Neetel Inside 文芸新都
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夏帆と俺の365日
夏帆と俺の365日「二月」

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 その日、僕らは映画を見た。
 製作費が何十億円もかかった超大作らしい。確かに映像は凄かったのだが、内容は少しも胸に残るものがなかった。どれだけ金をかけようと人の心に残らなければ意味がないのだな、と勝手な解釈をして、僕はため息を一つついた。

「つまんなかったねー、あの映画」
 スプーンを回してホットティーに砂糖を混ぜながら彼女が喋る。彼女も僕と同じ感想だったのかと、少し嬉しくなる。
「だよなー。CGばっか使って、金かければいいもんじゃないのにな」
 本当は、映画のことなどどうでもよかった。彼女と会えるのなら数千円をどぶに捨てようとも構わなかった。
「やっぱ、手作りだよ。手作り。人が手でつくるから、心が込められるんだよなー」
 発してから、映画評論家気取りな発言だったかと少し恥ずかしくなり僕はカップを持ちあげて口元を隠した。
「でも、凄かったよねー。映像は」
 違う。僕がしたいのは、映画議論ではない。
 手作り、というキーワードは回りくどかったか。鈍感な彼女が気づくには、どんな言葉が適しているだろうか。
 砂糖の入っていないホットティーを口に含んで、甘いものが食べたいと思った。

 本日、二月十四日。
 バレンタインデー。

 正直、チョコレートなどどうでもよかった。だが、思いの丈をチョコレートで測ることができるのなら、やはりチョコレートは重要な意味を持ってくる。

 このところ、彼女の気持ちが僕から離れているような気がして、たまらなく不安になる時がある。これは勘とかいった曖昧なものから来る不安などでは断じてない。
 近頃、彼女はぼうっとしている時間が多くある。今までもぼうっとした印象の子であったが、ここ最近のそれは、やはり過剰なものに思えるのだ。
 僕の話を聞いていないことが多い。僕が話したことを覚えていないことも多い。連絡がとれないことさえある。それは、僕に興味が無くなったからなのだろうか。それとも、何か他の理由があるのだろうか。

 会えない時間が多くを占めるようになった。
 あのクリスマスの夜以来、僕らは会える時間は会おうと、約束したはずだった。だが、今月に入って彼女に会えることができたのは、今日だけだった。

「ねえ、聞いてんのー?」
 彼女の言葉に、引き戻される。慌てて口を潤そうと口をつけたホットティーの表面が温度を失っていた。
「あ、ああ。えっと、なんだっけ?」
 彼女は子供のように両頬を小さく膨らませてスプーンをくるくると回した。
「もう、人の話きかないんだから」
「ごめんごめん」
 ぼうっとした彼女に人の話を聞いていない、と指摘されるのは滑稽だなと、口の中だけで笑う。
「だから、さっきの映画。ラストシーンは絶対に続編があるぞー、って終わり方じゃなかった?」
 また、映画の話か。
 口に出したはずはなかったのだけれど、顔に出たのかもしれない。
 それはまずかった。それがまずかった。

「なに、なんなの? なんでそんな態度なの?」
 カップを音を立てておき、彼女が不満を露骨に表わした声を出す。彼女の強い言葉に思わず身をのけぞらせてしまいそうになる。突然に、さっきまでの柔らかい空気が硬直する。
「キミ、おかしいよ。人の話聞かないでぼーっとして、聞いたら聞いたでつまんなそうな顔して」
 それはこっちの台詞だ、という言葉はなんとか飲み込んだ。
「何なの? せっかく、久しぶりに会えたのに……」
 そこで彼女はうつむいてしまった。逃げ出したくなるような嫌な空気が空間に広がる。この空間を打破しようと、言葉を探す。
「ごめん」
 後悔は言い終えてから襲ってきた。余りに適当な、余りに即席な、余りに無感情な言葉だったのは、自分でもよく分かった。
「なにそれ」
「いや、ごめん」
 だが今更、引くに引けなかった。僕は何に対して謝っているのか分からないまま、平謝りを続けた。
「悪かった。ごめん」
「帰る」
 帰ってきた言葉は、余りに残酷で、余りに感情的なものだった。

 千円札をテーブルの上に投げるように置いて彼女は立ちあがった。
「多すぎるけど、これ」
 千円札をつまみあげて、彼女を見やる。
「あげる」
 そう、短く彼女は言いきった。
 
 彼女の足音が遠ざかり、彼女の背中が遠くなる。
 無感情なはずだった。
 無感情に言った言葉のはずだったのに、何故だか感情が揺さぶられて仕方がなかった。
 どく、どく、どく。
 血が音を立てて流れているのがよく分かる。心臓の音が、耳に響く。

 もう、終わりかもしれない。
 その言葉が頭に過ぎり、息が止まりそうになる。
 終わり?
 終わり。声に出してみると、心臓が痛くなる。
 きりきりと、心臓に穴が空きそうだ。
 駄目だ。駄目なんだ。
 きり、きり。
 心臓に穴が空いて、僕はどうしても走り出さずにはいられなかった。

 僕は、彼女の置いた千円札の上に更に千円札を置いて走り出した。
「すいません、会計、ここに置いときますから! お釣りは、いらないです!」
 そう叫んで、後ろを振り返ることはしない。
 確か会計は二人で1200円ほどだったはずだ。
 800円は、仕方がないと僕は口の端で笑って、彼女の後姿を追いかけた。

 群衆の中でも、彼女の姿はすぐに見つかった。
 後ろから彼女の肩に手をかけ、息も整わないまま声をかける。
「夏帆!」
 振り向いた彼女はひどく驚いた顔をしていたが、声の主が僕だと分かると、すぐに憮然とした表情に戻った。
「なに?」
 足を止め、彼女は真っ直ぐに目を見て話す。とげのある、突き放した言い種だった。
 周りの目は、気にならなかった。
「ごめん、今度は、本当にごめん!」
 彼女の手をつかみ、勢いよく頭を下げる。汗が、コンクリートに吸い込まれていった。
「え、なに?」
 今度の彼女の言葉は、丸みを感じさせるものだった。
 それでも、僕は頭を下げ続ける。
「ごめん、ごめんごめん! ごめん!」
「わ、分かった、分かったから!」
 慌てた声の彼女。
 顔を上げると、頬を薄い桃色に染めた彼女の顔があった。
「もう、周りの人が何かと思って、見てるじゃん」
 確かに、いくつかの目が僕らに向けられていた。彼女は横を見ながら「恥ずかしい」と小さな声で言った。
 だが。やはり僕には周りの目は気にならなかった。
「いや、本当ごめんな、夏帆」
 白い息を吐き出して、彼女が口角をあげる。
「もう、いいよ。こっちこそ、ごめんね」
 そう言って、彼女は肩から提げていたカバンから小さな紙袋を取り出した。
「じゃあはい、これ」
 突然彼女に紙袋を差し出され、僕は困惑した。
 困惑して、僕はそれが何を意味するのかが分からなかった。
「もう、ちゃんと受け取ってよ」
 彼女は僕の手に紙袋をそっと置いた。
 紙袋には、確かな重量があった。
「欲しかったでしょ? チョコレート」
 僕の目を見ないで、彼女が言う。
 完全に、両頬が弛緩しきってしまった。弛緩しきって、僕もまた彼女の目を見ることができなかった。
「本当は、形に残るもの、ずっと残るもの、渡したかったんだけど……やっぱ、バレンタインだしね。チョコレートの方が、良いでしょ?」
「うん。いや、ううん、何でも、嬉しいよ。気持ちが、嬉しいんだ。ありがとう、夏帆」
 僕らは目を見ないまま会話を続けた。

「下手くそかもしんないけど、ううん、きっと美味しいから」
「うん」
「味見ちゃんとしたから」
「分かってるよ」
「お返しとか、そんなん別にいいから」
「ちゃんとするよ。倍返しに、いや、十倍返ししてやるよ」
「いいよ、そんなの。キミ、貧乏学生なんだから」
「いいや、十倍返しだ。決定だ」
「もう。……じゃあ、来月、期待しとくよ?」

 喫茶店で余分に払った800円も、少しも惜しくはなかった。
 数十億円で作った映画も、原価数百円のチョコレートには到底かないやしなかった。
 鼻で息をすると、冷たい空気に、心なしか甘い匂いが溶け込んでいるようだった。

 二月十四日。 
 バレンタインデー。

 最高の日だった。最高の日のはずだった。
 だが、この日を境にまた、僕は彼女に会えない日が、長く、続くのだった。

       

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