなる轟真澄君の方向音痴について

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 その日も俺は走っていた。
 なんで走るのかと聞かれると、答えは持ち合わせているけれど恥ずかしいから答えたくはない。
 昼休みの廊下はやる気のない生徒達の掃除じゃ物足りないのか若干ぬめっていて、薄っぺらな上履きと相俟って非常に滑りやすいのだが、全力疾走が半ば日課になっている俺の場合無様にすっころぶ様な事はなかった。ただ、曲がり角で誰かとぶつかってしまう事は何度かあり、そのせいで朝教師と擦違うと「廊下を走るんじゃない」と挨拶される羽目になった。
 だけど今日も走っている。
 今、俺は困っていた。
 遠くで俺の姿を認めた女子生徒が道を空けるために廊下の端へと寄っている。その心遣いは嬉しいけれど、おかげで俺はいつからか廊下のど真ん中を走らされるのがお約束になっている。
 多分、皆もどっかで俺が走っているのを一日一回は見ないと落ち着かないんじゃないんだろうか。
(それはそれでこっ恥ずかしいんだが……)
 女子生徒は「また走ってる」と言う顔をしているのかもしれない。だけど俺はそれを確認する事はなかった。それよりもかなり手前で俺はスピードを落とす。辿り着いた教室のドアに手をかけると、俺は勢いをつけて全開し、叫んだ。
「安西いいいいい!! 大変だあああああ!!」


「……相変わらず元気だなぁ」
 僕、宮古一縷は2-Cのドアを勢いよく開けてその場で叫んでいる轟真澄君を、呆然と口をあけて眺めていた。毎度見られる光景、ではあるのだけど僕を含むクラスメイト達はいつまでもその勢いに馴染む事は出来ず、いつもいつも驚かされている。僕の隣に座っていて、大人しくて気が小さく、そして身体も小さくてまるでお人形さんみたいな麻布響さんは「ひっ?」とこれまた小さく悲鳴を上げて両手で持っていたノートを床に落としていた。
「はい」
「あ、ありがと」
 拾ってあげると可愛く微笑む彼女に、僕は「全然」と笑い返す。最近彼女もようやく僕に慣れてきてくれたようで、最近は授業中に問題を教えてもらったり、休み時間中に彼女が読んでいた小説のタイトルを聞き出したりもする。
「……なんだよ、うっせーなぁ」
 呼び出された彼の友人である安西計良君が椅子に座ったままそう言うと、轟君はズカズカと大股でそちらへと歩み寄っていった。興奮しているのか肩で息をしている。彼のクラスは2-Aだから距離にすればほんの十数メートルしかないけれど、僕が見る彼はいつもここに来るのにとんでもない苦行を乗り越えてきたかのようで、きっと教室を飛び出してから、いや、もしかすると走るために立ち上がった瞬間から呼吸を行う事を忘れてしまっているのかもしれない、と思ってしまうほど疲れきっていた。
 いつも全力疾走している男の子。
 もっとも彼に言わせるといつもそういう訳ではないらしい。自分が走っている時と言うのは「やばいくらい大変な時」だけなのだそうだが、僕には毎日「やばいくらい大変」な事に遭遇しているように見える。しかしもしそうならそんな人生とはなるほどあのように疲れるのかもしれない。
「で、なんだよ」
 安西君はそんな彼に――毎度の事ですっかり慣れている為で別に嫌悪している訳ではない――冷ややかにそう尋ねる。
 僕は次の授業の準備をしながら、なんとなく聞こえてくるその会話に聞き耳を立てていた。盗み聞きと言えなくもないけれど、僕は実は轟君がこうやって僕達のクラスにやってくるのを少し楽しみにしている節があった。
 彼の話は面白いのだ。その内容がどんなにバカバカしいものでも。
 それはきっと、いつでも彼が一生懸命だからに違いないと思っている。どんな事にも必死で、思わず聞かされるほうは笑ってしまうような事でも真面目に話す彼の姿はなんとなく清々しさを感じさせてくれるのだった。
「大変なんだよ!!」
「それは分かったからさっさと言え」
「……」口内に溜まっていたらしい唾をぐっと飲み込んだのだろう。一拍の間が置かれ「好きな人が出来た!」と彼はいつものように真顔でそう切り出した。
「……麻布さん、今日の数学って何ページからだったっけ?」
「38ページじゃないかな」
「あぁ、そうかそうか、ありがとう」
「? 宮古君、どうかした?」
「え? なにが?」
「え、なんか、苦しそうだから」
 もしかすると僕はちょっと性格が悪いのかもしれない。今僕はどうしようもなく湧き出てくる笑いを抑えるのに必死で、なんとか誤魔化そうと彼女に話しかけているのだ。不思議そうにしている彼女に「いや、なんでもないよ、なんでもない」と言いながら、教科書を広げ僕はなんとか落ち着くとふぅ、と吐息を零す。
「……で?」
「でって?」
「いや、だから好きな人が出来て、それでなに?」
「なにってなにが?」
「お前はバカか!?」
 呆れと怒気がごちゃ混ぜになったように安西君が声をあげた。轟君は一体なんでそんな反応が返ってきたのかさっぱり分からないと言った様子でクエスチョンマークを頭の上に浮かべているけれど、多分話を聞いている皆の上にも浮かんでいるはずだった。
「続きは!? 好きな人が誰かとか、その好きな人に告白しようと思うとか、まだそんな段階じゃないけど、どうやって相手に好きになってもらえるか、とか、なんかあるだろ!? わざわざ走ってきて」
「あ、あー、そっか、そうだよな」
 ぽん、と手を叩き、納得したようだったが、轟君は大げさに腕組みをすると「うーん」と悩みだしてしまった。そしてそのまま休み時間が終わろうとする頃「まだなんも考えてなかったからまた今度相談しに来る」と言い残し、今度はゆっくりと歩いて僕達の教室から出て行ってしまったのだった。
「……あいつ、なんしに来たんだ?」
 安西君の呟きを聞きながら、まぁ、毎度の事だけど友人でもやっぱり慣れないものなんだなぁ、と思いながら僕は今度こそ抑えきれず、一人机に座ったまま「はは」と声に出してしまっていた。
 多分「好きな人が出来た」だけを言いたかったのだろう。それをただ聞かされるだけの安西君が確かにそうやって呆然としてしまうのは仕方がない事だと思う。だってそれだけを聞かされても「あぁ、そう」以外に言える訳がない。
 でも、それが轟君の面白いところなのだ。
 彼は「やばいくらい大変な時」走り出すのだけど、その行き先はてんで見当違いで、大変な事が全く解決する見込みもない場所で、むしろこうやって呆れられたりしているのだが、やっぱり彼は明日もどこかへ向かって全力で駆け出すのだろう。


 その翌日、今度は昼休みにやってきた轟君はやっぱり「やばいくらい大変」みたいで走ってきていた。昨日の事を思うと予想は出来た事だったけど「宮古、ちょっと」と安西君に呼び出されたのは想定外の出来事だった。
「どうしたの?」
 呼び出された事に若干驚きながら安西君の隣の椅子に腰掛ける。
 轟君がそんな僕を「なんだこいつ?」と言う目で見てきた。今まで話した事もなく、殆ど初対面のようなものだったのでそんな風に見られるのは仕方ないと思いつつも、僕の方からすれば、今更「はじめまして」なんて言う気には全くなれなかった。
「こいつ、宮古って言うんだけど」
「どうも」
「で、こいつ轟」
「よろしく」
 安西君が簡単に紹介をする。だけど僕もなんで呼ばれたのか、轟君もなんで僕を呼んだのかはさっぱり分かっていなかったが、そんな僕達の事なんて安西君は知ったこっちゃないと言うようにさっさと話を進めた。多分、無意味に話を引き伸ばす事が面倒くさかったのだろう。
「如月寧々先輩って知ってるだろ?」
 そう言われて僕は首を縦に振った。如月寧々先輩は僕と同じ陸上部に所属している。僕は短距離走をメインにしているのに対して先輩は長距離を得意としているので普段練習は別だけど、面倒見のいい先輩でそれなりに付き合いがあった。
「どんな人なんだ?」
 あまり彼女の事を知らないらしい安西君がそう尋ねてくる。だけどそれを聞きたがっているのは彼ではなくて、轟君だと言うのは僕でもなくてもきっとすぐに分かっただろう。
「あぁ、轟君の好きな人って如月先輩なんだ」
「な!? なんで知ってんだ!? 俺なんも言ってねーぞ!?」
「昨日あれだけ騒いでたら誰だってそう思うよ」
「……そ、そっか」
 轟君はまるで自分だけの秘密がばれてしまっている事に――どうしてあれでばれてないと思えるのだろうか――その身を縮ませた。
「まぁまぁ、いいじゃん、宮古は口固いから誰にもちくらねーしその先輩の事知りたいんだろ?」
 そうフォローされ、轟君はまだ納得していないながらも、開き直ったのか「うん、まぁ」と零した。
「その先輩って彼氏いるの?」
「さぁ、聞いた事ない。でも今度聞いてくるよ」
「マジで!?」
 耳を塞ぎたくなるような声。
「……マジで。なんなら好みのタイプや、ご趣味なんかも聞いてこようか?」
「お前、いい奴だな」
 たまに君をネタにして笑っているけどね。
 内心でそう言う僕の心情など知りもしない彼は、笑顔で僕に手を差し伸べてきた。どうやら握手をしたいらしく素直にそれに応じると、彼は何回もぶんぶんとその手を上下に振って、僕は思わず顔をしかめてしまう。
 だけどそうしている彼はやっぱり清々しくて、僕はそんな彼に少なからず好感を抱いていた。
「でも、どうせなら陸上部に君も入ればよかったのに」
「なんで?」
「だって、いっつも走ってるし」
「あぁ、でも俺走るの別に好きじゃないしな」
「嘘だぁ!?」
 思わずそう叫んだが、彼は本当に走るのが好きじゃないらしく、やたら首を横に振っていた。どう考えても、僕よりも走りこんでいそうなのだが――元々僕は不真面目だったし――彼は出来るなら走りたくないと言う。
 どうにも信じられないのだが追求しすぎてもしょうがないので適当に話を切り上げると安西君が、
「で、彼氏いなかったら告るのか?」
 と言った。
「え?」
「いや、え? じゃなくて」
「あ、あー、そっか。どうしよ。恋人がいるかどうかしか考えてなかった」
「……普通告白して付き合いたいのが先に来て、恋人がいるかどうかを気にするもんじゃないのか?」
 まるで考えてもおらず、今気がついた。
 そんな様子の彼は「え、えっと、そうだよな、俺先輩の事好きだもんな。いや、でも告白って」とかぶつぶつと呟き、その内思考が限界に達したのか「ま、また考えとく!」と言うと、ガタンと音を立てて立ち上がり、やはり全力疾走で教室から飛び出していってしまった。
「……だからなにがしたいんだよ、あいつは」
 そして、取り残された安西君は溜め息を吐き、僕はやっぱり面白い人だな、と苦笑を零した。


「如月先輩は彼氏いますか?」
「え……いないよ?」
「そうですか。ちなみにどういう異性がタイプですか?」
「えっと、一緒にいて楽しい人、かな」
「分かりました。ありがとうございました」
「ちょっと待ちなさい」
 そそくさと立ち去ろうとしたがそう呼び止められた。別に服や鞄を掴まれた訳ではないので逃げようと思えば逃げられたけど、さすがに先輩を無視するような事は出来ず僕は振り返った。
「お疲れ様でした」と部活を終え、着替え終わった生徒達がそう挨拶をしながら通り過ぎていく。
 如月先輩はその一人一人に丁寧に「お疲れ様」と対応しながらちょっと困った顔を浮かべた。
「急になに?」
「いえ、ちょっとした好奇心です」
「君の好奇心は他人の恋愛事情で満たされるの?」
「そういう人結構多いと思いますけど」
「そうね……ってそういう事じゃなくて。大体、なんで私?」
「なんとなくです」
 そう適当な言い訳をすると、そんな僕の態度に「宮古君って相変わらず変わってるわね」と深い溜め息を吐かれた。毒にも薬にもならないその言葉に僕は明るく微笑んで見せるが、まだ「お疲れ様」と言ってもらえる気配はなかった。
 確かに普段の僕はこんな事を聞くような奴ではないので先輩はきっと胡散臭いものを感じているのだろう。だけど僕が口を割らない限り轟君の事がばれる心配はないし――聞いたところによると口を交わした事もないらしい――、先輩は真面目な人で、且つ慎重な性格の持ち主だから「もしかして私の事を好きな人がいるの?」なんて一歩間違うと自意識過剰な事は言わないだろう。
「如月先輩なら答えてくれると思ったんです。ほら、話しやすいし」
「なんか大事な相談事をもちかけてる、みたいな言い方ね、それ」
「大事ですよ」
「私に彼氏がいるかいないかのどこがよ」
「もし、彼氏がいたら如月先輩がどうしてその人に惚れたのかとか、別れる予定があるかどうかも聞きたいくらいです」
「……はいはい。彼氏はいないし、最近告白されるような事もないし、いい雰囲気になったりするような相手も今のところいないわよ。これで満足?」
「充分です。これ以上ないってくらい」
「でもちょっと私が気になってる子はいるけど」
 呆れた口調で言う先輩に、僕は頭を下げてそろそろこの場を離れようとしたが、その言葉にぴたりと動きを止めた。
「はぁ、先輩が片思いしてるって事ですか?」
「うーん、恋と言うほどかは分からないけど」
「ちなみにその人ってどんな人ですか? 参考までに」
「陸上部に所属してて」
「マジですか」
 驚いた。こんな身近な場所に先輩が好意を寄せている相手がいると言う事を僕は気付いてもいなかったし、想像すらしていなかった。しかし考えてみるとこうやって一緒に切磋琢磨する事によって育まれる恋愛感情があってもおかしくはない話だ。
「ちょっと変わってる子で、普段なに考えてるのか分からないんだけど、意外に行動力があったりするみたい。あまりお喋りなタイプじゃないけど、誰とでも結構仲良くなれて、話し方に余り嫌味がないかな。裏表を感じさせないからさっぱりしてるのかも」
「ふんふん」
「あとはたまに意味の分からない事を私に尋ねてきたりするわね」
「そうですか。分かりました。参考にします」
「……ちょっと」
「はい?」
 なぜか急に不機嫌そうな口調になる。僕はなにか失礼な事をしただろうか? と思案するが、どう考えても話している先輩に頷いていただけの僕がどうやって先輩の機嫌を損ねられるのかさっぱり見当がつかなかった。
「……どうしようもないくらい鈍感な人って言うのも加えておいて」
「分かりました。僕の想像だと要するに先輩が気になってる人は、社交性はあるけどちょっと皆から浮いてるような変な奴って事ですね。挙句鈍感と来ているけど、そんなところもまたいいかな、って感じですかね? あ、最後にもう一つだけ聞いていいですか?」
「なに?」
 もう好きにしてくれ、と言うような面持ちをしている。一体どんな好奇心でこんな事を聞いているのかとでも思っているのだろうか。
 僕自身は確かに好奇心を抱いてはいる。それは先輩に対してと言うより、この情報を轟君が耳にして一体どんなアクションを見せるのかと言うことにだけど。
 そして僕はその好奇心を満たすために、再度口を開いた。
「先輩の趣味はなんですか?」
「……これ、お見合いじゃないよね?」

     

 告白する、と轟君が決めるまで大体一週間程を要した。そしてその間に十回以上僕は彼が走り回る姿を眺めた。一日一回以上の全力疾走を、叶うならタイムを計りたいとも思う。彼はいつでも手を抜かなかったし、その内の何回かは教師に足止めされこっぴどく叱られたりしていたけれど、その翌日の彼はきっと今までの最速を叩き出したんじゃないだろうかと思うほど早くて、そうやって走っている間の彼の表情はとても晴れやかだったし、額に光る汗は爽やかなものだった。
「じゃあ、行ってくる」
「おう、走るなよ」
「分かってるよ!」
 その日の放課後、僕と安西君に見送られ、轟君は歩いて教室を出て行った。
 僕が見つめたその背中は今から告白をすると言う緊張や不安がありありと見て取れた。
「うまくいく……とは思えないけどな」
 机に頬杖をつき、安西君がそう零した。僕も正直に「まあね」と答えていた。
 朝、靴箱に「放課後小運動場に来てほしい」と言うラブレターを入れるという古風なやり方を選択した――それをちゃんと先輩が手にしたかどうかを確認したのは僕だ――轟君だが、それが報われるかどうかは怪しいものだった。彼は毎日忙しなく走り回っていたけれど、その行き先は大抵僕達のところで、如月先輩の元に向かう事はなかった。安西君はしきりに僕を使って、まずはコミュニケーションを図るべきだ、と進めたのだけど、轟君はとうとう今日に至るまでそれを頑なに拒んだ。
 ――いや、ほら、恥ずかしいし。
「殆ど初対面の相手に告白する方が恥ずかしいと思わね?」
「僕もそう思うけど、轟君には轟君の考え方があるんだよ」
「ま、中途半端な知り合いになる可能性もあるしな」
 僕達は互いに似たような彼を応援したい気持ちと、同時に現実的な困難さを抱いていた。
 きっと今頃あの二人は小運動場で向かい合っているのだろう。もしかするともう告白をしているのかもしれない。
 僕達はしばらくするとどちらからともなく話すのをやめて、僕はその沈黙の中で待っている間、黒板へと近づき、白いチョークを手にした。短いそのチョークはとても書きにくく、僕はそれを戻すとまっさらの予備のチョークを断りもなく取り出し、再び黒板に向き直る。
 意味のない曲線を幾つか描き、なんの意図もなかったそれが次第になにか意味のあるものに変わろうとしている頃、静かにドアが開けられた。
 もし、彼がいつものように廊下を全力疾走していたら、その足音はこの教室まで響き渡っていただろう。だけどこの静けさをもってしても、彼が戻ってきた事に気がついたのは、そうやってガラガラとドアが音を立ててからだった。
 力の加減を間違えたようで、黒板に押し付けた長いチョークがポキン、と真ん中あたりで折れてしまい、足元へと落ちる。
 轟君は、その床で何度か跳ねたチョークをじいっと見つめていた。まるでそこに自分を重ねているかのように。
 ちらりと横目で安西君を見た。彼も、きっと轟君の姿を見て察したのだろう。どう声をかけたものか判断しかねているようで、バラバラに位置し、作られた三角形はしばらくその形を崩せずにいた。
「……やっぱ」
 それを崩そうとしたのは轟君だった。
 チョークがやがて微動だにしなくなる頃、彼はそう零し、近くにあった椅子に腰掛けると僕達を見ないようにしながら、待っていた僕達に聞かせるように呟いた。
 待っていてほしい、と彼は言った。もし、成功したらどうするんだよ。先輩と一緒にここまで来る気か? そんな想像。もしかすると轟君も、そんな想像が無駄である事を理解していたのかもしれない。僕と安西君のように。
「振られたわぁ」
 その声は少し掠れていた。
 悔恨とか、寂寥とか、悲哀とか、そういうものを含んだ、かぼそく、深い慟哭。
 だけど僕はそこにほんの少し、穏やかなものも含まれているように思えた。


「なんか悪かったな」
「いいよ」
「宮古の事聞かれた。最近変な事聞かれたけどって」
「あぁ、先輩なにか言ってた?」
「いや、あんまり。ちょっと怒ってたみたいだけど」
 明日部活で顔を合わせるのが少々憂鬱になった。きっと振ったばかりの轟君に違う男の事をあれこれ言うのも悪いと先輩なりに遠慮したのだろう。
 あれから学校を出た僕達は逆方向の安西君と別れ、電車通学をしている轟君が使う駅へと向かっていた。僕は彼に合わせて自転車を押しながら彼と並んで歩いた。
 こういう時どう声をかければいいのだろう。
 今まで何度か失恋をしてきた友人を見てきたけれどいつまで経ってもそれに慣れる事はなかったし、正しい対処の仕様なんて分かる事もなかった。慰めの言葉なら幾らでも口に出来るけれど、それを聞いて慰みにはなっても、それは一過性のものでしかなくて、結局その傷は時の流れに本人が身を任せる事でしか埋められない。
「月並みだけど元気出して」
「大丈夫だよ。お前が思うほど落ち込みまくってるわけじゃないから」
 轟君が道路に設置された自動販売機を見かけ「ちょっと座ろうぜ」と言い、それに答える間もなく小銭を渡された。どちらにせよ断るつもりもなかったので、素直に自販機でジュースを買うと、そこからもうしばらく歩き開けた川原へとやってくると近くにあったベンチに腰を下ろした。
「まぁ、へこんだけどさ」
「そりゃあそうだよね」
「でもまぁ、しょうがねーなって」
「もうちょっと、違うやり方をすればよかったかもしれない」
 僕がそう言うと彼は「まあな」と苦笑した。
「安西のいうようにしてりゃもうちょっと違う形になったかもしれないとは俺も思う。友達くらいにはなれたかも、とか」
「今からでもよかったら協力はするけど」
 そう言うものの彼は「いいよ、今更」と本当に勘弁してほしいと言うように首を振った。
「俺もそういうやり方もありかなと思ったんだけどさ。やっぱ、なんか違うんだよな。俺の性に合わないって言うか」
 炭酸飲料を彼はぐっと持ち上げた。彼の喉が力強くごくごくと動き、僕は少し驚く。
 やがて口を離し彼は大きくげっぷをした。なんだかおっさんみたいなその仕草に、やっぱり今の彼の中にあるものは痛みだけではないのだと再認識する。
「もしかして轟君って」
「あん?」
「今、満足してる?」
「あ? ……あぁ、まぁ、そうかもしれないな。振られたけど俺が好きって事は伝える事が出来たし、今まではそれが出来ずにもやもやしてたからさ」
「そっか」
 彼がジュースを飲み終え、僕もそれに合わせて残りを飲み干すと近くにあったゴミ箱にそれを放り投げた。
 立ち上がり再び僕らは歩き出す。やがて交差点に差し掛かり「じゃあ、僕こっちだから」と自転車に跨ろうとすると、そんな僕に轟君が手を差し伸べてきた。
「どうしたの?」
「ほら、お前、いきなりだったのに協力とかしてくれたじゃん。結構嬉しかった。ありがとな」
「そんなの気にしないでよ」
 それでも僕は手を伸ばし、彼の手を握った。僕の手が触れると少し圧迫感を感じるくらい強く握られるけど、その感触は不快なものではなかった。
「走って帰るの?」
「なんで?」
「やばいくらい大変なんじゃないかな、と思って」
 なんとなく聞きたくなり、そう尋ねると、彼はいつもの自分の姿を思い浮かべたのか「あれはさぁ」と恥ずかしがるような表情を浮かべた。
「走らねーよ」
「そうなの?」
「別に今やばくないし」
「そうかな」
 僕達高校生にとって、告白が失敗に終わり恋愛が散る事よりもやばい事なんてあるだろうか。
「あれは、そういうやばいじゃなくてさ……なんつーか、なんも出来ない自分が嫌って言うか、うまく言えないけど、胸の中がもやもやする時ってあるだろ? そういう時走りたくなるんだよ。どこでもいいから、ただ走って、こんがらがってる頭の事を忘れて走って……そうしたらさ、すっきりするんだよ。頭の中がクリアになったみたいに。ただそんだけ」
「クリア?」
「そ。うじうじしてじっとしてそこから動かないでいるとそんだけで腐っちまいそうだって思うんだ。そういう時に体全部思いっきり動かして、全身に風を浴びて行こうと思った場所まで走りきるとさ。さっきまでの自分より前向きな自分に出会える気がするんだよ。なにも出来ない自分から、なにかしようと思える自分にさ」
 そこまで言って、彼は自分が言っている事に恥ずかしくなったのか「ま、まぁ、そんな感じだ」と誤魔化すようにぶっきらぼうに言い残し、駅へと向かう道にその足を向けた。
「じゃあね」
「おう」
 背を向けたまま、彼は言った通り走り出す事無く、ゆっくりとした足取りで歩いて、僕はその姿が見えなくなるまで彼を見送った後、何気なく空を見上げる。
 自転車を道の脇に寄せて、軽く屈伸運動をしてから、十メートルほど向こうにある電柱を目標にすると、僕は全速力でそこまで駆け出した。
 ほんの数秒。
 いつもよりも短いその距離を、僕は前ではなく、上を見ながら駆け抜けた。
 なんの強制もなく、目標もない、そのただ走るだけの行いは、だけどなぜかいつもより体が軽く感じられ、僕は電柱に思い切りタッチをすると今度は自転車へとそのまま走り出す。
 風を感じる。普段ならわずらわしいそれが、なぜか今はそれを感じる事が楽しい。
 速度を緩め、自転車の前で立ち止まる。短い距離なのでそれほど息が乱れると言う事はなかったけれど、僕はわざと大げさに「ぷはぁ」と息を零した。そしてそのまま自転車に跨り帰路を辿る途中、
「なるほど」
 と満足げに呟いた。


「ねぇ、麻布さん。この前面白いって言ってた小説を読んだんだけど」
 あの告白から一ヶ月ほど経っていた。僕は相変わらずの毎日を過ごしながらこうやって麻布さんが楽しんでくれるような会話を探し続けている。
 轟君も今は失恋の傷も癒えたようで、時折安西君と一緒に僕を遊びに行こうと誘ってくれたりするようになり、今ではすっかり友人だ。
「どうだった? 恋愛物ってあんまり男の子って好きじゃなかったりするけど」
「そんな事ないよ。面白かった。最後まで付き合うのか離れるのかどちらか気になって一気に読んだよ」
「本当? よかったぁ、つまらないと思われたらどうしようって思ってたから」
 ただ、あれから轟君は全力疾走する頻度が少し少なくなっていた。
 彼の歯を食いしばって失踪する姿を見るのが好きだった僕は残念だけど、彼にとってはいい事なのかもしれない。
 ありがちだけど、恋愛の失敗を乗り越えて人は成長する、と言う定説に彼も当てはまったと言う事だろう。
「ところでさ、その小説買った時に一緒に買った小説があるんだけど」
「うん」
「これも面白かった。こっちは逆にあんまり女の子が好まないかもしれないけれど」
「なんて小説?」
 僕は彼について訂正しないといけない。
 彼は決して方向音痴と言う訳ではないと言う事。
 その走りはそもそも元々どこかを目指していた訳ではなかった。その走りは実際のところなにもなく、その行為によって周りになにか変化をもたらす事もない。だけど轟君にとっては、それはちゃんと意味を持ち、必要な行為であり、そして、そうやって走る事で、周りへの繋がりを生む為の「自分」と言う、正しい方向へと向かう。
「実は今持ってきてる」
「ちょっと読んでみていい?」
「貸してあげるよ」
「え? いいの?」
「うん。まぁ、麻布さんが迷惑じゃなかったらだけど」
「そ、そんな事ない……ありがと」
「うん。ゆっくりでいいから」
 僕は微笑んで彼女にそれを渡した。
 そして彼女がちょっと恥ずかしがるようにその小説を受け取った時――ガタッ、と大きく音をあけて教室のドアが開かれ、
「安西いいいいいい!! 宮古おおおおおおお!! 大変だあああああああ!!」
 と轟君が誰の目も憚る事無くそう叫んだ。
「ひいっ?」
 びくんと肩を震わせた麻布さんが驚いた声を上げハードカバーの小説が床に転がる。僕はそれを拾いながら、久しぶりに見る轟君の歯を食いしばり、肩で息をするその姿に苦笑する。
 やっぱり恋愛を乗り越えて幾らか成長したって、それでもまだ冷静じゃいられない「やばいくらい大変な時」は幾らでも存在する。
「だからうっせーよ、轟」
 安西君は慣れた素振りでそう言い返す。僕は轟君の叫びに自分の名前が加わった事にまだ違和感を覚えて少し恥ずかしかったりもするのだけど。
「ご、ごめんなさい、落としちゃって」
「ううん、いいよ。はい」
「今日、持ってかえって読んでみるね」
「うん、ぜひ」
 彼の全力疾走に付き合う事は楽しいと思う。
 その全力疾走の行き先を最後まで見てみたいとも思う。
 その走りが、素晴らしい明日へと動き出すための助走になるように。
 彼は今日も、意味のない全力疾走で、走り続ける。

       

表紙

winterfall 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha