Neetel Inside ニートノベル
表紙

FAKEMAN
まとめて読む

見開き   最大化      


 1 フェイクマン―Opening―

 鮮血のような赤い月明かりがネオンに輝く街をさらに照らしていた。
しかし、ネオンは街の表側だけを照らし、裏側には淡い月明かりしか届かない。
 数メートル先しか見えないその街の裏側で、は走っていた。冷たい汗が胸から噴き出し、口からは熱い息が漏れていた。
 前原一郎は社会人生活が長くなろうが、体力には自信があるほうだった。大学では一目置かれる運動能力があったし、もちろん走力にはそれなりの自信があった。しかしそれだけでは、この異常事態からは逃げきれない。この悪夢から逃げ出すのは、オリンピック選手でも無理なのだから。
「しまった……!!」
 掠れた声が、静かに反響する。
 街の裏側にはよくある、ビルに囲まれ偶然できた行き止まり。絶望的に高いその壁を見上げ、心の中が真っ黒になっていくのが自分でもわかった。
 いやだ、死にたくない、何で俺が、何で俺が死ななきゃならない? もっといるだろ。死ななきゃならない人間が。そうだ。あのセクハラが酷い課長なんかは、俺より先に死ぬべきだろ?
 彼の頭は高速で回り、自分より先に死ぬべき人間をリストアップしていく。今までの人生で出会った、彼の中ではクズというレッテルが貼られている人間。
 半ば現実逃避だったその行為も、冷たく響く足音によって現実に戻された。
 一郎の顔から血の気が引き、振り返りたくないという思いが頭を包む。しかし、そんな思いとは裏腹に、体は勝手に踵を返し振り向いていた。
 ゆっくりと迫り来るそれは、人型ではあるが人間ではない。黒い皮膚の上に骸骨のような外殻を持つその生物は、殺人という概念を表したような異形だった。
その醜悪としか言い表せない姿を見てしまったら、足が震えだしてしまう。
 骸骨は一郎をただまっすぐと、何の感情もない穴蔵の様な瞳で見つめながら、やけに細く白い腕をゆっくりと前に突き出してきた。
「なあ、やめてくれよ! なんで俺なんだよ! 俺なんか殺してなんのメリットがあるっていうんだよ!? なあ頼むよ……、お願いだからさぁ……」
 ついには、男の目から大粒の涙が溢れだし、口からは命乞いの言葉が出る。
 しかしその声も、怪物には届かない。聞く耳持たず。言う口持たず。一切のコミュニケーションを拒んでいるらしい。
 怪物の手が一郎の頭に触れ、体が持ち上がる。頭を握りつぶそうとしているのか、指先に少しずつ力が籠もっていく。みしみしと頭蓋骨が悲鳴を上げてきて、うめき声も漏れてきた。
「う……うう……!」
 悲鳴は出ない。恐怖のあまり、喉が萎縮してしまっているのだろう。思い切り助けを呼びたい。この悪夢から解放してほしい。
 そんな中。一郎の脳裏には、小さな頃に観ていた一人の特撮ヒーローがいた。いつから観なくなってしまったのかもわからないほど古い記憶。
 あと少しで頭蓋骨が割れる。もう生きることも諦めた。
 ――しかし、覚悟を決めた途端、なぜか一郎の体に加えられていた力がなくなり、地面に尻を打った。骸骨が腕の力を緩め、一郎を地面に落としたのだ。
「……え? え?」
 なぜだかわからず、骸骨を見上げる。
 骸骨は、すでに一郎から興味を失ったらしく、一郎に背中をを向けていた。なにかあるのかと思い、彼も骸骨越しに走ってきた方を見る。
そこにあったのは、一つの赤い影。
 一郎がぼんやりとその影を眺めていると、その赤い影は一瞬で骸骨の元へ移動し、思い切り顎を蹴り上げて上空へと吹き飛ばした。
「え……!?」
 その目にも止まらない素早さに驚き、一郎はまじまじと骸骨を観察する。
 骸骨と同じように全身を黒い皮膚を持ち、その上から赤い外殻が全身を覆っている。違うのは角が生えていて、鬼のような姿をしているというところだった。
「ば、化け物が、もう一匹……ッ!?」
 一郎を一瞥し、赤鬼は膝を曲げて上空に思い切り体重をときはなち、骸骨の後を追う。空高くで迎え打つ体制を取っていた骸骨は、そのまま鬼に向かって、重力と腰の遠心力を加えた右ストレートを放つ。しかし、鬼は首を捻ってそれをかわし、骸骨の腕を掴んで、そのまま背負い投げの要領で思い切り地面へと叩きつけた。
「クヘ……ッ!」
 コンクリートに骸骨が背中から叩きつけられ、口から勢いよく酸素が押し出された。全身を襲う鈍い痛みで立ち上がれないのだろう。ぴくぴく痙攣しながら、上空にいる鬼を睨んでいる。
 一郎も骸骨に釣られ、鬼へと視線を移す。
 鬼の右手が神々しく黄緑色に光り、ミサイルのような勢いで骸骨に向かって落下。
 その手に込められたエネルギーを畏怖したのだろう。初めて骸骨は声にならない悲鳴を上げた。
 しかしそれでも、鬼は容赦なく、腕を思い切り骸骨の腹へと突き刺した。
「ク……フゥ……!」
 腹に風穴が空けられた骸骨は、完全に動きを停止させる。
最後の維持を見せたのか、鬼を道連れにするように爆発した。
 空気が割れるような爆音。一郎は耳を塞ぎ、目を閉じて爆発から目を逸らした。
何秒ほど閉じていただろうか。意を決して、一郎はゆっくりと目を開く。
 しかしそこには、もうすでに誰も居なかった。先ほどの赤い鬼も、骸骨も。夢だったのか、とさえ思えるほどあっけない幕切れ。
「……あれ、さっきの赤いやつが……」
 やはり夢だったのか。
 一郎はそっとため息を吐いた。しかし、地面には爆発の焦げ跡が残っているし、その焦げ跡の中心には、拳大の穴が空いていた。それを見て、一郎の背が粟立つ。その渦中にいたときもそうだったが、冷静に戻ると、訳のわからない恐怖がさらに強調された。
 一郎は月を見上げる。美味しそうなバター色をした、丸い月。
 そして、助かったのだから、気にするのはやめよう。と呟く。
 あの骸骨も、赤い鬼も。

 すべては闇の随に……。

     

 2 警察―鳴海アキラ―

 横浜のとある路地裏。普通なら人が通ることも、ましてそこで立ち止まることなんて滅多にない場所に、大勢の警官と野次馬がいた。
その中の一人、新人の警部補である鳴海アキラは、その現場を見て怒りと吐き気を催していた。
胃の中で消化しきれていなかった昼食がぐるぐる回り、今にも逆流してきそうなほどだ。
「鳴海、お前現場何回目だっけ」
 顔をしかめ、口元を押さえるアキラの隣に中年の男性が立った。彼は。
 薄くなった頭頂部、長年の苦労で出来たシワ。そして、小太りの体にシャツと古ぼけた茶色のスーツ。アキラの教育係である警部だ。
 アキラは自分の口元に当てた手で唇を拭い、目の前にある遺体を薄目で見る。
「現場はこれで……十回近くですけど。なれませんよ……」
「普通はそんだけ見たらなれるもんだけどな。そんなんじゃ、一人前にはまだ遠いな」
「………………う」
 なにか言い返そうとは思ったのだが、吐き気でそれどころではなかった。それに、吐き気がなかったとしても、弾となる言葉がなかったので言い返すのは不可能。
 そんなアキラを放り、平助は路地裏の中に転がる死体の元へと向かい、しゃがみこむ。
薄くなった頭皮をがりがりと削るように掻き毟っている。
「こりゃあひでえな……。確かに、新人にはきついかもしれねえ」
 俺だって、こんな胸糞悪いのは初めてだ……。と、不快感を吐き捨てた。
 アキラも、もう一度じっくり遺体を見直そうと、覚悟を決めるまでの時間稼ぎの様に重い足取りで、遺体の元へ向かった。平助の横に立ち、それを見下ろす。
 その遺体は男性のもので、大学生ほどだろうことが服装から予想できる。至って変わったところもなく、昨日まで友人と酒を飲んだりして楽しい学生生活を送っていただろうとさえ思わせる。
しかし、その死体には、顔面が無いのだ。
まるで顔面だけ肉食動物に食われ、その後鈍器でぐちゃぐちゃにされたような。もはや元の顔がどんな輪郭だったのかすら予想できないほどにめちゃくちゃで、凄惨な殺され方だった。
「これで、同じ手口が六件目か……」
 手を合わせながら、平助はそう呟いた。
 今まで起こった同様の事件を思い出しているのだろう。
アキラも同じように手を合わせ、事件を思い出してみた。
 共通点は二つ。一つ目は、人目の少ない場所で殺されていること。
二つ目は、顔面が無くなっていること。
被害者に共通点はなく、年齢性別まで異なった老若男女六人がそうやって殺された。
しかし、そんな大仕事なのに争った形跡はまったくなく、どうやら一分ほどの短時間でここまでの惨状を作って見せたという人間離れした業。
「犯人は、二メートル以上身長のある、握力八〇〇キロとかの大男ですかね……」
 幾分吐き気がマシになってきて、その心の緩みから、頭の隅にあった犯人像が口から漏れた。
「バカ言ってんじゃねえ。……と言いたいところだが、それもあながち違うとも言えねえから困るな……というか、そうとしか思えん」
 はあ、とため息を吐いて立ち上がり、死体の写真を取る鑑識の男に「なんか手がかりあったか?」と訪ねる。青いつなぎを着たその男は、悔しそうに首を振り、「いや。なにも見つからない」と言って作業に戻った。
「こりゃ、迷宮入りだな……」
「そう……なっちゃうんですかね」
 犯人の手がかりはゼロ。それで犯人が追えないことはアキラにもわかっているが、納得がいかなかった。
「まあ、もうちょっと探してみよう。いくらなんでも、証拠一つ残さない犯人なんていないはずだ」
「ですよね。証拠を残さない犯人なんて、それこそ化け物ですよね」
「ああ……。本当にな」
 呆れたように頭を掻き、黄色いテープを持ち上げ、現場から出て、アキラの方へ振り向く。
「俺は署にもどるが、おまえはどうする?」
「もうちょっと調べていきます」
「そうか。――まあ、頑張れよ」
 と、アキラに励ましの言葉を投げ、背中を丸めて歩いていった。
その背中が人混みに混ざって消えるまで見送ると、アキラも黄色いテープから出て、周辺を詮索することにした。
 現場に証拠がないなら、周辺にならあるかもしれないという、藁のように頼りない望みだ。
 現場を中心に、ぐるぐると渦巻きを描くような道のりで歩いてみる。しかし、まだ現場からそう離れていないのに、辺りを歩く人間が全員「自分が死ぬなんてありえない」という顔をしているのが、アキラの目に付き、殺された六人も、殺される前日まではあんな顔をしていたのだろうと思ってしまい、周辺を歩く人間の顔と被害者の無い顔がだぶって、気分が悪くなる。
「う、しまった……」
 首の後ろにいやな違和感が巻き付き、胸の下あたりがむかむかしてきた。
「こんなんだから、先輩からバカにされるんだよなあ……」
 アキラが気分を悪くするのを見て、苦い顔をする平助を思いだし、自分の腹に力を入れて渇を入れた。しかしそんなことで気分がよくなるほどヤワなものではなかったらしく、相変わらず腹の中では昼に食べたカレーがぐるぐると回っていた。
 もうダメだ。一旦署に戻ろう。
 そう決意して踵を返すと、男物のスニーカーが視界に入った。そこからだんだん首をあげていくと、アキラと同い年くらい(二十代ほど)の青年が居た。コンバースの白いスニーカーにデニムのパンツと、黒い長袖のTシャツ。その上にノースリーブでパ―カー付きの赤い上着。少しタレ目な顔は、それぞれのパーツがほどよく整っている。茶髪の無造作な髪型も相まって、どこかズレた雰囲気を持っていた。
「……気分悪そうですけど。大丈夫ですか?」
 遠慮がちな青年の声に、アキラは軽く頷き、「大丈夫です」と嘘を吐いた。
「俺にはそう見えませんんけど。気分が悪いなら、ウチが近くにあるんで、すこし休んでいきますか?」
「いえ、あの、本当に大丈夫ですから……」
 そう言って青年の横を通り過ぎようとした時、足がふらついてしまい、頭が前に落ちる。しかし、倒れそうになった瞬間、アキラの胸は青年の腕で支えられた。
「ほら、歩くのも辛そうじゃないですか。このまま無理矢理につれてきますよ」
 そう言うと、青年はアキラを背負い直し、少し重たくなったはずの歩を進める。しかし、まったく重さを感じさせないその足取りに、アキラはすこし驚いた。
「すいません……面倒をかけてしまい。――なにかスポーツとかやってるんですか? なんていうか、その。私も結構重いのに、らくらく運んでるので」
「いえ? 特にはやってないです。……というか、アキラさん、そんなに重くないですよ」
 アキラは、先日健康診断で図った自分の体重を思い出す。
 身長百八十センチの、七十キロだったはず。
 それが子供のように背負われていることが半人前のアキラを象徴するようで、なんとも情けない。
 そんなアキラの憂鬱とは反対に、青年は思い出したかのように少し明るい声を出す。
「そういえば、名前なんて言うんですか?」
「あ、私は鳴海アキラといいます」
「アキラさん。俺は御堂春です」
 よろしくお願いします。と青年は軽く頭を下げた。
 アキラも春に習って、頭を下げようとしたが、それをすると春の頭に頭突きすることになるので、「あ、どうも」と小さく呟いた。
 頭を下げようとしたその時、春の首筋に絆創膏が貼られているのが見えた。
 妙な位置に貼られていたので気になってしまい、アキラは思わず凝視してしまう。
「あの……ここの絆創膏、どうしたんですか?」
「え……ああ、ちょっと掻きすぎちゃって。――そんなことより、もう着きますよ。ほら」
 そう言って、春がアゴで先を差す。そこにあったのは喫茶店だった。
 コーヒーベルトという名前の、小さな喫茶店。昭和時代のレトロな雰囲気が見た目からも漂ってきて、時代に逆行するその感じに、アキラは好感を持った。
「コーヒーベルトって……珍しい名前ですね」
 遠慮がちにアキラは言う。
「俺もそう思います」顔は見えないが、声の調子から察するに、どうやら春は苦笑しているようだった。
 アキラの膝裏から右手を抜き、ドアノブを捻ってドアを引く。
 からんからん、とカウベルが鳴り、「おかえり」とコーヒーのように深く、渋い声が聞こえた。
 声の主は、カウンターの中にいる喫茶店のマスターのようで、にっこりと笑っていた。白髪の混じるウェーブのかかった長髪。顔にはそれなりのシワが走っているものの、なぜだか表情が若々しい。ギャルソンの格好をしているが、肩幅や二の腕などから体格のよさも伺える。
「薫さん。すいませんけど、コーヒー一つ」
「ああ、いいけど……どうしたんだその人」
「行き倒れてました」と春は一言。
「違います!」
 否定してみるが、やんわりと無視された。
 しかし、倒れていなかっただけで、ほとんど行き倒れだったか、と自分でも思い直す。違うのは、倒れていなかったことくらいだろうし。
 春はアキラをゆっくりと降ろす。そしてカウンターからスツールを引き、「どうぞ」とアキラに座るよう勧める。
 春の言葉にまた甘え、「すいません」と軽く頭を下げてから、スツールに腰を降ろす。腹の中にあったもやもやが、少しは楽になった気がした。
「改めまして、です。ここのマスターやってます」
 カウンター内にいる中年の男性は、斗賀薫と名乗った。
「あ、自分は鳴海アキラといいます」
 また頭を下げる。
警察手帳を出そうかと一瞬迷ってしまったが、あまり吹聴するのも違うだろうと、やめた。
「アキラくんでいいかな? はい、コーヒー」
 白いカップをソーサーに乗せ、薫はアキラの前にコーヒーを置いた。白い湯気を吐きながら、香ばしい香りをアキラの鼻に届けてくれる。おもわずごくり、と生唾を飲んでしまった。飲み物で生唾を飲んだのは、初体験だった。
 しかし彼なりのプライドか、アキラは冷静を装い、いただきますと言ってからゆったりとした動作でカップを口元に運んだ。
 口の中に、渋い苦みが広がる。しかし、苦みだけではない。その苦みの奥底には、ほんのりとした甘みがあり、すっきりとする鮮烈な爽やかさもある。
「お……おいしい」
 コーヒーにおいしい、と言ったのも初体験だった。
 アキラにとってコーヒーとは、眠気を覚ます為の飲み物でしかなく、インスタントか缶コーヒーで充分だった。だからコーヒーにこだわる同僚がいると聞いても、「なんでコーヒーにこだわるんだ?」と首を傾げたものだった。
 しかし、ようやくわかった。コーヒーもこだわれば、ここまでおいしいものになるのだと。
 おいしい以外に言葉が出てこず、アキラは口を開けて、そのコーヒーをただじっと見ていた。
「気に入ってもらったようで、なによりだ」
 薫はカップを拭きながら、変わらず笑顔を見せていた。マスターが常時笑顔というのは、それだけで店が明るくなったような気さえする。薄暗い店内でも、どこか暖かな雰囲気があるのはその所為か。
 そんなことを考えている辺り、アキラはこの店を早くも気に入っているらしい。
「そういえば、鳴海さん仕事は?」
 いつの間にかアキラの左隣に座っていた春が、そんな質問をしてきた。素直に答えてもいいのだが、先程警察手帳も出さなかったので、「単なる公務員です」とお茶を濁すことにした。
「へえ。公務員」
 なにを感心しているのか、春は腕を組んでまじまじとアキラを見ている。
「まあちょっとした野暮用で。外回りを」
 警察官以外の公務員に、外回りなんてあるのだろうか。自分で言っていて疑問だが、二人はあっさりと信じてくれた。
「そういえばさっき、斗賀さんは御堂さんにおかえりと言ってましたが、御堂さんってここでバイトしてるんですか?」
「ええ。住み込みで、毎日働いてます」
 そう言って、にこりと笑う。薫と春の笑顔はなんだか似ているな、とアキラは思った。
 コーヒーに口をつけ、その味わいを楽しんでいると、ドアベルがまた来店を告げた。ドアを見ると、そこには女子高生がいた。
 綺麗な黒髪に、フレームレスのメガネ。紺色のブレザーを乱れなくキチンと着ていて、なんだか地味な印象を受ける。
最近の高校生は基本的に制服は崩して着るので、ある意味目立つといえば目立つ。
 しかしその服装の印象とは裏腹に、顔はかなり整っており、教室の隅にひっそりと咲く花のようなイメージをアキラは連想してしまう。
「ただいま」
 クールに響く声。そしてアキラに気づくと、ゆっくり「あ、いらっしゃいませ」と挨拶。そのどこか大人びたクールさは、今時の高校生にしては、本当に珍しい。
 少女は春の左隣に座って、スクールバックを足下に置くと、薫にアイスコーヒーを注文した。そして、隣に座る春に「ただいま、春くん」と言った。
「ああ。おかえり。どうだった? 学校は」
「特に変わったことはなかった。まあ理数系は難しくなってきてる感じかな……」
 私、文系だし。そう淡々と彼女は言う。
 それを聞いて、ああやっぱりとこっそり思った。
「あ、そうだ鳴海さん。紹介します」
 そう言って、春がアキラの方を振り返り、手を少女に向けた。
「この子は斗賀ノキちゃん。薫さんの娘」
「どうも、鳴海アキラです」
 それくらいは予想していたので、アキラもすぐに名乗った。
「アキラさんですか。今後とも、ウチの店をご贔屓に」
 と、可愛らしくお辞儀をした。
「それにしても、ノキちゃんって変わった名前ですね」
「それ、よく言われます。私は結構、気に入ってるんですけど」
 言われ馴れているのかもともと気にしていないのか、彼女は表情は変えないが優しく言う。
「由来は、コーヒー豆が取れる木の、コーヒーノキからなんです。お父さん、コーヒーが好きだから。店の名前もコーヒー生産地を表すコーヒーベルトからってくらい、徹底してて」
 コーヒー生産地がコーヒーベルト、というのがよくわからず、無意識に薫を見てしまう。
「赤道のことさ。コーヒーは、赤道が通っている国でしか作れないからね。だから、コーヒーベルト」
 思わず、「へー……」と声を上げてしまう。
 今までこだわらなかったコーヒーだが、少し中を覗いてみれば、いろいろな世界が広がっている。そんな新鮮な感覚が、アキラの心を満たしていた。
「お父さんのコーヒーを飲むんなら、お父さんのうんちくにつき合えないといけませんよ。そういう点なら、アキラさんはこの店に馴染めそうですね」
 この店を気に入っていたアキラはノキの言葉が素直に嬉しかった。その嬉しさを確かめるように、すこし温くなったコーヒーに口をつけた。
 ノキも、薫から細長いグラスに入ったアイスコーヒーを受け取って、さされたストローに口を付けて吸い始める。喉が乾いていたのか、一息でグラス半分ほどを空けた。
「常連さんといえば、最近来ないね優さん」
 ノキが思い出した様に言うと、薫が心配そうに目を細めた。
「あの……優さんて?」
「ああ、風祭優(かざまつりゆう)って言ってね、ここの常連だった探偵さんなんだ。三日に一度は必ず来てたんだけど……ここ一ヶ月来てないんだ」
「仕事が忙しいのかもしれませんよ」
 訊いたはいいが、アキラは風祭優なる人物を知らないので、そうとしか言えなかった。薫も、それ以上話そうとはせず、「だといいけどね……」と言って、またグラス磨きに戻った。
「さて……。そろそろ行きます」
 気分の悪さも直り、コーヒーもすべて飲み干した。
 もう一杯くらいは飲んでいきたいが、自分は今職務中。
 そう自分に渇を入れ、後ろ髪引かれながらも財布を取り出す。
「いくらですか?」
「いや、タダでいいよ。これは単なる人助け。お代は次から」
「え。……いいんですか?」
「ああ。これは単なる人助けだから。そうだろう、春?」
「もちろん。困ってたっぽかったし。このコーヒーだって、俺が勝手に注文した物だし」
「すいません。……ごちそうさまです」
 おいしいコーヒーを一杯飲むと、今日はいい日だと思えるということを、アキラは初めて知った。
 また来ようと決めて、アキラは少しだけ幸せな気分でコーヒーベルトを出た。

  2

「……なんか鳴海くん、幸せそうだね」
 横浜みなとみらい警察署。その捜査一課。タバコの臭いと喧噪に包まれ、なかなか多忙なそこに、アキラはいた。
 自分のデスクに座り、タバコを吹かしながらぼーっとしていたら、同僚であり隣のデスクに座る水島珠子に話しかけられたのである。
 髪留めで後頭部に茶色の髪を集め、顔にはオシャレを忘れない程度の化粧。アキラと同い年で、まだまだ肌の張りは現役。顔はまだ少女気分が抜けないが、そのあどけなさが捜査一課の癒しになっている。
服装は、背伸びしたような黒の女性用スーツに、同色のパンツストッキング。そして、またまた黒のハイヒールと黒づくめ。彼女曰く、「黒って好きなんだよね。大人っぽいし」とのこと。
 アキラは頭を掻きながら、「わかりますか」と訊いてみた。
「まるわかり。顔に出すぎ。ポーカーしたらわたしが勝つね」
 ポーカーフェイスのことだろう。
 確かにアキラは、そういった『器用に振る舞う』という風なゲームは苦手である。腹のさぐり合いなんて以ての外。
 しかし、それを認めるのは癪なので、アキラは小さく「そんなことはないです」とだけ言っておく。
「で、なにかあったの? 教えなさいよ。そして幸せを分けなさい」
「そんな大したもんじゃないですよ。ちょっとコーヒーのおいしい店を見つけただけ」
「は、コーヒー?」
 期待はずれ、と言いたそうながっかりした顔をした。そして、子供のような口調で「わたしコーヒーきらーい」と手をだだっ子のように振った。
「コーヒーより紅茶っしょ! コーヒーなんて、なにがおいしいのかよくわかんないし」
 コーヒーのうまさを知ってしまうと、そんなことを言う人間が損をしているようで、アキラはなんだか可笑しかった。
「そこの人達がいい人なんですよ。御堂さんは、具合悪くしてた俺のことを背負って、その喫茶店まで連れて行ってくれたし。薫さんのコーヒーは美味しいし。ノキちゃんは良い子だし」
「あ、っそ。――で、そんなことより鳴海くん。顔面潰しの件だけど」
 興味がなかったのか、仕事の話になった。多少残念だったが、仕事は仕事。プライベートを引きずっていた心のスイッチを切り替え、珠子の話に耳を傾けた。
「鑑識は成果あがらずだったけど、その代わり、興味深い目撃者がいたよ。上は胡散臭いって言ってるけど、私はわりとそれが真実だと思うから、待ってもらってるの。話を聞きに行きましょう」
「……水島さんは、もうその人から聞いたんですよね? だったらそれを聞かせてくれれば」
「だめよ。大事は話は、面と向かって言わないと伝わらないから」
 なるほどと頷き、アキラは椅子から立ち上がった。
 彼女はときどき、いいことを言う。

 捜査一課の片隅にある応接セット。
 そこは、被害者や目撃者の証言を聞くためによく使われる。二人は忙しそうにしている刑事たちを横目に、できるだけ早足でそこへ向かった。
茶色い革張りの長ソファには、三十代のサラリーマンが所在なさそうにして座っていた。
二人はそれぞれ、並んだ二人掛けソファに座り、アキラは目の前のサラリーマンに「どうも」と軽い挨拶をしておく。警察として捜査する時は頭を下げない。会話の主導権を握るため、できるだけ威圧的に構えろと、平助に教わったからだ。
「彼は捜査一課の鳴海アキラです。申し訳ありませんが、先ほどの話。もう一度お願いできますか?」
 珠子は丁寧にそう言った。
 仕事には真剣な子だ。
 サラリーマンは遠慮がちに言う。
「わかりました……。あ、自分は前原一郎といいます」
 普通な名前だ。逆に珍しい。
 とは、さすがに失礼だから言わなかった。
「前原さんは、どうやらつい先日、ものすごい体験をしたらしいですよ。もしかしたら、その顔面潰しかもしれないということで。こうして事情を話しにきてくれたそうです」
 なるほど。この人は、唯一顔面潰しから逃れた被害者なのだ。
 一本の線が、アキラには確かに見えた。
 釈迦が垂らした蜘蛛の糸のようにか細い、顔面潰しへ通じる糸。
 後はこの糸が途切れないよう、慎重に手繰るだけ。
 アキラは腰を据えて、彼の言葉に耳を傾ける。

 しかし、話を聞いたアキラは、一言。
「なんですかそれ。特撮番組みたいですね」
 アキラとしては至極まともなことを言ったつもりだったのだが、一郎はまるで烈火の如く顔を真っ赤にして、テーブルを叩いて叫ぶ。
「そりゃ俺だって信じられないですよ! でもね、確かに赤い鬼が、俺の前で骸骨を倒したんだ! 信じられないなら、現場に行けばいい。まだ爆発の焦げ目と、拳の穴が開いてるはずだ!!」
 という、前原一郎の話を信じたわけではないのだが、珠子の「私、これが全部嘘とは思えないんだよねえ。……この顔面潰し、人間じゃないっぽいし」という言葉がなぜか頭に残り、一郎が襲われたという場所まで足を伸ばしていた。
 そこは四方の内三方を高いビルに囲まれた街自体の設計ミスとも言える場所であり、昼間であるとはいえ、なかなかに薄暗い場所だった。街の裏側という表現がしっくり来る。
「確かに……こんな場所で殺人が起こったら、目撃されないだろうなあ……」
 それだけではない。というより、アキラの目はそれに釘付けだった。
 その路地の中心にある円形状の焦げ跡。
そして、その中心にあるコンクリートを突き破った拳大の穴。
それは確かに、一郎の言った通りそこにあった。
 穴を見ながら、アキラは骸骨について考えてみる。一郎の言葉が本当なら、顔面潰しは人間ではないことになる。人間じゃないならなんなのか、なんの目的があって人間を殺しているのか。さっぱり考えがまとまらず、アキラは無意識に、胸ポケットからタバコを取り出していた。
 タバコを口に咥え、ライターで火を点ける。
 口から紫煙を吐き出すと、その煙はこの路地から出ようとするかのように、ゆっくりと太陽に向かって昇っていく。それを見上げていると、スラックスのポケットに入れてたケータイが鳴り出す。
 ポケットからケータイを抜き、開く。画面には水島珠子の名前が書かれていた。
「どうしました?」
 通話ボタンを押し、耳に当てると、珠子の声が聞こえる。
「もしもし鳴海くーん? どう、顔面潰しに出会ったりしてない?」
「縁起でもないことを……。で、なんの用ですか」
「いやあ。心配になっただけだって。いやだよー、鳴海くんの家族に「今回はご愁傷様でした……」なんて泣きながら言うのは」
「大丈夫ですよ。前原一郎の話は全部が嘘ってわけじゃないし……。顔面潰しは、その赤い鬼に倒されたと見て間違いは……」
 ふと、アキラは入ってきた方に視線を向けた。
 何かを感じたわけでもなく、電話に集中していて、目が手持ち無沙汰になっただけだったのだが、それが思わぬものを捉えた。
 前原一郎の証言と同じ、黒い皮膚に白い骨のような外殻。
「――っ!」
 顔面潰し!
 それだけが真っ白な頭を埋め尽くし、アキラは逃げようとする。
「くっそ……行き止まりかッ!」
 そうだ。アキラはすでに、追いつめられているのだ。
 街の袋小路。ビルを見上げ、アキラは舌打ちをする。
「どうしたの鳴海くん! ……もしかして顔面潰し!?」
「……そうかもしれません。生きてたら、またかけ直します」
 珠子はまだなにか言おうとしていたが、構わずケータイを閉じた。
 骸骨がゆっくり、アキラに向かって歩いてくる。
 もちろん、ただで殺される訳にもいかない。腰にあるオートマチック式の拳銃を取り出し、銃口を骸骨に向けた。
「止まれェッ!!」
 止まらなければ撃つ。という脅しを込めて叫ぶが、聞く耳持たず。
 それを見て、殺さなければ殺されると思ったアキラは、躊躇なく一気に引き金を引きまくり、詰まっている弾すべてを骸骨に向かって放った。
 強烈な閃光と、風船が割れたような破裂音が何度も何度もビルの壁に反響し、一瞬の静寂を招く。
 しかし、それでも骸骨は傷一つ負わず、ペースを変えず、アキラに死を届けるために歩みを続ける。
「う……そ、だろ……」
 拳銃とは、普段なら最終兵器にして、絶対的な力の象徴。
 死を意識させる凶器であり、持っているアキラでさえその重さに恐怖しているほどなのに。
その死を、あの骸骨はあっさりと跳ね退けてしまった。
 なんたる無力か。顔面潰しを前にして、なにも出来ずに殺されるのか。
 そう悟ってしまったら、後はもう抵抗する気も起きなくなる。
 銃を降ろし、青ざめた顔で死を待った。
 しかし死の覚悟を決めたその時だった、赤い影がアキラの前に降ってきて、骸骨の前に立ち塞がる。
「なッ……!」
 その赤い影は一瞬で骸骨の元まで距離を詰め、顔面を掴んで投げ飛ばし、骸骨は十メートルほど飛んで、ビルの壁に叩きつけられた。
「――ッキイ……!」
 不気味な甲高い声が、骸骨の口から漏れる。
 骸骨が声を上げたのも驚きだが、アキラの驚きは、目の前に降ってきた鬼のような生物に注がれていた。
 しかし、そんなアキラの視線にも、渾身の殺意が注がれた骸骨の視線もまったく気にかけず、首に巻いた赤いマフラーをたなびかせ、ゆるやかな動作で空手の型のような構えを取った。半身になって、右手は腹の前に、左手は目線の高さまで上げる。
「キ―――」
 壁に背を預けていた骸骨がゆっくりと立ち上がり、膝を曲げて一瞬で鬼の元まで跳躍。
右の蹴りで頭を狙うが、鬼は腰を反ってそれを避ける。その勢いのまま、鬼はバク転の要領で回転し、強烈な蹴りを骸骨の顎に放った。
 体が真上に伸び、骸骨は後退しようとするが、体勢を整えた鬼はそれを追い、
「ハアッ!」ハイキックの追撃を加えた。
 それが頭の芯にガツンと効いたのだろう。骸骨の膝がガクンと崩れる。
 瞬間、鬼の右手が黄緑色に発光しだした。ものすごいエネルギーの固まりなのか、その圧力に周りの空気が押され、風が音を鳴らして吹き荒れる。
「うお!?」
 その突風に、アキラは思わず目を庇う。骸骨もその脅威を感じ取ったのだろう。バックステップで距離を取ろうとするものの、間に合わない。
「セイッ!」

 赤い鬼は思い切り腰を回して、その回転より一瞬送れて伸びた手が骸骨を追いかけ、まるでボクシングのジョルトブローのように、その腹を貫いた。背中から鬼の手が飛び出し、指先からは赤い血が滴っていた。

「キ……キ、キキ……」
 最後、悔しそうな鳴き声を上げ、骸骨は内側から溢れる圧力で破裂した。
 そのあまりにも現実離れした光景に、アキラはただただ立ち尽すことしかできない。
鬼がくるりと振り向いた。
「大丈夫ですか?」
次は自分かと身構えたが、鬼は特になにかしてくるわけでなく、そう呟いただけだった。
「お前、……何者だ?」
 鬼は、赤いマフラーを巻き直し、アキラに背中を向けて
「……フェイクマン」
と言って、大きくジャンプし街へと消えた。
「た……すかった……のか?」
 まだ信じられない。
 さきほどのことが夢でないことは、目の前の荒れた地面が証明している。
それを見ていたら、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。助かった、と思うのと同時に、緊張の糸が途切れ、意識が暗闇に落ちて行った。

     

 3 風祭優―探偵―

 風祭優の朝は早い。
 自身が所長を勤める探偵事務所、風祭探偵事務所には彼女しかおらず、彼女が起きないことには営業が始まらない。まずは自室のベットから抜け出し、寝間着を脱ぎ捨て仕事着に着替える。白いワイシャツに赤いネクタイを締め、黒いベストを羽織る。そして、まだ少し寝癖の残るセミロングほどある茶髪の上から黒のソフト帽を被り、それと同色のジーンズを穿く。
 まだ二十歳そこそこの外見にその格好は少しアンバランスで、似合っているというよりは着馴れているだけというような印象。
 自室を出ると、そこは事務所だ。十畳ほどのコンクリート打ちっぱなし。
 その窓際にデスク、すぐ横に本棚、中心に応接セットがあるだけという殺風景な部屋事務所だ。優はドアからまっすぐデスクに向かい、そこそこ立派な黒革の椅子に座る。そして、足元に置かれた冷蔵庫からブラックの缶コーヒーを取り出し、プルトップを開け、唇に乗せて傾けた。
「……ぷはっ。目え覚めたぁ」
 カフェインが脳内を巡るような錯覚で、重かった目蓋が一気に持ち上がる。
 椅子を回転させ、背後の窓を隠しているブラインドを持ち上げた。かしゃん、という音と同時に、室内が光で満たされる。眼前に広がるのは、横浜の街。近代と文明開花が中和する不思議な街。優は昔からこの街が大好きだった。本当はみなとみらい、ランドマークタワーの周辺に事務所を構えたかったのだが、それは家賃が高すぎるし、そもそも保証人もいない優には借りられるはずがない。
 いつか、一流の探偵になった時、桜木町に事務所を構えることを夢想していると、事務所のドアがノックされた。
「ん?」
 ドアの方に視線を投げると、返事も待たず、人が入ってきた。
 その男は、ワックスでぺったりと黒髪を後ろに撫でつけ、体は細い。紫のスーツに派手な柄のワイシャツ。開いた胸元に光る金のネックレスに、手首に巻かれた金の腕時計。
「相変わらずわかりやすいわねえ、五十嵐」
「お嬢に言われたかねえや」
 彼の名は五十嵐龍典。芝山組というヤクザの若頭である。
 五十嵐は応接セットの長ソファに座り、タバコに火を点けた。
「それで、なにか用?」
「用がなかったら来やあしませんよ。――お嬢は、エンジェルブレイン社をご存じで?」
「ああ、ゲノムだか医療だか、よくわかんないことやってる会社でしょ」
 優の実生活に関わるものではないので、そんなに印象は強くない。しかし、逆を言えば、そんな優が知っている程度に有名な会社だということだ。
 優はもう一口コーヒーを流し込み、飲みきった缶を部屋の隅にあるゴミ箱に投げ入れ、片眉を上げる。
「それがなに?」とゴミ箱から五十嵐に視線を移した。
「実は、その会社はいろいろ――よくない裏側がありまして。政治家への賄賂、病院との癒着等々」
「……悪いことならなんでもやってそうな感じね
「ええ。で、ここからは噂にすぎねえんですが、どうやらAB社は人間を拉致して、なにかやってるらしいんで」
「拉致? 拉致してなにやってんの」
「それを、お嬢に調べてもらおうって話ですよ。拉致の証拠を集めてほしいんです」
「……で、金を脅し取ろうって?」
 怪訝そうな優の表情を見てか、五十嵐が口元に手を当て、静かに笑う。「それもありますがねえ。あっしは、自分のシマでそんな胸糞悪いことが起こってるってのが、我慢ならねえんですよ。毟れるだけ毟って、潰すまでしないと気が収まらないほどにね」
 優は帽子に手をやり、すこしだけ位置をずらすとため息を吐いた。
 確かに拉致だのは気に食わない。が、しかし。自分が関わるとなったら話は別。
命だって懸けるかもしれない仕事である。
 悩んでいる優を見て、埒があかないと思ったのか、少し大きめな声で五十嵐は「お嬢。断ったら、ここの事務所を引き払ってもらいますよ」と言った。
 優が二十歳で事務所を持てたのは、ヤクザのバックアップがあったからなのだ。ヤクザでは手の出せない仕事を請け負うという条件で、この事務所を借りている。つまり、優は基本的に絶対服従なのである。
 それを思い出したかのように、帽子を深く被り直し、また深いため息を吐いた。
「OK、わかったわよ。やればいいんでしょ、やれば!」
 デスクに足を乗せ、ふてくされたようにベストの内ポケットからチュッパチャップスを取り出し、口にくわえた。
 甘さの向こうに見える五十嵐のにやけた顔に、蹴りでも入れてやりたいと、優は思った。

  1

 AngelBrain社。
 主に医薬品の制作販売、遺伝子治療の研究と、人の体に関することを専門的に行っている大企業である。
 最近では自らの病院経営や介護施設の旗揚げ、医療福祉関係以外にも、様々な業種に手を出し始めているであり、その活躍は目覚ましい。
 社長の名前は。大学卒業後同業種の会社に入社。大学時代から天才の名を欲しいままにし、それは会社でも同様だった。
 二十七歳で独立。AB社を立ち上げ、業績をのばし、今では業界ナンバーワン。
「……まあ、ネットで調べられる情報なら、こんなもんかしら」
 五十嵐が帰った後、優はパソコンでAB社の情報を検索していた。わからないことがあれば、人は検索する。探偵もその例からは漏れない。
「拉致ったとしても、その拉致った人でなにやってんのかしら……。まあ、なんとなく想像はつくけど」
 大方、新薬実験とか臓器の抜き取りとかだろう。
 優は今までの経験上から、そんな予想を立てていた。
 だいたい人間が拉致される理由なんて、金か情報目当てで行われるのだ。優はそんな現場に、幾度となく当たってきた。
「……とりあえず、潜入かな」
 そう言って、パソコンの電源を切って椅子から立ち上がった。

  2

 事務所から出て階段を降りると、そこは関内という街だ。桜木町の隣にある、それなりに大きな繁華街。その街に、優の事務所が入った雑居ビルがある。
 その繁華街を桜木町方面に向かって歩き、優がやってきたのはコーヒーベルトという喫茶店である。昭和からそのままやってきたような古めかしい外観、そしてコーヒーの味に惚れ、こうしてちょくちょく足を運んでいる。
 ドアを押すと、ベルが優の来店を店中に響かせた。
「いらっしゃい」
 カウンターの中にいる、マスターの斗賀薫が、笑顔で軽い会釈をしながら言った。優は薫の前に座ると、コーヒーを注文し、辺りを見回す。店内には優以外の客はいない。
「これから仕事かい?」
「そ。これが結構やっかいな仕事でさあ。断れたらよかったんだけど、そういう訳にもいかなくて」
 コーヒーが目の前に置かれ、いただきますとカップを持って口の中に流し込んだ。
香ばしい匂いと、大人の味としか言えないような、すっきりとした苦み、そしてその裏に隠れたほのかな甘みが、口の中でいっぱいに広がった。
「相変わらず美味いわね」
「ははっ、ありがとう」
 こだわってるからね、とグラスを磨き始めた。
 それだけ言うと、途端に静寂が広がる。優にも薫にも喋る気がないからだ。
 そんな状況が五分ほど続き、優のカップが空になって、優は立ち上がる。ズボンのポケットから財布を取り出し、コーヒーの代金ちょうどをカウンターに置いた。
「ごちそうさま。また来るわ」
「毎度ありがとう」
 そのやりとりで、優は店を出た。
 体の中に広がるコーヒーが、優の奥底からやる気を引き出し、ハキハキとした足取りで、優はネットで調べたAB社の住所へと向かった。

  3

 ランドマークタワーにポイントを合わせ、そこから少しだけ離れた場所にある横に大きなビル。そこがAB社である。
 高さはそこまでないのだが、ブロックにたくさんのガラスを貼り付けただけのような重厚感ある外観をしていて、優はあまり好きではなかった。今からそこに入るのかと思うと、依頼のプレッシャーも合間って胃が痛くなってくる。
「ち」舌打をしながら、ベストの内ポケットに入っていたチュッパチャップスを取り出した。
 ミルク味のそれを舐めながら、このビル唯一の入口である自動ドアに視線を向ける。警備員がおり、もちろん受付もあるため、どう楽天的に見ても見つからずに侵入するのは無理な話だ。これから犯罪をしようというのに、目立つのは賢くない。
 人の出入りが激しい正門では、そこまで徹底したセキュリティは行われていないので、大して怪しまれることなく進入できる。
 しかし、問題はここからだ。
 優は、ビル唯一の入り口である透明な自動ドアを見る。
 いつも変わらず、警備員は一人だけ。おそらくは社員証を持たなければ入れてはもらえないはずである。しかし、優は社員証は持っている。五十嵐が持ってきた、内通者の社員証から偽装した優の顔写真と名前が書かれた社員証を。
 それを首から下げ、素知らぬ顔で警備員の横を通り抜けた。
 まず目に飛び込んできたのは、受付を中心とするエントランスだった。
受付の後ろには、会社の背骨と言える様な、エレベーターホール。高い吹き抜けと清潔感のある白い大理石の床、舐められるのではと思えるくらいにピカピカで、会社の顔としては満点だ。
 汚れた街で育ち、探偵を営んできた優は、少しだけ緊張してしまう。
そんな自分を、汚い野ネズミだな、と。半ば自嘲気味に思った。
 内通者からもらった見取り図を頭の中で展開させる。
地上五階建てのビルは、一階に受付や食堂など、仕事にはあまり関係のない施設が集中していて、二階から四階まで一般社員が働くオフィスらしく、様々な課の名前が書かれていた。そして五階は、まるまる社長の為のスペースらしい。そんなに広いスペースをどうするのか優にはまったく想像できない。
 とはいえ、社長なんてそんな成金趣味多いのだろう。
 簡単に、元手のない状態でも会社を立ち上げられる世の中だ。突然小市民が一国の主、だなんてよくある話。
 しかし、次の日には国が滅ぶというのも、よくある話。
 成功のチャンスは石ころと同じように転がっているが、破滅のきっかけもそれと同じ程度にある。
 その後、優は通りかかる社員達に話を訊いてみたのだが、有益な情報は得られない。
 得られても、せいぜいこの会社の株価や給料の平均、そして仕事のしやすさ程度。
 これではまるで、転職するための情報探しのようだった。
「仕方ない。ちょっとターゲットを変えて……」
 そう言うと、近くを歩いていた清掃員らしき男性に話しかけることにした。
 灰色の作業服の帽子には、とある清掃会社のロゴが入っており、AB社と契約している外注の会社だとわかる。まだ新人なのか、二十歳そこそこのニキビ面な青年だ。
「すいません」
「はい?」
 手押し車を止め、優を怪訝そうに見る。フォーマルというわけでもなく、かと言ってカジュアルという格好でも無い優のファッションがこの場に似合わないということを考えているのだろう。
 だが、優はそんなことに構わず話を聞き始めた。

 しかし、結論から言えば結局なにも情報は得られなかった。
 清掃会社の青年なので、AB社の情報をなにも持っていないのは、当たり前なのだが。
 きっと自分はやけになっていたのだろう、優はそんなことを思い、後頭部を掻きながら、ため息を吐いた。
 そしてズボンのポケットからチュッパチャップスを取り出し、口の中で舐め始める。今回はチェリー味。
 その後も、口の中をチェリー味で満たしながら、オフィスを巡ってみる。しかし、皆楽しそうに仕事をしており、楽しそうな普通の会社、というような印象を受けた。
「……なんか、拍子抜け?」
 それが優の感想だった。
 拉致というイメージが先行してしまい、彼女の頭の中には悪の秘密結社的なイメージがあったのだ。そんな妄想が恥ずかしくなって、軽く頬を掻いた。
「いやあ。バカだわ、あたし……」
 そうぼやきながら、目的の部屋の前で立ち止まる。
 それは、見る者に「大事な物が入ってます!」とアピールするような厚く重そうなドアだ。掛けられたプレートには、書庫と書かれている。
 中に入ろうとノブを掴んで引いてみるが、やはり鍵がかかっている。どうやら、ドアの横に備えられたアンテナに社員証をかざせば開くのだろう。
 どこもセキュリティに気をつかう時代。
「いつかこんなこともできなくなるのかもねえ……」
 それなら、探偵業に専念できるかもしれないと思いながら、社員証をかざした。
 
 その瞬間、けたたましい、心の後ろめたい部分を突くサイレンの音が、社内中に響きわたった。

「え! え!?」
 優の心臓が飛び跳ね、何が起こったのか確認しようと無意識に辺りを見回す。
 そうこうしてる間に、警備員が四人、優を取り囲んでいた。
「い、五十嵐……あたしにバッタモン掴ませたわね……!」
 今すぐ五十嵐に思いつく限りの暴言を吐きたいところだが、それはずっと先になるだろう。まずは、この警備員達をなんとかしなければ。
「いいか、大人しくしろよ……!」
 警備員の一人がそう言うものの、捕まるワケにはいかない。優は「……ごめん、ねッ!」と言って、まずその警備員の腹に右足での前蹴り。
 慣れた動作の為キレイに決まり、警備員一人が沈んだ。
「なっ!」
 その警備員と位置を交代するようにして、蹴りに使った右足で一歩踏み込み。驚いているもう一人のアゴに右フック。
 ほぼ一瞬で二人倒し、残った警備員と向かい合う。
 優が格闘慣れしていることを察したのか、二人とも拳を上げたまま様子を見ている。それで膠着状態になることを期待したのだろうが、それは甘い。
 まず一人、一瞬で距離を詰め、拳を掴んで引っ張り、その勢いを利用して右ストレートを鼻に叩き込む。鼻血を吹き出しながら沈んでいき、そのままもう一人の警備員に向かって投げ飛ばした。
 抵抗力を失っているので簡単に飛んでいき、最後の警備員はすぐ攻撃に移れない。その隙に優は、渾身の前蹴りを叩き込んだ。
 気絶した警備員と堅い壁に挟まれた最後の一人も、あっけなく沈んだ。
「ふう」襟を直し、すぐにその場から走り去る。
 すでに場所は割れているだろうし、警察に通報されている可能性も否定できない。エレベーターで一階に降りようかと思ったが、それは途中で止められればアウトなので、非常階段へ向かって走る。
 優はベストの内ポケットからケータイを抜き、五十嵐にコール。
 すると、三コール程で電話の向こうから呑気な声が聞こえてきた。
「どうしました、お嬢」
「どうした、じゃない! あんた、あたしにバッタモン掴ませただろ!」
 いつも通りな五十嵐の声にとは反対に、荒れる優の声。電話なのでまったくこちらの状況が伝わってないのが、妙に腹立たしい。
「何言ってるんですか。ありゃあ間違いなく本物だ。社員が直接横流ししてくれたもんなんですぜ」
 優は角を曲がる。非常階段まであと少し。
「何言ってんの!? 現にセキュリティに引っかかってるんだって!」
「そんなはずは……」
「そもそも、その内通者ってのはどういうコネで繋がったのよ!?」
「それは……、AB社の拉致を知って、調べて行く内に、その男にぶつかりまして……」
 思わず、優は立ち止まった。
 今なんて言ったか、この男は。
「……そ、そんなもん罠に決まってんじゃない!!」
「……面目ない話です。こっちでも、用心はしてたんですが」
 じゃあ、最初から罠だったのか。それとも、その社員だという男も知らなかったのか。
 優には判断がつかない。
「五十嵐、あたしはこの依頼から降りるわよ!」
「ええ。そうしてください。お嬢、ご無事で」
 そこまで言って、五十嵐との電話が切れた。
 優も少しスピードを上げ、最後の曲がり角を曲がる。
 見えるのは非常階段の簡素な入り口のはずだった。
「やあ、野ネズミちゃん。待ってたよ」
「……」
 そこにいたのは、金髪のオールバック、水色フレームのメガネ。そして白衣という奇抜なファッションの優男だった。細い目は害意を感じさせず、その口元は甘い言葉をささやきそうな色気がある。
「あんた、社長の――」
「天使天(あまつかたかし)です。以後、よろしく」
 右手を腹にやり、わざとらしく大袈裟に頭を下げた。
「よろしくするつもりはないけど……。そうね、ここを通して、通報しないっていうなら、食事くらいはいいけど」
「それは魅力的だ」
「――にしても、侵入者に対して社長自らなんて、大盤振る舞いじゃない?」
「はは。罠にかかった間抜けなネズミの顔くらいは、拝んでおきたいさ」
「……じゃあ、やっぱり」
「ああ」そう言って、笑いを我慢するように手で口元を隠した。先ほどから、動作がいちいち上品だ。
「どこぞのヤクザが、この会社を嗅ぎ回ってるのは知っていたからね。使えば僕に情報が流れる偽のカードを流したってわけさ。この間のチンピラは雑魚っぽいから見逃しただけ」
 やはりヤクザは信用できない。
 全部自分で用意するべきだった。優は憎たらしい五十嵐の顔を思い出し、舌打ちをする。
「しかし――君は別だ。実にいい素材をしている」
 まるで獲物を前にしたライオンのようにいやらしく目を細め、舌舐めずりをする。
 思わず優は自身の体を抱き、一歩退いてしまう。
 それでも、彼女は探偵である。仕事を全うするべく、気後れする口を開く。
「それで、本当に人間を拉致してたのかしら?」
「ああ。してたよ。ちょっと人数が必要だったもんでね」
「……なんのために」
「そうだね、強いて言うなら、世界征服の為――かな」
「せ……?」
 現実離れしたその言葉に、優は一瞬何を言ってるのか理解できなかった。しかし、頭の中で咀嚼する内に理解し、一気に引いた。
「おや、人の夢を聞いてドン引きとは、失礼だな」
「あ、アホか! 今時世界征服なんて、子供だって言わないわよ!」
「最近はいろいろ低年齢化しているからな。大人になるのも低年齢化してきているのだろう」
「何言ってんだこいつ……」
 帽子を脱ぎ、それで顔を隠してため息を吐いた。
 しかし、これはチャンスではないだろうか、とすぐに頭を切り替える。
 こいつさえ締め上げれば、この会社の秘密なんて簡単に手に入るではないか、と。
 優は帽子を被り直すと、不敵に笑う。
 そんな優を見た天使も、なぜか笑い返した。なんのことかわかっていないのかもしれない。
「ふふっ。悪いけどね、社長さん。私も仕事だからさ。悪いけどこの会社の秘密、喋ってもらうよ!」
 そう言って膝を折り畳み、一瞬で天使の懐へ飛び込んだ。
 もらった! 優はそう確信しながら、戦意を奪うための右フックで天使の鼻を狙った。
 しかし、それは紙一重で空を切る。天使は一歩下がっただけで避けたのだ。外れると思っていなかった優は、驚きつつも体のひねりを利用し、左フック。しかし、それも紙一重でかわされる。
「っ!」
 二度のフックの所為で体勢をすぐには戻せず、がら空きになった優の腹に、天使の掌底が突き刺さる。
 まるで映画のワイヤーアクションのように優はまっすぐ吹っ飛び、壁に背中を叩きつけられた。
「っ、く……!」
 内蔵が傷ついたか、骨が折れたかその両方かわからないが、優の口内にじんわりと鉄の味が広がっていく。
「おっと……。女性に対して、すこし力みすぎてしまった。失礼」
 先ほど、まるでハンマーのような一撃を優に与えたその手は、まるで女性の手のように白く細い。そんな力があるなんて信じられないほどに。
「あ、あんた……。何者……?」
 腹を押さえ、壁を頼りに立ち上がる優の声は、掠れ小さくなっていた。
 それに対し、天使は胸を張り、王の様な自信を持って言った。

「僕は。――神になる男だ」

 言うことは小学生の悪ふざけレベルだが、この男は本気で言っている。
 優はそれを、先ほどの一撃で感じ取っていた。それと同時に、ここは逃げるほかないことも。
 しかし、どうやって逃げるか。ここからエレベーターに向かうとしても、負傷した体で逃げきることを考えるのは現実的ではないし、非常階段も同様。つまり優に残された選択枝は一つ。天使を倒すしかない。
 そして今すべきは、体力の回復。
「……ところで、一つ聞いていいかしら」
 優は体力を回復する時間を得るべく、会話をすることを選択した。
「なにかな?」
「さっきの、拉致してた理由は聞いたけど。その人たちを何に使ってるかは聞いてないのよね」
「ああ、そういえば言ってなかったな」
 最初から教えるつもりだったのか、照れ隠しのように頭を掻く。
「僕はね、人間を材料に兵器を作っているんだ」
「……兵器?」
「そう。何事も、まず必要なのは人材だからね。拉致した人間を改造、そしてこの世界に戦争を仕掛ける為の兵器兼兵士にしてるのさ」
「……」
「信じてないような顔だね。一匹見せてあげよう」
 そう言って指を鳴らすと、上からなにかが降ってきた。
 見ると、それは人とカメレオンを混ぜたような何かだった。カメレオン独特の大きなギョロ目。長い舌に鋭い爪、そして全身を被うゴツゴツとした皮膚は、人間に原始的な嫌悪感を抱かせる。
「ひっ……!」
 思わず、優の口から小さな悲鳴が漏れる。血の気も足も引いてしまい、一瞬で戦意まで持っていかれた。
「これは凡作だが、潜入、情報収集に特化したタイプだ。すばらしいだろう。こいつはこの社内に入ってきた社員以外に張り付くよう命令してあってな、これで君の場所は丸わかりだったというわけだ」
 天使は自慢げに改造人間の性能を語っているが、優にはすでに届かない。初めて直で見た改造人間のショックは、とてつもなく大きかったのだろう。
「――どうだ? すばらしいだろう。改造されれば人間を越えることができるんだ。そして、君も運がいい。僕は君が気に入った。改造して、僕の兵士にしてあげよう」
「――っ!」
 優は思わず、元来た道へ振り返り走った。
 考えなどなにもない。体の根っこにある本能が、逃げろと言うから逃げただけ。
「イヤ! イヤイヤイヤイヤ!! あんなのになるなんてイヤ!!」
 あの体は醜すぎる。自分がああなるのかと想像するだけで、全身の毛穴が総立ち、冷や汗も吹き出す。
 こんな仕事受けなければよかった、事務所なんて明け渡せばよかった。そんな後悔が滝のように流れていく。
 逃げきったかどうか確認するため、ふと後ろを向くと。
「――あ」
 そこでは、あの化け物が鋭い爪を振り被っていた。
「おやすみ。今度は、僕の兵士として生まれ変わるんだ」
 天使はそうつぶやき、カメレオンに切り裂かれていく優を、ただじっと見ていた。

  4

 次に見えたのは、白いライトだった。
 眩しさに思わず目を細めていると、光りを遮る影が現れる。マスクをした天使だ。
「ここ……は……」
 掠れた声を出し、起きあがろうとするが、腕も足もガチャンと音を立て、数センチ以上動かない。見ると、手足にはおもちゃの手錠が填められており、優は手術台に、下着姿で固定されていた。
「――ちょっ、なにこれ!?」
 悪趣味なアダルトビデオのようなシチュエーションに、優の皮膚は粟立つ。
 思わず手足に力が入るものの、手錠に固定され自由に動かすことは叶わない。状況は完全に、天使有利。衣服もはぎ取られ、手足の自由も利かないのでは、まな板の上の鯉そのままだ。
「あたしを改造しようっての!? ちょっと! なんとか言え! 言いなさいッ!!」
 天使は返事をしない。黙ってメスを取り出し、ゆっくりと優の肌に添える。
 鋭く光るメス。これから行われることを想像させるのには充分すぎる道具だ。
「あんた、まさか……本気じゃないでしょうね。――本気で、あたしを改造するつもりじゃ……!」
 あのカメレオン男が優の脳裏に浮かぶ。
 ゴツゴツした深緑色の肌。長い舌と鋭い爪、そしてなにより、人間としての魂を失ったあの雰囲気。
 あんな風な姿に変えられただけでなく、自分まで失ってしまうのは酷く恐ろしかった。
「ッ――!!」
 メスの先が、優の腹に飲み込まれていく。迷いのない手さばきで、腹に切れ込みが入る。ぱっくりと割れたそこからは、まるで小龍包から溢れ出る肉汁のように少しだけ血が漏れ出す。 
優にはその血が、まるで自我の様に見えた。
 流れ出す命の源に自分の心を写し、その喪失に涙が流れる。
体内を天使に犯され、プライドを踏みにじられた彼女は、そうして自分を失った。

     

 4 警察―鳴海アキラ―

「おーい。鳴海くーん」
 ぺちぺち、と張りのいい音がして、アキラの意識は海面へと上昇していく。
 ゆっくりと目を開いた先には、珠子の顔があった。どうやらアキラを膝枕していたようだ。
「……なにしてるんですか?」
「膝枕。寝てたし」
「好きで寝てたわけじゃないんですけど……」
 アキラがゆっくりと立ち上がり、それに倣うように珠子も立ち上がる。
 珠子一人で駆けつけたようで、覆面パトが一台だけ入り口の角から覗いていた。しかし、慌てて侵入したのだろう。車のドアに大きな傷があった。しかし、せめてもの礼としてそれには触れないでおく。
「ここ……ホントに前原さんから聞いてた話通りだね」
 鬼――フェイクマンと骸骨の戦いの傷跡を見て、珠子はため息混じりに呟いた。
「……で。鳴海くんは、顔面潰しに出会ったんでしょ? どんなんだった?」
「ああ……。やっぱり人間じゃなかったです」
 胸ポケットからタバコを取り出し、くわえて火を点ける。
 紫煙を吐き出し、その煙を目で追いかける。
「なんだろう。特撮の敵怪人、って感じでした。リアリティが無くて、それでも不気味で」
「……それでよく助かったね。もしかして、前原さんの言ってた鬼?」
「フェイクマンって名乗る鬼に助けられました……でも、系統的には、あの骸骨の仲間っぽい感じもあって……」
「もしかして、裏切り者とか?」
「裏切り者?」
 フェイクマンが、元は骸骨と仲間だった?
 その様がまったく想像できず、アキラは珠子へ振り向く。
「ありえない話じゃないと思うけど? そもそも、そんな異常な化け物が、そうそう何度も出てくるわけないだろうから、出所は同じだと考えるのが自然じゃない?」
 アゴに手をやり、確かにそうだと珠子の言葉に納得する。
 しかし、頭ではそれが自然だとわかっていても、あのフェイクマンと名乗る鬼が人を殺していたとは考えたくなかった。自分の命の恩人だし、なによりフェイクマンからは心を感じたからだ。骸骨にはない心。それはなにより、仲間ではないという証明じゃないだろうか。
「水島さんの言う通りだと思います。……けど、私には納得できない」
 珠子は、後頭部で手を組み、覆面パトに向かって歩き出す。慌てて珠子に並ぶアキラ。
「――まっ、気持ちはわかるけどね。助けてもらったんだし、その恩人が悪人だったなんて、考えたくないよね」
 珠子の口から出たその言葉に、つい驚いて体が固まってしまう。
 そんなアキラを見ながら、彼女はにやにやと笑い「ポーカーフェイス」と言った。
「……水島さんて、本当は超能力者なんじゃないですか?」
「バカにしないでよ。経験と実績に裏打ちされた推理、って言って欲しいね」
 その言葉に苦笑しながら、アキラはタバコの灰を携帯灰皿に落とす。
「超能力、って言ってバカにするなって返されたのは、さすがに初めてです」
「……言葉が増えすぎるのも考え物だよね。私の推理も、超能力なんて陳腐な言葉にされるんだから」
 やけに芝居がかった口調で、アキラを指差す。
 ふざけた様で、どこか深い事を言う。よく考えれば勢いで言っているのはわかるのだが、それでも心に留めておかなくてはと思わせられる言葉だ。
 珠子が助手席のドア前まで走っていき、下手投げでアキラにカギを投げる。それを片手でキャッチし、ゆっくりと運転席側のドアを開けて乗り込む。
 続くようにして珠子も乗り込み、車はゆっくりと発進した。
「さて……どうしようか、鳴海くん」
「どうする……ねえ」
 手がかりはゼロ。顔(?)と名前が割れた分、前進したとも思えるが、それだけでは居場所までは割れない。
「今できることって言えば、やっぱり鬼の正体を探るところからじゃないでしょうか」
「そうだねえ。顔面潰しより、そっちのが取っ付き易そうだし」
 その時、アキラのケータイの着メロが鳴り出した。
 ズボンのポケットからケータイを取り出し、液晶を見ると、そこには平助の名前があった。ハンズフリーボタンを押し、珠子に持たせる。
「はい、鳴海です」
「今どこにいる」
 窓の外を見渡す。「桜木町駅の近くですけど……」
「ちょうどいい。今から、ヤクザの組潰しに行くぞ」
「へ?」
「タレコミがあったんだよ、芝山組から薬を買ったって匿名の。たぶん相当な関係者だな、すぐにでも組を強制捜査できる」
「わかりました、どこですか?」
 耳元に聞こえる住所に従い、アキラはハンドルを切る。
 それと同時に通話も切れ、珠子がケータイを閉じた。
「組を潰すのなんて、初めて」
「私もです……」
 鬼探しも大切だが、ヤクザを潰すのも大切な警察の仕事である。
 ある意味花形とも言えるその仕事に、アキラは少しだけ舞い上がっていた。もしかしたら、珠子もかもしれないが。

  1

 平助に言われた事務所は、関内にある。
 桜木町の隣に位置する、そこそこ大きな繁華街。
 桜木町に比べ、飲食店や雑居ビルなどが目立ち、スタイリッシュな桜木町、カジュアルな関内というのが、アキラの印象だった。
 その関内の大通りから、小さな道に入ってすこし行ったところに、暴力団芝山組の事務所がある。
 近くのタイムパーキングに車を停め、歩いて事務所の前まで行く。
 似たような雑居ビルが立つその一つの前に、平助が立っていた。電信柱に寄りかかり、タバコを吸っている。他にも、街にとけ込むようにしているが、あたりに何人かいるようだ。
「お、来たな鳴海……って、なんで水島もいんだよ」
 電信柱から背を離し、二人を見る平助。
「顔面潰しの調査で一緒にいたんです」
「どうも、平さん。私も一緒でいいですか?」
 毛の少ない頭を掻く平助。足手まといになると思っているのだろう。
「大丈夫ですよ平さん。私、こう見えても捜し物は得意なんで」
「遊びじゃねえんだぞ……ったく」
 勝手に動くなよ、と言ってビルを見上げる平助。
「ここの三階。そこが事務所だ。構成員は全部で十人。この時間は全員いるはずだ。いいか、抵抗したら公務執行妨害で全員しょっぴけ。こっちには天下の令状があるんだ」
「「はい」」
 アキラと珠子の声が重なる。緊張からか、二人とも少し上擦っている。
「うし、突入」
 その声で、街にとけ込んでいた警察官たちが姿を表す。
 アキラの目測より多い、八人程の警官が平助に続いて雑居ビルの階段を静かに上がっていく。
先頭を行く平助のすぐ後ろを陣取り、アキラと珠子は事務所のある三階へ。
 そのドアの前に立ち、ノブを握って後ろのアキラ達に目配せする平助。全員の頷きを確認すると、ドアを引き抜くような勢いで開いた。

「全員動くなっ!!」
 その大きな声と同時に、まるで砂時計の砂の様に大勢の警官が事務所内に吸い込まれていった。事務所内は、まさにVシネマの様な悪趣味さがあった。高級なソファや机などを置いているようだが、組み合わせがバラバラで『高いから揃えた』と言わんばかり。
 そのソファに座っている者や、ケータイで電話をしていた者など。入ってすぐの事務所には五人の構成員がいた。
 全員何が起こったのか正確に把握出来ていないような顔で、平助を見る。
「薬物所持、売買の容疑で強制捜査だ」
 ざわめく構成員達を他所に、警官達は慣れた風に事務所の収納を開けていく。しかし、それを黙って許すほどヤクザ達も大人しくない。一人の、金髪にパーカーの男が「ちょっと待てよオッサン」と平助の肩を掴む。
 その手を捻り、金髪の男を背負ったかと思うと、一瞬で床に叩き落とした。
 襟元を正し、平助は床で気絶している男を一瞥。
「公務執行妨害で逮捕だ」
「テッメェ……!!」
 その言葉が頭に来たのか、他のヤクザたちもすぐに平助達に殴りかかってくる。平助を守ろうと、警官達が前に出て乱闘が始まった。大勢の人間が殴り合うという初めての光景に、アキラと珠子はすぐに動くことができなかった。入り口の前で、ただ呆然としているだけ。
 ものの数分でそれは終わり、荒れた事務所をさらに警官たちが家探ししているその中心で、警官達に指示を出している平助に駆け寄り、アキラは軽く頭を下げた。隣では、アキラと同じように珠子も頭を下げている。
「いいさ。別に参加させるために呼んだんじゃねえ。見せるために呼んだんだ」
 平助の言葉に、すいません、と謝る。奥の部屋から出てきた警官が、平助を呼んだ。
「警部。奥にこの男が」
 その警官が引っ張ってきた男は、ワックスで髪を上げた綺麗なオールバック。痩せた体をしていて、紫の派手なスーツの胸元は開け、そこには金のネックレスが落ちている。
「へえ、ここの若頭、か。ちょうどいい。鳴海と水島があいつを連行してくれ」
「えっ、いいんですか。そんな大役」
 自分に務まるとも思えなかったアキラは、思わず聞き返した。が、平助は頭を掻いて「これくらい、子供だってできるだろ。今日役に立ってないんだ。これくらいはしろ」と苛立たしそうに言った。
「いや……でも」
「ほら、鳴海くん。平さんの言うとおりにしようよ」
 珠子に腕を引かれ、アキラは不安を隠さず「はい……」と言った。
 珠子に引かれ、警官から猛獣の手綱でも受け取るような慎重さで、五十嵐の腕を拘束している手錠を持った。意外に五十嵐は大人しくしていて、引っ張るアキラに従い歩いていた。その表情からは、捕まった悔しさというより、焦りが感じられた。
「水島さん。車取ってきてくれませんか?」
「あ、はいはい了解」
 敬礼して、小走りで事務所から出て行く。アキラも、焦らず強く引きすぎないようにその後を追って薄汚れた階段を降りる。
「ところで……」
 すると、突然五十嵐が声を出した。渋くて低い、任侠映画に出てくる男の声。
「刑事さん、お名前は」
「……答える義理はありません」
「安心してください。別に、どうこうしようってワケじゃあ、ありません」
「――鳴海アキラです」
「鳴海さんね。……つかぬ事をお聞きしますが、一ヶ月ほど前に、って女が、警察の厄介になってやしませんかね」
「風祭……?」
 それは、コーヒーベルトで聞いた名前だ。
 すぐにピンと来たが、警察の厄介になっていた記憶はないので、「いや」と首を振る。
「少なくとも、ウチの管轄内じゃ捕まってないはずですが」
 アキラも、すべての事件を把握しているわけではないが、もし風祭優がコーヒーベルトに出入りしていた風祭優なら、探偵という職業が目を引いて覚えているはず。
 階段を降り切ると、外では珠子が車の後部座席を開けて待っていた。
 五十嵐と共に後部座席に乗り込み、ドアを閉めると、車はゆっくりと前へ滑り出した。
「水島さん」
 運転する珠子は、アキラの声に振り返らず「んー?」と短い返事をする。
「ウチの管轄で、風祭優って人捕まってますか?」
「いや、捕まってないよ」
「そうですか……」
 珠子の言葉に、アキラは安堵と不安が混じったようなため息を吐いた。すると、その後ろで、五十嵐が真剣な声で言った。
「鳴海さん。……あなたを情熱ある警官と見込んで、頼みがあります」

  2

「……どう思う? あの五十嵐ってヤクザの話」
 五十嵐を署の地下にある留置所に連行し、二人は捜査一課に戻ってきた。
各々のデスクに座り、少しぼーっとしていると、唐突に珠子がそう言ってアキラをじっと見ている。
「どう思うって……有名企業AB社に、噂の真相を確かめるために潜入した探偵が、一ヶ月帰ってこない……。しかもその噂が――人間を拉致するって噂だけに、なんとか助け出してほしいって……」
「普通に考えたら、胡散臭い。まあ、捜査するなら、捜査令状とかで堂々と入れるけど……。警察は、そういう噂とかじゃ動けないし……。そもそも、その情報に信憑性なさすぎだし」
「五十嵐さんの話だと、もらったIDカードが通じたかららしいけど。確かに、一部が真実なら信じるな……」
 タバコを取り出し、くわえて火を点ける。
 紫煙を吐き出すと、珠子がその煙を目で追っているのが見えた。彼女はタバコを吸わないので、タバコを吸う心理がよくわからないのだろう。
「……タバコ、美味しい?」
「いや、美味しいとかで吸ってるわけじゃないけど……」
 タバコは、美味しいというか、やめられなくなってるというのが正しいだろう。
自分から手に取るというよりは、気づけば手にあるという感じ。
「それより、風祭優さんですけど……。なんの目的で拉致されたんでしょうか」
 手を組み、タバコの煙が漂う天井を睨む珠子。その視線から逃れようとするかのように、もくもくと煙が蠢いていく。
「……改造されてる、とか?」
「改造……?」
「そう! 悪の秘密結社に捕らわれた彼女は、復讐の為に戦うのだった!」
「アホらしい……」
「ムカつくなあ。……じゃ、鳴海くんはどう考えてるのさ」
「普通に考えたら、口封じだと思いますが」
「あ、そっか。……だとしたら、風祭優って子。危険じゃない?」
「……でも、一ヶ月以上経っていますし、口封じ目的なら、もう殺されてると考えた方が……」
 そうだよねー、と言って、床を蹴って椅子を回し始めた。
そんな彼女を横目で見ていると、デスクの上に置いていたアキラのケータイが着信音を鳴らした。
「その地味~な着信音、鳴海くんのでしょ~」
 台風と化した珠子の力の抜けた声に、「わかってますよ」と返事をして電話を取った。アキラの着信音は、最初からケータイに入っていた着信音1だ。
「はい、鳴海です」
「俺だ、山本」
「あ、先輩。どうですか、そっちは」
「ああ、その事なんだが……」
 電話口の向こうから、紙が擦れる音がする。
 なにかの書類をめくっている様だ。
「お前、AB社って知ってるか」
「あ、もしかして拉致とかですか?」
「……なんだ、もう知ってたのか」
 ぼりぼりと頭を掻く音がする。また毛の少ない頭を掻いているのだろう。
「風祭優って探偵が、AB社に潜入したまま帰ってこないんですよね?」
「ああ? なんだそりゃ、詳しく話せ」
 アキラは、五十嵐から聞いた話をできるだけ詳しく平助に伝える。
 芝山組から依頼を受けた探偵、風祭優がAB社に潜入し、そのまま一ヶ月近く連絡が途絶えているという事。
 五十嵐から、その風祭優の救出を頼まれたという事を。
「……その風祭優って探偵が、最後五十嵐に電話した時、警報が鳴ってたんだよな?」
「ええ、そう訊いてます」
「だったら、AB社と契約してる警備会社に通報が行ってるはずだ……。おい鳴海、お前ちょっとAB社に行って、警備員に話し聞いてこい」
「え、でも令状……」
「バカ野郎。聞き込みなら令状なんざいらねえだろ。んで、引っかかるとこがあったらそこを徹底的に突ついてこい」
「あ、はい!」
 通話を切って立ち上がり、珠子の肩を掴んで回転を止める。
「およ」
「ほら、行きますよ水島さん」
「え、どこに?」
「AB社にです」
 珠子の首根っこを掴んで無理やり持ち上げ立たせると、珠子はアキラの顔を見上げ、一言。
「拳銃持ってく? もし本当なら、危険なんじゃなーい?」

  3

 ランドマークタワーを横目にしながら、アキラと珠子は車でAB社に向かった。
 AB社のビルは、高さは五階程度とそんなに無いが、重厚感がある造りになっている。広い駐車場と門の豪華さが、この会社のレベルを語っているようだ。
 車から降りたアキラと珠子は、まず会社の入口を見る。
「あ、警備員がいるね。私、話聞いてくるよ」
 入り口前で手を後ろに組み、険しい顔をした中年の警備員を指差し、アキラに笑顔を向ける珠子。それだけ見るとまるでデートなのだが、胸ポケットに入った警察手帳が重く感じられた。
 珠子が警備員に駆け寄るのを見ながら、アキラはタバコを取り出した。
 くわえて火を点けると、空に向かって吐き出した。もくもくと雲の様に漂うそれを見ていると、ビルの最上階の窓に人影が見えた。
「……あれは」
 金髪と白衣が見える。後は遠すぎて見えないが、男性だという事もわかった。AB社の人間なのは間違いないが、どういう役職なのかはわからない。おそらくは技術的な面で働いているのだろう。
 なぜかその人物から目が離せず、じっと見ていると、その白衣の男もアキラをじっと見ていることがわかった。その瞬間、アキラの背筋が粟立つ。全身の血が一気に冷血と化したような寒さと、全身にナメクジが這っているような嫌悪感。
「死体を見た時より――気持ち悪い……!」
 口元を押さえて、思わず俯いてしまう。胃の中で渦巻く不快感をなんとか我慢しようとするが、胸の辺りまで上ってきた。もう駄目だ、吐いてしまう。そう思った時だった。

「鳴海くん? どうしたの?」
 珠子の声に引き摺られる様に、アキラは顔を上げた。目の前には珠子の心配そうな顔。
それを見ていると、気持ち悪さが引いていくようだった。ビルの最上階を見ると、もうあの男の姿はなかった。
「また気持ち悪くなったの? ……もう帰る?」
「――いや、もう大丈夫です。それより」
「あ、うん。聞いてきたよ。確かに一ヶ月前、警報が鳴ってるね。珍しいことだったから、警備員さんもよく覚えてるって。――でも、間違いらしいよ?」
「間違い……?」
 そんなバカな。では、五十嵐の証言は嘘だったのか?
 自問するが、答えは出ない。しかし、嘘とも思えない。五十嵐の口からだけでなく、コーヒーベルトでも風祭優という名前を聞いたからというのもあるし、そんな嘘をつくメリットがないから。
「こりゃあ、社内調べても無駄かなあ……」
 腕を組み、眉間にシワを寄せ、渋い顔を作る珠子。
 そんな珠子の体を無理やり回れ右させ、AB社のビルに向かって押すアキラ。
「うわっ、とと! なにすんの鳴海くん!」
 突然押されたからか、すこしバランスを崩しかける珠子に、アキラは力強い声で呟くように言った。
「無駄かどうかは、行ってみないとわかりません」
「……わかったよ。わかったから、押すのやめて?」
 その言葉に、アキラは手の力を緩める。珠子がアキラの掌から離れると、二人は並んで入口に歩いて行く。警備員に軽く会釈をし、透明な回転ドアをくぐった先にあったのは、広い吹き抜けのエントランスだ。最上階まで突き抜けているらしく、真上には透明な柵越に社員達が見える。アキラたちは、そのエントランスのちょうど中心にある受付に行くと、美人な受付嬢が「なにかご用でしょうか」と麗しい笑顔を向けてくれた。髪を乗せた耳から覗く、ハート型のピアスが特徴的だった。
「警察の者です」
 アキラは胸のポケットから、警察手帳を開いて受付嬢に見せた。麗しい笑顔が、途端に驚きの表情に変わる。
「え……ウチの会社で、なにかあったんですか?」
警察手帳を仕舞い、アキラは「いえ、まだわかりませんが……」とだけ。
「実は、失踪した人を探してまして。一ヶ月前の昼ごろに、警報って鳴りませんでした?」
「えー……っとー」
彼女は、こめかみに人差し指を当てて、記憶を探る彼女。
「ああ! はい、鳴りました。珍しいことだったんで、よく覚えてますよ。ウチって、医療とかゲノムとか、そういう技術面で発達した会社ですから。情報漏洩にはどこよりも気をつけてるんです。天使社長が秘密主義なもんで」
「なんで鳴ったか、わかりますか?」
「たしか――間違いだった、って聞いてます」
 やはり間違い。
 これでは、風祭優がこの会社にいたことが証明できない。
「ねえ鳴海くん。やっぱり無駄なんじゃない? ていうか、風祭優なんて人間、ホントにいんの? 私はそこから疑問だよ……」
 がくんと肩を落とす珠子の肩を叩きながら、アキラもその考えに毒されていた。
 しかし、そう諦めるわけにもいかない。できればこの会社を調べ終わるまで、諦めたくはなかった。
「すいません、ありがとうございました」
 受付嬢に礼を言って、二人はエレベーターで二階へと上がる。
 エレベーターのドアが開き、まっすぐ伸びる廊下を歩き、辺りの人間に話を訊く。
 しかし、警報が鳴ったことは知っていても、風祭優という人物について知っている人間は誰一人としていなかった。
「……もう帰りたい」
 階数は四階。「知りません」と聞いた回数は数えられないほどに達した時、珠子が疲れを感じさせるような掠れた声で呟いた。アキラも疲れていたが、ネクタイを締め直し気分だけでもリフレッシュさせてみる。
「もうヒールの所為で足痛い……。なんで女性の正装靴ってヒールしかないかなあ!」
 女性も思ってたんだ、とこっそりアキラは頷く。
ヒールって地面につく面積少ないから確実に足が疲れるような。
アキラは常々そう思っていたのだ。
「まあ確かに、もうここで出来ることってあまりないですね……」
 そう行っていると、進行方向から進んでくる押し車が目に止まった。灰色の作業服を着た二十歳そこそこの青年と、その作業着に縫われたAB社とは違う会社のロゴ。どうやら、AB社と契約している清掃会社のようだった。
「あの人に話訊いたら、一旦帰りましょう」
 珠子を置いてその青年に近寄り、「すいません」と声をかける。ニキビの目立つ、幼い感じの青年は、「はい?」と首を傾げる。
「すいませんが、一ヶ月くらい前の昼頃、この会社にいましたか?」
「え、ええ。当番ですから、多分……あなたは?」
「申し訳ありません、私、こういう者です」
 胸ポケットから警察手帳を取り出し、見せる。
 大体警察手帳を見せると、一般人は緊張で少しだけ背筋が伸びる。アキラの経験では、そうならなかった人間はいなかった。おそらく、警察という物の高圧的なイメージから来る物だろう。
「実は今、人を探していまして。風祭優という人物なのですが……」
 青年は、帽子で目元を隠すようにして、「えー……」と記憶の糸を辿っていく。
 そして数秒後、顔を上げる。
「そういえば、黒い帽子とベストの女の人が、そんな名前の社員証提げてたなあ」
「えっ……知ってるんですか!?」
 思わず肩を掴みそうになるが、なんとか抑え、青年の顔をじっと、焦りを帯びた視線で見つめる。
「一ヶ月くらい前仕事してたら、急に声かけられたんです。『この会社の噂、知らない?』って社員証が首にかかってたけど、社員なのに噂聞いてるの変だなあと思ってたし、その後すぐに警報が鳴ったからよく覚えてたんです」
「そうですか……!」
 これで、風祭優がこの社内に居たことは証明できた。
 アキラは珠子の方を見ると、彼女は笑顔でサムズアップ。

  4

 青年に礼を言って、二人はエレベーターに戻り五階へと向かう。
 社長、天使天に話を聞くためだ。
 風祭優がこの会社を最後に消息を絶ったのはもはや明らか。それなら、すべてを知っているであろう彼に話を聞くのが今すべきことだと考えたからだ。
 拉致という噂、実際に失踪した風祭優、そして先ほど見た異様な金髪男。その三つがアキラの中に暗く渦巻き、緊張を生み出していた。
 自分は今、危険の中に飛び込もうとしているのではないか、と。
 ちらっと珠子を見る。緊張を感じている風でもなく、ただじっと階数表示のパネルを見ていた。
 もしもの時は、自分が彼女を守らなくては。頭にその事を刻みつけると、間抜けなベルの音が鳴り、ドアが開いた。
 目の前には、十メートルほどまっすぐ伸びる廊下。
 レッドカーペットにステンレスのような壁。その先にある、壁と同色の自動ドア。
「……なんか、悪趣味」
 その言葉には、アキラも同感だった。
 素っ気なさと目立ちたがり屋の同居というその曖昧なバランスが、どうも一般人には理解しがたいセンスなのだ。
 そんな悪趣味な廊下を歩き、ステンレスの自動ドアに備え付けられたインターホンを押す。
 ブー、という呼び出し音が鳴ると、ボタンの上にあったスピーカーから、「どうぞ」という男の声。それと同時に、扉がスライドする。
 部屋の中は思いの外シンプルで、二十畳ほどの部屋に本棚が一つだけと、窓の少し前に木製の高級そうなデスク。
その場所に座っているのは、紛れもない、先ほどアキラが見た金髪の男だった。
「……おや、君たちは」
 男は水色のフレームという、すこし派手めなメガネを持ち上げ、にっこりと爽やかに笑った。
「先ほど、下にいたね。そして、そっちの彼は、僕と目があっただろう?」
「え、ええ……」
 先ほどのような不快感はまったく感じない。その事に少しだけ安心したアキラは、深呼吸して数歩踏み出す。珠子も、アキラの少し後ろで待機。
「あなたが、この会社の社長である、天使天さんですか」
「そうだよ。今後ともよろしく、えーと……」
「鳴海アキラです」
「後ろのお嬢さんは?」
「え、ああ、わたしは水島珠子です」
「へー、ふーん……」
 なぜか珠子の事を、上から下まで見回す天使。足先から頭まで数回往復すると、またにこりと笑う。
「キミ、いいねえ。僕の秘書にならないか? キミみたいな花が近くに居てくれると、仕事もはかどりそうだ」
「え、そうですか~?」
 照れているのか、体をよじる珠子。そんな彼女に、アキラはジト目を向け、「水島さん、仕事を忘れないでください」と注意した。
「おっと。そうでした……。残念ですけど、それはお断りさせてください」
「そうか、それは残念……。ところで、キミ達はなにしに来たのかな?」
 アキラは、警察手帳を天使に見せた。
 しかし、天使は「なるほど」と頷くだけで、特に目立った反応は見せない。まるで最初から全て知っていたようだ。
「僕になにか、聞きたいことがあったんだね。いいだろう。すべて偽りなく答えるよ」
 アキラは、タバコを取り出し、目配せで天使に吸っていいかの確認を取る。それに天使は頷いたので、一本取り出し火を点けた。紫煙を体の中に取り込み、それを活力に一歩踏み出した。
「……鳴海くん?」
 呼びかける珠子だったが、アキラはその声を無視し、天使の前まで歩いた。
「……風祭優って人、知ってますか?」
 そう訊くと、彼は鼻で笑って、アキラを見上げた。
「ああ、知ってる。彼女もいい素材だった」
 素材という言葉のチョイスが少し気になったが、おそらく見た目のことだろうと納得しておくことにした。それを訊くよりもまず、風祭優の身柄を優先するべきだと判断したから。
「――では、風祭さんがどこにいるかは知ってますか?」
「知ってるよ」
「……どこに? もしかして、この建物の中、とか」
「ああ、いるよ。……見るかい?」
 アキラは思わず、タバコを口から落としてしまった。
 デスクの上に落ちたタバコを、天使が拾い、ガラスの灰皿で火を捻り潰した。
「なにを驚くことがある。キミ達は、私が怪しいと思ったからここまで来たんだろう?」
「……いや、それはそうなんですけど」
「普通、そんな風に自分の悪事を告白する悪党いないって!」
「み、水島さん!?」
「はっ、はっはっはっはっは!」
 なぜか、大笑いで拍手まで始める天使。
 その半狂乱とも思える行動を、二人はただ黙って見ていることしかできなかった。
「なるほど、悪党か。なにも知らない人間から、見たら、そう見えるのかもしれないな」
 天使は立ち上がり、ゆっくりと、歩く気配を感じさせないような歩き方で、本棚に歩み寄る。そして、その中に入った本の一冊をさらに押し込むと、スイッチのように引っ込んだ。
「しかし、僕ほど平和を愛している人間もいないのさ」
 本棚の縁を掴んで引っ張ると、その本の側面には、指紋認証のパネルがあった。そこに人差し指をかざすと、本棚がドアの様に開いた。
 天使が手で二人を招いているので、とりあえず、アキラと珠子は天使の後ろに立った。
 その中には小さなエレベーターがあり、天使に促され、アキラ達はそれに乗り込む。
 天使がパネルを操作し、扉が閉まると、沈黙が訪れる。
 天使は機嫌よさそうに笑顔で居て、珠子はそんな天使を怪訝そうに見ていた。
 そんな状況が十秒ほど続き、扉がなんの音もなく開く。
「僕以外がここに来たのは、実験体を除けば初めてのことだ」
 靴を鳴らし、楽しそうにエレベーターから出ていく天使。
 しかし、アキラはまったく楽しく思えなかった。
 そこは、一言で言えば病院だった。真っ白な室内と、消毒液の匂い。しかし、無数にある培養液入りのカプセルが、そこを異形たらしめていた。
その無数のカプセルの中には、アキラを襲った骸骨達が入っている。
「が、顔面潰し……!」
 アキラのつぶやきに、珠子が「え、……これが?」と恐る恐る指を指す。
「へえ、外じゃ顔面潰しと呼ばれているのか。僕はスパルトイと呼んでるけどね」
「は……? スパルトイ? 呼んでる?」
 天使がくるりと振り向き、アキラの顔を見て言った。

「……なんだ、意外と情報を得てないんだな。このスパルトイは、僕が作った改造人間さ」

「か、いぞう……?」
「そう。スパルトイには、主に実験体を選別させている。もし使えそうなら拉致。使えなさそうなら殺す。僕は、そうしてこの兵士達を手に入れてきた」
「じゃ、じゃあ……こいつら……」
 その先は、恐ろしくて口にできなかった。
 この骸骨達が、元は人間だったなんて。
 それを考えると、腹の中にグツグツと熱い物がこみ上げてきた。たっぷり煮込まれたお湯のように、鍋からふきこぼれそうなほどの怒り。
「う、うええ……ッ!」
 そして、実際にふきこぼれた怒りは、吐瀉物となってアキラの足元に落ちた。
 天使はそんなアキラを、ただ微笑んで見ているだけ。
 口元を拭うと、アキラは天使を睨んで叫ぶ。
「天使……お前、こんなことして、なにがしたいんだっ!!」
 アキラの足がしなやかなバネに変わり、天使へと突っ込んでいく。拳を握り、それをヘラヘラと笑う天使の顔面向かって振り被った。
「なにがしたいか?」
 しかし、アキラ渾身の拳は、天使の掌に納まり、無力と化す。
「……僕はね、世界征服がしたいのさ。その為ならこれくらい、安い犠牲さ」
 アキラの拳を離し、また背中を見せて奥へと進んでいく。
「ああ、ちなみに」
 そういうと、天使は後ろ髪を持ち上げ、首筋を見せる。
そこには、何かのプラグを差し込むような、丸い差し込み口があった。
「僕も改造人間だ。これは改造された証のようなものでね」
 それを聞いて、アキラは納得していた。
 なぜ天使のような細い体で、警察官であるアキラの拳を受けられたのかを。
 確かに、改造人間であれば、あの骸骨と同等の力を持っていてもおかしくはない。
 となれば、拳銃だって意味を成さないだろう。
自分の無鉄砲さに、アキラはつくづく嫌気がさしていた。
「ほれ、鳴海くんらしくねえぞ?」
 いつの間にか後ろまでやってきていた珠子に、軽く後頭部を叩かれた。
「そりゃ、あいつのやってることはすげえムカつくけどさ。だからって今殴りかかっても解決はしないし。今は風祭さんのことだけ考えよ」
「……はい」
 怒りはまだ腹の奥で煮えているが、今はそれをしまうことにした。
 今優先すべきは、風祭優の救出。そして、それからこの男の逮捕。
 それをもう一度胸に刻み、天使の背中を見据えた。
「さて、……このカプセルだ」
 天使が指差すカプセルを見ると、そこには怪物ではなく、茶髪のセミロングに、身長百六十程度の女性がまるでフィギュアのように、全裸で入っていた。
「彼女が、風祭優だ。……出そうか?」
 アキラが頷くと、天使はそのカプセルに歩み寄り、根本にあるパソコンに何かを打ち込んでいく。
 すると、カプセルの天井から伸び、優の首筋に刺さっていたコードが抜けて、培養液が水かさを減らして行く。そして、ガラスが地面に引っ込み、風祭優が解放された。
「……鳴海くん、あんまり見ないように」
「わかってますよ」
 とはいえ、美人の裸である。堅物のアキラは目のやり場に困ってしまい、天井を見上げる他なかった。
「……風祭さんの身柄を保護。そして、天使天。あなたを監禁罪で逮捕します」
 普通は、そこで詰むはずなのだが、天使はなぜかその指摘は間違っていると言わんばかりに唇を歪める。
「……それは、彼女が監禁されたと認識している場合だろう? どうだい、優くん。私は君を監禁したかな?」
「……いいえ、私は、自らの意志でここに居ます」
「は、ああ?」
 その声は珠子の物だった。彼女は優に詰め寄り、「頭大丈夫?」と訪ねる。
「全裸にされて、あんなカプセルに入れられて、それがあなたの望みなの?」
「……はい。私は、天使博士の意のままに」
「……だめ。話しになんない。なんか催眠術にでもかけられてるみたい」
 催眠術、という言葉に、アキラは引っかかった。
 そして、天使の顔を伺うと、やはり勝ち誇ったような顔で優を見ていた。
「……なるほど。催眠術か」
「洗脳、って言ってほしいんだが……まあいいさ」
「博士。彼らは一体……?」
 アキラと珠子を交互に見てから、天使に向かって首を傾げた。
 天使は、そんな彼女に向かって、極上の、まさに天使の笑顔を見せて言った。
「ああ。敵だよ、僕らのね」
「……そうですか。では、排除します」
 優は、胸の前で両手のバツを作り、それを一気に腰へと納めて呟いた。

「変身」

 その言葉と同時に、彼女の体が変化する。
 皮膚は白く、顔には蓋骨のような目元を隠す仮面。骨が盛り上がって皮膚を貫き、外殻のようになっていく。
 その姿には、アキラも見覚えがあった。というより、今も他のカプセルに入っている顔面潰しによく似ていた。
「どうだ? スパルトイに似ているだろう?」
 天使の言葉には、アキラも頷く他ない。
 しかし、スパルトイは骨が強化され皮膚の外にはみ出したような姿だったが、彼女の変身後はスパルトイより化物感はなく、洗練された姿をしていた。骸骨の仮面と、骨を模した外殻を要所要所に貼り付けたような黒いプリンセスドレスを着ていた。
「彼女は、スパルトイの強化型。スパルトイ・クイーン。ヴァーユ」
 優が変身したヴァーユは、左の太ももにある白い拳銃を抜き、アキラに銃口を向けるや否や、トリガーを引いた。
 突然の事に動けなかったアキラだったのだが、弾丸は何故か頬を掠めただけでアキラの命までは奪わなかった。
「僕はね、フェアが好きなんだ。彼女という改造人間を持つ僕と、キミ達警察では勝負にならない」
 だからね、と一拍切り、天使は嫌味ったらしく、二人を見下したような顔で言った。

「キミ達は見逃そう。だが、今日から彼女を街に放ち、人間を選別させる」

「――ッ!」
 アキラと珠子の体から酸素が抜け、真空になる。
 恐怖や不安が一気に彼らの心を襲い、呼吸を忘れさせた所為だ。
「さあ、鬼ごっこ――いや、ドロケイの始まりだ。遊びと違って、悪役は反撃するがね。殺されたくなかったら逃げるがいい。だが、殺させたくないなら捕まえたまえ」
 その言葉と同時に、優――ヴァーユの姿がフッと煙の様に消えた。
 もう街に行ったのか、とアキラは急いで踵を返す。
「水島さん!」
「う、うん!」
 エレベーターに向かって走る二人。珠子はヒールだからか、すこし遅い。その遅さにイライラしたのか、アキラは珠子の手を掴み、引っ張ってエレベーターに飛び乗った。
「ああ、そうだアキラくん」
 天使の声を無視して、操作パネルの上ボタンを押し、閉のボタンを連打する。
「私はさっき、そちらのお嬢さんを秘書に誘ったが、僕はキミも欲しいなあ」
 ドアがゆっくりと閉まっていく。
 その隙間の向こうに見える天使の顔を見て、アキラはさきほど、駐車場で味わった不快感を思い出した。
 目玉がどろりと溶け出しそうなほどに潤み、三日月の様に歪む口元は、天使というよりも悪魔のそれに近い。

「力が欲しいのならまたおいで。キミなら、最高の兵士になりそうだ」

 かたん、と。扉が閉まったにも関わらず、アキラの瞳には、その向こうに居るはずの天使の嫌らしい笑みが見える気がした。
「――う……ぷっ」
 本日何度目かの気持ち悪さが襲ってきた。それと同時に、恐怖も。
 どうすればいいのだろうか。こんなとんでもない話を、実際に体験していない人間が信じてくれるとは思えないし、なにより信じてもらえたからといって何ができるのだろうか。
 アキラが見ただけで、が入ったカプセルは百個以上あった。
 拳銃が効かない、力は人間以上。そんな物を相手に、どう戦えというのだろうか。腰のホルスターにある拳銃の重みは、普段なら頼もしいのだろうが、今回に限っては酷く邪魔だった。
「なーるみくん」
 背中が少しだけ、暖かくなった。
 ちらりと背中を伺うと、珠子がアキラの背中を優しく摩っている。
「あたしにはこれしかできないけどさ。その……、御堂さんって人みたいには背負えないけど。背中摩ってあげるくらいならできるから。……頑張ろうよ、とりあえず、なにかをさ」
「……あ」
 何かを思い出したようなアキラの声と、エレベーターのベルは同時に鳴った。
 ドアに頭を預けていたアキラは、ドアが開いた所為でバランスを崩し、前に倒れていった。
「うわっ、鳴海くん!?」
 普段なら楽にバランスが取れるはずなのだが、アキラはなぜか重力に抵抗しないまま、あっさりと倒れた。
「だ、大丈夫、鳴海くん? 鼻から行かなかった?」
「え、ええ。大丈夫です……」
 なんとか珠子の声に応え、ゆっくりと立ち上がるアキラ。
 しかし、急いでいたはずなのだが、なぜかアキラは動こうとしない。
「鳴海くん、急ごうよ。じゃなきゃ、風祭さんが人殺しに……」
「いや……、その前に。行くところがある」
「なにそれ。どこ?」
「喫茶、コーヒーベルトに」

  5

 急いでAB社から飛び出し、アキラはパトランプを鳴らして、アクセルを思い切り踏み込む。幸い、平日の昼間なので、桜木町はそこまで車の通りもなく、普通より十分近くコーヒーベルトに来ることができた。
 二人は車を店の前に停め、コーヒーベルトの店先に立つ。
「……ねえ鳴海くん。さっきの話、ホントなの?」
「……多分。なにもしないよりは、マシというか」
「めちゃくちゃ行き当たりばったりじゃん……」
 まあ、いいか。どうせこの状況なら。
 珠子はそう呟いて、ヤケクソ気味に、髪をかきあげ、コーヒーベルトのドアを引いた。
 ドアベルが二人の来店を知らせ、カウンターの向こうから、薫が笑顔で出迎えてくれる。
「いらっしゃい。――あれ、アキラくんか。さっきぶりだなあ」
「あの、すいません。御堂さんは……」
「春? ああ、春なら二階の自分の部屋にいるんじゃないかな?」
 ちょっと待ってね、と言って、バックカウンターにあった電話の子機を取り、数回ボタンを押して耳に当てた。すると、階段から無機質な呼び出し音が聞こえてきた。どうやら内線電話らしい。
 しかし、しばらくしてもその、音は消えないので、アキラは待ちきれず「すいませんが、上がってもよろしいですか?」と、奥の階段を指差す。
薫も子機の通話を切り、申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「ああ、ごめんね。多分、寝てるのかも」
「春くんならいませんよ」
 階段から聞こえてきた声は、ノキの物だった。
 ゆっくりと階段を降りてくる彼女は、もう制服ではなく私服に着替えていた。
 前髪をピンクのカチューシャで上げ、ピンクと白のボーダーという可愛らしいキャミソール。そして下は黄色い半ズボンを穿いている。なかなか露出度の高い格好だ。
「さっき部屋見たら、いなかった」
「でも、降りてきてないけどなあ」
「あの……。今すぐ、御堂さんの居場所が知りたいんです。なんとかなりませんか?」
 苛立が募り始めたが、薫とノキにぶつけないように、アキラは細心の注意を払って喋る。
「ケータイに連絡してみるか」
 薫が再び子機の数字ボタンを押し、耳に当てるが、どうやらずっと呼び出し音が続いているらしい。しかし、その途中ノキが。
「いや、それより、ケータイのGPS確認した方が早いよ」
 ちょっと待って、と言って、ズボンの中にあったピンクのケータイを取り出し、女子高生らしい手馴れた操作で、すぐにその場所を口にしてくれる。
「えっと……。西区みなとみらい……。なにこれ? ビルからビルにすり抜けてる、みたいな……」
「は? ……ちょっと貸してくれませんか!」
「ど、どうぞ」
 ノキから投げ渡されたケータイの画面を見ると、そこには確かに早い動きでビルからビルへとすり抜けるように移動する赤い点があった。
「すいません、ノキちゃん。御堂さんのGPSデータもらいます!」
 アキラも、ノキに負けないくらいに素早く操作し、春のGPSデータを赤外線で受け取り、ノキにケータイを投げ渡した。
「おっとと。……なんかよくわからないですけど、春くんをよろしくお願いします」
「わかりました。行きましょう、水島さん!」
「ん」
 珠子の短い返事で、二人はコーヒーベルトから出る。
 騒がしいドアベルを背に車へ飛び乗り、アキラは思いっきりアクセルを踏み込んだ。
「ナビ、お願いします」
 自分のケータイを珠子に渡し、アキラは前だけを見る。
 動いていると、不安がどうとかはすぐに忘れてしまう。
 自分はそういう性分なのだと、少し思い出した。
 珠子の指示通りにハンドルを勢いよく切って、GPSの赤い点を追う。
 先程アキラが見たときは、クイーンズスクエアというショッピングモールの近くに赤い点があったのだが、今はもう横浜スタジアムの中ににいる。
 この二つは一駅分ほど距離があり、たかだが五分ではどうやっても辿り着けないはずなのだ。
 しかし、から桜木町方面に向かっていたアキラ達には好都合。コーヒーベルトから関内駅方面へと車を飛ばし、十五分程で横浜スタジアムへと到着。
 近くに車を停め、急いで降りる。アキラのケータイを確認し、珠子が呟く。
「……うん。この中に御堂さんがいるね」
「野球の試合もないのに……。まあ、とにかく。早くしないと風祭さんが……」
 オレンジ色のタイルを革靴で叩き、二人してスタジアムの中に侵入した。
 とはいえ、試合がない時にはほとんど人もいないし、出入りは自由みたいなもの。
 アキラ達がホームベース側の入り口からスタジアム内に入ると、芝生の上に鬼と骸骨がいた。
「風祭さん……と、もしかしてあれが……」
 珠子の指差す先にいる鬼を見て、アキラは頷いた。
 マウンドを挟んで向かい合う、鬼と骸骨。骸骨――ヴァーユは、左手でくるくると拳銃を回しながら、鬼――フェイクマンの様子を伺っている。フェイクマンも、ボクシングのように体を半身に構えていた。
 ヴァーユの持つ銃は、アキラ達警察官が持っている銃よりも一回り大きく、白い銃身と二つの銃口が特徴的だった。
「……素手で銃に挑むのは、不利よね」
「普通の人間同士なら、銃を持ってる方が勝ちで間違いないですが――今から起こる戦いは、普通じゃない」
 アキラの声がきっかけになった様に、改造人間二人が動いた。
 ヴァーユがトリガーを引き、銃口から雄叫びが聞こえ、弾丸が放たれる。
 しかし、フェイクマンはその弾丸が見えているかのように掌で叩き落し、ヴァーユに向かって突撃。
 それでも尚、ヴァーユは連射を続けるが、フェイクマンに銃は通じない。
「――切り替えますか」
 呟くと、彼女は発泡をやめて鬼を懐に迎え入れた。
「フ、ッ!」
 フェイクマンの右ストレートがヴァーユの顔を狙う。しかし、それは首を捻ることで避けられてしまい、代わりにヴァーユの銃が鬼の眉間に刺さる。
「しまっ――、!」
 ぱん、と命を奪うにはあっさりとした音が鳴り、鬼の体が仰け反った。
「み、御堂さん!?」
 アキラの叫びが、スタジアム内に木霊する。
 が、フェイクマンはそのままバク転のようにしてヴァーユから距離を取った。
「くっ……」
 右手でマスクを押さえるフェイクマンだったが、その視線はアキラを捉えていた。
「今……御堂さん、って」
 初めて言葉らしい言葉を発したフェイクマンに、正体を知りながらもアキラは少しだけ驚いてしまう。
「……ついさっき、もしかしたらって思ったんですよ。御堂さんににおぶってもらった時、首筋の絆創膏が天使の首筋にあった穴と同じ位置にあったな、と思って。それで確証までは行かなかったんですけど、今の反応で確証しました。あなたの正体」
「――そっ、か」
 フェイクマンはゆっくりと立ち上がり、顔を押さえていた手を退けて、顔の変身だけを解く。

 そこには、紛れもない御堂春の顔があった。

「まさか、バレるとは思わなかったなあ」
 イタズラを咎められたような、すこしショボくれた顔で春は笑った。
 寂しさを誤魔化すような春の雰囲気に、アキラの胸が少しだけ痛む。
「その、実は……」
 しかし、アキラの言葉の途中で、春は顔を変身しなおす。
「すいません、話はまた後で」
 そう言うと、春の視線がアキラからヴァーユへと向き直る。ヴァーユは、二人が話している間どうやら銃を弄っていたようで、「終わりましたか」と銃を構え直す。
「待っててくれて、ありがとう」
「いいえ。私は、そういう卑怯なことは嫌いなので」
 顔面潰しとは違い、なぜか人間味のあることを言うヴァーユ。
 改造されたのだから、そういう個性も消し去るのが道理ではないのか、とアキラは思った。
 フェイクマンの腕についている手甲のような形をした外殻の上部分をスライドさせると、そこから槍が飛び出した。勢い良く発射されたそれは、目の前に突き刺さる。
「それ、結構痛いから……」
 その槍を引き抜くと、バトンのようにくるくると器用に回し、柄を脇に挟んで構える。
「さあ、どうぞ」
 左手の人差し指で、ヴァーユを招くフェイクマン。
 それを再開の合図にした様に、今度はヴァーユから突っ込んだ。
 オリンピックの金メダリストだって驚くであろう、シャンパンのコルクが弾ける様なスタートダッシュで、一瞬で距離を縮める。
 牽制のつもりで、軽く三発ほど連射するも、今度は槍によってたたき落とされ、フェイクマンの体まで届かない。
「ハッ!」
 フェイクマンが槍をヴァーユに向かって振り降ろすが、それを銃で受け、右フックを鬼に叩き込む。
「っ!?」
 吸い込まれた様に見えるほど綺麗に決まり、回転しながら吹っ飛ぶ鬼。
「だっあありゃッ!」
 空中を投げられたペットボトルの様に舞いながら、フェイクマンは槍をヴァーユに向かって投げる。
 まさか槍を投げるとは思わなかったのだろう、一瞬驚いたように細い体が跳ねるものの、すぐにサイドステップで槍が飛ぶコースから飛び出す。
 しかし、その瞬間槍がショットガンのように弾け、その破片がヴァーユの右ふくらはぎを貫通する。
「っぐ……!?」
 うめき声を上げ、激痛の所為か前のめりに倒れるヴァーユ。
 必死に立ち上がろうと地面を押すがす、下半身に力が入らないのか上半身を起こすことしかできない。そのチャンスを鬼が逃すはずもなく、右拳に力を溜める。
「ふっ……、はぁぁぁ……」
 一気に息を吐き出すと、徐々に右拳が黄緑色に発光しだした。徐々に明るさが増していき、蛍光色の光は目を晦ますほどになった。
「あれは……!」
 アキラは一度、目の前でこの技を見ている。
 顔面潰しにトドメを刺した、あの技。そんなものをこの状況で受けたら、いくら強化型に改造された優でも死んでしまうかもしれない。そう確信したアキラは、腹に力を込めて、思い切り叫んだ。
「御堂さんッ!! その技は使っちゃダメだ! その人は、風祭さんなんです!!」
「……は?」
 信じたわけではないだろうが、驚いたのか発光が収まり拳が光を失った。その隙を突き、ヴァーユは腰に位置する外殻から弾丸を取り出し、銃に差し込んで鬼に向かって放った。
「――っ!」
 完全にヴァーユから意識を離していたのだろう。反応が遅れ避けるアクションすら起こせず、その弾が胸に直撃する。
 派手に煙が上がり、その隙にヴァーユはゆっくりと立ち上がり、アキラたちを一瞥してから、
 ケガをしていない左足で高く跳んで逃げて行った。
「御堂さん、大丈夫ですか!」
 煙に向かって叫ぶアキラ。
「……大丈夫っぽい。あれ、煙が異常に派手だから、多分煙幕だよ」
 冷静に解説する珠子。その言葉通り、ゆっくりと煙が引いていき、中からは防御姿勢の鬼が姿を表した。
「……あれ?」
 煙幕とはわからなかったのだろう。意外そうに鬼は辺りを見回し、逃げられたのだとわかると、膝を折り曲げてジャンプ。アキラ達の前に跳んだ。
 軽やかに着地した鬼は、徐々に人間へと姿を変えて行き、すぐ御堂春へと姿を戻した。
「……ふう」
 変身の疲れを吐き出すようにため息を吐く春に、珠子は一言。「すごいわね……改造人間」と呟く。
「いやあ、それほどでも」
 照れ臭そうに頭を掻く春。
「ていうか、俺からしたらアキラさんたちの方が……。なんで天使って名前知ってるんですか?」
「ちょっと、いろいろありまして……。ここじゃなんですし、一旦私たちの車に行きませんか?」

  6

 三人は、できるだけ目立たないようにして、スタジアムを後にする。
 炸裂した槍の穴など、戦った痕跡がいろいろ残っているし、見つかると面倒になるからだ。
 アキラの車の後部座席に乗り込んだ春は、「すいません、コーヒーベルトまでお願いできますか?」と運転席に座るアキラに、バックミラー越しで要求する。
「わかりました」とアクセルを踏み込み、ハンドルを切って元来た道をコーヒーベルトに向かって引き返す。
「……」
 車内には、気まずい沈黙が流れる。珠子はしかめっ面をして、爪で肘掛けをこつこつと鳴らしている。
春は下を向いて、時折なにかを言おうとして顔を上げるが、タイミングを測り損ねるのか、結局また下を向く。
「……えっと、まず、私達からから話しましょう。御堂さんは、聞く間に自分の話をまとめておいてください」
「……はい」
 気まずい空気に頭を押さえつけられたまま、春は呟いた。
「……私達は、まず、いま横浜で連続している殺人事件、顔面潰しの捜査をしていました」
「顔面……もしかして、スパルトイのことですか?」
「ええ、そうです。顔面を潰して殺すから、顔面潰し。後に、天使が改造人間にする人間を選ぶという役割が与えられていることがわかりました」
 頷く春。
「スパルトイは、多分改造できる条件の人間だけ拉致して、後は殺してるんだと思います」
 そう言ってから春は「詳しくは、知らないんですけどね」と付け足す。
 ということは、実際の被害者は警察が認知しているよりもいるのか、とアキラは思った。
「そして、捜査しているところに、スパルトイと遭遇し、御堂さんに助けてもらいました」
「いやあ。知り合いが襲われてるなんて初めてでした」
 そう返されると、なぜだか恥ずかしく思ってしまうアキラだった。春に助けられてばかりなのを、情けなく思っているのだろう。それを誤魔化そうと、頭を掻いた。
「……で、そこからいろいろありまして、とあるヤクザを逮捕し、風祭さんがAB社に侵入してから、消息を立っているという情報を得て、我々もAB社に行きました。そこで、彼女が改造されていたことを知りました」
「……それで、天使に会って、これのことを聞いたんですね」
 春が自分の首筋に手を回すと、穴の部分を突付いているのか、コツコツと固い音がした。
「迂闊でした。もうちょっと髪伸ばして、隠さないと」
「いや、普通ならわからなかったと思います」
 もし、自分が具合を悪くしなかったら。
 もし、五十嵐から風祭優の話を聞かなかったら。
 もし、天使に説明を受けなかったら。
 なにか一つでも違っていたら、想像もしなかっただろう。そのまま、何も知らずにコーヒーベルトに通っていたはずだ。最悪、出会わない場合だってありえたのだから。
「……で、私たちの話はそんなもんだけど。キミは話、まとまった?」
「え、ああ、まとまりましたけど……あなたは?」
「おお、そっか忘れてた。私は水島珠子。鳴海くんの同僚」
 よろしくねー、と後ろを向いて、春と握手する珠子。
「よろしくおねがいします。珠子さん」
「ん、改造人間の手もあったかいし柔らかいね」
「水島さん、そんな無神経な……」
 おそらく珠子に悪気はないのだろうが、すこし考えなさすぎではないだろうかと、アキラは注意を促す。自分たちにはわからない苦悩があるだろうし、注意するに越したことはないはずだ。しかし、春は気にしてない風に、そっと微笑んだ。
「気にしなくてもいいですよ。事実だし……改造人間って結構便利ですから」
「へえ、どう便利なの?」
「たとえば……食事しなくても平気とか」
「うわっ、それうらやま!」
「体重は変化しないんですけどね」
 仲良く会話に花を咲かせる二人を見て、呆れるような安心するような、微妙な気持ちになるアキラ。そんな場合でもないのだが、うまくやっていけそうだということには、すこし安心だ。
「え、じゃあもしかして、食事できないの?」
「いや、食べられはしますよ。味もわかるし」
「うっわ高性能! じゃあロケットパンチは!?」
「それはちょっと……」
「目を輝かせない!」
 この二人は、状況をわかっているのだろうか?
 途中まで別人だった可能性があると言われたら、アキラはあっさりと信じただろう。そもそも、目の前で変身解除されても春が鬼だったというのが、アキラにはあまり実感がないのだ。
「いいじゃんかよー、鳴海くんのケチー」
「そうですよアキラさん。まだまだありますよ。御堂春、二十六の秘密」
「いや……ていうか、まだ大事な話があるじゃないですか」
 ありましたっけ? と顔を見合わせる春と珠子。
 なぜ数分前の会話を忘れられるのだろうか、なぜ真面目に会話できないのか。というか、波長が合いすぎではないだろうか。うまく行くのはいいが、行きすぎて複雑な気分だった。
「御堂さんの話が、まだあるでしょう」
「ああ、そうでしたそうでした! 御堂春、二十六の秘密の一つ!」
 きゃー! と黄色い歓声で拍手する珠子と、その拍手に気持ちよさそうな顔で頷く春。
 この面子で、天使に挑むのかと思うと、不安が芽生えずにはいられなかった。

     

5 御堂春―フェイクマン―

 一年程前になる。
 厳しい寒さがいつの間にか消え去り、桜がその存在をアピールし始めた頃。
 御堂春は窓を開け、気持ちのいい風を部屋中に取り込んだ。
「んー……っ!」
 伸びをすると、全身の関節がポキポキと気持ちのいい音を鳴らす。全身の細胞が新しくなったような心地よさだった。
「おー、桜がきれいに咲いてるなあ」
「え、マジで?」
 春の肩に手を乗せ、手すり代わりにして引き、窓際に立つ春の妹の夏。
「おー、お兄ちゃんが咲かせた花だね」
 子供のように歯を見せて、子供じみたことを言う夏の額を軽く叩いた。
 痛っ! と、少し大げさに痛がる夏。
 頭の後ろに結われたポニーテールが揺れ、肩に落ちる。
「それ、似合ってるよ」
 春が指を差したのは、夏が着ている紺色のブレザーに同色のプリーツスカートだった。皺も無く、細かな汚れもなく、まだ新品であることが伺える。
 そのブレザーが、今日から彼女が通う高校の制服だった。その制服を買うだけで、自分の時間がどれだけ費やされているのか考え、それを夏がよろこんでくれているのだと思うと、春は嬉しさから目頭が熱くなる。

 両親が早くに死んで、春と夏は親戚に預けられた。
 それは歓迎されたものではなく、血の繋がった人間が彼らしかいなかったので、世間体を気にして仕方なく預かったというだけのことだった。虐待されたりなどはなかったものの、ただ必要最低限の衣食住を与えられ、迷惑そうな顔を毎日見せられる居心地の悪さに耐えかね、春が二十歳になった時、二人はその家を飛び出した。
 ぼろぼろのアパート――トイレ共同風呂なし六畳間を借り、春は朝も夜もなく働いた。
できるだけ夏に苦労を感じさせないように。

 その苦労が今日やっと一つ花を実らせたような、そんな嬉しさが春の胸にあった。
「……夏ももう高校生か。早いなあ」
「そう? 私はそこまで早くなかったけど」
 一日見なければ一日ごとに、一秒見なければ一秒ごとに。
 成長しない瞬間なんてないんじゃないかと思うような、そんな気持ちだった。
「……お兄ちゃんさ、なんかお父さんみたいな顔してない?」
「え、そうか?」
 それを確かめるように頬を触る。そこまで老け込んだつもりはなかったのだが。
「……まあ、俺は父さんの代わりだから、ある意味嬉しいね。――きっと、父さん母さんもよろこんでると思うし」
 もちろん俺もだけど、と付け足して、春は窓を閉めた。
 まだ桜の匂いが部屋の中に残っているような気がするくらい、今年の春は気持ちがいい。
「さて。私、そろそろ行くね。学校の見学もしたいし」
「お、行ってらっしゃい。高校生」
 サムズアップをして、夏は部屋から飛び出して行った。
 高校生になったことがよほど嬉しいのだろう。薄い壁の向こうから聞こえてくる足音も、ダンスのステップのように軽やかだった。
「さて……俺も行くかな」
 春は部屋の隅にかけてあった上着に袖を通し、バイトに行くための準備を始める。
 ケータイ、財布、鍵と持ち物を確認して玄関に置かれたぼろぼろのスニーカーにつま先を入れ、靴ひもをしっかりと結んで、玄関を出た。
 汚れたコンクリート打ちの廊下を行き、錆びた鉄製の階段を軽快に降りて行く。
 なんとなく口笛を吹き、春は夏の高校生活がうまく行くように祈りながら仕事場に向かった。

  1

 春の仕事場はレストランだった。
 横浜で隠れ家的な雰囲気から、密かに人気のある店。
 そこで春は、見習いのコックとして働いている。将来、調理師になるために。
 最初は夏に美味しいものを食べさせようと始めた料理だったのだが、いつの間にか趣味になり、夢になった。辛いことも多いが、やはり楽しく、春から働いているという実感を無くして行くのも、続く理由の一つだ。
 ――しかし。楽しいのだが、勤務時間が夜遅くまで、というのが春の悩みだった。
 夏を一人にしておくには、いくら働いているからとはいえどこか忍びなかったし、今日くらいは早めに帰ろうと考えていた。
 厨房にかけられた時計を見ると、時刻は七時。さすがに夏も帰ってきているであろう時間帯なので、そろそろ切り上げたかった。
「すいません、店長」
 頭の帽子が一段と長い、小太りで白い髭を生やした初老の男性が、ここの店長だった。
「どうした、御堂くん」
 店長はフライパンの中の野菜を炒めながら、春を見ずに呟く。
 その真剣な顔に、思わず気後れしてしまうが、今日は記念日。できれば早く帰って、夏を祝ってやりたかった。
「今日もう上がりたいんですけど、いいですか……?」
「……珍しいな。働き者の御堂くんが早く上がりたいなんて」
「実は、今日妹が高校入学初日なもんで、できるだけ早く帰ってやりたいんです」
「おお、そうかあ……!」
 嬉しそうな声を出し、春の顔を見る。
 精悍な顔つきは、とてもじゃないが料理人には見えない。まだ冒険家という職業のほうがピンとくる。
「夏ちゃんもついに高校生か。それは確かに、早く帰らないとな。今日はいいぞ」
「ありがとうございます!」
 深々と頭を下げる春。本当、この人にはお世話になりっぱなしだと、少しだけ申し訳なくなった。しかし、それよりも夏の喜ぶ顔が早く見たかった。
「俺からはお祝いできないけど、今度夏ちゃん連れてきなさい。とびっきりのご馳走するから」
「本当ですか!? うわっ……すいません、ありがとうございます」
 また頭を下げる春。「いいから、早く行きなって」と店長が言ってくれたので、春は急いで更衣室へと向かう。
 自分のロッカーを開け、急いでコック服から私服に着替える。途中、急ぎすぎてTシャツを後ろ前反対に着たりしてしまったが、落ち着いて正しく着直した。そして、厨房に顔を出し、「お先です!」
 店長の返事も待たず、裏口から飛び出した。
 スニーカーで地面を鳴らしながら、会社帰りのビジネスマンの波をよけながら、急いで帰った。
 春の働いているレストランから春の家までは、徒歩で三十分ほどかかる。
 しかし、走ったおかげで二十分ほどで帰ってこれた。
 階段を上り、迷惑にならないよう廊下は小走りで自室のドアを開けた。
「ただいまー!」
 夏が六畳間のちゃぶ台で勉強しながら、春の帰りを待っている――はずだった。

 しかし、そこにあったのは、骸骨に首を締められ、荒れた部屋で苦しそうにしている夏の姿。

「お、兄……たす――」
 赤い顔で、目に涙を溜め、春へ手を伸ばす。
 そして次の瞬間に、その手は落ちた。春へ届くことなく。
「な、つ……?」
 骸骨は夏を飲み終わった空き缶の様に、無造作に床へと放る。
 そして、目線を夏から春に移す。本当に見られているのか、そもそも目があるのかすら怪しい穴。なんの感情もなく、ただ春を見ているだけ。
 ただ見られるだけということがどうしていいかわからない不安感を産み、春から何かを奪い取っていくような気がした。
「う、ああ……」
 血も、足も、気力さえも引いていき、春の足は勝手に踵を返して走り出した。
「う、ああああ! ああああああああああッ!!」
 おぼつかない足で、必死にその場から離れようとする。階段も半ば転げ落ちるようにして、痛みも忘れて逃げた。
 なにをやってるんだ。なぜ、妹を放って逃げている。
 逃げるな、止まれ、引き返せ!!
 そう足に命令するものの、足は言うことを聞かない。妹よりも自分の命が大事だという自分の本性を垣間見ているような、嫌な気分にさせられる。
「あっ……!」
 自分の足に躓いてしまい、春は思い切りアスファルトに倒れてしまった。
 やはりおぼついた足で逃げるのは無理があったのだろう。止まった足に痛みが走り、夏のことが頭を過ぎってふり向く。
 しかし、後ろにはもう骸骨が、春に向かって手を伸ばしていた。
 先程の夏とは違う、命を奪い取る腕。

 そこで、春の意識は途絶えた。


  2

 目の前を泡が昇っていく。
 まるで水中メガネ越しに見るプールの中の景色のようだった。
「……ここ、は」
 自分の口からも、喋った分だけ泡が出て行く。
 水中にいるのだろうか、と思ったが、実際そのようだった。
「やあ、お目覚めかい?」
 水と、その透明な壁の向こうに一人の男が立っていた。
 金髪のオールバックと、水色フレームのメガネに白衣という奇妙な出で立ち。
 彼は喜びを全身で感じるように両手を広げ、満面の笑みで春を見ていた。
「素晴らしい……よもや完成してしまうとは。――柄にもなく、自分が怖い」
 この男が何を言っているのかわからず、春はとにかくここから出ようと体を動かそうとするのだが、床から伸びた手錠によって動きを制限されていて動けない。上半身裸で、ズボンは春が意識を失う直前に穿いていた黒のチノパン。
「これは、なんなんですか」
 泡と共に言葉が出る。
 白衣の男は、そっと、春を閉じ込めている透明な壁を触る。
「キミはね、選ばれたのさ。人間を超越する、神の軍隊に」
 神の軍隊という言葉を、口の中で小さく繰り返した。しかし、その言葉の意味がよくわからなかった。その言葉は、まさに泡のように消えて行く。
「そう、だ。……なつ、夏は!?」
 一層激しく泡が舞い上がり、動かない手足で必死に体を揺する。この状況よりも、行方の知れない妹の方が気がかりなのだろう。
「夏? ……ああ、彼女なら」
 男は、顎でくいっと明後日の方向を示す。春は恐る恐る、その方を覗くと、書類などが散らばった乱雑な部屋の中心に、手術台があった。
 その横には、寄り添う様にして手術道具を乗せる台があり、そこに乗っているメスなどは赤く濡れ、手術が行われたことを示している。

 手術台の上には、全身を切り刻まれた肉片があった。

 頭の中をぐるぐると、夏の生きていた姿が駆け回る。つい昨日までの、元気な夏の様に。
 しかし、その姿はもう見られない。あるのは動いていた体だけ。
「改造しようとしたんだが、キミに回すパーツがどうしても彼女の体からしか作れなくてね。だから、キミのパーツの為に使わせてもらった」
 感謝したまえ、とメガネを持ち上げる白衣の男。
 自分が絶対的な善だ、と言わんばかりの独善的なその態度に、春の頭は一瞬で沸点を越えた。まだ残っている冷たい部分で、春は言った。
「何故、何故、夏を……!」
「私はその言葉に何故、だね。光栄だと思いたまえ。キミ達は、僕の最高傑作となったのだから。――まあ、強いて言えば、キミが不幸だったからさ」
「俺が、不幸……?」
「ああ。スパルトイからもらった情報だと、キミは自分の楽しみもろくにせず。妹を養うだけの毎日だったらしいじゃないか。それは不幸以外の何者でもない。不幸は報われて然るべき、と思ったからさ」
 この男は、本当に自分とは真反対の人間なのだと。
 春は確信した。そして、最後に残っていた冷静な部分も、熱にやられて消え去る。
「違う……! 違う!! 俺は、満足だった! 夏が幸せそうに笑って、それだけで幸せだった! あの笑顔が、俺の生きる理由だったんだ!!」
 宝物だ。笑って、泣いて、怒って、また笑って。そうやってくるくると表情変える夏が、春には宝物だった。
 それを、目の前の男が踏みにじり、行きがけの駄賃とばかりに唾まで吐いていった。
 腹の底から、どろりとした熱い物が昇ってくる。初めてのことだったが、戸惑わない。
 春はただ、その衝動に身を任せるだけ。
「フ……ッン、ガアアアアァァァァ!!」
 力一杯手を持ち上げると、意外にも手錠はすんなりちぎれた。
 足首の手錠も、最初から無かったかのようにちぎれ、春の身は半分自由になった。
 残すは、自分を閉じこめている透明なアクリル板のような壁だけだが。それも、問題なく拳打で破壊した。
 中から蛍光色の液体が溢れだし、春の体は完全に自由となる。
 濡れた体を包む空気は冷たい。だが、頭は完全に茹だっている。
 男が軽やかに口笛を吹いた。
「まるで猿人だ。下品すぎる」
 男との距離は約五歩。それを、春は一瞬で詰めた。
 拳を振り上げ、それを男の顔面に叩き降ろす。
 しかし、渾身の拳は男の掌にすっぽりと収まっていた。
「覚えておきたまえ。僕の名前は天使天。キミの創造主だ」
 熱々の焼き印を脳に直接押し当てた様に、その名前は春の頭にしっかりと刻まれた。
 天使は軽くぽんと春の胸を押し、にやりと笑う。
「踊れよ」
 天使の足が白く、神々しい光で満ち溢れ、徐々に形を変えていく。まるで白いブーツでも履いているようだった。
 その右膝をゆっくりと上げ、刀でも振り抜く様に爪先を春に向かって突き出す。
 すると、どこからか無数の光線が春を襲い、思わず腕で頭をかばった。
 しかし、その光線はすべて春を避けていき、先ほどまで春が入っていたカプセルを破壊した。
 アクリルも焦げ、春が割った状態からさらに粉微塵。そのアクリルを支えていた機械の支柱も、中身の先がはみ出してバチバチと火花を上げていた。
「僕も、キミと同様に改造人間だ。キミに与えたものはそんな馬鹿力だけではない。――さあ、変身しろ!」
 血で濁った池の中に、ぽちゃりと石が投げ込まれた。その言葉は深く深く沈んで行き、波紋を広げて行く。そして、春は天使の人間とは思えない所業と、振るった足を見て、自分にもその力があるのだと理解した。
 そして、力を描く。魚が池を泳ぐように、くっきりとしたラインで。

「オオオオオオオォォォォォッ!!」
 春の怒りに呼応するように、春の体を炎が包む。
 そして、皮膚は黒く変色し、その上を赤い外殻が包み込み、全身を鎧の様に固めた。
 頭からは角が生え、首元には赤いマフラーが巻かれている。

「――すっばらしい……」
 快楽も絶頂。そんな顔で、芸術品でも褒めるかのように身悶える天使。
 春の姿は、まさしく鬼。自身の姿をも変える怒りに包まれた修羅。
「さあ! さあさあさあ!! その力を見せてくれ!」
 その声に釣られたワケではないが、春の体が動いた。
 ボクサーのように膝を曲げ大きく踏み込むと、その勢いと腰の回転を加えたショートレンジの右フックで、天使の顎を引っ掛けるように狙う。しかし、背中を反って避けられてしまい、腰が戻る力を利用して返しの左フック。
「おっ……と」
 しかし、それもまた同様に紙一重で避けられる。
「ははっ。今のは危なかったな!」
 なぜか心底楽しんでいるように笑う天使。
 普段の春なら好感を抱くほどいい笑顔だったのだが、今という状況では不可能である。
「いや……っ、しかしまだ! まだ足りない! 見せろ、キミのすべてを!」
 その言葉と同時に、天使が右足を振り上げ、春の顎を跳ね上げた。
「ぶっ……!?」
 弓なりに体が反れた所に、天使は先程の光線を出現させ、春を狙う。
「こ、んッ――のおおおお!」
 出現から発射まで、一秒にも満たないタイムラグの内に体を戻す。
反った勢いを利用して、天使の額に思い切り頭突きを喰らわせた。
外殻のおかげで春にダメージは無く、変身していない天使の額は割れ、血が流れていた。
 その頭突きで天使は体勢を崩してしまい、光線の狙いが上にズレて発射される。
 無数の光が真上に向かって飛び、天井に穴を開ける。そこから入ってきた白い月光で、薄暗かった室内の全貌が晒される。
「――っな、んだこれ」
 春が入っていたようなカプセルがいくつも列を作って並び、その中には夏を殺し、春をここまで拉致してきた骸骨が何匹も収まっていたのだ。
「一体だけじゃ、なかったのか……?」
「当然」
 その声に首が引かれ振り向くと、顔面流血の天使が笑っていた。まるで、子供が新しいおもちゃを自慢するような。そんな笑み。
「彼らは、改造人間にする素質はあったが、キミのように特別製にはなれなかった失敗作達さ」
「……ってことは、――こいつらも元は、人間だったのか?」
「もちろん。改造人間だからね」
 その瞬間、今まで感じたことのない感情が津波のようにどっと押し寄せてきた。
 目の前には、もう人ではない人間達が、たくさんいる。自分もその一人だが、もう人間の人生を謳歌できないのかと思うと、ノスタルジーとも言える感傷を覚える。それと同時に、目の前の男に対する怒りが倍増していくのも感じた。
「ふむ……。このダメージは、少しまずいな、遊びすぎたか」
 そう言うと、天使は指を弾き、速くて響く良い音を鳴らした。
 すると、大量のカプセルが一斉に開き、中から骸骨達がぞろぞろと這い出てきた。
「あ、天使……!! お前、まだ人の体を弄ぶ気か!?」
 拳を握り、自分の体を壊してしまいそうな程に狂う怒りをそれに乗せ、天使の頬に向かって思い切り叩き込んだ。口の端を切ったのか、そこから血を流している。白衣の袖でそれを拭う。
「……面白いことを言うな。弄んでなどいない。役に立たない人間を役に立ててやったんだから、感謝されてもいいはずだ」
 そう言って、ちらりと真上の穴を一瞥。
「ここの研究所も、もうお終いだ。あんな穴が開いてしまったのでな」
「待てェ!」
 春が追いかけようとした瞬間、春の目の前から天使が消えた。まるで霧が晴れるかのように。
「くっそ……!」
 目の前にあるのは、自分の心も、人生も失った歩く死体だけ。
 目の前の春を、その深く暗い穴のような目で捉えていた。
 だが、春にはわかる。
 人間の時にはなかった新しい心の部位が、キシキシと切ない音を立てて伝える。
 彼らが泣いている。くやしい、悲しいと叫んでいると。
 自分も改造されたから、少しだけわかる。
 あんな男に体を弄繰り回された挙句、人生まで狂わされたのだ。
「コ、ロシテ……コロ、シテ……」
 骸骨達が、口々に声を発していく。もう自分ではどうにもならない体から、魂を解放してくれと懇願しているのだ。
 その、痛々しい声を聞くと、春の目頭がじんわりと熱くなった。これは、もしかしたら自分の可能性だと思ったから。
 春はまだ自分の心を持ち続けているが、もし天使が言うように、春が特別製じゃなかったら、こうして天使の操り人形になっていたのだ。
 しかしこれからすることを思うと、いっそ自分も心を無くしていたかったと考えてしまう。
 ――俺が、この人たちを……。
 できればしたくはない。しかし春は、それは自分に与えられた役割、もしくは試練の様に感じていた。
「ごめん、なさい……」
 謝って、春は拳を握った。
「うううぁぁぁぁぁぁ!!」
  そして、骸骨達の群に飛び込んだ。
 骸骨達の中心で、嵐の様に骸骨達をなぎ倒していく。しかし、倒されるとわかっていても、まるで春がまだ持っている人間の心が妬ましいかのように、ワラワラと集まってくる。
 その時の音を、春は一生忘れないだろう。命がどこかへ飛んでいく音。殺してもらえる喜びや、楽しかった頃を渇望する心の叫び。それらすべてが、服にこびりついた血痕の様に、春の耳にべっとりとこびりつく。
 全員を倒し終える頃には、元から赤かった春の体は返り血で黒ずんでいた。
 目元から、薄くなった血の鮮やかな赤い線が落ちている。
 それがどういう涙だったのか、春にはわからなかった。
 天井に開いた穴を見上げ、そこに向かって跳ぶ。
 改造された足は、楽々と屋上にたどり着いた。
 どうやらそこは、桜木町から少し離れた場所にある廃工場だったらしく、遠くにはランドマークタワーと、その根本に広がるライトアップされた横浜の街が見える。
 そして、それがショーウィンドウの向こう側に広がる宝石のように、手が届かないモノにも見えた。
 それでも春は、街に向かって跳んだ。できるだけ、その宝石に近づくために。
 それからどうしようかは考えていなかった。夏はもういないし、この体では店長にだって会えない。そういういろいろを、忘れたかったのだ。
 民家の屋根から屋根を行き、ランドマークタワーに向かって跳ぶ。それでどうなるわけでもない、ただ自分が街から拒絶されそうで、できるだけ中心にいたかった。
 そんな春に同情したのか、空が泣き出した。
 雨が春の血を洗い流し、先ほどの戦いで火照った体を冷やしてくれる。
 元の鮮やかな黒と赤の体に戻っていき、春は地面にビルの屋上に着地した。
 もう関内についたのだろう。少し行ったところには横浜スタジアムが。下には道路と、そこを行き交う車の光線が蠢いている。改造された所為か、百メートルはあるだろうビルの屋上にいるのにも関わらず、ナンバーから乗っている人間の顔まで、しっかりと見渡せる。
 楽しそうな顔が多いことに気づいて、何の気なしにそれを見つめた。光と音の数だけ、そこには人がいて、生活をしている。今までは何も考えず、何も思わずその光を見て音を聞いていたが、そこから弾き出されて初めて、それを美しいと感じていた。ただ生きているだけで、人間とは美しいのだ。
「俺にも……」
 俺にも、そんな美しさがあったのだろうか。
 呟こうとして、やめた。
 それをしたら、本当にその美しさ失いそうだから。
「……これからどうしよう」
 夏と天使の行方を探したいが、手がかりが無さすぎた。
 とりあえず、一番高いランドマークタワーにでも向かおうと決め、そちらの方を向くと、頭に電流が走った。
「……なんだ?」
 バチバチと弾けた音を鳴らしながら、頭の中を駆け巡る電流は、徐々に形を成していく。
 一人の少女の背中。どうやら走っているらしい。怯えた表情でしきりに後ろを振り返り、なにかから逃げているらしい。まるで、その少女を追っている人間の視覚が春に流れてきているようだった。
 その視覚を元に、春はその場所の手がかりを探した。どこかの路地なのは間違いないが、決定的な手がかりがなく、半分諦めかけたその時。視界の隅にとある看板が目に入った。それは、春が働いていた店の看板。そこに少女がいる。
 確信した春は、その方角に向かって跳んだ。
 春がいた場所からそこは遠くはなかった。それに、改造された春にはほとんど無尽蔵の体力と強化された身体能力がある。
 ほとんどトップスピードを維持したまま、一分ほどでその場所についた。
 春の働いていたレストランから路地を二、三本曲がったところにあるマンションの建設現場は、周りがベットタウンなため、多少の騒ぎくらいなら見逃されるだろう。
 少女はその建設現場の、骨組みが積まれた一角で、あの骸骨に追いつめられていた。どうやら春に流れてきた視界は、あの骸骨から流れてきていたようだ。
「あいつ……俺や夏にしたことを、あの子にもする気か……!?」
 それだけは、許すわけにいかなかった。
 夏の無残な最後が頭をよぎると、全身に力が溢れ、思った瞬間には体が動いていた。
「っづああああッ!」
 その声に気づき骸骨が振り向いた時には、その頭はサッカーボールのように遥か遠くへ飛んでいた。春の蹴りが、そこまでの威力を放ったのだ。
 倒れる骸骨の体。そして、それと入れ替わるようにその位置に立つ春。少女を見て、「大丈夫?」と声をかける。しかし、少女の瞳には、恐怖の色しかなかった。骸骨の化け物に襲われたかと思えば、その骸骨を殺した鬼が話しかけてきたのだ。結果がどうあれ、怯えるのも当たり前。
「や、こ、ないで……!」
 水分をたっぷりと含んだ果実のような、潤った唇を震わせながら怯えた声を出す。
フレームレスのメガネ越しに見えるぱっちりと大きな瞳。長く黒い髪は雨の所為で頬に張り付いてしまっている。ねずみ色のパーカー、そしてクロップドジーンズとスニーカーという格好から察するに、近所に出かける最中に骸骨に襲われたらしい。
 春はその言葉に俯き、
「わかった……」
 とはっきり言った。
 すると、まさか了承されるとは思っていなかった少女は、「……え?」と小さく声を出した。
「見逃す、の……?」
「見逃すもなにも、俺は……」
 それ以上は言わなかった。
 キミを助けようとしたんだ。そう言って、どうしようというのか。
 自分の見た目がどうなっているかはわからないが、どういう感情を周りに与えているかは、なんとなくわかる。拳は血に染まり、人間にはない外殻が自分の体を覆っているのだ。
 そんなもの、恐怖しかないに決まっている。
「もしかして、正義の味方、とか……ですか?」
「違うッ!!」
 少女の肩が、びくりと跳ね、顔がひきつった。
「……俺は、正義の味方じゃない」
 誰一人救えなかった、先ほどの光景が脳裏を流れていく。
 助けを求める夏を見捨て、骸骨にされた人たちを救えなかった自分とは、一番遠い言葉。
「俺は、偽善者だ……。妹を見捨てて……逃げた。守るって、言ったのに」
 あんなに大事な笑顔だったのに。それを置いて、自分の命の方が大事だと言わんばかりに、全力で逃げた。その、汚い自分の奥底が、春には許せなかったのだ。
「妹さん、がいたんですか……?」
 こくりと頷く春。少女は、恐る恐る角から出てくる。
「……どんな子?」
「よく、笑う子だった。……辛いことばかりだったはずなのに。それでも、なんでもないみたいに笑ってる、強い子だった」
 自分が支えているつもりだった。しかし、気づけば支えられていた。
 夏という支柱を失った時、自分はなんて脆いのだろう。そんな自分が、春には情けなかった。
「俺は、そんな夏に甘えてた……! それを、失ってから……!!」
 気づくのが遅すぎた。人は、失って初めて、自分の持っている物の本当の価値に気づくというが、それが本当だったと痛感していた。
 夏がいないというだけで、これからどうしていいのかが、春にはわからない。
「……人間みたい、ですね」
 不意に、少女がそんなことを言った。
 俯いていた春は顔を上げ、よくわからないまま少女の顔を見つめる。
「……鬼さんは、人間みたいですね」
 鬼さんという言葉が、一瞬お兄さんと聞こえた。
 それと同時に、自分が鬼のような姿であることも自覚する。
「俺が、人間……? こんな姿で?」
「……怒らないで欲しいんですけど、そういう、イジイジクヨクヨしてる感じが。すごく人間っぽい」
 その言葉の受け取り様が、酷く複雑だった。
 普段なら怒る所だが、今の春には人間っぽいという言葉が嬉しく思えたのだ。
「……でも、俺はもう、人間じゃない」
「もう? ……もしかして、鬼さんは元人間なんですか?」
 元人間という言葉に、春は自嘲気味に頷いた。
「なんで、そんなことに……」
「……改造されたんだ。妹ごと」
 それから春は、見ず知らずの少女に、自分がされたこと、してしまったことを話し始める。
 少女はその話を、時折頷くだけで、黙って聞いていた。
 二人して雨に濡れながら、悲劇の顛末を刻みつける儀式の様に。
「……ごめんなさい」
 話が終わって、少女の第一声はそれだった。
 春は、なにを謝られているのかわからず、なにも言えなかった。
「鬼さんがそんな辛い目にあったのに、……私、怖がっちゃったから」
 小さく嗚咽する少女。雨でわかりにくいが、泣いているようだった。
「キミが泣くことじゃない。なにも悪くないんだから」
「うん。……っ、でもやっぱり、わかってあげられなかったから」
 春は、少女の頭を撫でようとして、やめた。
 血に汚れた手で、彼女に触るのは失礼だと思ったから。
「……でもっ、それと同じくらい、もったいないと思うんです」
「もったいない?」
 なにがだろう。わからないでいると、彼女は力強い声で言った。
「そうやって、イジケてるのがです」
 もう彼女の嗚咽は止まっていた。春の鼻を指さし、続ける。
「妹さんを守れなかった。それは仕方ないと思います。その時は力がなかったから。でも、今は違うじゃないですか」
 そう言って、彼女は春の手を取った。
 しかし、春はそれを振り払う。
「触っちゃダメだ……この手は、人殺しの手だから」
 じっと掌を見ながら、そう呟いた。
 雨で多少なり汚れは落ちたが、それでもうっすらと血が残っていた。
 それでも彼女は、その汚れをまったく気にしていないかのように、また春の手を取った。
「それは関係ない。あなたは、救おうとした。……それ以外の道は、なかったんですよね?」
 すこしためらって、春は頷いた。
「でも、あなたはそれを、罪だと思ってる。……だったら、罪は償いましょう」
 そう言って、彼女は春の手をしっかりと握り、力強い瞳で春を見た。
「さっき、あなたは私を助けてくれた。私にしてくれたみたいに、いろんな人を助けてあげてください」
 それが、償いになるはずです。そう言って笑う少女の顔に、夏の顔が重なった。外見はまったく似ていないのに、心根の部分は酷く似ていた。
「……俺に、正義の味方になれって?」
「そう。赤いマフラーは、正義の印でしょ?」
 少女が春の首元を指さした。
 春はそのマフラーを掴んで、じっと見つめながら呟く。
「正義、か……」
「はい。正義を貫くヒーロー。あなたには今、それだけの力があると思います」
 そして少女は、自身を斗賀ノキだと名乗った。春も自分の名を告げると、なぜか少女が何かを思いついたような笑顔を見せる。
 その時、春の肌がゆっくりと色を変え、形を変え、人らしい柔らかな肌に戻っていく。心が怒りを収めたように、春の変身が解けた。
「あれ……? 人間に、戻れたの?」
 春も今、はじめて知った。
だが確かに、人間から変身したのだから、人間に戻れてもおかしくはなかった。
「うん、優しそうな顔してるね」
 少女の言葉になにを言っていいかわからず、春は曖昧に頷いて、「ありがとう」とだけ言った。
「ねえ、あなたのヒーローとしての名前、フェイクマンってどう?」
「フェイク……?」
「そう。さっき、偽善者って言ったじゃない? その『偽』」
 フェイクマン……。その名前を、口の中で何度も繰り返した。
 確かに、名前の由来も意味も、自分にぴったりだと春は思った。
 
 御堂春はその日フェイクマンとなり、妹に似た少女に誓った。
 自分の罪を、キミからもらった名前で償い続ける、と。

     

 6 風祭優―ヴァーユ―

「――なんなんだ、あれは」
 風祭優は、ヴァーユの姿のまま、ビルの屋上の縁に足をかけ、隣のビルへと跳んだ。
 空中でくるりと回転して勢いを殺し、着地。そして疾走。
「私以外に、意思を持った改造人間がいたのか……」
 恐らく、天使製だろう。
 改造人間を作れる人間が、そうそう何人もいるはずがないからだ、と優は思う。
 しかし、絶対に自分より旧型であろうあの改造人間の戦闘力はなんなのだ。
 それだけが彼女の疑問。まだ彼女が改造人間として生まれ変わってから、まだ一ヶ月ほどしか経っていない。その間、天使が改造人間を作っていた様子はないから、優が最新型のはず。
 本来なら、圧倒してもおかしくないスペック差があったはずなのに。逃げざるを得ない状況に陥ってしまった。
 ふと、あの謎の改造人間の正体が知りたくなり、耳に手を当て、通信回線を開いて天使へコール。
「もしもし」
 数回のコールの後、楽しそうな声がした。
「ヴァーユです。今大丈夫でしょうか」
「ああ、大丈夫だ。今は体のメンテナンスをしていた。定期的にしないと、機械の体だからね。――で、どうした」
「……実は、ゲームの最中に邪魔者が入りまして」
 ほう、と意外そうな声。天使も、優の邪魔をできる人間がいるとは思っていなかったのだろう。
「続けたまえ」
「はい。そいつは恐らく、天使博士の造った改造人間だと思われます」
「僕の?」
 電話口の向こうが静かになり、天使の息づかいだけで満たされた。
 それから数拍。「もしかして、赤い鬼、じゃないか?」と言った。
「はい。……やはり、天使博士の――」
「――そうだ。私の最高傑作、アスラ」
 優の頭の中にある情報では、インド神話にそんな名前の登場人物がいた程度のことしかなかった。そんな優の戸惑いを察したのか、天使は言葉を続ける。
「インド神話、バラモン教、ヒンドゥー教における魔族の総称……。そして、阿修羅の語源。それが、彼の名前の由来だ。近接、中距離格闘メインで設計した」
「……では、私とは相性がいいんですね?」
「まあ、そうだね。武器の相性だけで言えばね。……でも、それだけじゃ戦いには勝てない。向こうには実戦経験があるし」
 確かにそうだ。
 横浜スタジアム内での戦闘。あの時、絶対的に自分が有利だとありもしない自信を作り、結局は逃げる羽目になってしまった。あれは確かに、自分の経験不足が招いた事態だ。
「でも、次は勝ちます。もう私は、戦いを知りました」
「ぷっ、はっははははは! ……戦いを知ったか。それはいいことだ」
 なぜ笑われたのかわからなかったが、優は天使の言葉を待つ。
「しかし、僕はできるだけ、念には念を入れておきたい性格なんだよ。一回帰っておいで。新しい弾丸をあげよう」
 自分の力が信用されていないようで少し不快だったが、優は仕方なく「わかりました」と頷いて、電話を切る。
 そして再び、足を優れたバネにして、エンジェルブレイン社へと跳んだ。

  2

 それから数分後。
 優はエンジェルブレイン社の地下、天使個人の研究所にいた。優が潜入した時に着ていた服を天使から受け取り、それを着ながら、天使が自分の弾丸を作り終わるのを待っていた。
 スパルトイが入ったカプセルから漏れる淡い黄緑の光を頼りに、シャツのボタンを閉じ、ネクタイを締め、ズボンを穿いてベストを羽織り、帽子を被った。
「……私は、いったいどういう経緯で、ここにやってきたのだろうか」
 彼女には、改造される以前の記憶がない。
 目を覚ました時には、目の前の天使を崇拝する心だけが残っていた。
 そんな彼女に、天使はこう言った。
『キミはね、生まれ変わったのさ。愚かなネズミから、天の使いにね』
 ということは、ネズミだった頃の自分がいるはずなのだ。
 この服を着て、生きていた自分が……。
 感慨深そうに、彼女はベストの位置を正す。
「……ん?」
 右のポケットが重い。なんだろう。
 ポケットに手を突っ込むと、中には大量に物が詰まっていた。
 どうやら野ネズミだった頃の自分は大ざっぱだったらしい。今の私からは考えられないな。
そう思いながら、ポケットの中身を取り出す。
「……アメ?」
 入っていたのは、チュッパチャップスと書かれたアメだった。
「昔の私は、これが好きだったのか?」
 包み紙を剥がし、そのアメ玉を口に含んだ。
「ん……甘くて美味しいな」
 懐かしい甘さだった。子供の頃に食べたラムネの様な、消えかけた味。
 それは優の心の奥底にあった、記憶を失う以前の記憶が、少しだけ蘇る。
「ああ、そうだ……私は探偵だった」
 横浜を愛し、探偵を愛し、自由に生きてきた。
 こんな風に、誰かに操られるんて許す人間ではなかったはずだった。
 いろいろな制約はあれど、できるだけ自由な探偵でいるのが、自分の生き方だったはず。
 そこまで思い出したが、優にはまだ足りないものがあった。
 それは自覚。その感情、記憶が自分の物だという自覚が、洗脳された頭では持てなかった。
「……私は、探偵だったのか?」
 探偵? 探偵とはなんだろうか?
 それを考えると、頭がきりきりと痛む。
「う、ぐうう……。わ、私は……探偵、風祭優? ――違う、戦士、ヴァーユだ……」
 さながら、内側で何者かが暴れている様な苦痛が、優を襲う。もう一人の優が、内側で暴れているのだ。あたしの体を返せ、あたしの体を返せ、そう荒々しくドアをノックしている。

「どうした? ヴァーユ」

 顔を上げると、奥の小部屋から出てきた天使がいた。内側からの叫びを必死で押さえ込み、冷静な顔で小さく首を振る。
「いえ、なんでもありません。――ところで、新しい弾丸は?」
「ああ、出来たよ。これだ」
 そう言うと、手に持っていたジェラルミンケースを優に放り投げた。それを軽々とキャッチし、カギを開ける。
「これが、私の新しい力……」
 ジェラルミンケースの中には、まるでライフルの弾の様に、先の尖った大きな弾丸が六つ入っていた。その一つをつまみ上げ、目の前に持ってくる。小さく英語が掘られており、ゆっくりとそれを読み上げる。
「は……り……?」
「ハリケーンだ。射抜いた相手の体内に留まり、嵐のごとく体の中をかき回す破壊の弾丸」
 天使は灰色の箱をポケットから取り出し、それを一振りすると、茶色のタバコが飛び出した。
「それは……タバコですか?」
 口にくわえ、火を点けながら天使は頷いた。
「ブラックデビルというタバコでね、チョコの味がするんだ」
「……へえ」
 それはタバコとしてはどうなのだろう、と首を傾げそうになるが、心の中だけに留めておく。
「まあ、僕の名前には合わないが、僕は甘い物に目が無くてね」
 そう言いながら、優のアメをじっと見ている。
 あまり渡したくはなかったのだが、優は仕方なくポケットから一つ、天使に投げた。片手で楽々とキャッチして、包み紙を見る。
「バニラ味か。ありがとう」
「いえ」
「ああそうだ。それから、アスラの弱点も教えておこうかな」
 一瞬、彼女の中でプライドが吠えた。そんな物知らなくても勝てるというプライド。だがそのプライドは、天使の為を思うなら、できうる限り失敗の目は潰しておくべきだという忠誠心に潰された。
 一瞬だけ間を開け、優は口を開く。
「……その、弱点とは」
 結局、忠誠心が勝った。それを見て天使は満足そうに頷く。
「彼はね、未完成なんだよ」
「……は」
 それは、逆に絶望感を高めるのではないだろうか、と疑問に思った。
 あれだけの戦いをして、まだ未完成というのは、優のプライドを酷く傷つける事実。
「だから、一日に変身していられる時間には限度がある。……だから」
「時間をかける戦い方をしていれば、勝てる……と?」
 そういうこと。と言って、天使は携帯灰皿に灰を落とした。
「今日はもう休みたまえ。キミも、強がってはいたが初めての実戦だったんだ。疲れているはずだろうし」
 甘い物を欲しているのが、その証拠だよ。と言って、天使はまた奥の部屋に引き返していった。また自分の体のメンテナンスでもするのだろうな、と優は思った。
 彼はまるで、自分の体を愛するかのように、夢中でメンテナンスを行う。自分の体も作品の一つなのだから、ある意味気持ちはわからなくもないが。優には理解不能な領域である。
 しかし、理解など必要ない。
 天使への忠誠のみで充分。
 それだけが、彼女が彼女であるという証明。
 優は、体の底から聞こえる声に向かって言った。

「私は、風祭優じゃない……戦士、ヴァーユなんだ……」

     

 7 御堂春―フェイクマン―

 車内の空気が一気に最下層まで沈殿した。
 春自身、理由はなんとなくわかっているが、語った後に自分から何か言うこともなんとなくしづらい。
「……春くんも苦労してるんだねえ」
 しみじみと、先程まで黄色い声を上げていたとは思えないほど大人びた声で珠子は言った。
 少しだけ照れた様に、春は笑う。
「まあ、もう過ぎたことですから」
「――御堂さん、ノキちゃんのこと、とても大事に思っているんですね」
「そうですね」アキラの言葉に頷き、春はノキの笑顔を思い出した。あまり笑わない子ではあるが、笑ったときはとても可愛らしい。
「あの子に救ってもらえたから、俺は人間でいられたんです。体は人間じゃなくなっても、心だけは人間でいようって思えたんです」
 春の中で、ノキは夏と同じくらい大切な人間になっている。
 夏は守れなかったが、今度こそ、ノキは守ってやろうと思ったのだ。
「……まあとりあえず、次にやるべきは風祭さんを天使から解放することですよね」
 アキラはハンドルを切りながら、「風祭さんには、どうやって勝つつもりですか?」と春に問うた。先程の戦闘を思い出し、少し悩んでから春は答える。
「優に勝つには、実戦経験の少なさにつけ込むのが一番だと思います」
 御堂春は、鳴海アキラと水島珠子の車の後部座席に座り、目の前に座る二人に向かってそう言った。
 コーヒーベルトに向かう最中の道が窓の外に見え、あと少しでコーヒーベルトだ、と春は考えた。
「実戦経験、ですか」
 アキラはオウム返しで、頭の中に実戦経験のリアリティでも求める様に黙り込んだ。
「それって、料理の隠し味みたいなこと? プロからしたら、仕上げに塩を入れるのは当たり前だけど、アマチュアには知られてない、みたいな」
「そうですね」春は頷いた。料理人志望だった春には、珠子の喩えはわかりやすい。アキラも「なるほど」と呟きながら、アゴの先を揺らしている。
「風祭さんは、塩を入れてない側なんですね」
「で、俺が入れてる側」
 春は、自分の鼻をにやにやしながら指さした。
 アキラがなぜか苦笑している。
「槍は投げることもできる、そこまでは予想していても、あの槍が破砕するとは思っていなかったんですよ。優は」
 アキラと珠子は黙っている。どうやら、春が言ったことがなにを意味するのかは、わからないようだ。
「そもそも槍が破砕するのを予想しろ、って方が確かに無理です。……でも、俺たちは改造人間。人間だった頃の常識なんて、戦闘時には役に立たない」
 すでに存在自体が普通ではないのだ。
 そんな自分たちが、おかしい、ありえない、普通じゃないなんて。鳥が空を飛べることを信じていないような物。春はそういう事を言っていた。
「だから、そこを突けば……勝てるはずです」
 自分にその言葉を染み込ませる様に、春は拳を掌に打った。
 ぱちん、という音が車内に響き、車がゆっくり止まった。
「コーヒーベルトに着きました」
 アキラの声で窓の外を見ると、いつの間にかコーヒーベルトの前に車が停まっていた。
「あ、……すいません。ありがとうございます」
 軽く頭を下げると、アキラが胸のポケットからケータイを抜き、なにか操作している。
「御堂さん。ケータイのアドレス、教えてください。なにかあった場合、すぐに連絡するので」
「あ、わかりました」
 春もジーンズのポケットからケータイを取り出し、自分のアドレスを呼び出し、アキラと赤外線でアドレスを交換する。
「あ、私もー」
「はいはい」
 珠子と交換する意味はあまりなかったが、アドレス帳は一人増えれば、なぜかその分幸せになるし、断る理由はなかった。
 アドレス帳に二人の名前が追加された春は、二人に頭を下げ、車から降りた。
 パワーウィンドウが落ち、珠子が顔を覗かせる。
「そんじゃね、御堂くん」
「はい。また」
 身を乗り出す様にし、珠子の太ももの上に体を持ってくるアキラ。
「何かあれば、私たちにすぐ連絡ください」
「やーん、鳴海くんのえっちー」
「何を言ってるんですか……」
 頭を抱えるアキラ。顔を赤らめ、身を捩る珠子。
 そんな二人を見ながら、春は微笑み、「はい、わかってます」と頷いた。
 心の端っこで、自分がカップルのデートに乱入した様な気まずさを覚えながら、コーヒーベルトへと戻っていった。
 ドアベルがからんからんと鳴り、コーヒーの香りが春の鼻をくすぐった。
「おかえり、春」
 カウンターの中で、変わらずグラスを磨いている薫がいた。
「さっき、アキラくん達がお前を探してたぞ」
「ああ。会いました。それで、送ってもらったんです」
 会えたか、よかった。薫はそう呟いて、またグラス磨きに集中し始めた。
「なんの用だったんだ? アキラくん達は」
「……えーっと、改めて、この前のお礼が言いたいって」
「あんなに慌ててか?」
 どんだけ慌てたんだ。頭を掻いていた春の手が固まった。
「な、なんか急ぎの仕事でもあったんじゃないかな……。急いで帰ったし」
「ふーん。……まあ、公務員だって言ってたしな。忙しいのはいいことだ」
 店を見回し、春はその言葉に頷いた。
 コーヒーベルトはリピーターが多い物の、客は平均して少ない。席は殆ど空席。
 それで店が成り立っているのは確かにありがたいのだが、店員としては、もう少し目に見える仕事が欲しいと春は思う。
「ん? もしかして春、ここの店の心配してるのか?」
「うっ……」図星でとっさになにも言えず、渋々頷く。
「ここはこれでいいんだ。満員の喫茶店って、どこか風情がないしね」
 薫の意見もわかるのだが、それは客側の都合も入っているような気がした。
 彼は喫茶店好きが高じて喫茶店を開いてしまった男だ。その経営理念にも、喫茶店利用者としての主観が入ってしまっているのかもしれない。
「……まあ、薫さんがいいなら、俺もいいけど」
 結局、すべては主人である薫が決めること。
 最初から突っ込んだ話しをするつもりなどなかった春は、そう言って話を切り上げる。
「手伝うことあります?」
 そう訊くと、薫はグラスに目をやったまま首を振ったので、春は靴を脱ぎ、階段を上がって自分の部屋に戻った。
 白の壁紙とフローリングの細長い廊下にいくつかあるドアの内、一番奥にあるドアを開け、中に入った。
 そこは生活感が極限まで排除された部屋だった。
 六畳ほどのフローリングには、窓際に備えられたベットと、所々虫食い状態の本棚が置かれており、隣には小さなチェストが一つ。
 春の趣味、というより、お金がないからこの状態に留まっている、と言った方が正しい部屋。
 春は上着を脱ぎ捨てると、そのベットに倒れこみ、疲労をベットに落として行く。
「……二度の変身で、大分体力を持ってかれたなあ」
 変身は、一度なら問題はない。しかし、二度三度目ともなれば、それに応じて体力が持っていかれる。まだ春は試していないが、恐らくは一日に変身できる限度回数があるはずだ。
 うつらうつら、と春のまぶたが重くなっていく。最初は抵抗したが、次第に馬鹿らしくなっていき、その眠気に身を任せることにした。
 もう少しで落ちそうになった時、ドアのノック音が聞こえた。
「……はぁい」
 まどろみの中、気持ちよさそうな声で返事をする。ドアが開くと、ノキが顔を覗かせた。
「あれ、春くん……疲れてるの……?」
「うん……ちょっと、変身しすぎたみたいだ」
 大股でベットに近寄り、ノキが春の隣に座った。
「そっか。今日も人助けしたんだ……」
 自分の事の様に誇らしげに、ノキは笑う。
 その笑顔を見るだけで疲れがどこかへ飛んでいくような錯覚を覚える。もちろん、錯覚なので実際には疲れたままだが。
「……もしかして、アキラさんたちの要件って、それなのかな」
 話すべきかどうか少しだけ迷ったが、春は夢心地のまま、先程あった事を呟いていく。
 それを、時たま頷いたり、相打ちを打ったりして、ノキは大人しく聞いていた。
 すべてを話し終わった後、ノキの顔は明らかに困惑の色に染まっていた。
「優さんが改造されたって……本当?」
「うん……。変身解除を見たわけじゃないけど……アキラさんが、変身を見たって」
「そっか……」
 困惑の色はさらに濃くなり、悲しみの色に変わった。
「……春くん、優さんのこと、絶対に助けてあげてね」
「うん。大丈夫。……絶対に、助けるから」
 春の意識は、ゆっくりと沈んで行く。ノキの笑顔を見ながら、春は心地いい眠りについた。

  2

 バチバチと頭の隅で音がした。
 その音に意識を引き上げられ、春は目を覚ました。もう夜なのか、外は暗く、明かりの点いていない部屋は月明かりだけが差していた。ベットの縁では、ノキが静かに寝息を立て寝ていた。
まだ疲れは取れていないが、動くのに問題はない。そのまま、その音に意識を集中させ、頭の中に街の地図を展開させる。
「この波長……優さんだ」
 行かなきゃ、と体を起こす。場所は山下公園。決着をつけようとしているのか、動く気配はない。
「……」
 体力が心配だが、ここで行かない訳にはいかない。
 春はベットから降りて、少ない体力を奮い立たせる様に頬を叩く。
「ん……春くん……?」
 その頬を叩く音で起きてしまったのだろう。ベットの上で寝ていたノキが、眠そうな声を出す。
 振り向いて春は、「ちょっと出かけてくるね」と言って、ドアノブを掴む。
「あ、春くん……上着、忘れてるよ」
 ノキはダルそうにベットの上に置かれていた春の上着を投げた。
 それをキャッチし、「ありがとう」と言って袖を通す。
 その時、右のポケットに入っている物の重みが肩に乗り、それを取り出した。
「……ケータイ」
 アキラに連絡しようかどうか、迷った。
 彼らなら、すぐに来てくれると思う。が、改造人間同士の戦いに巻き込むのは、抵抗があった。
「……ノキちゃん。これ、置いといて」
 と、ノキに向かってケータイを投げた。
 危なっかしい手つきでそれをキャッチし、彼女は首を傾げる。
「え、なんで……?」
「いや、ちょっと集中したいし……。戦いで壊れたら、嫌だからさ」
「戦いに行くの? ……もしかして、優さん?」
 春は黙って頷く。
「……優さんの事、よろしくね」
「もちろん」
 心配そうに目を伏せるノキを安心させるかの様に、春はできるだけ、明るい笑顔を見せた。
 彼女を不安にさせる様なマネは、できるだけしたくなかったから。

  3

 山下公園。
 横浜有数のデートスポット。目の前に見える海からの風、静かで緑とムード溢れる佇まい。
 フェイクマンに変身し、ビルからビルへ飛び移り、大体三分ほどで到着。
 その中心のエリア、海に面した場所に、優はいた。
「……優」
 海からの潮風で飛びそうになる帽子を押さえ、口にアメをくわえていた。
 一瞬、記憶が戻ったのかと思ったのだが、春を見る目には敵意が混じっているのを感じ、気を引き締めなおした。
「違う。私はヴァーユ。天使博士の忠実な戦士」
 舐め終わったアメの棒を吹き出し、地面に落とす。
「アスラ……。天使博士から、あなたを生け捕りにしろと命ぜられました。あなたも天使博士から力をもらったんでしょう? だったら、それを天使博士の為に使うのが道理では?」
「俺はアスラじゃない。フェイクマンだ。……それに、夏を――妹を殺した天使に従うなんて、死んでもいやだ」
 マグマの様に熱く、どろどろした物が、腹のそこから溢れ出てくるのを春は感じていた。全身に力が籠もり、声が出そうになる。
 天使に改造された夜も感じたそれは、怒りだ。あの時は悲しみの為に怒り、今は復讐の為に怒っている。
「交渉、決裂」
 ざわざわと優の周りの空気が騒ぐ。それに呼応するように、彼女の見た目が変化していく。
 昼間、横浜スタジアムで戦った改造人間。ヴァーユになった。
 右のふくらはぎに巻かれた銃を抜き、春に銃口を向け発砲。
 破裂音がするより一瞬早く、春は横へ跳んだ。
「……っ」
 いきなり発砲されるという事実に心臓の鼓動が跳ね上がる。
 それでも、春はすぐに、怒りを体全体に馴染ませていく。
「うぅぅぅぅ……っがぁぁぁぁぁぁッ!!」
 月に向かって、狼の様に叫ぶ。
 全身から骨が突き出し、皮膚が硬化、変色していき、フェイクマンへと変わった。
 その時、恐らくは夜のデートに洒落こんでいたカップル達の悲鳴が聞こえる。
 フェイクマンは、それをちらりと一瞥。優は見すらしない。
 逃げて行く彼らを放っておき、フェイクマンは右腕にあるガントレット状の外殻をスライドさせる。そこから槍と飛び出し、地面に突き刺さって小さく振動した。
それを抜き、柄を脇に抱える。二人の間には、風の音だけが存在していた。
 優は間合いが圧倒的に有利なこともあり、自ら動かなくとも大丈夫だという余裕があるのだろう。しかし春は、そうも言っていられない。彼には、一日に変身できる回数と、時間が決まっているのだ。その限界を自分で知らない以上、ここはフェイクマンから動くしかない。
 取るべき手段は一つだけ。
 ――限界に達する前に、倒す!!
「おぉぉッ!」
 全力で地を蹴り、距離を詰める。フェイクマンとヴァーユの間には三十メートルほどの間があったのだが、そんな距離は改造人間にとって無いに等しい。
 空中で槍を構え、目にも止まらない連続突きを繰り出す。
 しかし、ヴァーユ一瞬の間に放たれた無数の斬撃を、銃の腹で受け流していた。
「な……」
「どうしました、アスラ……パワーが落ちているんじゃないです、っか!!」
 空中で身動きの取れないフェイクマンの腹を右足で思い切り蹴り上げる。
「ぐ……ぇえ」
 いくら変身し、全身の強度が上がったとは言え、急所の腹を改造人間の脚力で蹴られては、大ダメージである。
 そして、優は銃を回して持ち直し、グリップで春の顔をを殴る。
 いくら改造されているとはいえ、春の心はただの人間である。顔を殴られれば、戦意は途切れる。そんな場合ではないとはいえ、一瞬の隙ができる。
 ――つまり、春の動きが一瞬止まってしまう。
「ッ!」
 春にも、それなりの経験がある。スパルトイと戦った数戦。だから、その一瞬の重さを知っている。
 距離を置こうとした刹那、すでに銃口は春へ向けられていた。
「くっ!」
 全身の筋肉を硬化。衝撃に備える。
 空気が弾ける凄まじい音がして、左腕に鋭い痛みが走った。その痛みに悶えるかの様に、左腕が後方に向かって飛び、フェイクマンの体が飛んだ。
 ――あの銃、威力上がってる……!
 背中を石畳で摺り、左腕から流れてくる血液を見て、春は背筋が凍った。
「あなたの弱点。それは、自分より格下としか戦っていないこと」
 無傷の右腕で地面を押し、ゆっくりと立ち上がる。ダメージ、そして体力の双方を計算し、戦える時間を導き出そうとした。そんな春の考えなど知らず、ヴァーユは喋った。時間を稼ぐために。
「アリを捻り潰して、『俺は戦いを知っている』なんて言う様なものだったんですよ。そもそも、私達成功作と、失敗作のスパルトイじゃ、勝負になんてならないのに」
 ――だから、実戦の怖さも知らず、戦えるなんて錯覚を起こした。
 ヴァーユはそう言って、一歩踏み出す。
「く……そッ」
 先程、アキラに言った言葉が頭の中で反響する。

 風祭さんに勝つには、実戦経験の少なさにつけ込むのが一番だと思います――。

 それは、自分にも言えることだったのだ。
 喧嘩もしたことがなければ、スパルトイとしか戦ってこなかった自分が得られる経験とは、一体なんだというのか。
 一方のヴァーユ――風祭優は、喧嘩慣れしている。
 喧嘩と殺し合いは確かに違う。が、違うのはなんだろうか。
 それは、殺すという意思表示。ただそれだけ。
 場数で言えば、優の方が圧倒的に踏んでいるのだ。
「……さあ、殺し合いましょう。アスラ」
「い……やだ」
「この状況で、まだ言えますか。あなたは左腕に風穴を開けられても、私を恨まないんですか?」
「そうだ。……悪いのは、お前じゃない。天使だから」
 そう言った瞬間。銃口から放たれた弾丸が、破裂音と同時にフェイクマンの右肩を貫いていた。
「ぐああッ!」
 また地面に倒れ、肩を押さえて痛みに悶えた。
 少しだけ体から熱が無くなっていき、代わりに血で染まったコンクリートが、少しだけ温かい。
 それでもフェイクマンは、立ち上がった。いつもより強い重力を感じながら、ヴァーユを見据える。
 睨むのではなく、子の行く末を心配する親の様な目で。
「……なんですか、その目は」
「別に……なんでもないですよ」
 そう言って、フェイクマンは槍を自分の前で壁を作る様に回し、ヴァーユに突っ込んでいく。
「ちッ!」
 バックステップと同時に、ヴァーユは発砲。
しかし、槍に弾かれてその弾はフェイクマンまで届かない。
 バックステップと全力の前進では、もちろん後者の方が速い。公園利用者が海に落ちないようにと設けられた柵で、ヴァーユの退路が塞がる。そして、適度な間合いに詰めたフェイクマンのフルスイングを思い切り脇腹に受ける。
「ぐぅぅぅぅぅぅぅぅッ!!」
 槍を伝って、骨が折れる様な小気味の良い音がした。
 フェイクマンの良心にもそれくらいのダメージがあったが、ヴァーユを優へ戻すという大事の前の小事。春は良心の軋みを無視し、打撃の衝撃方向に向かった優に向かってさらに畳み掛ける。
「セイッ!」
 槍を回転させ、刃とは反対の柄部分で腹を突いて押す。
「うぷ……ッ! ――んのぉ! 調子に乗るなぁぁ!!」
 槍を掴み、銃をフェイクマンの眉間に向けた。すこし頭に来ていたのだろう。生け捕りという命令を一瞬忘れ、引き金を引いてしまった。
 鼓膜に叩きつけられるような音と同時に、フェイクマンの首が跳ね上がる。
「痛っ……!」
 それでも、頭はフェイクマンの部位の中で一番防御力の高いところである。
 それなりにダメージはあれど、覚悟を決めたフェイクマンの突きを止められない。
 ヴァーユは作戦を切り替えたのか、槍を掴んでいた手で槍の柄の側面を軽く押し、力を反らすとすぐに脱出。そして、行きがけの駄賃とばかりに、フェイクマンの右肩、右足へ向けて銃を打つ。
 しかしそれを槍で弾くと、フェイクマンはすぐに槍の方向を転換。
ヴァーユに向けてさらに連続突き。
 銃の腹で受けつつ、ヴァーユは反撃とばかりに腕が伸びきったフェイクマンの懐に潜り込んで頬を思い切り振り抜いた。
「っのやろ!」
 弾かれた顔を正面に戻し、負けじとフェイクマンも槍を手放し、まるでヴァーユを抱き寄せるようにして頭突き。
 その衝撃で、鉄仮面が割れた。
「っつう……」
 しかも、鉄仮面を貫通し、ヴァーユにもダメージがあったらしい。
 額を押さえて、フェイクマンを睨んでいた。
「……っくそ」
 ヴァーユは、悪態と同時に、地面に向かって血反吐を吐いた。
 そして、腰についたポケットから、一つの弾丸を取り出す。
「遊びは終わり。……絶対にお前を連れ帰らせてもらいます」
「絶対に嫌だ。天使のところに行けば、ノキちゃんを悲しませることになる。――それは、あんたも同じだ」
「……なにがです?」
「ノキちゃんは、あんたのことも心配してる。あんたが風祭優に戻らないと、ノキちゃんは悲しむんだ」
「戯言を……」
 言いながら、ヴァーユは弾丸を銃に押し込んだ。
 フェイクマンには。その声は、怒りというより、動揺の方が大きい気がしていた。
 ちょっとずつ、彼女が風祭優に傾いてきているのだろう、と考える。
「目を覚ませ! 風祭優!!」
「うるさい……その名で、私を呼ぶなぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
 銃を構え、ヴァーユは叫ぶ。
「ハリケーン! あの失敗作を吹き飛ばせェェェェェッ!!」
 思い切り叫び、ヴァーユは引き金を引いた。
 その瞬間、風が吹いた。そよ風程度の風。フェイクマンはなにも気にしていなかったが、次の瞬間、まるで風が実体を持った様に、フェイクマンの腹に向かって飛んできた。
「ぐッ、ァ……!?」
 もちろんフェイクマンもガードしようとしたのだが、その速い弾はフェイクマンの目でも追いきれなかった。腹に刺さってから気づいた位に。
「……でも、これがどういう」
 確かに速いが、効果自体は普通の弾丸と変わらなかった。
 そう思い、中に入った弾丸を確かめる様に腹を擦った瞬間、突然激痛が走った。
「グ……ッがあああああ……!!」
 腹の中で台風が吹き荒れている様な、腸をかき混ぜられているような。
 そんな激痛に膝を突き、腹を下してしまったかの様に腹を押さえながら、フェイクマンはヴァーユを睨んだ。
 勝ち誇った笑みで、彼女は言う。
「私の新兵装。ハリケーンの味はどうだ?」
 無様とも言えるフェイクマンの姿が面白いのか彼女は上品に口元を押さえ、静かに笑う。
 その仕草は、天使を連想させる。
「くっそ……!」
 だめだ。と、内心呟く。
 先ほどの変身。そして腹のダメージを負ってしまったフェイクマンは、すでにその姿を保っているだけで一杯一杯だった。
 満身創痍。その言葉通り、もはや全身が傷だらけ。 
「さて……勝負はついた。私と一緒に、来てもらいます」
 ゆっくりとフェイクマンに歩み寄り、目の前に立つと、ヴァーユはフェイクマンの角を掴んだ。
「いやだ……天使の言いなりになるのは……」
 脳裏には、夏だった肉片が現れる。天使への怒りの象徴。
 もし自分が天使の言いなりになるようなことがあれば、夏へしたこと、自分にしたことを許すということ。それだけは、絶対にあってはならないことだ。
 精一杯の力で、角を掴んでいたヴァーユの手を振り払うが、それが気に障ったのか、ヴァーユはフェイクマンの顔を思い切り蹴った。
 地面に倒れ、ジンジンと熱を持った顔を手で押さえる。
 そんなフェイクマンを見下し、ヴァーユはさらに腹を蹴る。
「ぐぅっぷ……!」
 ハリケーンの所為でぐちゃぐちゃにされた腹にその痛みは、まさに地獄の苦痛。
 中身が全部出そうになり、それとは反対に戦意だけはどんどん削られていく。
「……少し、ムキになってしまったようですね」
 半殺しでも大丈夫か……とヴァーユは呟いて、頭を掻く。
 そして、さらに蹴りを入れていく。全身で蹴っていない場所を残さないよう、丹念に。
 フェイクマンは最後の抵抗に、ただ丸くなることしかできなかった。全身の変身疲労、そしてハリケーンによるダメージ。もう立つことは難しい。
 仮に立てても、戦闘ができるかどうかさえ怪しかった。
「……さて、もういいか」
 ヴァーユは変身を解き、風祭優に戻ると、フェイクマンの角を再び掴む。
 もう首を動かそうともせず、抵抗もしなかった。
「う……」
 優によって強制的に顔を上げさせられたフェイクマン。
 装甲の隙間から漏れだした血が痛々しい。
「く、そお……」
 悔しくて、涙が出た。
 夏の顔。無惨な姿。そして、無力だった自分に強さをくれたノキの顔。
 春は守れなかったのだ。自分を信じてくれた人達を。
 これでは、なんの為にフェイクマンと名乗っていたかわからなくなる。
 疲労の所為か、意識が遠退いてきた。目の前が暗くなっていく。
 もう御堂春――フェイクマンと名乗ることはないのかもしれない。
そう思い、精一杯意識を保とうとするのだが、意識はあっさりと落ちてしまった。

     

 8 警察―鳴海アキラ―

 御堂春と別れたアキラと珠子は、みなとみらい署に戻ってきていた。
 鬼探しだけが彼らの仕事ではない。デスクワークも、その一つだ。
 担当した事件の報告書、調査に使った店の領収書精算などなど。
「ふわぁー……」
 珠子のあくびが、静まり返った捜査一課に響く。
「ほわっ!」
 なぜか突然間抜けな声を出した珠子。
 アキラはたまらず、「なんですか」と隣に座る彼女を睨んだ。ようやく、溜め込んでいた最後の報告書を書きあげられそうだった所だったので、少し目つきは鋭くなっている。
「いや、もう九時だよアキラくん! どうりで首が痛いわけだよ!」
 仕事しすぎたー! と頭を抱える彼女は、なぜか大変な大損をしてしまったかの様だった。
 彼女には一日に仕事をする時間というのが決まっているのかもしれない。警察官としてその姿勢はどうだろう、とアキラは思ったが、口には出さなかった。
「それより、水島さんは終わったんですか? 仕事」
「んーん。まだもうちょい」
「じゃあそれ、早く終わらせて」
「はーい」ふてくされた様に、彼女は言って、またパソコンに向かった。
 アキラは手書きなので、また報告書とにらめっこしてペンを走らせる。
 と、その時だった。突然天井にあるスピーカーから若い女性の声が流れる。
『警視庁から入電。警視庁から入電。山下公園にて、何者かが危険行為を行っている模様』
「危険行為ってなによ?」
 スピーカーを指さし、アキラに笑いかける珠子だったが、それとは反対にアキラは険しい顔をしていた。
「……なにか、嫌な予感がする」
「嫌な予感? ……若者が花火とかやってるだけなんじゃないの?」
 珠子の言葉に、そうであってくれと願いながら、アキラはケータイを抜いて春のアドレス帳を呼び出す。
 電話番号をプッシュして、通話ボタンを押す。
 一回、二回とコールがされ、四回目のコールで電話が繋がった。
「はい……御堂春くんのケータイです……」
 出たのは、御堂春ではなく、眠そうな少女――斗賀ノキの声だった。
「ノキさん……? 御堂さんは!?」
「春くんは……、えーっと」
「……もしかして、御堂さんは山下公園に行ったんじゃないですか!」
 一瞬、向こうからの言葉が途切れた。突然のアキラの声に驚いたのかもしれない。
「……どこに行ったか、までは知らないんです。でも、戦いに行くって」
 やっぱり……! アキラは心の中で、自分に向かって悪態を吐く。
 御堂春の性格を考えれば、一人で勝手な行動を取ることくらい簡単に予想できたはずなのだ。
 ヒーローが一般人を危険に巻き込まない様に動くのは、当然の行動なのに。
「御堂さんにとって、私は無力なのか……!?」
 警察という組織に属している自分が、この社会では絶大な権力を発揮するはずの警察という証が、この異常事態にはとことん無力。
「行きましょう、水島さん!」
「オッケー。そこに春くんがいるんでしょ? 私らを置いてけぼりにしたんだから、文句言わなきゃね!」
 アキラは椅子の腰掛けにかけていたスーツを羽織り、捜査一課から飛び出した。

  2

 車にパトランプをつけて、サイレンを鳴らしながら桜木町を走り抜ける。
 暴走族をする若者の気持ちは理解できないものの、暴走というのが少し気持ちよく感じたのは事実。
 それどころではないが、スーパーマンになったような気持ちになってしまう。もしかしたら改造人間の力を使うというのは、そういう気分なのかもしれない、とアキラは思った。
 警察署を出て、そんなことを考えながらだいたい十分ほど。アキラ達は山下公園に到着した。
 車を降り、辺りを見回すが、春の姿はない。
「御堂さーん! どこですかー!」
 静かな公園に飲み込まれていくだけで、返事は返ってこなかった。
「……ん? ねえ鳴海くん。なんか、遠くの方で音がしない?」
 珠子は耳に手を当て、音をたくさん集められる様にして、山下公園の中心に耳を向けた。
 アキラもそれを真似て、耳を澄ます。確かに遠くから、銃声の様な物が聞こえてきた。
「そうか。中心に二人はいるんだ。行きましょう!」
 先に走り出したアキラを、珠子が追う形で二人は走りだす。
 珠子のヒールの音がリズムを刻み、徐々に中心へと近づいてきた。
「鳴海くん! あれ!!」
 数百メートル走り、そろそろ息が切れてきた辺りで、珠子が前方を指さした。
 そこには、ボロ雑巾のようになったフェイクマンと、そのフェイクマンの角を掴み、忌々しげに見下す風祭優がいた。優はまだアキラ達に気づいていないのだろう。
 チャンスだ、とアキラは思い、珠子に目配せする。胸を叩いて、自分とフェイクマンの順で指さすと、彼女は力強く頷いた。
 アキラはそこで立ち止まり、腰のホルスターに入れっぱなしだった拳銃を取り出す。銀色に鈍く光るそれを、珠子に投げ渡し、背中に珠子を隠すようにして、さらにスピードを上げて走り出した。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!」
 大声を出し、出来る限り優の注意を自分に引きつける。
 アキラに気づいた優は、呆れたような顔でため息を吐いた。この場ですべての決着をつけることもないだろうに、という様な表情だ。
 優はフェイクマンの頭を持ち、反対の手は無造作に落としたまま、余裕の構え。
「……改造人間に真っ正面から挑むなんて、見た目に反してバカですね?」
 アキラは拳の射程内まで風祭優に近づいた。
 そして大きく拳を振り被り、優の鼻を狙う。
 しかし優は、自分より体格のいい男に拳を振り被られても臆することなく、拳を上げて最短距離でアキラの顔面を捕らえた――はずだった。
 アキラは顔面を狙うでなく、拳は出さずに体勢を低くし頭を落としたのだ。
「水島さんッ!」
 アキラの頭の向こうで、水島珠子が銃を構えていた。
「なっ」
 驚いた。が、自分に銃が効くわけがないと知っている優は、先にアキラをしとめるべきだと一瞬で判断。
 珠子は、その銃でしっかりと狙い、発砲。
 破裂音がした瞬間、風祭優の手にとてつもない衝撃が走って弾かれ、フェイクマンの角を手放していた。
 それ自体は大した問題ではない。その衝撃に目をやった一瞬の隙に、アキラが優の腰に向かってタックルを食らわせていたのだ。
 突き飛ばされた優からは弾丸が落ち、不意を突かれた優よりもアキラは素早く立ち上がり、フェイクマンの腕を掴んで、引きずる。
 ――お、重ッ。
 おそらくは機械が詰まっている所為なのだろう。優にも注意を配りながら、銃を撃ってすぐ駆けつけた珠子に手伝ってもらいながら、できるだけ距離を取った。
 優に致命傷おろか、ダメージさえ与えられていないはずだが、なぜか優は起きあがろうとはしない。
 だいたい十メートルほどの距離を開け、アキラと珠子は一端フェイクマンを地面に安置し、思い切り揺さぶった。
「御堂さん! 起きてください!」
 ぴくりと目が動き、フェイクマンは意識をゆっくりと目を開いた。
 ぼんやりとした焦点の合わない目で、アキラを見ている。
「ア、キラ、さん、なんで……」
「鳴海くん」
 横でアキラと同じ様にしゃがみこんでいた珠子が、前を指さす。
 優が余裕たっぷり、時間をかけてゆっくり立ち上がっていた。
「……少し油断していたようです、ね」
 緩めていた気を締め直すかのように、優は地面に落ちた帽子を拾い上げ、埃を払ってから頭に乗せる。そして、帽子に手を乗せたまま、キッとアキラを睨んだ。
「今更アスラ――フェイクマンを回収しても、もう遅い。使いモノになんて、ならないでしょうし」
 アキラはちらりと、自分の足元に横たわるフェイクマンを見た。
 全身傷だらけで、肩で息をしているような状態。アキラの目から見ても、戦える様な状態ではなかった。
「どうする? そいつを置いて逃げるなら、追いはしませんよ」
 もちろん、アキラには、おそらく珠子にも。フェイクマンを置いていくという選択肢はない。
 かと言って、なにか優に対する索があるわけでもない。
「さあ、五秒以内に考えなさい。五……」
 どうする、どうする。考えろ、考えろ。アキラは心の中で、何回もその言葉を繰り返し、考えるのだが、その声が邪魔になってきちんと考えられているかは疑問だった。
「四……」
 カウントが迫る。その時だった。フェイクマンが小さな声で、「耳……貸して」と言う。
 少し迷ったが、アキラは黙ってフェイクマンに耳を向けると、ぼそぼそ何かを呟く。
「三……」
「だ、大丈夫なんですか、それ」
 フェイクマンから伝えられた作戦を頭の中で想像し、アキラは自分に貸せられた役割の重さにげんなりする。
「これしかないんです。……一撃で、優さんを行動不能にするには」
 確かにリスキーな策だが、それ以外に方法は思いつかない。
アキラはしっかりと頷き、フェイクマンに肩を貸して、一緒に立ち上がった。
「二……一……。――時間切れ。考えはまとまりまして?」
 なんとかフェイクマンを立たせると、二人は目配せし、作戦を確認し合う。
 アキラは珠子に無言で手を差し出すと、意図を理解した珠子は、アキラに銃を手渡した。
「そう。……またも交渉決裂のようですね」
 彼女は、太もものホルスターから銃を取り出し、くるくると回して二人を挑発する。
「来なさい。出来損ないで死にぞこないと、ダメ刑事」
 嘲笑う優とは反対に、二人は真剣な顔そのものだ。
 まずはフェイクマンがダッシュ。そして、アキラはその後ろから優に向かって援護射撃。
 肩や足など、撃っても致命傷にはならない部位を狙って撃つが、ダメージを与えている様には見えない。
 フェイクマンは、優に向かって右拳を鋭く振り、優へボディブロウ。
 しかし、怪我をした春の拳は全力とは程遠いのだろう。軽々と受け止められ、何倍も速く重い銃で腹を殴り返された。
「ぐう……!」
 自らの腹を押さえ、また膝を突くフェイクマン。そして、それを見下す優。だったが――
「――まだだッ!」
 後ろから、いつの間にか援護射撃をやめていたアキラが走ってきて、フェイクマンを踏み台にし、跳んだ。
「いくら改造人間でも、こんな高低差からのかかと落としなら!!」
 頭なら精密機器が詰まっているだろうし、倒せる。アキラはそう確信して、足を振り上げ、優の頭目掛けて思い切り振り下ろした。
 しかし、優の頭上で手をクロスさせそれを防ぐ。
 バランスを崩したアキラは、そのまま優の足元に倒れてしまう。体を地面にぶつけるまえに、なんとか手をついたが、背を優に踏まれてしまい、めりめりと靴が背中にめり込んでくる。
「ぐ、あ、ああぁぁ……ッ!」
 改造人間の力と地面に挟まれたアキラは、雨の日に地面を転がるカエルの死体を思い出していた。内蔵を口から吐き出し、ぺしゃんこになっているあれである。
 もう少しで自分もそのカエルよろしく、口から内臓を吐いてしまうのかと思うと心が折れそうになるが、アキラは必死で手を伸ばす。
 ――あと少し、あと少し……。
「まあ、フェイクマンを囮にして、一撃加えようとしたのには驚きましたが……」
 そもそも、攻撃が入らないんじゃ意味がない。
そう言って、優はフェイクマンとアキラを見下した。
「さて、フェイクマン。取引です。このダメ刑事を潰されたくなかったら、私と共に天使博士に忠誠を誓いなさい」
 優はフェイクマンの首を掴み、持ち上げた。あんなに重いのに、軽々と持ち上げるなんて。と、アキラは自分に乗っている足の恐ろしさを再認識する。今自分を踏んでいるのはただの人間ではない。改造人間なのだ、と。
「も、もし……、断れば?」
「今の会話で理解できないんですか? 断ればもちろん、こいつを殺す」
 そう言うと、アキラに乗った足に力がこもり圧力が増した。
「うがあぁぁぁ……!」
 肺からどんどん息が逃げて行く。
 視界は酸素不足によりどんどん赤く染まっていき、水中にいるようなもどかしさがあった。
 ジタバタと足掻き、必死に手を伸ばす。
 ――あと少し、もうちょっとだけ耐えてください、御堂さん!
「さあ、誓いなさい。私と、お前で、天使博士の世界征服に役立つと!」
 フェイクマンは黙ってしまった。絶対的に有利な立場にいる優としては、その些細な抵抗が気に食わなかったのだろう。フェイクマンの首を掴む力を強めた。
「お、れは……俺の大切な物を踏みにじった天使を、絶対に許したくない……!」
「そんな物は、この力に比べたらクズでしょう? ――哀れなフェイクマン。次に会うときはアスラとして会いましょう」
 ――届いた!
 アキラは心の中で叫び、次にフェイクマンを見て実際に叫んだ。
「御堂さん! これ!」
 そして、掴んだそれをフェイクマンに向かって投げた。
 金色に光るそれ――風祭優のハリケーンだ。
「ありがとうございます……ッ、アキラさん……!」
 優はそれをちらりと見たが、にやりと笑うだけでなにかしようとはしなかった。
「……ハッタリにもならない。フェイクマン。私は天使博士からあなたの資料をもらったんですよ? あなたに弾丸を扱う術はない!」
「よく……、覚えておいた方がいい……弾丸を扱う方法は、銃だけじゃない……!!」

 フェイクマンは拳の間に弾丸を挟み、先程より速く鋭いボディブロウを振った。
 弾丸は優の腹に突き刺さると、その瞬間、まるで銃を撃った時の様な破裂音が公園内に響き、優の腹からは血が漏れ出していた。

「そん、な……どうや、ってッ……!!」
「大したことじゃない……デコピンをハンマーに見立てて、弾丸を弾いただけだ」
 改造人間だからできる、力技。
 それを聞いた次の瞬間、風祭優はフェイクマンを離し、アキラから足もどかして、地面に倒れて悶え始めた。
「ぐう、ああああ……ッ! 痛い、痛い……!!」
 アキラは優と入れ替わる様にして立ち上がり、地面で悶える優を見下ろした。
 これで終わりだ。アキラはそう考え、ふうとため息を吐いた。
 しかし、フェイクマンはそれで終わりだとは考えなかったようで、優の胸ぐらを掴み、先ほど自分がされた様に右手で持ち上げる。優は両手でその手を外そうと試みるのだが、まったく外れない。
「痛い……! 痛い、助けて、助けて……っ!!」
 優の目には涙が溜まっていて、心底命乞いをしている様に見える。
 フェイクマンは思い切り息を吸う様に首を反らすと、優の額に向かって思い切り頭を下げる。
「いい加減に……しろッ!!」
 そして渾身の頭突きを喰らわせると、優は額から流血し、フェイクマンの腕を掴んでいた手はだらんと落ちた。
「……多分、これで、全部終わったはずです」
 フェイクマンは、地面にそっと優を降ろし、変身を解除して御堂春に戻っていく。
 まるで巻き戻し映像を見るようなその光景を見ながら、なんど見ても慣れる気がしないな、とアキラは思った。
 まるでリンチにでもあったようなぼろぼろの春は、尻餅をつくみたいにして地面に座る。
「……御堂さん、お疲れ様です」
 アキラは軽く頭を下げる。
 春は「アキラさんこそ」と言って微笑む。
 遠くにいた珠子は、かつかつとヒールを鳴らしながら二人の元へ走ってくる。
「二人とも、お疲れ様。……それより、春くんは病院行かなきゃなんじゃないの?」
「ああ、でも病院行くと、大騒ぎになるし……」
 確かに、骨にボルトを入れたとかならまだしも、全身機械はまだ技術として確立していない。
 そんなオーバーテクノロジーの固まりである春や優が病院に行けば、大騒ぎになって体を調べられるだろう。
「じゃあ、どうすれば……」
「大丈夫ですよ。俺らの体は人間と同じように――いや、人間以上の自然治癒がありますから」
 これくらいなら、明日にはそこそこ回復しますよ。
 そう言って春は、血の滲む腹をぽんぽん叩いた。
「……そうですか」
 とりあえず一安心。
 そして、アキラはちらっと、地面に倒れる優を見た。
「にしても、優さんは元に戻っているんでしょうか……。天使の洗脳が、頭突き程度で戻るとは思えないんですけど」
「多分、それも大丈夫」
 自信満々に言う春に、アキラは訝しげな顔を向けた。
「俺、最後の頭突きに思い切り、元に戻れって念じましたもん」
 ショック療法ですと言い切り、屈託ない笑顔を見せる春。
 そして、一瞬間を開けてアキラは笑った。
「なんですか、それ」
 珠子も笑いながら、春の背中をばしばしと叩く。
「あははっ。なんか春くんに言われると説得力あるねえ」
 春は困ったように笑いながらも、どこか安心した様に力が抜けていた。
「あー……疲れた。アキラさん、珠子さん。すいません、コーヒーベルトまで送ってくれませんか」
「もちろん。構いませんよ」
 珠子の返事を待たずにアキラは言った。とはいえ、珠子も反対せず、軽い調子で「オッケーオッケー!」と笑っている。
 その時、どこかから心底愉快そうな声が聞こえた。

「おめでとう、御堂春くん。旧型、しかも未完成でヴァーユを倒すなんて、すこし驚いた」

 その声は頭上から降ってきた。アキラは一瞬なんのことだかわからなかったが、春が上を見て叫んだのを見てわかった。
「天使ッ!?」
「え!?」
 珠子の驚きと同時に、二人は春の視線の先を見ると、街灯の上に立ち、アキラ達を見下す天使がいた。茶色のタバコを吸いながら、先ほどの戦いを文字通り高みの見物していたのだろう。
「いや。ヴァーユと繋がっていた通信で状況はわかっていたんだが。……いやいや、まさか警察の協力まで。面白いなぁ」
 まるで友人が気の利いたジョークでも飛ばした時の様に、天使は上品に笑った。
「本当に面白い。久しぶりの上機嫌だ……。こんなの、キミを改造した時以来だよ、御堂春」
「……俺もだよ、天使。こんなに機嫌が悪いのは、こんな体にされた時以来だ」
「おおっと。もしかして、僕とやるつもりかい? やめておいた方がいい。今のキミじゃ、僕には絶対勝てない」
 天使の力は見たことがないアキラでも、天使の言葉は正しいと頷くことができた。
 全快の天使と限界の春では、さすがにまともな戦いなんてできないだろう。
「でもね、戦わない代わりにキミの頑張りを評して、風祭優は解放するよ。……もっとも、先ほどの衝撃で、洗脳は解けているかもしれないけどね」
 おめでとうと拍手する天使は、どう考えてもバカにしている様にしか見えなかった。
もしかしたら、本人は本気なのかもしれないが。
「でもね。生憎僕は負けず嫌いだ。……だから、二回戦といこう。これで負けたら、僕は大人しく負けを認めるしかないね」
 そう言って、天使はゆっくりと白衣をめくる。
 どうやら白衣の中にはもう一人いるらしく、どんどんその姿が露わになっていく。黄色いホットパンツに、淡いピンクのキャミソール。

 そこにいたのは紛れもない、部屋着姿の斗賀ノキだった。

「ノキちゃん!?」
 春の叫びが、夜の山下公園に響きわたる。悲痛すぎて、思わず耳を塞ぎたくなるくらいの叫び。
「この子。斗賀ノキだろ? さっきキミとヴァーユが話していたのを、通信で聞いていた」
「どうして……コーヒーベルトの場所が」
「簡単だ。僕はいくつも病院を経営しているんだから、患者のデータくらいはいつでも見れる。一度でも僕の病院を利用すれば、情報網に引っかかるわけだ」
 春は、自分の失態を恥じている様な顔をしているが、その顔を横目で見ながらアキラは心の中で言った。
 ――そんなの、気をつけろという方が無理な話だ。
 そもそも春は、天使の居場所さえ知らなかったし、会社経営のことももちろん知らないだろう。
「しかし、キミは改造人間だから病院を利用しなかった。僕の情報網には引っかからなかったんだけど……。いやあ、日頃の行いに気をつけておいてよかったよ。キミは、僕の世界征服に欠かせないからね」
「日頃の行いに、気をつけてるって……?」
 どこまでも人をバカにしたようなしゃべりだった。
 温厚な春が眉間に谷ができるような深いシワまでつくって、拳を振るわせていた。
「警察の前で誘拐なんて、いい度胸してるじゃないですか。天使さん」
 アキラは、できるだけ春を落ち着かせようと、冷静に口を動かした。
 珠子は春と一緒になって怒るだろうし、ここで冷静になれるのは自分しかいない。そう思うと、いつもより頭が冴える気がした。
「今回ばかりは、風祭さんの時みたいなことは通用しませんよ。……誘拐罪の現行犯で、逮捕します」
「ふっ、んふっ……っくくく。ははははははははははっはははは!!」
 それを聞くと、天使は盛大に笑った。
 腹を押さえ、街灯から落ちそうになるほどに。
「いやあ。無能な警察はいつもズレたことを言う。キミらの掟は人間の掟。僕ら改造人間に、そんなことは関係ない。そもそも、僕らは並のことじゃ捕まらない」
 それにはアキラも、悔しいが頷くしかなかった。春や優を見て、それに頷かない人間はいないだろう。
「法律の執行力と警察の権力はイコール。だが、僕ら改造人間の前にはそんなものクズだ。どちらにしても、ただの人間ですら取り逃がすことがある警察なんかに、日本は任せておけない。この僕が! 無能な警察、政府に代わって、この世界を幸せにする義務がある!!」
 まるで政治家の演説だった。渾身の力で、拳を振り上げる。
 その瞬間は、天使が本気で世界を想っている様に見えて、アキラは目を擦ってしまう。
「ふざけるな」
 そこで、演説に水を差すかのように、春は呟いた。
「お前がしていることには、犠牲が出るんだ。俺や、優さん、夏みたいな犠牲が。そして次は、ノキちゃんまで……。お前のしていることは、ただの一人よがりだ!!」
「違うよ、御堂春。キミはわかっていない。僕が善だ。究極の善。僕よりこの世界を愛している人間はいない」
 そう言うと、天使は心底残念そうにため息を吐いた。手塩にかけて育てた子供が期待通り育たなかった様な、残酷なため息。
「僕はね、御堂春。キミの境遇に同情した。感動と言ってもいい。期待もした。しかし、見事に僕を裏切った。そんな力も与えたのに……」
「お前には、一生理解できないよ」

 そう言って春は、獣の様に叫んだ。
 変身の合図に反応し、体が変わっていき、フェイクマンになっていく――はずだった。
 なぜか、変身が途中で止まり、ゆっくりと春に戻っていった。

「え……!」
「変身限度回数を越えたか。……どちらにせよ、今日決着をつける気はない。僕はフェアが好きなんだ。明日になったら、ウチの会社ビルにある僕の研究所まで来てくれ。場所はヴァーユが知っている。……もし来なかったら、もちろん彼女を改造する」
 そう言って、天使はノキを連れて消えた。
 突然空気が薄くなったような息苦しさに、アキラはネクタイを緩めたくなった。
「アキラさん」
 突然春に呼ばれ、アキラは何故か教師に指された時の様なバツの悪さを感じた。
春が何を言うかわかっていたから。
「天使の居場所を教えてください」
「ダメです」
 教え、まで言われてすぐに拒否する。
 春の顔が泣きそうな、もしくは今にも怒鳴りそうともとれる様な顔になった。
子供が駄々をこねるような表情。
「なんで……! 俺はノキちゃんを助けないといけないんですよ!?」
「今はダメです。御堂さんに教えたら、今すぐ行こうとするでしょう。……あなたの怪我が回復して、変身できるようになってからにしたほうがいい」
「でも、俺はノキちゃんと約束したんですよ!? ……ノキちゃんを守るって!」
「御堂さん。まだ最悪じゃない! 天使は少なくとも、嘘は吐かない。まだノキさんは平気なはずです。――それに、あなたに何かあったら、ノキさんは平気でいられないはずです」
「横からごめんだけど」と、珠子が二人の間に入った。
「アキラくんの言う通りだよ。ノキちゃんはキミのことをすごく大事に思ってるはずだし。……ノキちゃんを守るってことは、自分も守るってことなんだと思うよ」
 春は俯いて、納得していない様な表情で足下を見ている。
 アキラも、もし自分が同じ立場だったらと思うと、春の気持ちは理解できた。
 しかしそれでも、感情と現実は折り合いをつけなければならない。
「……わかりました。じゃあ明日に」
「それがいい。……じゃあ、とりあえずコーヒーベルトに行きましょう。天使がコーヒーベルトに何かしてないか、心配ですし」
「じゃあ俺……、優さん担いでいきます。二人とも車ですよね」
 頷くアキラを確認して、春は地面に横たわる優を持ち上げた。
「それでは御堂さん、コーヒーベルトに行きましょうか」

  3

 後部座席に優を座らせ、春もその隣に座り、運転するアキラと助手席に座っている珠子に「すいません、二人とも。俺を天使のところに、一人で行かせてもらえませんか」と言った。
「それは、天使を殺す為、ですか」
 アキラの言葉をとっさに返すことができず、春は押し黙ってしまう。
「それなら私たちは、あなたを行かせる訳には行きません。あなたに人殺しはしてほしくない」
「……俺は、天使を殺すつもりはありません。ただ、多分俺、アイツを前にしたらブチギレちゃうんで。それを、お二人に見せたくないんです」
 正真正銘の化け物になるであろう自分は、ありありと想像できる。だが、それでも、殺す気はないというのは本当だ。
「天使には、今までしてきたことをちゃんと償って欲しいんです」
 アキラからポリポリと頭を掻く音がする。
「……納得には程遠いですね」
「でも結局、私らじゃ足手まといだし、危険だしでついてかない方がいいんだよねー」
 珠子の言葉に、アキラの頭を掻く音が止まり、ため息が漏れた。
「それは、そうですが……」
 車が揺れ、右に曲がった。景色がどんどんコーヒーベルトに近づいていく。
 アキラはスーツのポケットから手錠を取り出し、肩越しに春へと渡す。
「――わかりました。あなたにすべて、任せます。必ず天使を捕まえてください」
バックミラー越しに春を見て、そう言った。自分の無力さに打ちひしがれる様な声で。その言葉は春の心を大いに揺さぶる。バックミラーに映るアキラの目をしっかりと見て、春はしっかりと手錠を受け取った。

     

 9 風祭優―探偵―

 長くて不愉快な夢だった。
 マッドサイエンティストに体を弄繰り回された挙句、自分の意思も奪われくだらない遊びに付き合わされた。嫌いな人間に捕まった時のような不愉快なその夢から、風祭優は覚めた。
 目を開いた先にあったのは、木目調の天井。
 ゆっくり体を起こすと、そこは少女らしさが全面に押し出された部屋だった。
 薄いピンクのシーツ、勉強机の上に置かれたうさぎのぬいぐるみ、一際大きな本棚がある六畳間。そこから優は、本好きの学生が使っている部屋だろうと推理する。
「……ここはどこ?」
  記憶を遡ると、だんだん思い出してきた。
 先ほどの夢が現実であることや、自分がすでに人間ではないこと。曖昧な記憶だが、その中でもはっきりと覚えている。自分を救ってくれた青年の事を。
「……結構な迷惑、かけちゃったみたいねえ」
 苦笑、もしくは嘲笑。
 起き上がり、その青年を探しに行こうとするが――
「痛ッ!」
 全身の激痛で、起き上がるどころの話ではなかった。
 見れば、優の服はワイシャツだけ、あらゆる箇所に包帯が巻かれており、昨夜の戦いの激しさを痛々しい程に物語っていた。いくら改造人間でも、ギリギリなダメージだったらしい。
「あー、最悪……」
 動けない事がこんなにもどかしく思ったことはなかった。
 礼は早く言っておくに限る。借りっ放しは性に合わない。
「ん……んん」
 と、床から声がした。女性の声だ。
 下を見ると、ブラウスと青い下着だけを身につけた女性がタオルケットにくるまって眠っていた。その姿の所為か酷く幼く見えるが、優と同年代だろう。
「ねえ、ちょっと」
 その少女とも言える容貌の女性を揺すり、声をかける。
「う、ん……?」
 頭を起こし、優を見ると、焦点の合っていなかった目がゆっくりと優に向かって合って行く。
「お、優ちゃん!」
「ゆ、優ちゃん!?」
 そんな呼ばれ方はされたことがなかったので、うろたえてしまった。
 その隙を狙ったかの様に、彼女は優の首に向かって飛びついてきた。
「きゃー! 意識が戻ったー!」
「ぎゃあああああ! 痛い痛い痛いいいいいッ!!」
 優の体は昨夜の戦いで全身を負傷しているのだ。抱きつかれれば傷に障るのは当たり前だ。
 優はすぐに彼女の肩を掴んで引き剥がす。
「アンタ誰!? ていうか、ここどこ!」
「うう? ああ、そっかそっか。ヴァーユとは会ってたけど、優ちゃんとは初めてだっけ」
 失敗失敗、と可愛らしく舌を出し、ごめんと頭を下げた。
「ここはコーヒーベルト。斗賀ノキちゃんの部屋。そして私は水島珠子。昨日、あなたを助ける為に走りまわったんだけど、覚えてない?」
 昨夜の、うすらぼんやりとした記憶を探る。
 夜の山下公園。そこに立つヴァーユになった自分。そして、フェイクマンと人間の二人。
「……あ、もしかして、山下公園にいた」
「そうそう! 思い出したみたいだね?」
 昨夜自分を助けた三人の内の一人、という優の予想は当たっていたらしく、彼女は嬉しそうに歯を見せて笑った。人懐っこい子だなあ、と内心で苦笑してしまう。
 と、その時だ。
 部屋のドアがノックされ、返事も待たずに春が入ってきた。
「おーい。今なんかすごい声したけど――って、何してんのお二人」
 何をしているのか、という問いがわからず、優は首を傾げた。
 しかし、すぐにその意味がわかった。優と珠子の顔が近すぎて、キスする手前の様な状況だったのだ。
「ごめん。終わったら呼んでくれ」
「だあああッ! 違う、違うって春! 誤解だから!」
「そうだよ春くん! 私たちレズじゃないって!」
「――お邪魔じゃない?」
「「全然!」」
 二人の声が重なり、なんだか逆に怪しい様な気もしたが、春はあっさりと受け入れ「ならいいけど」と言ってくれた。
 ほっとため息を吐き、優は珠子を離し、再びベットに寝転んだ。
「あー、なんだかどっと疲れた……無理させないでよ、病み上がりなんだから」
「上がってないじゃん」
「言葉の綾よ」
 珠子の言葉をめんどくさそうに返すと、目に手を当て気怠げに呟く。
「春」
「ん?」
「その、……ありがと」
「どういたしまして」
 少しだけ手を退け、ちらりと春を伺うと、彼はにっこりと屈託なく笑っていた。
 それを見ていると、なんだかさらに恥ずかしくなった様な気がして、また手で目を覆う。
「御堂さん? さっきの声は――」
 開けっ放しのドアから、今度はスーツ姿の男性が入ってきた。上半身を起こし、その男性を見ると、彼も昨夜の山下公園にいた人物だとわかった。
「風祭さん。意識が戻ったんですね」
「アンタは……?」
「私は鳴海アキラ。刑事です」
「……なんで刑事が?」
 尋ねると、アキラと珠子が深刻そうな顔で視線を交わす。
「そうですね、話しておきましょう。私達が、風祭さんの捜査をし始めた理由を――」
 アキラはぽつりぽつりと語り始めた。
 五十嵐が逮捕されたこと、その五十嵐から捜索を依頼されたことを。

  1

 その話を聞いて、優はそっと呟いた。
「そう。逮捕されたんだ」
 あっさりとした物で、表情はどちらかと言えば明るい。
「ま、ヤクザはいつ捕まるかわからないものね。……もしかして、あたしも捕まるのかしら?」
 優も一応、AB社に不法な手段で侵入している。本来ならすぐに逮捕されてもおかしくはないはずだ。
「いえ、被害届は出されてないですし、現行犯でもないので。我々にできることはありません」
「あら、いいの?」
 優は目を見開き、アキラの顔を見た。
「ええ。……その代わり、もう二度と、あんなマネはしないようにしてください」
「わかってるって。流石に、一回改造されたら、もう懲り懲りよ。――それより、春に一つ、聞きたいことがあるんだけど」
「ん、なに」
「ここ、ノキの部屋だって聞いたけど。……ノキはどうしたの?」
 先程から気になっていたのだ。珠子にこの場所を聞いた時から。
 優の予想通り、春の顔つきがにこやかな物から真剣なものに変わった。
 そして春は、小さく呟いた。
「……ノキちゃんは、天使に拉致された」
 やっぱり、と優は頭を掻いた。この状況では、その可能性が高かったので、彼女も予想はしていたのだ。
「それで? いつなのよ、戦いに行くのは」
「今日の夜。変身できるようになってから」
 自分の体のダメージを計算してみる。今日の夜、戦いに行けるかどうかを考えてみたが、無理そうだった。見れば、春の体にも包帯が巻かれている。怪我はまだ治っていないらしい。
「で、あんたは大丈夫なの?」
「大丈夫」春は力こぶを作って見せ、平気な様をアピールする。それが逆に強がりとも思えたが、少なくとも今の自分よりはマシだろうと思い、納得しておいた。
「どうせ、止めても行くでしょ。野暮な事聞いたわ」
 本当に野暮だったと思う。どうせ、もう戦えるのは春しかいないのに。
 優はベットの隅に置かれた自分の衣服を漁り、その中から銃と弾丸を掴んで春に投げた。
「使いなさい。――それで天使を、ぶっ殺してきなさい」
「……いいのか?」
「もちろん」
 本当は自分の手でやりたかったが、この体では無理。ならばいっそ、自分の力を春に使ってもらおうと考えたのだ。
「それと、天使の研究施設には、アイツ以外普通はいけない。でも、元配下の私だけが知ってる特殊な出入口からなら簡単に行ける。一階のエレベーターホール、エレベーターの操作盤をよく調べなさい」
「エレベーターの、操作盤……」
 できうるだけ、自分の知っている情報を春に告げると、突然眠気が襲ってきた。
 まだ疲労が体に残っているのだろうか。とにかく我慢せず、優はベットに頭を落とす。
「じゃ、あたしは寝るけど……全部終わったら起こして」
「ああ、おやすみ、優」
 春の声を聞いて、優の意識はすぐに暗転した。
 次に目覚める時は、すべて終わっていると信じて。

     

10 御堂春―フェイクマン―

 フォークを投げる様に皿の上に置くと、春は深いため息を吐いた。
 カウンターの向こうに立つ薫は、グラスを磨きながら「もういいのかい?」と尋ねてくる。
「ええ、ごちそうさま」
 腹の中には、薫特製のオムライスが心地いい存在感を放っている。そのおかげかはわからないが、力がみなぎってきたような気がしてきた。おそらく、もう変身も可能だろう。
「あ、そうだ。優さんの分、晩御飯作らなくても大丈夫かい?」
「ええ、まだ寝てますから」
 時刻はもう夜の八時。優はあれからずっと寝続けている。
「にしても、昨日は驚いたよ。いきなり優さんを背負って帰ってくるし。その上、アキラくんと珠子さんまで連れ帰ってくるなんて」
「すいません」
 昨夜、春が三人を連れ帰った時、春はまず薫に謝った。三人を連れ帰ったことは許してくれたが、薫はノキがどこに行ったのかを春に訊いてきた。しかし、答えられるはずもない。
 言葉を濁していると、薫は春の肩にそっと手を乗せこう言った。
『今言えないなら、いつか、言えるようになってからでもいい。――でも、一つだけ。ノキは無事に帰ってくるんだね?』
 もちろんだと、春は力いっぱい頷くと、薫は納得してくれた。
「さて……それじゃ、俺はノキちゃんを迎えに行ってきます」
「ああ、悪いね春。気をつけて」
 スツールから立ち上がると、春はゆっくりとドアを開ける。
 そして一度振り返ると、店の中をじっくりと覚えた。椅子の数、壁の色、グラスを磨く薫の顔。素性も知れない自分の居場所になってくれたその場所を。
「それじゃ、薫さん。ノキちゃんは、任せてください」
 カウベルを背に、春はコーヒーベルトを出た。
 夜の住宅街、その明かりを眺める。あの夜、改造人間にされた夜に感じた美しさ。
 あの美しさも心に刻む。この美しさの中にノキを返してやれることを願うと、春はAB社に向かって歩き始めた。場所はアキラに聞いて、既に知っている。
 胸に手を当てれば、心臓の鼓動を感じることができた。俺はまだ生きている、この命に代えても、ノキちゃんを助ける。
 決意を結び直し、怒りを燃やし、春は歩いた。

 2

 ランドマークプラザを抜け、桜木町の街を歩く。
 AB社は割といい位置に本社を構えているらしく、桜木町の駅からそこまで遠くはなかった。
 大きな門は、口を開いて待っていた。まるで春を待ちわびていたかの様に。
 その門を潜り、サッカーが出来そうな程に広い駐車場を抜けると、自動ドアの入口へと入る。
 白いエントランスホール。床は大理石で敷き詰められ、春の顔がぼんやりと映るほどぴかぴかだ。受付のカウンターには誰もいない。もう社員は全員帰ったのだろう。
 空の受付を横目に、その先のエレベーターホールへと足を踏み入れた。
 長方形の部屋。オレンジ色の照明で照らされた薄暗いそこに、エレベーター四機が左右の壁に二機ずつ配置され、それを操作するための円柱型操作盤が部屋の中央に鎮座していた。
 腰の高さまであるそれに近づき、じっくりとそれを観察する。
「……優が言ってた操作盤は、これか」
 三角が背を向け合い、上と下を指しているボタンがあるだけの、なんの変哲もない操作盤に思えた。だが、優の言葉を信じて操作盤を調べてみることにする。
 円柱の腹の部分をポンポンと叩いてみたり、全身を摩ってみたりしてみるが、まったくなんの反応も示さない。試しに、円柱の縁を掴んで持ち上げようとしてみると、意外にもすんなり持ち上がった。そのまま押し上げてみると、まるでオイルライターの様に開いて、中からはもう一つ、下を指すボタンが出てきた。
「……」
 それを押すと、いきなり地面が揺れ始める。
「なんだ……?」
 振り向くと、入り口の向こう側にあるはずのエントランスが消え、真っ暗闇になっていた。
 そこで春は気づいた、このエレベーターホール自体が、巨大な一つのエレベーターになっているということに。
 天使らしい、といえばらしい。そう思って、春は呆れてしまった。
 そのエレベーターは、ものの三十秒ほどで目的の階についたらしく、揺れが収まり、入り口の向こうには白い部屋が見えた。
 エントランスではない。病院の様な雰囲気の部屋。消毒液の匂いが鼻につき、その部屋の中に存在する無数の培養カプセルが春の不快感を増幅させる。もちろん、中身はスパルトイだ。

「やあ、御堂春。待ちかねたよ」

 カプセルで出来た道の先に、天使が立っていた。
白衣のポケットに手を突っ込み、タバコを吹かしている。
 そしてその後ろには、十字架へ磔にされたノキの姿があった。
 怪我はなく、まだ意識を失ったままらしい。それを見てホッとしたが、すぐに気を引き締め、春はゆっくりとカプセルの道を歩き、二人の元へ歩み寄っていく。五十メートルはあるだろうその距離を、徐々に縮めて行く。
「天使。お前、なんでこんなことをしたんだ」
 歩きながら、春は言った。天使は薄ら笑いを浮かべたまま、タバコを掌で消し、シケモクを白衣のポケットに押し込んだ。
「ふふ。この世が腐っているからさ」
「……どこが」
「無能だらけだからだよ。みんな僕より無能だから。僕が支配してやらなきゃいけない」
 道の真中まで来た辺りで、天使がゆっくりと歩き出した。
「さあ! やろうアスラ――いや、フェイクマン!! これが最後だ!」
「うおおぉぉぉぉぉぉぉッ!!」
 春は、天井に向かって叫んだ。
 人間として死んだ日と同様に、春は姿を変えていく。
皮膚は黒く、骨はその皮膚を飛び出し外殻へなり、フェイクマンに変身した。
 そして、右腕のガントレットを開き、槍を取り出し構える。
 天使も白衣を脱ぎ捨て、ネクタイを緩めると、酷く楽しそうに呟く。
「ふふ。本気で行くよ」
 天使の体が姿を眩む程に白く光る。
 フェイクマンと同じ様に姿を変えていき、光の繭を破る様にして天使は出てきた。
「なんだ、その姿は……?」
 思わず春は、槍を落としてしまった、
 天使の姿は、フェイクマンそっくりだったのだ。
 正確には、フェイクマンの様に鬼ではなく、を模した様な姿。白いマフラーはまるで翼の様に展開し、白い外殻はフェイクマンの様にごつごつとした角張った先ではなく、丸みを帯びていた。
「僕はこの姿を、シヴァと呼んでいる。さあ、来たまえ御堂春。私に勝たねば彼女の未来はないぞ!」
 無言で槍を拾い上げ、構え直して特攻。
「おおおおおおおッ!」
 手の内も見えない、だからと言って攻めないでは勝てない。考える前に攻める。
 そう決め、天使――シヴァに向かって走るのだが、シヴァがゆっくりと右足を上げる。
 すると、その足の周りに青白い光の弾が無数に現れた。
「行け」
 刀を振り抜く様な鋭さで足を振ると、その光弾が導かれる様にフェイクマンの元へ飛んで行った。
「っちい!」
 槍をバトンの様に回し、自分の前に壁を作る。光弾はその槍に弾かれ、フェイクマンの体には当たらない。
「ははッ! 対策くらいは考えてきたか!」
 しかし、それも予想していたかの様に、シヴァは取り乱さない。
 ゆっくりと歩き出すと、シヴァは左右の腕に取り付けられたガントレットを剣へと変形させる。そして、一瞬で加速し、フェイクマンの懐まで潜り込み、胸の外殻を切り裂いた。
「ぐうううッ!」
 外殻だからダメージはないが、それでも驚きからか一瞬足が止まる。
「ほらほら! どうしたどうした御堂春! まだまだ始まったばかりだぞ!?」
「うるっ、せえ!」
 槍でシヴァの繰り出す斬撃を弾き、反撃を試みるが、捌くだけで精一杯。とても反撃は繰り出せそうにない。それでも、天使は全力を出していないだろう気がして、余計腹が立った。
「だったら、意地でも全力出させてやるッ!!」
 両腕にエネルギーを集中。すると、フェイクマンの両腕が蛍光色に光りだす。
 腕に力がみなぎってくる。その力を使い、フェイクマンはシヴァの剣を弾いて距離を取った。
 五歩ほど距離が開き、その隙にフェイクマンは両腕の力をすべて使い、上半身のバネを活かした必殺の突きを、天使の腹にに向かって突き出した。
「オオオオッ!!」
「ちッ!」
 その瞬間、まるで鉄と鉄がぶつかったような、鈍い音がした。
 どうなったのか疑問に思い、フェイクマンは、そっと槍の先を見る。
「ふふ……いやいや、少し予想外だった。その生体エネルギーは、対象に向かっての打撃で叩き込む必殺技だったのだが――」
 槍の穂先は、柄をシヴァに掴まれた事で威力を消され、腹の外殻を突破することはできなかった。
「――私も使わせてもらったよ、生体エネルギー」
 見れば、シヴァの両腕も淡く蛍光色に輝いていた。
「こういう使い方もあるのか。やはり技術は、戦いの中で進化していくな」
 感心する様に言うシヴァ。だが、それだけで終わる訳には行かない。
「まだ、だ……ッ! まだだ!」
 春の腕のエネルギーが徐々に増えて行く。激しく光り、それに呼応するかの様に力も倍増する。
「おおぉぉぉぉぉッ!!」
 シヴァの手を押し切る様に、足をふんばり槍を押す。まるで山を押しているようにビクともしない。それだけシヴァとフェイクマンには個体差があるのだろう。
「負けてたまるか……ッ!」
 体が軋み始めた。天使に改造された機械の体に、限界が近づいてきたらしい。
 昨夜、ヴァーユとの戦闘。あれがフェイクマンの体に与えたダメージは軽くないのだ。
 それに加えて、高出力のエネルギー放出。体がバラバラになりそうな激痛が全身に走る。
 苦痛に耐え、歯を食いしばる。しかし、それでもシヴァを貫けない。
「もういい。御堂春。諦めて僕に従え」
 シヴァの言葉で、ヴァーユとの戦闘が頭を過ぎった。
 本当に天使の為だけに動く人形。それだけは許せない。

 そして、ノキがそうなるのは、もっと許せなかった。

「させて、たまるかあああああッ!!」
 ドクン、と心臓が大きく高鳴った。左胸だけでなく、右胸からも。
 その瞬間、腕を纏っていたエネルギーが突然増え、力が今まで以上に溢れ出る。
「貫けええッ!!」
 シヴァの腕を抜け、外殻も貫き、槍は深々と半分以上もシヴァの腹に埋もれていった。
「う、ごぷ……ッ!」
「はあ……はあ……ッ、な、んだ。これ……?」
 シヴァの懐に潜り込んだまま、自分の胸をまじまじと見てみる。
 心臓の鼓動を、両胸から感じる。しかし、あの力は一瞬だけだったのか、どんどん体の力が弱っていく。
「く、くく……やっと、発動したか……」
 頭の上から声がして、フェイクマンはゆっくりとシヴァから離れた。
 口から血が漏れ出しながらも、シヴァは笑みを絶やさない。その様は、酷く不気味だ。
「キミの、改造人間としての能力は……二つの心臓による超高出力のエネルギー放出……」
「……まさか」
 フェイクマンの頭に、一つの仮説が浮かんでくる。そして、その仮説は、おそらく百パーセント正しい。仮説を確認すべく、フェイクマンはその仮説を口にした。
「……まさか、もう一つの心臓は、夏のか?」
 シヴァは、ゆっくりと頷いた。
「そう……。君たち兄妹の心臓をエネルギーポンプとして改造した」
 フェイクマンは、拳を握る。強化された皮膚が千切れそうになるほどに。
 その拳で、シヴァを殴ってやろうと思ったその時、シヴァは今まで以上に凶悪な笑みで呟く。

「僕の、実験台としてね……ッ!」

 一瞬訳がわからず、殴ろうとした手を止めてしまった。
 しかし、その一瞬は改造人間に取っては充分な時間。シヴァはいつの間にかフェイクマンの前から消え、ノキが張り付けられた十字架の根元に立っていた。槍を投げ捨て、ノキを見上げる。
「起動した、という事は実験は成功か! 心臓を一人の人間に二つ、というのはいささか不安があったが、問題無いようだ!!」
 言うや否や、シヴァのマフラーが触手の様に蠢き、磔にされたノキを巻き取る。
「何を――ッ!?」

「いた、だき、ます」

 しゅるしゅると布ズレの音を立てながら、天使は背中にノキを取り込んで行く。
 ずぶずぶと、底なし沼に填ったかの様に、ノキの体が天使に飲み込まれる。
「ノキちゃん!?」
 ゆっくりと、最後に残った腕も飲み込まれた。
 その腕はまるで、助けを求めていた様に見え、その瞬間フェイクマンはあの夜を思い出す。
 夏の最後。助けを求め、春に手を伸ばしていた。それを春は掴んでやることができず、妹を見殺しにしてしまったのだ。
 そして今、同じ事を繰り返し、ノキまでも天使の犠牲にされた。
「くくッ。思った通り、この子は改造人間の素材として――いや、僕のエンジンとして、最高の素材だ! 力がみなぎってくるぞッ!!」
 体が先程より一回り二回りも大きく、シヴァの体躯は筋肉でがっちりと固められている。
「さて……実験と行こうか。どれだけの力を秘めているのかを、ね」
 禍々しい輝きを増した左右の刃をこすり合わせ、フェイクマンを睨んだ。
 そして次の瞬間には、フェイクマンの目の前に立っていた。
 先程までと同じ一瞬でも、スピードの質が違う。今度は、フェイクマンの目にも写らない程のスピード。
「フッ!」
 瞬く間に体中を切り刻まれ、全身から血が吹き出す。
「あッ……!」
 ガードをする暇すら与えられず、フェイクマンは地に膝をついた。
「だが、まだまだ」
 丁度いい位置まで落ちたフェイクマンの頭を、シヴァの蹴りが真横の弾く。
「ぐう……ッ!?」
 頭が揺れる。視界も定まらない。今自分が立っているのか、倒れているのかすらもはっきりしない。
「で、も……! 負ける訳には……」
 地震が起こっているかの様に揺れる地面を押し、震える膝で立ち上がる。
「おお、おおおおおッ!」
 シヴァに向かって踏み込み、渾身の右ストレート。
 だが、それも硬い外殻に阻まれ効果はない。外殻に阻まれなかったとしても、シヴァを倒せるだけの力など、もうフェイクマンのは残っていない。
 その拳を見て、シヴァは心底がっかりしたかの様な深い深いため息を吐いて、呟いた。
「終わり、だ」
 その一言と同時に、シヴァの刃がフェイクマンの胸を貫いた。
 どくどくと傷口から赤い液体が漏れ出し、命が失われていく感覚を実感する。
 刃が抜かれると、フェイクマンは床に崩れ落ち、血はさらに激しく漏れ出してきた。
「キミはそこで死んでおけ。世界征服が済んだら、洗脳して生き返らせてやる」
 フェイクマンを一瞥し、身を翻してエレベーターに向かおうとするシヴァ。
 その足を、フェイクマンは残った力で掴み、なんとか足止めしようとする。
「ま、て……まだ、終わってない……」
 しかし、抵抗空しく、あっさり腕を振り払われ、天使はフェイクマンが乗ってきたエレベーターを操作し、上へと向かった。
「くそ……ッ! ごめん、ノキちゃん……ごめん、みんな……」
 守ると約束したのに。
 天使を倒すと約束したのに。
 全部果たせないまま、こうして死んでいく。
 それが酷く悔しくて、涙が流れた。
 結局、改造人間になっても弱いまま、何も守れないまま死んで行く。それが悔しかった。
『諦めちゃだめだよ。お兄ちゃん』
 ――トクン。
 小さいながらも、力強い鼓動が胸を叩いた。
『まだ終わってない。ノキちゃんも、まだ生きてるんだよ? 夏も力を貸すから、行こう!』
 ――ドクンッ!
 強く、胸を飛び出してきそうなほどに大きな鼓動が胸を叩いた。
「な、つ――なのか……」
 ああ、そうだな。夏。
 涙を拭いて、ゆっくりと立ち上がる。
 体は相変わらず限界。頭はクラクラするし、血がたりない。けれど。
「……まだ、ノキちゃんが生きてるならッ!!」

 約束は、終わってない!

 全身から、鮮紅色のエネルギーが漏れ出した。
 まるで今までダムに塞き止められていたかの様に、濁流となって溢れ出す。
「うおおおおおおおおおおおおおッ!! 行くぞ、天使ァァッ!!」
 膝を曲げ、真上に向かって跳躍。
 天井も拳で突き破り、一気に一階エントランスまでやってきた。
「……フェイクマン?」
 ちょうどエレベーターから降りてきたシヴァと鉢合わせ、彼は首を傾げながらフェイクマンに歩み寄ってくる。
「なんだ、そのエネルギーは。どこにそんな力を隠していた?」
「……これは、夏の力だッ!」
 今度は先程の仕返しとばかりに、フェイクマンが一瞬でシヴァの懐へ潜り込む。
 ガントレットを変形させた刃でシヴァを切り裂こうとするが、それはシヴァの両腕の刃に防がれた。
「くくッ……弾き返してやる」
「フンッ……ガアッ!!」
 鮮紅色のエネルギーを腕に纏わせると、まるでシヴァの両腕なんてないかのように刃を砕き、シヴァの胸に縦一文字の傷をつけた。
「なっ!?」
 血が勢いよく噴出し、返り血がフェイクマンの体に付着する。
「馬鹿なッ!」
「まだまだあッ!」
 左のストレートをシヴァの顔面に放つと、シヴァの体は受付カウンターに向かって勢い良く飛んだ。その衝撃でカウンターは破壊され、シヴァは瓦礫に埋れる。
「すごいな、その力……ッ!」
 しかし、すぐに瓦礫から這い出してくるシヴァ。
「キミをこのまま放っておくのは危険らしいな……。最大、最高の敬意を表して、ここで御堂春を殺す」
 シヴァの体から漏れ出すプレッシャーに、フェイクマンは右腕をガントレットに戻し、優から受け取った銃を取り出した。
「フッ、オオオオオッ!!」
 シヴァの全エネルギーが、彼の右腕の刃に集中していく。
 フェイクマンも右手に銃を持ち、銃口をシヴァに向けて構える。
 そして、自分の体を取り巻く全てのエネルギーを、銃に――銃の中にある弾丸に込める。
「さあ、行くぞ御堂春ッ!!」

 先に動いたのはシヴァだった。
 刃を振りかぶり、一瞬で距離を詰め、振り下ろす。
 それをフェイクマンは、銃を左手に持ち替え、ガントレットで剣を受ける。
 わずかばかりエネルギーをガントレットに移動させた為、ガントレットは破壊されたが腕は無事だった。
 そして、左手にあった銃は、天使の腹に突き刺さっていた。先程フェイクマンが風穴を開けた場所に。

「終わりだ、天使。お前の犠牲になった人たちの分。しっかり味わえッ!!」
 凄まじい音がした。ダイナマイトでも爆発したのか、という様な大きな破裂音。
「か――ぁ……ッ!」
 シヴァは覚束ない足取りでフェイクマンから離れ、力ない目でフェイクマンを見る。
「ふふ。……ははは。負けたか……。負けるつもりは、なかったのになあ」
「天使。ノキちゃんを、返せ」
 ダメージが許容範囲を超えたのか、シヴァの変身が解け、ゆっくりと天使へと戻っていく。
 そして――まるで天使と分離するようにして、ノキが現れ、フェイクマンに倒れかかってくる。それを優しく支えてやり、フェイクマンから御堂春に戻る。
 人間に戻っても、やはり体中傷だらけで、体力も底を尽きそうだ。
「安心しろ。まだ生きてる」
「ああ……知ってる。夏から聞いた」
 それを聞くと、天使はただ息を吐き出す様にして笑う。
「はは……そうかそうか。死んだ妹から、聞いたか……。――御堂春、何がキミをそこまでさせるんだ。……それだけ体をボロボロにして、得るものがあったか……?」
 春はノキの顔を見る。安らかに、不安なんて何もなさそうに眠る彼女の寝顔は、見ているだけ癒された。
「得る物なら、あったよ」
 そして、天使に聞こえるか聞こえないかくらいの声で、ささやく。

「この子が俺を救ってくれた。この子がいる限り、俺は人間でいられるんだ」

 それを聞いた天使は「そうか」と頷いた。
 春はズボンのポケットから、アキラの手錠を取り出し天使へと一歩踏み出す。
「自首しろ天使。お前は夏や――犠牲にした人たちに、償わなきゃいけない」
 すると天使は、白衣のポケットに手を突っ込み、携帯電話ほどの黒いスイッチを取り出し、親指でゆっくりと押した。
「――それには及ばない。僕は今、死を選んだ」
「お前、今何をした……?」
「ふふ……。僕はいつでも、自分の逃げ道を作っておかないと気が済まないタチでね……。今押したスイッチは、いつか警察が乗り込んで来た時に使おうと思っていた、この会社を爆破させる装置の起動スイッチだ……」
「な――ッ!」
「早く行け。あと少しで爆発するぞ。キミも死にたいのか」
 春はノキを抱え、入り口に向かって走った。
 自動ドアを蹴破り、外に出て、この会社の敷地外まで一気に走り抜ける。
 そして、門を飛び出し、まだ爆発しないのかと後ろを振り返った時だった。
 
AB社は先程の銃声以上の轟音を上げ、内から飛び出してきた爆炎によって崩れ落ち、赤い炎を燃やす。
 それはまるで、天使が痛い、苦しいと泣いている様に見えて、どこか後味が悪かった。

     

11 斗賀ノキ―Ending―

 AB社爆破から、もう三日が経った。
 ノキはその日の事は殆ど覚えておらず、アキラと電話して、春が心配になり山下公園まで行こうとしたところで記憶が途切れてしまっていた。
 春に聞こうと思ったのだが、全身の怪我を見てなんとなく自分が迷惑をかけたことは理解できたので、何も言えなかった。というより、ここ三日春と喋っていない。
 疲れの所為か彼は昼遅くまで寝ているし、起きてきてもなんとなくノキから避けてしまう。
 学校から帰り、コーヒーベルトのドアを開けると、カウベルが鳴る。
 そして相変わらず、カウンターの中でグラスを磨いている薫に出迎えられた。
「おかえり、ノキ」
「……ただいま」
 店の中にはまばらにお客さんがいた。勉強しているか読書しているかという、ある意味正しい喫茶店の風景。コーヒーの匂いを嗅ぎながら、ノキは部屋に戻ろうとする。
「ああ、ちょっとノキ。店、手伝ってくれないかな」
「……忙しくなさそうだけど?」
「忙しいのさ。グラス磨きに」
 それは単なる趣味ではないのか、とも思ったが、断る理由もなかったので手伝うことにした。
 カバンとブレザーを階段に置き、カウンターの中にある桜色のエプロンをシャツの上からかける。
「お父さん、後ろの紐お願い」
「はいよ」
 薫に背を見せ、紐を結んでもらう。
 結び終わると背中を小さく叩かれ、「皿洗いよろしく」と言われたので、シンクに向かって皿洗いをする。今日はなかなかの客入りがあったらしく、皿の数はいつもの倍はあった。
 スポンジを取り洗剤をつけ、平皿を磨いていると、カウベルが鳴って来店を告げる。
「いらっしゃいませ」とドアを見ると、入ってきたのは風祭優だった。
 彼女は薫の前に座り、薫に向かって笑顔を見せる。
「客としては久しぶりねえ」
「本当に。この間、ノキの部屋で寝てはいたけど」
「え? ……それってどういう」
 優は少し困ったように笑いながら、薫にコーヒーを注文する。
「いやあ、あたしもさあ、春に助けられたのはいいけど怪我しちゃってさあ」
 頭を掻き、面目ないと頭を下げた。
「この体で病院行くわけにもいかないし、ちょっと借りてたの」
「ああ……そういうことですか。別に構いませんよ。言われるまで気づかなかったですし」
「あらそう? ――ところで、春はどうしたのよ。まだ怪我で寝込んでんの?」
 優の問いに、ノキは一瞬固まってしまう。今の彼女に取って、春の話題はカサブタを剥がすような辛さがある。
「いや、ちょっと買い物を頼んだ。怪我はもう大丈夫だって言ってたから」
「それでも病み上がりに買い物頼むんだから、マスターもえげつないわよねえ」
 二人して笑い合い、薫は棚からコーヒーカップとソーサーを取り出し、サイフォンからコーヒーをカップに流し込み、優の前に差し出した。
「いや、僕もいいって言ったんだけど、平気の一点張りで。――まあ、それならいいかって」
「ま、アイツは今ものすごーく体が丈夫だから、平気でしょ。ねーノキ」
「え、あ、はい……」
 とっさのことに充分なリアクションができなかった。表情も少し落ち込み気味だったかもしれないと思ったが、ノキは自分の表情があまり変化しないことを自覚しているので、大丈夫だろうと考える。
「……何よノキ、ちょっと表情暗くない?」
 さすが探偵、鋭かった。
「え、嘘? いつもと変わらないような……」
 しかし父親は鈍かった。
 頭を押さえそうになるノキだったが、手が濡れているのでやめた。
「なんかあった? 学校で勉強難しいとか」
「……それくらいしか悩みが思いつかないなんて、逆に羨ましいです」
「あたしはそれしか悩まなかったのよ」
 コーヒーをすすり、何故か優は胸を張る。
 すると、またカウベルが鳴り、今度は鳴海アキラが入ってきた。
「風祭さんもいらしてたんですか」
「あら、久しぶりねえダメ刑事。元気だったかしら?」
「……どうしてヴァーユの時から、私をダメ刑事と呼ぶんですか」
「パッと見よパッと見」
 アキラは自分の見た目を気にしているのか、髪を手ぐしで直してネクタイを締め直し、優からスツール一つ開けた隣に座る。
ノキから見れば、アキラの見た目はエリート然としていて、ダメ刑事というのは少し印象に合わない様に思える。
「今日は何しに来たのよ。ただの客?」
「ええ、まあ。AB社の調査も一段落したところですし、コーヒーでもと」
「――口ぶりから察するに、天使はまだ見つかってないみたいね」
「……実はそうなんですよ。でも、まだまだ始まったばかりですし。――ところで、御堂さんはどこに?」
薫は短く「今は買い物」と言って、アキラにコーヒーを差し出した。
 軽く頭を下げ、そのコーヒーを受け取り唇を潤す程度に口をつける。
「あれ、そういえば珠子はどうしたのよ? アンタらいつも一緒だったくせに」
「水島さんなら、まだ仕事です。今頃は『仕事めんどくさーい』とか言いながらデスクに向かってますよ」
「ふーん。仕事手伝わないなんて、恋人にしては冷たいわねえ」
 優は下衆めいたいやらしい笑みを浮かべて言った。
「私と水島さんは、そういう関係ではありません」
 クールを装い、コーヒーを一口で半分ほど空けるアキラだが、その顔は耳まで赤くなっており、ノキでもそういう感情があるのは手に取る様にわかって、ついクスっと笑ってしまった。
「……で、ノキは何を悩んでるのよ?」
「え、……私は別に、悩んでないですよ」
「嘘吐かないの。あたしにはまるっとお見通しよ」
 どうも優に隠し事は無理らしいと感じ、ノキは正直に話すことにした。
「……実は、春くんと少し、顔を合わせづらくて」
 それを聞いた優は、「喧嘩でもしたの?」と無難な返事。
 しかし、それの方がまだマシな気もする。喧嘩ならいつかは終わるだろうが、この一人相撲は自分の中に区切りがつかないと終われないのだ。
「……私、いつも春くんには助けてもらってばかりで、この間のことも。私が全部知らない間に片付いてたから」
「ああ、そういうこと」
 やっとパズルが解けた様な明るい笑顔を見せる優。だが、その隣のアキラはまだパズルにハマっている様で、眉間に軽くシワを寄せ腕を組みながら、「それは仕方ないんじゃないですかね……」と呟いていた。
「男にゃわかんねーでしょうよ。守られっぱなしってのも、我慢ならない時があるのよ」
「そういうもんですか……」
「そういうもんよ」
 人生の真理を一つ見つけた、という風に感心しているアキラ。
 ノキは何故か、優の年齢がアキラの倍以上あるのではないかと思ってしまった。
「――でも、ノキちゃん。御堂さんはそんなこと気にしないと思いますよ?」
 とてもあなたの事を大事に思っていたようですし、とアキラは言った。
「……それは、私が夏ちゃんの代わりだから、ですよ」
 水を止め、濡れた手をシンクの縁にかけられたタオルで拭きながら、ノキは呟く。
「いや。そんな事はありませんよ。御堂さんはノキちゃんをとても大事に思ってます。初めてノキちゃんと会った時の話を聴かせてくれた時、こう言ってました。『あの子に救ってもらえたから、俺は人間でいられた』って」
 春がそんな事を言っていたのだと思うと、なぜだか少し嬉しくなった。
 胸の奥が少しだけ暖かくなるような、そんな感覚。
「――僕は今までの話、わからない所だらけだけどね、ノキ」
 今まで黙っていた薫が突然口を開き、ノキは薫の顔を見た。
 いつもと変わらぬ、優しい笑みを浮かべていた。
「今まで通りでいいと思うけど? 少なくとも春は、それを望んでいるはずだし」
「……そう、かな」
 それでもやはり、少し不安が残っている。
 しかし、優はぼりぼりと頭を掻き、酷くめんどくさそうに「まあ、あたしらにわかんのは、春はアンタに笑ってて欲しいって思ってるってことくらいよ」
「そうですね。私もそう思います。なにせ御堂さんは、ノキちゃんの味方なんですから」
 自分で自分の言ったことに納得しているのか、何回も頷くアキラ。
 優はズボンのポケットからチュッパチャップスを取り出し、ノキに投げる。
 それを危なっかしい手つきでキャッチし、包み紙を見る。そのアメはいちご味。
「とりあえず、おかえりなさいから始めたら? きっとよろこぶわよ」
 と、その時、三度目のカウベルが鳴った。
「ただいまー」
「あ」
 入ってきたのは、春だった。両手いっぱいに買い物袋を持って、ドアを開けるのにも難儀したらしい。
 ノキは小さな勇気を振り絞り、カウンターを出て春の元に歩み寄ると、小さく笑顔を見せた。
「――おかえり、春くん」
 すると、彼はノキが見せた笑顔より何倍も嬉しそうな笑顔で言った。
「ただいま、ノキちゃん」

       

表紙

七瀬楓 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha