Neetel Inside 文芸新都
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レインドッグ
最終話 家族のそれから

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最終話 家族のそれから

 春という季節は、とても暖かで、優しい。
 おだやかな空気が全ての動植物を包みこみ、育んでくれる。
 春。
 それは、成長の季節。

 この日は日曜日だった。
 パーン、パーンと、町に威勢のいい発砲音が響く。
 運動会日和だ。

 小さな、遠目から見れば少女と見間違えそうな女性が、子供の手を引いていた。
 子供はそれに輪を掛けて小さい。女性の骨盤くらいまでしかない。今年始まっ
た新しい戦隊シリーズの靴を履いている。
「おかーさん、おとーさんはどこにいるの?」
「おとーさんはね、色々大変なの」
「たいへん?」
「そう。なんたって、あんたのお父さんは人気者だから――」

 小学校の校門付近。ちょっとした人だかりが出来ていた。
 その数、約二十人ほど。
 通り掛った二人の少年が、立ち止まって人だかりを見た。
「なんだありゃ?」
「なんか、サインねだってるっぽいな」
「有名人かな」
「俺らももらうべ」
 こうして人は減るどころか増え続けていった。

 雄一の馬鹿野郎。
 女は、心の中でそう呟いた。
 押し殺した怒りは、決して表に表れることはなかったが。
 その顔は笑顔のままで、息子と戯れたり、向こうで椅子に座っている自分の娘を
指差して、息子と一緒に声援を送ったりしていた。
 組体操では、上から二段目に位置する娘をハンディカメラに映すため、小さな体
をこれでもかと躍らせて、娘の勇姿を映像に収めた。
 そして――いよいよ午前のメインイベントが始まろうとしていた。
 バトンリレー。
 昼食前、盛り上がりが最高潮に達するとき。
 雄一、死んで詫びろ。
 女は、さすがに怒りを内に留めてはおけなくなっていた。
 子供はそれを敏感に感じ取る。
「おかーさん、おこってる?」
「え!?」
「ぼくのせい……?」
「違うよー。雄馬は悪くないのよー」
「ほんとう?」
「ほんとよ」
 そう言って、女は雄馬と呼んだ息子を抱き上げ、太股の上に乗せた。
 全く、誰に似たのか。
 女はそう思いつつ、子供の頭をぽんぽんと叩いた。
 ――雄一だ。絶対。
 女は頷いた。

 校門前に車が止まり、中からジャージ姿の女が降りて来た。
「ありがとう!」
 そう言って女はドアを閉めた。走りだした車を見送ってから、視線を校舎上の時
計に移した。
 もうすぐ、真奈ちゃんが走るのね。
 女はそこで、やっと校門の人垣に気付いた。
 人はあれからも増え続け、もう四十人を超えていた。
 女は長身をさらに背伸びさせて、中央を見ようとした。
 そこには、よく知っている顔があった。
 義理の兄の顔である。
「雄一さん!?」
 女は、本当はそこで小一時間ほど悩んでいたかった。
 しかし今は時間がない。もうそろそろバトンリレーが始まるのだから。
 人を掻き分けて、女は中央の雄一と接触した。
「何してるんですか!」
 雄一は、書いても書いても終わらないサインに追われていた。
「あ、ありすちゃん」
「もう……真奈ちゃんのリレー始まっちゃうじゃないですか!」
「分かってる、分かってるんだけど……はいどうぞ!!」
 半ばヤケになったように雄一は叫んだ。
「プロ野球界の現状を考えるとね、やっぱ選手はプライベートでもこうして頑張っ
てファンサービスを――」
 雄一のご高説に聞く耳持たず、ありすは雄一の腕を引っ張り、無理矢理人垣から
抜け出して、校庭に向かって走りだした。
「ちょ、腕痛い腕!! 商売道具商売道具!!」
「野球界よりまず自分の子供でしょ!」
「キャ、キャラが違う!!」
「ずっと子供なわけないでしょ! ほら早く」
 ありすは雄一の手を離した。
「今の真奈ちゃんを見てあげなくちゃ駄目です」
「…だね」
 二人はそう言って、再び走りだした。

 スタート直前の緊張感が、校庭に漂っていた。
 スタート地点。四人並んでいる。クラウチング・スタートの姿勢。
 スタート係の教師が、すっと右手を上げる。
 静寂。
 発砲音。
 動。
 舞う砂埃。
 躍動する子供達。
 クラスメートや、親の歓声。
 ビデオ係の親の喧騒。
 小柄な女は、騒然としている群を、まだ冷静に見据えていた。
 ――真奈は、アンカー。
 アンカーを撮るのには最高のポイントに、女は立っていた。
 勿論、それは他も皆知っている。だからこそ人が集まっている。
 女は思った。まだ争うには早い、と。
 勝負は一瞬。
 一切の障害なく。
 娘の躍動を。
 余すところなく――
 ――捕らえ切る。
 女は、溜めていた。

 走者は、一斉にコーナーに入った。
 既に二人目に代わっている。
 爆発。
 爆発。
 爆発。
 爆発。
 幼い、八つの柔な大腿部の筋肉が躍る。
 そしてそこから生み出された力が、足裏から地面に叩きつけられる。
 走るとは、それの繰り返しだ。
 瞬きする間に、第三走者にバトンが渡る。
 一番外側の走者がバトンを取り損ねた。致命的なロスだ。
 そして、そのレーンのアンカーこそ、真奈だった。
 走者はすぐにバトンを拾い走りだしたが、それでも前との差は約十メートル開い
た。

 その頃、雄一とありすが校庭に到着した。
 既にリレーが開始されていたことに二人は愕然とした。
「今走ってるの何年だ? 三年かな?」
「…ですね、多分」
「まだアンカーじゃないよね。間に合ったか……」
「サインをもっと早く切り上げればよかったのに」
「ごめんなさい」
「まあとにかく、見てあげましょう、真奈ちゃんを!」
「うん」

 女は、すっと動き出した。
 群の前で、深くしゃがみ込み、そのまま数秒静止する。
 溜めている。
 溜めている。
 溜めている。
 そして――弾けた。
 跳躍。
 女は、群を飛び越えた。
 そして即座に膝を折って、ハンディカメラを構えた。
 目の前には、娘を撮るのに何も遮蔽物がない。
 女はただ、カメラに集中するだけで良かった。

 雄一は、目ざとく見つけた。
 飛び上がる女を。
「あ、れいん」
「本当」
「二十五にもなって、元気だな」
「ですね」
 二人はなんか頷いた。
「あ」
 雄一が、声を出した。
「どうしたんですか?」
「あいつ、雄馬は?」
「あ!」

 女は――れいんは、忘れていたわけではなかった。
 お隣に座っていた、いかにも親切そうな奥さんに、見てもらっておいたのだ。
 
 コーナーを周り終え、遂に最終走者――アンカーに近付いてきた。
 しかし、真奈のレーンは、まだコーナーを周っている途中だ。
 真奈は、悠然とウォームアップをしている。
 来るべき、爆発させるべき時に向けて。
 
 バトンが渡った。
 先頭。少し遅れて二位、三位。
 かなり遅れて、真奈に渡った。
 真奈は、速かった。
 ゴールまでは僅かだが、ぐんぐん二位三位との差を詰めていく。

「真奈いいぞー! ぶっこ抜けー!!」
 カメラに音が入ることなど厭わず、れいんは叫んだ。

 真奈は燃えていた。
 逃げるより、追う方がモチベーションを上げられる。
 彼女には、両親譲りの高い身体能力があった。
 それに、勝利への明確な意志が上積みされた。
 今の真奈は、強かった。
 一歩踏み込む度に、確実に前との差を埋めて行く。
 真奈の豪脚は、八十メートルを残して二位グループを完全に捕らえていた。
 その姿を見て、ブロードアピールの根岸Sを思い出した老人がいたが、それはど
うでもいい話だ。

 真奈の走りを見て、雄一とありすは雄馬のことなどどこかに忘れてしまうほどに
興奮していた。
 雄一は拳を振り上げ、愛娘のために叫ぶ。
「頑張れまー! 全部抜いちまえ!」
「凄い凄い! 全員抜いちゃうかも!」
「抜くよ! 俺の子供だもん!」

 捕らえてからは、一瞬だった。
 真奈はあっという間に二位グループを追い抜き、単独二位に上がった。
 前にいるのはただ一人。隣のクラスの男子。
 アンカーになるだけあって速い。
 その上、真奈のクラスとは常にスポーツで張り合っているクラスである。そこの
アンカーなのだから、そのスピードは、他の二クラスのアンカーの比ではない。
 真奈も必死に走り、徐々に差は詰めているが、いかんせんもうゴールまでの距離
がもうなかった。
 もう一度、発砲音が響いた。

 戻ってきた真奈は、あからさまに悔しそうな顔をしていた。
 れいんはそれを見て取って、真奈に言った。
「おしかったよ。頑張ったね」
 真奈はそれを聞いた途端、ダムが決壊したように泣きだした。
「おかーさん……くやしい……」
 れいんは笑って、真奈を包み込むように抱いた。
「よしよし。泣くな。あんたは最高だ」
 そう言って慰めると、真奈から体を離して、背を向けてしゃがんだ。
「…お母さん」
「おぶさらないの?」
「…恥ずかしいよぉ」
 ――それもそうか。
 ここは学校。真奈も友達に見られたら恥ずかしいだろう。
 れいんはそう思い、また立ち上がって、真奈の手を掴んだ。
「昼ご飯食べよ。ね。今日はまーの好きなサンドイッチだからね!」
「卵とマヨネーズのやつ?」
「お母さんが、あんたの好みを外すと思って?」
 れいんの言葉を聞いてすぐ、真奈は少し笑顔になった。

 シートには、一足速く雄一とありすが座っていた。雄馬を上に乗せている雄一を
見て、れいんは烈火の如く怒り狂――わない。
 雄馬がれいんの目をじっと見ている。怒れるわけもなかった。
「二人は、どこで見てたの?」
 とだけ言った。にこりとして。雄一には、その顔が気味悪く思えた。家に帰った
後の惨劇を予感させる、そんな笑顔だった。
「ゴールのすぐ前くらいよ、お姉ちゃん」
「…真奈、惜しかったなあ」
「うん……あいつに負けたのが悔しい」
「あいつ? あの、アンカーの子か?」
 雄一がそう言った刹那、真奈からマシンガンのように言葉が次々に飛び出してき
た。
「そう! あいつね、最悪なんだよ! 合同体育でさぁ、いっっっっっっっ……っ
つもあたしに絡んでくんの! もう、マジで嫌! あたしのこと嫌いだからってそ
んなに絡んでこなくていいじゃん!!」
 地雷踏んだか――雄一は、日頃あまり接することの出来ない娘に、安易に話し掛
けてしまったことを悔いた。
「そ、そうなのか。でもさ、多分、その子はお前のこと嫌いじゃないと思うぞ?」
「なんで?」
「ほら、なんだ。男ってのはさ、そういうところがあるもんなんだよ。女より子供
だから。好きな子にどうやって接していいか分からないんだな。な? あるよな?」
 雄一は、れいんとありすに同意を求めた。
「あるの?」
 れいんは、ありすを見て言った。
「私、女だし……」
「あたしも女だし」
「う」
 そのとき、雄一は、忘れていた存在を思い出した。
 雄馬。
 雄一が上に乗せている、五歳の長男。
「なあ、雄馬。女の子にどう接していいか分かんないことあるよな?」
「分かんない。パパ、手離して」
 雄馬は雄一の上から降りて、ありすの方に駆けて行った。そしてそのまま、あり
すの上にちょこんと乗り上がった。
「おねえちゃん好きー」
「うふふ。お姉ちゃんも雄馬君好きだよ」
 この二人は、やけに気が合った。ありすの子供時代と今の雄馬の性格が似ている
せいもあるのだろう。
 雄一は、こういう時孤立しがちであった。
 一年の半分以上を単身赴任状態で過ごす者がほとんどであるプロ野球選手の多く
が抱える悩みだろう。
「まあ、それは置いといて、だ」
 れいんは、バッグから大きな包みを取り出して、それを開いた。中にあったのは
三段積みの重箱だった。
「食べよう」
「サンドイッチー!」
「ウインナー!」
 真奈と雄馬が飛び上がって叫んだ。ありすはそれを笑って見ていた。
 雄一は、隅の方で遠くの山を眺めていた。
 それを見て、れいんが雄一の背後から抱き付いて、耳元でそっと言う。
「帰ったら、そんな気分が吹っ飛ぶようなこと教えたげるからさ、元気だしなよ」
「…ファンにも子供にも好かれてぇ……」
「まーもゆーも、雄一のこと大好きだって! テレビではいつも応援してるんだか
ら!」
 本当は、いつもバラエティやアニメを見ているのだが、さすがにここで本当のこ
とは言えなかった。
「…ホントに?」
「あたしは嘘はつかないって、知ってるでしょ?」
 嘘はいけないことだ。だが、相手を思う嘘なら付いてもいい。それがれいんの考
え方だった。
「そんな風にいじけてたら、本当に嫌われちゃうぞ」
 男って、ガキになって大人になって、そしてまたガキになるんだなあ。れいんは
ふと、そんなことを思った。
 それから、五人で昼ご飯を美味しく楽しく食べた。笑顔に包まれた空間が、そこ
に形成されていた。

 運動会が終わる頃、空は赤く染まっていた。
 疲れて眠っている真奈をれいんがおぶる。雄一は右手でシートを抱え、左手で雄
馬の手を握り、持ち上げている。もう片方の手はありすによって掴まれ、二人の手
をブランコにして、雄馬ははしゃいでいた。
 家は、小学校から徒歩五分のところにある。
 あっという間に到着してしまったので、雄馬は不満そうに雄一とありすの手を揺
らすのだった。

 午後八時。雄馬もぐっすり寝静まって、三人は軽く酒を飲みながら、話し込んで
いた。
「…でも、真奈ちゃん、凄い速かったよね」
「あともうちょっとゴールまで距離が残ってたら抜けただろうなぁ。まあ、相手も
速かったけどさ」
「今日撮ったビデオさ」
 れいんの言葉に、二人が耳を傾ける。
「ありすに送るからね。後、美貴にも」
「そういや、相沢頑張ってる? サーカス団の上役になったんだろ、確か」
「ええ。常務、凄くウチの将来のことを考えてくれてるんです」
「常務?」
 れいんの言葉に、ありすはあ、と短い声を上げた。
「美貴お姉ちゃんね、常務って」
「ああ」
「後何年かしたら、社長の後を継ぐんだって」
「まあ、美貴なら成功するよね。あの子鋭いし」
「…だろうな」
 雄一は、美貴の話になるとたまに俯くことがある。罪の意識があるからだ。俯い
て、小声で呟くのが、この場合は常である。
 その時、着信音が鳴った。ありすはジャージのポケットから携帯を取り出し、耳
に当ててから通話ボタンを押した。
「あっ、おねえ……じゃなかった、常務」
 電話の主は、美貴だった。
『ありす、あんた今日どうするの? 泊まるの?』
「ううん、帰るよ」
『そう。じゃあ車寄こすから、その時に電話してよ』
「うん。分かった。じゃあ――」
『あ、待って。れいんさんに代わってくれない?』
「あ、うん。お姉ちゃん」
 れいんは携帯を受け取った。
「久し振りー」
『そうですね、一年くらい顔見てないかも……』
「真奈も雄馬もでっかくなったよ」
『そうでしょうね。二人とも、すぐにれいんさんより大きくなっちゃうんじゃない
ですか?』
「そうだと嬉しいけどねえ」
『真奈ちゃん、大きくなったらウチに入れてみませんか? 二人の子供なら、絶対
に身体的才能はありますし』
「そこは、本人の意思に任せるわ。真奈がやりたいことやらせるつもり。幸い、う
ちはお父さんが頑張って稼いでくれてるから――」
『せんぱい、去年二桁勝利しましたもんね。日本シリーズでも第何戦かは忘れたけ
ど、投げてましたし』
「有名になっちゃったねー。今日もさあ、校門前でファンに囲まれてたんだよ? 
野球選手ってのは、何だかんだ言って皆に知られてるんだね」
『地元から出たヒーローみたいな存在ですよ、せんぱいは』
「ヒーロー、ねえ……子供に好かれてないー、とか言ってヘコんでる男がヒーロー
か。ふふふ」
「れいん、ちょっと俺に貸せ」
 雄一が、携帯を奪い取った。
「相沢?」
『あ、せんぱい。一昨日、今シーズン初勝利おめでとうございます!』
「ああ、ありがと。今回失敗したら中継ぎ降格とか言われてさ、マジでケツに火が
点いてたよ」
『せんぱいはコントロールのいい、安定した投手ですから、そろそろ結果を出すと
は思ってたんですけど、やっぱり心配で……』
「球が遅いからさ、変化球が良くない日はつらいんだよな。だから世間で言われる
ほど安定してるとは、自分では思ってないんだけど」
『毎試合見てます。見れないときも録画して、必ず』
「相沢も頑張ってるみたいだな。ありすちゃんに聞いたよ。偉くなったんだって?」
『大したことないですよ。父親のお陰ですから』
「オフになったら、また見に行くからさ。チケットくれな」
『もちろん!』
「貸して!」
 今度はれいんが携帯を奪った。
「あ、美貴? 今度さあ――」
 二人は本当に仲良いなあと、奪い合いの様子を見ながらありすは思っていた。

 ――正直な話、真奈ちゃんと雄馬君は、あまり見たくない。
 見ると、嗚咽が込み上げてきそうになるから。
 私は――どうやらまだせんぱいを愛している。
 せんぱい以外の男と付き合ってはみたけれど、誰も心底から好きにはなれなかっ
た。
 れいんさんとせんぱいが、本当に結ばれて、真奈ちゃんが生まれて、せんぱいが
プロ入り失敗して就職して、そこで結婚をして、それからすぐ雄馬君が生まれて、
社会人ドラフトでロッテに入って――
 ――私はそれを、少し離れたところからずっと見てきた。
 慣れたと思ったのに、でもやっぱり、子供を見て、平静を保っていられる自信が
ない。
 私はなんて弱いんだろうか。
 とっとと諦めて、手頃な相手と結婚して、子供を作って――
 ――そういうビジョンが、まるで湧いてこない。
 私はずっと、一人でいよう。
 …でも、もし、二人に隙が――
 ――って、私の馬鹿!
 美貴は、通話を終えた携帯で、頭を小突いた。
「…あー、仕事楽しいなぁ、ちくしょー」

 ありすが家を出て、数時間後。二人はシャワーを浴びた後、布団に入った。布団
は四枚並んでいて、左脇に真奈が、右脇に雄馬が眠っている。雄一は真ん中の左側、
れいんは右側の布団に入った。
「…ふー」
「雄一、明日何時に起きる?」
「あー、そうだな、出来るだけ早く千葉に着きたいから、八時には起こしてくんな
い?」
「分かった。一日一善ね」
「まだあったのかよそれ」
 雄一は苦笑して言った。
「そういやさ」
 れいんが言った。
「ありす、もうアーティスト引退してたって、聞いてた?」
「え、そうなの?」
「うん。じゃなかったら今日来れてないでしょ。こっちで公演してるわけでもない
のに」
「そういえば、そうだな。しかし早いな。まだ全然出来るように見えたけど」
「相沢サーカス団は、若手育成に長けてるでしょ。だから、下からどんどんいい人
材が出てくるから、席を譲るためだって。まだやりたい人は別のサーカス団に移っ
たりするみたい」
「へー」
「ありすね、育成コーチになるんだって。本社の」
「じゃあ――」
「そう、ここに住むんだよ。これから週に一回はうちに来るってさ」
「良かったじゃん、ゆーも喜ぶんじゃない?」
「益々ありすにゆー取られちゃいそう」
「あ……」
 雄一は、そう漏らすと、布団に潜るふりをした。
「嘘だって。男の子なんだから、大丈夫だよ。お父さんが頑張れば、その背中を見
てくれるって、誰かが言ってた」
「誰だよぉ」
「ゆーも、弟でも出来れば、ちょっとは男らしくなるかなあ」
「ああ、そうかもな」
「でも、妹もいいよね。真奈もちょっとは女の子らしくなりそうだし」
「…うん?」
「まあ、どっちでも、愛してくれるよね?」
「…って、ちょ、おま」
「…うん、うまくいったよ」
「きたか! あ、昼の話ってのは、これか!?」
「オフのハワイでの仕込みが効いたね」
 雄一は破顔して、れいんの手を握った。
「よかったよかった」
「うん、よかった」
「これは、俺も頑張らないと――」
 雄一のセリフが、れいんの口で塞がれた。
「雄一、ありがとう」
「俺こそ……ありがとう」
 二人はそうして、長い時間見つめ合った。

 こうして、ある一つの家族が出来た。
 それは、とても幸せな――


レインドッグ 終

       

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