Neetel Inside ニートノベル
表紙

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5 御堂春―フェイクマン―

 一年程前になる。
 厳しい寒さがいつの間にか消え去り、桜がその存在をアピールし始めた頃。
 御堂春は窓を開け、気持ちのいい風を部屋中に取り込んだ。
「んー……っ!」
 伸びをすると、全身の関節がポキポキと気持ちのいい音を鳴らす。全身の細胞が新しくなったような心地よさだった。
「おー、桜がきれいに咲いてるなあ」
「え、マジで?」
 春の肩に手を乗せ、手すり代わりにして引き、窓際に立つ春の妹の夏。
「おー、お兄ちゃんが咲かせた花だね」
 子供のように歯を見せて、子供じみたことを言う夏の額を軽く叩いた。
 痛っ! と、少し大げさに痛がる夏。
 頭の後ろに結われたポニーテールが揺れ、肩に落ちる。
「それ、似合ってるよ」
 春が指を差したのは、夏が着ている紺色のブレザーに同色のプリーツスカートだった。皺も無く、細かな汚れもなく、まだ新品であることが伺える。
 そのブレザーが、今日から彼女が通う高校の制服だった。その制服を買うだけで、自分の時間がどれだけ費やされているのか考え、それを夏がよろこんでくれているのだと思うと、春は嬉しさから目頭が熱くなる。

 両親が早くに死んで、春と夏は親戚に預けられた。
 それは歓迎されたものではなく、血の繋がった人間が彼らしかいなかったので、世間体を気にして仕方なく預かったというだけのことだった。虐待されたりなどはなかったものの、ただ必要最低限の衣食住を与えられ、迷惑そうな顔を毎日見せられる居心地の悪さに耐えかね、春が二十歳になった時、二人はその家を飛び出した。
 ぼろぼろのアパート――トイレ共同風呂なし六畳間を借り、春は朝も夜もなく働いた。
できるだけ夏に苦労を感じさせないように。

 その苦労が今日やっと一つ花を実らせたような、そんな嬉しさが春の胸にあった。
「……夏ももう高校生か。早いなあ」
「そう? 私はそこまで早くなかったけど」
 一日見なければ一日ごとに、一秒見なければ一秒ごとに。
 成長しない瞬間なんてないんじゃないかと思うような、そんな気持ちだった。
「……お兄ちゃんさ、なんかお父さんみたいな顔してない?」
「え、そうか?」
 それを確かめるように頬を触る。そこまで老け込んだつもりはなかったのだが。
「……まあ、俺は父さんの代わりだから、ある意味嬉しいね。――きっと、父さん母さんもよろこんでると思うし」
 もちろん俺もだけど、と付け足して、春は窓を閉めた。
 まだ桜の匂いが部屋の中に残っているような気がするくらい、今年の春は気持ちがいい。
「さて。私、そろそろ行くね。学校の見学もしたいし」
「お、行ってらっしゃい。高校生」
 サムズアップをして、夏は部屋から飛び出して行った。
 高校生になったことがよほど嬉しいのだろう。薄い壁の向こうから聞こえてくる足音も、ダンスのステップのように軽やかだった。
「さて……俺も行くかな」
 春は部屋の隅にかけてあった上着に袖を通し、バイトに行くための準備を始める。
 ケータイ、財布、鍵と持ち物を確認して玄関に置かれたぼろぼろのスニーカーにつま先を入れ、靴ひもをしっかりと結んで、玄関を出た。
 汚れたコンクリート打ちの廊下を行き、錆びた鉄製の階段を軽快に降りて行く。
 なんとなく口笛を吹き、春は夏の高校生活がうまく行くように祈りながら仕事場に向かった。

  1

 春の仕事場はレストランだった。
 横浜で隠れ家的な雰囲気から、密かに人気のある店。
 そこで春は、見習いのコックとして働いている。将来、調理師になるために。
 最初は夏に美味しいものを食べさせようと始めた料理だったのだが、いつの間にか趣味になり、夢になった。辛いことも多いが、やはり楽しく、春から働いているという実感を無くして行くのも、続く理由の一つだ。
 ――しかし。楽しいのだが、勤務時間が夜遅くまで、というのが春の悩みだった。
 夏を一人にしておくには、いくら働いているからとはいえどこか忍びなかったし、今日くらいは早めに帰ろうと考えていた。
 厨房にかけられた時計を見ると、時刻は七時。さすがに夏も帰ってきているであろう時間帯なので、そろそろ切り上げたかった。
「すいません、店長」
 頭の帽子が一段と長い、小太りで白い髭を生やした初老の男性が、ここの店長だった。
「どうした、御堂くん」
 店長はフライパンの中の野菜を炒めながら、春を見ずに呟く。
 その真剣な顔に、思わず気後れしてしまうが、今日は記念日。できれば早く帰って、夏を祝ってやりたかった。
「今日もう上がりたいんですけど、いいですか……?」
「……珍しいな。働き者の御堂くんが早く上がりたいなんて」
「実は、今日妹が高校入学初日なもんで、できるだけ早く帰ってやりたいんです」
「おお、そうかあ……!」
 嬉しそうな声を出し、春の顔を見る。
 精悍な顔つきは、とてもじゃないが料理人には見えない。まだ冒険家という職業のほうがピンとくる。
「夏ちゃんもついに高校生か。それは確かに、早く帰らないとな。今日はいいぞ」
「ありがとうございます!」
 深々と頭を下げる春。本当、この人にはお世話になりっぱなしだと、少しだけ申し訳なくなった。しかし、それよりも夏の喜ぶ顔が早く見たかった。
「俺からはお祝いできないけど、今度夏ちゃん連れてきなさい。とびっきりのご馳走するから」
「本当ですか!? うわっ……すいません、ありがとうございます」
 また頭を下げる春。「いいから、早く行きなって」と店長が言ってくれたので、春は急いで更衣室へと向かう。
 自分のロッカーを開け、急いでコック服から私服に着替える。途中、急ぎすぎてTシャツを後ろ前反対に着たりしてしまったが、落ち着いて正しく着直した。そして、厨房に顔を出し、「お先です!」
 店長の返事も待たず、裏口から飛び出した。
 スニーカーで地面を鳴らしながら、会社帰りのビジネスマンの波をよけながら、急いで帰った。
 春の働いているレストランから春の家までは、徒歩で三十分ほどかかる。
 しかし、走ったおかげで二十分ほどで帰ってこれた。
 階段を上り、迷惑にならないよう廊下は小走りで自室のドアを開けた。
「ただいまー!」
 夏が六畳間のちゃぶ台で勉強しながら、春の帰りを待っている――はずだった。

 しかし、そこにあったのは、骸骨に首を締められ、荒れた部屋で苦しそうにしている夏の姿。

「お、兄……たす――」
 赤い顔で、目に涙を溜め、春へ手を伸ばす。
 そして次の瞬間に、その手は落ちた。春へ届くことなく。
「な、つ……?」
 骸骨は夏を飲み終わった空き缶の様に、無造作に床へと放る。
 そして、目線を夏から春に移す。本当に見られているのか、そもそも目があるのかすら怪しい穴。なんの感情もなく、ただ春を見ているだけ。
 ただ見られるだけということがどうしていいかわからない不安感を産み、春から何かを奪い取っていくような気がした。
「う、ああ……」
 血も、足も、気力さえも引いていき、春の足は勝手に踵を返して走り出した。
「う、ああああ! ああああああああああッ!!」
 おぼつかない足で、必死にその場から離れようとする。階段も半ば転げ落ちるようにして、痛みも忘れて逃げた。
 なにをやってるんだ。なぜ、妹を放って逃げている。
 逃げるな、止まれ、引き返せ!!
 そう足に命令するものの、足は言うことを聞かない。妹よりも自分の命が大事だという自分の本性を垣間見ているような、嫌な気分にさせられる。
「あっ……!」
 自分の足に躓いてしまい、春は思い切りアスファルトに倒れてしまった。
 やはりおぼついた足で逃げるのは無理があったのだろう。止まった足に痛みが走り、夏のことが頭を過ぎってふり向く。
 しかし、後ろにはもう骸骨が、春に向かって手を伸ばしていた。
 先程の夏とは違う、命を奪い取る腕。

 そこで、春の意識は途絶えた。


  2

 目の前を泡が昇っていく。
 まるで水中メガネ越しに見るプールの中の景色のようだった。
「……ここ、は」
 自分の口からも、喋った分だけ泡が出て行く。
 水中にいるのだろうか、と思ったが、実際そのようだった。
「やあ、お目覚めかい?」
 水と、その透明な壁の向こうに一人の男が立っていた。
 金髪のオールバックと、水色フレームのメガネに白衣という奇妙な出で立ち。
 彼は喜びを全身で感じるように両手を広げ、満面の笑みで春を見ていた。
「素晴らしい……よもや完成してしまうとは。――柄にもなく、自分が怖い」
 この男が何を言っているのかわからず、春はとにかくここから出ようと体を動かそうとするのだが、床から伸びた手錠によって動きを制限されていて動けない。上半身裸で、ズボンは春が意識を失う直前に穿いていた黒のチノパン。
「これは、なんなんですか」
 泡と共に言葉が出る。
 白衣の男は、そっと、春を閉じ込めている透明な壁を触る。
「キミはね、選ばれたのさ。人間を超越する、神の軍隊に」
 神の軍隊という言葉を、口の中で小さく繰り返した。しかし、その言葉の意味がよくわからなかった。その言葉は、まさに泡のように消えて行く。
「そう、だ。……なつ、夏は!?」
 一層激しく泡が舞い上がり、動かない手足で必死に体を揺する。この状況よりも、行方の知れない妹の方が気がかりなのだろう。
「夏? ……ああ、彼女なら」
 男は、顎でくいっと明後日の方向を示す。春は恐る恐る、その方を覗くと、書類などが散らばった乱雑な部屋の中心に、手術台があった。
 その横には、寄り添う様にして手術道具を乗せる台があり、そこに乗っているメスなどは赤く濡れ、手術が行われたことを示している。

 手術台の上には、全身を切り刻まれた肉片があった。

 頭の中をぐるぐると、夏の生きていた姿が駆け回る。つい昨日までの、元気な夏の様に。
 しかし、その姿はもう見られない。あるのは動いていた体だけ。
「改造しようとしたんだが、キミに回すパーツがどうしても彼女の体からしか作れなくてね。だから、キミのパーツの為に使わせてもらった」
 感謝したまえ、とメガネを持ち上げる白衣の男。
 自分が絶対的な善だ、と言わんばかりの独善的なその態度に、春の頭は一瞬で沸点を越えた。まだ残っている冷たい部分で、春は言った。
「何故、何故、夏を……!」
「私はその言葉に何故、だね。光栄だと思いたまえ。キミ達は、僕の最高傑作となったのだから。――まあ、強いて言えば、キミが不幸だったからさ」
「俺が、不幸……?」
「ああ。スパルトイからもらった情報だと、キミは自分の楽しみもろくにせず。妹を養うだけの毎日だったらしいじゃないか。それは不幸以外の何者でもない。不幸は報われて然るべき、と思ったからさ」
 この男は、本当に自分とは真反対の人間なのだと。
 春は確信した。そして、最後に残っていた冷静な部分も、熱にやられて消え去る。
「違う……! 違う!! 俺は、満足だった! 夏が幸せそうに笑って、それだけで幸せだった! あの笑顔が、俺の生きる理由だったんだ!!」
 宝物だ。笑って、泣いて、怒って、また笑って。そうやってくるくると表情変える夏が、春には宝物だった。
 それを、目の前の男が踏みにじり、行きがけの駄賃とばかりに唾まで吐いていった。
 腹の底から、どろりとした熱い物が昇ってくる。初めてのことだったが、戸惑わない。
 春はただ、その衝動に身を任せるだけ。
「フ……ッン、ガアアアアァァァァ!!」
 力一杯手を持ち上げると、意外にも手錠はすんなりちぎれた。
 足首の手錠も、最初から無かったかのようにちぎれ、春の身は半分自由になった。
 残すは、自分を閉じこめている透明なアクリル板のような壁だけだが。それも、問題なく拳打で破壊した。
 中から蛍光色の液体が溢れだし、春の体は完全に自由となる。
 濡れた体を包む空気は冷たい。だが、頭は完全に茹だっている。
 男が軽やかに口笛を吹いた。
「まるで猿人だ。下品すぎる」
 男との距離は約五歩。それを、春は一瞬で詰めた。
 拳を振り上げ、それを男の顔面に叩き降ろす。
 しかし、渾身の拳は男の掌にすっぽりと収まっていた。
「覚えておきたまえ。僕の名前は天使天。キミの創造主だ」
 熱々の焼き印を脳に直接押し当てた様に、その名前は春の頭にしっかりと刻まれた。
 天使は軽くぽんと春の胸を押し、にやりと笑う。
「踊れよ」
 天使の足が白く、神々しい光で満ち溢れ、徐々に形を変えていく。まるで白いブーツでも履いているようだった。
 その右膝をゆっくりと上げ、刀でも振り抜く様に爪先を春に向かって突き出す。
 すると、どこからか無数の光線が春を襲い、思わず腕で頭をかばった。
 しかし、その光線はすべて春を避けていき、先ほどまで春が入っていたカプセルを破壊した。
 アクリルも焦げ、春が割った状態からさらに粉微塵。そのアクリルを支えていた機械の支柱も、中身の先がはみ出してバチバチと火花を上げていた。
「僕も、キミと同様に改造人間だ。キミに与えたものはそんな馬鹿力だけではない。――さあ、変身しろ!」
 血で濁った池の中に、ぽちゃりと石が投げ込まれた。その言葉は深く深く沈んで行き、波紋を広げて行く。そして、春は天使の人間とは思えない所業と、振るった足を見て、自分にもその力があるのだと理解した。
 そして、力を描く。魚が池を泳ぐように、くっきりとしたラインで。

「オオオオオオオォォォォォッ!!」
 春の怒りに呼応するように、春の体を炎が包む。
 そして、皮膚は黒く変色し、その上を赤い外殻が包み込み、全身を鎧の様に固めた。
 頭からは角が生え、首元には赤いマフラーが巻かれている。

「――すっばらしい……」
 快楽も絶頂。そんな顔で、芸術品でも褒めるかのように身悶える天使。
 春の姿は、まさしく鬼。自身の姿をも変える怒りに包まれた修羅。
「さあ! さあさあさあ!! その力を見せてくれ!」
 その声に釣られたワケではないが、春の体が動いた。
 ボクサーのように膝を曲げ大きく踏み込むと、その勢いと腰の回転を加えたショートレンジの右フックで、天使の顎を引っ掛けるように狙う。しかし、背中を反って避けられてしまい、腰が戻る力を利用して返しの左フック。
「おっ……と」
 しかし、それもまた同様に紙一重で避けられる。
「ははっ。今のは危なかったな!」
 なぜか心底楽しんでいるように笑う天使。
 普段の春なら好感を抱くほどいい笑顔だったのだが、今という状況では不可能である。
「いや……っ、しかしまだ! まだ足りない! 見せろ、キミのすべてを!」
 その言葉と同時に、天使が右足を振り上げ、春の顎を跳ね上げた。
「ぶっ……!?」
 弓なりに体が反れた所に、天使は先程の光線を出現させ、春を狙う。
「こ、んッ――のおおおお!」
 出現から発射まで、一秒にも満たないタイムラグの内に体を戻す。
反った勢いを利用して、天使の額に思い切り頭突きを喰らわせた。
外殻のおかげで春にダメージは無く、変身していない天使の額は割れ、血が流れていた。
 その頭突きで天使は体勢を崩してしまい、光線の狙いが上にズレて発射される。
 無数の光が真上に向かって飛び、天井に穴を開ける。そこから入ってきた白い月光で、薄暗かった室内の全貌が晒される。
「――っな、んだこれ」
 春が入っていたようなカプセルがいくつも列を作って並び、その中には夏を殺し、春をここまで拉致してきた骸骨が何匹も収まっていたのだ。
「一体だけじゃ、なかったのか……?」
「当然」
 その声に首が引かれ振り向くと、顔面流血の天使が笑っていた。まるで、子供が新しいおもちゃを自慢するような。そんな笑み。
「彼らは、改造人間にする素質はあったが、キミのように特別製にはなれなかった失敗作達さ」
「……ってことは、――こいつらも元は、人間だったのか?」
「もちろん。改造人間だからね」
 その瞬間、今まで感じたことのない感情が津波のようにどっと押し寄せてきた。
 目の前には、もう人ではない人間達が、たくさんいる。自分もその一人だが、もう人間の人生を謳歌できないのかと思うと、ノスタルジーとも言える感傷を覚える。それと同時に、目の前の男に対する怒りが倍増していくのも感じた。
「ふむ……。このダメージは、少しまずいな、遊びすぎたか」
 そう言うと、天使は指を弾き、速くて響く良い音を鳴らした。
 すると、大量のカプセルが一斉に開き、中から骸骨達がぞろぞろと這い出てきた。
「あ、天使……!! お前、まだ人の体を弄ぶ気か!?」
 拳を握り、自分の体を壊してしまいそうな程に狂う怒りをそれに乗せ、天使の頬に向かって思い切り叩き込んだ。口の端を切ったのか、そこから血を流している。白衣の袖でそれを拭う。
「……面白いことを言うな。弄んでなどいない。役に立たない人間を役に立ててやったんだから、感謝されてもいいはずだ」
 そう言って、ちらりと真上の穴を一瞥。
「ここの研究所も、もうお終いだ。あんな穴が開いてしまったのでな」
「待てェ!」
 春が追いかけようとした瞬間、春の目の前から天使が消えた。まるで霧が晴れるかのように。
「くっそ……!」
 目の前にあるのは、自分の心も、人生も失った歩く死体だけ。
 目の前の春を、その深く暗い穴のような目で捉えていた。
 だが、春にはわかる。
 人間の時にはなかった新しい心の部位が、キシキシと切ない音を立てて伝える。
 彼らが泣いている。くやしい、悲しいと叫んでいると。
 自分も改造されたから、少しだけわかる。
 あんな男に体を弄繰り回された挙句、人生まで狂わされたのだ。
「コ、ロシテ……コロ、シテ……」
 骸骨達が、口々に声を発していく。もう自分ではどうにもならない体から、魂を解放してくれと懇願しているのだ。
 その、痛々しい声を聞くと、春の目頭がじんわりと熱くなった。これは、もしかしたら自分の可能性だと思ったから。
 春はまだ自分の心を持ち続けているが、もし天使が言うように、春が特別製じゃなかったら、こうして天使の操り人形になっていたのだ。
 しかしこれからすることを思うと、いっそ自分も心を無くしていたかったと考えてしまう。
 ――俺が、この人たちを……。
 できればしたくはない。しかし春は、それは自分に与えられた役割、もしくは試練の様に感じていた。
「ごめん、なさい……」
 謝って、春は拳を握った。
「うううぁぁぁぁぁぁ!!」
  そして、骸骨達の群に飛び込んだ。
 骸骨達の中心で、嵐の様に骸骨達をなぎ倒していく。しかし、倒されるとわかっていても、まるで春がまだ持っている人間の心が妬ましいかのように、ワラワラと集まってくる。
 その時の音を、春は一生忘れないだろう。命がどこかへ飛んでいく音。殺してもらえる喜びや、楽しかった頃を渇望する心の叫び。それらすべてが、服にこびりついた血痕の様に、春の耳にべっとりとこびりつく。
 全員を倒し終える頃には、元から赤かった春の体は返り血で黒ずんでいた。
 目元から、薄くなった血の鮮やかな赤い線が落ちている。
 それがどういう涙だったのか、春にはわからなかった。
 天井に開いた穴を見上げ、そこに向かって跳ぶ。
 改造された足は、楽々と屋上にたどり着いた。
 どうやらそこは、桜木町から少し離れた場所にある廃工場だったらしく、遠くにはランドマークタワーと、その根本に広がるライトアップされた横浜の街が見える。
 そして、それがショーウィンドウの向こう側に広がる宝石のように、手が届かないモノにも見えた。
 それでも春は、街に向かって跳んだ。できるだけ、その宝石に近づくために。
 それからどうしようかは考えていなかった。夏はもういないし、この体では店長にだって会えない。そういういろいろを、忘れたかったのだ。
 民家の屋根から屋根を行き、ランドマークタワーに向かって跳ぶ。それでどうなるわけでもない、ただ自分が街から拒絶されそうで、できるだけ中心にいたかった。
 そんな春に同情したのか、空が泣き出した。
 雨が春の血を洗い流し、先ほどの戦いで火照った体を冷やしてくれる。
 元の鮮やかな黒と赤の体に戻っていき、春は地面にビルの屋上に着地した。
 もう関内についたのだろう。少し行ったところには横浜スタジアムが。下には道路と、そこを行き交う車の光線が蠢いている。改造された所為か、百メートルはあるだろうビルの屋上にいるのにも関わらず、ナンバーから乗っている人間の顔まで、しっかりと見渡せる。
 楽しそうな顔が多いことに気づいて、何の気なしにそれを見つめた。光と音の数だけ、そこには人がいて、生活をしている。今までは何も考えず、何も思わずその光を見て音を聞いていたが、そこから弾き出されて初めて、それを美しいと感じていた。ただ生きているだけで、人間とは美しいのだ。
「俺にも……」
 俺にも、そんな美しさがあったのだろうか。
 呟こうとして、やめた。
 それをしたら、本当にその美しさ失いそうだから。
「……これからどうしよう」
 夏と天使の行方を探したいが、手がかりが無さすぎた。
 とりあえず、一番高いランドマークタワーにでも向かおうと決め、そちらの方を向くと、頭に電流が走った。
「……なんだ?」
 バチバチと弾けた音を鳴らしながら、頭の中を駆け巡る電流は、徐々に形を成していく。
 一人の少女の背中。どうやら走っているらしい。怯えた表情でしきりに後ろを振り返り、なにかから逃げているらしい。まるで、その少女を追っている人間の視覚が春に流れてきているようだった。
 その視覚を元に、春はその場所の手がかりを探した。どこかの路地なのは間違いないが、決定的な手がかりがなく、半分諦めかけたその時。視界の隅にとある看板が目に入った。それは、春が働いていた店の看板。そこに少女がいる。
 確信した春は、その方角に向かって跳んだ。
 春がいた場所からそこは遠くはなかった。それに、改造された春にはほとんど無尽蔵の体力と強化された身体能力がある。
 ほとんどトップスピードを維持したまま、一分ほどでその場所についた。
 春の働いていたレストランから路地を二、三本曲がったところにあるマンションの建設現場は、周りがベットタウンなため、多少の騒ぎくらいなら見逃されるだろう。
 少女はその建設現場の、骨組みが積まれた一角で、あの骸骨に追いつめられていた。どうやら春に流れてきた視界は、あの骸骨から流れてきていたようだ。
「あいつ……俺や夏にしたことを、あの子にもする気か……!?」
 それだけは、許すわけにいかなかった。
 夏の無残な最後が頭をよぎると、全身に力が溢れ、思った瞬間には体が動いていた。
「っづああああッ!」
 その声に気づき骸骨が振り向いた時には、その頭はサッカーボールのように遥か遠くへ飛んでいた。春の蹴りが、そこまでの威力を放ったのだ。
 倒れる骸骨の体。そして、それと入れ替わるようにその位置に立つ春。少女を見て、「大丈夫?」と声をかける。しかし、少女の瞳には、恐怖の色しかなかった。骸骨の化け物に襲われたかと思えば、その骸骨を殺した鬼が話しかけてきたのだ。結果がどうあれ、怯えるのも当たり前。
「や、こ、ないで……!」
 水分をたっぷりと含んだ果実のような、潤った唇を震わせながら怯えた声を出す。
フレームレスのメガネ越しに見えるぱっちりと大きな瞳。長く黒い髪は雨の所為で頬に張り付いてしまっている。ねずみ色のパーカー、そしてクロップドジーンズとスニーカーという格好から察するに、近所に出かける最中に骸骨に襲われたらしい。
 春はその言葉に俯き、
「わかった……」
 とはっきり言った。
 すると、まさか了承されるとは思っていなかった少女は、「……え?」と小さく声を出した。
「見逃す、の……?」
「見逃すもなにも、俺は……」
 それ以上は言わなかった。
 キミを助けようとしたんだ。そう言って、どうしようというのか。
 自分の見た目がどうなっているかはわからないが、どういう感情を周りに与えているかは、なんとなくわかる。拳は血に染まり、人間にはない外殻が自分の体を覆っているのだ。
 そんなもの、恐怖しかないに決まっている。
「もしかして、正義の味方、とか……ですか?」
「違うッ!!」
 少女の肩が、びくりと跳ね、顔がひきつった。
「……俺は、正義の味方じゃない」
 誰一人救えなかった、先ほどの光景が脳裏を流れていく。
 助けを求める夏を見捨て、骸骨にされた人たちを救えなかった自分とは、一番遠い言葉。
「俺は、偽善者だ……。妹を見捨てて……逃げた。守るって、言ったのに」
 あんなに大事な笑顔だったのに。それを置いて、自分の命の方が大事だと言わんばかりに、全力で逃げた。その、汚い自分の奥底が、春には許せなかったのだ。
「妹さん、がいたんですか……?」
 こくりと頷く春。少女は、恐る恐る角から出てくる。
「……どんな子?」
「よく、笑う子だった。……辛いことばかりだったはずなのに。それでも、なんでもないみたいに笑ってる、強い子だった」
 自分が支えているつもりだった。しかし、気づけば支えられていた。
 夏という支柱を失った時、自分はなんて脆いのだろう。そんな自分が、春には情けなかった。
「俺は、そんな夏に甘えてた……! それを、失ってから……!!」
 気づくのが遅すぎた。人は、失って初めて、自分の持っている物の本当の価値に気づくというが、それが本当だったと痛感していた。
 夏がいないというだけで、これからどうしていいのかが、春にはわからない。
「……人間みたい、ですね」
 不意に、少女がそんなことを言った。
 俯いていた春は顔を上げ、よくわからないまま少女の顔を見つめる。
「……鬼さんは、人間みたいですね」
 鬼さんという言葉が、一瞬お兄さんと聞こえた。
 それと同時に、自分が鬼のような姿であることも自覚する。
「俺が、人間……? こんな姿で?」
「……怒らないで欲しいんですけど、そういう、イジイジクヨクヨしてる感じが。すごく人間っぽい」
 その言葉の受け取り様が、酷く複雑だった。
 普段なら怒る所だが、今の春には人間っぽいという言葉が嬉しく思えたのだ。
「……でも、俺はもう、人間じゃない」
「もう? ……もしかして、鬼さんは元人間なんですか?」
 元人間という言葉に、春は自嘲気味に頷いた。
「なんで、そんなことに……」
「……改造されたんだ。妹ごと」
 それから春は、見ず知らずの少女に、自分がされたこと、してしまったことを話し始める。
 少女はその話を、時折頷くだけで、黙って聞いていた。
 二人して雨に濡れながら、悲劇の顛末を刻みつける儀式の様に。
「……ごめんなさい」
 話が終わって、少女の第一声はそれだった。
 春は、なにを謝られているのかわからず、なにも言えなかった。
「鬼さんがそんな辛い目にあったのに、……私、怖がっちゃったから」
 小さく嗚咽する少女。雨でわかりにくいが、泣いているようだった。
「キミが泣くことじゃない。なにも悪くないんだから」
「うん。……っ、でもやっぱり、わかってあげられなかったから」
 春は、少女の頭を撫でようとして、やめた。
 血に汚れた手で、彼女に触るのは失礼だと思ったから。
「……でもっ、それと同じくらい、もったいないと思うんです」
「もったいない?」
 なにがだろう。わからないでいると、彼女は力強い声で言った。
「そうやって、イジケてるのがです」
 もう彼女の嗚咽は止まっていた。春の鼻を指さし、続ける。
「妹さんを守れなかった。それは仕方ないと思います。その時は力がなかったから。でも、今は違うじゃないですか」
 そう言って、彼女は春の手を取った。
 しかし、春はそれを振り払う。
「触っちゃダメだ……この手は、人殺しの手だから」
 じっと掌を見ながら、そう呟いた。
 雨で多少なり汚れは落ちたが、それでもうっすらと血が残っていた。
 それでも彼女は、その汚れをまったく気にしていないかのように、また春の手を取った。
「それは関係ない。あなたは、救おうとした。……それ以外の道は、なかったんですよね?」
 すこしためらって、春は頷いた。
「でも、あなたはそれを、罪だと思ってる。……だったら、罪は償いましょう」
 そう言って、彼女は春の手をしっかりと握り、力強い瞳で春を見た。
「さっき、あなたは私を助けてくれた。私にしてくれたみたいに、いろんな人を助けてあげてください」
 それが、償いになるはずです。そう言って笑う少女の顔に、夏の顔が重なった。外見はまったく似ていないのに、心根の部分は酷く似ていた。
「……俺に、正義の味方になれって?」
「そう。赤いマフラーは、正義の印でしょ?」
 少女が春の首元を指さした。
 春はそのマフラーを掴んで、じっと見つめながら呟く。
「正義、か……」
「はい。正義を貫くヒーロー。あなたには今、それだけの力があると思います」
 そして少女は、自身を斗賀ノキだと名乗った。春も自分の名を告げると、なぜか少女が何かを思いついたような笑顔を見せる。
 その時、春の肌がゆっくりと色を変え、形を変え、人らしい柔らかな肌に戻っていく。心が怒りを収めたように、春の変身が解けた。
「あれ……? 人間に、戻れたの?」
 春も今、はじめて知った。
だが確かに、人間から変身したのだから、人間に戻れてもおかしくはなかった。
「うん、優しそうな顔してるね」
 少女の言葉になにを言っていいかわからず、春は曖昧に頷いて、「ありがとう」とだけ言った。
「ねえ、あなたのヒーローとしての名前、フェイクマンってどう?」
「フェイク……?」
「そう。さっき、偽善者って言ったじゃない? その『偽』」
 フェイクマン……。その名前を、口の中で何度も繰り返した。
 確かに、名前の由来も意味も、自分にぴったりだと春は思った。
 
 御堂春はその日フェイクマンとなり、妹に似た少女に誓った。
 自分の罪を、キミからもらった名前で償い続ける、と。

       

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