Neetel Inside 文芸新都
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夏帆と俺の365日
夏帆と俺の365日「四月」

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四月というのは不思議な月だと思う。

張り詰めた空気が雪とともに溶け、麗かな小川に流れ行く。上を見上げてみれば透き通るような青と、淡くそれでいて力強い桃色が散らばっている。人々はそれらを見て、聞いて、触れて、春の訪れを実感する。
春の訪れには、二つの側面がある。
よく使われている表現だ。
「春は出会いと別れの季節」だって。

出会いと別れ。喜びと、悲しみ。
でも、別れには本当に悲しみだけしかないのか、僕はまだそれが分からないでいる。


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やはり桜というものは日本人にとって特別な存在なのだろう。夕方に近い時間帯に公園に向かうと、そこは既に人で溢れかえっていた。花見、とは言っても誰も上を見ることはなく色とりどりの食材の入った弁当や酒を飲み食いするばかりである。花より団子、とはまさにこの事だろう。
「うわー凄い人だね」
二、三瞬きをして彼女が言った。蜜のような光沢と甘い香りを放つ髪の毛に花びらが添えられていた。吸い込まれそうな黒髪に、桃色はよく映えていた。
「うん、そうだな。本当に、凄いな……」
喧騒に包まれた空間の中で、僕は体温がみるみる上がっていくのを感じ、周りの熱気のせいでむせ返りそうになっていた。
「どうする? 今日は止めにしとく?」
僕は指先で鼻の頭を軽く撫ぜながら言った。僕が困った時にみせる、悪い癖だ。眉間にしわを寄せた僕とは対照的に、彼女は明るく笑っていた。
「ううん、今日がいいの。だって、こんなにみんな楽しそうなんだもん。こんなん見せられちゃ、楽しまないわけにはいかないよ。それに……」
桜を見上げて、彼女はすうっと息を吸い込んだ。どこか切なげな表情と春の木漏れ日と桜の木は、バルビゾン派絵画のように美しく組み合わさっていた。
「それに、桜の花、ってすぐ散っちゃうから……だから早く見ておきたいの」
彼女はそう言って僕に微笑みかけてくれた。眉間の皺とともに、僕の中で何かがほぐれていくのがよく分かった。
「そうだな。そうだよな、せっかくお弁当も作ってくれたんだしな」
「そう、だよ」
彼女は、笑った。
それを見て、僕も笑う。

公園の中を突き進んでいくが、なかなかいい場所は見つからない。
どの桜の木も既に占領済みで、それなのに誰も桜の木を見ようとはしていなかった。無論、僕も桜の木だけを見に来たわけではないのだが、権利を勝ち得ておいてそれを駆使しないのは何だか腹立たしかった。思わず、舌打ちが漏れそうになる。
「ねえ、楽しそうだね、みんな」
彼女が、静かに口を開いた。
「みんな、楽しそう。人も、桜も、みんな。だから、私たちも……ね?」
首を少し傾けて、母親が子供をたしなめるような口調で彼女は言った。
すぐに腹を立ててしまう、僕の悪い癖だ、と僕は目を閉じた。
「ごめん、そうだな。……でも、座る場所がなあ……。……お?」
歩き疲れてため息が零れてきそうなときに、ようやく見つかった。程よく桜の木がよく見え、少し開けて、静かな場所。
「あった! あったよ夏帆!」
僕は走って、慌てて鞄からブルーシートを取り出した。
あんまり慌てるものだから、こけそうになり桜の木に思い切り頭をぶつけてしまった。
ぷっ、と風船が破裂するような笑い声。
「あは、あはははは! 何やってんのもう。あははははは」
腹を抱えて笑う彼女は、幼い子供のようだった。純粋に、ただ純粋にわらう少女。
僕は大げさに顔をしかめ、頭をさすった。
「わ、笑うなよ! それより、心配ぐらいしてくれたっていいだろ?」
「はいはい、ごめんごめん。大丈夫だった?」
そう言って彼女は優しく、桜の幹をさすった。
「そっちじゃなくって!」
あはは、あはははは、と今度は二人して笑った。

ブルーシートを敷いて、四方に重りとして大きめの石を置いて僕らは腰かけた。
腰かけると、歩いてきた疲れからか、自然と深い息が零れてきた。
「あー、おじさん臭いんだー」
いたずらをするような表情で、彼女がからかってきた。
胸がむずむずとこそばゆく、声を出さずにはいられなかった。
「夏帆、下ごつごつするの気にならない? もしあれだったら場所変えるけど……」
「え、大丈夫だよ? どうしたの急に優しくなって……でも。……ありが、と」
何だか照れくさくて、顔をあげることができなかった。
すると、彼女はそっと桜の花びらを僕の前に差し出してくれた。
見上げると、桜よりも桜色に染まった彼女の顔がそこにはあった。
僕はふっと笑い、勢いよく弁当箱のふたを開いた。花の匂いと、土の匂いと、陽光の匂いと、食欲をそそる芳ばしい匂いが広がった。
「すごいな、これ、全部夏帆が?」
「えへへ、そうだよ。本見ながらだけどね」
弁当箱を開くと、そこにも、花が咲いているようだった。
卵焼きの黄色、唐揚げのきつね色、ほうれん草の緑色、ミートソーススパゲティのだいだい色、おにぎりには白と黒。頭の上よりも、鮮やかな景色がそこには広がっていた。
「いただきます!」
「どうぞ、召し上がれ」
僕が夢中になって頬張るものだから、彼女は「もう、下ばかり見ないで上も見ようよ。こんなに綺麗だよ、桜」と言ったのだけれど、そんな事を言う彼女がやはり桜以上に愛おしかった。

「ちょっと、トイレ」
「うん、じゃあ待ってるね」
彼女を置いて、僕はトイレに向かったのだけれど、彼女が遠くになって群衆の中に消えていくのが何だか不安になって、用を足すと急いで彼女の元へと戻った。
僕がトイレから戻ってくると、彼女は土いじりをしているらしく、胸があたたくなる思いがした。
「もう、何やってんだよ夏帆。土いじりなんて、子供みたいなこと」
僕が後ろから突然声をかけたせいか、彼女はひどく驚いた様子でこちらを見てきた。
「は、早いね。ちゃんと、手洗ったの?」
「洗ったよ、それより、夏帆の方が手洗わなきゃいけないんじゃないの? 土だらけだよ」
「それもそうだね」
また、二人して手をたたいて笑いあった。
土の匂いさえ、愛おしかった。

「ねえ、あっちの池の方行ってみようよ」
僕の服を引っ張るようにして彼女が立ちあがった。
橙色に包まれていた世界がいつの間にか紫色に染まりつつあった。
風はあまり吹いていなかったが、水面には小さく波が立っていた。
沈み込みそうな鉛色の上にも、ここにも桜は咲いていた。
彼女は欄干に両肘をつき、腕にあごを置いて池に波が立つのを見つめていた。僕は後ろから、そんな彼女を見つめていた。
白いカーディガンが透けて、彼女の体も透けて、池の水と溶け合っているような気がした。
「ねえ」
周りの馬鹿騒ぎの音にかき消されてしまいそうなはずなのに、何故だかその声はすんなりと耳に入ってきた。
「来年も、またお花見しようね」

何だか、その言葉には確信めいたものがあった。
でも、僕もきっと、いや、絶対にそうなるだろうことは分かっていた。
それでも、僕は彼女に対して残酷な返答を返すことしかできなかった。
「そうだな、また、来年も。その先も、ずっと……」


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この言葉から、ちょうど今日で一年経つ。
けれども、僕のとなりに、彼女はいない。やっぱり、彼女はいない。
桜の木から花弁をひとつ摘み取って、ふう、と飛ばしてみる。支えを失った花弁はどうすることもできず、ひらひらと、池に音もなく落ちて行った。

今、桜の花を見上げ、僕は思う。
彼女と、僕が過ごした、あの一年間のことを。

       

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