Neetel Inside 文芸新都
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_Ghost_
一日目! その2

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最近、至福を感じられるのは眠っている時間だけだ。

しかしまだ日も昇らぬ早朝に目を醒ますと、後は夜までその至福にありつくことが出来ない。
夜は夜で寝つきが悪く、医者に掛かるのは体面が許さず、さりとて酒が飲める訳でもないからアルコールに頼ることも出来ぬ。
安価な風薬や鼻炎薬を一日の内に蓄えた憤懣と一緒に飲み込んで、カラカラに乾燥した喉の不快感で覚醒するのだ。
慢性的な睡眠不足は円滑な日常生活をおくる上で最も欠かせぬ忍耐の総量を削り、腐っても乙女な彼女的には肌の荒れる事だって我慢がならぬ。
なんのかんのと誤魔化し誤魔化し生きてきたが、最近はやたらと崩壊の兆候が、チラリチラリと物欲しそうな顔をして覗きこんでくる。
もうそろそろ、襟首か後ろ手掴まれて引き摺り倒される頃合いなのだろうか。
目を閉じても一向に眠気はやってこない。諦めて半身を起すと、古びたベッドが軋みを上げた。

ギシリ。

それは何の音? ベッドの軋みだ。生活の崩壊の音だ。私の崩壊の音だ。

ギシリ。

いっそすべて壊して吐き出して放り出して泣き叫んで、そうすればこの身もずっと軽くなる。ギシリ。頭の中に思い浮かべる妄想の数々は尽く隠微で陰湿で、どこまでいっても姑息でしかない。
下らない、と吐き捨ててベッドを殴りつけた。

ギシリ。






朝食までのしばらくの時間を、まったく只の空白で埋め尽くす作業を終えての朝七時。 クチャ・クチャ 家族の食卓が始まる。 クチャ・クチャ 皆が皆、押し黙って用意された食物を口に運んで飲み込む作業を繰り返す。クチャ・クチャ カチャリカチャリと耳に煩い食器の音だけがすべて。 クチャ・クチャ いや、父の咀嚼音だ。クチャクチャグチュグチュ、下品かつ不快。それは不快音の発生源以外の皆にとっての総意であったろう。しかし、それを注意するものは一人もいない。そりゃそうだ。
確かに父の発する咀嚼音は不愉快だが、それ以上にこの場に留まることがそもそもの不愉快なのだ。これ以上、一時だってこんな場所に我慢がならないと顔に描いて、まず弟が乱暴に食器を片づけて足早に出て行った。次に父、これは食器類をそのままにして悠々と、しかし足音の荒さから彼もまた早速忍耐の限界が近づいてきたのだろう。
そして私だ。いちいち物にあたっていたら日常生活なぞとっくに破滅すると、そんなことは分かっていたが腹のむかつきに耐え兼ねてついついガシャン・ガラガラと力を込めて食器を流しに突っ込んだ。茶碗が割れた。なんと軟弱な茶碗だ、と更にイラつきを募らせつつ、そこは常識的に片付けようと手を伸ばした折、視線。
振り返れば、義母の伺うような視線。
ナニカが私を突き動かし、ナニカが私を拘束し、結果、微動だに出来ずにその不愉快極まる視線を受け続ける事態。
バカな、冗談じゃない。ビシリと顔を強く振ってその視線を断ち切ると、後はわき目も振らずに飛び出そうとして、堪えて、忍耐。
無言で割れた茶碗に向き直り、二つに割れたそれを両手で持って、はてさて燃えないゴミはどこに捨てるのだろうかと思案して、そんなことは台所の主に聞けばいいのだという事実に早くも忍耐が限界を来たし、それでも何とか手近にあったゴミ箱に二つの欠片を放り込むと一目散。部屋に戻って手早く支度を済ませ、顔を洗い碌々鏡も確かめずに不愉快の根城を飛び出した。





わき目も振らずに一心不乱で走ること数分、これでは不審者そのものではないかと自制を掛けて立ち止まり、大きく息を吸って吐いて咳き込む。忘れていた、喉がカラカラだったのだ。朝の活動源を確保する以外に何の目的もない朝食の席で牛乳を一杯飲んだだけでは、全然足りない。視線を左右に走らせると、ちょうど自動販売機が目にとまった。財布を確認する。財布がなかった。家に忘れたらしい。ナニカ殺意のようなものが腹の奥から脳天にまで突き抜ける。我慢だ、私。
しかしわざわざこの渇きを癒すためだけにあんな家に戻ることは我慢出来ぬ。学校の水飲み場まで我慢すれば事足りる。しかし、昼食はどうする? 一瞬、悪しき家に戻ることと空腹の午後とを秤にかけた。カチャカチャとしばらく拮抗した秤はしかし、案外に容易く傾いた。空腹でいい。
さてこれ以上、こんな無意味かつ不愉快な思案を続けようものなら爆発する。待っているのは身の破滅か、まあそれもいい。しかし学校があるからな。
まあ、行くか。
ケホケホと乾燥した咳を零しながら遅々と歩む。早く歩こうが、遅く歩こうがこの時間帯だ。どうせまた教室に一番乗りだろう。ワイノワイノと賑々しい教室もそれはそれで猥雑で悪臭立ち込め、誰のものとも知れぬ口息と体温とを選ぶの選ばないのと喚き散らす隙間もなく体いっぱいに塗布されて、風呂に入るまで落とせない、最悪の場所ではあるが。誰もいない教室というものもそれはそれで、いい加減に拭かれただけで粉だらけの黒板や、隅に溜まった埃の塊やジャージの裾がはみ出ているロッカーや乱雑な机の並びやその上に知恵遅れの描いた卑猥で低俗な落書きや、そんなものの一つ一つの汚さが静寂のただなかで特に際立って、どこか誰にでも股を開く娼婦が寝起きに見せる、化粧の崩れたボロボロの肌の奥に毎夜毎夜押し込められる切実な瞳の乾いた潤いじみて背筋にうすら寒く。
かといってこのまま道を歩み続ければ続けたで、学校指定のローファーの堅いゴム底がアスファルトを叩く間抜けなリズムと音で私が狂う。
早い話が、寝ている時が至福なのだ。いつまでも寝ていられたら、それが幸せなのだろう。
もっと手っ取り早く、永遠の眠りにつけば尚よろしい。なのにそうはならない。そうはならないのだ。
そういえば、最近あのウザったい幽霊を見なくなったな。死、というキーワードに連想される形で、あの間抜け面が脳裏によみがえった。
イライラとムカムカが同時に襲ってきて、私は直近の民家の塀をガシガシと蹴りつけた。
その音に反応してか、塀の向こう側から犬が吠える。 ワオーン。なんだ、なんで鳴く? 犬畜生になんでも糞もありなどするものか、やつらは鳴きたい時に鳴いて、鳴かない時に鳴かないのだ。ワオーン。ハハ、そいつはいい、わかりやすい。久しく爽快だ。ガタガタと音を立てて、民家の雨戸が忙しなく開かれる。家主であろう初老の男性が、何事かと堅い表情で犬を見て、私を見た。
勿論私はニッコリ笑って 「おはようございます、今朝はいい天気ですね」 ほら、これで解決だ。ワオーン。
訝しげな表情を隠しもしない初老の男性を袖にして、クルリと翻り颯爽と逃げる。
ワオーン。犬の遠吠えが静寂の住宅街に不釣り合いな騒音をたてる。はてさてあの男性は、これからのご近所付き合いに多少のやりにくさを感じる結果に至るのだろうか否か。ちょっとした悪戯、気分は男子に交じってピンポンダッシュをしていた餓鬼の時分。こんな時だけ、爽快だ。
でもきっとこんな気分も、あと三十歩も過ぎれば霧散する。その歩数は、年を経るにつれ加速度的に数をすり減らしていく。大それた犯罪を犯す馬鹿の何割かはきっと、この歩数をなんとか維持したくて度数を増していくのだろう、と。最近はそんなことばかり考えている。
私はどうなんだろう? この度数を、悪事の質を、どうしたいのだろう?
自分のことは自分が良く知っている。だって自分自身のことなのだから。そして私は、今のこの一歩一歩を、惜しんで惜しんで、大事に大事に歩むのだ。
ワオーン。








朝の時間を何件かのピンポンダッシュで有意義に潰し、さてそろそろ時間も危ういということで登校道へ。久しぶりに良い気分だ。これなら今日一日、つつがなく暮らせるかもしれない。そんな私の皮算用は、誰とも知れぬ女子生徒の声によって引き裂かれた。

「えぇぇー! 気になるぅ! ねぇ皆ぁ!!」

ガヤガヤと、登校を急ぐ生徒で犇めく肉鍋に叩き込まれているのが自分である、という事実に引き戻してくださった甲高い声が、それ。
ああ、そうだった。私は、そうだった。今日もこの肉鍋の中押しつ押されつ登校して、肉と肉の間に挟まれ勉学に励み、肉から指導され、肉と談笑し、肉と飯を食い壁を隔てた肉とともに排泄し、肉と肉と肉と肉。
忍耐、忍耐、忍耐。歯を食い縛って、暴発をやり過ごす。
頭を?き毟りたい衝動を抑え込んで一息。すると腹の底に疼痛。我慢できるかできないか程度の痛みが居座る、恒常的な不快感。叫んで回って許しを乞うには及ばない、しかし顔をしかめずにはいられない。それでも平静を装わなくば世間とやらは受け入れてくれぬ。拳を握る。歯をかみしめる。我慢。
とにかく、一人になろう。便所でもどこでもいい。
歩を進める。若干小走りで、人目を引くかもしれぬがそんな所にまで気を回してなんかいられない。
とにかく、今すぐこの場を去・・・・・・。


「エクセレンツッ!」

聞き覚えのある、声がした。そして私は歩みをとめた。目線をグルリ。
そこに、浮かんでいた。
見覚えのある誰かというか、幽霊が一人。



ワオーン どこか遠くで、犬の遠吠えが小さく響いた。

ギシリ 私の足元で、ベッドが小さく、軋みを上げた。












       

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