Neetel Inside 文芸新都
表紙

権謀のヴィエルジュ
E'pisode 1 「Re'veiller de la vierge(天使の目覚め)」

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 故アレクサンドル・ホイットロー公爵曰く、彼の息子のアンジュ=アレクサンドル・ホイットローはよくできた子だったという。
 大天使アシュタロスと王や偉大な人物の寵愛をもたらす天使エリゴールが与えてくれた、まさに奇跡の子だったそうだ。
 若くして才覚を現し、パレ・ドゥ・ダンジュ宮殿騎士団の団長に就任。すでに病床にあった父からコルヌエトワールという彼の愛剣を授かった後、早々に反旗をひるがえし、時の皇帝・ロア・シュバリエを見事打ち倒した。
 ホイットロー公爵家が産んだ新たなラ・ヴィエルジュが、パレ・ドゥ・ダンジュの新たな皇帝となった瞬間だった。



 そんな歴史的な事件が起こったのは二年前、私の家系が没落してから数年後の食事にさえ困るほど暮らしが追い詰められた頃。私が緋薔薇館という花館に女娼として身を投じる事になってしまったちょうどその時だ。
「天使様(ラ・ヴィエルジュ)ね……」
 その言葉を誰かが呟くたび、アンジュ=アレクサンドル・ホイットローの名を聞くたびに、その言葉を発した人間を顔がブドウのようになるまで殴り倒す、もしくはその場の窓から外へと身を躍り出してしまいたくなるほどに私は気分の傾斜角度を大きくした。
 今日もつい先ほど、バーでカクテルを傾けているところで、他のテーブルで現皇帝のフルネームを口にした騎士を気晴らしに殴り倒してきたところだ。
 私に叩き伏せられて昏睡した男と一緒に飲んでいた騎士が「女娼が貴族を殴っても良いのか」と私のテーブルに怒鳴りこんで来たけれど、「今は女娼でも私も貴族なんだ。正確には伯爵令嬢だ。それで、あんたらはどこ産のポークが捻り出した糞なんだ?」と言い返してやれば、それだけで毒気を抜かれて尾を巻いて逃げていった。
 流石にそれには「凡庸な騎士風情が。どうせ弱い者の空威張り程度しかできないのだろう、ざまあみろ」と罵声を浴びせて勝ち名乗りでも大声で張り上げたい気分だった。
 それだけまわりに当たり散らしたくなるほど耳にしたくない言葉ではあるが、ラ・ヴィエルジュならびにこの国の皇帝という存在はパレ・ドゥ・ダンジュのあるキーウィタス・ディ全土では生ける伝説なのだ。

 伝説に諸説はあるが――父なる神とその下に存在する彼の分身である6の神、その7つでありながら1つの神が統べる72柱の天使とは別に天から地上に舞い降りた天使が存在する。それが、ラ・ヴィエルジュである。
 男でありながら女。
 今の皇帝アンジュ=アレクサンドル・ホイットローも前の皇帝ロア・シュバリエも一目見ただけでは男か女かわからないほどに中性的で、女としても通用する目鼻の通った秀麗な顔立ちをしていたが、その股ぐらには立派な巾着袋をぶら下げているのだ。
 ただし、それだけならただの優男で済ますことができるのだが、彼らの胸ぐらにはふくよかに膨らんだ二つの丘が形成されている。まさに性別のない天使のような存在というわけだ。
 ラ・ヴィエルジュとして産まれてきた人間は背中の両の肩胛骨には赤い痣があり、それは地上に舞い降りた時に失った羽の名残と言われているのだが、天界にいた頃の力で何らかの奇跡を起こすことができると信じられている。
 ロア・シュヴァリエが騎士皇帝やら騎士天使と呼ばれていたのは、ただ単にアンジュ=アレクサンドル・ホイットローと同じく宮殿騎士団の出身だからという訳ではなく、騎士として自ら戦陣を疾風のように駆け幾多の屍の山を作り上げて、この国を作ったからだ。
 天使様(ラ・ヴィエルジュ)が作った国だからパレ・ドゥ・ダンジュ(天使の宮殿)というわけなのだけれど、その天使の作った国が同じ天使に乗っ取られるのだから皮肉な物なのかもしれない。
 私からすると、ラ・ヴィエルジュなんて存在はビーフの出した糞にでもまみれさせてやりたいと思うほどに憎い存在だ。
 ざまあみろと罵詈雑言を浴びせかけてやりたいところではあったが、その国を乗っ取った方のラ・ヴィエルジュはもっと憎い存在だったから前の皇帝にはお気の毒様としか言えない。
 その理由は私とアンジュ=アレクサンドル・ホイットローとの関係にある。
 とは言っても、実際のところ私とアンジュ=アレクサンドル・ホイットローに面識がある訳ではない。
 ただ母親から聞かされた話では、コケット・カミーユ・カールスタイン――私の名前だ――はいわば、現パレ・ドゥ・ダンジュ皇帝アンジュ=アレクサンドル・ホイットローと一緒に産まれてきた双子の姉。つまるところ、私はラ・ヴィエルジュを産むためにできた絞りカスだったということだ。
 それだけではない、アンジュ=アレクサンドル・ホイットローの養父は――彼が病床に伏す前ではあったが――腰巾着として扱っていた私の父をもう用済みになったからとコルヌエトワールで突き殺しているのだ。
 同じ母親の股から産まれたというのに、弟は実の父親と同じくこの国の皇帝、一方で姉である私は男達に愛の神ラハブの奉仕と称して性を売る女娼。
 幸い、容姿だけは実の父親――前皇帝ロア・シュバリエ――の血を受け継ぐ事ができたのか、琥珀色の蜂蜜のような肌と天然では珍しいプラチナブロンドの髪、自分で言うのもおかしいが他の花と引けを取らないほど壮麗に育った面貌を見た緋薔薇館の庭師は私を夜咲く花々の庭に招き入れることに難色を示すことはなかったが、それでも私は不服だった。
 本当にラハブを信仰している人間だったら、愛の神ラハブに身を捧げ神娼として奉仕できることは誉れ高いことなのだ。
 しかし、私が緋薔薇館に来る前の生活で私が信仰していた神とは性の概念が真逆だったのもあり、いまだに自分が緋薔薇館で夜に咲く誉れ高き花ではなく、ただ自分の身を切り売りする女に成り下がったとしか思えないのだ。
 自分が女ではなく男として産まれて来ていればそんなこともなかったのかもしれないと思うと、そんな呪いたくなるような自分の17年の人生にむかっ腹が立ってくる。
 この差は一体何だ、と隔靴掻痒する気持ちをぶつけるように、今夜もヴァイオレットフィズばかりを呷っていた。

「夜咲く花々の庭の緋薔薇の一輪が、騎士を殴り倒すだなんてなかなか聞ける話じゃないよ。まるで蛮勇みたいだよ、コケット」
 聞き慣れた穏和な口調がおせっかいを言うのに、私は振り返った。
「私は男になりたいんだ、シャルロット」
 いつのまにか席の隣にいた一歳下の、真鍮のような色をした金髪の少女に私は言った。
 彼女は私の言葉を聞き流し、腰より少し高いスツールに腰を下ろして小言を呟いた。
「せめて飲むんだったらヴァンロゼにして欲しかったな」
 シャルロットは私より三ヶ月だけ早く緋薔薇館に来た女娼だ。
 ラハブの神官の娘で、私と違って幼少から詩、歌、ワインの注ぎ方から、寝室での作法、まで手ほどきを受け神娼になるべくして育っている。緋薔薇館の次期名花候補としても申し分ないと呼ばれているような子だ。
 くるくると巻き上がった髪と、花のつぼみのような小さな唇ががまた可愛らしく、その可愛らしい外貌と同じく性情は無垢な部分が残る。
 彼女は私の少し早い先輩ではあったが、普段の彼女はまるで口うるさく私におせっかいをかけてくる妹のような存在だった。
「またヴァイオレットフィズなんかを口にしているんだ。蒼薔薇館が出す悦楽酒だけど、私たちの所ではヴァンロゼを出すんだから。そんな香りの強いカクテルを口にしちゃだめ。それにコケットは茨館の方が似合ってる気がするよ」
 夜咲く花々の庭には様々な花館があるが、正統派と言われている緋薔薇館とは違い、蒼薔薇館と茨館は花館の中でも特殊な部類ではある。
 蒼薔薇館は男の客が男装に身を包んだ女娼、女の客が女装に身を包んだ男娼を買う花館ではあったが、最近は男の客を取る男娼や女の客を取る女娼もいるようになったそうだ。
 茨館は女娼が鞭打っては嗜虐の悦びを与える事を奉仕としており、客は半死半生の悦に浸りたいから茨館に通い詰めるのだ。
「そうは言うけれど、私は鞭を手にする趣味はないよ。そんな事を言ったらシャルロットは白薔薇館の方がお似合いなんじゃないか?」と私は肩をすくめて見せた。シャルロットが目を細め、苦笑する。
 白薔薇館は姫花の館とも言われており、彼女のような可愛らしい容貌の花達が世間知らずを装って可愛らしく客に甘えるのがそこで行われている奉仕であり、シャルロットも外見は幼く見えても心までは無垢な少女ではないからそういう反応をしてしまうのだ。
「私は白薔薇館の色じゃないよ」
「私もだ」と私が答えると、シャルロットがくすりと表情を綻ばせた。
「そうかな? コケットは奉仕の時に客を殴ってるらしいじゃない。茨館の庭師が名花についてた客が緋薔薇館に流れてるって嘆いてたよ。茨館の名花から客を奪えるなんて、どれだけ乱暴にお客を扱ってるんだろうって首を捻ってたくらいだった」
「毎日たわわに実ったブドウが拝める程度さ。緋薔薇館の規則は破ってはいないつもりだ。だって、私は客の望んだ事をしているだけだから」
「汝の欲するがままに愛せよ。私達に神娼とって、愛に尽くすことができることが幸せだからね」
「ラハブ様の教えは、私にはよくわからないけれどね」
「でも、コケットは殴るの好きなんでしょ」
「さあね」
 そういえば、と私はシャルロットがここにいる理由が気になって、スツールに腰掛けた彼女に向けた視線を上下させる。
 確か、夜咲く花々の庭が開くのはまもなくだ。それなのに、シャルロットは奉仕の時に着るドレスでバーにいるのは妙ではある。今夜の彼女には客が招かれているはずだった。
 私がどうしてと聞く必要もなく、シャルロットは私の瞳の先が自分に向けられていることに気づいて口を開いた。
「お客はちゃんと出迎えるよ」
 私は目を丸くする。
「じゃあ、何で私の隣で話なんかしてるんだ」
「コケットを館に連れ戻してからちゃんと出迎えに行くから」
「連れ戻す?」
 悪い冗談だと鼻で笑う。
 今夜私の花上げ料を払った客がいたという話は聞いていない、それに接見は花上げ料の支払いがあってから太陽が二回沈んでからだと決まっているはずだ。花館の花の奉仕を受けるには、それ相応の額というものを支払わなければならず、即日という特別待遇は認められていない。
「今夜の私は花つぼみだ」
 私が街着のチュニックの裾を引っ張って見せる。今夜の予定がなかったからこうやってバーで飲んでいたのだ。
 しかし、シャルロットは眉を寄せて興言利口で言っている訳ではないと唇を尖らせた。
「大事なお客が来てるの」
「私は何も聞いてない。花館の規則はきちんきちんしているんだ、そんな嘘を言うものじゃないな」
「本当に来ているの!」
 シャルロットの小さな手が、私のチュニックの袖を強く引っ張った。
「コケットが今夜着るドレスは庭師が用意してくれてるよ。嘘だと思うんだったら館に戻って聞いてみて」
 それは懸命な言い方で、本当にシャルロットが嘘を言っていないのではないかと思ったが、わからないのは花館の厳格な規則を曲げてまで接見する程の人物が何故私に会いたがるのかだ。
 私は飲みかけのカクテルをそのままに背の高いスツールから降りる。
「わかったよ、行くから。それでどこの貴族が来てるんだ?」
「初めてのお客だと思う。少なくとも、今まで夜咲く花々の庭に出入りしている所を見たことはないよ」
 ますますわからない。
「ただ本当に大事なお客だから、興に乗って殴ったりしないようにね」
 そう言うと、シャルロットもスツールを滑り落ちるように降りてカウンターテーブルを後にする。小足でちょこちょこと歩いていく彼女の背中をしばらく静観してから、私はおぼつかない表情を浮かべてその後を追い掛けた。

     

   2

 夜咲く花々の庭の13ある花館では、それぞれ客を出迎える際には決められた作法と規則がある。
「全ての人を愛し、恋人のように愛に尽くせ」はラハブの教えの一つだが、例えば緋薔薇館ではその教えの解釈を額面通りに真っすぐ受け取っていて、客を出迎える時は恋人のように振舞うように決まっている。
 初めて迎える客の場合は男女の仲になったばかりの恋人との落ち着かないくすぐったさを演出し、愛顧を受けて常連となっていくに従って徐々に長く付き添った恋人として振舞いを変えていく手順を踏んでいくのだ。
 出迎える際には丁寧で畏まった情動を見せなければならない初客だというのに、酔って夢世界をさまよっているようなあり様での出迎えなどは気が引けるものがある。
 自分の粗野な性格はわかっている。それでも花館での最低限の礼儀作法くらいはもちろん気にはかけるが、納得がいかないのはどうして取り急いで今夜なのかがわからないからだ。
 即日に奉仕を受けたいという客、ましてや常連ではない客の我儘を通すほど、夜咲く花々の庭の花館の規則は徹底されていないはずがない。
 私達が緋薔薇館に戻ると、シャルロットは客を出迎えに行った。今夜の彼女は長春花の寝屋らしい。
 私はそれを見届けると、小急ぎに庭師へと詰め寄った。
「ロシエル、今夜私はいったいどこの貴族の相手をするんだ。こんな特別待遇なんて今までなかった。館の規則を破ってまで出迎えるほどの大物か?」
 ロシエルが後ろで束ね上げたイシュト人特有の黒い髪と薄黄色の肌をした顔に歯切れの悪い表情を浮かべ、眼窩にはめた片眼鏡を指で押し上げた。
「シャルロットには何て聞いたのかしら?」
「大事な客が来ていると言っていたが」
「ふぅん……」
 ロシエルがしばし黙り、間をおいてから頷いた。
「なるほど。確かに。なるほど。ふぅん、なるほど」
 声の位置をころころと変えながら、
「確かにそう言ったわね」一人で納得するように言った。
 彼女は緋薔薇館が抱える庭師達の中でも一番若い女の庭師で、私とシャルロットのお目付役だ。
 花館に身を投げ入れたばかりで神娼が当たり前に知得するべき事柄など目に一丁字も無い私に礼儀作法や詩、歌、奉仕の際の性技を叩き込んでくれたのも彼女だ。
 片眼鏡をしている容貌通り、彼女の立ち姿からは知性が溢れ出ていて、実際彼女の寝室は彼女が趣味で収集した術書の数々で埋め尽くされている。
 だが、教えてくれる性技は彼女が物好きで集めたほこりかぶった旧約術書からの出典ばかりに偏向しているので、緋薔薇館の他の花からは伝統的な奉仕を教えてくれると皮肉を向けられている。
「ニオイスミレの香りがする。パルフェ・タムールを使ったカクテルでも飲んできたの? せいぜい貴方の大好きなヴァイオレット・フィズかしら。相当できあがっているわね」
 ロシエルが片眼鏡ごしに、情熱的に火照った私の顔を覗き込む。
 私は肩をすくめた。
「ああ、本当なら今夜は花つぼみだったからな。こんな状態だから、今夜の客は追い返してくれないか」
「問題ないわ。貴方はカッカしやすいし、客を殴る奉仕もしてしまうけれど、望まない客には抑えようとわきまえるからね。それにニオイスミレの香り……むしろ好都合かしら」
 軽やかに笑う。
「どういうことだ」と私。「普段のロシエルなら、口うるさく説教をするじゃないか。今日はどういう風の吹き回しなんだ」
 ロシエルはくすりと笑み、言った。
「行ってみればわかるわ」

 それでロシエルに急かされるままに、今夜のドレスに――緋薔薇館での私の衣装の中でもとびきり上質な緋色のベルベットのドレスに、緋薔薇のコサージュを髪飾りにして――身を包むと、その客を出迎えに行った。
 ロビーへと向かう途中、客の手を引いて長春花の寝間に入っていくシャルロットの姿を見た。
 頭に被った薄桃色のボンネットが似合うその可愛らしい後ろ姿は、やはり白薔薇館の女娼なのではないかと見間違えるほどだ。
 彼女はヘッドドレスをコサージュかボンネットにするか気分で変えているそうだが、あどけない容貌のシャルロットとは違って私がボンネットなどつけようものならちょっとした田舎娘に見えてしまい、客に笑われてしまうだろう。
 つくづく、彼女の魅力とは自分は毛色が違うのだと思わされる。
「神娼としてなら、シャルロットが羨ましいかも」
 美麗でありながら、その中に勇ましさがある高貴な女娼。
 客は私のことをそう言ってくれるものの、やはり彼女の美しさと可愛らしさを兼ね備えた目鼻立ちは自分にはない魅力というところか。

 ロビーは各寝間へ通じる広間の見上げるほど大きな扉の向こうにある。
 今夜の奉仕を仕切る庭師達の一人は、女たらしのルイらしい。
「よおコケット、随分と遅かったな。それに――」
 ルイは吐息がかかるほどに顔を近づけて、私の唇を奪おうとするそぶりを見せる。
「酒臭いな」
 呟きそっと顔を離すルイに、私はむっとした表情を向けた。
「シャルロットにバーで飲んでるところで呼び出されたんだ、ルイ」
「今夜は花つぼみだったらしいな。ご愁傷様だな。ロシエルの紹介らしいが、まったくあいつも無理を押し通すよな。どうせだったら今夜は俺が術書にも書いてない技を仕込んでやってもいいぜ」
 抱き寄せようとするルイの手を私は振り払い、ピンヒールの底で足を踏みつけた。
「馬鹿を言うな、庭師が自分が世話をしていない花を摘み取るのは御法度だろうが」
「痛いな……何をするんだ」
「何をするんだじゃないな、そんなことだからお前は最低の男なんだ。お前はビーフの糞以下だな。大嫌いだ。寒気がする。人として薄っぺらい。パレ・ドゥ・ダンジュ宮殿前で私はビーフの糞以下の糞だと懺悔してから人生を三度ほどやり直してこい。大嫌いだ」
 散々に罵倒した後、私は扉へと視線を送りルイに目配せをした。
「それより客を待たせているんだろう? 早く扉を開けてくれ、糞野郎のルイ君」
「ああ、悪かったよ。それにしても酷い言い草だな」
 渋々といった表情で、ルイが扉を開けた。
 その開いた向こう、今夜の私を指名した客が絢爛な薔薇のレリーフがところどころに彫り込まれた壁の下に佇んでいた。
 それに慎ましやかに近づいていき、客の姿を見ると私は目を丸くした。
 緋薔薇館の規則をおいそれと破ることのできる階級の人間、それこそ皇帝お付きの公爵程度の人物が訪ねてきているものだと思っていたのだが、そこにいた者の姿は私の推察からはかけ離れていたのだ。
 その要因はその身包みにあった。
 まず顔につけられた仮面を見、はじめは私はその客はクレマチス館の神娼だと思った。
 クレマチス館で抱えているのは男娼と女娼の両方だが、彼らは奉仕中に仮面をつける習慣がある。
 しかし、少なくとも男娼ではないのがわかったのは仮面から視線を下ろしたからだ。
 胸のあたりで着衣を二つの丘が押し上げているのを一目し、私は客が同性であることを理解する。
 緋薔薇館の花は女娼しかおらず、そもそも男の客しか取らない。
 だが、おかしいのはそれだけではない。
 彼女の着衣は緋薔薇館の物とは細部に違いがあり幾分か豪華ではあるものの、およそ庭師の着ている装束に近い物で、左胸にはレースとフリルを集めた紺青のジャボ――ロシエルも真緋の物を胸に飾っている――が彩られていた。
「どういうことだ……?」
 いまいち状況が理解できないと気抜けしてしまった私に、仮面の女は口元に薄く笑みを浮かべた。
「君がコケット? 夜咲く花々の庭ではダム・ドゥ・リオン(獅子の淑女)と陰で噂されているが、なるほど。確かに勇ましく凛然と咲いた花のようだ」
「ダン・ドゥ・リオン(タンポポ)? 悪いけど、柄じゃないな。それにあんな小さな花じゃ勇ましいなんて似合わない。花言葉の『思わせぶり』とでも皮肉を言いたいのか?」
 値踏みするような口振りに腹が立った私は、「それで貴方は? 見た所庭師のようだけど、今夜の客は貴方なのか?」と捲し立てた。
「私が客? 君を買ったと?」
 そう言い、彼女は笑い出した。
「なるほど、確かに君を買ったことには違いない。もっとも、私が買ったのは今夜の君との玉響ではないがね」
「どういうことだ」と私。
「蒼薔薇館で庭師長をしている、レーヌだ。君を蒼い花として招き入れたい。私は君のその気高さを買ったのさ。それに、君からは私達の館に居る花の香りがするからな」
 ロシエルがニオイスミレの香りがするのは好都合と言った理由がわかった。
 蒼薔薇館の悦楽酒はヴァイオレット・フィズ。
 飲む香水と巷では呼ばれているが、蒼薔薇館では媚薬だと信じられていて、実際にニオイスミレの香りは蒼薔薇館を象徴する物の一つだ。
「私が? 蒼薔薇館に?」
 私は思わず瞼を上下させた。
「私に女と寝ろと?」
「真っ直ぐな言葉だな。確かに君には蒼薔薇館の女娼として奉仕に従事してもらうが、私が君に求めているのはそういうことではないんだ」
 私が訝る表情を向けると、レーヌという庭師長は仮面の下の口元を薄く歪ませた。
「君はラ・ヴィエルジュ、今の皇帝アンジュ=アレクサンドゥル・ホイットローをよく知っているだろう?」
 その言葉をレーヌが発した瞬間、私の中で見えない手枷が外されたかのように怒りが解放される。爆発的な激情が心を支配し、気がつけば私はレーヌに殴りかかっていた。
 いつもの発作だ。私が騎士を殴り倒したのもこれが原因だった。
 だが、私が振るった拳はレーヌの仮面を殴りつけることはなかった。
 見透かしたように彼女の腕によって詰め寄る私の腰は柔らかく抱き止められ、彼女の身体に引き寄せられたからだ。
 レーヌが抱き寄せた私の耳元で囁く。
「そうだ、それで良い。そうでなくは。君が彼を憎んでいるのはよくわかっているよ」
 その声は甘く、柔らかで、例えそれを聞く相手が男であろうと女であろうと関係なく彼女の腕の中に自然と身を預けてしまいそうな、甘美な声だった。
 それは奇跡の術のようにさえ感じられた。
 酒に酔っているからだろうか、私も思わずその声に心酔してしまいそうになり、熱を上げた頭で何とか言葉を返そうとする。
「私の……何を知っているんだ」
「全てさ。君が皇帝の双子の姉だと言うことも知っている」
「……私に求めている事とは何なんだ」
「姉より優れた弟などいない。君の弟に復讐をしたいと思わないか。蒼薔薇館に来ればその方法を教えてあげよう」
 胸の中が跳ねるような感覚がした。
 はっと我に返り、彼女を突き放してその腕から逃れる。
 鼓動が乱れている、息が苦しくてこの仮面の庭師長を直視する事ができない。
 レーヌは動揺する私を見て、肩をすくめた。
「答えは急がないよ。じっくりと考えると良い」
 レーヌが踵を返し、そっと右手を挙げて背中越しに挨拶をする。
「良い返事を期待しているよ」
 夜咲く花々の庭の中央へと消えていく背中を、私は惚けたまま見送るしかできなかった。
 身体に纏わりつく温もりと、まだ耳元を去らない彼女の甘辞の余韻を感じながら。

     

   3

 あの後、手すきになった私はもう一度バーに行く気にはなれず、寝室に戻ってあのレーヌという庭師長のことばかりを考えていた。
 彼女の囁きの残響が酔った頭の中を幾度となく支配し、胸が騒ぎたててくれるのがたまらなく思えて、私の熱は引くどころか高まるばかりになり寝台の上で横になっていてもしばらくは寝付けそうになかった。
 一体私はどうしたのか、今まで同性相手にこんな気分になった事は一度も無かったのだが、熱を持った躰がまだ彼女の温もりを求めている気がして、認めたくないと思う感情が反発して更に私の胸を騒がせる。
 少しでも自分を落ち着かせようと、ロシエルから借りたマドレーヌの外典術書の手淫の章を読み進めてみたが、やはり先ほどのことが頭から離れなかった。
 もし何かの拍子でフルール・ドゥ・リスの書でも借りようものなら、私の顔は熟れた林檎のようになっただろうと思うと、まだ気分はましとは言えるだろう。
 あの術書には女同士の場合の奉仕について事細やかに書かれていて、蒼薔薇館の女の客を取る神娼の手引書になっているのだ。
 こんな気分でそんな物を読もうものなら、どうにかなってしまいそうだった。
「コケット、まだ起きてるの?」
 シャルロットが部屋に入ってきて、寝台の上で横になっている私に声を掛けてきた。
 寝返りを打って彼女を見てみると、今夜の奉仕を終えてすぐ部屋に戻ってきたのだろう、彼女の小さな丸顔にうっすらと熱が残って薄紅色になっていた。
 私は読んでいた術書を、口淫の章に差し掛かったところで枕元に放った。
「ああ、眠れなくてな」
 私とシャルロットは相部屋だった。
 一人前の神娼と認められるまでは、同じ庭師の下で指導を受ける者と部屋を共にすることになっている。
 シャルロットが奉仕に掛ける時間は長い。
 私はさっさと済ませてしまうことも多いが、彼女は客とゆったりとした時間を過ごしてじっくりと悦に浸らせるそうだ。
 シャルロットはラハブの神官と緋薔薇館の花との間に生まれた、まさに神娼となることを運命づけられたような子だった。彼女の母親は名花だったというが、彼女の奉仕は母親譲りの客に尽くし切ることを善しとしていた信条をしっかりと守っているからなのだろう。
 それだから彼女が帰ってくる頃には私は先に眠りについていることも多かった。
「今夜のお客、どうだった? コケット、すごく酔ってたから何か失敗とかしなかった?」
 再度寝返りを打ち、ドレスを脱ぎ始めたシャルロットに背を向ける。
「いや、今夜の奉仕は無かったよ」
「お客が待ちわびて帰っちゃったってこと?」
「客には会ったさ。ただ、いつもとは毛色が違ったよ」
「毛色?」
 シャルロットが聞き返してくるのに、私は黙り込んだ。
 彼女には私がカールスタイン家の人間ということは教えていても、パレ・ドゥ・ダンジュ皇帝との因縁については言っていない。
 あのレーヌという庭師長にラ・ヴィエルジュへの復讐を持ちかけられた話などしても、彼女には全く関係のない話だ。
 それもあって、私は脳裏で伝える言葉を選んでから口を開いた。
「蒼薔薇館の庭師長が来てたんだよ。私を蒼い花として迎え入れたいらしい」
「コケットが? 蒼い花に?」
 ネグリジェに着替えたシャルロットが、寝台で横たわる私に飛びついてくる。
「凄いじゃない! 蒼薔薇館に引き抜かれるなんて、コケットの魅力が認められた証拠だよ。緋薔薇館から蒼薔薇館に移る神娼なんてなかなかいないよ!」
 そう言ってシャルロットは自分のことのように喜び、私の背中に彫られた緋薔薇の刺青に頬を寄せた。
 神娼が歩んだ人生は背中が語る。
 そう言われているのは、神娼が貴族から受けた花上げ料によって少しずつ背中に刺青を入れていく習慣にある。
 花上げ時期は神娼が19歳になる頃だが、普通は一つの花館で花上げまでの期間を過ごし、花上げする頃にはその花館を象徴する花が背中に咲き乱れていることになる。
 無論、他の花館を渡り歩いて花上げした神娼は背中に様々な種の花が咲く。
 私の背中の半分は緋薔薇が咲いていたが、もし蒼い花になることを選べばその赤い花園に蒼薔薇が書き加えられていくことになるのだ。
「だけどな……」
 ただ私には不安があった。
「どうしたの?」
「シャルロットは私に女が抱けると思うか?」
 率直な疑問を投げ掛けた。
 本当は疑問はそれだけではなくて、あの仮面の庭師長のラ・ヴィエルジュへの復讐の方法という胡散臭い釣り餌に食いついていいものかというのもあったが、それよりも単純に私は同性への奉仕の仕方に関してはさっぱり無知だった。
「コケットだって女でしょ。別に怖い物じゃないけれど」
「それはそうだが、私は蒼い花になる性徴がある訳じゃない」
 各花館への振り分けは何らかの性徴、例えば茨館ならば嗜虐的な行為を好む等の特徴を表した者が選ばれる。
 蒼薔薇館の花は同性を愛することができる、もしくは異性装を好む性徴が無ければ選ばれる事はない。
 私はあの忌まわしい名を口に出されれば発作的に人を殴りつけることはあっても、嗜虐的な性徴を持っている訳ではなく、あくまで何ら特異な性徴を表すこともなくただ見目が美しかったからという理由だけで緋薔薇館に入れられただけに、今更蒼い花になれる自信は私にはなかった。
「だったら」
 私の反論にそう言って、シャルロットは背中から腕を回して私を甘く抱き締めた。
「試してみたらいいじゃない。私で」
 シャルロットが思わぬことを言い出したのに驚いて、私は彼女に向き直った。
 ネグリジェの薄い布地は小柄な彼女の上半身にぴったりと貼り付いて、その小さな身体とは対照的に美しく豊かな胸元を強調させていた。
 それは、レーヌの温もりと囁きが身体から離れずもやもやとしていた私を刺激して、どうしてそうなったのかは私にはわからなかったが、今夜彼女を支配したいという欲が心を満たしていくのがわかった。
 きっと客に奉仕する時にはそんな顔をしているのだろう、シャルロットが小悪魔が誘惑するようにそのふっくらとした唇に笑みを浮かべ、
「何その驚いた顔」
 私の頬にキスをする。
 瞬く間に頬が熱を帯び始めたのがわかった。
「シャルロット」
 私は彼女を止めようと名を呼んだ。
 しかし、シャルロットが慣れた手つきで私の寝間着のボタンを外していくのにどうして良いかわからず、結局私は生娘のようにそれに従った。
 シャルロットが私の欲望のありかを探るように、肉厚の唇と舌を胸元から下へ這わせる。
 肌を走る快楽に私は口をつぐんでいたが、シャルロットは私が声を押し殺していても何をして欲しいのかがわかっているのか、自由な両手を大腿に這わせ寝間着のスカートを託し上げた。
 シャルロットが脚の間を撫で、私が甘く吐息を漏らすのを見てから唇を当てがう。
 蜜舐めはフルール・ドゥ・リスの書にある高度な性技で、私もその存在は知っていたものの、シャルロットの守備範囲にその技があるとは思っておらず、私は舌の先端が奥深くに入ってくるのにはしたなく声を出してしまっていた。
 彼女は女の客を取る女娼ではなかったが、書物や伝聞で勉強してきた知識だけでこれほどまで身震いするほどの快楽を与えてくれるのかと、私は驚嘆するしかなかった。
 私は絶頂を迎えた声を漏らすと、心の中にあった欲を表に出した。ただ彼女との時を楽しみたい、その思いがシャルロットの細い肩に手をやって寝台に押し倒した。
 仰向けにばったり倒れ、シャルロットの金色の巻き髪が乱れて肩のあたりにこぼれる。
 そこへ私がのしかかると、彼女は笑みを浮かべて言った。
「そう、それで良いんだよコケット」
 その言葉に私ははっとし、してやられたと表情をしかめる。
「私で試してみて」
 しかし、彼女が耳元で囁いてくるのに、私は自制心を頭の隅へと追いやった。
 そして彼女の言う通り、そうした。
 私達は太陽が昇るまで互いを高ぶらせ、その行為に耽った。行為は私の中で新たな欲望を燃え上がらせたが、それで私が蒼薔薇館の花となる自信をつけたかというとそうでもなく、その時はまだ緋薔薇館に残るかレーヌの誘いを受けるか迷っていた。
 しかし、私が蒼薔薇館に行かざるを得ないと決意するようになった事件は、私がシャルロットとの一夜を過ごした次の夕方に起きた。

     

   4

「全ての人を愛し、恋人のように愛に尽くせ」という言葉を私は嫌というほど聞いているが、ラハブの教えを忠実に守っているかの如何は疑わしいところだった。
 何度も言うが、夜咲く花々の庭に来る前の私はラハブではなく、他の宗教を信仰していたからだ。突っ込んで言えば、パレ・ドゥ・ダンジュの正教が祀る全能の神ルシフェルを信じてその教えが染みついていたからというのもあるが、そもそも客相手に深い情を持ったことがない。
 それどころか、どんな男を相手にしてもそんな愛などという感情を抱けた試しが無かった。私にとって神娼は売女であるとしか思えなかったからなのかもしれない。
 ラハブの教えに従い、緋薔薇館の花らしく恋人のように振舞うことはあれど、それはあくまで表面上の話だ。
 心の底まで愛を持って奉仕に臨んだことなど今まで一切なかったけれども、ただシャルロットとの一夜は、そんな私にその感覚を植え付けてくれた。
 それは、些細な物ではあったが、変化だった。
 シャルロットの細い指先に私の指を、そして可愛い舌を絡め取って、小さな彼女の熱を肌で感じることで得られる快楽は、奉仕の前に呑む悦楽酒よりも私を至上の悦に浸らせてくれた。
 代わる代わる、時に同時に、私達は脚の間に掌を忍ばせ、撫でさすり、唇をつけ、舌先をさし入れた。互いの舌が奥深くまでに入り込んでは、二人で絶頂を迎えて甘く声を漏らした。
 始めは囁く程度だった声も次第に甲高くなっていったが、隣の部屋で他の女娼達が寝ていることなどどうでも良く思えるほど没頭していた。
 単純に、その変化とは私が女を抱けるようになったということではなかった。
 疲れて眠るまで飽きることなく互いを求め、相手が欲するままに尽くし続ける行為に私が抱いた心というのは、ラハブの教えにそぐう心持ちを私が持てた証拠だった。
 それこそが私に起きた本当の変化だった。
 そう。シャルロットに私が向けた想いは、きっと愛だったのだ。

 その日に起こった変化というのは何も、私の心境の変化だけではなかった。
 繰り返して言うが、私が蒼薔薇館へ行く決心をする変化をもたらす事件が起こったのだ。
 それが起こったのは、私達が眠るまで求め合ってから、陽が傾き西の地平線への帰路を中程までに行った頃だったか、私がシャルロットよりも先に目を覚ました時のことだった。
 まず、私は夢心地のまどろみの中で脚の間に違和感を覚えた。
 その違和感というのはどういうわけか、そこにある小突起がやけに張っている気がしたのだ。
 掌をそこへ忍ばせて確かめてみると、何やらあった覚えの無いものがそこから生えているのがわかった。
 何だこれは?
 そう考えるのも無理もない。
 手を探りいれた先にあったそれの手触りは硬く、やけに熱を帯びていた。小突起の上に長太い何かが備え付けられたような、いや、小突起の代わりに何かが生えてきたとでも言った方が良い。
 ともかく、私の股に生えたそれは、しばらく握って感触を確かめていた私の掌にはちきれんばかりにその確固な存在感を伝えてくれた。
 私にはこの触り心地に覚えがあった。
 おぼろげな思考の中で記憶を辿っていくと、それはお客として来た貴族達全てが皆持っている物と同じ手触りだということに気付いた。
 既に承知の通り、私はもう初(うぶ)な少女ではないし、神娼をしていれば奉仕の際にはご多分に漏れずそれを握らされているから、そんな物に振れる程度はポークの糞を握るよりもたやすかった。
 しかし、何でそんな物が私の股にあるのかなんてことは一切思わず、私はそれを掌の中で転がしながらしばし考え込み、ぼんやりとした顔が次第にはっきりしていくにつれ、自分の身に起こった異変に気づくと驚いて飛び起きてしまった。
 おそるおそる、寝間着のスカートを自分で託し上げると、私の股ぐらには男が種を女に植え付ける道具が忽然と姿を現していた。
 それを見て絹布を裂くような悲鳴を上げることは、神娼をしている以上見慣れるどころか触れたことも脚の間にしまい込むことさえ日常と化してしまっているような代物ということもあって、さすがになかった。
 だが、しばらく大きく開けた瞼を閉じられずに股から生えたそれを凝視し、水面の虫を食べにきた魚のように口を開閉するくらいしかできないほど動揺していたのも確かで、私の寝台で安らかな寝息を立てていたシャルロットにこの異変を伝えることができたのは、結局呆けていた間にようやく彼女が目を覚ましてくれた後のことだった。 

 しばらくして、私達はこの身体の変化をロシエルに見て貰うことになった。
 私が託し上げたスカートの中へ、ロシエルが片眼鏡に指をやりながら顔を覗き込ませるのだが、こうもジロジロと見られるだけというのは初めてというのもあってか、恥ずかしさで顔に火がついてしまいそうだった。
「貴方、本当にコケットなの? もし本人だとしても、これは随分とたくましいわね」
 ひとしきり間近で観察した後、ロシエルは私の股から顔を離して言った。
 彼女はいまだにいきり立っているそれにちらちらと視線を向けていたが、彼女にとっても見慣れている物なのだろう、イシュト人特有の黄色の顔を生娘のように赤らめることは流石になかった。
 どちらかといえば、そのロシエルのあくまで理知的な視線の位置に気づいて、託し上げたままのスカートを下げてしまいたいと思っている私の方がよっぽど顔を赤くしていたわけなのだが。
 ロシエルの横で化粧台のスツールに腰掛けたシャルロットも、興味津々といった眼でじっくりと視線を私の脚の間に据えて、表情もその眺めをどこか楽しんでいるように見える。
 緋薔薇館の花となって2年間、これほどの立派でたくましい物を私は見たことが無い。それはシャルロットも同じなのだろう、その瞳はおおっぴらに好奇の色に染まっていた。隙あらば触れてみたいと言い出しかねない表情だ。
 私はこの気恥ずかしさをベッドのシーツを握り締めて噛み殺し、ロシエルに聞いた。
「私はどうしてしまったんだ? 少なくとも今朝までは私の股にそんな物はなかった」
 ロシエルが首を横に振る。
「わからないわ。私にはコケットが双子の弟とすり替わったようにしか見えないわね」
「そんな馬鹿な。本人だよ。それに、そもそも私は自分が女だと自覚しているのだがな」
「でも、今の貴方は完全に男よ。いや、男になってしまったみたいね。奇病と呼ばれる物は数あれ、こんな症状は聞いたことがない。治し方さえもわからないもの。貴方が寝ている間に何が起こったかだなんて、私が聞きたいくらいよ」
 それもそうなのかもしれない、と彼女の答えを聞いて私は嘆息した。
 それこそ男が成長していく内に乳房が膨らんでくる。そんな症状だったら、先代皇帝、現皇帝という前例があって何となしに納得行くものではあったのだが、私の場合は少々違う。
 我ながら悦に入ることのできた豊かな胸元は、今は視線を見下ろせばなだらかな平地にならされていて、陰核のあったところからは忽然とそそり立ったままの陰茎が姿を現し、両脚の間にあった逆三角の隙間にはぎっしりと種をつめているであろう巾着袋がぶら下がっている。
 腕や脚の肉付きは今までのままとはいえ、私の身体はほぼ男になってしまっているのだ。
「私がいけないのかもしれない。今朝まではいつものコケットだったもの。私がコケットを誘ったからこんなことになってしまったんだわ」
 どうしたものかと沈黙していた私とロシエルの間の静寂に割って入るようにして、シャルロットが高い声で言った。
 ロシエルが眉を寄せ、片眼鏡を指で押し上げると私に視線を向けた。
「誘った? どういうこと?」
 まずいことを聞かれたと、私は顔をしかめた。
 夜咲く花々の庭では、客以外の者を相手に性技の練習をする場合は庭師の立ち会いの下に限られている。神娼同士の情交または自分で自分を慰めるなどの行為は禁忌(アンテルディ)とされているのだ。
 花の奉仕の都合上、客以外との間に悦楽を覚えてしまい奉仕の心を乱すことを防ぐのもあるが、寝間に入る前と出た後の清めを経ずに行為に耽るお陰で病気になった神娼も多かったらしく、規則としてこれを禁じている。
 規則に口うるさいロシエルがこれを聞いて黙っているはずがない。
「コケット。貴方、シャルロットと寝たの?」
「まあ、そんなところかもな……」もごもごと口ごもり、曖昧に答える。
「何てこと!」
 ロシエルが声を張り上げた。
「貴方には蒼薔薇館の女娼として男装して奉仕に就いてもらうように言われていたのに。何でそんなことをしたの!?」
「いや、女を抱く自信がなくてだな……。それでシャルロットが……」
 言い訳する私を余所に、ロシエルが捲し立てる。
「そんなの、移ったその内は庭師の仕込みがあるから関係ないのよ! だいたい貴方は自信がないからシャルロットと寝たと言うの!? それだから変な病気を貰って、勝手に男になって……。女に戻す方法もわからないんじゃ、私はレーヌ様にどう顔向けすれば良いの!」
「それだけ蒼薔薇館の花となることを熱心に考えていたのだろう? それにシャルロットから貰ったなどと言ってるが、これは病気ではないよ。禁忌(アンデルティ)くらい、この程度なら些細なことだ。水に流してあげなさい、ロシエル」
 女の低い声がロシエルのヒステリーに割って入った。

     

   5

 その声に、私は聞き覚えがあった。
 女性の豊かなアルト、笑いを含んでいながらその中には甘く柔らかな響きがある。それで、はっと部屋の入り口に目をやった。
 蒼薔薇の描かれた仮面の奥で、アクアマリンの淡い青色の瞳が私を見ている。背中に垂れた長いお下げは穏やかな太陽の色だ。
「あんたは……レーヌ……」
「君は一輪の緋薔薇として終わる人じゃない。おめでとう、君は私の見込んだ通りの花だったな」
 どういうことだ?
 レーヌが拍手を送ってくるのに私はきょとんとすると、それで意を汲んだのかレーヌが鼻の下まで覆った仮面の下、薄い唇に笑みを浮かばせた。
「兆しが現れたのさ。コケット、君は目覚め始めたんだよ」
「目覚め……一体何のことだ?」
 雌花としての豊かな外見を失い、落胆していたが、送られると思っていなかった賛辞に私は戸惑っていた。
 今まで緋薔薇館の花として積み上げて来た物が音を立てて崩れ去ったというのに、この仮面の庭師長は何を言っているんだか。
「ラ・ヴィエルジュだ」
 レーヌが言ったが、何故か発作が起こらなかった。
 いつもなら目の前が真っ白になって彼女に殴りかかろうとするはずなのだが、あの甘く柔らかな声を聞いていると不思議とそんな気にならなかった。
 それが妙に思えて、私は顔を訝しくする。
 そんな私を意に介した様子もなく、レーヌは言葉を続ける。
「君がラ・ヴィエルジュになる兆しだ。私のめがね違いでなければ、君は男とも女とも違う身体になっていく」
 レーヌが託し上げたままのスカートの中を一瞥し、「それにしても立派だ。これなら男買いの女貴族でも満足させられる」と感嘆混じりに呟くのに、私はさっとスカートを掴む指を離して裾を整えると、ただでさえ赤かった顔が更に熱を上がるのがわかった。
 恥ずかしさを抑え込み、ほんの少し湧いた苛立ちで彼女を睨み付ける。
「私はラ・ヴィエルジュを産んで出た絞りカスのはずだ。何故私がラ・ヴィエルジュになると言い切れる」
「コケット」見透かしたように言った。
 仮面の奥、アクアマリンの瞳が私を覗き込むと不思議と胸が苦しくなる。
「逆に君の弟がラ・ヴィエルジュであると言い切れる根拠が君にあるのかい?」
「それは――」
 私は口ごもった。
 確かにレーヌの言う通りだ。
 確かに、アンジュ=アレクサンドゥル・ホイットローがラ・ヴィエルジュであると言える証拠を持っていなかった。
 何せ、私は彼を裸に剥いてその身体を見たこともないわけだし、そもそも同じ女の股から生まれたとはいえ面識さえもない。
 私が実の弟に憎しみを抱くようになったのも、単に父親と顔を会わせる度にラ・ヴィエルジュの血を濃く受けたアンジュの話を聞かされてきたからなのだ。
 私の胸の奥に陰を落としているのは、形の上では実子だったものの母の不貞で生まれてきたという理由で「ラ・ヴィエルジュの絞りカス」と罵られ、蔑まれ、反抗的な態度を取れば鞭を打たれながら育ってきたという過去だ。
 結局の所、私はパレードでちらりと見て瞼に焼き付けた弟の偶像に憎悪を向けているというだけで、実際にはこれと言って接点は無い。
 かと言って、売女に身を落とした――まあ、今は男の身体だが――今頃になって私がラ・ヴィエルジュだと言われても、それを信じろというのも容易にさもありなんとできる話でもない。
「君に兆しが現れたのは行幸なこと。君なら客が男であろうと女であろうと、高い花上げ料を払ってくれるだろう。それに、君を寵愛してくれる貴族も出てくることだろうな。何せ君は全ての人に愛を与えられる天使の神娼になれるかもしれないのだから」
 レーヌが言い、口元を緩ませた。
「こうしてはいられないな、早く蒼薔薇館への受け入れの準備をせねばなるまい」
 私はレーヌの言葉にかぶりを振った。
「まだ行くと決めた訳じゃない」
「では、その身体で今まで通り緋薔薇館の花でいられるとでも?」と肩をすくめる。
 女娼でなければ緋薔薇館にはいられない。それに、ロシエルが言っていた通り女に戻る方法もわからないのだ。こんなことでは女娼として夜咲く花々の庭にいることもできない。
「コケット、変な意地を張らない方が良い。私に従ってくれないか」
 レーヌがなめらかな口調で言う。
 私は寝台に腰を下ろし、ベルベットのクッションをぽんぽんと叩いて行き場の無い苛立ちを誤魔化していた。
 何もかもがレーヌの言う通りで、かといってそれに素直に従うのも勺だった。
「一つ、聞かせてくれ」
 私が言うと、レーヌはくすりと笑い「何なりと」
「あんたが言っていた、ラ・ヴィエルジュへの復讐……。具体的に私は何をやるのか、それだけ教えてくれないか」
「君が蒼薔薇館に来るのなら」
「今聞きたいんだ」
 強い口調で押し切るように言う。レーヌが肩をすくめる。
「君の弟――今の皇帝と同じように、剣を手に戦えとは言わないさ。私達が信じているのはルシフェルじゃない、ラハブだ。本来神娼が持つ武器は人を傷つける物ではない、とだけ言っておくよ」
「……なるほどな」わざと言葉を濁したレーヌの言外を理解し、思わず私はふふんと鼻を鳴らした。
「なるほど、そういうことか」
 再度確かめるように呟く。
 不思議と腹の底から笑いが込み上げてきて――これは傑作だ、と――噛み殺していた笑い声はとうとう大きな声になった。
 シャルロットとロシエルがきょとんとした目で見てくるのも気にせず、ひとしきりそうして、咳払いを一つ。
 もったいつけて、言う。
「つまりあんたはこう言いたいわけだ。"全ての人を愛し、恋人のように愛に尽くせ"」
 レーヌが笑み、「そうだ。"されば汝の欲するがままに汝は救われん"」と続ける。
 ラハブの神官だけに限らず、夜咲く花々の庭で庭師や神娼が使う常套句『ラハブの教え』に続く句だ。
 しかし、実は正教の神、全能を司るルシフェルが唱えた言葉の中にもこの句と同じ物があるのだ。
 私が込み上げる笑いが抑えられなかった。レーヌが暗に言いたかったのは、この国が正教としている宗教の教えを、私達神娼のやり方でやってみせろということだ。
 私とレーヌは互いに声を押し殺すように笑った。
 その笑いは、今になって思えば共鳴だったのだろう。私は弟への復讐を、そして彼女もまたパレ・ドゥ・ダンジュ皇帝アンジュ=アレクサンドゥル・ホイットローの失脚を企んでいたのだから。
 私はレーヌという仮面の庭師長の心奥に潜んだ影を、なんとなしにおぼろげな、漠とした物であったが、感じとったような気がした。
 その日、私は蒼薔薇館の花となることを決意し、彼女にそれを承諾した。
 きっと私は、私の欲するままに自らの救いを求めたかったのだと思う。例えそうなることで、私がレーヌの仕掛ける権謀術数の駒となるのだとわかっていても。

       

表紙

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Neetsha