Neetel Inside 文芸新都
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 敵軍が疲弊していた。肉体的にではなく、精神的にである。まだぶつかってすらいない。それなのに、敵軍からは疲弊の色が感じられていた。
 ルイスから攻撃命令が下されて、三十分が経過しようとしている。俺は鞘から剣を抜き放ち、号令を下す準備をしていた。部下である六百の騎馬隊の士気は、最高潮に達する寸前だ。
 何度か、攻勢をかける振りをしてみせた。その度に、敵軍に衝撃が走るのが分かった。怯えているのである。攻めるぞ、という振りを見せただけで、敵軍の気が一気に縮こまる。
 まともな戦にはならないだろう。俺はまずそう思った。目の前の敵軍は、二万の烏合の衆である。兵もそうだが、指揮官が怯えきっているのだ。つまり、タンメルの腰が据わっていない。だから、兵も怯えるしかないのだ。僅か四千強の俺達が、二万の官軍を圧している、という恰好だった。
 その二万の官軍の中で、右翼の前衛だけが、ひときわ異彩を放っていた。数にすると三百にも満たないのだが、攻める素振りを見せると、逆にその三百だけは士気を上げてくるのだ。他の敵兵は、蛇に睨まれた蛙のように縮こまる。その中で、士気を上げる。これは相当なものだ。兵一人一人の肝が据わっている必要があるし、周りに流されない強い心も必要なのだ。
 その右翼に、俺とシグナスがぶつかる。だが、本気でぶつかるな、という指令だった。
 何故、本気でぶつかってはならないのか。俺はこれを考えた。あの右翼の前衛の持ち堪えよう。ルイスの考えと、これがどこかで繋がっている気がする。
 俺はルイスの鐘を待ち続けた。もう敵兵は戦意を失っていると言っていい。すでに陣の方々が乱れており、敵は浮足立つ寸前だ。初撃を受け切れば、御の字だろう。攻める素振りを見せて、敵の士気を削いだ。疲弊もさせた。あとは、攻めかかるだけのはずだ。
 シーザー軍の戦の気が、膨れ上がっていた。シーザー軍だけで、敵軍を圧倒しかねない程の気だ。殺気も鋭く放っている。
 攻勢の機が、近付いている。俺はそう思った。シグナスもそれを感じ取ったのか、兵に槍を構え直させていた。
 鐘が鳴った。
「シグナス軍のために道を空ける。矢のように敵陣を貫くぞっ」
 剣を振り下ろす。駆けた。先頭を走る。
 敵前衛。右翼。まだ、持ち堪えている。士気がどんどん上がっている。本物か。そう思った瞬間、見覚えのある顔が俺の目に飛び込んできた。
 思わず、剣を引いた。
「お前達」
 官軍時代の、俺の部下だった。背後で馬蹄が鳴り響いている。駆けながら、辺りを見回す。シグナスと俺の、かつての部下達だ。情が、剣を止める。
 止まれ。背後に向けて、そう叫ぼうと思った。だが、それは出来ない。戦なのだ。これも何かの巡り合わせなのか。
 剣を構えた。かつての部下と目が合う。本気ではぶつかれない。ルイスの命令だ。つまり、殺さずに戦闘能力を奪わなければならない。俺は出来る。だが、後ろの部下はどうなのだ。思案が、俺の頭の中を駆け巡る。
「ロアーヌ隊長っ」
「死にたくなければ道を空けろ。今は俺は、メッサーナ軍だ」
 これが今言える限界だった。お前達の死ぬ姿は、見たくはない。だが、戦なのだ。死にたくなければ、自衛しろ。
 ぶつかる寸前。
「私達も、私達もロアーヌ隊長の大志に連れ添いたいのです」
 この言葉に、俺は剣を振れなかった。そして同時に、思案が弾けた。
「反転して、共に官軍を打ち破れっ。今日この場から、お前達は俺の部下とするっ」
 喊声が巻き起こった。タンメルの計略かもしれない。一旦、内へと入れて、撹乱させる。それかと思ったが、ルイスの本格的にぶつかるな、という言葉がそれをかき消した。ルイスは、これを狙っていたに違いない。
 敵軍は一挙に混乱に陥った。味方だと思っていた前衛が、一斉に反転したのだ。何が起きたのか、把握できていない。そんな状態だ。
 敵は武器を構える事すらせず、背を見せて一斉に逃げ出した。大潰走である。二万の中で唯一のまともな部分、つまりは軍の中核が、こちらに寝返ったのだ。持ち堪えられるはずもない。
 俺は騎馬隊とかつての部下達を率いて、敵を追いに追った。すでに敵は陣を崩して、四方八方に逃げ回っている。隊を、七つに分けた。かつての部下達と、一隊百名の六隊にである。そして、それぞれを追撃に回した。
 シーザー軍が怒号を発しながら、敵軍を攻め立てている。俺はそれを横目に、タンメルを探していた。
「ロアーヌ、タンメルはどこだ」
 シグナスが馬を寄せて来た。馬は敵兵から奪ったものだろう。
「わからん。あいつは逃げ足だけは早い気がする」
「俺達のかつての部下を前衛に持って来てたな、あいつ」
「それが仇となった。今では再び俺達の部下だ」
 その時、追撃に回した隊の一騎が駆け戻って来た。タンメルらしき男が、十数名の兵に守られながら、北西の林の中を突っ切っている。一騎は、そう言った。
「あいつは馬もロクに操れん。急いで駆ければ、間に合う。首が取れるぞ」
 シグナスが言った。どこか興奮している。
「十数名の兵と一緒か」
 部下を一度参集して、共に連れていくか迷った。連れていけば、タンメルは確実に討ち取れる。ただし、追い付けばである。集団行動になれば、それだけ足が遅くなるのだ。それに、参集するための時間も要る。
「俺とお前で十分だ。タンメルを殺す」
 言って、シグナスが馬を駆けさせた。
 シグナスは冷静ではない。殺したい男がすぐ目の前に居る。それで焦っている。だが、俺はそれを悪いとは思わなかった。
 馬に鞭を入れた。シグナスと二人で殺しに行く。
 馬の蹄の跡が、土に刻み込まれていた。それを追いかける。十数人の集団が、林の中に見えた。
「タンメル、久しぶりだなっ」
 シグナスが吼えた。敵兵が振り返ってくる。タンメルの悲鳴らしきものが聞こえて来た。何とかしろ。そういう下知も飛ばしている。
 四人の敵兵が同時にシグナスに向けて駆けて来た。閃き。四人が物のように、シグナスの槍で撥ね上げられた。さらに敵が襲いかかる。シグナスはそれをちょっと見ただけで、何もしなかった。俺がシグナスに追い付き、その敵兵の首を斬り飛ばす。さらに飛び込んできた敵も、一太刀で両断した。
「な、なにをやっとる。早く殺せっ」
「喚くだけじゃなく、お前が来いよ」
 シグナスが首を鳴らした。さらに敵兵。シグナスはタンメルを睨みつけたまま、向かって来た敵を槍で撥ね上げ、死体を木の幹にめり込ませた。それで、残りの敵兵は戦意を完全に失った。ガタガタと身体を震わせ、失禁している者も居る。
「バカ者ぉっ。早く私を守れ、屑どもがっ」
「だから、お前が来いよ」
 シグナスがずいっと馬を進めた。
「フ、フヒヒ。金ならあるぞ、シグナス。ほれ、金だ」
「要らねぇな」
「何とかしろ、屑どもっ。おい、ロアーヌ、金をやるからシグナスを何とかしろ」
「お前が屑だ」
 俺は、それだけ言った。
「よ、ようし、お前達がその気なら、私にも考えがあるぞ」
 そう言って、タンメルは腰から短剣を抜き放った。そして、すぐ傍の兵の首根っこを掴み、引き寄せた。兵と呼ぶには、あまりにも貧相な体格だ。そして、タンメルはその兵の喉元に刃物を突き付けた。
「バカか、お前は。その兵は俺達の敵だ。どうなろうと知ったこっちゃねぇ」
「そうだなぁ、シグナス。だが、ロアーヌはどうだ。え?」
 俺は何も言わなかった。兵と眼が合った。
 かつての従者、ランドだった。
「お前のかつての従者だ、ロアーヌ。え? フヒヒ。情があるだろぉ?」
「ロアーヌ」
 シグナスが俺の顔を見てきた。それに対し、俺は何も返さなかった。
「タンメル。ここは戦場だ」
 俺はそれだけを言った。ランドの眼は、落ち着いている。俺は馬を進めた。タンメルの眼を睨みつける。強い気を込めて、睨みつける。俺は口数は少ない。だが、それ以上に眼で物を言う。タンメルに向けて、俺は眼で多くを言った。
 さらに馬を進める。俺は瞬きすらしなかった。タンメルの眼を、ただひたすらに睨みつける。
 タンメルが、全身をガタガタと震わせ始めた。そして、具足の股間が濡れた。失禁である。
「く、来るな」
 俺は無言でタンメルの傍に寄った。眼は睨みつけたままだ。そして、短剣を持つタンメルの腕を握り締めた。力を込める。何かが砕ける音がした。悲鳴。
「う、腕がぁっ。やめてくれ、命だけは助けてくれっ。金をやる。頼むっ」
 俺はランドを自分の背後に回した。
「腕の骨が砕けたっ。頼む、助けてくれっ」
「お前のような屑」
 シグナスが汚物を見るような眼差しをタンメルに向けながら、口を開いた。
「殺す価値すらねぇよ。消えろ」
 俺は目を閉じた。怒りが消えていた。代わりに、憐れみのような感情がわき出ている。
 タンメルの悲鳴と共に、馬蹄が遠ざかっていった。

       

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