Neetel Inside 文芸新都
表紙

夏の文藝ホラー企画
中編/「Joyeux Noel(ジョワイユ・ノエル)」/中田たかな

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   1

「雪だ……」
 ふと窓の外を眺めていると、はらはらと舞い落ちてくる雪花が冬至祭で賑わうシャトーイリスの街並みに雪化粧を加えていた。
 このカスミソウ館から出ることは許されていないから、見慣れるを通り越して見飽きてしまった自室からの眺めが変化していく様子は心楽しかった。
「待ち遠しいな」
 それ以上に僕を浮き足立たせるものがあった。来客だ。
 彼女がここにやって来る。しばらくもすれば彼女を乗せた馬車がやってくるのだろう。
 それが待ち遠しくて、僕は窓から見えるお屋敷の正門を凝視していた。
 しばらくして、屋根に緋薔薇の彫刻のある馬車が門扉の前に止まって、お揃いのワンピースを着た二人の女の子が降りてきた。僕は部屋を脱兎の如く飛び出して、途中転げ落ちそうになりながら階段を降りて館の外に出た。
「ジュディト! シャルロット!」
 ブーツに履き替えるのも忘れ、積もった雪の上を走って彼女達に駆け寄った。
「シェリル!」
 ジュディトが細い両腕を広げて、走ってきた僕を抱き止めた。
「シェリル、久しぶりだね」
 そう言って、シャルロットがジュディトに抱きしめられている僕の頭を撫でてきた。
 今夜はカスミソウ館では養い子達が集まって礼拝堂で催しをする予定だった。
 姉のシャルロット・シャルロワは十四歳で、妹のジュディト・シャルロワは十一歳。彼女達は神官様に嫁いでいったシャンタル叔母さんの子、僕の従姉妹だ。
 館の養い子じゃない彼女達がそこに加わることになったのは、よく親戚の僕を訪ねに来ているからだ。
 従姉のシャルロットは巻き毛の金髪が可愛らしく、小柄でふっくらとした丸い顔は僕と同じ年齢と言われても遜色はない幼顔だった。神娼として夜咲く花々の庭に立つことを認められる年齢になったばかりの彼女は緋薔薇館の花として奉仕に就き始めたとあって、漂わす無垢な雰囲気の中に豊かな艶やかさを含んでいた。
 神娼というのは愛の神ラハブに身を捧げた女娼・男娼のことだ。夜咲く花々の庭というのは花館と呼ばれる様々な趣向に分かれた13の娼館が集まる場所を言う。
 僕の住むカスミソウ館はその13ある花館の下にある別館と呼ばれ、孤児や花館の女娼がやむを得ない理由で産んだ私生児を引き取って養っている場所らしかった。
 ゆくゆくは素養の認められた子が神官様から教育を受けて花館の花になっていくことになる。もちろん、僕もそうなる。
 シャンタル叔母さんは今でも綺麗な人だったけど、若い頃には緋薔薇館という娼館の名だたる花として夜に花弁を開き、その麗しい身で男達に数々の愛を与えていたらしい。
 叔母さんの旦那様はラハブの神官だった。神官と花館の名花の間に長女として生まれたシャルロットは、母親と同じく神娼となるために教育を受けて育ってきた。
 ラハブ教の神徒にとって夜咲く花々の庭で奉仕に就けることは憧れの的。勿論、花館の基準に適って養い子とされているカスミソウ館の子供にとっても例外ではなかった。
 でも、僕が色めきだってその教育や花館でのことを聞いても「シェリルにはまだ早いよ」とシャルロットは少し悪戯っぽく笑って何も答えてはくれなかった。
 僕はシャルロットがどんな生活を送っているのかはおよそ存じていた。カスミソウ館という閉ざされた世界で暮らしていて何故それを知ることができたかと言うと、それは度々僕を訪ねてくる従妹のジュディトに教えて貰っていたからだ。
「ジュディト、会いたかった」
「私もよ、シェリル。またカスミソウ館に来れることが待ち遠しかった。お母様からはここに来るのを普段は禁止されてるから」久しく会ってないような会話を交じらせる。
 でも、本当はそうじゃない。前にジュディトに会ったのは冬至祭の巫女の儀があった頃、ほんの1週間ほど前だ。
 ジュディトはシャンタル叔母さんの希望で神娼としての教育を受けてはいなかった。それに普段はカスミソウ館に近付くことも禁止されていた。だけど彼女は叔母さんの目を盗んでは、神官様達に内緒でカスミソウ館に忍び込み、僕に会いに来ていた。
 彼女は従姉のシャルロットと比べれば地味な印象だったが、それでも花館での豪奢で甘美な生活に憧れていたらしく、シャンタル叔母さんの寝室に忍び込んでは緋薔薇の女娼が扱う性技が書かれた術書や神娼の暮らしぶりを記した本を盗み見ていたらしい。
 彼女は頻繁に隠し持ってきた術書を見せてくれ、僕はジュディトの横で耳を真っ赤にしながらそれを一緒に読んだりした。
 皆が寝静まった夜に二人で部屋に閉じこもって読み耽り、時に彼女から興味本位で実際に性技を試されたりした。女同士の営みについて書かれたフルール・ドゥ・リスの外典術書を持ってきた時には、僕は女の子の格好をさせられたりしたけれど、それも嫌じゃなかった。
 僕はジュディトが大好きだったからだ。
 彼女はシャルロットと同じように髪は金色の巻き毛で、それを後ろで編んで小柄な背の腰あたりまで垂らしている。僕より1年早くカスミソウ館に引き取られたベネットはよくジュディトの姿を見かけると、後ろ髪を引っ張ってちょっかいを出してからかったりしていた。
 やんちゃな性格のベネットのことだ。ある種、見慣れた光景になりつつあるけど、僕はそれが不満だった。
 ジュディトによくちょっかいを出すけれど、本当のところベネットはシャルロットのことが好きだった。でも当の本人からは「ベネットはまだ子供だね」と相手にされていなかった。
 それは何となく頷ける。
 シャルロットは同年代の子と比べて考え方も仕草も大人びていたし、神娼としての教育を受けているのだから誰よりも見聞が広かった。
 それどころか、神娼の姉と違って大人びた感じのないジュディトでさえ「ベネットは子供っぽいわ」なんて言っていたけれど、僕にはどっちもどっちに見えた。
 どちらかといえば彼女だって年相応に好奇心が豊かで、自分の知らないことは深く知りたがる。そんな無邪気な好奇心は彼女を刺激して、僕を玩具代わりにさせた。それを思えばジュディトも結構子供っぽいのだけれど、あえてそれを口にしたことはなかった。
 僕とジュディトとの関係はそれで良かったからだ。



   2

 僕達はベネットも連れて礼拝堂に集まって、他の養い子達と一緒にラハブ様降誕の賛美歌を歌った。
「ジョワイユ・ノエル(悦楽の下に愛を)」
 祝福の言葉を言って神官様がお菓子を配る。それを貰い終えてからは、僕の部屋に集まってゴースト・ストーリーを語り合うことになった。
 もともと冬至祭の夜にゴースト・ストーリーを話し合うのは北方の島国、ブリストル王国での子供達の習慣だったが、パレ・ドゥ・ダンジュにもその文化が流れてきて今では冬至祭の恒例行事になっている。
 ベネットが館の酒蔵から梨の果実酒を一本くすねてきて、僕達は語り合いながらそれを飲んでいた。酔いの助力もあって、話はとんとんと進んだ。ベネットはシャトーイリスの森に住む狩人の幽霊の話、ジュディトは廃墟になった貴族の屋敷に住み着いた幽霊の話をしてくれた。
 僕はというと、人の血をすする悪魔になった伯爵夫人の話をしようとしたんだけど、思いの外覚えられなくて途中から内容が曖昧になりながら何とか最後まで話すことができた。
「じゃあ、最後は私の番だね……」
 そう言ってから、シャルロットがその話を始めるまでに沈黙を置いた。僕達を怖がらせるための演出だと最初は思っていたのだけど、その顔は話すのを躊躇っているようだった。
「どうしたの?」シャルロットの様子を伺うと「うん……本当にこの話をして良いのかなって迷ってるの」
「何で?」
 シャルロットらしくもない、と聞き返す。
 去年の彼女なら、思わずベッドに潜り込んでしまいたくなる程怖い話を、声色を上手に変えながら臨場感のあるようにして語っていた。むしろゴースト・ストーリーを話して僕達を怖がらせるのを楽しんでいる節さえあったのに、だ。
 シャルロットは僕の問いに答えなかった。ただ迷いを消すようにかぶりを振って、
「大丈夫。きっと大丈夫……」
 一人で呟くと意を決したように口を開いた。
「……最初に約束して。この話を聞いても朝が空けるまでは誰にも言っちゃ駄目だよ」
「どうしてなんだ?」僕が聞こうとする前に、ベネットが口を開いた。
 シャルロットは視線を皆に向けて、首をびくつかせてゆっくり頷いた。
「今から話すのは夜咲く花々の庭に伝わる、本当にあった話。曰く付きの話だよ」
 真剣な表情で言うシャルロットの低い声色に、僕達は息を呑んだ。そこには余計な横槍を入れるような隙間さえないように思った。
 事実、お調子者のベネットがシャルロットの放つ雰囲気に飲まれて、表情を硬くしていた。それに、最初の一言だけで僕とジュディトはおののいてしまっていた。
「ある冬至祭の夜、子供好きな女娼が子供達を集めてゴースト・ストーリーを語り合ったの。そして彼女の番が回ってきた時、こんな話をしたんだ」
 彼女が語り出した話は、雰囲気以上に怖かった。
 シャルロットの話はこう続く。
 女娼が語ったのは、花館の奉仕で身ごもってしまった誰の子ともつかない子供と離れ離れになった神娼の話だった。
 その神娼は飢饉の貧困に悩まされ、最期は我が子に会えていないことを悔やみながら死んでいった。その未練を宿した幽霊が夜咲く花々の庭の、養い子を預かってる別館のどこかでさまよっている。神娼の幽霊は冬至祭の夜になると館の中を飛び回り、孤独に死んでいった寂しさから子供達を死の世界に引きずり込む。と、およそそんな話だった。
 そこまでならよくある話なのだけど、そこからが話の本筋だった。
「それから数年後、冬至祭の晩にその幽霊の話をした女娼がいたの。彼女も子供好きで、別館の養い子達を怖がらせたくて半ば迷信になりかけていたそんな話をした。ただ、迷信と思われていても割と信憑性のある話だったらしくて、話し終えたその女娼がこう付け加えたらしいの」
 その言葉が、シャルロットが最初に言った「夜が空けるまでは、この話を誰にも言っちゃ駄目」だった。それだけじゃなく、「誰かに言おうと思っても駄目」とも付け加えた。
 そうしないと幽霊に目を付けられてしまうということらしく、その女娼は念入りに養い子達に言い聞かせたらしい。
「そしてその夜中、話を聞いて怖くて眠れなくなった養い子の一人が、幽霊の話をした女娼の叫ぶ声を聞いた。その養い子は怖かったのだけど、皆が寝静まっているから誰も女娼の寝ていた客間に確認しに行かなかったから、隣の部屋の子を起こして怯えながら見に行った。そこで女娼は息絶えている姿を見たの」
 僕達はもうシャルロットの話におののくしかなかった。息をごくり呑んで、話の終着を待っていた。
「その死に姿は無惨だった。女娼はお腹の下を切り裂かれていて、中の物が引きずり出されていた。寝ていたベッドは彼女の血で真っ赤に染まっていて、それを見た二人の養い子達は話をしてしまったから女娼は幽霊に殺されたと思ったの」
 ぞくり、と背筋に走って思わず僕はジュディトの腕にしがみついていた。肩を寄せる彼女もことこまかに語られる話に怯えて、震えていた。
「……この話、やめる?」
 あまりに僕達が怖がっているように見えたのか、シャルロットが言った。
「いいや……」それにふるふると首を振って、青ざめながらもベネットが続けさせる。
「……続けるね。叫び声に気付いた養い子はあまりに怖くて足がすくんでしまったから、起こされた方の子が寝泊まりしてる神官様を呼びに行ったの。客間の中はあんなだから、部屋の扉の前でその子が帰ってくるのをずっと待っていたんだけど、一向に帰って来る気配がなかった。それで、最初に気付いた子は様子を見に行くことにしたんだ」
 そこで一呼吸置くのに、僕はおどおどして相槌を打った。
「……うん」
「ランタンもない暗い廊下を伝って、その子は何とか神官様の寝室の手前まで来れた。そこで、寝室の扉の前でうつ伏せに倒れている子供を見つけたの。神官様を呼びに行った子供だった。お腹からはおびただしい量の血が流れていて、床に広がっていた。その子は神官様を呼ぶべきだろうかと迷った。でも、女娼から言われていた言葉を思い出して、それができなかったの」
「……誰かに言おうと思っても駄目?」聞き返すと、こくりと首を上下させた。
「だから、その子は何も見なかったことにして、震えながら自分のベッドに戻ったの。誰にも言えないし、誰かに言おうと思っても駄目だと思って。そして、シーツに潜り込んで怯えながら朝になるのを待った」
「それでその子はどうなったの……?」
「結局、安心して眠りにつくことはできなかった。窓から朝の陽射しが入ってくるまで、シーツにくるまれたまま。それで、シーツの向こうが白んできたのに気付いて、助かったと思った。でも、ベッドから抜け出した瞬間見た物に言葉を失った」
 シャルロットの話にいよいよ終わりが見えてきた。
 彼女が言う最後の言葉に震え上がりながら、それが告げられるのを待った。
「そこには真っ赤なドレスを着た大人の女が居た。その女は、その子を見て悔しそうに舌打ちすると、射し込んでくる朝日に溶け込むように消えていったそうだよ」
「……」
 そこで沈黙が続いた。
 静まり返った暗い部屋が恨めしく思えるくらい、冷えた空気が肌を撫ぜてきてそれが一層芯から震えさせた。
「……これで、終わり?」
 聞き返してみると、シャルロットが黙ったままこくりと頷きを返してくれるのに、僕達はどっと身体の力が抜けた。
 その様子を見て、シャルロットがくすくすと笑った。こういう調子はいつもの彼女と変わらなかったが、その面白がっている表情もすぐに真剣な物に戻った。
「――ここからが本当にあったっていう噂なんだけどね」
 呟いたのに、僕達は背筋を強ばらせた。
「前に、この話をした神娼の中で話の内容と同じように殺された人がいるらしいの。勿論、誰かに話を伝えようとした子も。だから、絶対に朝が空けるまでこの話を誰かに言っちゃ駄目。それに、伝えようと思っても駄目だよ」



   3

 シャルロットの話が終わってから、皆それぞれ寝床に付いた。
 ベネットは自室へ、シャルロットは客間へそれぞれ行ったけれど、ジュディトはシャルロットと一緒に客間には行かなかった。彼女は僕の部屋に居た。
 ジュディトは言ってなかったけれど、シャルロットは僕達がしている密事にうっすらと気付いているらしかった。彼女が客間で寝ないことを怪しむこともなく寝間着に着替えずこっそり僕の部屋を行こうとするのに、静かに微笑って見送ってくれたとジュディトは言っていた。
 僕達はいつものように術書を二人で読み始め、彼女が「試してみたい」と言い始めるまではそのままだった。待ち続ける間はむずむずていした。
 そして言葉を告げられると、僕はそれを待っていたかのように彼女に従った。彼女が持ってきた子供用のドレスに着替えて、ラム毛の絨毯に膝をついた彼女の前でスカートを託し上げた。
 その日は一緒にマドレーヌの外典術書の口淫の章を読んでいたから、施してきた性技はクラリネット吹きだった。
 ジュディトがまだ柔らかい僕の物を花弁のような小さな唇に押し込んで、ぎこちなく舌と唇を動かした。途中、息継ぎをするように口を離して、中に唾液を含ませてまた続ける。
 僕は神官様がたまに口にする悦楽という物を確かには知らなかった。
 もしこの背筋から頭まで走る物が悦楽と言うのなら、それはきっと甘い味なのだと思う。そして多分、僕は彼女との秘密の時間でその味に夢中になってしまっている。
 でも、その夜はちょっと違った。
「……どうしたの?」
 ジュディトが、なかなか悦楽に満たされずしぼんだままのそれを唇から引き抜いて僕を見上げた。
 前と違うね、と言わんばかりに掌でさすり小首を傾げる彼女にかぶりを振る。
「わかんない……」
 多分、シャルロットからあんな話を聞いた後だったからかもしれない。胸の奥にとどまっていた恐れが、まだ肌を震わせている。
 それに比べて、ジュディトは話をもう忘れてしまったかのような表情を見せていた。
「もしかして、あの話の最後を信じてるの?」
 聞かれ、「うん……」頷く。
 おどおどしている僕の瞳を覗き込んで、ジュディトがくすり笑った。
「大丈夫、シャルロット姉様も話をした神娼の中でと言ってたじゃない。それに噂話だもの。本当に信じる必要はないわ」
「そう、かな……」
「そうだよ」
 言い、ジュディトが息を吐き出した。
「今夜はここまでにしましょ」
 立ち上がり、彼女が部屋を出て行こうとする。名残惜しく思ったけれど、ここまで僕が気乗りできないのだから仕方ない。
「寝間着に着替えて来るわね」そう言うと振り返り「怖くて眠れないでしょ。一緒に寝てあげる。待ってて」
 ジュディトが隣で寝てくれたら少しは安心できるのかな。少し疑問に思いつつも、不安は尽きなかった。
 あの話のように、もしもシャルロットが神娼の幽霊に目を付けられてたとしたら。それを思うと、いつ彼女が断絶魔を上げるかという恐怖に震えが止まらなくなる。ジュディトが戻って来るまでがやけに長く感じられる。
 しばらくして、ジュディトが部屋に戻ってきた。
 何故か寝間着には着替えていなくて、さっきまでの花柄のワンピースのままだった。それに、顔色が青ざめていて、彼女の細い肩が小刻みに震えていた。
「お姉様……シャルロット姉様が……!」
 うわ言のように言うのに、僕は聞き返す。
「どうしたの?」
「シャルロットお姉様が……!」
 かたかたと震えているジュディトは続く言葉を返してはくれなかった。
 何を見たと言うのだろう。少なくとも、シャルロットの叫び声なんて聞こえなかった。もしも下腹を切り裂かれでもしようものなら、何らかの物音が聞こえてもおかしくない。
 僕が客間へジュディトが見た物を確認しに行こうとすると、彼女が腕を引っ張って制止する。
「お願い、一人にしないで……私怖いの……!」
 その言葉で、ぞくりとした。
 まさか本当に?
 目尻に涙水を溜め、ジュディトが僕の腕にしがみついてくる。これが演技でできる事ではないとわかると、彼女が抱えた恐怖が伝染して首筋に寒気を感じた。
 僕はドレスから普段の服に着替えると、隣の部屋で寝ていたベネットを起こして一緒に客間に向かった。

   *

 客間はジュディトが閉めずに来たのだろう、扉が半開きになっていた。怖がって中に入りたがらないジュディトをなだめてから、恐る恐る中を覗き込んだ。
 そして、背筋を恐怖で凍り付かせた。
「そんな……」
 言葉を続かせるとて、その残りが口にできなかった。
「どうしたんだよ、一体」
 欠伸をして、僕の後ろから覗き込んできたベネットの寝ぼけ眼が、「嘘だろ……」中の光景を見てぱっと目が覚めた。
 当然だ。そこに広がっていたのはさっき彼女に聞いた話をそのまま模したような光景だったからだ。
 まず、寝台の上でシャルロットが横たわっていた。ワンピースから寝間着のネグリジェに着替えていたが、その下腹は切り裂かれていて深紅に染まっていた。
 そこから腸が引きずり出されていてまだ乾いていない血がぬらぬらと光っているのが酷く生々しく、桶からぶちまけられたようにシーツには血液が飛び散っていて、生臭い鉄の臭いが鼻腔を突いてくる。それに混じって、醜悪な内蔵臭さが嘔吐感を込み上がらせた。
 シャルロットの死に顔は苦しんだ様子ではなく、ただ瞳を閉じて眠ったかのように安らかで、それが逆に恐怖心を煽ってくれた。
「幽霊よ……! 幽霊がお姉様を殺したんだわ!」
 取り乱すジュディトに、ベネットが肩を掴んで何とかなだめようとする。
「落ち着けよ! まだ幽霊とは限らないだろ!」
「じゃあ何だって言うのよ! 殺人鬼でも居るって言うの!?」
「それは――」
 ジュディトの剣幕に押されベネットが口籠った。
「と、とにかく。幽霊なんかいるわけがないだろう。ばかばかしい……」
 絞り出して、肩肘を張ってせせら笑ってみせた。それは精一杯の強がりのようにしか見えなかったが、彼は踵を返して更に大口を叩いた。
「……お前達はそこで待ってろ。神官様を呼んでくるから、危ないから絶対に中には入るなよ」

   *

 ベネットが神官様を呼びに行って寸時、僕らは彼に言われた通り、客間の扉を閉めて、部屋の外で彼が神官様を連れてくるのを待っていた。
 しかし、いくら待っても帰ってくることはなかった。
 ベネットの身に何か起こったんじゃないか、そんな不安が脳裏をよぎる。幽霊のことを神官様に伝えようとしたから、今頃シャルロットの話の通りに神官様の部屋の前で血塗れで倒れているのでは――
 しばらく待って、一向にべネットが帰ってくる様子はなかった。結局、僕達は様子を見に神官様の部屋へ向かった。
 そこで、案の定――信じたくはなかったけれど――無惨な姿になって床に倒れているべネットの姿を見つけた。
「これは――」
 うつ伏せになり、腹部からおびただしい量の赤い体液を床にぶちまけているべネットの姿を見た。身体を纏うリネンの茶色が黒ずんだ染みを作っているのに、僕は言葉を失うしかなかった。
 およそ聞いた話の通りの展開になってしまった。シャルロットが曰く付きのゴースト・ストーリーなんかをしてしまったから、こんなことに。
 ただの噂、ただの迷信で本当に幽霊の祟りに巻き込まれることになったこの状況を恨みたくなった。できればこの話をして惨劇の引き金を作った根本原因にありったけの抗議をぶつけたかったが、実際の所そうも悠長に言ってられない。今その根本原因は客間の寝台で、腑(はらわた)を引きずり出されて二度と目覚めることはないのだから。
「シェリル……どうしよう……」
「どうって……」
 僕の腕にしがみついて、ジュディトがおどおどと言うのに、僕はあまりの事に中でまだら模様を作ってしまっている思考を整えようとした。
 どうしたらいい、誰かに助けを求めようか? でも、誰にどうやって話をつければ良いのだろう。
 できれば神官様に悪魔払いをお願いしたかった。けれど、それは出来ない相談だ。現に神官様に事を伝えに行こうとしたベネットは、命を奪われた。
 神娼の幽霊はベネットの意思を嗅ぎ取ったに違いない。強がりを見せていたベネットも神官様に幽霊の話を伝えようとしたと考えれば、自然とそんな結論に行きつく。
 シャテニィエの皮と同じ色をした床板、その茶色に赤色が滲み込んでいく様子をしばらく見下ろしていた。窓の隙間から舞い込んできた隙間風が襟筋を撫でるのにぞくりと背筋を凍らせ、そして震える。
「……逃げ、よう」絞り出した喉から、心臓が飛び出しそうだった。



   5

 そうして起こった事を誰にも知らせぬまま、僕達は朝まで過ごす事にした。シーツに頭までくるまって二人、陽光が部屋に射し込んでくるのが待ち遠しかった。
 寄り添って、僕のベッドに横たわるジュディトの小さな掌を握る。それで一握りの安心感を得る事ができたが、身体の震えは収まっても眠りまでの誘いは遠かった。
 それは彼女も一緒のようで、横目でうかがうとジュディトの顔は恐怖の色に染まっていた。空色の瞳は揺れ動き、空をくり貫いたような瞳孔はその黒を更に広げてしまっている。
「怖い……」
 かすれた声で呟く彼女を抱き寄せる。金色の巻き毛を指の隙間に滑らせて、小さな頭を撫でて落ち着かせようとしていた。
「せめて夜が明けるまでは耐えよう。シャルロットの話の通りなら、朝まで待てばきっと助かるよ」
 そうは言ったものの、心奥にある一抹の不安は拭えなかった。
 全てがシャルロットの話通りに進むとは限らない。それにもしもジュディトが誰かに伝えようなんて考えていたら?
 後ろ向きな思考が巡って、きっと僕は難しい顔をしていただろう。それをジュディトに感取られないように、彼女の柔らかな頬に自分の頬を寄せるしかなかった。
 シーツの向こう側では、相変わらず窓に光は射し込み始めてもいないのだろう。部屋は暗いままで、しばらくは朝が来そうにない。
 シャルロットは臓物を引き出され、ベネットは腹を引き裂かれた。これから幽霊からのどんな仕打ちが待っているもわからない。今夜この館で起きたことを何もかも知らないでいたなら、きっと安らかに眠りにつけただろうに!
 最悪なのは、僕達が起きている限りは思考が巡っていることだった。誰かに助けを呼ぼうとしよう物なら、神娼の幽霊はすぐさま僕達の腹を裂きにくる。それなのに、何とも言えない恐怖にたえかねて僕は誰かに助けを求めたいと思ってしまった。そして、それは現れた。
 最初に、誰かが床を踏むような音がした。ぎしりと床板のきしむ音が這うように一歩ずつ近付いてくる。一歩、また一歩。ジュディトも僕はそれに気付いていて瞼をきつく閉じて息を呑む。足音がベッドの前で、止まった。
――誰かがいる。考えたくもなかったが、僕の思考は神娼の幽霊に感取られたのだろう。
 シーツの隙間から恐る恐る、ベッドの側に立つ人物を見上げた。艶やかな黒髪にメッシュの髪おさえを被っていて、その表情はうっすらとしか伺うことができなかった。色白とはいえ黄色がかった肌――その肩には揚羽蝶が漆黒の羽を広げて緋薔薇の蜜を吸う青刺があった。
 夜咲く花々の庭の神娼達は花上げ時期の19歳になるまでに、一夜の奉仕から頂いた花上げ料の一部で身体に青刺を入れていく習慣があった。
 その神娼の細身の肢体に深紅のドレスを纏っている姿を見て、緋薔薇館の神娼だとわかった。年も花上げ時期に近いようで、おそらくは背中には墨で掘られた大輪の緋薔薇が咲き乱れているのだろう。
 イシュト人の女がこちらを見下ろした。
「今晩は、おちびさん達」
 イシュト人の女がシーツの隙間の中へ、瞳をこちらへ向けた。
 髪押さえのメッシュの下で瞳を細め、「そこから出ておいで」
 薄く笑みを浮かべる女に僕は戸惑っていた。なめらかな口調が余計に不気味に思える。
 ジュディトは怯えているようで、僕にしがみついて離れない。
「……大丈夫、大丈夫だよ」声をひそめてジュディトの耳元に囁いた。
 どちらかといえば自分を勇気づけるために、幽霊に聞こえないように呟いた言葉だった。それにジュディトがおずおずと頷く。
 できればこのまま僕らを見逃してくれることを願ったが、幽霊がシーツをひっぺがして僕らを襲わないとも限らない。
 ああ、できることなら今にでもここから逃れたいとどれだけ願ったことか!
 ずっと重い沈黙がそこにあった。幽霊はしばらくベッドの前で僕達が這い出てくるのを待っている。様子を伺っていると、幽霊がにっこりと笑った。
 僕達はかたく瞼を瞑って、息を呑んだ。
「怖がっているのね、でも安心なさい」イシュト人特有の漆黒の瞳がすっと細め、細い指先を微笑んだ唇に当てた。「私は幽霊じゃない、あのシャルロットという若い若芽の赤い花についてきただけ。それに緋薔薇館に伝わる冬至祭に出る幽霊の話は口から出まかせの作り話。神娼の幽霊なんていないわ」
 その幽霊――いや、緋薔薇の女娼の言うことに僕は瞼をぱちりと開け、しばたかせた。女娼の手が、優しくシーツに触れ、僕達を安心させるように愛撫する。
「もうしばらく待ってご覧なさい、その内このおイタを考えついた悪い子達が部屋にやってくるわ。貴方達を驚かせようとね」
 踵を返して、靴の踵がオークの床板を打ち鳴らす音が遠ざかっていく。
「どういうこと……?」
 そのイシュトの女娼の言うことが気になって、シーツをはねのけてその意味を聞こうとした。でも、聞けなかった。
 そこには女娼の緋薔薇の青刺の描かれた背中は見えず、もう、誰もいなかった。
「シェリル、あの人幽霊じゃなかったの……?」
 呆然としていた僕にジュディトが尋ねてくる。今までの凄惨な出来事の記憶に穴が空いたように思えてぽかんとしていた。それに気付いてかぶりを振るのに少し時間がかかった。
「……そうみたいだね」
 それからしばらくして、僕の部屋の扉を焦らすようにこつこつと叩く音が鳴った。開けてみるとそこには、さも面白そうに空色の瞳を細めるシャルロットとばつの悪い表情をしているベネットが立っていた。
 僕は苦笑交じりに、血に染まったシャルロットのネグリジェとベネットのリネンを見つめてから、彼女達の健康的な顔を見ると安心しきって体中の力が抜けてしまい、「シャルロットとベネットの意地悪……!」部屋の入り口でへたりこんだのだった。



   6

 まったく酷い話だった。
 シャルロットから全てを白状させたなら、およそあの女娼の話の通り。冬至祭の夜に出る幽霊の話はまったくの嘘だったというのだ。
 しかも彼女の語ったゴースト・ストーリーはこの手の込んだ悪戯のためにわざわざ一人で考え込んで作った作り話だと言うのだから、朝食で用意されたシャルロットの分のパン・オ・ショコラを勝手に食べてしまえるくらい腹立たしかった。
 ジュディトが甘いカフェオレを片手に、自分の分を取られて唇を尖らせているシャルロットを見て微笑んでいた。
「でも、本当にお姉様が死んでると思ったわ」
「本格的だったからな。まったく、今年の冬至祭ほどシャルロットが恐ろしい奴だとは思わなかったよ。クリストゥの悪魔よりもおっかない」とべネット。「俺なんか下準備まで手伝わされたしな。血糊じゃあ現実味がないからって、肉屋のおじさんに腸詰を作るからって豚の血と腸を貰ってきたんだ」
 豚の血の生臭さが身体にまだ染みついているのか、自分の腕を嗅いでベネットが顔をしかめた。
「僕とジュディトだけを騙そうとしてたなんてね」僕は呆れた視線でシャルロットをちらり見、「本当ひどいよ、シャルロットは」
「騙される方が悪いよ」悪びれる様子もなく、シャルロットは肩をすくめて言い合う気も萎えるような極上の笑顔を向けてきた。
「ジュディトが夜にシェリルと二人きりになるのはお見通しだったしね」
 皆と別れてから取る行動がわかるだけに自然とこの悪戯が向けられる先が僕達になったと言わんばかりに、僕とジュディトを見やった。目にかかった金髪を掻き上げて、空色の瞳をからかいの色に染めていた。
「シャルロットには敵わないな」僕は一つ嘆息する。
「それにしても残念だったな」
 まだ線画しか彫られていない半端彫りの薔薇の青刺を腰掛けの背もたれに押し付けて、シャルロットが延びをした。肩がぽきりと鳴って、少し痛そうな表情をする。
「残念?」聞き返すとシャルロットが軽やかに返す「話の最後の部分だよ」
「神娼の幽霊が出てきて、舌打ちして朝陽の中に消えていくっていう?」
「そう」シャルロットが頷く。「緋薔薇館のドレスを借りる事はさすがにできなかったから、最後に幽霊の振りをして二人を驚かせようと思ったんだけどね」
 それにジュディトが不思議そうな顔をした。
「あれ? 私達にお姉様の悪戯を伝えてくれたあのイシュト人の赤い花は? あの人もお姉様の悪戯のためにわざわざドレスの用意までお願いされたんだと思ってたんだけど……」
「私、そんなこと頼んでないよ」
「お姉様についてきたって言ってたけど?」
「何言ってるの? 私達が乗ってきた馬車は私とジュディト、それに執事のジョスランだけだったじゃない。私だって新米の神娼なんだら、自分の館の先輩に悪戯の手伝いなんて頼む訳ないじゃない」
「シャルロットもべネットも部屋に来る時会わなかったの?」
 僕が聞き、二人がかぶりを振ったのに、僕とジュディトは顔を見合わせる。あの神娼の正体がわかると、表情を青ざめさせた。
 そして、カスミソウ館の賑やかな朝食の風景に二つの悲鳴が木霊した。

       

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