Neetel Inside 文芸新都
表紙

明日、晴れれば。
プロローグ

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 まず感じたのは、光。
 陽光が、瞼の裏側まで射し込んできたように感じた。
 次に感じたのは、匂い。
 食べ物等のモノが腐ったような不快な匂いが、鼻腔を刺激した。
 そして感じたのが、痛み。
 まるで巨大な鉛が自分の体に乗っかっているかのように、重い。体のそこら中が軋み、その内側までもが淀んでいるようだった。加えて、嫌な倦怠感が身を包んでいる。
 口内を、舌でぺろりと舐めてみると、血の味がした。
 そこで、ようやく閉じていた瞼を上げた。
 雲ひとつない清々しい青空が、一気に視界に広がる。
 一羽の鳥が翻り、小さな影を僕の顔に落とした。
 届くはずもないのに、気づけば僕はそれに手を伸ばしていた。
 この手が、何を掴もうというのか。何が掴めるというのか。
 しばらくそうしていた後、力なく腕を落とす。自然と溜息が洩れた。そのままごろんと寝返りをうつ。頭上に広がる空はあまりにも広大で、美しすぎて、とても自分のような人間が永遠に直視できるようなものではなかった。
 自分が、幾つも重なった生ごみの袋の上に横になっているのだと気付いたのはその時だ。どうりで、臭いはずだ。少し視線をずらすと、遠巻きでカラスがこちらを眺めていた。その瞳からは「早くどいてくれないかなぁ」と言いたいのか、「こいつも生ゴミなのか」と言いたいのかまで読み取ることは出来ない。
 僕は、ふっと苦笑して重たい身体を上げた。白いYシャツには、ゴミの汁がすっかりしみ込んでしまっていて、顔をしかめずにはいられない。
 立ち上がり、伸びをした瞬間に重い疲労感と、目眩が僕を襲った。
 思わず壁に手を着き、もう片方の手で額を押さえた。
「ああ……」
 吐息と共に、小さく声が漏れた。
 指の隙間から、この世界を見る。僕が今いる、この世界を。
「どこだ、ここ……」
 いや、まず、それよりも――。
「僕は、誰だ……?」
 そのまま壁に背を預け、自分を落ち着かせるため、呼吸を整える作業に入る。胸に手を当て、大きく息を吸って、吐いた。それを、何度も繰り返した。とくん、とくんと胸の鼓動が一定になるまで、ずっと。
 ようやく胸の高まりや、精神が落ち着いてきたのを感じてから。
「記憶喪失、ってやつか……?」
 言って、自分の言葉ながらその単語のあまりの非常識っぷりに、滑稽さに、鼻で笑ってやりたかった。
 もしもこれが自分でなければ。他人の人生であったならば。
 もしもこれが架空の物語で、フィクションであったならば。
 だが――これが自分自身のことで、現実だと一番わかっているのは自分だ。自分が、この非現実を最も現実だと認識している。
「笑えねぇ……」
僕はそのまま、ずるずると地面に座り込み、もう一度、天を仰いだ。
 どこまでも、どこまでも高く広がる青空。
その高みの先にあるものは、なんだろうか。
僕は再度、空に向かって手を伸ばした。
そのまま、空を掴んでみた。開いた掌を、拳へと形を変えた。
それを反転させて、顔の前まで持ってきて、ゆっくりと開く。
無論、何も掴めてなどはいなかった。そこには虚空だけがあった。肩が震え、その振動を伝わってか震えた指先を見て、無性に悲しくなり、目元を覆う。
どれくらいそうしていたかはわからない。
自分の存在の不確実さに対する不安と恐怖で、身体と精神が蝕まれて、もうどうにかしてしまいそうな時だった。
「どうしたの、きみ」
 唐突に、声が聞こえた。
 透き通った女性の声だ。優しさに満ちた声だと、直感的に感じた。
「おい、ほっとけよ、そんなの」
 別の声も耳に届いた。男の声。こちらは、ぶっきらぼうで、粗雑な印象を受けた。
「ほっとけないよ。子どもが道端で倒れてるんだよ? 泣いてるみたいだよ? そんなの、ほっとけないよ」
「どこまでお人よしなんだよ」
 呆れたような男の口調。しかし、しばらく間が空いてから、溜息と共に、「わかったよ」と声がしたかと思えば、足音がどんどんこちらへ近づいてくるのがわかった。
 そこで僕は、目元を覆っていた手を降ろし、顔を上げた。
 ふたりの人物が、僕を見おろしていた。
 ひとりは、両手を胸のあたりに当てて、心配そうに。
 ひとりは、面倒くさそうに頭を掻きながら。
 先に口を開いたのは、不機嫌そうにしている男の方だった。
「あー……、なんだ、坊主。家出でもしたのか?」
 僕は、左右に首を振った。
「お名前は?」
 男の後ろから覗き込むようにして、女性がそう尋ねてきた。
「……わからないんだ」
「やべぇ……思った以上に面倒くさそうじゃねえか……」
 シュウちゃん、と男を嗜むように女性が言ってから、にこりと微笑んで、
「家とかは、わからないのかな?」
 僕は、黙ってそれに頷いた。
「んじゃ、あれだ。警察だな。俺がこいつ警察に連れて行くから、由梨香は先に家に――」
「それじゃあ、私たちの部屋に来る?」
 人間って、そこまで口を開けるものなんだな、と思わずにはいられないくらいに男が口をあんぐりと開けていた。
「おい、アホか。お前はゆりか」
「罵倒と名前が一緒になってるよ、シュウちゃん。それに百合じゃないよ、私。シュウちゃんって素敵な彼氏がいるし」
「ああ、ありがとう。俺も由梨香は素敵な彼女だと思ってる。ちげえよそうじゃねえよこのあほ」
 びっ、と僕を指さして、
「なんで、こんな怪しげなガキを俺たちの部屋に連れて行かなきゃならん。断固お断りだぞ俺は」
「でも、このままにしておくなんて可哀想だよ」
「だから、俺が警察に連れていくって言ってるだろ。厄介事にそう首を突っ込んでいられるか。警察に連れて行くだけでも結構な善良市民だぞ。それを、自分の部屋に連れていくだと? そこまで来たら善良通りこしてアホだ。むしろ犯罪に近い。天使かお前。ミカエルか」
「やだなあシュウちゃん。私、ミカエルじゃないよ」
「わかってんだよんなことぶっとばすぞ。そうじゃなくてだな、なぜ俺たちが今会ったばかりの見知らぬガキにそこまでしなきゃならんのかってことでだな」
「だって、ほっとけないから」
 男はしばらく無言でにこにこと微笑んでいる女性を見つめていたかと思うと、舌打ちをして、僕の方へ振り返った。
「おい、坊主。そういうことだ」
「どういうことですか」
「飲み込み悪ぃガキだな。話聞いてなかったのかよ」
 言って、男は強引に僕の腕を取って、引き起こした。
「ついて来い。お前を連れていく」
 どうにか転ばないように体勢を立ちなおした後、僕は尋ねた。
「どこへ?」
「俺たちの部屋にだよ」
 そうして、僕らの日常が始まった。
 それは、唐突に、けれど――運命的に。


――明日、晴れれば。――

       

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