Neetel Inside 文芸新都
表紙

剣と槍。抱くは大志
第十一章 鷹の目

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 槍のシグナスが急死。私はこの訃報を、メッサーナの政務室で聞く事になった。
 最初は何かの冗談だろうと思っていた。シグナスが死ぬ事など、有り得ないと思ったからだ。だが、情報は次々と入ってきて、シグナスの死は本当だという事がわかった。
 闇の軍だった。闇の軍の手によって、シグナスはその命を絶たれたのだ。その手口も巧妙なもので、シグナスの心理を上手く衝いたものだった。それも実に計画性があり、しかも長期的な計画である。副官のウィルを失った事、サラと結婚した事、レンという息子を儲けた事。これらを全て利用して、国はシグナスを抹殺したのだ。
 そこまでする必要があるのか。私はそう思った。だが、すぐにこの思いは振り払った。
 私が甘い。甘すぎた。だから、シグナスは殺されたのだ。
 国は数百年という歴史を紡いできた。一方のメッサーナは、まだ十数年の歴史である。いくら国が腐っていようとも、紡いできた歴史の重さは比べるべくもない。国の数百年という歴史は、これまでに色々なものを生み出してきたはずだ。その生み出したものは時代によって違うのだろうが、闇の軍という特殊部隊を国は擁していた。
 ここまで私は頭が回らなかった。というより、考えるのを避けていたのかもしれない。そして、私のせいで、シグナスは殺された。
 メッサーナは主柱を失った形になっていた。シグナスは兵から人気のある将軍だったし、シグナス本人の強さも相当なものだったのだ。シグナスが前線に立つだけで敵兵は恐れおののき、味方の兵達はその士気を上げる。シグナスが槍を一振りすれば、その場に空隙ができ、攻め込む場所を作ってしまう。シグナスはそれほどの男だったのだ。いわば、英雄である。そして、その英雄が死んだのだ。
「ランス様、私の首を刎ねてください」
 いきなり、ヨハンが部屋に飛び込んできた。切迫した表情で、顔面が蒼白だ。さらに、自らに縄をかけている。
「シグナス将軍を失ったのは私の責任です。私の安い命で良いのなら」
「何を言っているのだ、ヨハン」
「シグナス将軍が殺されたのです。私の」
「落ち着け。お前は何も罪を負ってはいない」
「私はロアーヌ将軍から話を聞いていました。それなのに、私の力不足で」
「ヨハン」
 私は声を張り上げた。
「お前はメッサーナ軍の軍師だ。間諜部隊の指揮者ではない。ましてや、シグナスの護衛隊長でもない。あれを死なせたのは、私の責任だ」
「そんな」
「良く聞け。我々はシグナスを失った。これはメッサーナにとって、一大事だぞ。軍師の役目をしっかりと考えろ。次にどうするか方策を考える。これが第一だろう」
 私は席から立ち上がり、ヨハンの縄を解いた。
「お前の頭脳が必要なのだ。もはや、コモン関所を正攻法で奪う事など出来ないだろう。サウスに勝てるだけの人材も居なければ、兵力もない。お前の頭脳が必要なのだ」
 もう、シグナスの死を悔やむのはやめるべきだ。誰もが、シグナスの死を悲しんだ。絶望もした。自らを責めた。だから、もう終わりにするべきなのだ。我々が見ているのは天下。シグナスの死は、その天下への道を遠回りさせるだけの要素に過ぎない。そう考えるべきなのだ。
「ルイスは戦術を。お前は戦略を考えねばならん。私一人では、天下には行けん」
 ジッと、ヨハンの目を見つめた。そのヨハンの目から、涙が流れ落ちる。
「今のメッサーナの戦力では、コモン関所は奪えません」
「うむ」
 サウスに勝てる将軍が居ない。拮抗とするなら、かろうじてクライヴだが、これは経験だけの話であり、将軍としての力量はサウスの方が上だろう、というのが私の認識だった。
「以後のメッサーナの主軸は、ロアーヌ将軍」
 剣のロアーヌである。シグナスの死をもっとも悲しんだのは、このロアーヌのはずだ。
「ロアーヌ将軍にシグナス将軍の槍兵隊を預けます。そうやって、新たな指揮官を見出してもらうべきです。ロアーヌ将軍はシグナス将軍よりも峻烈な所があり、甘さがありません。これは、といった人選をするはずです」
「うむ」
「人選を行った後、ロアーヌ将軍は今の騎馬隊と槍兵隊の二部隊を指揮。あくまで騎馬隊をメインとし、槍兵隊はサブとして扱うようにして貰います。そして、目指すべくは北の大地」
「鷹の目、バロンが統治する所か」
「そうです」
 バロンは優れた弓手として有名な将軍だった。通常では有り得ない距離からの射撃を得意とし、しかもそれが百発百中である。それで、鷹の目というあだ名が付いたのだ。これに加えて、馬上での弓矢、すなわち騎射を得意とする部隊も擁している。これはバロンの高祖父(曾祖父の父)が創始者と言われており、当時は斬新な兵科だったという。機動力のある騎馬に、さらに射程のある弓を組み合わせたのだ。原野での戦闘では、無類の強さを発揮するだろう。
「北には我々が必要とするものが多くあります。それは人であったり、国へ攻め込む場所であったりします。そして、一番は馬です」
「確かに北は馬の名産地として有名だが」
「ロアーヌ将軍の遊撃隊、ならびシーザー将軍の騎馬隊は、馬の質と兵の質が上手く合っておりません。特にロアーヌ将軍の騎馬隊は」
 そうだったのか。私は単純にそう思った。そこまで、目が回っていなかったのだ。
「良い馬を揃えれば、サウスにも勝てます。将軍としての力量で勝る者は居ませんが、それほど圧倒的な差があるかと言うと、そうではありません。だから、兵科でその差を埋めます」
「なるほど。だが、バロンは甘い相手ではないぞ。北は南に比べるといくらか平和だが、あの弓騎兵隊は一筋縄ではいかん」
「ロアーヌ将軍と、クライヴ将軍が居ます」
 メッサーナ軍最強の騎馬隊と、弓の名手クライヴ。
「この二人ならば」
 確かに勝てるかもしれない。特に弓の勝負なら、クライヴも引けは取らないはずだ。
「ヨハン、やはりお前はメッサーナ軍の軍師だ」
 私がそう言うと、ヨハンは少しだけ表情を緩めた。
 それから、この先の事を少し話して、ヨハンは部屋から退出した。
 一人になった。
 静寂の中、ふと、シグナスの事が頭を過った。
「英雄だった。間違いなく、英雄だった」
 その強さは剣のロアーヌと双璧を成し、その人となりも評価されていた。シグナスは、まさしく英雄だった。
 その英雄の一人息子であるレンは、ロアーヌが父親代わりになっているという。レンは、幼くして両親を失った。これを、どのようにして扱えば良いのか。
「すまん。本当にすまん」
 独り言だった。机の上には、ぽつぽつと涙が落ちていた。

     

 風が吹く。私はその風の音に耳を澄ませつつ、弓を引き絞った。
 この国は腐りきっている。だが、私が統治するこの北の大地だけは違う。この北の大地だけは、この地を白く覆う雪の如く潔白なはずだ。不正は許さず、悪は容赦なく罰した。私はそうやって、北の大地を統治してきたのだ。
 代々が、軍人の家系だった。特に高祖父は大将軍にまで上り詰め、軍の頂点に立った事もある。それで、北の大地を私の家系が治める事になったのだ。高祖父から曾祖父、祖父、父とそれは受け継がれ、今は私が北の大地を預かっている。
 高祖父は私の誇りだった。史上最高の弓手とされ、弓騎兵という新たな兵科をも生み出した。この国の原野で、弓騎兵隊は凄まじい戦功をあげ、間違いなく国の礎の一つを担ったのだ。そして、その高祖父は天寿を全うし、血を子孫へと残した。
 だが、国は腐っていった。高祖父が作り上げた国は、長い歳月と共に腐っていったのだ。それは祖父の代から見え始め、父が死ぬ頃には、はっきりと目に見える形にまでなっていた。
 だが、私達は何も出来なかった。出来る事と言えば、北の大地を腐らせないようにする事だけだった。
 高祖父が作り上げた国。それを勝手に変革するという事は、不遜に当たる。祖父や父は何も言わなかったが、要はこういう事なのだろう。この国の民にとって、王が絶対であるのと同じように、私にとって高祖父は絶対なのだ。
 だが、これで良いのか。本当に北の大地を腐らせないようにするだけで、高祖父は満足するのか。
「本当にこれで良いのですか」
 呟く。
「私は高祖父の血を受け継ぎ、北の大地を治めています。ですが、本当にこれで」
 弓をグイッと引き絞る。片目をつむった。遥か彼方、鹿が駆けている。
「私は鷹の目、バロンだ」
 矢。放つ。光と風を切り裂き、鹿へと迸る。次の瞬間、鹿の身体は宙を舞い、雪の中に消えた。
 弓の腕ならば、誰にも負けない自信があった。さすがに高祖父には及ばないだろうが、それでもそこまで大きく劣る事はないと思っていた。
 私の放った矢は標的に突き立つのではなく、貫き、吹き飛ばす。すなわち、一撃必殺の矢である。これは私の家系でも、高祖父のみが出来ていた事だった。祖父や父も弓の腕は達人級ではあったが、矢の威力は無かったのだ。
「鷹の目、バロンねぇ」
 背後から声が聞こえた。振り返る。
「シルベンか」
 友人だった。シルベンとは幼き頃からの付き合いで、名門である私に対して何も構える事なく接してきた。それで私も心を開き、ここまで付き合いが続いているのだ。シルベンとは共に軍人となり、今では私の副官である。だが、こうして二人きりの時は、砕けた話し方になる。
「最近、表情が暗いな、バロン。せっかくの秀麗な顔が台無しだ」
「私は男だぞ」
「あぁ、女どもが騒ぐほどの美男だがな」
 無意味な事だった。今のこの時代に、美男である事にどれほどの意味があるというのだ。それに、私は一度でも自分を美男と思った事などない。
「メッサーナのシグナスを知ってるか、バロン」
「槍のシグナスだろう。天下最強の槍使いで有名だ。一度だけ、都で見た事がある。確かにあれは相当な手練だ。だが、ただの小隊長だった」
 将軍に上り詰めて当然の男なのに。これは言わなかった。要は国が腐っている。だから、力のある者が上に立てない。私が今、将軍で居るのは、ただ単に高祖父の血を受け継いでいるからに過ぎなかった。実力を認められて、今の地位に居るわけではないのだ。それでシグナスは、剣のロアーヌと共にメッサーナへと出奔した。この国に嫌気が差したのだろう。
「死んだよ」
「誰が?」
「槍のシグナスが、だ」
 心に、何かが突き刺さった。私が軍人だからか、それとも、弓の名手と呼ばれている男だからなのか。いずれにせよ、シグナスの死を聞いた瞬間、何かが心に突き刺さった。
「メッサーナは、今のままじゃ滅びるな。シグナス一人で、と言うかもしれんが、それほどの男だった」
「まだ剣のロアーヌが居る」
「お前、あいつと喋ったことあるか? 気難しい男だ。友人も少なさそうな感じがしたぞ」
「軍人だ。部下と君主が居れば、それで良いと私は思うが」
「お前、俺が居なくなったらどうすんだよ」
「それは困るな。いや、困る」
 私がそう言うと、シルベンは声をあげて笑い始めた。
「人は独りじゃ生きてはいけんと思う。まぁ、幸い、お前は独りになる事はなさそうだがな」
「名門の肩書きのおかげだ」
「さぁ、そいつはどうだかな。しかし、今後のメッサーナはどう動くかな」
「分からん。コモン関所にはサウス将軍が赴任してきた。あの人は官軍の中でも、相当な力を持つ将軍だ。一筋縄ではいくまい」
「まるで、メッサーナに勝って欲しいかのような言い草だな、バロン」
 言われて、閉口した。図星だったのだ。
「メッサーナが北に来たら、どうする?」
「無論、戦う。私はこの地を守らねばならん」
「誰のために? そして、何のために?」
「シルベン、何が言いたい?」
「戦う意味を考えろ。俺は、これを言いたい」
「私の家は、代々、軍人の家系なのだ。そして、この国は高祖父が作り上げたものだ」
「バロン、お前の鷹の目は」
 シルベンが、急に黙った。
「いや、やめておこう」
 そう言って、シルベンが踵を返す。
「鷹の目」
 呟いていた。大空を舞う鷹は、一体何を見ているのか。この国の腐りを、本当に正しきものを、見ているのか。
「鷹の目」
 もう一度、呟く。空を見上げると、白い粉が舞い降りていた。
 雪だった。

     

「ロアーヌ将軍、四名が調練で死にました」
 アクトが表情も変えずに言った。新たな槍兵隊の指揮官である。
「それは騎馬隊か? 槍兵隊か?」
「全員、槍兵隊です」
 シグナスがこの世を去ってから、俺が槍兵隊を預かる形になっていた。最初は何を馬鹿な、という想いもあったが、それはすぐに捨て去った。もうシグナスは死んだのだ。だから、誰かがシグナスの代わりをやらなければならない。
「何故、死んだか分かるか?」
「兵がロアーヌ将軍の指示を守らなかったからです」
「違う」
 俺がそう言うと、アクトの表情が少し動いた。
 アクトは剛毅朴訥な男だった。そのくせ、全身は生傷の痕だらけだったりする。これはつまり、それだけの戦歴を積んでいるという事だ。生傷といっても浅いものが多く、これは勇猛さと同時に防御の上手さを証明している。こういう人間を指揮官に立てると、兵達は狡猾でしぶとくなるはずだ。
 アクト以外にも指揮官候補は何人か居たが、皆優しすぎるという欠点があった。兵に慕われているが故に、厳しく接する事ができないのだ。こういう甘さは、戦ではただ邪魔なだけである。アクトにはそれが無い。それでいて、兵から好かれているのだ。
「お前の指揮が悪い、アクト。俺の騎馬隊は、例え調練であろうとも加減はしないのは知っているだろう。はっきり言って、俺はお前にシグナスの代わりをやらせようとは思っていないし、やれるとも考えていない」
 俺がそう言うと、アクトの眼に炎が宿った。この男は負けん気も強いのだ。歳は俺より幾らか上だが、叩いた方が伸びるだろう。
「本当の戦では、俺が騎馬隊の指揮で手一杯になる事が多くなるはずだ。だから、お前がしっかりせねばならん」
「シグナス将軍の時は」
「あいつは死んだ。そして、俺が新しい指揮官だ」
 俺にはこういう言い方しかできない。シグナスなら、もっと違う言い方をするだろう。だが、もうこれは考えても仕方のない事だ。
「兵達は、シグナス将軍の仇を討ちたがっています」
「アクト、お前は?」
「無論」
「だったら、強くなれ。指揮ができるようになれ。シグナスは強かったが、指揮は上手くはなかった。軍師であるルイスに頼り切っていたからな。お前の槍の腕は中の上といった所で、シグナスとは比べ物にならん。ならば、指揮で補うしかない」
「言われずとも」
 さらに言い募ろうとしたアクトを、俺は手で制した。
「次は北だ。北には弓騎兵という強力な兵科がある。俺の騎馬隊でもおそらく五分五分が良い所だろう。北での主軸は歩兵。つまり、お前がしっかりせねばならんのだ」
 アクトの指揮官としての能力は、現時点でも申し分ないものである。だが、それだけでは駄目なのだ。メッサーナ軍の指揮官は、さらにその上を行かなければならない。だから、俺もアクトには辛く当たる。
「分かったなら行け。兵の側に居てやれ。調練で死んだ兵を見て、怯える者も出ているだろう」
 俺の騎馬隊は平気だろうが、槍兵隊は違う。シグナスが指揮官だった時代には、調練で死人が出る事など無かったのだ。
 今日の調練は実戦式だった。騎馬隊と槍兵隊でぶつかり合い、戦果を競い合うというものである。実戦式なので、当然、兵は急所を狙って武器を振るう。それを防ぐ調練は十分に積んだはずだったが、それでも四名が死んだ。内、二人は頭蓋を粉々に砕かれて死んだのだ。
 調練で死ぬのなら、実戦でも当然死ぬ。そして、その死は他の味方をも巻き込むだろう。だから、調練で死ぬという事は、必ずしも悪い事だとは思わなかった。
 俺はアクトだけでなく、兵達にも厳しく接した。というより、そうする事しか出来なかった。シグナスのように上手く人の心を掴む事など、俺には出来ないのだ。しかしそれでも、兵達はよく耐えていた。調練を積んだその先にあるものが、兵達には何となく見えているのかもしれない。
「騎馬隊は二組に分かれろ。一組は弓矢を。一組は、それを掻い潜って蹴散らせ」
 俺がそう指示を出すと、騎馬隊はすぐに動き始めた。アクトはすでに槍兵達の方に行っている。
 レンの事を考え始めた。
 シグナスの息子。忘れ形見。しかし、俺は軍人だ。側に居てやれる事が少ないために、レンの世話は従者であるランドにほとんど任せている。幸いと言うべきなのか、レンはシグナスやサラの事をあまり気にしている様子はなかった。というより、死というものを、まだよく理解していないのだろう。二人は、今はどこか遠くに行っていて、待っていればすぐにでも帰って来る。そう考えている節があるのだ。
 ランドの話によると、レンは暇さえあれば木の棒を振り回しているという。俺も調練が終わってから遊び相手になってやっているが、そこでも棒を使っての遊び、要はちゃんばらをやりたがるのだ。
 強くなりたい。レンには、本能としてこの思いがあるのかもしれない。だが、まだ幼少だ。武術を教える、という年齢ではなかった。
 しかし、この先レンをどうすれば良いのか。今は俺が親代わりという事になっているが、本当にこれで良いのか。
「シグナス、お前は」
 タフターン山で別れを告げた。だから、俺はもう振り返らない。しかし、全てが懐かしい。俺と比肩し得る槍の使い手。その忘れ形見を、俺が育て上げていくのか。
 北の方角へと、眼を向けた。
「鷹の目、バロン」
 北の大地を治める、名門の家系の末裔。そして、弓騎兵を統率する男。
 雪に覆われた真っ白な草原を、馬群が駆け抜けてくる。そして、無数の矢が光を切り裂いてくる。昔の詩人は、弓騎兵をこう詠ったという。
「光を切り裂く、か」
 俺のスズメバチは、その切り裂かれた光の中を駆け抜ける。俺は、そう思った。

     

 メッサーナ軍が、戦の準備に取り掛かっているという情報が入った。しかも、その矛先はこの北の大地である可能性が高い。
 情報を持ってきたのは、国の宰相であるフランツの従者だった。そして同時に、メッサーナ軍を蹴散らせ、という命令も持って来ている。
 私はフランツとは面識が無かった。何年かに一度、宰相と諸侯は会合をしなければならないため、何度か出頭してくるように命令はあったが、私はそれを拒否し続けてきたのだ。
 フランツと私は、どこか馬が合わない。というより、フランツの思想とは、である。彼の思想には夢がなかった。国の歴史を尊び、再生に腐心する。これは悪い事ではないだろう。だが、夢が無さ過ぎる。女のようにいつまでも一つの事に執着し、他の可能性には見向きもしないのだ。
 私は真っ直ぐに生きたかった。何にも捉われず、自分の意志で、自分の決めた道を、真っ直ぐに進みたかった。名門の家系でなく、普通の人間であったなら、それも出来ただろう。だが、私にはあの高祖父の血が流れている。そして、これは私の誇りなのだ。
 矛盾していた。自らの望みと、私の誇りは矛盾している。そして、これを考えると、出口のない迷路を彷徨っているかのような感覚に陥る。一体、どうすれば良いのか。自分はどうするべきなのか。まるで、心が淀んでいくかのように、私は苦悩していた。
 そんな時、私は空を見上げるのだ。空は広大で、どこまでも続いている。見上げれば、いつも違う表情を見せてくれる。そんな空を見ていると、心も透き通るのだ。
「どうするんだ、バロン」
 崖の上で空を見上げていると、幼馴染で副官のシルベンが背後から声をかけてきた。
「フランツの野郎の命令を素直に聞くのかよ」
 シルベンが馬に乗ったまま、話を続ける。上官を前にして乗馬というのは軍規に反しているが、今は二人きりだった。二人きりの時、私とシルベンはただの友人になる。
「北の大地は守る」
「相手はメッサーナだぞ」
「高祖父の作り上げた国だ」
「お前、本当にそれで良いのか? お前の鷹の目には、国の腐りが」
「分かっている。だが、私は軍人なのだ。名門の家系なのだ」
 シルベンの言いたい事はよく分かった。それに、この男は私の気持ちも知っているだろう。
 私は、この国をぶち壊してやりたいと思っていた。腐りきった国をぶち壊して、新たに国を作る。これこそが私の望みだった。私の思う、真っ直ぐな生き方だった。
 私は幼い時に汚いものを見過ぎた。祖父は役人に賄賂を渡して首を繋ぎ、父は役人どもの前で土下座までもやった。何も不正な事はしていないのに。ただ真面目に北の大地を統治していただけなのにだ。
 許せなかった。役人どもも、祖父も父も。役人どもは、腐りきった亡者だ。そして、祖父と父は、その腐りきった亡者にひれ伏したのだ。高祖父という偉大な血を受け継ぎながらも、二人は亡者にひれ伏した。これはつまり、血の意味など無いも同然だという事だった。
 だが、それとは別の所で、高祖父の血の尊さがあった。私にとって、血は誇りだった。弓騎兵という兵科は、私の中で最強だ。そして、それを作り上げた高祖父は、まさしく誇りなのだ。
 祖父と父は、間違っていたのか。亡者にひれ伏した事は、果たして間違っていたのか。これに対して、私は未だに明確な答えを出せずにいた。無闇に反抗すれば、それは要らぬ争いを生む可能性もあっただろう。だから、完全に間違っている、とは言い切れないのだ。だが、私の想いは。
 シルベンは、私の迷いを知っているのか。いや、理解してくれるのか。幼馴染とは言え、平凡な家系の生まれだ。名門である私の苦悩が、シルベンに分かるのか。
 シルベンは名門である私にも気兼ねない付き合いをしてくれた。これには感謝している。だが。
「バロン、もっと簡単に考えろ。お前はもっと素直に」
 シルベンが説き伏せるような口調で言った。その口調が、私の神経を妙に逆撫でした。
「黙れっ」
 気付くと、怒鳴っていた。
「お前に何がわかる。シルベン、お前には何も枷がない。だが、私は違うのだっ」
 もう止まらなかった。次々から次へと、思いとは別に罵詈雑言が口から飛び出していく。
「平凡な家系の出であるお前と一緒にするな。良いか、私は名門の生まれなのだ。凡人とは違う色んな重荷を背負っている。お前に何がわかるっ」
 肩で息をしていた。後悔に似た思いが全身を支配するが、もう終わった事だった。
「そうかよ」
 シルベンが馬首を返す。返す瞬間のシルベンは、無表情だった。
「将軍、とりあえず、俺は命令に従います。ですが、俺はメッサーナ軍とは戦いたくない。これだけは伝えておきます」
 言うと同時に、シルベンが馬腹を蹴った。馬が駆け出す。
 地面に目を落としていた。馬蹄だけが、どんどん遠ざかっていく。
 私は戦わなければならない。この北の大地だけは、何としても守り抜かなければならないのだ。そしてこれは、私の誇りを守り抜く事と同義だ。しかし。
「何故、何故、私は名門の生まれなのだ」
 私の誇り。高祖父の血。今は、これらがとてつもなく重い。
 メッサーナ軍とは、戦う。これは、決めた事だ。そう、決めた事なのだ。
 しかしそれでも、迷いの涙が、地面に滴り落ちていた。

     

 春の兆しが見え始めていると同時に、戦の匂いも強くなってきた。
 メッサーナ軍が攻めて来ようとしているのだ。そして、これにどう対応するのか。この話し合いのため、私は武官、文官を集め、軍議を開いていた。
 私の軍議のやり方は、とにかく配下の人間に意見を出させる事だった。意見が出ている間、私は出来る限り発言をしない。裁量権を持った人間が議論に加われば、どうしても意見が傾きがちになる。そうならないためにも、まずは配下同士で議論させるのである。
「コモン関所に駐在している、サウス将軍に援軍を依頼するべきだ」
 言ったのは、武官だった。
「馬鹿な、何を言う。鷹の目、バロン様は高貴なる血を受け継ぐお方だぞ。あのような下賤な将軍に援軍を依頼するなど、笑止千万。第一、メッサーナのような小童に、援軍など要るものか」
「その通りだ。それにサウスは南方の雄などと謳われておるが、その実はとんでもない悪党だ。そんな輩に援軍の依頼など出来るわけがなかろう」
 文官達が反論したのに対し、一人の武官が立ち上がった。
「馬鹿はお前達だ。高貴な血で戦が出来ると抜かすのか。それにメッサーナは寡兵でありながら、その質は精強中の精強。お前達のようにくだらん事を気にしていては、この北の大地は荒れ果てる一方だぞ」
「何を。我々がどれだけ内政に苦心していると思っている。ただ身体を動かすだけの能無しどもめ」
「貴様っ」
 武官の顔が赤黒くなった所で、シルベンが右手で制した。シルベンは武官側の代表人物である。
 結局、あれからシルベンとは個人的な会話はしていない。故に、謝る機会も得られなかった。
 何故、あの時、怒鳴ってしまったのか。私は昔から、ふとした瞬間に怒りが爆発する事があった。それは見境がないもので、一瞬だが理性が飛んでしまうのだ。とは言え、それで自分のやってしまった事を正当化するつもりはない。だから、シルベンには謝るべきだろう。
 だが、今は軍議中である。
「今のメッサーナ軍で恐れる武力は、剣のロアーヌのスズメバチのみ。知力ではヨハンとルイス。だが、この両人が同時に北にやって来る事は有り得ん」
 シルベンがそう言うと、武官は憤然とした表情で席についた。シルベンが話し始めたので、任せようという気になったのだろう。
「結論として、援軍無しで勝てるのか? これに関しては、勝てると言っておこう。だが、犠牲は大きい」
 シルベンは、向かい側に座っている老人に目を向けて言った。
 文官側の代表人物、ゴルドである。すでに齢は六十八を迎えているが、老いても尚、頭がよくキレる男だ。
「サウス将軍には、援軍を依頼せぬ方がよろしいでしょうなぁ」
 静かに、しわがれた声でゴルドが言った。
「あの男、南では凌辱の限りを尽くしたそうじゃ。さらに都に居た時代から、サウスの人格の悪さは有名。故に、下手に貸しを作れば、この北の大地が荒らされる可能性がある」
「しかし、あのフランツ様が起用された将軍ですぞ」
 武官が言った。
「フランツ様は才あれば用いるお方。その人格についてはあまり興味を持たれておらぬ。確かにサウス将軍の戦歴は素晴らしいものじゃ。では、だからと言って、我が主であるバロン様は、そのサウスに劣るか?」
 ゴルドが言い、一座を見まわした。誰も反論する者は居ない。
 私自身、サウスに劣るとは思っていなかった。戦のやり方や考え方は違うが、将軍の力量として考えれば大差はないはずである。あるとするなら、それは年齢から来る経験の差だけだろう。私は三十代半ばで、サウスは五十代に差しかかっているのだ。対するロアーヌの年齢は、三十の手前である。
「シルベン殿、我が軍の兵力は?」
「全軍で十万です、ゴルド殿。対するメッサーナは僅か六万。しかし、サウス将軍に対する守りを考えねばならぬため、実質は三万足らずと言った所でしょう」
「ふむ。しかし、シルベン殿、その兵力差で尚も犠牲は大きいと仰るのか?」
「メッサーナ軍を甘く見ない方がよろしい。先の戦では、ロアーヌの騎馬隊だけでサウス軍を壊滅状態にまで追い込みました。戦は兵力だけではありません」
「ふむ。弓騎兵隊を持ってしても、それは変わらぬと?」
「無論です。さらに槍のシグナスが居たなら、サウス将軍の力を借りるべきだったでしょう」
 それで、議論は膠着を迎えた。ここまでに出た意見を、私は自分の中でまとめた。
「メッサーナ軍とは戦う」
 私は、まずこれを言った。自分の中にある迷いを、消したかったのだ。
「サウス将軍には援軍を依頼せず。コモン関所に駐屯しているだけで、その役目は十分に果たしてもらっている。我々だけで、メッサーナ軍を蹴散らすぞ」
「バロン様、兵力は?」
 ゴルドが言った。
「五万を予定。残りは異民族の抑えや治安維持に回す。軍師にゴルド。弓騎兵隊は私が指揮する。シルベンは歩兵の総指揮。その他の細かな所は、後日の軍議にて決定する」
 私の言葉に、全員が立ち上がって拝礼した。
「今日の軍議はこれまで。各々、それぞれの持ち場に戻れ」
 武官・文官が軍議室を退出していく。しかし、シルベンとゴルドだけは座ったままだった。
 やがて、三人だけになった。
「坊っちゃん、シルベン殿に言うべき事はありませんかの?」
 不意に、ゴルドが言った。
「坊っちゃんというのはよせ、ゴルド。もう私は、三十の半ばだぞ」
「これは申し訳ございません。つい、昔の癖でして」
 ゴルドは父の代からの配下だった。それもただの配下ではなく、父とは友人だったのだ。つまり、今の私とシルベンのようなものだ。それに幼少の頃、知略面に関して、私はゴルドから色々な事を教わった。もしかしたら、ゴルドは、私の事を息子のように感じているのかもしれない。
「シルベン、あの時は悪かった。私が言いすぎた」
「気にしていません。しかし、本当にメッサーナと戦うのですね」
 そんなシルベンの言葉に、私は口を噤んだ。私とて、悩んだのだ。悩んだ末に、出した答えだ。
「決めた事だ、シルベン」
 私がそう言うと、シルベンは小さくため息をついた。
「分かった。やるからには、全力でやる。気は進まんがな」
 言って、シルベンが部屋から退出していった。その背には、諦めの色が見えた。
「あの男、敬語を忘れていきましたな」
「細かい事を言うな、ゴルド。お前も父とは似たような関係だったのだろう?」
「公私混同はいけませんな」
「わかった、わかった」
 私は苦笑しつつ、シルベンの背中を思い出していた。
 諦めの色。それは、自分の中にもあるものだった。

     

 足りなかった。兵力、将軍、軍師。とにかく、人が足りなかった。今更な話だが、北へ攻め込むには、人が足りなすぎるのだ。
 シグナスの存在は、これ程までに大きかったのか。戦略を練る時、私はいつもそう思った。シグナス単体として考えれば、それ程では無いかもしれない。だが、シグナスとロアーヌを組み合わせて考えると、その力の大きさに驚嘆してしまうのだ。
 戦略の幅が縮小され過ぎている。このままでは、メッサーナは国という巨大な波に飲み込まれかねない。
「起死回生するには、北の大地を奪い取るしかない。だが、その北の大地を攻め落とせるのか」
 独り言だった。
「私もそれには苦慮しています」
 向かい側に座っているヨハンが答えた。独り言には聞こえなかったのだろう。
「サウスが悩みの種です。もっと言えば、ピドナが。あの都市は、地形から見ても守りに強いとは言えません」
 かと言って、ピドナを捨てるわけにはいかなかった。あの都市は、天下を目指すにあたって重要な拠点なのだ。それに、ピドナを失ってしまえば、我々は北に攻め込む事すら出来なくなる。
「だが、その北を攻めている時に、サウスがやって来たら」
 私がそう言うと、ヨハンが唸った。
 持ち堪えられるはずもないだろう。サウスが駐屯するコモン関所の兵力は六万なのだ。六万というのは、メッサーナの全兵力でもある。北に三万、ピドナに二万、そして、メッサーナに一万。今、考えている兵力の配分はこれだが、これではピドナに対する守りが薄すぎる。ロアーヌが居れば、兵力差をひっくり返す事も可能だろうが、ロアーヌは北への攻撃軍に組み込む予定だった。
 将軍、軍師の配置も決まってはいた。北への攻撃軍にはクライヴとロアーヌ、ヨハンが向かう。ピドナの守りはシーザー、クリス、ルイスである。
 しかし、勝算はあまりにも低いと言わざるを得なかった。今まで、いくら寡兵で戦ってきたからとは言え、二つの戦線を同時に持った事などなかったのだ。また、その力も無いと言って良いだろう。
「私は、北に関してはそれほどの心配はしていないのです」
 不意にヨハンが言った。
「勝てると?」
「はい。それも戦わずして」
「何? 戦わずにか?」
「いや、戦わずして、というのは言い過ぎかもしれません。ですが、北の大地は清廉すぎるのです。法律等は国のそれに沿っていますが、政治のあり様は我々のものに近い」
「だが、バロンは戦の構えを見せている。これは我々と干戈を交えるためだろう?」
「それは間違いありません。しかし、何かの切欠があれば、我々の方に傾くのでは、という気がしてならないのです。そしてこれは、ロアーヌ将軍やシグナス将軍に感じたものと似ています」
「お前とロアーヌの勘はよく当たるからな。正直、アテにしたい所だが。しかし、問題はサウスか」
「そこです。まず第一に、攻めてくるのかどうか。戦の準備という意味では、サウスはいつでも動けるはずです。先の戦での傷は癒えているはずですから。しかし、今はまだ牙を見せていません」
「我々が北へ動くと同時に、攻めてくる可能性が高いか」
「私はそう思います。しかし、これに関しては何とも言えません。サウスの人となりには特殊な所がありますから。ロアーヌ将軍の意見も聞くべきかと」
 確かにそうかもしれない。特に軍人という人間は、我々とは全く違う人種である。戦を、酷く言えば、殺し合いを楽しんでいるのだ。それは強者特有のものかもしれないが、少なくともシーザーは戦好きである。ロアーヌも嫌いではないだろうし、シグナスも同じような事が言えた。だから、軍人の事は軍人に聞くのが一番だろう。
「ロアーヌを呼ぼう」
 私が従者を使いに出すと、ロアーヌはすぐにやって来た。
「調練中にすまないな、ロアーヌ」
「いえ。アクトが居ますので。俺の騎馬隊は、放っておいても自らを鍛えます」
 アクトというのは新たな槍兵隊の指揮官で、朴訥な男だった。私も何度か話してみたが、必要最低限の事しか喋らない。そういう印象の強い男だ。この点に関してはロアーヌも同じようなものだが、アクトはさらにそれを上回る。しかし、芯の強さも人一倍だった。
「我々が北の大地を目指しているのは知っているな」
 私が言うと、ロアーヌは黙って頷いた。表情は読み取れない。
「北に攻め込んでいる間、サウスはピドナを攻めてくると思うか?」
「いいえ」
 即答だった。
「ほう、何故だ?」
「サウスは戦好きな男です。そして、強い軍と戦いたがる。シグナスが居なくなったメッサーナに、サウスが未だに興味を持っているとは思えません」
「まだお前が居る」
「俺は二度負けました。それも見事にです。サウスの中での俺は、剣のロアーヌではなく、ただのひよっこでしょう」
「だから、攻めてこないと?」
「はい。もし攻めて来るならば、俺達が北の大地を手に入れてからです。今のメッサーナは、サウスにとって弱すぎます」
 一応、話の筋は通っていると言えるのか。しかし、この機会をサウスがみすみすと逃すのだろうか。北へと兵力を割いている間のピドナは、これ以上ない程に落としやすいはずだ。これをサウスが、いや、フランツが見逃すのか。
「ヨハン、どう思う?」
「運が絡みます。しかしそれでも、我々には北しかありません。ロアーヌ将軍の話にも頷ける部分がありますし、ここは決断の時だと思います」
 目を閉じた。どの道、北を手に入れなければ、我々は滅びる。天下が夢と消えるのだ。しかし、失敗すれば同じく滅びだ。
 その時、一瞬だけ、シグナスの姿が脳裏に浮かんだ。それで、何故か決心が付いた。
「すぐに北を攻めよう。おそらくだが、上手く行く」
 言っていた。
 勝てるのではなく、上手く行く。根拠はないが、何故かそういう気持ちになっていた。
 戦は避けられないだろう。だが、上手く行く。微かに予感めいたものが私の中にはある。
 死して尚、シグナスは勇気をくれたのか。私は、そう思った。

       

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