Neetel Inside ニートノベル
表紙

ニートノベル創刊2周年の宴
ニノベ二周年記念読み切り「稚子は向こうで笑ってる」/黒兎玖乃

見開き   最大化      



「ねえねえお姉ちゃん」
 通学途中に、横からひょこっと顔を出して加奈子が訊ねた。
「人って、死んじゃったらどうなるの?」
「死んだら? うーん、お姉ちゃんに聞かれてもねえ……」
 私だってまだ加奈子と同じ小学生だから、そんな難しいことは分からない。
 当然のごとく、知らない、と私は返した。
「そうなんだ……お姉ちゃんでも、分からないことはあるんだね!」
「当たり前じゃない」
 私は呆れた口調で、ぴしゃりと言い放った。
「でもね」
 そんな私の横から一歩飛び出して、加奈子は笑いながら言う。小さな体に不釣合いに大きいランドセルが、ゆさゆさと揺れた。
「私は、知ってるよ。人が死んだら、どうなっちゃうのか」
「……え?」
 私は何も言えなかった。私が知らなくて、加奈子しか知らないことなんて、今の今までなかったことだから。
 加奈子は私のほうを向いて、後ろ歩きする。
「あ、大人は分からないけどね。子ども限定」
「……だったら、どうなるって言うの?」
 私が訊くと、加奈子は嬉しそうに答えた。
「もう一つのね、学校に行くの。それでね、私たちのこと、ずーっと見てるんだよ」
「ちょっと、加奈子……」
「それでね。こっちにおいでって、笑ってるの。遠いところでね」
「加奈子!」
 私はつい、叫んでしまった。びく、と加奈子の表情が強張る。
「そんなこと……言うんじゃないの!」
「ご、ごめんなさい……」
 はあ、と私はため息をつく。加奈子はばつが悪そうに俯いているままだった。
 通学路の真ん中に、私たちは立ち尽くす。
「ほら、学校に行くよ」
「う、うん……」
 私は無理矢理加奈子の手を引いて、学校への道を急いだ。
 遅刻しそうだからとか、怒っていたからとか、その程度の理由じゃない。
 その時私は、半ば怯えていた。加奈子は嘘を言うような妹ではなかったから、いくらそれが冗談だったとしても本当のことのように感じられてしょうがなかった。
 死んだ子どもたちは、ずーっと、私たちのことを見ている。
 そう考えただけでも、嫌な悪寒が背筋に走った。
「……大丈夫」
 私は加奈子にではなく自分にそう言い聞かせて、先を急いだ。

 ――それから、一ヵ月後。
 加奈子は友達の家に遊びに行っている途中、謝って川に転落し、まもなくこの世を去った。


     †

「――美和子? 聞こえてる?」
「聞こえてるよ、何?」
 お母さんの声が階段の下から、ドア越しに聞こえてきた。
「今日、加奈子の三回忌だから……準備しておいてね」
「ああ……。うん、わかった」
 私の返事を聞くと、お母さんはあわただしそうにばたばたと音を立ててどこかに行った。多分、色々としなければならないことがあるのだろう。私にはまだ、よく分からない。
 妹の加奈子が死んで、もう二年。だけど私には、まだその事実が受け止められなかった。
 ふと後ろを振り返れば、今でも机には加奈子が座ってそうな気がしたのだ。
 ぎい、と椅子を回転させて、今は使われていない勉強机を見つめる。だけど、そこには加奈子はいない。加奈子のいた形跡はあるけど、当の本人はどこにもいない。
 空席になった椅子を、一人きりで眺める。私は、ぎい、ぎいと椅子を左右に回転させる。
「本当に、死んじゃったのかなあ……」
 実際に死ぬ現場を見たわけではなかったから、実感が湧かない。通夜の時にもう動かなくなったと言う加奈子を見たけれど、私からしては今にも動き出して、また「お姉ちゃん」を駆け寄ってきそうだった。火葬場には行かなかったけれど、戻ってきたときにお母さんが号泣しながら抱えていた加奈子は、小さな箱になっていた。その後、加奈子はお墓の下に埋められた。
 それで、今日は加奈子の三回忌。一回忌は出てなかったから何をするかはよく分からないけど、とりあえず供養みたいなことをした後に、会食をするらしい。
 でも、何で二年目なのに三回忌なんだろう?
 そんなことを考えていると、下からお母さんの呼ぶ声が聞こえた。私は昨日からいつの間にか用意されていたらしい喪服に着替えて、階段を駆け下りた。
「ごめんね……美和子。あんたが一番辛いだろうに、急かしちゃって」
「気にしないで」
 私は抑揚なく答えた。
 お母さんはそれをどう受け取ったのだろうか。悲しそうな顔をして、私の服を一通り調えると、洗面所に篭りきりになってしまった。多分、私が悲しみのあまり感情喪失に陥ったとでも思っているのだろう。
 でも実際は、そうではなかった。
 私は悲しむどころか、どうしてこんなことをするのかと言う疑問を抱えていた。
 加奈子は死んだ。もしそれが真実なら、それでいいじゃないか。なのにどうして、しつこく加奈子の影を引きずっているんだろう。加奈子は大雑把だったから、本人もそんなこと望んでないと思うのに。
 私はリビングのソファに座って、一息ついた。外ではお父さんが、親戚のおじさんとなにやら話をしている。おじさんと視線が合うと、おじさんは小さく会釈したので、私も小さく会釈した。お父さんはと言うと、お母さんと同じような目でこっちをちらりと見ると、再びおじさんと会話を再会した。
 お父さんの考えてることは、多分お母さんとは違う。お父さんの悲しみの対象はきっと私ではなく、加奈子に対してだ。しかも、直接ではない。私の態度を見て、私が加奈子の死をさほど悲しんでいないと思ったんだろう。まるで加奈子を哀悼するような瞳だった。
 別に、それに対しては否定しない。私はそもそも加奈子の死をまだ受け入れられていないし、多分これから先も、たぶん大人にならない限りは信じることはない。
 だって、こうやって考えてるうちに、加奈子のあの言葉を思い出してしまったから。
『私は、知ってるよ。人が死んだら、どうなっちゃうのか。もう一つのね、学校に行くの。それでね、私たちのこと、ずーっと見てるんだよ』
 もしそれが本当だとしたら、たとえ加奈子は死んでいたとしても、どこかで私たちを見守っているはずなのだ。もう一つの学校――と言うのはよく分からないけれど、とりあえずその学校から、加奈子は私たちを見守ってくれている。加奈子は今も、私たちのすぐ傍にいるんだ。
 だから私は悲しみはしないし、だからと言って加奈子の死を厭うこともない。
 だって、加奈子はまだ私たちの近くにいるんだから。
 外を見るとお父さんが手招きしたので、立ち上がって玄関の方に――――

 ぴちゃん……

 行こうとすると、ふと耳の奥で水の落ちる音がした。
 ちょうど、小さな魚が水面に跳ねたときのような音が、小さいけれど脳裏にはっきりと響いた。
「…………?」
 周囲を見渡してみても、水の気配はない。あるとしたら台所と洗面所だけど、どちらも見たところ水を出しっぱなしにしている様子はないし、それ以前にもしそれらの場所から聞こえたとしても、こんなに小さい音ではすまないと感じた。
「なんだろ」
 私は言葉に出して訝しんだけど、本当はそこまで怪しんではいなかった。
 お父さんが玄関まで来ていたので、急いで靴を履いて、外に出る。

 ぴちゃん……

 もう一度はっきりと聞こえてきたけど、気に留めることはなかった。
 私は外に出ると、何人かいたおじさんはおばさんに挨拶をした。暫くお父さんと話をしてみると、供養と言うのはお坊さんが来てうちの家でやってくれるらしい。私はその場にはいないでいいみたいだ。ただ、その後加奈子のお墓参りに行くからそのときに来てくれればいいとのことだった。
 私はそんな事情を聞くと、特にこれ以上外にいる意味はないと踏んで、家の中に戻った。靴を脱いで、再び二回の自分の部屋に向かうと、椅子にゆっくりと座った。
 カチ、カチと時計の秒針の音だけが部屋の中身を支配する。私は背もたれに寄りかかって、ぎい、ぎいと再び椅子を左右に揺らし始めた。お母さんはしてはいけないと言ったけど、これが結構楽しいもんだから、やめられない。加奈子とも良くやっていた。今は、一人分の音しかしないけど。
 私はそのうち椅子から降りて、ベッドの上に転がり込んだ。耳を澄ますと、網戸越しに下から人の話し声が聞こえてきた。次いで、玄関扉の開く音がして、どたどたと何人もの人が家の中に入る音がした。今から法要とか供養とかそういうのを始めるんだろう。お坊さんが来るぐらいあるんだから、お経でも読むのかな。
 特にそれ以上興味は湧かなかったから、窓を閉めて一切の音を遮断する。再び、時計の針だけが声を上げ始めた。
 今の私が興味を持っているのは、加奈子の死ではなく、加奈子の言葉だ。

 ――――死んだ子どもは、あの世にある学校で、私たちのことを見ている。

 今思うと、それが本当のことのように思えて仕方がなかった。その証拠に、先述した通り私は加奈子が死んでしまったとは微塵にも感じていない。だから、加奈子はどこかで私のことを見ている。いつしかそう強く信じるようになった。
 最初は、ふとその言葉を思い出して。
 思い出したら、忘れなくなって。
 忘れなくなったら、強く信じるようになった。
 そして、私は加奈子の死を信じないとまで行かなくとも、〝死んでいない者〟として捉えるようになった。
 加奈子はきっと、この世でもあの世でもないどこかで、私のことを見ている。確証はないけど、確信だけはある。これだけは、誰にも否定させない。私はそう信じて疑わなかった。
 加奈子の机を見やって、そこにおいてある写真立てを眺める。家族で遊園地に行ったときに、私と加奈子で並んで撮ってもらった写真だ。加奈子の純粋な笑顔を見ていると、今にもそこから飛び出してくるんじゃないかと錯覚することもある。
「まさかね」
 私は自分の考えていることに苦笑して、写真から目を放す。
 その直後。

 ぴちゃん……

 再び、水が跳ねるような音が、鮮明に聞こえた。
「……え?」
 私は首を傾げた。
 見たところ、この部屋には蛇口も何もないし、別に麦茶とか飲料を持ち込んでもいない。
 それなのに、今。私の部屋のどこかで、水の跳ねる音がした。私は立ち上がって、本当に部屋に液体物を持ち込んでいないか、確認した。もちろん、どこにもあるはずがなかった。
「それじゃあ、今のは?」
 返ってこない問いかけを、部屋のどこかにあるものにぶつける。当然、返事はない。
 返ってくるのは、

 ぴちゃん……

 という、聴覚神経に直接音を流し込んでいるような、鮮明すぎる水の音だった。
 もしかして、私が何か病気にかかっているのか? とも思った。しかしそれでも自分の髄液が落ちる音とかは実際聞こえないだろうし、そもそもそんな状態だったら私までもが命の危機だ。
 そうなると、一体何の音なんだろう?
 不安までは行かなくとも、私は不思議に、不審に思った。

 ぴちゃん……

 雨粒が水溜りを穿つような音は、一向に止まらない。それどころか次第に水音は大きくなっているような気さえして、さすがに不安の色が隠せなくなった。今自分の顔を鏡で見たら、恐らく眉間に皺が寄っているだろう。
 静寂をぽつぽつと切り裂く、液体物の落下音。とうとう私は頭がおかしくなってしまったんじゃないかと思い始めた。つまりこれは幻聴ではないか、と、私の思考は結論付け始めた。
 しかし、実にはっきりと、水音は私の鼓膜の外側と内側を彷徨い続ける。ここまで来て、私はようやく冷静に事を考え始めた。
「水の音ってことは、幻聴にしろ何か水に関係があるのかな?」
 怖いもの知らずな私は、脳内の記憶から水関係のものを引っ張り出していく。この間行った水族館のイルカショー。おやつの水羊羹。一週間も続いた雨。歯磨きしていて水で口を漱ぐと血が出てお母さんが慌てた。化学実験の水の電気分解。それくらいしか、思い出せない。そもそも水って普遍的なものだから、特定の事件が起こらない限りはそこまでリアルには覚えていない。私の記憶力が乏しい所為もあるだろうけど。
 と、その時。
 私は忘れてはならない「水」を思い出した。
「そう言えば……」
 途端、あれほど頭蓋に響いていた滴の音が、ぴたりと止んだ。
 しかし、私は気付かずに、呟いた。

「加奈子は、川に落ちて死んじゃったんだっけ――――」
 その、刹那。




 ――――げぼげぼごぼげぼごぼっ!!

 と、まるで吐瀉物を思い切り撒き散らしたかのような音が、鼓膜を劈いた。
「っ――――!?」
 私は思わず眉をひそめて、すぐさま両手で耳を塞いだ。
 しかし、音は止まらない。個体と液体が混じり合ったものが次々と落下する音は身体の奥底を激しく刺激して、相乗効果でこちらまで気分が悪くなってきた。びちゃびちゃびちゃ、と凄惨な嘔吐音が全身の神経を擂り潰していく。身体中の臓器と言う臓器が締め上げられるような感覚がして、喉元まで吐き気が這い上がってきた。
「う………………!!」
 私は急いでトイレへと走り、便器の前にしゃがみ込んだ。そして、おなかに力を込める。――しかし、口からは何も漏れて来なかった。漏れるのは、弱々しい私の阿吽の音だけ。
 もう一度、思い切りいに力を込める。今度は喉元に手ごたえがあった。しかしそれはあまりにも巨大で、息をするのも苦しくなった。
 ――何!? これは一体、何!?
 ひたすら自問自答を繰り返しながら、喉の辺りをずいずいと競りあがってくる異物を、力の限り押し出した。粘膜にへばりついているような感じで、なかなか出てこない。このままだと、息ができなくて死んでしまう。
 私は全身全霊で、げぽっ、と一気に口の中にまで逆流した「何か」を、便器の水の中に吐き出した。
 ぼちゃんと、身体の外に出た異物が水に落ちる音が聞こえる。
 私は苦しみの所為でいつの間にか流れていた涙と汗とを拭って、その正体を見る。
 そこに浮かんでいたのは――――どろどろに解けている、赤い歪な球状の物体。ところどころ肌色が露出しているけれども、その表面は赤い何か――多分血だと思うけど――で覆われていた。
 異形を吐いて大分落ち着きを取り戻した私は、それが何なのか確かめるために、便器を覗き込んだ。
 血赤色の球は、ぷかりと浮かんで、少しずつ回転していた。ゆっくり回転していくのを見ていると、それには大きな凸の部分が一つあることが分かった。それと、囲むようにして三つほどの穿孔がある。
 そこで始めて私は、その異形の正体に気付いた。しかし、気付いたところで、もう、遅かった。
 私は回転した異形と、〝目が合った〟。
 そして――――

 歪な球状をした異物は、まるで人間のそれのように眼、鼻、口と思しき部位を持っていて、こちらを向いた瞬間、眼らしい部分から赤黒い眼球が、じゅるり、と盛り上がって、飛び出した。
 そして、口が不気味にゆがんで、にっこりと笑った。
 そう。

 ――――頭蓋のない、奇形児だった。


「きゃああああああああああああああああああああああ!!」

 私は思わず自分の頭を手で覆って、悲鳴を上げた。そして次の瞬間にはトイレから飛び出して、誰かに助けを求めようと階段を駆け下りていた。
 お経とかの邪魔になるだろうけど、しょうがない。失礼を承知で、私は供養が行われている和室の襖を、思い切り開け放した。
 そこにいたのは、驚きを隠せない親戚たちmではなく。
 身体のありとあらゆる部分が解け、どこが腕だか頭だか足だか分からなくなるぐらいに癒着した、お父さんとお母さんとお坊さんと親戚、全員が混ぜっ返されて、まるで溶けたチーズのようになった人間の集合体。
「ひっ――――――――!!」
 喉の奥から嗚咽とともに叫び声が迸りそうになったけれども、私は一刻も早くここを去らなければならない焦燥感に後押しされて、玄関へと向かった。
 その時。

 ぴちゃん……

 と、靴を履く私の後ろから、あの水の落ちる音が聞こえた。
 私がとっさに振り向くと…………
 洗面台の中から腐食した死肉の色をした赤子の腕が、そして、ずるずるに皮膚が削げ落ちて頭蓋が露になった赤子の頭が洗面台の縁からのろりの這い出して、ぐちゃぐちゃに潰れた眼球で、私のことを〝ぎろり〟と睨んだ。

「嫌あああああああああああああああああ――――っ!!」

 私は脱兎の勢いで玄関を飛び出して、一目散に外へと飛び出した。



「はぁっ……はぁっ……!!」
 私は靴も履かないままに家を飛び出して、当てもなく外を駆けずり回った。靴下の底が破れて、その部分で石を踏むとひりひりと痛むが走ったけれども、その程度の傷みでは恐怖は収まらなかった。
 何が起こっているか、頭の中で整理がつかなかった。あれだけ凄惨な現場に出くわして、錯乱していないことが逆におかしい。私は最初取り乱したと言うのも生易しいくらいパニック状態に陥ったけれども、数分たった今ではかなり落ち着きを取り戻していた。昔から心臓が強いと言われていたから、その辺りにはすぐに納得がいった。
 私は走り疲れて、目の前に見えた橋のたもとに喪服姿のまま座り込んだ。昼間だと言うのに地面はやけに冷たくて、凛とした冷たさが骨の髄にまで沁みてくる感覚がした。幸いなことに、人通りはない。私は橋の名前が描いてある柱に頭を預けた。
「一体……あれは……何だったの……?」
 思考はもう回らない。身体も走り通した所為で力が抜けて、視界も霞んで虚ろになり始めていた。
 でも、あれは現実に起こったから仕方ないとして。
「私はこれから、どうすればいいんだろう……?」
 加奈子はもう既にいない。親も死んでしまった。親戚もみんな死んでしまった。あの家に帰る勇気なんて、今の私にはもう、残っていない。
 帰る場所も、生きる理由も、何もかも、失ってしまった。私にはもう、生きている意味なんてない。
 首を右に向けて、柱の横から顔を出した。
 川だ。
 そこには、二メートルくらいの幅の川が流れていた。
「川…………」
 脳裏に、ある一つの出来事がありありと思い浮かんだ。
 加奈子。
 加奈子は、川で溺れて、死んだ。
「川で溺れれば……死ねるのかな……?」
 私は、川で溺れる加奈子のことを考えてみた。加奈子は死ぬ時、苦しんだだろうか。私と離れることを、悲しんだだろうか。もっと生きていたかったと、後悔しただろうか。
「ねえ、加奈子」
 私は帰ってこないだろう問いを、川に向かって投げかけた。

「あんたは…………死ぬのが怖かった?」

 直後。。

『ううん、怖くなかったよ』
「え……?」
 頭の奥に、加奈子の柔らかい声が響いた気がした。
 次の瞬間、私は何故か直感で、川べりまで棒になった足で駆け下りていた。
 加奈子は、この川で溺れて死んだ。そして今、頭の奥で加奈子の声が響いた。
 だったら、もしかしたら。
 川の中に、加奈子がいるかもしれない。
 私は微かな希望とともに、皮の傍に膝立ちになって、中を覗き込んだ。
 すると、そこには――――

『ひさしぶり、お姉ちゃん。大きくなったね』
「加奈子…………!!」
 変わらない笑顔のままの、加奈子がいた。あの日のままの、加奈子がいた。
 目頭が急に熱くなって、暑く火照った頬を冷たい滴が流れていった。
『いやだなー、何でお姉ちゃん泣いてるの?』
「だ、だって……」
 私は思いの全てをぶつけた。
「加奈子急にいなくなっちゃったから……死んじゃったから……。私、どうしようもなく寂しくなって……一人が怖くなって……それで……それで……!!」
『そっか。でも、もう大丈夫だよ、お姉ちゃん』
「え?」
『お姉ちゃんも、こっちに来ればいいんだよ。そうしたら、また一緒に遊べるよ。私だけじゃないよ、こっちの学校には、いっぱい友達がいるんだよ』
 加奈子は、まるで生きているかのように温かく笑った。
「………………そうだね。私も今から、そっちに行くよ」
 私は涙を拭って、水面に手を伸ばした。
 そこには、水を吸ってぶくぶくになった白い腕が、すう、と伸びていた。
『さあ、お姉ちゃん……』
「今行くよ、加奈子……」
 私はその手を、しっかりと握り締めた。腐食した肉が、ぼろぼろと崩れ落ちた。
 だけど、間違いない。これは、加奈子の手だ。芯はまだ、温かみを保っている。
 私は加奈子のなすがままに、だんだんと川の中に身を沈めていった。手が、腕が。次いで、肩が、頭が水に浸かり、息が苦しくなる。だけどもう、そんなことも気にならなくなった。そして終に全身が水の中に溶け込んで、私の意識はだんだんと薄れていった。
 靄のかかる視界の中で、私は目ははっきりと捉えた。
 何匹も泳いでいる、〝めだか〟の、その奥に。

 あの日、あの時と同じように。
 溢れんばかりの笑顔を浮かべる、加奈子の姿を。
「加奈子…………!!」
 私と加奈子は、数年ぶりに抱き合った。そして、その腕をもう放そうとはしなかった。
 もう、絶対にこの腕は放さない。
 私はそれだけ誓って、何度も、何度も、加奈子と笑い合った。
 身体が沈む。
 笑い合う。
 身体が解ける。
 笑い合う。
 身体が、身体が…………………………。


     †

 翌日、都内のある家で、人と人が解けて組み合わさったような、変死体が発見された。
 解剖の結果、その家の残りの住人である七瀬美和子だけ消息が分からなかったが、間もなく数キロ離れた川の底に沈んでいるのが発見された。溺死であった。
 その時に、もう一人、身元の分からない白骨死体が発見された。今も身元は調査中だが、発見の目処は立っていないという。
 ただ、奇妙なことが、一つあった。
 溺死した七瀬美和子の司法解剖の結果、その胃の中から大量のメダカの死体が検出されたと言う。溺死した際に口に入り込んだかは不明で、現在もまだ調査は続いている。
 そして、死体を発見した鑑識が言うことには。

 死体を回収した際、頭の中に〝水の跳ねる奇妙な音〟が響いたそうだった――――







 めだかのがっこうは、かわのなか
 そっとのぞいて、みてごらん
 そっとのぞいて、みてごらん
 みんなでおゆうぎ、しているよ

 めだかのがっこうの、めだかたち
 だれがせいとか、せんせいか
 だれがせいとか、せんせいか
 みんなでげんきに、あそんでる

 めだかのがっこうは、うれしそう
 みずにながれて、つーいつい
 みずにながれて、つーいつい
 みんながそろって、つーいつい

 つーい、つい…………


       

表紙
Tweet

Neetsha