Neetel Inside 文芸新都
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日々は群像

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「あの子帰ったの?」
 ドアを閉めてリビングに戻るとソファに座ってテレビを見ながら母が言った。リビングでは照明の暖かな光がともされており、父は鼻くそをほじっていた。
「あぁ、うん、帰ったよ」
「あの子、あんたの彼女なんでしょ? どうして送ってあげなかったの」
「彼女なんかじゃないよ」
「そうでしょうね。あんたに彼女が出来たら、すぐ別れるようにお母さん勧めちゃう」
 母が言うと父が「そうだそうだ」と言った。僕は父に向かって「黙ってろこの糞ニートが!」と叫ぶとリビングを出て、自室へと向かった。
 二階の廊下には明かりが灯っておらず、真っ暗だった。僕はそこを手探りで進んでいく。雨粒が我が家を打つ音が耳に入ってきた。
 ギシリ、ギシリと一歩歩くたび、フローリングの床が軋む音がする。
「なぁ」
 不意に聞こえるくぐもった声。僕は右側を見た。扉がある。兄の部屋の扉。
「聞いてるんだろ?」
 ……。
「なんの用?」
 僕が尋ねると兄はしばらく黙り込んだ。まるで、言うべきか言わざるべきか迷っているようだった。
 暗い廊下に、僕の呼吸音と、雨が窓を打つ音が響いていた。
「さっきの女の子、誰だよ」兄が言った。
「クラスの同級生だよ」
「彼女なのか?」
「違う」即答した。
「じゃあ、友達なのか?」
「友達ですらないよ。会話したのだって三ヶ月ぶりだし。知り合いが正しいかな」
「なんで三ヶ月も会話してないような女の子がいきなり家に来たりするんだよ」
「知らないよ。僕だって驚いた。結局僕の部屋に来て愚痴だけ言って帰って行ったんだ。何がしたいのか分からないよ」
「……頼られてるんじゃないのか」
「頼られてなんかいない。利用されてるだけなんだよ、僕は。僕はいつも自分が傍観者であろうとしてきた。何にも関わらないかわりに、誰にも関わって欲しくなかったんだ」
「お前も、俺みたいになるのかもしれないな……」
 扉越しに聴く兄の声は酷く悲しげで、消えそうだった。
 人は皆、利用しかしない。僕が頼ることで僕を助けてくれるやつなんかいないと僕は思っている。結局、愚痴を言い、お互いの事を理解したうえで、依存し合うのだ。弱さを共有する。
 僕と兄は似ていた。兄も恐らく僕と同じだったんじゃないだろうか。家庭の混乱のさなか、依存され、兄はその気の弱さから依存できずに、傾いた。まるでドミノの様に。
 僕は倒れていない。両極端から、同じだけの負荷を与えられているからだ。
 西村と、木下。
「僕はたぶんお兄ちゃんみたいにはならないよ」
「何でだよ」
 僕は以前、西村が僕に言ったことを思い出した。
「相対性理論だよ」
「はっ?」
 訳が分からない、と言いたげな声だった。当然だろう。僕も西村から話を聞かなければ分からなかった。
 負荷をかけられる分、得るものもあった。
 相対性理論。あるがままに、なすがままに、決定付けられているのであれば、身を委ねれば良い。
「結局、今を生きづらくしているのは自分自身なんだ。委ねられない自分自身を偽ってごまかそうとする。僕はそういったことはしないんだ。お兄ちゃんと違って」
 兄は何も言わなかった。僕は自分の部屋に戻った。壁のスイッチを押し、電気をつける。
 雨は激しさを増していた。窓は振り落ちる雨粒に打たれ、外の様子もまともに伺えない。
 木下は傘も持たずに帰ったが、無事に家に辿りついたのだろうか。
 人間は皆仮面を持つ物だと思う。自分らしい自分、人とやり取りする中で確立される造られた個性。そういうものを持たないと壊れてしまうほど、人は脆い生き物なのだ。
 でも木下と西村は僕の前では人前で着ける仮面を外している。それは間違いなく、僕に依存しているからだ。考えすぎかもしれないが、仮面を外すことで得られる安堵に近い感情を、僕に求めているのかもしれない。
 父や兄にはその拠り所がなかった。二人とも気付かなかった。家族が拠り所に成り得ると。結果的に仮面を着け続けて、仮面を失った。
 僕は人から良い扱いなどされた事は無かった。いつも小ばかにされ、嘲笑されてきた。褒められたことなど無かった。
 それでも僕はこれだけは言える。
 僕に仮面は必要ない。
 自分ひとりだけの部屋が、妙に広く感じた。別にいつもは誰かが居るわけじゃない。ただ、ふと気付いただけだ。この部屋はこんなに広かったのかと。
 ふと思う。僕は色んな事を気にせず、なるべく目を背けて生きようとしていただけじゃないだろうか。自分を偽る仮面などいらないと思っていた。身を委ねればいいのだと。
 父が無職な事や、兄が引きこもっていること、姉が勘当されたこと。それは急に起こった事態だった。僕にはどうしようもなかった。仕方がなかった。僕は自分の身を守ることに必死だったからだ。
 だけど、ホントにそれでよかったのだろうか。
 委ねる? 仮面はいらない?
 その結果がこれじゃないか。
 じっとしていると、頭の中を不安が占めていった。
 僕は部屋を出た。
 玄関で靴をはいた。
 傘をささずに、家を出る。
 家にいることが辛かった。

     

 雨に打たれながら道を歩いた。視界が悪い。靴は水を吸い、一歩踏み出すごとにぐしゃりと言う感触がした。周囲の住宅には灯かりがついており、中に人がいるのが分かった。外に出ている人間などいなかった。
 ふらふらと歩き、気がつけばいつもの公園に来ていた。ろくに遊具もない公園だ。一つだけ灯った街灯のおかげで、公園に人がいることが分かった。その人物はブランコに座り、憔悴した様子で雨に打たれていた。
「帰ったんじゃないのかい」
 僕は木下に言った。木下は僕に気付くと、驚いたように目を開いた。
「……なんであんたがここにいるのよ」
「君が心配だから探しに来たんだ」
「……嘘つき。傘もささないでくるはずないでしょ」
「ばれたか」
「バレバレよ。あんたってホントに馬鹿ね」
「黙れ」
 彼女の濡れた髪から水滴が落ちた。それは他の雨粒と同じく広がった水溜りに吸い込まれ、雨の音に消えた。
「なんか疲れたわ」
「疲れるようなことなんてしていないくせに」
「あんたには分からないのよ」
「分からないだろうね。君が僕の苦しみを分からないように」
 すると彼女は少し驚いたように僕のほうを見た。
「いつもボーっとしているあんたに苦しいことなんてあるの?」
「そう見せているだけだよ。人に本心を見せるのは好きじゃない」
「暗いわね」
「君には負けるよ」
 僕は彼女が座っている隣のブランコに座って空を仰いだ。雨が落ちてくるその先を見ようとした。
「星でも出てたら僕が夢見てたシチュエーションなんだけど」
 すると彼女は鼻で笑った。
「あんたと星なんか見ないわよ。立場ってもんをわきまえたら?」
「……そうだね」
 彼女は虚を突かれた顔をした。
「何よ……言い返さないの?」
「立場を考えたら君の言ってることは正しいよ」
「そう言われたら私が悪いみたいじゃない」
 僕は黙った。
「……何かあったの?」
「何もないよ」
「何もなかったらこの雨の中傘もささずにこんな所に来るわけないでしょ。……いつものあんたと違うわよ、やっぱり」
 今度は僕が鼻で笑った。
「大して会話すらしたこともないくせに、いつもの僕がどんな人間かよく分かるね」
「そんな言い方しないでよ」
「事実じゃないか」
「私は、ただ……」
「ただ? 家に帰るのが辛い、親の仲が悪い、私の居場所はない、そう考えて、次は失踪するかもしれない人間が、人の心配をするのかい? あ、失踪じゃなくて自殺か」
 彼女がぐっと言葉を詰まらせた。僕は構わず続ける。
「自分に命の決定権があるって思ってるやつが一番嫌いなんだ僕は。自分だけ被害者面して、世の中の不幸を全て背負った顔して、狭い部分しか見ないで何の努力もしない人間が」
「……じゃあ、あんたは」
「うん?」
「あんたは、どうするのよ。何かに苦しんでるんでしょ? 嫌な事とかあるんでしょ? なんでそんな平気そうにしていられるのよ」
「……」
「どうして平気なのよ。友達も少ないし、同級生からはろくな扱いされないし、いろんな人から嫌われて……独りで………なんで平気なのよ」
「考えないようにしてるだけだよ。考えないと、気が楽になる。流される様にして生きてきた。結局気にしないことが一番楽でいられるだけなんだ」
 自分で言ってハッとした。僕は結局、流されるままに生きていて、楽でいたかっただけなんだ。
「気にせずに、生きていられるの?」
「慣れればね」
「私には出来ない……」
 彼女は僕と同じ様に生きることが出来ない。
 僕は楽でいたかっただけだが、彼女は楽でいる事すら出来ない。不器用な人間だった。
 楽になれない人間は依存する。それ以外に負荷を逃がす方法を知らないからだ。
 自分の中で、答えが見えた気がした。
「雨、上がったわね」
 雲の隙間から、月が顔をのぞかせ、僕らを月光で照らした。
「言われなくても分かってるよ」
 僕は立ち上がった。
「どこ行くの?」
「姉ちゃんの家だよ。こんなに濡れてたら母親に怒られるからね」
「私も行っていい?」
「出来れば来て欲しくないけど、来たいならついて来てもいいよ。出来れば来て欲しくないけど」
「行く」
 彼女は嬉しそうに僕のところにきた。
 月明かりに照らされた彼女の笑顔は今までみた彼女の笑顔の中で一番美しかった。
「それで君が楽になるなら、依存、すればいいよ」
 気がついたらそう言っていた。
「何のこと?」
「何でもない」
 出来る限りそっけなく言った。彼女が僕の言葉の意味に気付くのは、もう少ししてからだろう。
 目を背けても、背けなくても、苦しい事に変わりはないのだ。正解はない。
 月明かりの下、美人も悪くないかな、などと思った。

       

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Neetsha