Neetel Inside ニートノベル
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 2 警察―鳴海アキラ―

 横浜のとある路地裏。普通なら人が通ることも、ましてそこで立ち止まることなんて滅多にない場所に、大勢の警官と野次馬がいた。
その中の一人、新人の警部補である鳴海アキラは、その現場を見て怒りと吐き気を催していた。
胃の中で消化しきれていなかった昼食がぐるぐる回り、今にも逆流してきそうなほどだ。
「鳴海、お前現場何回目だっけ」
 顔をしかめ、口元を押さえるアキラの隣に中年の男性が立った。彼は。
 薄くなった頭頂部、長年の苦労で出来たシワ。そして、小太りの体にシャツと古ぼけた茶色のスーツ。アキラの教育係である警部だ。
 アキラは自分の口元に当てた手で唇を拭い、目の前にある遺体を薄目で見る。
「現場はこれで……十回近くですけど。なれませんよ……」
「普通はそんだけ見たらなれるもんだけどな。そんなんじゃ、一人前にはまだ遠いな」
「………………う」
 なにか言い返そうとは思ったのだが、吐き気でそれどころではなかった。それに、吐き気がなかったとしても、弾となる言葉がなかったので言い返すのは不可能。
 そんなアキラを放り、平助は路地裏の中に転がる死体の元へと向かい、しゃがみこむ。
薄くなった頭皮をがりがりと削るように掻き毟っている。
「こりゃあひでえな……。確かに、新人にはきついかもしれねえ」
 俺だって、こんな胸糞悪いのは初めてだ……。と、不快感を吐き捨てた。
 アキラも、もう一度じっくり遺体を見直そうと、覚悟を決めるまでの時間稼ぎの様に重い足取りで、遺体の元へ向かった。平助の横に立ち、それを見下ろす。
 その遺体は男性のもので、大学生ほどだろうことが服装から予想できる。至って変わったところもなく、昨日まで友人と酒を飲んだりして楽しい学生生活を送っていただろうとさえ思わせる。
しかし、その死体には、顔面が無いのだ。
まるで顔面だけ肉食動物に食われ、その後鈍器でぐちゃぐちゃにされたような。もはや元の顔がどんな輪郭だったのかすら予想できないほどにめちゃくちゃで、凄惨な殺され方だった。
「これで、同じ手口が六件目か……」
 手を合わせながら、平助はそう呟いた。
 今まで起こった同様の事件を思い出しているのだろう。
アキラも同じように手を合わせ、事件を思い出してみた。
 共通点は二つ。一つ目は、人目の少ない場所で殺されていること。
二つ目は、顔面が無くなっていること。
被害者に共通点はなく、年齢性別まで異なった老若男女六人がそうやって殺された。
しかし、そんな大仕事なのに争った形跡はまったくなく、どうやら一分ほどの短時間でここまでの惨状を作って見せたという人間離れした業。
「犯人は、二メートル以上身長のある、握力八〇〇キロとかの大男ですかね……」
 幾分吐き気がマシになってきて、その心の緩みから、頭の隅にあった犯人像が口から漏れた。
「バカ言ってんじゃねえ。……と言いたいところだが、それもあながち違うとも言えねえから困るな……というか、そうとしか思えん」
 はあ、とため息を吐いて立ち上がり、死体の写真を取る鑑識の男に「なんか手がかりあったか?」と訪ねる。青いつなぎを着たその男は、悔しそうに首を振り、「いや。なにも見つからない」と言って作業に戻った。
「こりゃ、迷宮入りだな……」
「そう……なっちゃうんですかね」
 犯人の手がかりはゼロ。それで犯人が追えないことはアキラにもわかっているが、納得がいかなかった。
「まあ、もうちょっと探してみよう。いくらなんでも、証拠一つ残さない犯人なんていないはずだ」
「ですよね。証拠を残さない犯人なんて、それこそ化け物ですよね」
「ああ……。本当にな」
 呆れたように頭を掻き、黄色いテープを持ち上げ、現場から出て、アキラの方へ振り向く。
「俺は署にもどるが、おまえはどうする?」
「もうちょっと調べていきます」
「そうか。――まあ、頑張れよ」
 と、アキラに励ましの言葉を投げ、背中を丸めて歩いていった。
その背中が人混みに混ざって消えるまで見送ると、アキラも黄色いテープから出て、周辺を詮索することにした。
 現場に証拠がないなら、周辺にならあるかもしれないという、藁のように頼りない望みだ。
 現場を中心に、ぐるぐると渦巻きを描くような道のりで歩いてみる。しかし、まだ現場からそう離れていないのに、辺りを歩く人間が全員「自分が死ぬなんてありえない」という顔をしているのが、アキラの目に付き、殺された六人も、殺される前日まではあんな顔をしていたのだろうと思ってしまい、周辺を歩く人間の顔と被害者の無い顔がだぶって、気分が悪くなる。
「う、しまった……」
 首の後ろにいやな違和感が巻き付き、胸の下あたりがむかむかしてきた。
「こんなんだから、先輩からバカにされるんだよなあ……」
 アキラが気分を悪くするのを見て、苦い顔をする平助を思いだし、自分の腹に力を入れて渇を入れた。しかしそんなことで気分がよくなるほどヤワなものではなかったらしく、相変わらず腹の中では昼に食べたカレーがぐるぐると回っていた。
 もうダメだ。一旦署に戻ろう。
 そう決意して踵を返すと、男物のスニーカーが視界に入った。そこからだんだん首をあげていくと、アキラと同い年くらい(二十代ほど)の青年が居た。コンバースの白いスニーカーにデニムのパンツと、黒い長袖のTシャツ。その上にノースリーブでパ―カー付きの赤い上着。少しタレ目な顔は、それぞれのパーツがほどよく整っている。茶髪の無造作な髪型も相まって、どこかズレた雰囲気を持っていた。
「……気分悪そうですけど。大丈夫ですか?」
 遠慮がちな青年の声に、アキラは軽く頷き、「大丈夫です」と嘘を吐いた。
「俺にはそう見えませんんけど。気分が悪いなら、ウチが近くにあるんで、すこし休んでいきますか?」
「いえ、あの、本当に大丈夫ですから……」
 そう言って青年の横を通り過ぎようとした時、足がふらついてしまい、頭が前に落ちる。しかし、倒れそうになった瞬間、アキラの胸は青年の腕で支えられた。
「ほら、歩くのも辛そうじゃないですか。このまま無理矢理につれてきますよ」
 そう言うと、青年はアキラを背負い直し、少し重たくなったはずの歩を進める。しかし、まったく重さを感じさせないその足取りに、アキラはすこし驚いた。
「すいません……面倒をかけてしまい。――なにかスポーツとかやってるんですか? なんていうか、その。私も結構重いのに、らくらく運んでるので」
「いえ? 特にはやってないです。……というか、アキラさん、そんなに重くないですよ」
 アキラは、先日健康診断で図った自分の体重を思い出す。
 身長百八十センチの、七十キロだったはず。
 それが子供のように背負われていることが半人前のアキラを象徴するようで、なんとも情けない。
 そんなアキラの憂鬱とは反対に、青年は思い出したかのように少し明るい声を出す。
「そういえば、名前なんて言うんですか?」
「あ、私は鳴海アキラといいます」
「アキラさん。俺は御堂春です」
 よろしくお願いします。と青年は軽く頭を下げた。
 アキラも春に習って、頭を下げようとしたが、それをすると春の頭に頭突きすることになるので、「あ、どうも」と小さく呟いた。
 頭を下げようとしたその時、春の首筋に絆創膏が貼られているのが見えた。
 妙な位置に貼られていたので気になってしまい、アキラは思わず凝視してしまう。
「あの……ここの絆創膏、どうしたんですか?」
「え……ああ、ちょっと掻きすぎちゃって。――そんなことより、もう着きますよ。ほら」
 そう言って、春がアゴで先を差す。そこにあったのは喫茶店だった。
 コーヒーベルトという名前の、小さな喫茶店。昭和時代のレトロな雰囲気が見た目からも漂ってきて、時代に逆行するその感じに、アキラは好感を持った。
「コーヒーベルトって……珍しい名前ですね」
 遠慮がちにアキラは言う。
「俺もそう思います」顔は見えないが、声の調子から察するに、どうやら春は苦笑しているようだった。
 アキラの膝裏から右手を抜き、ドアノブを捻ってドアを引く。
 からんからん、とカウベルが鳴り、「おかえり」とコーヒーのように深く、渋い声が聞こえた。
 声の主は、カウンターの中にいる喫茶店のマスターのようで、にっこりと笑っていた。白髪の混じるウェーブのかかった長髪。顔にはそれなりのシワが走っているものの、なぜだか表情が若々しい。ギャルソンの格好をしているが、肩幅や二の腕などから体格のよさも伺える。
「薫さん。すいませんけど、コーヒー一つ」
「ああ、いいけど……どうしたんだその人」
「行き倒れてました」と春は一言。
「違います!」
 否定してみるが、やんわりと無視された。
 しかし、倒れていなかっただけで、ほとんど行き倒れだったか、と自分でも思い直す。違うのは、倒れていなかったことくらいだろうし。
 春はアキラをゆっくりと降ろす。そしてカウンターからスツールを引き、「どうぞ」とアキラに座るよう勧める。
 春の言葉にまた甘え、「すいません」と軽く頭を下げてから、スツールに腰を降ろす。腹の中にあったもやもやが、少しは楽になった気がした。
「改めまして、です。ここのマスターやってます」
 カウンター内にいる中年の男性は、斗賀薫と名乗った。
「あ、自分は鳴海アキラといいます」
 また頭を下げる。
警察手帳を出そうかと一瞬迷ってしまったが、あまり吹聴するのも違うだろうと、やめた。
「アキラくんでいいかな? はい、コーヒー」
 白いカップをソーサーに乗せ、薫はアキラの前にコーヒーを置いた。白い湯気を吐きながら、香ばしい香りをアキラの鼻に届けてくれる。おもわずごくり、と生唾を飲んでしまった。飲み物で生唾を飲んだのは、初体験だった。
 しかし彼なりのプライドか、アキラは冷静を装い、いただきますと言ってからゆったりとした動作でカップを口元に運んだ。
 口の中に、渋い苦みが広がる。しかし、苦みだけではない。その苦みの奥底には、ほんのりとした甘みがあり、すっきりとする鮮烈な爽やかさもある。
「お……おいしい」
 コーヒーにおいしい、と言ったのも初体験だった。
 アキラにとってコーヒーとは、眠気を覚ます為の飲み物でしかなく、インスタントか缶コーヒーで充分だった。だからコーヒーにこだわる同僚がいると聞いても、「なんでコーヒーにこだわるんだ?」と首を傾げたものだった。
 しかし、ようやくわかった。コーヒーもこだわれば、ここまでおいしいものになるのだと。
 おいしい以外に言葉が出てこず、アキラは口を開けて、そのコーヒーをただじっと見ていた。
「気に入ってもらったようで、なによりだ」
 薫はカップを拭きながら、変わらず笑顔を見せていた。マスターが常時笑顔というのは、それだけで店が明るくなったような気さえする。薄暗い店内でも、どこか暖かな雰囲気があるのはその所為か。
 そんなことを考えている辺り、アキラはこの店を早くも気に入っているらしい。
「そういえば、鳴海さん仕事は?」
 いつの間にかアキラの左隣に座っていた春が、そんな質問をしてきた。素直に答えてもいいのだが、先程警察手帳も出さなかったので、「単なる公務員です」とお茶を濁すことにした。
「へえ。公務員」
 なにを感心しているのか、春は腕を組んでまじまじとアキラを見ている。
「まあちょっとした野暮用で。外回りを」
 警察官以外の公務員に、外回りなんてあるのだろうか。自分で言っていて疑問だが、二人はあっさりと信じてくれた。
「そういえばさっき、斗賀さんは御堂さんにおかえりと言ってましたが、御堂さんってここでバイトしてるんですか?」
「ええ。住み込みで、毎日働いてます」
 そう言って、にこりと笑う。薫と春の笑顔はなんだか似ているな、とアキラは思った。
 コーヒーに口をつけ、その味わいを楽しんでいると、ドアベルがまた来店を告げた。ドアを見ると、そこには女子高生がいた。
 綺麗な黒髪に、フレームレスのメガネ。紺色のブレザーを乱れなくキチンと着ていて、なんだか地味な印象を受ける。
最近の高校生は基本的に制服は崩して着るので、ある意味目立つといえば目立つ。
 しかしその服装の印象とは裏腹に、顔はかなり整っており、教室の隅にひっそりと咲く花のようなイメージをアキラは連想してしまう。
「ただいま」
 クールに響く声。そしてアキラに気づくと、ゆっくり「あ、いらっしゃいませ」と挨拶。そのどこか大人びたクールさは、今時の高校生にしては、本当に珍しい。
 少女は春の左隣に座って、スクールバックを足下に置くと、薫にアイスコーヒーを注文した。そして、隣に座る春に「ただいま、春くん」と言った。
「ああ。おかえり。どうだった? 学校は」
「特に変わったことはなかった。まあ理数系は難しくなってきてる感じかな……」
 私、文系だし。そう淡々と彼女は言う。
 それを聞いて、ああやっぱりとこっそり思った。
「あ、そうだ鳴海さん。紹介します」
 そう言って、春がアキラの方を振り返り、手を少女に向けた。
「この子は斗賀ノキちゃん。薫さんの娘」
「どうも、鳴海アキラです」
 それくらいは予想していたので、アキラもすぐに名乗った。
「アキラさんですか。今後とも、ウチの店をご贔屓に」
 と、可愛らしくお辞儀をした。
「それにしても、ノキちゃんって変わった名前ですね」
「それ、よく言われます。私は結構、気に入ってるんですけど」
 言われ馴れているのかもともと気にしていないのか、彼女は表情は変えないが優しく言う。
「由来は、コーヒー豆が取れる木の、コーヒーノキからなんです。お父さん、コーヒーが好きだから。店の名前もコーヒー生産地を表すコーヒーベルトからってくらい、徹底してて」
 コーヒー生産地がコーヒーベルト、というのがよくわからず、無意識に薫を見てしまう。
「赤道のことさ。コーヒーは、赤道が通っている国でしか作れないからね。だから、コーヒーベルト」
 思わず、「へー……」と声を上げてしまう。
 今までこだわらなかったコーヒーだが、少し中を覗いてみれば、いろいろな世界が広がっている。そんな新鮮な感覚が、アキラの心を満たしていた。
「お父さんのコーヒーを飲むんなら、お父さんのうんちくにつき合えないといけませんよ。そういう点なら、アキラさんはこの店に馴染めそうですね」
 この店を気に入っていたアキラはノキの言葉が素直に嬉しかった。その嬉しさを確かめるように、すこし温くなったコーヒーに口をつけた。
 ノキも、薫から細長いグラスに入ったアイスコーヒーを受け取って、さされたストローに口を付けて吸い始める。喉が乾いていたのか、一息でグラス半分ほどを空けた。
「常連さんといえば、最近来ないね優さん」
 ノキが思い出した様に言うと、薫が心配そうに目を細めた。
「あの……優さんて?」
「ああ、風祭優(かざまつりゆう)って言ってね、ここの常連だった探偵さんなんだ。三日に一度は必ず来てたんだけど……ここ一ヶ月来てないんだ」
「仕事が忙しいのかもしれませんよ」
 訊いたはいいが、アキラは風祭優なる人物を知らないので、そうとしか言えなかった。薫も、それ以上話そうとはせず、「だといいけどね……」と言って、またグラス磨きに戻った。
「さて……。そろそろ行きます」
 気分の悪さも直り、コーヒーもすべて飲み干した。
 もう一杯くらいは飲んでいきたいが、自分は今職務中。
 そう自分に渇を入れ、後ろ髪引かれながらも財布を取り出す。
「いくらですか?」
「いや、タダでいいよ。これは単なる人助け。お代は次から」
「え。……いいんですか?」
「ああ。これは単なる人助けだから。そうだろう、春?」
「もちろん。困ってたっぽかったし。このコーヒーだって、俺が勝手に注文した物だし」
「すいません。……ごちそうさまです」
 おいしいコーヒーを一杯飲むと、今日はいい日だと思えるということを、アキラは初めて知った。
 また来ようと決めて、アキラは少しだけ幸せな気分でコーヒーベルトを出た。

  2

「……なんか鳴海くん、幸せそうだね」
 横浜みなとみらい警察署。その捜査一課。タバコの臭いと喧噪に包まれ、なかなか多忙なそこに、アキラはいた。
 自分のデスクに座り、タバコを吹かしながらぼーっとしていたら、同僚であり隣のデスクに座る水島珠子に話しかけられたのである。
 髪留めで後頭部に茶色の髪を集め、顔にはオシャレを忘れない程度の化粧。アキラと同い年で、まだまだ肌の張りは現役。顔はまだ少女気分が抜けないが、そのあどけなさが捜査一課の癒しになっている。
服装は、背伸びしたような黒の女性用スーツに、同色のパンツストッキング。そして、またまた黒のハイヒールと黒づくめ。彼女曰く、「黒って好きなんだよね。大人っぽいし」とのこと。
 アキラは頭を掻きながら、「わかりますか」と訊いてみた。
「まるわかり。顔に出すぎ。ポーカーしたらわたしが勝つね」
 ポーカーフェイスのことだろう。
 確かにアキラは、そういった『器用に振る舞う』という風なゲームは苦手である。腹のさぐり合いなんて以ての外。
 しかし、それを認めるのは癪なので、アキラは小さく「そんなことはないです」とだけ言っておく。
「で、なにかあったの? 教えなさいよ。そして幸せを分けなさい」
「そんな大したもんじゃないですよ。ちょっとコーヒーのおいしい店を見つけただけ」
「は、コーヒー?」
 期待はずれ、と言いたそうながっかりした顔をした。そして、子供のような口調で「わたしコーヒーきらーい」と手をだだっ子のように振った。
「コーヒーより紅茶っしょ! コーヒーなんて、なにがおいしいのかよくわかんないし」
 コーヒーのうまさを知ってしまうと、そんなことを言う人間が損をしているようで、アキラはなんだか可笑しかった。
「そこの人達がいい人なんですよ。御堂さんは、具合悪くしてた俺のことを背負って、その喫茶店まで連れて行ってくれたし。薫さんのコーヒーは美味しいし。ノキちゃんは良い子だし」
「あ、っそ。――で、そんなことより鳴海くん。顔面潰しの件だけど」
 興味がなかったのか、仕事の話になった。多少残念だったが、仕事は仕事。プライベートを引きずっていた心のスイッチを切り替え、珠子の話に耳を傾けた。
「鑑識は成果あがらずだったけど、その代わり、興味深い目撃者がいたよ。上は胡散臭いって言ってるけど、私はわりとそれが真実だと思うから、待ってもらってるの。話を聞きに行きましょう」
「……水島さんは、もうその人から聞いたんですよね? だったらそれを聞かせてくれれば」
「だめよ。大事は話は、面と向かって言わないと伝わらないから」
 なるほどと頷き、アキラは椅子から立ち上がった。
 彼女はときどき、いいことを言う。

 捜査一課の片隅にある応接セット。
 そこは、被害者や目撃者の証言を聞くためによく使われる。二人は忙しそうにしている刑事たちを横目に、できるだけ早足でそこへ向かった。
茶色い革張りの長ソファには、三十代のサラリーマンが所在なさそうにして座っていた。
二人はそれぞれ、並んだ二人掛けソファに座り、アキラは目の前のサラリーマンに「どうも」と軽い挨拶をしておく。警察として捜査する時は頭を下げない。会話の主導権を握るため、できるだけ威圧的に構えろと、平助に教わったからだ。
「彼は捜査一課の鳴海アキラです。申し訳ありませんが、先ほどの話。もう一度お願いできますか?」
 珠子は丁寧にそう言った。
 仕事には真剣な子だ。
 サラリーマンは遠慮がちに言う。
「わかりました……。あ、自分は前原一郎といいます」
 普通な名前だ。逆に珍しい。
 とは、さすがに失礼だから言わなかった。
「前原さんは、どうやらつい先日、ものすごい体験をしたらしいですよ。もしかしたら、その顔面潰しかもしれないということで。こうして事情を話しにきてくれたそうです」
 なるほど。この人は、唯一顔面潰しから逃れた被害者なのだ。
 一本の線が、アキラには確かに見えた。
 釈迦が垂らした蜘蛛の糸のようにか細い、顔面潰しへ通じる糸。
 後はこの糸が途切れないよう、慎重に手繰るだけ。
 アキラは腰を据えて、彼の言葉に耳を傾ける。

 しかし、話を聞いたアキラは、一言。
「なんですかそれ。特撮番組みたいですね」
 アキラとしては至極まともなことを言ったつもりだったのだが、一郎はまるで烈火の如く顔を真っ赤にして、テーブルを叩いて叫ぶ。
「そりゃ俺だって信じられないですよ! でもね、確かに赤い鬼が、俺の前で骸骨を倒したんだ! 信じられないなら、現場に行けばいい。まだ爆発の焦げ目と、拳の穴が開いてるはずだ!!」
 という、前原一郎の話を信じたわけではないのだが、珠子の「私、これが全部嘘とは思えないんだよねえ。……この顔面潰し、人間じゃないっぽいし」という言葉がなぜか頭に残り、一郎が襲われたという場所まで足を伸ばしていた。
 そこは四方の内三方を高いビルに囲まれた街自体の設計ミスとも言える場所であり、昼間であるとはいえ、なかなかに薄暗い場所だった。街の裏側という表現がしっくり来る。
「確かに……こんな場所で殺人が起こったら、目撃されないだろうなあ……」
 それだけではない。というより、アキラの目はそれに釘付けだった。
 その路地の中心にある円形状の焦げ跡。
そして、その中心にあるコンクリートを突き破った拳大の穴。
それは確かに、一郎の言った通りそこにあった。
 穴を見ながら、アキラは骸骨について考えてみる。一郎の言葉が本当なら、顔面潰しは人間ではないことになる。人間じゃないならなんなのか、なんの目的があって人間を殺しているのか。さっぱり考えがまとまらず、アキラは無意識に、胸ポケットからタバコを取り出していた。
 タバコを口に咥え、ライターで火を点ける。
 口から紫煙を吐き出すと、その煙はこの路地から出ようとするかのように、ゆっくりと太陽に向かって昇っていく。それを見上げていると、スラックスのポケットに入れてたケータイが鳴り出す。
 ポケットからケータイを抜き、開く。画面には水島珠子の名前が書かれていた。
「どうしました?」
 通話ボタンを押し、耳に当てると、珠子の声が聞こえる。
「もしもし鳴海くーん? どう、顔面潰しに出会ったりしてない?」
「縁起でもないことを……。で、なんの用ですか」
「いやあ。心配になっただけだって。いやだよー、鳴海くんの家族に「今回はご愁傷様でした……」なんて泣きながら言うのは」
「大丈夫ですよ。前原一郎の話は全部が嘘ってわけじゃないし……。顔面潰しは、その赤い鬼に倒されたと見て間違いは……」
 ふと、アキラは入ってきた方に視線を向けた。
 何かを感じたわけでもなく、電話に集中していて、目が手持ち無沙汰になっただけだったのだが、それが思わぬものを捉えた。
 前原一郎の証言と同じ、黒い皮膚に白い骨のような外殻。
「――っ!」
 顔面潰し!
 それだけが真っ白な頭を埋め尽くし、アキラは逃げようとする。
「くっそ……行き止まりかッ!」
 そうだ。アキラはすでに、追いつめられているのだ。
 街の袋小路。ビルを見上げ、アキラは舌打ちをする。
「どうしたの鳴海くん! ……もしかして顔面潰し!?」
「……そうかもしれません。生きてたら、またかけ直します」
 珠子はまだなにか言おうとしていたが、構わずケータイを閉じた。
 骸骨がゆっくり、アキラに向かって歩いてくる。
 もちろん、ただで殺される訳にもいかない。腰にあるオートマチック式の拳銃を取り出し、銃口を骸骨に向けた。
「止まれェッ!!」
 止まらなければ撃つ。という脅しを込めて叫ぶが、聞く耳持たず。
 それを見て、殺さなければ殺されると思ったアキラは、躊躇なく一気に引き金を引きまくり、詰まっている弾すべてを骸骨に向かって放った。
 強烈な閃光と、風船が割れたような破裂音が何度も何度もビルの壁に反響し、一瞬の静寂を招く。
 しかし、それでも骸骨は傷一つ負わず、ペースを変えず、アキラに死を届けるために歩みを続ける。
「う……そ、だろ……」
 拳銃とは、普段なら最終兵器にして、絶対的な力の象徴。
 死を意識させる凶器であり、持っているアキラでさえその重さに恐怖しているほどなのに。
その死を、あの骸骨はあっさりと跳ね退けてしまった。
 なんたる無力か。顔面潰しを前にして、なにも出来ずに殺されるのか。
 そう悟ってしまったら、後はもう抵抗する気も起きなくなる。
 銃を降ろし、青ざめた顔で死を待った。
 しかし死の覚悟を決めたその時だった、赤い影がアキラの前に降ってきて、骸骨の前に立ち塞がる。
「なッ……!」
 その赤い影は一瞬で骸骨の元まで距離を詰め、顔面を掴んで投げ飛ばし、骸骨は十メートルほど飛んで、ビルの壁に叩きつけられた。
「――ッキイ……!」
 不気味な甲高い声が、骸骨の口から漏れる。
 骸骨が声を上げたのも驚きだが、アキラの驚きは、目の前に降ってきた鬼のような生物に注がれていた。
 しかし、そんなアキラの視線にも、渾身の殺意が注がれた骸骨の視線もまったく気にかけず、首に巻いた赤いマフラーをたなびかせ、ゆるやかな動作で空手の型のような構えを取った。半身になって、右手は腹の前に、左手は目線の高さまで上げる。
「キ―――」
 壁に背を預けていた骸骨がゆっくりと立ち上がり、膝を曲げて一瞬で鬼の元まで跳躍。
右の蹴りで頭を狙うが、鬼は腰を反ってそれを避ける。その勢いのまま、鬼はバク転の要領で回転し、強烈な蹴りを骸骨の顎に放った。
 体が真上に伸び、骸骨は後退しようとするが、体勢を整えた鬼はそれを追い、
「ハアッ!」ハイキックの追撃を加えた。
 それが頭の芯にガツンと効いたのだろう。骸骨の膝がガクンと崩れる。
 瞬間、鬼の右手が黄緑色に発光しだした。ものすごいエネルギーの固まりなのか、その圧力に周りの空気が押され、風が音を鳴らして吹き荒れる。
「うお!?」
 その突風に、アキラは思わず目を庇う。骸骨もその脅威を感じ取ったのだろう。バックステップで距離を取ろうとするものの、間に合わない。
「セイッ!」

 赤い鬼は思い切り腰を回して、その回転より一瞬送れて伸びた手が骸骨を追いかけ、まるでボクシングのジョルトブローのように、その腹を貫いた。背中から鬼の手が飛び出し、指先からは赤い血が滴っていた。

「キ……キ、キキ……」
 最後、悔しそうな鳴き声を上げ、骸骨は内側から溢れる圧力で破裂した。
 そのあまりにも現実離れした光景に、アキラはただただ立ち尽すことしかできない。
鬼がくるりと振り向いた。
「大丈夫ですか?」
次は自分かと身構えたが、鬼は特になにかしてくるわけでなく、そう呟いただけだった。
「お前、……何者だ?」
 鬼は、赤いマフラーを巻き直し、アキラに背中を向けて
「……フェイクマン」
と言って、大きくジャンプし街へと消えた。
「た……すかった……のか?」
 まだ信じられない。
 さきほどのことが夢でないことは、目の前の荒れた地面が証明している。
それを見ていたら、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。助かった、と思うのと同時に、緊張の糸が途切れ、意識が暗闇に落ちて行った。

       

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Neetsha