Neetel Inside ニートノベル
表紙

シェンロン・カイナ
『03 ホームレス』

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 その公園にホームレスはたったひとりきりしかいなかった。
 植え込みの中、木の隙間に粗末なブルーのビニールシートで覆われた小屋がある。
 殺人鬼は電信柱に背を預けてそれを眺めながら、いや、と思い直した。
 夕闇が丘で夜を過ごせるホームレスは、そいつしかいなかった、というべきであろう。
 よその町からホームレスがやってきても、分厚い夜の重圧に耐え切れずにまた別の町へ流れていってしまうのだ。
(もしかして、あのおっさんが吸血鬼だったりしてな)
 そのホームレスは今、公園の中をあてどもなくふらついていた。
 ベンチに座っては置き去りにされた漫画雑誌をぺらぺらとめくり、自販機に近寄ると釣り銭口はもちろんのこと、地べたに這ってその下まで確かめていた。思わず自分の財布からいくらかの小銭を与えてやりたくなる。よろめく鳩にパンくずを投げてやるかのように。
 時刻はまだ七時頃だったが、殺人鬼はそぉっとホームレスの背後に近づいた。
 むっと男の身体から汗臭さが漂ってきたが、不思議と不快ではなかった。むしろその獣臭さに奇妙な懐かしささえ覚えた。
 あの、と声をかけると、男は胡乱げに振り返った。紺色の野球帽を被り、汚れたブルーのユニゾンを羽織っている。髪は黒でも白でもないねずみ色だった。
 何かの燃えカスのようだ、と殺人鬼が思っていると、男はぺっと唾を地面に吐いた。
「金なんてあるわけねえだろ? とっとと失せな」
 ホームレスに侮られたことよりも、若い自分に対して堂々と啖呵を切れる男の態度に殺人鬼はどきっとした。つまり、突然のことではあったが、尊敬してしまったのだ。
「急に話しかけてすみません。でも、伝えたいことがあって」
「何が目的か知らないが、やめておけ。夜にこの町を出歩くな」
 自販機の蛍光灯が、男の半身を照らしていた。ゆっくりと向きを変えた男はのっそのっそとブルーシートの方へ歩いていく。
 その背中に殺人鬼は告げた。
「今夜十二時頃、ヤミコーの男子学生があんたを襲いに来ます。きっとひどい目に遭う。その前に、どっか隠れた方がいい」
 男は何も答えず、ごそごそとブルーシートの中に入っていった。

 そのまま殺人鬼は家に帰った。彼の両親は仕事で外国を飛び回っており、現在は兄と二人暮らしだ。
 唯一の同居人はまだ帰っていないらしく、家の中は闇に包まれていた。電気のスイッチを押すと、パッと思い出したかのようにリビングが現れる。
 テレビをつけ、面白くもない番組を聞き流しながら湯を沸かす。買い置きしてあったインスタントラーメンをまずそうに口から垂らしながら、殺人鬼は時計を見た。午後九時半。
 今から公園に戻っては早すぎる。
 しかし考えてはみたものの、今更あのホームレスの安否を確かめに自分は行かないだろう。そんな情熱はなかった。
 風呂に入って、自分のベッドで天井の木目を見つめていると、玄関から誰かが入ってきた。
 傘立てにでもつまづいたのだろう、「いてっ」と間抜けな声が聞こえてくる。
(兄さんはいいね、のんきで)
 それを最後に、殺人鬼は眠りに落ちた。
 霞んだ目で見た時針はちょうど十二時を指していた。

 翌日、学校を休んだ。
 黒いウインドブレーカーを羽織って、殺人鬼は自転車に乗って朝の夕闇が丘を走った。
 遅刻したのか口にパンをくわえながら走っている同級生に天然記念物でも見たかのような驚愕の視線を向けていると、いつの間にか例の公園に着いていた。
 自転車を花壇の側に止め、幼児たちと戯れている若い奥さん方からの注目を浴びながら殺人鬼はブルーシートに近づいた。
 青いシートはナイフか何かで切りつけられたのか、どこもかしこも破れてもはや防風の役には立ちそうになかった。
 大黒柱であったのだろう木材はまっぷたつにされて、数量が元の倍になっていた。
 殺人鬼がふう、とため息をつき物思いに沈んでいると、ぽんと肩を叩かれた。振り返るとあのホームレスの茶色い顔があった。
「ああ、よかった。殺されちゃったかと思ったよ」
「そんな簡単には死なねえよ」男は野球帽のつばをつまんで位置を直した。
「まァでも、あれだ。おまえが教えてくれて助かったよ。別の物陰から眺めてたんだが、最近のガキはひでえやつばかりだ。俺がいねえとわかったら我が家をめちゃくちゃにぶっ壊していきやがった」
「ストレスが溜まってたんだろう」
「俺の方が心労で参っちまいそうだ。まったく、この寒い中、家なしでどうやって寝ろってんだ」
 そうして男はバラバラになったシートと木材を無念そうに見下ろした。彼なりの愛着があったのかもしれない。
 殺人鬼も彼に倣ってしばらく家の死骸に黙祷を捧げていたが、やがてふっと名案を思いついた。
「なァおっさん」
「なんだよ」
「こうなったのも何かの縁だ。引っ越そうよ」
 おっさんがびっくりしたように眼を丸くしたので、殺人鬼は実に久々に声をあげて笑った。

「俺はてっきり、おまえの家にでも泊まらせてくれるのかと思ったんだがな」
「無茶言うなよ。家族が了承してくれないし、そこまで僕はお人好しじゃない」
「ふふふ、美徳だぜ、お人好しじゃないってのは。人に親切にしたって損するだけだ」
 年配ぶった台詞を吐くと、男はごん、と小屋の壁を蹴った。
 そこは別の公園の中だった。男が棲み付いていたのとは違って草や木がぼうぼうと生い茂った廃れた公園だ。とても親子が休日にキャッチボールをしたり、若いカップルが愛を育む雰囲気ではない。
 けれど殺人鬼は幼い頃、その公園をとても気に入って兄と一緒に秘密基地を作って遊んでいた。
 幸い材料には事欠かなかったし、兄は大抵のことはなんでもひとりでやってしまうタイプだったので、殺人鬼はただ眺めているだけで秘密基地を手に入れたのだった。
「小学校を卒業して以来、来てなかったんだけど、意外と丈夫に残ってたな」
「俺にここに住めっていうのか」
「ああ。感謝してくれよ。シートじゃない、本物の木だぜ」
「馬鹿言うな、隙間だらけで結局新しいシートが必要だ。――でもまァ、ないよりはマシかもな」
 だろ、と言って殺人鬼は小屋の壁を撫でた。つやつやとした木の感触を楽しんでいると、ぼそっと男が何か言った。
「あ、何? 聞こえなかった」
「ありがとよ、って言ったんだ」男はかゆそうに頬をかきむしっていた。
「でもおまえ、なんで俺にいろいろよくしてくれるんだ」
 べつに、と殺人鬼は木漏れ日の中に沈んだ小屋の中に半身を突っ込みながら、振り返った。
「何もしないよりは、面白そうだったからさ」



<顎ノート>
この頃の文体は硬い気がする。読みづらくね?
自分の好きな文体と、書く内容に合致した語彙との食い違いに気づかなかったあの冬。
気づいても直せないこの夏……。

       

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